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謎に包まれた源頼朝の死を考える

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の目次を見ると、建久七年(1196)から建久九年(1198)年の記録がないことがわかる。厳密にいうと建久六年(1195)の十二月二三日から建久十年(1199)の二月五日までの3年以上の長きにわたり、『吾妻鏡』には何も記録がないのである。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma00-00mokuji.html

吾妻鏡』に記録のない年は他にもあるのだが、これだけ長い間にわたり記録がないのは、この期間だけである。
上記URLでは「欠落」という言葉を用いているが、『吾妻鏡』の第十五巻は建久六年で終わっており、第十六巻は建久十年から始まっており、編集段階からこの期間に記録が残されていないことになる。
この間に鎌倉幕府にとって特筆すべき事項が何もないのであれば問題はないが、実際にはこの期間に鎌倉幕府にとってかなり重要なことが起こっているはずなのである。

源頼朝

その重要なことというのは、この間に鎌倉幕府を開いた源頼朝の死につながる何らかの出来事なのだが、そのことが鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にほとんど記述されていないことは極めて不自然であると思うのだ。
今回は源頼朝の死をテーマに書くことにしたい。

源頼朝は建久十年(1199)の一月一三日に頼朝が病死したとされているが、その根拠となる史料はいくつか残されている。
まず、建久九年(1198)の十二月二七日に関して、このような記録が残されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119800.html

承久記

【承久記】(作者不明。承久三年(1221)の承久の乱を記した合戦記)
「相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。」

【保暦間記】(作者不明。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を記した歴史書)
「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義  廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」

【神皇正統録】 (作者不明。後鳥羽天皇に至る間の諸事件を神国思想に基づき編年記 風に略記した史書。)
「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する  所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」

「歴史書」と呼ばれる史料に書かれていることが必ずしも史実であるとは限らない。
『保暦間記』には、頼朝が滅ぼした義経や安徳天皇の亡霊までが登場しているが、これは作り話としか思えない。
しかし、3つの史料で建久九年の12月27日の記録に共通している次の2点については概ね真実と考えて良いのだと思う。
・御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席した。
・その後ひどく体調を崩した。

また、頼朝が翌年の一月一三日に亡くなったことについては、『北條九代記』『承久記』『愚管抄』『明月記』に記録されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119901.html

吾妻鏡

『吾妻鏡』にも頼朝の死について書かれているが、頼朝が死んで13年もたった後の延暦二年二月二八日に、申し訳なさそうにこう記しているだけだ。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma20-02.htm
「相摸國 相摸河橋 數ケ間朽損す。…去る建久九年、重成法師之を新造す。供養を遂げる之日、之と結縁の爲、故將軍家渡御す。還路に及び御落馬有りて、幾程を經不(いくほどをへず)薨り給ひ畢(こうむりたまいおわんぬ)。」
と、内容は『神皇正統録』と同様に、落馬されてそれからほどなく亡くなった旨のことを簡単に書いている。

頼朝の死因についてはこの『吾妻鏡』や『神皇正統録』を論拠として、落馬が原因とする説が多いようだが、私には落馬による怪我が原因で死亡するというのは、勇猛な武将の死に方としてはどうもピンとこない。わが国の在来種の馬は決して大きくないし、落馬が原因で死ぬとは考えにくい。落馬はしたかも知れないが、落馬が直接の死因ではなかったのではないか。

往路は問題なく馬に乗って相模川まで来たにもかかわらず、帰りは馬にも乗れない状況に陥ってしまった…。もしかすると、相模川の橋の落成式に参加した頼朝に、毒でも盛られたのか、余程体調が悪かったなかで病状が急変した、と考える方がより説得力がありそうだ。

稲毛重成

ところで、橋の落成式で名前の出ている「稲毛重成」はどんな人物なのだろう。

Wikipediaによると、
「桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。武蔵国稲毛荘を領した。父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。」

「治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、 隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し御家人となる。その後頼朝の正室政子の妹を妻に迎え」と書かれている。もともとは頼朝と敵対する平家の武将であったが、治承4年10月には頼朝側につき、頼朝の妻である北条政子の妹を妻とした、ということは、稲毛重成にとって源頼朝は義兄であり、初代執権北条時政は義父ということになる。このような関係であれば、北条時政も娘の供養のために出席していたであろうし、時政がその気になれば、頼朝に毒を盛ることくらいは容易なことではなかったか。

