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幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。

Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の『ええじゃないか』等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚してしまう。(坂下門外の変)
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭4か国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという。

おかげまいり

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に30か国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われているのだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/eejya.html

このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どういう勢力が、何のためにこのような事を仕掛けたのだろうか。

『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。

「例えば『今年は世直りええじゃないか』(淡路)、『日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい』(阿波)といった世直しの訴えのほか、『御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか』(淡路)という性の解放、『長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか』(西宮)、『長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか』(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。」
とある。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。

この『ええじゃないか』が広まって言った背景については、Wikipediaはこうまとめている。「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説や、江戸のバブル期後の抑圧された世相の打ち壊しを避けるために幕府が仕掛けた『ガス抜き』であったという説もある。本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。」

どの説が正しいのか少し気になって、当時の記録で『ええじゃないか』を書いた記録が他にないかネットで探してみた。
あまり検索では引っかからなかったのだが、土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、『ええじゃないか』のことを書いた文章が見つかった。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/ishinnfuuunnkakoroku.txt

維新風雲回顧録

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。上記URLでも読めるが、ミスタイプもあるようなので、河出文庫の『維新風雲回顧録』を引用する。

「この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。

『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、何がふり候やら知れ申さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』

 これは、お札踊(ふだおどり)の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
 天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
 京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。」(河出文庫:p.313-314)

さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

ええじゃないか2

「具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
『ええじゃないかええじゃないか』とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
『また、やってるな』
『大変な人出じゃないか』
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。」(河出文庫p.330-331)

鷲尾卿というのは幕末維新期の公家の鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)で、高木俊輔氏『国史大辞典』の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
「慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-washinooke.htm

幕末期は討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然である。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにも場所を移動するにも、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは間違いがないだろう。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。

しかしながら、『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたという推論にはかなり無理がある。誰かが、それを仕掛けたという証拠が必要なのだが、あまり証拠らしきものがネットでは見当たらなかった。

そんな事を考えながら、本屋で並木伸一郎氏の『眠れないほど面白い 日本史「意外な話」』(王様文庫)を読んでいると、幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎や、佐賀藩士であり明治期に内閣総理大臣にもなった大隈重信が、この『ええじゃないか』騒動が、討幕派の仕業であると述べていることが書かれていた。

並木氏の本を衝動買いして、該当部分を引用してみたい。

「幕末から明治にかけて活躍した作家でジャーナリストの福地源一郎は、著書『懐往事談』でこう書き記している。
『京都の人々が人心を騒乱せしめるために施したる計略なりと、果たしてしかるや否やを知されども、騒乱を極めたるには辟易したりき』
尊王派として活躍した大隈重信も
『誰かの手の込んだ芸当に違いないが、まだその種明かしがされておらぬ』
という言葉を残している。」(同上書 p.250)

福地の言う『京都の人々』というのは討幕派を意味しているが、幕臣だった福地も討幕派であった大隈も、立場が違いながらも討幕派の仕業であると睨んでいたことは注目していいと思う。

次のURLを読むと、京都における『ええじゃないか』騒動は十月二十日からであり、大阪は十月十五以降のことのようだ。大政奉還があったのが十月十四日であるから、それからの話なのだ。岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得て国元から大軍を呼び寄せようとし、使いが京都を出立したのが十七日なのだそうだ。「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての手続きを経ず、文書の形式も異なる文書であり、恐らく偽勅であったと考えられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu11.htm

img20121103212256794.jpg

上記URLの記事に、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』にこの頃のことをどう書かれているかが紹介されている。興味深い部分なのでしばらく記事を引用する。

岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』(一九〇六年)によると、王政復古の陰謀を行なっていた時、幕府や京都守護職・所司代の偵吏をくらますことができたのは、「天助アリシニ由ル」と述べている。その「天助」とは「あたかもこの時にあたり、京師に一大怪事あり」というもので、空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家は、壇を設けてこえを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓で囃し立てた「よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら。またはれ。ゑいじやないか。ゑいじやないか」という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々と照し、踊りつづけた。そのお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることはなかったというのである。」

福地源一郎

上記URLに、先ほど紹介した福地源一郎の名前が出てくる。これを読むと、なぜ彼が『ええじゃないか』騒動を討幕派の計略と考えたかが見えてくる。

「幕臣福地源一郎は、公用で海路江戸からやってきて、西宮に上陸したが、『ええじゃないか』の狂乱の渦にまきこまれ、人夫や駕篭を雇うこともできなかったと回想している。」
この騒動は、幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。

