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聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。
この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。

聖徳太子

この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載されていたのだが、最近の教科書では「伝聖徳太子画像」と説明されているか、この画像も掲載されていないものが多いようだ。

Wikipediaによると、この太子像の制作時期は8世紀ごろとされているようだが他の説もあり、「中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%AC%E5%BE%A1%E5%BD%B1

お札

この太子像は一万円札や五千円札の肖像画の原画に採用されて、長い間日本人に親しまれていたものなのだが、どういう経緯で急に「伝」が付されるようになったのだろうか。

昭和57(1982)年に、東京大学史料編纂所所長今枝愛真氏が「御物の聖徳太子像は実は聖徳太子ではない」という説を発表したことが、そのきっかけとなったようである。
今枝氏は太子像に装幀されていた絹地に「川原寺」と読める墨痕があることに注目し、もともと川原寺にあった肖像画が法隆寺に移されたものとする説を発表した。
「川原寺」は飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された大寺院であるが、今枝氏の説は聖徳太子の没(622)後およそ半世紀後を経て建設された川原寺に聖徳太子の画像があるのは不審であり、この肖像画が聖徳太子を描いたものとは特定できないというものなのだが、この墨痕は昭和に修理された掛け軸の布に書かれているもので、画像とは関係がないとする説もあるようで、どちらが正しいかはよくわからない。

法隆寺

そもそもこの太子像がいつどういう経緯で法隆寺に伝来したかについての記録は存在せず、院政期(12世紀中ごろ)に大江親通(ちかみち)が『七大寺巡礼私記』のなかで、「太子の俗形御影一鋪。件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし。」と書いているのが、判明している最も古い記録なのだそうだ。
我々は紙幣で何度もこの肖像画を見てきたので特に違和感を覚えないのだが、大江親通は、聖徳太子を描いたものにしては筆跡が唐風であり不思議な絵であるとの印象を持ったということである。
確実にわかっていることは、院政期には聖徳太子を描いたものとして伝わるこの肖像画が法隆寺に存在したという事だけなのだ。

学生時代に学んだ聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、国政の改革と文化の交流を図った英雄的存在であった。603年の冠位十二階の制定、604年の十七条憲法制定、607年の遣隋使の派遣などが有名だが、『日本書紀』に書かれている太子の記述はあまりにも美化されており何となく嘘っぽい。

たとえば『日本書紀』にはこう書かれている。
「生而能言。有聖智。及壮、一聞十人訴。(太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をおもちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。)」(訳:講談社学術文庫『日本書紀下巻』p.87)

厩で生まれたのはキリストの生誕説に似て、生まれてすぐに喋ったという話は釈迦の逸話に似ており、成人してからのエピソードも信じがたいものがあるので、『日本書紀』における聖徳太子の記述をどこまで信頼できるかで、古くから議論があったようである。

最近では聖徳太子虚構説までが存在し、歴史学者の大山誠一氏の説が注目されているようだ。
Wikipediaの記述によると、大山説は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性まで否定するものではないが、推古天皇の皇太子かつ摂政として数々の業績を上げたことになっている聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

大山氏の考えでは、厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つは信頼できるが、それ以外の事績については書かれている史料そのものが厩戸皇子のかなり後の時代に制作されたものであり、矛盾する記述も多く虚構であるというもののようだ。

例えば『日本書紀』には厩戸王を「皇太子」の肩書で天皇に代わって政治を行ったと書かれているのだが、推古天皇の時代には「皇太子」という地位はなかったという。
また十七条憲法に使われている用語も、使われている用語や時代背景から推測して、『日本書紀』が書かれた時代に創造された可能性が高いとしている。ほかにも聖徳太子が執筆したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の一つである『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』が中国の敦煌文書に酷似しており、偽物説が有力視されているというのだ。
こうして見ていくと、たしかに聖徳太子の実在を示す確かな史料は存在しないことになってしまう。やはり聖徳太子は『日本書紀』の中で創作された人物なのだろうか。

藤原不比等

仮に聖徳太子が架空の人物だとした場合に、藤原不比等らが聖徳太子という偉人を捏造したのは何のためなのか。
藤原不比等といえば、父は乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿を滅ぼした中臣鎌足である。不比等には父・鎌足の正当性を主張するために、推古朝で活躍した蘇我入鹿の祖父・馬子の功績を奪い取り、蘇我氏を貶めるために聖徳太子という人物を捏造したというのだが、結構説得力がある。

ところで、聖徳太子が架空であるとまでは言わないが、十七条憲法が後世の創作であるという説は古くからあり、江戸後期のである狩谷棭斎(かりやえきさい)という考証学者は文政12年(1829)頃に書いた『文教温古批考』の中で次のように述べている。
「憲法を聖徳太子の筆なりとおもえるはたがへり。是は日本紀作者の潤色なるべし。日本紀の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし。もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか。」

戦前を代表する歴史学者である津田左右吉も、十七条憲法が後世の創作であるとの説を展開している。
津田の説によると、例えば第12条の「国司(くにのみこともち)」という言葉が大化の改新後に登場した官制であり、推古朝当時の政治体制にはなかったことなど時代背景にずれがあることから、十七条憲法は、太子信仰が高まった天武・持統朝ころにつくられたということになる。

