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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」である。

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この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習しておこう。
安政5年(1858)4月に大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼は、幕府の権威を復活させようとし、勅許をえないまま6月に日米修好通商条約に調印し、また、子供のいない十三代将軍家定の後継者問題については、譜代大名らの支持を得て、幼年の紀伊藩主である徳川慶福(よしとみ)を跡継ぎと定め、水戸藩主徳川斉昭の子の一橋(徳川)慶喜を推していた斉昭や、福井藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬らの改革派に大弾圧を加えた。弾圧の対象は皇族・公卿・諸大名・藩士など百人を超え、徳川斉昭・松平慶永は蟄居処分となり、尊王攘夷派の活動家・思想家を徹底して粛清し、福井藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰たちは刑死した。(安政の大獄)
このような井伊の弾圧的な処置は朝野の有志の強い反発を招き反幕的な空気を強めて、万延元年(1860)には、ついに「桜田門外の変」が起こり、井伊直弼は命を奪われ、幕府の威信が失墜したという流れだ。

幕末百話

篠田鉱造という報知新聞の記者であった人物が、幕末の古老の話の採集を思い立ち、明治35年に、『幕末百話』という本を出版している。その本は今では岩波文庫になって誰でも読むことが出来るのはありがたい。
誰が語った話なのか、名前が記されていないのは残念なところだが、「古老」の語ったという話はなかなか面白く、幕末の時代の空気がよくわかる。

西暦1860年に大老・井伊直弼が水戸浪士に襲われた「桜田門外の変」の現場に駆けつけた人物の話がこの『幕末百話』に出ているので、その文章をしばらく引用する。

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「八五 桜田門外血染の雪
大雪と御供
万延元年庚申(かのえさる)三月三日上巳(じょうし)の節句で、上下押なべて弥生(やよい)雛様の日ですから、娘子供は此日(きょう)を晴れと飾立て、遊びに出よう、お客様に聘(よ)び、聘ばれようと思うていたものを夜中からの大雪、土気色(つちけいろ)の雲は低く垂れまして、礫(つぶて)のような雪がトットと降る。朝眼が覚めて驚きました。私も御主人の供で本丸へ出ねばならぬ。コレは諸大名の御登城。サゾカシ御困難。供廻(ともまわり)の苦辛(くしん)は察しられる。自分も寒いこったと、何の気なしにソンなことを思っていました。卯の刻明け六つには諸大名総出仕の御儀式があるんで、主人の御供をせねばなりません。

赤合羽仲間
ソレゾレ用意をいたしまして、殿様は奥で御支度中だ。供廻は皆雪を蹶(け)って出掛けるばかり。かかる所へ供廻の仲間(ちゅうげん)で、赤合羽を着た男が、トットットッと、雪の間(なか)を転(まろ)びつ起きつ、駆け込んで来まして、慌(あわただ)しく『大(た)、大変、大変でございます』と顫(ふる)え声。『ナ、ナニが大変だ』と問いますと、『ただ今桜田御門外で、大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)様が水戸の浪士に首をお取とられ遊ばした。大変な騒ぎでございます』と顔の色を青くして、唇の色まで変えていうのです。『ナニを馬鹿なことをいうのだ。ソンな事があって耐(たま)るか。井伊様は御大老だ。ソウ胡瓜(きゅうり)やみなみ唐瓜(かぼちゃ)のように首をもがれてどうなるものか』

小脇に毛槍
誰しもこれを本統(ほんとう)にしませんでした。虚言(うそ)を申す奴だ。『気が違って居りはせんか。縛ってしまえ』と、赤合羽は頭に預けられたが、家老は血気の武士(さむらい)三、四名に申聞(もうしき)け、実地を見て来よとの命令に、私もその数へ加わり、マチ高袴にオッ取り刀で駆付けて見ますと、嘘じゃアない。桜田御門へ向っては馬上具足に身を固め、向う鉢巻(はちまき)の年配二十歳ぐらいの士(さむらい)、小脇に毛槍を抱込(かいこ)み来たるなんど、その顔の雪に映じて蒼味(あおみ)を佩(お)びた容子(ようす)、未(いま)だに眼に残っています。無事大平に馴れた人々も戦場へ望めばかくやあらんと今に思い出します。