このURLの記事で特に興味深いところは、『ええじゃないか』騒動は長州藩兵の移動と共に動いているという指摘である。再び記事を引用する。

「『ええじゃないか』は大坂から西宮神戸を経て、山陽道を東進した。また淡路島と四国に上陸し、阿波から讃岐、さらに伊予に広がっている。

 山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われ、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったという。

 やがて長州軍は幕府の情報網をかいくぐって、西宮附近に上陸、大坂を迂回して入京し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を戦うのである。」

こういう文章を読むと、この『ええじゃないか』騒動が民衆による自然発生だとする説にはかなり無理があるような気がする。
30か国にも拡がったという『ええじゃないか』騒動の一部には政治的背景がなく、踊り狂うという楽しい行為が隣国から流行して各地に拡がっていったという可能性があることは否定しない。しかし、討幕派に仕掛け人がいなければ、長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いていくことはありえないことは誰でもわかる。少なくとも、大政奉還から王政復古までの狂喜乱舞の多くは討幕派によって仕組まれていたと考えた方が自然なのではないか。

このブログで何度も書いてきたように、いつの時代でもどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように編集し、都合の悪いことは正史に書かないものだ。
『ええじゃないか』騒動が、民衆による自然発生説が通説になっているのは、明治維新の勝者である明治政府にとって都合の良い歴史叙述に、未だに縛られているということなのか。
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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る

前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。

武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力討幕を進めようとするのだが、大政奉還される前日の十月十三日出された「討幕の密勅」は、朝廷の出す「詔書」として正式な手続きを経たものではなかったことが明らかになっている。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この勅書は明治天皇も摂政二条斎敬の手も経ずに書かれており、偽勅である可能性が限りなく高いと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

倒幕の密勅

この「討幕の密勅」の読み下し文はWikipediaでも読めるが、次のURLに口語で要約されている。読めばわかるが、驚くほど過激な内容になっている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

読み下し文はこうなっている。

「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族(ごうぞく=一門)の強を恃み、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈る(おこたる)ことなかれ。」

要するに慶喜を暗殺せよと天皇が命じたことになるのだが、慶喜が将軍に着任したのは慶応二年(1866)の十二月五日だから着任してまだ10か月と日が浅く、ここまで恨まれるほどのことは何もしていないと思われる。要するに薩長は討幕ありきで、その為には慶喜を殺すしかないという考えなのだ。

この密勅は慶応三年(1867)十月十三日に薩摩藩に、その翌日に長州藩にも下され、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も下りている。

しかしこの討幕の密勅は、あとで記すが、十四日に将軍・徳川慶喜から大政奉還の上表が出されたために、中止されることになったという。

次に薩摩・長州とは別の立場をとる土佐藩の動きを追ってみよう。
土佐の坂本龍馬、後藤象二郎らが、天皇のもとに徳川及び諸藩が力を合わせて国内を改革する必要を唱え(「公儀政体論」)、彼らの働きかけで前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白した。
慶喜はこれを受け容れて、同じ十月十四日に朝廷に大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理し、これにより家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになるという流れだ。

船中八策

龍馬が唱えた維新国家のグランドデザインは『船中八策』と呼ばれ、原文は次のようなものであったとされている。
「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。」

この『船中八策』の最初に書かれているのが『大政奉還』であり、龍馬の構想する維新国家は、まず幕府が大政奉還したうえで朝廷を中心とした統一国家を作り、上下両院の議会政治により討議すること、憲法を作ることなどが書かれている。

後藤象二郎や山内容堂がこれを受け容れ土佐藩の藩論としたのは、薩長による武力討幕を回避するためは、これ以外に方策はないと考えたのであろう。土佐藩が幕府に大政奉還の建白をしたのは十月三日で、十月六日には芸州藩も同様な大政奉還の建白をしているようだ。

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この建白に対する幕府の対応は驚くほど早かった。徳川慶喜は十月十三日に十万石以上の諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の諮問を行い、朝廷に大政奉還を申し出たのは十月十四日なのだ。