しかし大山説も津田説も、推古朝の時代の官制を知らない者にとってはどうもすっきりしない。

『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で、聖徳太子が亡くなって98年も後の事である。『日本書紀』の記述が正確でなかったり、かなり脚色があることはあることは容易に想像できるが、小野妹子が遣隋使として隋に朝貢した際に、有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を渡しているはずだ。この文書は聖徳太子が書いたものだと学生時代に学んだことを思い出したので、『隋書倭国伝』を取り出して読んでみた。

講談社の学術文庫に隋書倭国伝の現代語訳が出ている。隋にはわが国から2度使者を派遣し、隋の使者が倭国に来た記録が残されている。
1回目の記録は、
「隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)

煬帝

2回目の記録は、
「隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
『太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。
…倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と隋の使者は倭国王に面談したことは確実である。

岡田英弘氏は『日本史の誕生』(ちくま文庫)のなかで、この『隋書』の記述から『日本書紀』の問題点をわかりやすく説明しておられる。
「(以上の隋書の記録の部分は)『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。いうまでもなく推古天皇は女王だ。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、アマ・タラシヒコ・オホキミという人で、名前からみて男王であることには間違いがなく、しかも裴世清はこの男王自身に直接会って話をしている。摂政である聖徳太子を王と取り違えたのだという説は成り立たない。なぜなら太子は王と王妃のほかにいたと、『隋書』にちゃんとかかれているからだ。そういうわけで、「日出づる処の天子」の国書を送ったのは聖徳太子ではなく、『日本書紀』には名前がのっていない、誰か別の倭王だったことが分かる。」

裴世清は608年に日本に来て倭国王と面談している。王座についている人物が女性であれば、その旨を報告しているはずだ。
また裴世清が訪れた国が別の国であったわけでもなかった。『隋書』には「竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。」と書かれている。「竹斯国」とは「筑紫国」のことであり、裴世清が訪れた国が倭国であることは間違いないだろう。
『隋書』が倭国についての記述を歪める動機は存在しない。とすれば、『日本書紀』は7世紀初めの時代について、重大な嘘をついているとしか考えられないのだ。

『日本書紀』は天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっているが、中立的な立場で書かれたものではないのだろう。

石舞台

多くの論者が指摘しているように、藤原氏の政治的思惑によって記述が歪められているという可能性が高いのだとすれば、聖徳太子の今までの常識がさらに覆され、これまで極悪人扱いを受けてきた蘇我馬子が見直される時が来るのかもしれない。
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蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。

いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで書いてきた。
日本書紀』も勝者が編纂した歴史であり、真実が書かれている部分がそれなりにあるとは思うものの、一方で勝者は必要以上に美化され、反対勢力は必要以上に貶められているという視点で読むことが必要であると思うのだ。

日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で現存する最古の正史であるのだが、もっと古い史書が過去にはあった。
推古朝の600年頃に継体天皇の系図を記した『上宮記』、7世紀には記紀編纂の基礎資料となった『帝紀』『旧辞』、620年には聖徳太子蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』という書物が存在したことが分かっているのだが、最後の『天皇記』『国紀』は皇極4年(645)の6月「乙巳の変(いっしのへん)」*の際に多くを失ってしまう。『日本書紀』にはこう書かれている。
(*今の歴史教育では蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的)

日本書紀下

「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。(13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺[ふねのふびとえさか]はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。)」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.155)

『天皇記』『国記』は蘇我氏の立場から書かれた歴史であったはずであり、普通に考えれば、蘇我氏としてはその歴史書を隠してでも守ろうとすることはあっても、自ら火をつけることは考えにくい。
『日本書紀』によると、『天皇記』は蘇我氏によってこの時に焼かれ、『国記』は焼かれる前に取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に奉献されたとあるが、その『国記』も現存しない。いずれも中大兄皇子側で焚書処分された可能性を感じている。

いつの時代も、どこの国でも、一国を支配する立場に立つためには、目の前の政敵を打ち倒すことが必要になる。選挙のない国や時代においては、多くの場合は政敵を殺すぐらいのことをしなければ、のし上がる方法がないのだ。またその場合に、政敵の命を奪う自らの行動を正当化すために余程の大義名分がなければ、ただの犯罪者になってしまうだけだ。

そこで、クーデターが成功し権力を掌握できた場合には、「歴史」をどう描き、どう広めるかが重要なポイントとなってくる。歴史を編纂する立場に立つということは、どの勢力に権力の正統性があるかを明らかにし、その国・その時代の言語空間を支配するという重要な意味合いがあるのだと思う。

学生時代に、「蘇我氏」と言えば天皇家を乗っ取り国家を乗っ取ろうとした大悪人だと教わってきた。その根拠はすべて『日本書紀』にあるのだが、そもそも『日本書紀』は中大兄皇子や中臣鎌足の立場を擁護するために記述されたものではなかったのか。

普通に考えれば、中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害させて政権を奪い取ったのであり、その行動に正当性があることを主張しようと思えば、蘇我一族が余程の大悪人でなければ立論が困難であったはずだ。この点については以前にこのブログで『忠臣蔵』のことを書いたのと同じ構図にある。
とすれば、『日本書紀』における蘇我氏に関する記述をそのまま鵜呑みにすることは危険ではないのか。

『日本書紀』の文章を読む前に、蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図を確認しておこう。
蘇我氏系図