実際に頼朝亡きあとに鎌倉幕府の実権を握ったのは、言うまでもなく北条氏である。
また頼朝が死ぬ前後に、頼朝に近い人物の多くが相次いで死んでいる。時系列で書くとこのようになる。
建久八年(1197)七月十四日 頼朝の長女・大姫死亡(20歳)
建久十年(1199)一月十三日 頼朝死亡 
正治元年(1199)六月三十日 頼朝の次女・三幡(さんまん:14歳)死亡
正治二年(1200)一月二十日 鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時一族滅亡
建仁三年(1203)九月二日  鎌倉幕府の有力御家人・比企能員一族滅亡
元久元年(1204)七月十八日 頼朝の嫡男で第二代将軍であった源頼家暗殺される(23歳)
元久二年(1205)六月二二日 鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠一族滅亡
元久二年(1205)六月二三日 鎌倉幕府の有力御家人・稲毛重成殺害される。
建暦三年(1213)五月三日 鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛一族滅亡
建保七年(1219)一月二七日 頼朝の次男で第三代将軍であった源実朝が暗殺される。実朝を暗殺した源頼家の子・公暁は、同日北条氏により暗殺される。

これだけ多くの人物が、短期間に死ぬことはどう考えても異常な事であり、これらの事件の多くは北条氏が絡んでいるようなのだ。

このようなことになった背景を調べると、頼朝が朝廷の関係をどうしようとしていたかという問題にたどり着く。

つまるところ、頼朝は平清盛と同じことをやろうとした。
頼朝は朝廷に近づき、朝廷への影響力を得るために、長女の大姫を入内させ、外戚としての地位を得ようとした。そのために多くの富を費やしたのだが、そのことが朝廷内に反幕府派の台頭を招き、多くの御家人の支持を失う結果となったと言われている。

九条兼実

頼朝は長く続いた院政に批判的な関白・九条兼実(くじょうかねざね:上画像)の協力を得て建久三年(1192)に征夷大将軍の地位を得るのだが、その頃の朝廷は九条兼実らの親幕派と、土御門通親(つちみかどみちちか)らの院政を支持する反幕派とに分かれていた。
  ところが、後鳥羽上皇の中宮に入っていた土御門通親の娘が男子を生んで、皇子の祖父となると力を持ち始めて、親幕派の九条兼実が建久7年(1196年)11月に関白の地位を追われて失脚してしまう。(「建久七年の政変」)

また、入内させようと準備していた頼朝の長女・大姫が、建久八年七月に病死してしまう。
愚管抄』の七月一四日の記録はこう書かれている。
「京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と  云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。
能保(よしやす)が子高能(たかやす)と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。」
頼朝は大姫の入内を、反幕府派の土御門通親から仕掛けられていたらしいのだが、『愚管抄』によると、大姫は京から送られてきた修験者に祈り殺されたと書かれている。
能保とその子高能というのは、頼朝と朝廷内の親幕派をつなぐ役割をしていた一条能保とその子の高能だが、この二人も建久八年十月に能保が、建久九年九月に高能が、相次いで亡くなっている。

土御門通親

実は建久九年(1198)の正月に重要な出来事が起こっている。
後鳥羽天皇は土御門通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、土御門通親(上画像)は天皇の外戚としてさらに権勢を強めたのだ。

頼朝はさらに次女・三幡姫の入内を企て、女御の宣旨を受けたのだが、既述したようにその年の十二月二七日に、相模川の橋供養帰路で倒れてしまう。

頼朝は翌建久十年(1199)一月十三日に亡くなり、頼朝が入内させた次女の三幡姫は、三月五日に発病し、六月十二日には目の上が腫れるようになり、六月三十日に亡くなっているという。おそらく毒を盛られていたのだろう。

頼朝についてはもともと病気であったという説もあるが、こういう経緯を知れば知るほど、頼朝も頼朝につながる人々も、ほとんど全員が殺されたのではないかとも思えてくる。ほとんどクーデターとよぶべきことがこの時期に起こったと考えた方がずっとスッキリするのだが、このようなことがらについてはどこにも公式な記録が残らないので歴史には叙述されることがない。