徳川慶喜は土佐藩などの大政奉還の建白をどう受け止めたのだろうか。もちろん薩長の武力討幕派の動きについては耳に入っていたはずだし、もし幕府と薩長とが戦えば双方が消耗して外国勢力の思う壺となり徳川家の存続どころではなくなる。一方、徳川幕府が大政奉還を受け容れれば、薩長による倒幕の大義名分がなくなり、内乱が回避され徳川家も安泰となる。徳川家としては、この選択の方がはるかにベターだと考えたのだろう。

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しかし将軍慶喜は、大政奉還をしても徳川家の政権の実権を捨てることまでは考えていなかったようだ。朝廷側にとっては、幕府からいきなり政権を返上されても明治天皇の年齢は当時数えで16歳に過ぎず、朝廷に政権運営能力があるわけではない。慶喜には、大政奉還後にやがて組織されるであろう諸侯会議で、その後も政治的影響力を発揮できるという読みがあったようだ。

慶喜生前談話集である『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』という本には、「予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだ。」という趣旨のことが書かれていることが次のURLに紹介されている。
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=24

要するに、徳川慶喜は「船中八策」にあるように「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」と考えたのだ。さらに『昔夢会筆記』には、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)らは、慶喜を朝廷の摂政という形にしてそのまま実権をとり続けさせたいと思っていたことが、書かれているようだ。

 徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還の上奏文とその口語訳が次のURLで読める。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm

「臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜」

最初に記したように、朝廷はこの大政奉還により十月二十一日に『討幕の密勅』の中止を指示している。そして、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、二十三日には外交権がまだ江戸幕府にあることを認める通知が出ているという。大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の動きにより、次の新政権に徳川慶喜が擁立される可能性は少なからずあったようなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0#cite_ref-2

しかし武力討幕派の薩摩・長州両藩は慶喜の復権を認めるつもりはなく、密かに強引なる政変決行の準備をしていたのである。

慶応三年(1867)十二月八日、岩倉具視は自邸にて薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し協力を求め、翌朝の朝議のあとに、待機していた尾張・土佐・薩摩・越前・安芸の五藩の兵が京都御所の九門を閉鎖し、御所への立ち入りを藩兵が厳しく制限した中で、親王、公卿のほか五藩の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が『王政復古の大号令』を下したという。その宣言は次のようなものであった。

「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。」

この宣言により江戸幕府は廃止され、京都守護職・京都所司代も、摂政・関白も廃止され、徳川慶喜は将軍職を辞職し、新たに設けられた総裁、議定、参与の三職にも徳川慶喜は選ばれなかったのである。また「小御所会議」では徳川慶喜の内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることまでも決めたとある。このような重要な決定が、慶喜不在で行われたというのだ。これは慶喜がとった大政奉還策に対して武力討幕派がこれを覆すクーデターのようなものではないか。

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小御所会議の様子はWikipediaなどに書かれている。
この会議で山内豊信(容堂)ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。特に山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。
そのやりとりの後で、岩倉具視らは徳川慶喜が「辞官納地をして誠意を見せるべき」と主張し両者譲らず、会議の休憩が宣言される。その休憩中に西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べて岩倉を勇気付け、このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決したのだそうだ。(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

一方的に御所警備の任を解かれ追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちは二条城に集まり、口々に「薩摩を討つべし」と騒いだという。慶喜の配下には幕兵5千余、会津3千余、桑名千五百余の1万近くの充分な兵がいて、一方の武力討幕派の方は薩摩藩の兵3千、長州の兵2千5百で、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かったと思われる。しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪に退き下がってしまった
この時に大久保利通は慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたのに驚いたのだそうだ。大久保はこの時に慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで練っていたという説もある。

坂本龍馬

以前このブログで4回に分けて土佐藩の坂本龍馬が暗殺された原因を考えたことがあるが、龍馬の暗殺は十一月十五日で、十月十四日の「大政奉還」と十二月九日の「王政復古の大号」令の間に起こっているのだ。前回の記事に書いた『ええじゃないか』騒動もこの時期に起こっていることに、もっと注目してもいいのではないだろうか。

幕府から権力を奪うことになった大政奉還の方策を考えた坂本龍馬を憎いと考えた佐幕派が龍馬の命を狙ったとするのか、大政奉還の建白によって新政府に向かう主導権を土佐藩に奪われることを怖れて武力討幕派が狙ったとするのか、ほかにも諸説があるのだが、このような歴史の流れを知れば知るほど、私には武力討幕派が一番怪しいように見えてくるのだ。
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丹波古刹の「もみじめぐり」から香住へ~~香住カニ旅行1

