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「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。

私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。

2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。

meiji.jpg

以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。

三浦芳聖

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2

田中光顕

重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。

北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。

江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」

田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。

明治天皇肖像画

また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。

睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」

bookk1-2.jpg

明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。

たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。

この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html

以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。

この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。

ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む

以前何度かこのブログで紹介したが、戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残しており、中公文庫の『フロイス日本史』でその日本語訳を読むことができる。

フロイスのこの著書の第1分冊に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一節を引用する。

「この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらのいくつかは、人々が語るように、華麗さ、外面的な費用においてはなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。第六月の十五日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは、都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し、次のようにして行われる。」(中公文庫『フロイス日本史1』p.146)

祇園感神院

今では、京都「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りとして知られているが、「八坂神社」は明治の「廃仏毀釈」により神社にさせられるまでは「神仏習合」のお寺(天台宗)であり、「感神院祇園社(かんしんいんぎおんしゃ)」あるいは「祇園社」と呼んでいた。
歌川広重(1797-1858)の絵で「京都名所之内」より、「祇園社雪中」という絵があるが、この鳥居の扁額には「感神院」と書かれているのが読める。

祇園社

また以前私のブログで紹介したとおり「都名所図会」巻三には多宝塔や薬師堂などの仏教施設の絵が描かれている。ただしこの多宝塔は、「廃仏毀釈」とは関係なく、寛政年間に焼失したようだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

京都ガイドブックのサイトによると「祇園祭」のルーツは9-10世紀に始まった祇園社の御霊会「祇園会(ぎおんえ)」で、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていたそうだ。
http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/gion.html

年中行事絵巻

以前私のブログでも紹介したが、平安時代の「祇園会」の様子が「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第九巻に描かれている。この絵巻物には行列の先頭に鉾を担いでいる人物がいて神輿や牛車が描かれ、山鉾がどこにも見当たらないことに誰でも気づく。[絵をクリックすると拡大されます]

山鉾巡行が始まるのは14世紀の半ば以降のことで、応仁の乱(応仁元年[1467]~文明9年[1477])の前には山鉾の数は58基にもなったそうだが、応仁の乱後しばらく中断され、明応9年(1500)に山鉾38基で復活されたという。ちなみに現在の山鉾数は33基だ。

ガスパル・ヴィレラやフロイスらが日本にいた時代には、祇園祭の山鉾巡行は(太陰暦の)6月7日と14日の年2回行われていたはずなのだが、フロイスはどういうわけか祭りの日を6月15日と書いている。フロイスの記述では「祇園社」から神輿が出ていることから、7日に行われた祭りの日を間違えたものと考えられる。

明治5年の11月に明治政府が暦を太陰暦から太陽暦に変更することを発表し、明治10年以降は山鉾巡行の日程が7月の17日と24日に移されたのだが、昭和41年以降は人手不足から、7月17日の一回に変更されて現在に至っている。

フロイスの記述では「祇園と称せられる偶像を敬う」と書いているが、「感神院祇園社」が祀っていたのは「牛頭天王(ごずてんのう)」で、これはインドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神であり疫病を防除する神と信仰され、「神仏習合」の考え方では薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体だと考えられてきた。
近世の神道家や国学者にとっては、記紀の中でヒーロー的存在であるスサノオと習合している「牛頭天王」は目障りであったらしく、明治政府は「神仏分離」政策を推し進める中で、「牛頭天王」を祭神とするすべての神社について、祭神をスサノオノミコトに代えさせているのだそうだ。

このような経緯で、明治時代の初めに「感神院祇園社」の仏教施設は撤去され、名前は「八坂神社」に改名されて、祭神はスサノオノミコトとされたのである。

フロイスの記録の続きを読んでみよう。

「祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ち出さねばならない出し物が割り当てられる。次いで当日になると、朝方、無数の群衆が、この祭りを見物するために都に殺到して来る。また別の人たちは祭りに参加することを誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く、長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。その一台一台の後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。これらの大きい舞台付の車が通過すると、他の、より小さい車が続く。その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。[日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事にたずさわるのである。]かくて彼らは、これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごすのである。」(同上書p.147-148)

鶏鉾
フロイスが「一同は行列のようにして繰り出す」と書いているのは「山鉾巡行」のことであるが、「山鉾」が「鉾」と「山」に分かれているということは、当時の外国人宣教師には理解できなかったのかもしれない。
油天神山

「鉾」というのは屋根に長大な鉾を戴き、直径2メートル程の車輪が付き、2階にお囃子が乗っているもので、「山」というのは、鉾の代わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておらず、「鉾」よりも一回り小さいものをいう。今年は142年ぶりに「大船鉾」が復活し、巡行する山鉾の総数は33となっている。

祇園囃子

フロイスは「楽器を携え…大声で歌ったり」と書いているが、「祇園囃子」のことを書いているのであろう。実際は鉦(カネ)と笛と太鼓で奏でられている。注意深く聞くと、同じ鉾の囃子には何種類かあり、また鉾によっては囃子の旋律やリズムが異なることがわかるのだが、西洋のような五線紙はなく、この伝統を何百年に亘り継承してきたことは大変な事なのだ。
http://w3.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/niwatoriboko/10.html

また、フロイスは「後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み」と書いている。現在は町内単位の山鉾ばかりだが、昔は職業組合が出す山鉾もあったらしいのだ。
続けて「皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく」とあるが、今では山鉾巡行の行列で武具を携えて歩く人はいない。