暗殺をはかった勢力は、武士の国を作るために頑張って来たにもかかわらず頼朝が朝廷に近づこうとするのを快く思わなかった反頼朝の御家人グループ(北条時政ら)か、頼朝が外戚としての地位を得ることを許さなかった朝廷の反幕府グループ(土御門通親ら)のいずれかか、その双方であろう。

このブログで何度か書いているのだが、つまるところ「正史」というものは、時の権力者にとって都合の良いように書きかえられた綺麗ごとの歴史にすぎない。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の空白の3年間は、源頼朝にとっての綺麗ごとの歴史が、北条家にとっての綺麗ごとの歴史にとってかわるときに、北条家に近い人物が北条家にとって都合の悪い部分を抜き取ったと考えるべきではないか。
だとすれば、鎌倉時代の第一級史料と呼ばれる『吾妻鏡』を読んで、表面的な事実は知り得ても、その背景にある歴史の真実は一部しか見えて来ないことになる。
この時代で、頼朝が悪役にされ、義経が英雄に祭り上げられることが多いのは、北条家にとって都合の良い公式史料が残され、それに基づいて多くの物語が作られたことと無関係ではないのだろう。

いつの時代でもどこの国でも、権力闘争は醜くドロドロとしたものであるのが当たり前だと思うのだが、ドロドロした醜い部分は公式的な史料にはほとんど残らないものである。
歴史の真実は、同じ時代に立場の違う人々が何を書いているかを読み比べることによってようやく垣間見えてくるものであり、「正史」だけではほとんど見えて来ないものではないだろうか。
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占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった

昭和20年(1945)8月6日、米国は人類史上初の原子爆弾広島に投下し、20万人以上の罪のない市民が虐殺された。

原爆ドーム

8月8日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始した。
翌8月9日には米国は長崎に2発目の原爆を投下し、ここでも7万人以上の命が奪われ、この日に御前会議が開かれて、昭和天皇の聖断によって戦争終結が決まり、8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇による「終戦の詔書」が発表されて、戦闘行為を停止させた。

学生時代、太平洋戦争の終戦前後の歴史を学んだ時に、我が国に原爆が投下されたことは、早く戦争を終結させるためにやむを得なかったと説明されたのだが、釈然としなかった記憶がある。

原爆死没者慰霊碑

また、広島市の平和記念公園にある「原爆死没者慰霊碑」には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれているのだが、この言葉にも強い違和感を禁じ得なかった。
その違和感は、「原爆を落とした側に罪はないのか」という漠とした思いから生じたものだったのだが、最近になって原爆を道徳的に批判することが、占領期におけるGHQ検閲により排除されていたことを知った。

このブログで何度か紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、そもそも占領軍の検閲は、原爆投下を批判した新聞社を処分することからはじまっているという。

「占領軍の検閲第一号となつたのは、広島長崎のかうした悲劇に対する、日本人の抗議の声であつた。九月十四日、同盟通信社は二日間の業務停止処分を命じられたが、その理由の一つになつたのが、『この爆弾は…野蛮人でなければとても使えなかった兵器である』といふ報道だつた。続いて九月十八日、朝日新聞も二日間の発行停止を命じられたが、その理由となつたのも鳩山一郎の次のやうな談話であつた。
『「正義は力なり」を標榜する米國である以上、原子爆弾の使用や無辜(むこ)の國民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の國際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。(九月十五日付『朝日新聞』)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.409-410)

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このような、原爆投下を批判する論調は我が国だけでなされたのではなかった。当事者である米国でも時を同じくして現れ始めた。勝岡氏の著書p.410-411から、いくつか引用してみる。

「アメリカ合衆国は本日、野蛮、悪名、残虐の新しい主役となった。バターンの死の行進、ブーヘンバルトやダッハウの強制収容所…はどれも、われわれアメリカ合衆国の国民が原子爆弾を投下して世界中を陥れた恐怖に比較すれば、ティー・パーティのようにささやかなものに過ぎない」(原爆投下当日『タイム』誌に寄せられた投書)

