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鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ

岡山の古社寺を楽しんだ後、宿泊先である鞆の浦(とものうら)に向かう。鞆の浦は広島県福山市の沼隈半島の南端にあり、その周辺の港町を鞆町という。

鞆の浦についてWikipediaにはこう書かれている。
「瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から…古代より潮待ちの港と知られていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E3%81%AE%E6%B5%A6

鞆の浦では大潮の時の満潮と干潮と潮の満ち引きの高低差は4m近くあるのだそうだ。

江戸時代の航路

昔の船は動力を持たないため、航行は潮の流れに逆らえなかった。大阪に上る船も九州に下る船も、満潮に乗って鞆の浦に入港し、干潮に乗って鞆の浦から出航するのが理にかなっていたのだ。

鞆の浦は古くからの「潮待ちの港」で、鞆町は多くの商人や旅行者がここで宿泊して栄えた港町で、江戸時代の備後福山藩の領内では城下町の福山に次ぎ、人口は5000~7000人を抱えて備後福山藩最大の商都であったそうだ。
しかし明治時代になると、海運が船舶の動力化により潮待ちを必要としなくなったうえに大型船舶が入港できないことや、明治24年(1891)には神戸から福山・尾道までが鉄道路線で繋がり、山陽本線から遠く離れていたことから鞆町は近代化の波から取り残されてしまう。

明治から昭和期の人口の変化はよくわからなかったが、次のURL のレポートを読むと、鞆町の人口は昭和36年(1961)には13千人を超えていた。ところが平成21年(2009)には5千人以下と激減し、しかも高齢者の比率が極めて高い。これからも人口が減り続けていくことになるのだろうか。
http://www.kenshu-hiroshima.jp/downlord_file/shidousha_22_D.pdf

確かに近代化の波に乗り遅れてしまった鞆の浦なのだが、旅行する立場からするとあちこちに明治時代の面影や街並みをそのまま残しているようなところがあって、それが今では魅力的でもある。しかも鞆の浦には温泉があるし、景色も素晴らしい。
鞆の浦周辺は1925年に名勝・鞆公園の指定を受け、さらに1931年に制定された国立公園法において最初に国立公園に指定された地区のひとつでもある。

tomo_map.jpg


最初に訪れたのは備後安国寺。鎌倉時代文永年間に建立された臨済宗のお寺だ。

備後安国寺

室町時代は大変栄えたが戦国時代に衰退して安国寺恵瓊が再興させたという。
しかしながら江戸時代以降に再び衰微し、大正9年に本堂を焼失したのちは相当荒廃した時期があったようだが、その後歴代住職の努力により次第に修復され、昭和時代に入って釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像、木造法燈国師坐像が旧国宝(現在は国の重要文化財)に指定されて面目を一新した。
上の画像は釈迦堂を正面から撮影したものである。

次に訪れたのは沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)。大綿津見命を主祭神とし、須佐之男命を相殿に祀る海の神様である。

沼名前神社

ここは平安時代に編纂された延喜式神名帳にも名前が出てくる由緒正しき神社で、社伝では今から1800年以上前、神功皇后が西国へ御下向の際、当地に御寄泊になり、この地に社の無いことを知りまず斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海上交通の安全をお祈りになられたのが当社の起源という。
写真を撮り損ねてしまったが、境内に国の重要文化財に指定されている能舞台がある。この能舞台は、豊臣秀吉が愛用していたと伝わるもので、伏見城にあったものを徳川幕府により福山城に移築され、1650年代に福山藩主の水野家が沼名前神社に寄進したものだそうだ。

備後安国寺や沼名前神社には狭い道路が気にならなければ無料で駐車できるが、鞆町の中心部にはほとんどの施設に駐車スペースがない。観光客用の駐車場は中心部に3ヶ所あり、私は鞆の浦第1駐車場に駐車した。

第1駐車場前の道路を渡ると「對潮楼」がある。
「對潮楼」は真言宗大覚寺派の福禅寺というお寺の客殿で、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立されたものでる。

對潮楼

江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、正徳元年(1711)に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛したという。

日東第一形勝

部屋からは手前に弁天島が見え、奥には仙酔島が見える。湖面のような静かな海に、青い空が美しい。

以前このブログでいろは丸沈没事件のことを書いた。この事件は慶応3年(1867)に海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受けた「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」右舷が大破して沈没した事件だが、この時の海援隊と紀州藩の交渉が、この對潮楼で行われたのだそうだ。かつて坂本龍馬が訪れた場所に自分がいるのかと思うと少し嬉しい気分になる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

鞆の浦路地

對潮楼のすぐ横の路地を歩く。緩やかな起伏のある狭い石畳の道だが、雰囲気がいいのでついシャッターを押してしまった。
この道沿いにオリジナルの雛人形を公開している家があった。

鞆・町並み雛祭り

鞆町では2月9日から3月11日まで「鞆・町並み雛祭り」が実施されており、様々な場所で地元に残された豪華な雛人形が展示されている。会場の大半は江戸時代や明治・大正期の立派な雛人形だが、この家では手作りの雛人形が展示されていた。狐の嫁入りの人形が面白かったので撮影させてもらった。

鞆の津の商家

福山市重要文化財の「鞆の津の商家」。江戸末期の建物だそうだ。ここにも雛人形が展示されていた。こういう古い建物が鞆の浦には何か所も残っていてタイムスリップした気分になるのだ。

ここから「鞆の浦歴史民俗資料館」に向かう。ここが「鞆・町並み雛祭り」のメーン会場である。鞆の浦に縁のある宮城道夫の愛用の琴などが展示されていた。

ここから鞆の浦のシンボルの常夜燈に向かって歩くと「太田家住宅」がある。

保命酒の蔵元中村家

この建物は福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元中村家の屋敷で、明治時代に太田家の所有となったもので、建物は18世紀後半のもので国の重要文化財に指定されている。
「保命酒」は後で記すが、16種類の漢方薬を使って醸造した薬酒で、中村家が福山藩から醸造販売権を与えられて豪商として成長していったのだそうだ。
江戸時代の保命酒は主に公家や上級武士、豪商などに愛好され、幕末にペリーやハリスが来日した際に、食前酒として出されたという。
文久3年(1863)に尊皇攘夷派の三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって京都を追われて長州に逃亡する際、また翌年の元治元年(1864)に長州から船で京都に上る際に、ここに宿泊したことから、太田家住宅は「鞆七卿落遺跡」とも言われているそうだ。

太田家住宅雛人形

ここでも、見事な雛人形が展示されていた。いくつか撮影させてもらったが、主屋に展示されていたこの立派な雛人形がいつの時代のものか聞くのを忘れてしまった。

保命酒の蔵

主屋の奥には保命酒の蔵が並び、白い壁が美しい。中には保命酒に関わる資料が展示されているのだが、今の時期はやはり雛人形が素晴らしい。

太田家住宅雛人形2

一番印象に残ったのは、東京の人形作家が制作したこの人形。よくこれだけのものを制作したものだと感心した。

すぐ近くに「いろは丸展示館」がある。

いろは丸展示館

先程説明したいろは丸沈没事件の概要を展示する博物館で、平成元年に開設された施設である。ここには、いろは丸から引き揚げられた物などが展示されているほか、いろは丸沈没状況のジオラマや、坂本龍馬の隠れ部屋などが再現されている。

すぐ近くに江戸時代に造られた石造りの船着き場がある。画像では写っていないが、干潮でも満潮でも荷物の積み下ろしができるように階段状になっていた。

鞆の浦船着き場

港であるのに波が全く立たず、湖のように静かな港だ。

時間がないので、いくつかの予定をカットして医王寺に向かう。医王寺は山手にあり、鞆の浦全体を見渡せる場所と記憶していた。

鞆の浦遠景

医王寺の境内から鞆の浦方向を撮ったのが上の画像だが、自宅に戻ってネットで確認できる風景と随分異なることに気が付いた。
鞆の浦の全体を見渡せる最高の場所は医王寺太子殿のあるところで、医王寺の本堂横から裏山の中腹を登ること15分の場所だったのだ。
http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/iouji/iouji.html