雪は桜の花
さては本統かと呆れましたが、和田蔵御門に差懸(さしかか)ると、最早(もはや)見附見附はいずれも門を閉じ、通行は出来ません。いよいよ本統じゃ、帰ってお邸へ注進しようか。イヤイヤ前代未聞の椿事だ、一番往って見ようと、廃(や)めればよいのに、大廻りをして麹町に出て、参謀本部のところに参りますと、桜田御門の方は、水戸の浪士も引揚げた後らしく、雪は桜の花を散らしたように血染となっていまして、掃部頭をやったのは、以前陸軍測量部のあった所、その頃松平大隅守様の御門前でした。同邸の溝(どぶ)には赤合羽の仲間二名深手を負い惨殺されていました。ソレを見て好気持(いいきもち)はせず、急ぎ帰ってこの旨を御注進すると、邸の愕(おどろ)きは騒ぎとゴチャゴチャでした。…」(『幕末百話』p.225-226)
こういう文章を読むと、桜田門外の変が三月三日の雛祭りの日で、江戸は大雪の日であったことが誰でも自然に理解できるだろう。

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学生時代に「桜田門外の変」を学んだ際に、大老のような重要人物のまわりには井伊家の武士が大勢で護衛していたはずだし、江戸城の周りには辻番もいくつかあったはずなのに、なぜ大老の首級が奪われてしまったのかと疑問に思った記憶があるが、水戸浪士らによる襲撃が成功したのは、この日の「雪」と大いに関係があったことを最近になってようやく理解した。

京都市東山区の建仁寺の東に「京都井伊美術館」という小さな美術館があり、そこに井伊家の供頭をつとめた日下部三郎右衛門が身につけていた大小の刀があるという。
次のURLには実物の写真付きで紹介されていて、このように解説されている。
「季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実です。日下部の両刀は井伊家独特の鞘革に柄袋などが現存(柄袋には刀疵)した貴重なものです。日下三郎右衛門は水戸側に最初に襲撃(即死)された藩の上士です。」
http://www.ii-museum.jp/shiryo.htm

斬り込みに行く水戸の浪士たちは刀がすぐに抜ける状態であったのに対し、井伊家の武士たちの刀はすぐに抜ける状態でなかったのだ。

また季節はずれの雪で、大名行列の近くでカサをさし雨具の笠をかぶっていても、雪見の客と外見は変わらず、誰からも怪しまれることがなかったという。

桜田門外の変と蓮田一五郎

但野正弘氏の『桜田門外の変と蓮田一五郎』という本には、襲撃に参加した水戸浪士の蓮田一五郎の手記が現代語訳で紹介されている。しばらく一五郎の手記を引用してみる。

「三日朝、六時過ぎに宿を出て、芝愛宕山で各々支度をした。下駄をはきカサをさしている者もいれば、股引(ももひき)、草鞋(わらじ)の者もおって、思い思いの身支度であった。
そして四・五人ずつ組になって山を下り、桜田門外に着いたのは、八時頃であった。
明け方の空からは雪が降りしきり、風景はまことに素晴らしい。数人ずつあちこちに行き来したり立ち止まったりしていても、雪見の客そのもので誰も怪しまない。実に天が我々に味方し、襲撃を成功させてくれるかのようであった。
待つこと一時間ばかり経った頃、赤鬼(井伊大老)が、従者50人ほど伴って駕籠で屋敷を出てきた。
間もなく距離が縮まった。そこですかさず、それぞれカサを捨て、羽織をぬぎ捨てて、討って出た。

先方、すなわち井伊の従者達は、雨具を着たままゝ切りかかる者もあり、雨具を脱いで切りかかる者もあったが、戦いはほんのしばらくの間で、遂に井伊の首が切られ、一面に降り積もったまっ白な雪は、流れ、飛び散る鮮血で真っ赤に染まった。」(『桜田門外の変と蓮田一五郎』p.75-76)