「我々はこの罪を認めなければならない。10万人以上の老若男女に向けて恐ろしい武器を使い、あたかも致死量を超えたガス室に送り込むかのように窒息させ焼き尽くしたのだから。」(1945年11月23日付『ユナイテッド・ステーツ・ニュース』誌社説)

広島長崎への原爆投下は倫理的に弁護の余地はない…我々は神の法においても、そして日本国民に対しても取り返しのつかない罪を犯した。」(1946年3月6日付キリスト教会連邦協議会報告書)

このようなアメリカ国内の自責と贖罪の声は占領軍の検閲により遮断され、日本人の耳に届くことはなかったようだが、日本国内においても、わが国民が原爆を批判することは厳しく検閲されたようなのである。

ICU.png

三鷹にある国際基督教大学(ICU)はアメリカのキリスト教徒が、我が国に原爆を落としたことの「反省と懺悔の念の現われ」として戦後設立されたのだそうだが、その設立の経緯すら日本国民には知らされなかった。このICUの初代学長に就任した湯浅八郎氏の講演の下線部分は、占領軍により削除されてしまった。
「私は、アメリカにおりました時、幾多の人々から、アメリカが日本の廣島、長崎に對して原子爆弾を投下したことについての、自責と謙虚から出た誠實のこもる告白を聞いたのであります、あるいは…アメリカのキリスト教會では、今度の戰爭に對する責任から、たゞ一つ日本に捧げようとする特別なる贈りものとして、キリスト教綜合大學の設立が話題にのぼっておりますのも、これはアメリカのキリスト教徒の良心的な反省と懺悔の念の現われであるのであります。」(『 同盟講演時報』第19・720号)

勝岡氏は続けて、アメリカがどういう方法をとってアメリカが非道な行為を行った事実を日本人に忘れさせたかを書いている。これは重要な指摘である。

「…次には占領軍は、南京やマニラで日本人の『虐殺』行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺せんとする挙に出たのである。
その典型的な事例が、有名な永井隆の『長崎の鐘』である。この書物は、カトリック教徒でもあった医師の永井が、長崎における自らの被爆体験を綴ったものであるが、長崎の原爆とは何の関係もない『マニラの悲劇』といふ百三十頁にも及ぶ連合軍総司令官諜報課提供の『特別付録』との抱き合わせで出版することを余儀なくされた。
占領軍の手になつた同付録序文はかう述べてゐる。
『…マニラ市民に加えられたこのような残虐非道な行為は、…野蛮人にもまさる蛮行だといえよう。(中略)或る一人の男が突然暴れだして、路上に行き會う誰彼を見境なしに殺して廻ったとしたら、警官は彼を摑 (つかま) えなくてはならない。これが、日本がアメリカと全世界に課した宿題であり、この無差別な殺傷行為を止め、戰爭を終結させるために、アメリカと全世界とが原子爆弾を使用せざるを得なかった所以(ゆえん)である。(中略) 日本が一九三七年盧溝橋において、また一九四一年真珠湾の謀略的奇襲において開始した戦いは、ついに日本自身にかえって、廣島、長崎両市の完全破壊をもつて終わったのである』」(『抹殺された大東亜戦争』p.411-412)

長崎の鐘

永井隆の『長崎の鐘』は当時のベストセラーになった書物で、今では「青空文庫」で誰でも読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/50659_42787.html

この作品の中でアメリカを倫理的に批判するような文章はどこにもなく、長崎医科大での被爆体験、救護活動や長崎市内の被害状況などが科学者の目で淡々と書き綴られ、最後にキリスト教徒である永井は「ねがわくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」と世界の平和を祈るのだが、この作品に連合軍の諜報課がよけいな『特別付録』をつけた意図は明らかであろう。

この『特別付録』で書かれている「マニラ大虐殺事件」とは、1944年に日本軍がマニラで米軍と戦った際に山下奉文将軍はマニラを非武装地域としルソン島北部に撤退しようとしたが、海軍はマニラ死守を主張しマニラに立てこもり、その為マニラは市民を巻き添えとした戦場なって、市街戦で死んだ現地人が10万人いたと非難された事件である。この際に日本軍は玉砕しているので事実の確認の仕様がないが、日本人が虐殺したとする証言は日本人の殺し方とは考えられない方法で殺しており、またアメリカ軍も共産ゲリラと戦った際に多数のゲリラを殺戮したことは間違いがなく、アメリカが日本軍に罪を擦り付けた可能性もあり真相は闇の中だ。今はほとんど話題にあがらないことからしても、真実性はかなり薄いと思われる。