藤原家系図

上の図がネットで見つけた蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図だが、蘇我氏は古くから天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、乙巳の変が起きた当時はすでに完成の域に達しており、後は子孫さえ増えれば安泰といえる状況にあった。
一方、中臣鎌足はこの頃突然歴史に現れ、中臣(藤原)氏が天皇家との姻戚関係を結ぶのは、鎌足の子の藤原不比等の時代以降である。
結果だけを見れば蘇我氏の立ち位置を、藤原氏が奪い取ったようにも思える。天皇家を乗っ取り、国家を乗っ取ろうとしたのは藤原氏の方ではなかったのか。

『日本書紀』で、蘇我氏の専横にかかわる叙述が目立つのは皇極天皇(35代:在位642-645の女帝)の治世下からだが、『日本書紀』に記述されている蘇我氏の悪行とはどんなことなのかを拾ってみよう。

皇極元年(642)の出来事にこんな記録がある。
「(蘇我蝦夷は)また国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を召使って、双墓(ならびのはか:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来(いまき:御所市東南)に造った。一つを大陵(おおみさぎ)といい、蝦夷の墓。一つを小陵(こみさぎ)といい、入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このために上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨され嘆いていわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日なく地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに仕えたものか』と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.140)

次は皇極二年(643)の出来事だ。
「(十月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに、紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に威勢を張ったのである。 十二日、蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(ふるひとのおおえ:舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143)

その直後の11月に、蘇我入鹿は山背大兄王(やましろのおおえのみこ:聖徳太子の子)を襲撃する。斑鳩寺とは法隆寺の事である。

「十一月一日、蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。…山背大兄は…隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略) …山背大兄らは山から出て、再び斑鳩寺へ入られた。兵らは寺を囲んだ。山背大兄王は三輪文屋君を通じて、将軍らにつげさせ『自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう』といわれた。ついに子弟妃妾と諸共に自決してなくなられた。おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変わった。それで入鹿は見ることもできなかった。蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王らがすべて入鹿に殺されたと聞いて、怒りののしって『ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ』といった。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143~146) と、かなり嘘っぽい文章が続く。

幡や絹笠の話は論外だが、多くの論者が指摘するように、山背大兄王が戦えば勝てる状況下でありながら、一族全員を集めて自決してしまうというのはあまりに不自然である。
しかもこれだけの事件が法隆寺を舞台に起こったのであれば、法隆寺に聖徳太子の子である山背大兄王の墓があってもおかしくないのだが存在しないし、法隆寺が上宮王家を祀った気配もないというのだ。そもそも、山背大兄王の墓が国内のどこにあるのかすらはっきりしていないのだそうだ。
それよりももっとおかしなこととして、山背大兄王の滅亡に関与した人物が、蘇我氏滅亡後に栄転していることを指摘しておきたい。
蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃させた巨勢徳太は、孝徳天皇の御代の大化5年に左大臣に任命されているのだそうだ。
また『聖徳太子伝補闕記』にはこの事件の後、山背大兄王の息子弓削王を大狛法師という人物が殺したと書かれているのだが、この大狛法師は大化元年8月に仏教界の最高指導層である「十指(とたりののりのし)」の筆頭に任じられているのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
最大の政敵である蘇我蝦夷・入鹿親子がこの世に存在しない中で『日本書紀』が編纂されているのだから、すべての悪事を政敵に擦り付けることは容易であろう。山背大兄王一族を襲撃させたのは、中大兄皇子、中臣鎌足に近い人物の可能性を感じるのだ。

話を『日本書紀』の文章に戻そう。
この山背大兄王一族が滅亡する事件の翌(皇極4年[645])の6月に、飛鳥板葺の宮大極殿で中大兄皇子らの手によって蘇我入鹿が斬られることになる。これが「乙巳の変」である。 当初の打ち合わせでは、入鹿を斬りつけるのは佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田の2名であった。『日本書紀』にはこう書かれている。

乙巳の変

「…中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れてたじろいでいるのを見て、『ヤア』と掛け声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落しむ、頭をふって『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるか、そのわけを言え。』といった。
 天皇は大いに驚き中大兄に、『これはいったい何事が起ったのか』といわれた。中大兄は平伏して奏上し、『鞍作(くらつくり:入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか』といった。
…古人大兄は私宅に走り入って人々に、『韓人(からびと)が鞍作臣を殺した。われも心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとはしなかった。…」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.154~155)

この中大兄皇子の奏上を読めば、入鹿暗殺の大義名分は山背大兄王一族の滅亡事件にありその延長線上に蘇我氏による天皇家乗っ取りを挙げている。しかし、山背大兄王の事件に蘇我入鹿が関与していなかったとすれば、乙巳の変は単なる暗殺事件で、中大兄皇子・中臣鎌足はただの暗殺者にすぎず、英雄になるようなことはあり得ないことになる。
この事件の後に中大兄皇子は皇位継承権を持つ古人大兄皇子(母:蘇我馬子の娘)を殺害し、蘇我氏でありながらクーデターに協力した蘇我倉山田麻呂を自害に追い込んでいる事実をどう読めばいいのか。
また古人大兄皇子が『韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。われも心痛む』と言ったのはどういう意味なのか。この点についても諸説があり、中臣鎌足が百済人であり百済人に蘇我入鹿が殺されたという解釈や、混乱する半島情勢の考え方の行き違いで殺されたという解釈があるようだが、いずれにしても蘇我氏の専横や天皇家を乗っ取ろうとしたから殺されたという多数説とは違うことを言っていることになる。