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行列の供先が乱されて、大老の従者たちがそちらに走ったために、駕籠脇がにわかに手薄になったところを、水戸浪士の稲田重蔵、広岡子之次郎、有村次左衛門らが走り寄り、刀を突き入れ、直弼を引き出して首を切り落としたというのだが、誰が大老の首を討ち取ったのかは諸説がある。目的を果たし勝鬨を上げたものの、水戸浪士らの犠牲も大きかった。
稲田は闘死し、広岡、有村のほか3名が自刃し、3名が自首した後に傷や病で死亡し、7名が捕縛されて死罪となっていて、明治時代まで生きた人間は2名しかいない。
一方彦根藩は直弼のほかに闘死者4名、その後死亡した者4名、13名が負傷したが、多くの者が逃亡したようだ。
広島県歴史博物館に彦根藩の奉公人の記録が残されており、警固の武士の多くは逃げたことが記されているという。
http://blogs.yahoo.co.jp/yotakahacker/34237419.html
彦根藩では、直弼の警護に失敗し家名を辱めたとして、生存した者は2年後に軽症者は切腹、無傷の者は斬首などの厳しい処分が行われたという。

この桜田門外の変で面白いのは、事件後の彦根藩の対応である。
Wikipediaにはこう書かれている。
「襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。井伊の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が井伊に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた(といっても遠藤胤統は役目柄井伊の顔をよく知っており、実際には気付かれていた可能性が高い)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89#cite_note-1

遠藤胤統という人物は近江三上藩の第五代藩主で、江戸幕府の若年寄を務めていた。この遠藤邸の門前で井伊大老の首級を持っていた有村次左衛門が自決した経緯から、大老の首が遠藤邸にあったようなのだ。
彦根藩は井伊の首を胴体と縫い合わして、直弼が死んだという事実を隠蔽しようとしたのだが、なぜそんなことをしたのだろうか。

その解答は、Wikipediaにこう書かれている。
「当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。
直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として御種人蔘などが藩邸に届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたという。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。」

藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合は家名断絶となってしまう。その事態を避けるために、すでに死んでいる井伊直弼を生きていることにしたという話なのだが、目撃者も多く、桜田門外で大老が暗殺されたことはすでに江戸中に知れ渡っていたようだ。
こんな戯れ歌が当時江戸で流行ったという。

「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」
「いい鴨」は「井伊掃部(かもん)」をもじっている。井伊大老は宮中行事の設営や殿中の清掃を司る「掃部寮」の長官「掃部頭(かもんのかみ)」でもあったのだ。

また死んでいるのに生きていることにしたことを皮肉った川柳もある。
「倹約で 枕いらずの 御病人」
「遺言は 尻でなさるや 御大病」
「人蔘で 首をつげとの 御沙汰かな」

徳川幕府最高の重職である大老がわずか18人の浪人に命を奪われたことによって、幕府の権威が失墜したと良く書かれるのだが、江戸庶民からも馬鹿にされるような見え見えの茶番劇をしたことも、幕府の権威を落としその凋落を早めた原因の一つになったのではないか。

徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのは、この事件からわずか7年後のことなのである。
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坂上田村麻呂と清水寺

先日京都の清水寺に行ってきた。
2月の寒い時期は京都に来る観光客が少ない時期ではあるのだが、週末ともなるとさすがに清水寺は別格で、訪れる観光客は多かった。

清水寺

この清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。多くの観光客と同様に、私もこの碑の前を今まで何度も通り過ぎてきただけだった。

阿弖流為母禮之碑

この碑が何のために建立されたのか、長い間私も良く知らなかったので調べてみると、結構興味がわいたので今回はこの碑のことを記すことにしたい。

私が学生時代に歴史を学んだ時は「阿弖流為」「母禮」という人物を学んだ記憶がないのだが、最近の教科書では書かれていることがあるそうだ。「阿弖流為」は平安時代初期の蝦夷(えみし)の頭領であり、「母禮」は副頭領である。