お土産用に保命酒を買いに行く。
江戸時代に保命酒で財を成した中村家は、明治に入って藩の保護を失い、藩への貸付金も失った上に農民一揆やライバルの出現で経営が成り立たなくなって明治36年に廃業となった。

岡本亀太郎本店

鞆町には現在4件の保命酒醸造元があるのだが、たまたま立ち寄った岡本亀太郎本店で買うことにした。試飲もさせてもらったが、養命酒よりかは飲みやすくて良い。

岡本亀太郎本店の建物

この建物は明治6年(1873)に廃城となった福山城の長屋門を移築して岡本亀太郎本店としたもので、現在福山市指定の重要文化財となっている。こういう立派な建物の店で買ったというだけで、少しリッチな気分になれる。

チイチイいか

すぐ近くのけんちゃんのいりこ屋という店で、鞆の浦の海産物を試食したら旨かったので、衝動買いしてしまった。添加物が一切ない自然の味そのものだ。この商品はこのお店の超売れ筋なのだそうだ。

鞆の浦というところにはあちこちに古き良き時代の面影が残されていて、不思議に癒される。商店までが古い街並みの中にある古い木造の建物であるところがいいのだ。

車に戻り、旅館の景勝館漣亭に向かう。
温泉はラドン含有量の多いラジウム温泉で体の芯から温まって湯冷めしにくい。料理も新鮮な魚料理が何を食べても旨かった。

どこの観光地にも言えることだが、住民全員が観光客相手の仕事に携わっているわけではない。観光客相手の仕事と無関係な人々にとっては、歴史的な景観を残すことは、不便な生活を強いられることにつながる。
そのために歴史ある観光地の多くで、人々が地元で住むことをあきらめて都会に移り住むようになり、次々と古い空き家が取り壊されて町の景観が崩れていくことになるのだが、鞆の浦は古い街並みが良く保存されてきているのに驚かされる。そのためには地元に残った人々にはこれまで数々の苦労があったことだろう。

鞆の浦の街並み

ネットで検索すると、鞆の浦を一部埋め立てて県道バイパスの橋を架ける計画が今もあり、住民の間で揉めているらしい。
最後は住民が決めることではあるが、工事次第では観光地としての鞆の浦の価値の多くが失われてしまう。
道路が広くなって便利になることで人々が幸せになるとは限らない。千年以上の長きにわたり小さな町の中で経済が循環し、人びとがお互いを尊重し合う生活を続けてきた町だからこそ醸し出される優しさと美しさ…。便利すぎて人の助けをほとんど必要としない都会生活者が数十年前に失ってしまったものが、この鞆の浦にはまだまだ残されている。だからこそ、都会から来た観光客が癒される世界があり、遠くから訪れる価値があるのだと思う。

宮崎駿

スタジオジブリの宮崎駿監督は、長編アニメ『崖の上のポニョ』の構成をこの鞆の浦で練ったそうだが、この地域の開発に関してこのような発言をしておられる。
http://homepage2.nifty.com/yagumo/sensui.html

「鞆の浦は、車が遠慮して走っています。道路を造って橋をかけて渋滞をなくせば幸せになるか。そんなことないでしょ。公共工事で何か劇的に変わるという幻想や錯覚を振りまくのはやめた方がいいと思います」
「不便を忍んで生きるんですよ。そういう哲学を持たなきゃいけないんじゃないかと思うんですよね。不便だから愛着もわくというのが人間の心。便利で静かで穏やかで落ち着いているなんてことないですよ。便利はうるさい。不便も良さにつながるんですよ。」
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関連記事

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し強硬な態度で幕府に開国を迫り、翌年にその圧力に屈して日米和親条約を締結し、寛永16年(1639)以降200年以上続いた鎖国体制は終りを告げた。
その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。