加藤謙吉

最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっているらしく、歴史学者の加藤謙吉氏は蘇我氏こそが律令政治の推進役で改革者であったと主張しておられるという。
律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説のようだ。
その説が正しいとすれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になることも考えられないこともなさそうだ。

関裕二

また作家の関裕二氏は、大化二年(646)の「改新の詔(みことのり)」の中には、後世になって使われるようになった用語が混じっており、『日本書紀』編纂者が後世に書き加えた可能性を指摘しておられる。(宝島社『捏造だらけの日本書紀』p.38-39)

さらには蘇我氏が天皇であったという説もネットではかなりヒットする。
蘇我氏天皇説は、前回紹介した『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということから考えるとなかなか説得力があるのだ。

今後もし『天皇記』『国記』の写本が発見でもされれば、日本の古代史は全面的に書き換えられることになると思うのだが、古代史には同時代に残された史料が少なく『日本書紀』に頼りすぎることが真実の解明を難しくしているような気がするのだ。

子供の時から聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教わり、長い間そのように考えてきたのだが、よくよく考えると、聖徳太子を英雄に描けば描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリに、長い間騙されていたのかも知れない。

どこの国でもいつの時代でも、正史というものはそれなりに真実が書かれてはいるのだろうが、当時の権力者を擁護するために真実が捻じ曲げられ、反対勢力は必要以上に貶められる傾向が強いことに留意して読む姿勢が必要だと思う。
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桜の咲く古民家の風景を求めて

最近大きなテーマばかりを書いてきたので、たまには息抜きで今年の桜を話題にすることにしたい。
有名なお花見スポットはどこへ行っても、いつ行っても観光客が多すぎて、なかなかいい写真が撮れない。できれば屋台の店舗がなくて、観光客が比較的少なくて、昔と変わらないような風景の中で静かに桜を楽しみたいと思う。

そんな場所を伝えたいと思って昨年は龍野城を紹介したが、今年は大阪府豊中市の服部緑地公園の一角にある「日本民家集落博物館」に行ってきた。
この場所は梅、桜、竹、柿などの樹木や草花に囲まれた約3万6千㎡の敷地内に、北は岩手県「南部の曲屋」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで12棟の民家が、自然な環境の中で移築されていて、都心でありながら四季折々の古き良き日本の風景を楽しめる場所である。
アスファルトやコンクリートのようなものが広い敷地内に全くと言っていいほど存在せず、敷地の中にタンポポや菜の花が咲き土筆が生えている昔のままの自然に近い環境の中で、立派な木造の古民家が堂々と建っているのが良い。

桜の木が特に多いというわけではないが、茅葺の古民家の周りに適度に配された桜が咲く時期はなかなか美しい。4月8日に訪れたのだが、この日で5~7分咲き程度だったのでまだしばらくは楽しめるだろう。

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ここが「日本民家集落博物館」の入り口。江戸時代中期に建てられた河内布施の長屋門を移築したものであるが、この建物は元衆議院議員で財務大臣などを務めた塩川正十郎氏の自宅の一部を、寄贈により移築されたとある。ここで入場料500円を支払う。

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入り口近くの桜は7分咲きといったところ。

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右に折れると、江戸時代後期に建てられた堂島の米蔵がある。青い空に白壁と桜がなかなか良く似合う。

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奥に進むと江戸時代中期に建てられた飛騨白川の民家(旧大井家住宅)がある。
関西電力の寄贈とあったが、鳩ケ谷ダム建築時に湖底に沈む大牧部落から昭和31年に移築されたとのことである。かなり大きな民家で、現在国指定重要有形民俗文化財になっている。
むかし白川郷では、長男のみが嫁取りをし、弟妹たちは通い婚で夫婦はそれぞれの生家で住んで別居生活をしていたそうだ。その場合、生まれた子どもは母親の実家で育てられるというしきたりであったので、多いところでは30人から40人の家族が一つ屋根の下に住むこともあったという。この旧大井家住宅も10人から20人の大家族であったらしい

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すぐ近くにあるのは摂津能勢の民家(旧泉龍三宅)。江戸時代初期の建築で国指定重要文化財になっている。
入母屋造りの妻入で内部は縦に二分されて片側を土間、片側を部屋にしている。この種の民家は大阪府北端の能勢地方から、丹波・日本海にかけて分布して、この旧泉家住宅はその民家の中でも最古のものだそうだ。

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この建物は香川県小豆島の農村歌舞伎舞台。安政6年(1859)に建築されたもので、現在大阪府の指定民俗文化財になっている。
小豆島は江戸時代から明治時代にかけて農村歌舞伎が盛んで、島内にはこのような舞台が20棟以上あったという。この舞台の移築が決まってから昭和37年に吉田部落では14年ぶりに公演が行われお別れ公演としたそうだ。
私はまだ見たことがないのだが、小豆島の肥土山地区や中山地区では今も5月と10月に農村歌舞伎(県指定無形民俗文化財)が続けられているようだ。
島の子供たちが春休みを返上して稽古に取り組む姿が今年の産経新聞で報道されている。地域ぐるみで300年にわたる伝統文化を継承していくことは大変な苦労があることだろうが、生まれ育った地域に全国に誇れる文化があるということは素晴らしいことだ。このような伝統文化を守る取り組みにより、世代を超えた住民同士の絆が自然に育まれていく仕組みが残されていることは羨ましくもある。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120331/ent12033120030014-n1.htm
地元の方が作られた熱いサイトもある。公演日がネットなどで公開されていたら、それを目当てに観光客が集まるのではないだろうか。私も一度行ってみたいと思う。
http://www.geocities.jp/oputoyamanaka/takaha/nousonkabuki/