毎年カニ解禁になると日本海方面に旅行することにしているのだが、今年は3年前と同じ香住の宿にして、途中に通る場所でこの季節に訪れたい名所・旧跡を巡る計画を立てて先週(9-10日)に行ってきた。

大阪では紅葉はまだまだだが、山間部に行けばそろそろ色づいているであろうことを期待して、初日は丹波市のいくつかの古刹の中から紅葉で有名な場所を選んで旅程に組み込んだ。旅程を組む際に、ネットで見つけた「丹波市のもみじめぐり」のチラシが結構役に立った。

丹波紅葉めぐり

最初に訪れたのは白毫寺(びゃくごうじ)という天台宗の寺院である。
寺伝によると、慶雲2年(705)法道仙人の開基とされ、奈良時代には七堂伽藍が立ち並び、南北朝時代には93坊を擁する丹波屈指の名刹として隆盛をきわめたそうなのだが、天正年間の織田信長による丹波攻略に伴い明智光秀の率いる兵火で焼失したとされ、その後再建され、寛文12年(1672)の記録によると、総門のほかに48もの坊・院が立ち並んでいたそうだが、今は薬師堂と本堂と熊野権現社が境内に残されているだけだ。

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この寺は5月初旬に咲く藤の花が有名で、境内にある120mもの九尺藤の藤棚が満開を迎えるとテレビでよく報道され、ネットでも多くの人が画像などで紹介しておられる。紅葉でも有名な寺院だとは知らなかったのだが、「丹波市のもみじめぐり」の9社寺に選ばれており、ネットで「見頃」と書かれていたので、急に行きたくなった。

楓の木は比較的最近に植えられたらしくあまり大きくはないが、色はかなり鮮やかであった。

白毫寺1

心字池にかかる太鼓橋は元禄年間に建てられたもので、その近く植えられた楓の紅葉は特に美しい。

白毫寺2

また石門に入る近くにある慰霊碑の紅葉も美しかったが、今週末には薬師堂の紅葉も見ごろを迎えることになるのだろうか。

次に向かったのが真言宗の古刹・石龕寺(せきがんじ)。
『石龕寺縁起』には用明天皇の丁未年(587)に聖徳太子が毘沙門天を本尊として祀ったのが始まりで、平安時代の村上天皇が小野道風に命じて寺号の勅願を賜り、諸堂宇を建立したと言われている。
『太平記巻二九』には、南北朝の時代に足利尊氏とその弟直義の争いである「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」に尊氏が敗れ京都から播磨に逃れる際に、足利尊氏・の嫡子・義詮(よしあきら)がここに身を寄せたとの記録があるという。
そしてこの石龕寺も織田信長の丹波攻略の時に仁王門を残して焼失してしまい、江戸時代以降に復興されたのだという。

石龕寺仁王門

これが仁王門で、左右の木造金剛力士像は鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい)作でそれぞれ国の重要文化財に指定されている。

石龕寺毘沙門堂

これが毘沙門堂でこの中に平安時代後期の作と伝えられる不動明王が祀られているそうだ。境内や参道には数多くの楓が植えられているが、ようやく色づき始めたばかりのようだ。

石龕寺紅葉

毎年11月の第3週日曜日(今年は18日)に「もみじ祭り」が行われて、護摩供養や武者行列などが行われるという。

次に訪れたのは達身寺(たっしんじ)という曹洞宗の寺院である。

達身寺

この寺は行基によって開かれたという言い伝えがあるようだが、詳しいことは記録が残っていないのでわかっていない。
寺伝では、この寺の前身となる寺院は信長の丹波攻めの際に明智光秀によって焼かれたと伝えられているが、それまでは僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であったらしいのだ。
明智光秀の軍に寺が焼かれる前に仏像を守ろうと僧侶たちが運び下ろしたのだが、長い間置き去りとなってしまって、多くの仏像が傷んでしまった。
元禄八年(1695)にこの村に疫病が流行り、多くの村人が亡くなった際に、これらの仏像を永年放置してきたことの祟りだと考えて、これらの仏像を集めていた達身堂(たるみどう)をこの地に下ろして修復して建てられたのが、現在の達身寺なのだそうだ。