ハリス

この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼は自らの政策を推し進めるとともに反対派を大弾圧し、徳川斉昭、松平慶永らは蟄居させられ、吉田松陰や橋本左内らの志士は刑死させられた(安政の大獄)のだが、その後も国内に反幕府勢力が燎原の火のごとくに広がっていく理由が教科書を読んでもわからなかった。
私の感覚だと、国家の最高権力である徳川幕府が大弾圧を加えたのならば、普通の国なら反対勢力はそれ以降は下火になっていくのではないかと思うのだが、そうとはならず、むしろ公然と広がっていった。
しかしながら、反幕府勢力が無秩序に広がって国論が四分五裂することもなかった。もし国論が割れていれば、欧米列強による分裂離間策でインドやインドネシアと同様に植民地化への転落すらあり得たと思うのだが、なぜ出身地も立場も考えも身分も異なる者同士が力を合わせて、独立国家を堅持することができたのか。
誰かが強力なリーダーシップをとらないとそのようなことはありえないと考えていたのだが、一体どういう経緯があったのだろうか。

学生時代に歴史を学んだ時は、「尊王攘夷」というのは偏狭な排外運動だったとイメージしていたのだが、以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、攘夷の急先鋒であった水戸藩主徳川斉昭は、終局的には開国・通商はやむなしと当初から考えており、国民の士気を鼓舞し充分力を蓄えてから開国に転じるという考え方であり、頑迷固陋なものではなかったようだ。

西郷隆盛

また西郷隆盛も「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれているわけじゃ」と、有馬藤太に語った記録が残されている。(『有馬藤太聞き書き』)
つまり「尊王攘夷」は愛国心を鼓舞して、開国路線をとった幕府を倒すためのスローガンとして使われたという側面もあったのだ。

以前、私のブログで孝明天皇のことを書いたことがある。孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

教科書には、孝明天皇の妹の和宮を将軍徳川家持の夫人として迎えて公武合体を推進し、幕府の権威の回復を図ったことと、強固な攘夷論者であったことくらいしか書かれていない。

孝明天皇

ずっと長い間、私も孝明天皇は偏狭な攘夷論者のイメージが強かったのだが、勝岡寛次氏の著書に紹介されている孝明天皇ご自身の勅書を読んで考え方が改まった。誰でもこの勅書を読むと、維新に至る幕末の志士達を多く輩出させた背景には、孝明天皇の存在が大きかったことに気が付くのではないだろうか。

しばらく勝岡寛次氏の解説を引用する。

「孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書[所謂「御述懐一帖」、文久二年(1862)五月十一日付]は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書[元治元年(1864)正月二十一日付]は、明示して余りあるからである。

…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ:外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍(ふくてつ:二の舞)を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲(ようちょう)の師[懲らしめの軍隊]を作(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ。(時局御軫念の勅書)

…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる勅書、同上)

明治維新とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。

文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。

将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。」(勝岡寛次:『抹殺された大東亜戦争』p.101-102)

竹田恒泰

学習院」については、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の「皇室のきょうかしょ」に詳しいが、位の高い公家の子弟が学ぶ学校として京都御所内に設立され、文久2年(1862)の尊皇攘夷運動が盛んな折、学習院は公家衆と武家衆、そして草莽の志士たちが集う政治的な会合の場所となり、そこで攘夷決行の策が議論されたとある。
当時、公家と草莽の志士が接触することは堅く禁止されていたのだが、学習院という学問の場だけが、公家と志士が公然と会合することができる唯一の場所だったのだそうだ。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu64.html

身分の異なる者同士を一堂に集めて、わが国の進むべき道を議論できる場を「学習院」に作られたということは画期的な出来事だと思うのだが、こういう史実がなぜ広く知らされていないのだろう。
孝明天皇の国を愛する気持ちが伝わり、国を守り独立を堅持するという目的が共有されてはじめて、身分を超え藩を超えて、人々が繋がっていったということではないのか。
「草莽の志士」と呼ばれた下級武士達がなぜ身分の高い公家らとともに明治維新を為し得たか、なぜ下級武士たちが明治政府の中心勢力になりえたかは、孝明天皇の存在を抜きには語れないことだと思うのだ。