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次に紹介するのは岩手県の南部の曲家(なんぶのまがりや)。江戸時代中期の建築で、盛岡市の南西にある矢巾町(やはぎちょう)という町に建てられていた旧藤原作等氏の住宅を昭和39年に移築したもので、現在は大阪府の指定有形文化財となっている。
母屋とうまやをつなげてL字型の建物になっているので「曲家」となっている。馬を飼うための家として「曲家」が発達し、母屋の土間には囲炉裏があって囲炉裏に火を燃やすと暖気が厩までいきわたるようになっているのだそうだ。
昨年越中五箇山の村上家住宅で、火をくべた囲炉裏をかこんで当主の方から説明を聞いたことをこのブログで書いたが、この時は囲炉裏というものはなかなか良いものだと思った。昔の家は家族が向かい合ってお互いの顔を見て話をするのが当たり前の生活であったのだが、現代の家族は大事なものを失ってはいないだろうか。

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この民家は越前敦賀の南部、湖北地方に近い地域にある杉箸という集落にあった旧山下繁氏の住宅を昭和38年に移築したもの。江戸時代後期の建築で、この民家も大阪府の指定有形文化財となっている。
豪雪地帯であり、雪の重さに耐えられるよう太い梁材が用いられ、外側の柱は土壁にぬりこめられて補強されている。

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この民家は奈良県と和歌山県の県境にある十津川村にあった旧丸田家住宅を昭和37年に移築したもの。文政6年(1823)の建築で、この民家も大阪府の指定有形文化財となっている。
十津川やその周辺は杉の産地として知られ、屋根には杉材を薄く削いで厚さ5mm、30cmのソギ板を作ってそれを少しずつずらして重ねて竹釘で固定するソギ葺きという方法でつくられているのだそうだ。

江戸幕末期にこの丸田家の当主であった丸田藤左衛門(まるたとうざえもん:1805~1869)は尊王攘夷思想に傾倒し、坂本龍馬や大村益次郎、西郷吉之助[隆盛]らの志士達と親交があり、国事を議論した人物とのことである。
明治に入って神仏分離令が出た際には、十津川郷では神を敬い仏法を排した藤左衛門の果断により徹底的に廃仏毀釈が行われ、50以上あった十津川郷の全ての寺院が消えたのだそうだ。
http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/person/pn_022.htm
また、この丸田家住宅のトイレには刀懸けがある。どことなく幕末・維新期の緊迫感が伝わってくる民家である。

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この民家は、長野県と新潟県の県境にある豪雪地帯の秋山郷(あきやまごう)にあった、旧山田家住宅である。建築時期は江戸時代後期で、中世の趣を残した貴重な建物として国の重要文化財に指定されている。
土壁は雪に弱く冬には茅束で作った雪囲いを家の周りにめぐらさなくてはならないのだが、秋山郷では土の壁は贅沢であり、柱にじかに茅束を結いつけた茅壁(かやかべ)といわれる壁の家が昭和30年代まで残っていたのだそうだ。

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中に入ると床板を貼らずに地面にムシロを敷いただけの土座住まいで、隙間風もなく、囲炉裏の熱がじかに地面に伝わって暖かさを保ちやすいのだそうだ。
岩波文庫に『北越雪譜』という本がある。この本の著者である鈴木牧之(すずきぼくし:1770-1842)は秋山郷を訪ねて、このように記している。
「…此住居を見るに、礎もすえず掘立てたる柱に貫をば藤蔓(ふじづる)にて縛りつけ、菅をあみかけて壁とし小き窓あり。戸口は大木の皮の一枚なるをひらめて横木をわたし、藤蔓にてくヽりとめ閾(しきゐ)もなくて扉(とぼそ)とす。茅葺のいかにも矮屋(ひきヽいへ)也。たゞかりそめに作りたる草屋なれど、里地より雪はふかゝらんとおもへば力は強く作りたるなるべし、家内を見れば稿筵(わらむしろ)のちぎれたるをしきならべ納戸も戸棚もなし、たゞ菅縄にてつくりたる棚あるのみ也。囲炉裏は五尺あまり、深さは灰まで二尺もあるべし、薪多き所にて大火を焼くゆゑ也。薬鑵(やかん)土瓶(どびん)雷盆(すりばち)などいづれの家にもなし、秋山の人家すべてこれにおなじ。」(岩波文庫『北越雪譜』p.99)

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最後に紹介する民家は、宮崎県の日向椎葉にあった民家である。江戸時代末期の建築によるもので、国指定の重要文化財だ。椎葉村はかっては秘境の地で、ユニークな平家落人の伝説が伝わっている。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武士たちは追っ手を逃れて、道なき道を進み、この山深い椎葉にたどり着いた。しかしこの隠れ里も源氏に知られてしまい、源氏方の那須大八郎が追討の命を受けたのだが、かつての栄華もよそにひっそりと農耕をして暮らす平家一門の姿を哀れんで追討を断念してこの地にとどまり、平清盛の末裔である鶴富姫と恋に落ちる。鎌倉からは帰還の命が下りて別れが訪れるが、その時に姫は身ごもっていた。「もし生まれる子が男子ならば下野(栃木)へよこせ、女子であればこの地で育てよ。」と言い残して大八郎は椎葉を去る。生まれた子は女の子であったので、婿を取って那須性を名乗り、子孫は代々椎葉を支配したと伝えられているという。(椎葉山由来記)
また、主人公の那須大八郎は、弓の名人で有名な那須与一の弟と伝えられているそうだ。
この伝説の舞台となった鶴富屋敷はいまも椎葉村に残されて、国の重要文化財に指定されている。また椎葉村では毎年11月の第2金曜日から3日間、『椎葉平家祭り』が行われていることがネットでわかる。
http://www.0503ak1025.net/heike.html