また、フロイスが「これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごす」と書いているのは、事実を確認して書いたものとは思えない。重たいものでは12トンもあると言われる山鉾が人を乗せて坂を上ることは考えにくいことだしし、今もそうだが江戸時代の「都名所図会」の記録でも、山鉾のルートは「感神院祇園社」に行くことにはなっていない。

「祇園という偶像」と書いているのは「牛頭天王」の事だと思われるが、そもそもキリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であり、内心では仏像などに対する祈りの行為を認めたくなかったはずだ。

フロイスの文章は続いて山鉾巡行の後に行われる「神幸祭」の記述となる。しばらく引用する。

「午後、彼らは非常に立派に飾られた大きい輿(みこし)を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ、双手を挙げてこの輿を拝む。そしてその時には、たとえ酷暑であっても、輿が通過する間、誰も頭に帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。なぜなら輿に先行している下賤の者がそうした人を見つけるとその頭を棒でなぐりつけるからである。その後方から別の一台の輿が来るが、人が語るところによると、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程離れて一定の位置に、続いて祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過す。そして日本人は自負心が強く、また群集の数がおびただしいので、この行列の際には、ごく些細なくだらぬことから喧嘩や騒動が起り、その際通常は多数の負傷者が出、幾人かの死者も出る。」(同上書p.148)

神幸祭の神輿

「神幸祭」のことは2年前に見に行ってこのブログに書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html
八坂神社から三つの大きな神輿が繰り出すのだが、最初に出発するのは写真の真ん中の「中御座」と言う六角形の神輿で、スサノオノミコトを祀っている。

次いで出発するのは「東御座」という四角形の神輿で、スサノオの妻であるクシナダヒメを祀っている。
最後に出発するのは「西御座」という八角形の神輿で、スサノオの8人の子供であるヤハシラノミコガミを祀っている。
フロイスの記述を評価する前に、廃仏毀釈で主祭神が変わったことを知る必要がある。

明治時代の廃仏毀釈以前の主祭神は以下の3柱であった。
(中の座) 牛頭天王 (ごずてんのう)
(東の座) 八王子 (はちおうじ)
(西の座) 頗梨采女 (はりさいにょ)
頗梨采女は牛頭天王の后神であることからスサノオの后であるクシナダヒメと同一視された。クシナダヒメは方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されていたのだそうだ。

神幸祭2

ここまで調べると、フロイスが「正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴し」と書いているのは全く根拠のない偏見にすぎないことがよくわかる。

宣教師からすれば意味のない「偶像」が中に入った神輿を担ぐことが「滑稽な儀式」に見え、この神輿を見るために大勢の群衆が集まって盛り上がることは「盲目的な愚行」にしか思えなかったという事なのか。
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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。
下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。

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前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第3巻に、安土城が焼失する前年の1581年に、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城の天守閣を訪問した記録がある。
結構興味深いことが書かれているので、今回はこの内容を紹介したい。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)

「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは1パルモは約22cmであるから、石垣の高さが13メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は1485年から1535年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

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今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が多いのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。

フロイスの文章は続く。

「信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの鉄で掩われている。…」(同上書p.113)

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と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。

以前このブログで書いたが、当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の先兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状をみれば読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

宣教師に城の内部を公開することは、今から思えば、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノ(下画像)から要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。

ヴァリニヤーノ

「巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。」(同上書p.115)

信長

読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に1か月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。

「巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
 巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。」(同上書p.117)

この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、1585年3月にローマ法王グレゴリオ13世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。

フロイスはただ日本の木造建築技術を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。

「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。」(同上書p.114)

220seminor2012QA202_04.jpg

フロイスが絶賛したわが国の木造建築技術は承継され、今もなお世界に誇れるものだと思うのだが、釘もボルトも使わずに頑丈な建築物を組み立てる高度な技術が次世代にうまく承継されているのだろうかと思うと心配になってくる。
大学では近代的な建築技術ばかりが教えられ、伝統的日本建築技術の承継は現場の宮大工に委ねられていて先細りしてはいないか。世界に誇れる日本の技術を次の世代に承継できずして、どうやって、各地に存在する素晴らしい木造建築物の価値を減じることなく未来に残すことが出来ようか。
宮大工ばかりではない。木造住宅の新築が減り、従来工法の大工も仕事が激減してきている。伝統芸能や工芸などの承継者は国や地方からの補助が出ているが、宮大工や大工は仕事がなければ生きていけない。
彼等の仕事がこれからも少なくなるようだと後継者を育てることが出来ず、各地に残っている古い街並みや地域の風情を残すことが次第に難しくなっていくのではないか。

これからのわが国は人口が減少していくのだから、高層マンションばかりを建てては空き地と空き家をあちこちに増やして、地域の景観を悪化させるばかりではなく治安の悪化にもつながっていくことになる。
これからは多くの地域で、土地の効率的利用よりも、空き地を減らしていく施策や、土地を広く使う大きな住宅建設を推進することの方が求められていくのではないだろうか。

富田林寺内町

その流れの中で、土地の価格が下がり庭付き一戸建ての家が増えて、伝統的工法が見直される日が来ないものだろうか。各地に今も残る日本らしい街並みや地域の風情を次世代に残していくためには、昔ながらの大工が忙しくなることが必要なのだと思う。
(上画像:富田林市寺内町)

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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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