この碑の裏にこう書かれている。
「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」

阿弖流為碑文

碑には「岩手県水沢市」と書いてあるが、その後水沢市は平成18年(2006)の市町村合併により「奥州市水沢区」となっているようだ。

東北地方には大和民族とは異なる人々の生活があった。その人々を政府は「蝦夷」と呼んで蔑み、8世紀の後半にはその地方を支配しようとしたが、この動きに抵抗し自衛のために戦ったのが阿弖流為たちであった。

阿弖流為

政府軍が相当苦戦した記録が『続日本紀』に残されている。
延暦8年(789)に征東将軍の紀古佐美(きのこさみ)が遠征し、阿弖流為の居所の近くまで進軍したが、退路を断たれて挟み撃ちとなり多くの戦死者・溺死者を出して敗退している。(巣伏の戦い)
この戦いがあった巣伏(すふし)という場所は、北上川は何度も流域を変えているので特定は難しいが、岩手県奥州市江刺区愛宕金谷に「巣伏古戦場碑」が建てられており、また奥州市水沢区佐倉河北田に「巣伏古戦場跡公園」があり、その公園の中に「巣伏の戦いの跡」と書かれた石碑があるという。

『続日本紀』を読むと、大敗したにもかかわらず自分の手柄ばかりを大げさに報告する紀古佐美に、桓武天皇が激怒する場面が記述されている。面白いので『続日本紀』の現代語訳の一部を引用する。

「七月十七日 天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに次のように勅した。
…いま先の奏状と後の奏状を調べると、賊の首を斬りとることができたのは八十九首のみで、それに対し官軍の死亡者は千人余り。負傷者に至ってはおよそ二千人に及ぼうとしている。そもそも斬り取った賊の首は百級にも満たなくて官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような状態で、どうして喜べるというのであろうか。ましてや大軍が賊の地を出て還る際に、凶悪な賊に追討されたことは一度ならずあった。ところが奏上では『大兵を挙げて一たび攻撃すると、たちまち荒廃の地になりました』といっている。事の経過を追ってみれば、これはほとんど虚飾であると思う。
…すべて戦勝報告を奏上する者は、賊を平定し功を立ててからその後に、報告すべきである。ところが今、賊の奥地も極めずに、その集落を攻略したといい、慶事と称して至急の駅使を遣わしている。恥ずかしいとは思わないのか。」(講談社学術文庫『続日本紀(下)』p.418-420)

桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍から外し、延暦12年(793)に征夷大使として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を東北に送った。その戦役で征東副使である坂上田村麻呂が活躍したことが『類聚国史』に簡記されている。(「副将軍坂上大宿祢田村麻呂以下征蝦夷。」)


坂上田村麻呂は、延暦15年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、翌年には征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801)には蝦夷を討ったと報告している。
また坂上田村麻呂は、いったん帰京してから再び出征し、延暦21年(802)のはじめに北上川中流域に胆沢城を築き、その年の夏には、蝦夷の頭領阿弖流為と副頭領母禮を服属させることに成功している。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」の碑に刻まれている話は、正史にはどのように記述されているのだろうか。いろいろ調べてみると『日本後紀 巻第十』逸文(『類聚国史』『日本紀略』)にその記録が見つかった。講談社学術文庫の現代語訳を引用する。

「(四月十五日) 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢禰田村麻呂らが、『夷大墓公阿弖利為(えみしおおものきみあてりい)・磐具公母礼(いわぐのきみもれ)らが五百余人の仲間を率いて降伏しました』と言上してきた。」(講談社学術文庫『日本後紀(上)』p.272)

「(七月十日) 造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と磐具公母礼ら二人を従えていた。」(同上書 p.274)