この「日本民家集落博物館」はいつ行っても美しく、梅の咲く頃や桜の咲く頃、新緑の時期や秋の紅葉時期もよい。「博物館」であるので昔の生活用具類などの展示もあるが、たまにイベントが行われたりもする。私が訪れた日にはたまたま民話の朗読会が飛騨白川の合掌造りの旧大井住宅で行われていた。こういう空間で民話を聴くことがとても新鮮で、不思議と話の中に引き込まれていった。

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花見は仲間と酒を飲んで楽しむのも良いが、古民家とともに見る桜はなかなか味わい深いものがある。この博物館の外に出ても、服部緑地公園には桜の木が多くて、結構楽しめる場所である。

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世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯

大阪府堺市にある百舌鳥(もず)古墳群には、4世紀後半から5世紀後半に造られた47基の古墳が残されている。

仁徳天皇陵

なかでも「仁徳天皇陵」は墳長486mもあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられていると学生時代に学んだ記憶がある。

仁徳陵説明板

現地にある「仁徳天皇陵」の説明版によると、「仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。」とある。
また「仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記には毛受[もず]耳原陵と書かれています)」とも書かれている。在位が87年というのは長すぎて違和感を覚えるが、説明版には明確に「仁徳天皇陵」と書かれており、工事の時期から葬儀の時期までこんなに具体的に解説されていると、誰しもここが仁徳天皇の陵墓であると確信してしまう。

しかし、自宅にある市販の「もう一度読む山川日本史」には、この古墳について「大仙陵古墳(伝仁徳陵<堺市>)」と書かれていて、続けてこう解説されている。
「…古墳の築造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されている。ここに、仁徳天皇が4世紀前半に没したと解釈できる『古事記』の記述と比べ、約半世紀のずれが生じている。このような学問上の疑義があることから、今日では学術上には所在地の地名をとって『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』などの名称でよばれるようになった。」(p.15-16)
と、仁徳天皇の陵墓であるとはどこにも書かれておらず、今の若い世代はこの古墳を仁徳天皇陵として習っているのではないようだ。

では誰の陵墓なのか気になったので調べてみたのだが、仁徳天皇陵に限らず、埋葬されている人物の名前が良くわかっていない古墳が多いようなのだ。どうして、こんな大きな古墳に埋葬されている天皇が特定できないのだろうか。

その直接的原因は、江戸時代の学者の考証が正確でなかったままに明治時代に受け継がれたこと。さらには天皇陵についての学術的な調査を厳しく制限され、学問的に再検討することが許されないまま今日に至っているということにあるというのだが、今も宮内庁は天皇陵の発掘を許さないために、どの天皇の古墳であるかが特定できる方法がないのだそうだ。

では、逆に、今までこの世界最大級の墳墓を「仁徳天皇陵」と呼んできた根拠は何だったのかということになる。古い書物には何と書かれているのだろうか。

古事記』の記録では、オオササギ(仁徳天皇)は丁卯の年(ひのとう:西暦427年?)8月15日に83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。
日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(西暦399年)1月16日に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にありと記述されている。
また『堺鏡』(1684年(貞享元年))には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていたようだ。

「仁徳天皇陵」にある現地の説明版は『日本書紀』に記されていることを根拠にしていることが分かるが、『日本書紀』の記述内容は『古事記』と比べると、崩御された年も季節も年齢も異なり、陵墓の場所の記載についても異なっている。そもそも『日本書紀』に書かれている「在位87年」をそのまま信じるわけにはいかないだろう。

宮内庁のHPによると大阪府堺市百舌鳥近辺には第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、第18代反正天皇の3陵が案内されている。

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/map/osaka02.html

百舌古墳群

しかし実際の地図で見ると、反正天皇陵は天皇陵にしてはいかにも小さく、それよりもかなり大きな「土師ニサンザイ古墳」や「御陵山古墳」が誰の陵墓であるか特定されないままに残されているのを誰しも疑問に思うだろう。「土師ニサンザイ古墳(下画像)」も「御陵山古墳」も「陵墓参考地」として現在宮内庁の管理となっているが、そのことは宮内庁がどの古墳が誰の陵墓であるのかが分かっていないことを正直に吐露しているようなものだ。
土師ニサンザイ古墳


では履中天皇陵、反正天皇陵について『古事記』『日本書紀』にはどう書かれているのか。

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古事記』には、履中天皇の「御陵は毛受(もず)に在り」と書かれ、反正天皇については、「御陵は毛受野(もずの)に在りと言へり」と書かれている。
日本書紀』には、履中天皇について「百舌鳥耳原陵(もずみのはらみさぎ)に葬った」と書かれ、反正天皇については陵墓についての記載がない。在位期間については履中天皇は6年、反正天皇は4年程度でしかなく、仁徳天皇よりもはるかに短い期間である。