このような経緯で、達身寺には現在79体の木造物と134片の破片が残されており、そのうち12体が国の重要文化財に指定され34体が兵庫県の文化財に指定されている。
また、それらの製作年代は平安初期から鎌倉時代とかなり古いものであるという。

達身寺パンフ

撮影は禁止されているので、パンフレットの画像を紹介しておくが、この様な貴重な仏像をじっくり目の前で拝観できるのが嬉しい。

一方、この地には仏師の工房があったという説もある。確かに未完成の仏もあり、同名の仏像がいくつもあることなどから、この地に仏像の工房があったという説は確かに説得力がある。また東大寺の古文書の中に快慶が丹波の出身であるという事が書かれているらしいのだが、そのことから鎌倉時代の仏師快慶は達身寺から出た仏師かそのつながりのある仏師という説もあるというのだ。しかしながら達身寺には古文書が乏しく、詳しいことはよく判らないのだそうだ。

達身寺紅葉

達身寺の楓の木はまだ樹齢が浅いが、紅の色がとても鮮やかだ。山腹の楓の樹々が伸びれば素晴らしい紅葉の名所になるだろうと思う。

次は近くにある、真言宗大覚寺派の別格本山の高山寺(こうさんじ)。

高山寺山門

天平宝字5年(761) に法道仙人により弘浪山頂に開かれたというが、その後仁平3年(1153)の兵火で焼失し、その後、源頼朝の命を受け重源により復興されたそうだ。当時は山麓に11の末寺をかまえ、後鳥羽天皇の勅願所ともなったが、南北朝時代以降は相次ぐ戦乱によって荒廃した。慶長5年(1600)に再興されたが、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈による末寺の荒廃や台風災害で山上での護持が困難となり、昭和33年に現在地に本堂、山門等を山上から移築したという。

高山寺参道

参道の紅葉がかなり色づいてきていて、これからもっと美しくなるだろう。

次は曹洞宗の名刹・円通寺。

円通寺1

この寺は、永徳二年(1382)に将軍足利義満が後円融天皇の勅命により創建し、室町時代から江戸末期まで二百余の末寺があり、一千石を超える寺領を有する大寺院であったという。
近辺の有力寺院は織田信長の配下の明智光秀の丹波攻めで悉く焼き払われたのだが、この寺にも軍勢が迫ってきたときに、豪氏荻野嘉右衛門が光秀の本陣に赴いて必死の説得をした結果兵火を免れたと寺伝に書かれていて、寺には光秀が兵に対して円通寺に対して乱暴狼藉を許さない旨の直筆の書状が残っているそうだ。
江戸時代には一度火災に遭い天保年間に再建されたが、明治に入って廃仏毀釈で収入源が断たれてこの寺も荒廃してしまう。そこで当時の第40世「日置黙仙禅師」は東奔西走、「円通寺営繕永続講会」の設立を成し遂げ、その結果16年の歳月をかけ、円通寺は見事に復興を果たしたという。この「日置黙仙禅師」は、後に大本山永平寺にて曹洞宗管長として活躍した人物なのだそうだ。

円通寺2

上の碑は「躍然遠挙の碑」といわれ、明治時代の思想家・山岡鉄舟が禅師の功績を称えて筆をとったものだそうだ。

円通寺3

またこの寺は二番目に行った石龕寺、次に行く高源寺とともに「丹波紅葉三山」と呼ばれており、境内の各所に植わっている楓の枝ぶりも良く、緑、黄金、橙、赤など様々な色が重なって美しい。

最後の寺は臨済宗の中峰派の本山である高源寺。
この寺は正中二年(1325) 遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師の開山によって創建されたと伝えられている。また境内にある楓は天目楓(てんもかえで)といい、遠谿祖雄禅師が中国の天目山から持ち帰ったものだと伝えられている。
建立の翌年に後醍醐天皇から「高源寺」という寺号を頂き、後に後柏原天皇の代に勅願寺(天皇命による祈願のための寺)となって隆盛したのだが、織田信長の丹波攻めで焼き討ちにあい、すべて消滅してしまう。
その後江戸時代中期になり、享保年代に一部再建され、寛政年代に柏原藩主の援助を得て現在の建物を建立したのだそうだ。