「(八月十三日) 夷大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑とした。両人は陸奥国内の奥地である胆沢地方の蝦夷の首長であった。両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが『今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います』と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して『夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を活かして災いをあとに残すのと同じである』と言い、ついに両人を引き出し、河内国の植山で斬った。」(同上書 p.275~276)
と、想像していた以上に詳しく書かれていた。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」にある、「蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく」という表現は正史には書かれていない部分だが、田村麻呂が両人を「政府に助命嘆願」したことについては間違いないと考えて良いだろう。
阿弖流為らが処刑された「河内国の植山」の場所については諸説があるが、枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があるという。

坂上田村麻呂画像

坂上田村麻呂は、延暦23年(804)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の東北遠征を期したのだが、民の負担を考慮して中止となり、その翌年には参議、大同元年(806)には中納言、弘仁元年(810)には大納言に任じられ順調に出世していく。

次に清水寺と坂上田村麻呂との関係を書かねばならない。
清水寺の開創は宝亀9年(778)で奈良子島寺(こじまでら)の賢心(けんしん:後の延鎮上人)という僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが清水寺の創建だと言い伝えられており、その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、現在の伽藍は徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたものだという。
http://www.kiyomizudera.or.jp/about/history.html

清水寺三重塔

清水寺のホームページによると、坂上田村麻呂により清水寺の諸堂が建立されたとあるのだが、どうして一武人にそれだけ豊かな財力があったのかと長い間不思議に思ってきた。その点をネットで調べると、出典がよく解らないのだが、桓武天皇から坂上田村麻呂に長岡京の紫宸殿が下賜されたことを書いているサイトがやたらある。JTBやJR西日本のサイトでもそう書かれているので、そのような言い伝えがあることは間違いなさそうだ。

以前このブログで「桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-65.html

桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京に遷都したのだが、延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺され、その事件に連座したとして桓武天皇の異母弟で皇太子であった早良親王が憤死。その後桓武天皇の身の回りに不幸な出来事が相続き、桓武天皇は延暦13年(794)に平安京への遷都を行なう。その時には長岡には紫宸殿となるべき建物が残されていたのだが、使い道のなくなった建物を、東征の功績にと田村麻呂に下賜したという可能性は高いような気がする。
田村麻呂の時代には清水の舞台は存在しなかったようだが、それでもこれだけの境内に相応しい本堂となれば、かなりの規模であったはずだ。桓武天皇の下賜がなければ、坂上田村麻呂が大きな堂宇を建てることは難しかったのではなかったか。

坂上田村麻呂は光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と4代の天皇に仕え、嵯峨天皇の時代の弘仁2年(811)5月に54歳で没したが、『日本後紀』巻第二十一に田村麻呂の業績を讃える文章がある。業績を書いた後にこう締めくくっている。
「…しばしば征夷のため辺地で軍事行動に従事し、出動するたびに功績をあげた。寛容な態度で兵士に臨み、命を惜しまず戦う力をひきだした。粟田の別荘で死去し、朝廷は従二位を贈った。行年五十四」(講談社学術文庫『日本後紀 中』p.229)

短い文章ではあるが、坂上田村麻呂は、武人としてだけではなく、人間的にも素晴らしい人物であったことが窺える。だからこそ、阿弖流為と母礼が田村麻呂に恭順の意を示したのだと思うし、4代もの天皇から厚く信頼されたのだと思う。

坂上田村麻呂は嵯峨天皇の勅命により、武具をつけたまま都に向かって立ったまま葬られたと言い伝えられているのだが、おそらくそれは真実なのだろう。

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大正八年(1919)に発掘された京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」は八世紀後期か九世紀前期のものとされ、内部からは武人のものと思われる純金装飾の太刀、金銀の鏡などが出土したという。この場所は平安後期に編纂された『清水寺縁起』に記されている場所とほぼ一致するのだそうだ。
http://saint-just.seesaa.net/article/43909122.html

田村麻呂は死してもなお、都を守り、国を守ってほしいとの嵯峨天皇の思いが伝わってくるようだ。
嵯峨天皇からすれば東北地方は京の都の「鬼門」となる東北の方角であったがゆえに、その東北の「蝦夷」を打ち破った坂上田村麻呂は古代の英雄となり、『公卿補任』という平安時代後期に編纂された書物には、田村麻呂について「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」と書かれているという。
その後坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになる。坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地にあるのはそのためなのだそうだ。
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺

下の画像はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「清水寺」の絵である。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_171.html

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下の画像が現在の伽藍配置である。「都名所図会」では上方向が北東で、現在の配置図は上方向が東に描かれていているのに注意して見て頂きたいのだが、「都名所図会」で左下に描かれている「子安塔」が、今では国宝・本堂(清水の舞台)の南方に移転していることがわかる。

清水寺境内図

昔は仁王門のすぐ近くにあった「子安塔」の明治期の写真が今も何枚か残されている。 s_minagaさんが、「がらくた置場」という自身のホームページに、古寺の塔に関する膨大なデータを残しておられる。
このホームページの中にご自身が集められた古写真などが貼られていて、つぎのURLが清水寺の「子安塔」のページである。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_seisuiji.htm

s_minagaさんの「リンクフリー」の言葉に甘えて明治5年の「子安塔」の写真を掲載させていただく。この写真の右側に写っている道は「清水坂」で、今では多くの土産物屋が立ち並んでいるところだ。

明治5年koyasu_11

この「子安塔」を清水寺の「仁王門」あたりから写している写真も残されているのだが、この仁王門はかなり傷んでいることが見て取れる。屋根の檜皮葺の傷みもひどいが、そもそも屋根そのものが垂れ下がっていて、二層部分と屋根につっかえ棒が何本か立てられて支えられていたことが画像で分かる。

kiyomizu仁王門

この写真が撮影された時期は幕末から明治16年までの間だとs_minaga氏は書いておられるが、現在では京都の観光地人気No.1の清水寺においてすら、明治の初期はこのような状態を修理することすらできなかったのである。それはなぜなのか。

その理由は、明治元年三月に明治政府が発令した「神仏分離令」で神仏を分離し、「上知令」で寺有地のかなりの部分を強制的に国有化し寺院の収入源を激減させたことと、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が吹き荒れたことにあるのだが、このことは清水寺だけの問題ではない。この時期にわが国の多くの寺院が経済基盤を失って廃寺となり、同時にわが国は多くの文化財を失ったのだ。

梅原猛氏は、「もし明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝と呼ばれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるようだが、この時にわが国の寺院の半数以上が廃寺となった史実は、ほとんどの歴史書にはキレイごとを書き連ねているだけで何も書かれていないのが現状だ。
東大寺、法隆寺、興福寺など古い有名なお寺が今も数多く残っているのだが、このような有名寺院ですら明治初期という時代を乗り越えるために大変な苦労があったことをこのブログでいろいろ書いてきた。
興味のある方は、次の「にほんブログ村」の次のトラコミュに私の有名寺院の廃仏毀釈に関する36の記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

明治までのわが国の宗教は、日本古来の神祇信仰と仏教とが混然一体となった「神仏習合」という状態が当たり前であったのだが、江戸時代後期に平田篤胤らを中心に尊王復古を唱える国学が盛んとなり、それが尊王倒幕運動の思想的バックボーンとなり、明治維新を迎えると神道を国教化しようとする流れから「神仏分離令」が布告されたのである。
彼らの考えでは仏教も異国のものであり、神仏習合によって古来の神道が穢されてしまった。したがって仏教は排除すべき対象であるというものであった。