また『延喜式』には陵墓のサイズが書かれていて、仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵」で「兆域東西八町。南北八町」。その北陵が反正天皇陵で「東西三町。南北二町」、南陵が履中天皇陵で「東西五町。南北五町」と記録されているのだそうだ。

『古事記』における「毛受(もず)」と『日本書紀』における「百舌鳥(もず)」が、いずれも現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を意味するとすれば、『記紀』『延喜式』の記述を総合した宮内庁見解も分からないではない。

ではこの宮内庁の見解を否定する説が、何を根拠として出てきたのだろうか。

それは考古学が発達して、出土した円筒埴輪の特徴で古墳の製作年代が概ね把握できるようになったことによるもので、考古学の視点から陵墓の製作年代を調べると、「履中天皇陵」と比定されている「上石津ミサンザイ古墳」が一番古いという事が判明しているそうだ。
履中天皇は仁徳天皇の子供なのだが、子供の古墳の方が親の古墳より古いということはどう考えてもおかしい。
したがって「伝履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)」が真の仁徳天皇陵ではないかという見解もあるのだそうだが、そうすると『延喜式』の陵墓の規模に関する記述と矛盾することになってしまう。

よくよく考えると『古事記』も『日本書紀』も書かれたのは8世紀であり、仁徳天皇の御代からは3世紀も離れていた。この時代から既に、場所の特定ができていなかった可能性が小さくないのだ。『延喜式』になると、完成したのは10世紀にもなるので、ますます記述内容の信憑性が薄れてしまう。この時期の歴史については文献ではわからないために、古墳の発掘調査でもしない限りは特定困難なのだろう。

今でこそ宮内庁管理で陵域内への自由な出入りが禁止されているが、貞享元年(1684)に著された『堺鏡』という本には豊臣秀吉が「仁徳天皇陵」でしばしば猟を行っていたことが記されているそうだ。その後、江戸時代に何度か修復工事などが為されたが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。
また明治5年(1872)の前方部斜面の崩壊による埋葬施設が露出したため、堺県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘がなされたそうだが、どのような調査がなされたか細部についてはよくわからない。

アメリカのボストン美術館にどういうわけか、「仁徳天皇陵」から出土したという獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀の柄頭(つかがしら)の4点が所蔵されているそうだ。環鈴の形状や環頭太刀の柄頭の形状から類推して、これらの出土品は5世紀後半から6世紀初めのものと考えられているようだが、本当にこれらが「仁徳天皇陵」から発掘されたものであることを裏付ける証拠はないらしい。しかしながら、「もう一度読む山川日本史」の記述ではこの陵の円筒埴輪の形式は「5世紀半ばから後半」と推定していたので、これらの出土品がこの古墳から出てきたとしても矛盾するものではないのである。

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昨年の8月に宮内庁書陵部がボストン美術館所蔵の4点について初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)可能性は極めて低い」との見解をまとめたことがニュースで流れたのが次のURLで読むことができる。これを読むと、宮内庁は「大山古墳(大仙陵古墳)」が仁徳天皇陵であるというスタンスを変えたくなさそうである。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html
そもそもこの4点をボストン美術館が買ったのは、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられた岡倉天心(1863-1913)が、明治39年(1906)に京都、奈良へ出張した際に一括購入したらしいのだが、宮内庁の発表が正しければ岡倉天心が騙されたことになる。


では岡倉天心は誰から買ったのか。その肝心なところが秘匿されていて、今ではよくわからない。
しかしながら岡倉天心程の人物が、仁徳天皇陵出土品と確信し、購入先を秘匿してまで購入したのはそれなりの根拠があったはずだと考えてしまう。ネットでは、明治時代の堺県令が「仁徳天皇陵」を盗掘し、発掘品を大阪の骨董具屋に売ったと書かれている記事が見つかるが、真偽は定かではない。

日本史において「謎の四世紀」とよく言われる時代から、中国の史書「宋書」に見える「讃・珍・済・興・武」の「倭の五王」の時代の大王達の墳墓がこの百舌鳥・古市古墳群であろうとされている。
ところが、第16代仁徳天皇は倭王「讃」にあたるとする説もあれば、「珍」とする説もある。次の履中天皇を「讃」にあてる説もあるし、先の応神天皇を「讃」とする説もある。現状のところでは「倭の五王」はほとんど特定できておらず、またある説によれば、応神天皇と仁徳天皇は同一人物とも言う。
『古事記』における「毛受」や『日本書紀』における「百舌鳥」が、現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を指しているのではないとする研究者もいるようだ。誰の説かはよくわからないが、神戸市の舞子にある五色塚古墳を仁徳天皇陵と考える説があるようだ。
http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/a09700ee36365d55fbd307f3f8b18b44

それにしても、こんなに大きな古墳がいくつもあるのに、誰の陵墓なのかがどうして分からないのだろうと誰でも思う。しかし、天皇家に限らず、藤原鎌足にせよ坂上田村麻呂にせよ、多くの歴史上の人物の墓も推定されているに過ぎないのだそうだ。古代人は死んだ人の魂を鎮めるために丁寧に埋葬することはしたが、名前を忘れずに墓を永年にわたり守り続けるという習慣がなかったという説があるが、それが意外と正しいのかもしれない。
しかし、これだけ多くの古墳について宮内庁が発掘を許さないスタンスでは、新たな史実が発見されることは今後ともないだろう。既に過去に於いて何度も盗掘されていたであろう古墳を、いつまでも立ち入り禁止にする理由が私にはよくわからない。個人的な意見ではあるが、宮内庁は被埋葬者を特定することにつながる学術調査に関しては、調査後は現状に復帰することを前提に認めるべきではないかと思う。