勝岡寛次氏の著書に、GHQの検閲によって抹消された論文が掲載されている。
(西谷啓治「現在における民主主義の問題」昭和21年11月『ひょうご』)

「明治維新は、萬民がその一君の赤子として、國家の全體性へ直結するといふ形で成就されたのであり、それが…各人が『国民』となったことであった。…他の諸國では、概ね、人民が貴族階級を顚(くつが)へし、力を以て政権を自らに奪ふといふ『革命』によつて、民主主義が實現され、近世國家への移行が行はれたのであるが、日本では、國家統一の肇(はじ)めから國家的な『一』の象徴であった天皇への歸一といふ仕方で行はれたのである。…
この様にして日本では、近世國家への移行は、諸外國に見られたやうな大きな擾亂(じょうらん)や流血を經ずに、短日月の間に圓滑に行はれた。その意味で明治維新は世界史の上でも稀有な出来事である。…

列強地図

言ふまでもなく當時は、列強の膨張政策が頂點に達し、南方からは英佛の勢力が、北方からは露國の勢力が、日本まで延び、日本を終點としてそこに渦巻いていた時代であつた。亜細亜の諸國はその植民地又は半植民地と化し、日本も存亡の岐路に立つたといつてよい。その際最も緊要なことは、新しい政治的中心のもとに國家全體が眞に強固な統一を形成し、國内の結果が根本から打ち建てられることであつた。といふのは、國家の滅びる場合は、概ね一方に諸外國の相對立する勢力の干渉があり、他方には國内に相對立する勢力の分裂があつて、然もその國内の對抗勢力がその敵對關係のために、共通の地盤である祖國と同胞性とを忘れ、政敵を倒すために互ひに外國の勢力と結合し、かくして外國勢力の間の闘争と國内の闘争とが一つに聯環して來る場合である。その際、諸外國のひとつが勝つ場合には、國家はその國に征服され、諸外國の間に協定が成立する場合には、國家は分断される危険がある。後の場合の適例は、曾てポーラーン[ポーランド]が三度の分割によつて滅亡した場合である。その時は国内の親露的、親普的等の黨派が夫々に諸外國と結びついて、國家を分裂させ滅亡に導いたのであつた。かかる危険の兆しは明治維新の際にも現はれてゐた。特に一方に英國と佛蘭西(フランス)の間の勢力爭い、他方に薩長と幕府との闘爭があつて、それが複雑に絡み合つてゐたのである。かかる事情のもとでは強固な統一國家の態勢を、然も長い内爭や動亂なしに出来る限り短期間に調(ととの)へることが、何よりも緊急事であつた。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.104-105)

引用部分の内「言ふまでもなく當時は…」以降の文章がすべてGHQの検閲で削除されているのだが、要するにGHQは日本人が欧米列強の世界侵略の手口やわが国が短期間で統一国家の態勢を整えたことについて学ぶことを許さなかったし、幕末に欧米列国の植民地にされる可能性があったことを考えさせたくもなかったのだろう。

孝明天皇の攘夷論は「倒幕」ではなく「公武合体」の考えであったのだが、天皇親政を復活させようする過激な尊王攘夷派が多数派となり、天皇は八・一八の政変で尊王攘夷派を朝廷から一掃したのだがそのために朝廷は勢いを失い、天皇は失意の中で孤立していく。
慶応二年(1866)に将軍家茂が亡くなる頃から、対幕府強硬派が力をつけて倒幕の勢いが加速する。それでも、公武合体への信念を枉げなかった天皇の存在は倒幕派にとっては最大の障壁となってしまうのだ。

以前私のブログで孝明天皇が暗殺された可能性が高いことを書いたが、真相は闇の中だ。ただ倒幕派にとっては非常に都合の良いタイミングで崩御されことだけは事実である。
結果として孝明天皇が望んだ方向には歴史が進んだわけではないのだが、幕末から明治維新で活躍した数々の人材を輩出させるきっかけを作った天皇であったことは間違いがないと思う。