清水寺の謎

清水寺学芸員の加藤眞吾氏が書かれた『清水寺の謎』という本が祥伝社黄金文庫にある。そこに清水寺の廃仏毀釈のことが記述されている。

「『清水寺史』によると、江戸時代を通じて幕末までは、二十いくつかの塔頭(たっちゅう)があった清水寺だったが、現在は八つしかない。
同時に行われた上知が、決定的な打撃だった。上知は土地をとり上げること。清水寺もさまざまな寄進、寄付から幕末までは、洛中などに領地を保有していた。そこから上がる年貢などの上納が、寺の経済を支えてきた。これを根底からくつがえされては、寺の経営が成り立たない。
上知は二度にわたって行われた。まず第一回目の上知で、かつて十七万坪からあった境内地は、十五万坪強となった。追い討ちをかけた第二回目の上知で、さらに減らされた。一気に一万三千四百坪強になった。十五万坪に対し一万三千坪。なんと九%にまで激減したのである。(後に、明治末期近くなって、常置された土地の払い下げ願いが実現し、旧境内地の23%にあたる三万六千坪強まで回復した。)
本来、檀家を持たない清水寺は、参詣者の寄進と祈禱寺院としての収入、公家などの朝廷関係者の後援、領地からの年貢などで成り立っていたのに、公家は東京へ移り、さらに参詣者寄進はともかく、収入の大半を占めていた年貢収入などの部分が完全に断たれたのである。」(『清水寺の謎』p.127-128)

「塔頭」というのは禅宗において高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)、または、その敷地内に建てた小さなお寺のことをいうが、昔の塔頭の配置図を見ると、今の門前の参道にも、境内にも多くの塔頭が点在していたことがわかる。ところが、明治に入ってその多くが運営できなくなって廃院のやむなきに至ってしまったために、境内の南側の多くが空き地になっていった。
下の図が加藤眞吾氏の著書の中にある江戸時代の清水寺の伽藍配置だが、この中で今も残っているのは、成就院、宝性院、慈心院随求堂、延命院、来迎院経書堂、真福寺大日堂、善光寺堂 (旧地蔵院:移転)、泰産寺(移転)の八つだけである。冒頭に写真を紹介した「子安塔」は清水寺門前にあった泰産寺の三重塔だ。

江戸時代の清水寺

また清水寺は幕末以来住職不在が続いていて、明治8年(1875)になってやっと成就院住職であった園部忍慶が清水寺住職(貫主)就任を認められているという。
園部忍慶貫主らの努力と多くの信者の支援の結果、廃仏毀釈で荒廃した建物の修繕がなされていったが、明治政府が文化財の保護に動くのは、明治30年に古社寺保存法が制定された以降のことである。その時に清水寺本堂は特別保護建造物(国宝)に指定され、ようやく本堂と舞台の大修理が行われ、35年(1902)6月に、本堂修理の完成に伴う落慶法要が営まれたという流れだ。

京都府庁文書に『寺院境内外地』という明治36年に作成された文書がある。その文書は、上知令で取り上げられた土地を返還・払下げしてほしいと清水寺が官に願い出たものなのだが、その文書の中に払下げ後の堂宇の再配置構想が書かれているという。
実際に実施されたのは泰産寺とその子安塔を南に移転しただけだったが、その構想では「縁結びの神」で有名な「地主神社」を門前の子安塔の跡地に移転するほか、阿弥陀堂や朝倉堂、経堂なども南苑に移転する計画だったそうだ。もしこの計画が着実に実行されていたならば、境内の様相は現在とは随分異なるものになっていたはずだ。

地主神社

加藤眞吾氏によると、明治時代の清水寺は一部の堂宇が修復されたとはいえ、厳しい状態であることには変わりなかった。荒廃した清水寺が復興していったのは大正時代以降で、大西良慶和上が中興の祖だと書いておられる。
大西良慶和上は明治8年に生まれ、大正3年(1914)に奈良興福寺の住職と兼務で清水寺の住職として晋山されているが、その当時の清水寺はどんな状態であったのか。

加藤氏はこう書いている。
「和上が晋山された当時の清水寺は、明治維新からかれこれ50年、諸堂の修繕や境内の整備に努め、廃仏毀釈や上知の打撃から少しずつ立ち直りつつあったとはいえ、せっかく残った塔頭でも無住のところもあり、僧侶の住む諸院や子院は荒廃しきっていた。和上が晋山した際の挨拶状に、『法務の都合上、当分、清水寺本坊成就院に留錫(りゅうしゃく)する』とあり、成就院に居を置いたが、この成就院ですら『内玄関から入る間でも、雨が降ったら、傘をさして廊下歩かな、裸足で歩けんほど雨漏りした』(和上回顧談)といった状況だった。」