この付録に限らず、その後何度も繰り返しマスコミなどで日本軍の「悪行」があったことが伝えられ、教科書にも載せられて、一部の事件は日本人の常識となってしまっている。
占領軍が日本人に押し付けようとした歴史は、戦勝国が正しく日本人が一方的に悪いという類のものだが、実際はそんな単純なものでなかったことはこのブログで何度か書いてきたのでここでは繰り返さない。

日本人による「虐殺」行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺するとの考えについては、占領軍にこんな発言が残されている。占領軍の検閲を担当していたPPB(出版・演芸・放送)課長のスポールディングは、1949年2月10日付でこのように述べたという。
「ナガサキ・ヒロシマはマニラや南京で行った日本人の残虐行為と、たとえそれ以上でないにせよ、ちょうど同じくらい悪く、彼らの罪と相殺されるものである」(モニカ・ブラウ『検閲1945-1949―禁じられた原爆報道』)
この発言は、日本に『自虐史観』を拡げることがアメリカの国益にかなう事であると言っているのと同じようなものなのだが、これが彼らの本音なのであろう。 彼らのとんでもない罪を薄めるために日本はもっと悪かったという歴史を広めようとし、今は中国や韓国を使ってわが国にさらに圧力をかけて、『自虐史観』を日本国民に定着させようとしているのではないのか。

占領軍による検閲は、昭和20年9月からはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、たとえ真実であっても、徹底的に排除された。次のURLに新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかったのだ。
http://www.tanken.com/kenetu.html

占領軍による検閲は昭和24年10月に終わっていることになっているのだが、いまだにテレビや新聞では「プレスコード」が生きているかのようで、原爆を批判するような主張をテレビや新聞で遭遇することはほとんどないと言って良いくらいだ。
そのことは日本だけの問題ではなく、原爆を落とした国であるアメリカにおいても、自由な言論が許されている訳ではないようだ。

スミソニアン国立宇宙博物館

1995年にスミソニアン国立宇宙博物館が終戦50周年を記念して広島に原爆を展示した「エノラ・ゲイ展」を計画したが、博物館が用意した展示台本や写真などが、政治的圧力によって展示を禁止されてしまった。

勝岡氏の前掲書に、オリジナルの展示台本『葬られた原爆展』を出版にこぎつけたフィリップ・ノビーレ氏が、その顛末を暴露した文章が引用されている。
「米国国立スミソニアン協会は、検閲行為に加担している。(中略)協会の基金引き上げをにおわせる威嚇が再三にわたって米国議会からあったため、スミソニアン協会会長I・マイケル・ヘイマンは…厄介な展示台本の発行を停止し、悲惨な映像と被爆品を展示から撤去するよう命令した。(中略)ビル・クリントン大統領は、4月に行われた記者会見の席上、トルーマンの原爆投下決定を是認する表明を行った。(中略)米国政府からの批判にさらされて3ヵ月、5月にハーウィット館長は辞任した。」(『抹殺された大東亜戦争』p.414-415)

その展示台本にはこのような日本人の手記もあったのだが、これらの文章は今我々が読んでも結構ショッキングな内容だ。しかし、世界で歴史上唯一原爆の被害を体験したわが国は、決してこのような真実を風化させてはならないのだと思う。

「私は道路で馬車を引いている人の死骸を見ましたが、その人は依然として立っていて、髪は針金のように逆立っていました。 (長崎・黒川ひで)

たくさんの生徒の目玉が飛び出ていた。彼女たちの口は爆風で引き裂かれたままで、顔は焼け爛れ、…来ているものは体から焼け落ち、…その光景はまさに地獄だった。(広島第一高女校長・宮川造六)

人々の皮膚はくろこげであった。髪も焼かれてなくなり、前から見ているのか後ろから見ているのかも分からない状態だった。腕を前に出して垂らし、皮膚は、腕だけでなく顔からも体からも垂れ下がっていた。…まるで歩く幽霊のようだった。(広島・八百屋店主)」

