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蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団

以前このブログで、フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の内容を紹介したことがある。

中国の戦争宣伝の内幕

その本の中で、蒋介石にはドイツの軍事顧問団がついていて、その顧問団が蒋介石に対して、日本に対しては単独では勝てないので外国に干渉させるように仕向けることをアドバイスしていたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

ウィリアムズ氏によれば、ドイツ顧問団が蒋介石に対して次のように進言したという。
「外国に干渉するように頼みなさい。あなたは一人では勝てない。ロシアは今ここにはいない。協力者が必要でしょう。イギリスに頼みなさい。しかしながら、力のある干渉者となると好ましいのはアメリカです。こうしたことになるとアメリカ人はいつも便利だ。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.40)

「ロシア」の名前が出てくるのは、ドイツの軍事顧問団を招くまでは蒋介石の軍事顧問はロシアから招聘されていて、蒋介石が反共産党の姿勢を明確にしたためにロシアの軍事顧問団が離れて行った経緯にある。
蒋介石はこのドイツ軍事顧問団のアドバイスを受けて、外国人居留地のある上海に着目し、この場所で多くの外国人が殺害されれば、外国人が干渉するようになると考え、1937年8月に第二次上海事変を仕掛けることになる。
当時上海にいた日本の海軍陸戦隊は、居留民の保護のために駐屯して軽武装の軍隊に過ぎず、圧倒的に数的有利な状態で蒋介石軍は上海への攻撃を開始したことになる。

第二次上海事変

蒋介石はドイツ軍事顧問団のアドバイスどおりに国際世論の同情を誘おうとしたのだが、そのためには自国民を犠牲にすることも厭わなかった。
8月12日に上海租界から外に通じる道路を遮断して、中国人を中心とする一般市民を閉じ込めたうえで、14日には中国軍機がキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃して民間人3000人以上の死傷者が出しておきながら、国民党メディアはその爆撃を日本軍がやったと嘘の報道を流したという。この戦いの経緯については以前に書いたので繰り返さないが、3か月に及ぶ消耗戦で日本軍は4万人以上の死傷者を出しながらもこの戦いに勝利し、11月9日に中国兵は一斉に退却したという。

前回まで2回にわたり、中国軍には戦場から退却する中国兵に銃撃を加える督戦隊(とくせんたい)のことを書いた。Wikipediaに第二次上海事変で多くの中国兵士が、味方の督戦隊に射殺されたことが書いてあるので紹介したい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

「日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。…」
また、中国軍が退却するときに、相も変わらず掠奪と破壊が行われたことが書かれている。
「中国政府は『徴発』に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている。中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた。」

「漢奸」というのは、「裏切者」・「背叛者」のことを指すが、兵士の「挑発」に反抗する民衆までもが処刑の対象にされていたというのだ。
中国には古来から堅壁清野(けんぺきせいや)という戦法があって、城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことにより、進攻してきた敵軍が何も接収できないようにして疲弊させることが目的なのだが、このような目的のために処刑された民衆が、第二次上海事変だけで4000名もいたというのだ。

このように日本軍は戦いに勝利し中国軍を壊走させたのが、敗軍の追討のために翌月の12月に日本軍は南京を攻略することとなる。この時にいわゆる「南京大虐殺」があったとされているのだが、中国が声高に主張する歴史を鵜呑みにすることはないと思うのだ。
南京陥落直前の「第二次上海事変」や、少し前にこのブログで書いた翌1936年6月の「黄河決壊事件」の史実を学べば、南京で日本軍による大量の民間人虐殺があったとする説はかなり嘘っぽいことに誰でも気が付くと思う。

話を蒋介石のドイツ軍事顧問団の話題に戻そう。
蒋介石は顧問団の進言を受けて、一般市民の犠牲を出すことも厭わず、嘘のプロパガンダで日本軍の仕業だと報道して「外国の干渉」を導こうとしたのだが、結果としては失敗したのである。南京でも蒋介石は国際世論の同情を誘おうといろいろ仕掛けたのだが、それもうまく行かなかった。