幕末維新期の和歌がいくつか残されているが、わが身を捨てても国を守るということの思いが伝わってくるものがある。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかかる異国(とつくに)の船[孝明天皇(1831-1867)]
君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとも思はざりけり[梅田雲浜(1815-1859)]

吉田松陰

かくすればかくなるものと知(しり)ながら已むに已まれぬ大和魂[吉田松陰(1830-1859)]
わが霊はなほ世にしげる御陵(みささぎ)の小笹の上におかむとぞおもふ[伴林光平(1813-1864)]
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけりわが年月の大和魂[真木和泉守(1813-1864)]
もののふの大和ごころを縒りあわせすゑ一すぢの大縄にせよ[野村望東尼(1806-1867)]

平和な国や侵略する側の国にはこのような思いは不要であろうが、侵略される側の国には、国を愛する強い心と愛する国を守り愛する人を守るためにはわが身を犠牲にしてもいいという覚悟が大半の国民に存在し、かつ強力なリーダーシップと戦略がなくては、国を守れるはずがないである。
このことはどこの国でもいつの時代にも言えることだと思うのだが、このようなあたりまえの事が戦後の日本で充分に伝えられていないのではないだろうか。

ペリー来航2

以前私のブログで、ペリーの来航の真の目的は、アメリカが日本を奪い取ることであったことを書いたが、そのことをしっかり理解できれば、幕末から明治以降の歴史の見方が変わらざるを得ないだろう。

先ほど紹介した竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』という著書の中で、孝明天皇を「封印された天皇」としたうえで、こう記されている。

「孝明天皇の崩御がもし少しでも前後していたら、おそらく今の日本はない。皇室も幕府もともに倒される対象とされていたろう。王政が打倒され、共和国が成立するのは世界史の大勢だった。
 もし崩御がより早ければ、倒幕の原動力となった尊攘派が育つことはなく、もし崩御がより遅ければ、天皇親政による新政府構想は成立するはずもない。孝明天皇は生きて国を守り、そして死して国を守ったことになろう。」(『旧皇族が語る天皇の日本史』p.205)
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4

ハワイの先住民族はポリネシア系に属し日本と同じモンゴロイドで、宗教も多神教であったそうだ。人々が島々で平和な暮らしをしていたのだが、1778年にイギリス人の探検家ジェームス・クックに発見され、それから欧米人との接触により急速に変貌していった。

ハワイ諸島地図

それまでハワイ先住民は小さな部族に分かれていたが、ハワイ島のカメハメハがイギリスから武器や軍事顧問などの援助を受けて、マウイ島、オアフ島などの周辺の島々を征服して1795年にハワイ王国の建国を宣言し、18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ2世の治世の1820年以降、米国から集団でやってきた宣教師たちが、独自の文字を持たなかったハワイ王国にローマ字のハワイ語聖書や教育と医療をもたらすことによって、瞬く間に文化的・宗教的にも席巻され、1840年には米国人宣教師主導による立憲君主体制が樹立され、以降欧米人(大部分がアメリカ人)がハオレ(白人)官僚として、ハワイ政府の中枢を独占し、ハワイ王朝の生殺与奪権を掌握するに至ったという。

1848年には土地法が制定され、1850年に外国人による土地の私有が認められると、対外債務を抱えていたハワイ政府が.土地の売却で負債を補ったり、宣教師が土地所有観念のない島民から土地を寄進させるなどして、国王領以外のハワイ諸島土地の多くがハオレの所有地となり、また議会もハオレが多数を占めていたという。
一方ハワイでは白人がもたらした病気の影響などにより、人口が百年間に30万人が5万人に激減していた。

カラカウア王の日本滞在

このままでは国がアメリカに併呑されることを怖れた7代目の国王カラカウアが、1881年(明治14年)に国際親善訪問の旅に出た。この旅行で国王が一番感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本だったそうだ。上の画像は、一行が来日した時に撮影されたものである。

国王は明治14年の3月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。 例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。

カラカウア王

3月11日、日本を訪れていたカラカウア王は随員の米国人には一言も知らせずに、一人で極秘に明治天皇に会見を申し入れたという。この会見の内容は驚くべきものであった。 この時のカラカウア王の言葉が明治天皇の公式記録である『明治天皇紀』に残されている。