戦後50年もたった時点のアメリカにおいてすら、広島や長崎の真実を伝えようとすると、とんでもない圧力がかかってきて、展示が出来なかったという真実は忘れるべきではないが、わが国における言論弾圧はもっとひどかったと言わざるを得ない。占領期の検閲や焚書で、原爆問題ばかりではなく戦勝国批判につながる史実や論調の多くが封印され、占領期が終了してからも内外の圧力を出版社やマスコミなどにかける手法で、実質的に「プレスコード」が維持され、今もマスコミから戦勝国の犯罪行為を追及する姿勢は皆無に近い。

マスコミや出版社からすれば、内外の圧力のために番組をカットさせられたり、出版停止を余儀なくされるリスクを小さくしたいと考えることは経営として当然のことである。
だから、占領期の「プレスコード」に抵触する史実や思想は、マスコミ・出版社の「自主規制」により、戦後の長きにわたり排除されてきたのだろう。

そのために戦争の真実が風化してしまって、わが国には戦勝国にとって都合の良い歴史ばかりが広まり、原爆に関しては「戦争を終結させるためにやむを得なかった」という話しか聞こえてこなくなってしまった事は誠に残念なことである。この考え方では、原爆などの大量破壊兵器が廃絶されることはありえないのだ。

一瞬にして数十万人の無辜の民の生命を奪う兵器の使用は国際法違反であり、こんな兵器を使って自国の国益を追求しようとする国は「野蛮な国である」と、声を大にして叫び続けるべきではないのか。そのことを世界に発信し続けてこそ、国益実現のために原爆などの大量殺戮兵器を使うことを全世界で禁止することにつながっていくのだと思うし、そうすることが、世界で唯一原爆の被害者となったわが国の使命であると思うのだ。
日本人にとっては原子爆弾の記憶はつらい思い出を伴うものだが、過去の犠牲者の為にも、また未来の子孫のためにも、決して風化させることがあってはならない。
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昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと

昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。

終戦の詔書

この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。

日本人の多くがそのことを知らないのは当然のことである。このことはGHQの検閲の為に、またその後のマスコミ・出版社の自己検閲の為に、その事実を日本人広く伝えられることがほとんどなかったからだ。

前回の記事で少しだけ触れたが、8月8日にソ連日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始している。

このブログで何度か引用している勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』の解説をしばらく引用する。
ソ連軍は、総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが、兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。(中山隆志『ソ連軍侵攻と日本軍』)。その上“弱り目に祟り目”ではないが、不意を突かれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与えることになった。」(『抹殺された大東亜戦争』p.416-417)

関東軍の兵器が少なかったのは、日本とソ連との間には『日ソ中立条約』が締結されており、ソ連軍がこんな時期に条約を破棄して攻めてくることを、政府・日本軍が想定していなかったからだ。
よく「ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に破棄して攻め込んできた」という話を聞くのだが、Wikipediaの記述を読むと当時のわが国の政府や軍関係者がソ連の対日参戦の意志を読み取れなかった情報力不足にもかなり問題がありそうだ。

スターリン

1944年(昭和19年)にスターリンは革命記念日の演説で日本を「侵略国」と非難する演説を行っている。
また1945年2月のヤルタ会談の秘密協定でスターリンはルーズベルト、チャーチルに対してドイツ降伏後3か月以内に参戦することを密約している。
そして、昭和20年4月6日にソ連は、「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組んで、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」ことを理由に『日ソ中立条約』を延長しないことをわが国に通告し、その後5月8日にドイツが無条件降伏し、ソ連軍は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に軍事力を集積させていたのだ。

このような状況であればわが国は、ソ連軍の日本侵略を警戒しなければならなかったと思うのだが、『日ソ中立条約』の期限である昭和21年4月25日にはまだ十分に日数があり、ヤルタの秘密協定の内容についての情報も入っていなかったことから、ソ連の対日宣戦の意志を読み取ることができなかったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A