大西良慶

良慶和上は、なおざりにされていた清水寺の年中法会を、厳重に奉修することから始められ、明治期には禁止されていた伝統行事を復活され、全国各地に布教のための法話をされて、信徒組織の充実にも努められたという。
また廃寺、廃院になった清水寺の塔頭の仏像や法具は収蔵する場所がなく、境内に長らく散乱していた時期があったようで、その後長期間にわたり経堂が収蔵庫代わりに使われていたのだが、ようやく昭和59年(1984)に大講堂が建てられ、そこに宝物殿が付設されて、仏像などは安住の地を得ることができたのだという。
残念ながら大西良慶和上は大講堂や宝物殿が完成する前年の昭和58年(1983)に109歳という長寿で世を去られたが、廃仏毀釈で衰退した寺を見事に復興させたことで、墓碑には「中興開山 良慶和上」と刻まれているのだそうだ。

明治初期の「廃仏毀釈」を調べていくと、直接的な破壊活動の影響も寺院によっては大きかったが、「上知令」などによって経済的基盤を奪われたことの影響が特に大きかった。さらに宗教者としての誇りを奪われたことによるダメージもかなりあったことが分かる。

佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』という本にはこう書かれている。

「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者から布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職という名の乞食でした。生活の保証はなかったのです。しかも明治二十二年六月以来被選挙権は奪われ、同二十七年二月には選挙運動を禁止され、同三十四年十一月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。一夜にして神職は国家官吏となり、住職は剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧といわずして何と言えるでしょう。寺院から菊の紋章を取りはずし(明治二年)、寺領を没収し(同四年)、僧侶に肉食妻帯させて(同五年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同五年)、傍らで神職に給料制度をしき(同六年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同六年)、学校から神道以外の宗教教育をしめ出し(同三十九年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。」(『廃仏毀釈百年』p.23-24)

清水寺2

現在残されている古い寺院の建物や文化財は、貴重なものであると認識されていたからこそ、長い歴史の中で僧侶と信者が力をあわせて、何度も危機を乗り越え護られてきたものであり、明治国家の神道原理主義的な圧力にも抗して現在まで残されてきたものであることを、決して忘れてはならないのと思うのだ。

今では清水寺を訪れる観光客は年間1000万人を超えるとも言われている。このように観光客の多い寺社はまだ何とかなるだろうが、このような寺院はごくわずかだけであり、素晴らしい文化財を持ちながらも観光収入がほとんどなく、檀家からの収入も先細りになっている寺院の方がはるかに多いことだろう。古い歴史を持つ神社も同様である。
あらゆる事業に損益分岐点があるように、お寺や神社にも一定以上の収入がなければ文化財の維持どころか、僧侶や神官の生活も厳しくならざるを得ないのはいつの時代も同じなのである。

規制緩和が進んで大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊し、地方に定住して生計を立てることが困難になって、多くの若い世代がやむを得ず地元を離れて、都心に職を求めて生活をするようになって久しい。
しかし長い目で見れば、若い世代が地元に残らなければ、その地域にある歴史ある寺や神社を支える人がいなくなってしまう。同時に地域の伝統文化や行事も担い手を失い、いずれはその地域の観光地としての魅力をも失うことになっていく。
数百年以上続いた地方の文化や伝統が、経済合理主義のためにこれ以上破壊されていくのを何とか押しとどめたいといつも思うのだが、私にできるのはせいぜい地方の社寺を巡って地元に僅かばかりのお金を落として帰ることだけだ。

清水寺成就院石仏

清水寺成就院参道の右手には様々な石仏が立ち並んでいる。これらはかつて京都の各町内でお祀りされていた「お地蔵さん」で、これらは廃仏毀釈の際に捨てるには忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民によってここに運び込まれたものだそうだ。
平成時代の市場原理主義的施策が、明治時代の神道原理主義的施策と同様な結果を招くことがないことを祈るばかりである。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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