「今次巡遊の主旨は、多年希望する所の亞細亞諸國の聯盟を起こさんとするに在り。歐州諸國は只利己を以て主義と為し、他國の不利、他人の困難を顧みることなし、而して其の東洋諸國に対する政略に於いては、諸國能(よ)く聯合し能く共同す、然(しか)るに東洋諸國は互いに孤立して相援(たす)けず、又歐州諸國に対する政略を有せず、今日東洋諸國が其の権益を歐州諸國に占有せらるる所以は一に此に存す、されば東洋諸國の急務は、聯合同盟して東洋の大局を維持し、以て歐州諸國に対峙するに在り、而して今や其の時方(まさ)に到来せり…(中略)
 今次の旅行、清國、暹羅(シャム)、印度、波斯(ペルシャ)等の君主にも面会して、具(つぶさ)に聯盟の利害得失を辨説せんと欲す、然れども、弊邦[ハワイ]は蕞爾(さいじ:小さい)たる島嶼(とうよ)にして人口亦(また)僅少なれば、大策を企畫するの力なし。然るに貴國は、聞知する所に違わず、其の進歩実に驚くべきのみならず、人民多くして其の気象亦勇敢なり、故に亞細亞諸國の聯盟を起こさんとせば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん…」
(『明治天皇記』第五 : 勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」p.170所収)

カラカウア王明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したというのだ。

この提案に対する明治天皇の回答も続けて記録されている。

明治天皇

「歐亞の大勢實に貴説の如し、又東洋諸国の聯合に就きても所見を同じくす。(中略)然れども、我が邦の進歩も外見のごとくにはあらず、殊(こと)に清國とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦を以て征略の意圖(いと)ありと爲す、既に清國との和好をも全くすること難し、貴説を遂行するが如きは更に難事に屬す、尚閣臣等に諮り、熟考して答ふべし…」

カイウラニと山階宮

さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。当時山階宮定麿王は13歳、カイウラニは5歳で、ハワイ王室と日本の皇室とを結び付きを強くして、ハワイ王国を存続したいと考えての発言であった。下の画像は成人となったカイウラニ王女であるが、なかなかの美人である。

カイウラニ

この会見内容は国家的重要事であるので、明治天皇の御指示により、ハワイから来た随行員にも伝えられた。

カラカウア王が世界一周旅行から帰国したのちに取り組んだのは、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活であり、ハワイ正史の編纂事業だった。また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラは神を意味し、フラダンスは神にささげる神聖な舞踏で、男の踊りであった。

こうした動きが、米国を刺戟する。
同じ年の1881年(明治14年)12月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、戦後GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本に紹介されている。

「ハワイはその位置から見て北太平洋における軍事上樞要の地點を占めているから、同島の占領は全くアメリカ國策上の問題である。(中略)
最近ハワイの人口は激減を来し…減退の一途をたどつていることは、ハワイ政府の一大憂患たることは疑へない。(これが解決策としてアジア人をもつてハワイ人に代へ、…かかる方策を用ひて)ハワイをアジア的制度に結合しようとするのは出来ない相談だ。もし自立することが出来なければ、ハワイはアメリカの制度に同化すべきものであつて、それは自然法並びに政治的必要の命ずるものである。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.173に所収)

と、アメリカは自国の国益上に有益な場所にある国は、国策上占領すべきだという勝手な考え方なのである。

翌明治15年2月(1883)に明治政府はハワイに特使を派遣し、「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」となることと婚姻の申し出については丁重に謝絶した。しかし、移民の申し出に関しては明治17年(1885)には946名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、20世紀初頭にはハワイ人口の4割を日本人が占めるようになったという。

アメリカは反撃に転じ、1887年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。

「ハワイ國の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語若(もし)くは他のヨーロッパ諸国語を讀み、書き、算數を會得し、少なくも三ケ年間國内に居住し、竝(ならび)に五〇〇ドル以上の財産を國内に有し、或は一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アリカ若しくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一條)」
と、これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。