こともあろうにわが国は、このソ連に対して6月に連合国への和平工作の仲介を依頼し、終戦の模索を始めているのだが、この時点でソ連は対日勝利を確信したはずだ。わが国は、侵略しようとする国に対して、今が準備するタイミングであることを伝えたのと同じである。日本外交の間抜けさは今も昔も変わらない。

そしてソ連軍は8月8日に日ソ中立条約を破棄し、わが国への侵略を開始する。
再び勝岡寛次氏の著書を引用させていただく。

「8月14日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行いたらざるなしといふ有様であつた。火事場泥棒よろしく手当たり次第に略奪し、女性とみては手当たり次第に強姦を続けるソ連軍によつて、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥つた。そのやうな地獄の日々を綴つた手記は枚挙に暇(いとま)がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分には伝はつてゐないのを遺憾とする。」(『抹殺された大東亜戦争』p.417)

勝岡氏の解説に驚かれた方も多いと思うのだが、これは史実である。同氏は、GHQの検閲により削除された事例を、前掲書のp.417-418で、いくつか紹介しておられる。削除理由はどちらも「ロシア」批判だそうだ。前回の記事でも書いたが、占領軍はたとえ事実であっても戦勝国に対する批判につながる記述を許さなかったのだ。

「突然、ソ聯軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝき込まれた。
目ぼしい家に押し入つては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、なかには着ている着物さえもはぎとつてゆく者が現われてきたからである。しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾の下にもとにやられるばかりである。しかし、それ迄はまだよかつた。最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落として、男装をしなければならない、實に悲惨な状態におちいつてきたのである。(中略)
突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさつと血の氣がひいていつた。(中略)私はもう、何がなんだかわからなかつた。唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる眞赤な血潮をぬぐおうともせず…狂氣の如くよびまわつている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残つているばかりである。」(柳内孝子「私は犬です」『かたはま』第6号昭和23年3月)

「この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始つた。婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に傳はる、…。一方時計一個を拒否したゝめに拳銃彈數發を受け紅(くれない)に染つて絶命した有志、…娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…大泊(おおどまり)においてのみでも數十名の犠牲者を出すに至り戰々兢々(せんせんきょうきょう)たる數日を經た。」(榎島伸二「樺太を回顧する」『新世紀』第1巻第1号、昭和23年1月)

この様な体験者が残した記録について、マスコミや出版社がほとんど採りあげてこなかったために、多くの日本人がソ連軍の戦争犯罪の犠牲者になったことを知る人は少ないだろう。私の世代は、子供の頃に大人から少しばかり聞く機会があったが、大人が子供に伝えることを憚ることも少なくなかったのだろう。私が、この時のソ連軍の実態がこんなにひどかったことを知ったのはつい数年前のことだ。

ソ連対日参戦による日本軍の戦死者や行方不明者は良くわかっていないが、戦死者だけで8万人以上と言われている。また、シベリア抑留の犠牲者についてはWikipediaにこう説明されている。
「終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

ようやくソ連崩壊後に、ソ連占領地区から引き揚げてきた人々の筆舌に尽くせぬ悲惨な経験をされたことを記した書物がいくつか出版された。次のURLでその一部を読むことができるが、日本人なら、少し読むだけで怒りが込み上げてくるだろう。なぜこのような史実が、長い期間にわたって伏せられてきたのか。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

満州ではソ連軍は日本人を暴行し虐殺しただけではなく、中国住民に対しても暴行を働いたようだ。上記URLに中国人の徐焔氏が著した『一九四五年 満州進軍―日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)という本が紹介されている。その本にはこう書かれている。

1945年満州進軍

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

この徐焔氏の文章の中で著者がソ連のことを「同盟国」と呼んでいることについて補足すると、ソ連は8月8日に日ソ中立条約を破棄した後に、8月14日に「ソ華友好同盟条約」を結んでいる。満州の出来事はその直後のことである。

ソ連軍はヨーロッパでも同様に、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどで暴行・虐殺のかぎりを尽くした報告が残されていることがWikipediaに書かれているが、ソ連という国はどこの国に対しても野蛮な行為を行っていたことを知るべきである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA

話をソ連軍の対日宣戦に戻そう。
ソ連は8月8日の対日宣戦布告の翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻し、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。