高源寺1

惣門から山門に続く紅葉はまだまだこれからだが仏殿の周りはかなり色づいてきていた。

高源寺2

仏殿は以前は檜皮葺であったと思うのだが、今はトタン屋根になっているのは残念なことである。

高源寺3

もう少し進むと方丈があり、さらに三重塔がある。この塔の周りの楓が紅葉すれば素晴らしい景色が撮れると思うのだが、すべてが色づくにはあと1週間はかかりそうだ。

以上6つの丹波の古刹を周ってきたが、観光客が比較的多かったのはこの高源寺くらいだった。とはいいながら、紅葉シーズンのピークには少し早かったとはいえ、京都や奈良の有名観光地とは比較にならない。
「丹波紅葉三山」と呼ばれる三寺院には地元の方が、テントで地元産品などを売っておられたが、「観光バスが沢山の観光客を連れてきても、ほとんど誰も商品を買ってくれない」とこぼしておられたので、少しばかり協力させていただいた。

私も昔は、観光バスに乗るパックツアーによく行ったものだが、そのようなツアーは大きな売店のあるホテルに宿泊させ、休憩は何度も大型の土産物屋や高速道路のサービスエリアにバスが停車するので、バスの旅行客の大半はそういう場所でお土産を買うようになってしまう。地元の人々にとってはいくらパックツアーで観光客が増えても、あまりお金を落とさずに通り過ぎていくだけで、地方の活性化にはあまりつながっていないことが多いのだ。
観光地の周囲の歴史的環境や伝統文化を守るために、地元の人々がいくら奉仕しておられても、その受益者は地元と関係のない大手観光業者やその取引企業となっていることが少なからずある。

このブログで何度も書いているのだが、地域の小さな経済循環を無視して、大手業者がブームに便乗してホテルや大型店舗を作っては、地元の人々の収入源の多くを奪い取ることとなり、それでは地元が以前より豊かになることはない。観光客が地元の生産者や地元資本の店舗からお土産などを買うような仕組みを壊してしまっては、いずれ地方の観光地の周囲の地域が衰退し、地域の特色や文化的風土までも維持できなくなってしまうだろう。それでは観光する側にとっても楽しみが半減してしまう。

今年の夏に、信州旅行にした時にある店主と話したが、その店舗で製造・販売している豆腐をある大手業者からまとまった数量で経常的に仕入れたいとの話が来たそうだ。話を詳しく聞くと、その店舗で販売している価格の半分以下で仕入れたいとの話だったので、その価格では製品の品質が維持できないし利益にならないと断ったとのことだ。
地元の加工品に限らず農産物も同様で、生産者は大手流通業者ルートで販売してもほとんど利益が残らず、販売利益の大半は大手流通業者に奪い取られてしまったのだが、この流れをどこかで断ち切らなければ、わが国の地方は衰退していくばかりではないか。
だから私が旅行やドライブをするときは、出来る限り地元の生産者や地元の店舗で商品を直接買おうと思うし、ネットもこれから活用していきたいと考えている。都心に住む人の中で1割でもネットや産直などで地方の産品を買うようになれば、きっと地方は甦ることになるのだと思う。

1日目の観光を終えて、宿泊先の香住に向かう。
カニのシーズンは毎年試行錯誤しながらいろんな施設に宿泊してきたが、大きなホテルで大枚を払っても、カニが北海道産だったりロシア産だったりしてがっかりしたことが何度かある。これでは地元の漁師も仲介業者も潤わないし観光客も喜べない。残念ながら多くの観光地で、観光施設と地元住民との共存共栄の関係が崩れてしまっている。

現地で獲れたタグ付きのカニを食べるのなら、地元の人の民宿に泊まるのが一番いいと最近では考えるようになって、今年は3年前に宿泊したのと同じ「庄屋」という民宿でお世話になった。

香住カニ

せっかくカニの本場に来たのだから、自宅近辺では買えないような大きなカニを食べたくて、1人に1杯ずつの普通サイズの茹でカニを2人で大きな茹でカニ1杯に変更をお願いしておいたのだが、こういう注文が出来るのも民宿のいいところだ。

今年解禁して獲れたばかりのところを浜茹でした香住ガニはみそも身もしっかり詰まっていて旨かったし、刺身も焼きカニも鍋も美味しく頂けて、久しぶりにカニを堪能して大満足の1日だった。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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