選挙権についてはこう書かれている。

「ハワイ國に居住するハワイ・アメリカ若(もし)くはヨーロツパ人種の男子にして國法遵守を宣言し、國税を納め、年齢二十一歳に達し、選擧日に際して1ヶ年國内に居住し、ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸國語を讀み、書き、法律の規定に従つて選擧人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選擧する權利を有す(第六二條)」

先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
「…白人はハワイに歸化(きか)しなくても國法遵守を宣言しさへすれば参政權を享有し得る一方、有色人種の参政權を拒否したもので、早くもアジア移民の増加に猜疑(さいぎ)の眼を光らせたアメリカ意志を反映したものであつた。原住民は勿論、當時(とうじ)すでに千を超えていたわが移民(説明:日本移民)は大いに激昂し、ハワイ駐在の日本總領事安藤太郎は外務大臣(説明:井上薫)の訓令を仰いで大いに抗議せんとしたが、歐米追従をもつて聞こえる井上薫がこれを許さなかつたのは當然である。
 かくてハワイの政治はいよいよアメリカの左右するところとなつたが、その経済もまたアメリカの政策にたへず繰(あやつ)られてゐた。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.46-47)

選挙権が与えられる人種のなかに日本人が入っていないということは、帰化してハワイ国籍を取得していても日本人移民には選挙権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。

井上馨

しかし、この時に何故外務大臣の井上薫はアメリカに抗議しなかったのであろうか。今の外務省も欧米追従の傾向が強いが、長いものには巻かれろと言う考え方が当時から強かったのだろうか。
もしハワイがアメリカに併呑されれば、太平洋は広いとはいえ隣の国はわが国である。次は日本が危ないという発想はなかったのだろうか。

ところで、国王の世界一周旅行に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いている。
「われわれ国王の側近者は、その後[世界一周旅行の後]の王の行動に深き注意を払うやうになつた。国王の計画が日本天皇陛下によつて御嘉納になつていたらハワイは日本領土となる経路をとるに至ったであろう。」(西尾幹二 同上書 p.39)

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わが国がハワイを国土とすることはなかったとしても、山階宮定麿王がハワイ王女と結婚し、わが国がハワイを側面で支援していれば、ハワイにあのような屈辱的な憲法を結ばせることはまずなかっただろう。またあの憲法がなければ、ハワイがアメリカに併呑されることもなかったのではないだろうか。
もしハワイ王国が独立国として20世紀に入っても存続していれば、71年前にわが国がアメリカと戦うことにならなかったことは大いにあり得ると思うのだ。
もっとも明治14年(1881)と言えば、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかで、漸進的な伊藤博文・井上馨がやや急進的な大隈重信を追い出した政変劇のあった時期でもあり、内政問題を抱えながらアメリカを敵に回すような施策は財政面からみても難しかったとも思われる。

しかしカラカウア王に憲法をごり押ししてからのアメリカは、露骨にハワイ王国を奪い取りに行っている。政治も経済も情報も白人に握られてしまえば、抵抗することは難しくなるばかりだった。

イオラニ宮殿

カラカウア王が神官たちを集めて王宮の扉を閉ざし古代伝承を記録させていたことを、実は女たちを交へての酒池肉林に耽(ふけ)っていたという噂が白人によってまことしやかに流され、晩年の王は白人たちによって「奇行の王」と渾名(あだな)されてしまう。
アメリカ人により貶められ国政に対する権限を奪われたカラカウア王は、失意と孤独の内に1891年1月病死してしまい、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位することになるのだが、これから後いかにひどいやり方でアメリカに国が奪われたかを書きだすと随分文章が長くなるので、次回に続きを書くことにしたい。

アメリカにより憲法を押し付けられ、国王家の弱体化を仕掛けられた国である点については、わが国はハワイ王国とよく似ている。
ハワイ王国は外国人に選挙権を与えることによって滅んだのであるが、なんとなくわが国はその方向に進んではいないか。
この頃にハワイ王国で起こったことを日本人はもっと知るべきだと思う。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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