前述したとおり「外国の干渉」を誘導する戦略は、ドイツ軍の軍事顧問の進言によるものなのだが、わたしがドイツ顧問団の存在を知ったのは、数年前に阿羅健一氏の『日中戦争はドイツが仕組んだ』を読んだときが初めてなのである。

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ドイツは第二次大戦でわが国の同盟国であったのに、中国軍を裏で支援していたのは意外に思った。どういう経緯で、ドイツ顧問団が蒋介石を支援するに至ったのだろうか。

阿羅氏によると、もともと中国の軍閥には様々な外国人が軍事顧問として関わっていたという。
袁世凱(えんせいがい)を支援していたのはイギリス、呉佩孚(ごはいふ)はイギリス・アメリカ、馮玉祥(ひょうぎょくしょう)はソ連が支援していたそうだが、蒋介石はドイツの前にはソ連から支援を受けていたようだ。
しかしその後蒋介石が中国共産党と対決するようになったために、1926年にソ連の軍事顧問は国民党を去って中国共産党の軍隊の指導を始めるに至る。

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そのために蒋介石はソ連に代わる軍事顧問団を必要とすることとなり、国民党の招きで広州にやって来たドイツ軍のマックスバウアー大佐に顧問就任を要請し、大佐はその要請を承諾して1928年の秋に軍事顧問団が組織され、ドイツの新しい兵器が中国にもたらされたという経緯のようだ。
1933年にナチスがドイツの政権を握ると、ドイツは挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したためドイツと国民党との関係はさらに親密となり、軍事顧問団は他の軍閥や共産党との争いだけではなく、昭和7年(1932)1月の第一次上海事変以降は日本軍との戦いにも関与するようになったという。

一方我が国とドイツとの関係はどうであったか。
以前このブログにも書いたが、1935年7月に第7回コミンテルン大会で、その後の世界史を揺るがす重要な決定がなされている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

Wikipediaの解説では、この大会における決議事項をこう纏めている。
「第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、
第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ…に選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、
第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3#cite_note-17

ソ連の仮想敵国とされたわが国とドイツは翌1936年11月に、ソ連をお互い警戒し相互に協力する協定を締結(日独防共協定)したものの、ドイツは対日接近にはかなり消極的であったようだ。この頃のドイツは英米が支援しかつ資源のある中国との関係維持を優先し、反共勢力としては、日本よりも蒋介石の方を選択していたのである。ちなみに1937年のドイツの武器輸出総額の37%が中国向けであった。

「南京事件」や「黄河決壊事件」のころは、ドイツ軍事顧問団が蒋介石を指導していたことを忘れてはならないのだと思う。
蒋介石から中国軍の強化策を問われて、当時軍事顧問団長のであったゼークト大将は「中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心(てきがいしん)を養うこと」が肝要だと答え、さらに1935(昭和10)年1月には、ファルケンハウゼン中将は「中国国防基本方針」と題する対日戦略意見書を蒋介石に提出している。しばらく阿羅氏の著書を引用する。

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「日本が攻撃したとしても、日本は、極東に戦略的地歩を求めるソ連に備えなければならず、中国に経済的関心を持っている英米と対立することになり、日本の財力はそういった全面的な国際戦争に耐えられない、とファルケンハウゼンは分析し、中国は長期戦に持ち込んで、できるだけ多くの外国人を介入させる、という戦略を示した。

1935年10月1日には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進言していた。漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。日独防共協定締結の約1年前にドイツ人が中国にこの様に献策していたのだ。」(『日中戦争はドイツが仕組んだ』p.40)

引用を省略したが、持久戦に持ち込むまでの方策や、防衛策についてかなり具体的に書かれているのは驚きである。Wikipediaにファンケルハウゼンの対日戦略の解説が書かれている。この解説によると蒋介石にゲリラ戦を薦めたのはファンケルハウゼンだったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C