北方領土略図

南樺太では、8月11日に日ソ国境を侵犯し、ソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。
南千島についてはソ連の樺太占領軍の一部が8月26日に樺太・大泊港を出航し、28日には択捉島に上陸。9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領している。

占守島

北千島については、8月18日にソ連軍が千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸。日本軍と激戦となり日本軍が優勢であったが、日本政府の意向を受け同日16時に戦闘行動の停止命令が出て21日に停戦となり、23-24日に武装解除がなされた。それ以降ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫(ウルップ)島を占領している。

北方領土

ソ連との戦いに関しては、わが国がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇の「終戦の詔書」が出ていることを完全に無視して日本の領土を掠奪し、今も北方領土(国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島、南樺太)を不法占拠しているままだ。
それだけではない。ソ連は武装解除した日本軍将兵約60万人をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、多くの日本人を死に至らしめた。
この悲劇はアメリカの原爆投下とともに、日本人が絶対に風化させてはならない史実だと思うのだが、いずれも占領軍の検閲により徹底的に排除され、占領軍の検閲が終わっても外国と国内の反日勢力の圧力で、たとえ史実であっても戦勝国の批判が書けない時代が長く続いてきた。

以前このブログで『氷雪の門』という映画のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

氷雪の門

昭和20年(1945)8月20日に樺太の真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ艦砲射撃を開始し、上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺していった。この映画は、ソ連兵の機銃掃射が続く中で、ソ連兵が近づく直前まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

昭和49年にこの映画が完成し公開直前になってソ連から「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」との圧力がかかり、公開中止に追い込まれてしまった。

この時代はまだソ連という社会主義国が存在していたのだが、終戦後29年という歳月が経過しても、わが国はソ連の圧力に屈したことを忘れてはならないと思う。この時に、圧力に抗して上映していたら、北方領土問題は、今よりも少しは良い方向に動いていたのではないだろうか。

img20120815192623701.jpg

前回はアメリカのことを書いたが、アメリカは都市空襲と原爆投下、ソ連は我が国のポツダム宣言受諾後の日本侵略とシベリア抑留と、どちらも世界史上特筆すべき戦争犯罪に手を染めた国なのである。そのことが追及されないために、わが国に対して検閲や焚書という手段でその史実を封印し、戦勝国に都合の良い歴史を強引にわが国民に押し付けたのだろう。
彼らにとっては我が国に押し付けた「自虐史観」の洗脳が解けてしまっては、今度は自国に「犯罪国家」のレッテルが貼られることになりかねないのだ。だから、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけて、中国や韓国にも参戦させて、わが国に「自虐史観」の歴史認識を問い続けているのではないだろうか。

世界の多くの国は「国益」追及の為なら嘘もつくし、下手に謝罪をすればわが国に罪を押し付けて金まで要求してくる国がいくつも存在する。相手国の圧力が大きいと安易に謝罪する政治家が多いのは、「自虐史観」が本気で正しいと信じているからか、裏取引があるか、強いものには媚びを売って一時凌ぎをする事しか考えていないかのいずれかだろう。
政治家が歴史を知らないのは、戦後の歴史教育もマスコミも出版物も、戦勝国にとって都合の良い歴史しか伝えてこなかったのである程度は仕方がないのだが、戦勝国は良い国で日本だけが悪い国という歴史しか知らないで、どうしてわが国が、大国と対等に渡り合えることができようかと思う。
相手から抗議されて謝罪することは、相手の言い分を対外的に認めることと同じだから、このまま政治家が安易な謝罪を続ければ、わが国は中長期的に、国益や領土を侵害され続けることになるだろう。

その流れを止めるのは、やはり歴史の真実を知り相手国の嘘をきちんと見破り反論することしかないのだと思う。真実を知れば、相手が主張する歴史の嘘が通用しなくなる。
そして、国民もマスコミの嘘や露骨な世論誘導を見破る力が必要だ。どんな実力ある政治家も、マスコミを敵に回してはいい仕事ができず、世論の後押しが不可欠だからだ。
戦後の占領国による検閲と焚書により、戦勝国にとって都合の悪い真実のほとんどが埋もれてしまったのだが、その歴史を少しずつ取り戻し、それを広めていくことが重要なのだと思う。
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