一昔前なら、「たかきやにのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはひにけり」(『新古今和歌集』藤原時平の歌)と言えば、仁徳天皇の事だとすぐに分かった。
『古事記』にも『日本書紀』にも、仁徳天皇が食事の支度に忙しいはずの時間に民家の竈から煙が立ち上らないのを見て、三年間課税を止めさせた仁政の故事が記録されている。
『日本書紀』を読むと、仁徳天皇は課税を止めた三年間は「御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 上』p.231)と書かれている。
そして、人々が豊かになってから天皇がこう語ったと記されている。
「天が人君を立てるのは、人民のためである。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだなら自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである。」(同上p.232)

多くの日本人の心の中に、このような政治をおこなうことが「仁政」であるとの考え方がどこかに染みついているように思うのだ。
こんなに景気が悪く、地方が疲弊し若い人が就職活動で困っている時期に、今の内閣は官僚の言いなりになって消費税増税を強引に進めようとしているが、苦しい時に増税をしたり、海外にカネをバラ撒くような政治は日本古来の「仁政」の考え方とは全く異なっている。
『古事記』や『日本書紀』の記述には作り話も多い事だろうが、古代のエリートが、あるべき政治家像をどう考えたかということを知る意味で仁徳天皇の記述部分は興味深いものがある。この仁徳天皇のモデルからあまりにもかけ離れた政治が、長期間にわたって国民の支持が得られるとは到底思えないのだ。

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「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。

張作霖記事

学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。

最近になって、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書*に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルン**の工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだ。
 * GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。
**コミンテルン:共産主義政党の国際組織。第3インターナショナル。

マオ

2005年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に従ったものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

「サルヌインは、1927年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった
1928年6月4日夜(正確には4日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

1990年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879-1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという
トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123)
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

張作霖

張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、1927年4月6日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関に暗殺の指令が出たようなのである。

ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

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先ほど紹介した加藤康男氏が、2007年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
1928年7月3日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。」(同上書 p.149)
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ
「a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
 b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
 c.  ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
 d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。」(同上書 p.151-152)

もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう。」(同上書 p.155)
【イギリス公文書館所蔵 1928年12月15日付外交文書】
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」(同上書p.197)

ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることを加藤康男氏の著書で初めて知ったが、イギリスは張作霖爆殺事件について関与していたわけではないので、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。
また『GRU帝国』の出版はイギリスの公文書公開よりも6年も早く、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの外交文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは注目してよい。

加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。
「ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。
イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない。」(同上書p.153)

この張作霖爆死事件については昔から諸説があったのだが、旧ソ連やイギリスの機密書類の一部が公開されたことにより、コミンテルンが関与した可能性がかなり高まってきているので、教科書の表現が多少なりとも修正されてはいないかという事が気になった。
自宅にある『もう一度読む山川日本史』の該当記述を確認すると、残念ながら昔とほとんど同内容だ。

「この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)のなかには、張にかわって日本の自由になる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。」(『もう一度読む山川日本史』p.290)
と本文に書かれた後、囲み記事で、
「張作霖の爆殺は、関東軍の参謀がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったといわれるが、関東軍首脳の同意を得られず、それは実現しなかった。」(同上p.291)
と、今も明確に、関東軍が実行したこととし、異論があることに一切触れていないのだ。

200px-Koumoto_Daisaku.jpg

では、当時のわが国は、なぜ関東軍が実行したと考えたのだろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言を何ヶ所で残していたようなのだ。

河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和29年12月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が次のURLで読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html

全文を読むのは大変なので肝心な部分だけ抜き出すと、
動機に関しては
「一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。」

img20120425233727531.jpg

爆破に関しては
「来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。」
(『文芸春秋』昭和29年12月号)
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。

この「手記」が文芸春秋に掲載された時点では、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和28年8月25日)していたのだ。この「手記」が河本大佐の口述筆記によるものという平野零児の説明を鵜呑みにすることは危険だと思うのだが、どういうわけか今では河本大佐を実行犯とする説が定説になっている。

当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はコミンテルンと共謀した日本人の一人ではなかったのだろうか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはコミンテルンによる情報工作によるものではなかったか。
そもそも張作霖爆殺事件については関東軍がやったという確実な証拠はなく、ほとんどすべてが噂や伝聞によるものと考えて良い。
関東軍謀略説を主張する論者は、平野零児の書いた「河本大佐の手記」と、東京裁判における田中隆吉の証言を重視しているようだが、平野零児は戦前に治安維持法で何度か捕まった人物だとされる。田中隆吉証言も伝聞に過ぎず、彼はゾルゲや尾崎秀実とも親交があり、コミンテルンにつながる人物であったと言われているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89#cite_ref-0
また、東京裁判で田中隆吉が証言台に立った時には主犯とされていた河本大佐は中国に生存していた。本来ならば、河本本人が証言すべきであったのだが、なぜ連合軍は当事者でない田中を証言台に立たせたのだろうか。

加藤康男氏の著書によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証し関東軍による実行とは考えられないことを論証する報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。この点について書くと話が長くなるので、次回に記すことにしたい。
とにかく関東軍謀略説には謎が多すぎて、私は素直に信じる気になれないのである。
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「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版