しかし、蒋介石にとっては最大の敵は共産軍であって、直ちに日本と戦うというファンケルハウゼンの考えには反対であった。

「しかし、ファルケンハウゼンの対日戦の進言は執拗に続けられた。昭和11 (1936) 年4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだ、と蒋介石に進言する。
『ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ。』
ひと月半前、二・二六事件が起こって日本軍部が政治の主導権を握り、軍部の意向が阻害される可能性が少なくなり、その一方、ドイツがラインラントに進駐してイギリスの関心はヨーロッパに向き、中国の争いに介入する余裕がなくなった。そのため、英米の関心が少しでも中国にあるうちに中国から日本との戦争に踏み切るべきである、というのである。」(『日中戦争はドイツが仕組んだ』p.41)

ファンケルハウゼンはその後も対日戦を主張し、何度も蒋介石を煽ったという。献策の全てが採用されたのではなかったが、蒋介石はファンケルハウゼンの意見に耳を傾け、一部は実行に移されたのである。

阿羅氏が著書の中で、ドイツ軍事顧問団と上海戦線を目の当たりにした宇都宮直賢大尉の言葉を紹介している。
「中国におけるドイツと、ソ連の軍事工作振りからみたら、大東亜戦争に入る前の英・米の動きなどまだまだ紳士的だったといえる。」(同上書 p.245)
英米は都市を空襲して数多くの無辜の人々を死に至らしめたが、それよりもはるかに中国やソ連の方がひどかったと言っているのだ。

ファンケルハウゼンがなぜ、外国人の軍事顧問の立場で中国指導層に執拗に反日を煽ったのかは未だによく解っていないようなのだが、ひょっとすると彼はコミンテルンにつながる人物であったのではないだろうか。以前このブログで書いたスターリンの1935年の第7回コミンテルン大会におけるこの演説が私には引っかかるのである。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

当時はコミンテルンの工作員が世界中で暗躍していた時代であったのだ。

ドイツと中国の関係が変化しはじめるのは1937年8月に中国がソ連との間に「中ソ不可侵条約」を締結したことでヒットラーの態度が硬化し、1938年の4月に中国への軍需物資の輸出が禁止され、5月に軍事顧問契約の解除を正式に申し入れ、6月にドイツ軍事顧問団は中国を去っている。
ちなみに「第二次上海事件」は1937年8~11月、「南京陥落」は12月、「黄河決壊事件」は1938年6月だ。ドイツ軍事顧問団が背後にいた時の出来事が正しく伝えられていないことを知るべきである。

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その後1940年に日独伊三国同盟が締結されわが国はドイツの同盟国となったのだが、驚くべきことにファンケルハウゼンはヒトラーの暗殺計画に参加したという。
1944年7月20日総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」に爆弾を仕掛けて、ヒトラーを爆殺してクーデターをおこし政権を掌握する計画が実行されたのだが、この時にヒトラーの数人の側近は死亡したにもかかわらずヒトラーは奇跡的に軽傷で生き残った。
メンバーは次々に捕えられ、ファンケルハウゼンも7月29日にゲシュタポに逮捕されて、強制収容所に送られたが、この件では何千人も逮捕されたものの全貌が解明されないままヒトラーが自殺して、その後処刑を免れたという。

中国軍がナチス・ドイツの軍事顧問の指導を受けていたことは明白な事実であるにもかかわらず、なぜこのことを書いている歴史書が少ないのかと不思議に思うのは私だけではないだろう。戦勝国の中国にとっては、ナチス・ドイツの力を借りて多くの民間人を犠牲にしたことは「都合の悪い史実」であるのかもしれないが、事実であるならばわが国の歴史家は堂々と書けばいいだけのことである。いつまでも戦勝国に配慮して、わが国だけを悪者にするようなストーリーで昭和の時代を描こうとしては、歴史叙述が真実から遠ざかっていくばかりではないか。
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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、藩主島津久光は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の主権者)は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

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いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために元薩摩藩主の島津久光を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、元薩摩藩主の島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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