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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。
この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃寺となり、内山永久寺のほかにも、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(おおみわでら)も姿を消してしまった。

古寺巡礼

和辻哲郎の『古寺巡礼』に、聖林寺にある国宝の十一面観音立像は天平時代のもので、かっては大御輪寺の本尊であり、この国宝仏がどのような経緯で聖林寺に移されたかが書かれている。
「…この偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せらるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草の中に横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真言寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守りいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。」(岩波文庫『古寺巡礼』p.72)

聖林寺

ところが聖林寺のホームページでは、廃仏毀釈の前触れがあったので、慶応4年5月16日に十一面観音立像を大八車に載せてこの地に避難したと書かれている。
http://www.shorinji-temple.jp/about/about04.html
破壊される前に運ばれたか、破壊後に運ばれたかでは話が違いすぎるのだが、どちらの説が正しいかは今となってはよく解らない。
ただ、難を逃れるために事前に運んだにしては、頭上最上部にある10面のうち3面が失われており、特に光背は上の部分が大破して全体の形が不詳なのだそうだ。和辻氏には嘘を語る動機は乏しく、聖林寺にとっては路傍にころがしてあったという話は出来れば隠しておきたいとする動機があってもおかしくない。直感的には私は和辻説のほうが正しいような気がする。

四條隆平は多くの寺や仏像などの破壊を命じたのだが、私が探した範囲内では、仏像や仏画などを私物化して売却し、私腹を肥やすような話は見当たらなかった。
しかし、このような時期であれば、もし県の最高権力者である県令がその気になりさえすれば、寺院の美術品や工芸品を私物化したり、転売して私腹を肥やすことは簡単にできたと考えられる。そして実際にそのような県令が奈良にいたのである。

神奈川仏教文化研究所の朝田純一氏が、『埃まみれの書棚から』という奈良の古寺、古仏についての素晴らしいホームページを立ち上げておられる。その中で昭和2年の文藝春秋7月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」と題し、芥川龍之介、菊池寛も座談に加わって語られた内容の記事の一部が引用されている。

尾佐竹猛

尾佐竹猛(おさたけたけき)という人物は明治文化社会史研究家で当時は大審院(今の最高裁)判事だった人物だが、彼の発言に注目である。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

「柳田:○○○事件ですか。それから一番ひどいのは○○子爵ですね?
尾佐竹:堺の県令をして居る時分に奈良の大抵の社寺の古物などを持って帰るのですね。 あれなんか県令の勢で強奪したり又はすり替へるのですからね。
芥川:さういふのは裁判沙汰にならなかったのですか。
尾佐竹:明治初年の県令といふものは大名の後継者の積もりで素破らしいものであり、司法権も警察権も有ってゐるといふ大したものでしたからね。
そして民間は奴隷根性が抜けぬ時ですからね。
柳田:奈良の古物といふものは、あの時分によほど多く無くなったといひますね。
尾佐竹:県令が御覧になるからといって取り寄せて返さぬ、又は、刀の中味などをすり替へて返す。
それはまだいいとして、属官が旅費を貰って出張して、古墳を堂々と発掘して、その地方の豪家に命令して泊まって、そして貴重品は県令様のポケットに納まるといふのですからね。
それで居て旧幕時代の奉行代官から見ると善政を施してゐるといふのですよ。
奉行代官から見るとそれでもまだズッと清廉潔白なんです、まるでレベルが違ひますからね。
芥川:さうですかね嫌になっちゃふね。
尾佐竹:まだいろんな事がありますね。けれども余り言ふといけないから。」

税所篤

「○○子爵」というのは、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)という人物のことである。
税所が「堺県令」であったのは明治4年(1871)11月から明治14年(1881)2月であるが、以前このブログでも書いた通り、明治9 (1876) 年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入されてしまって「奈良県」が消滅してしまった。
その後「奈良県」が再設置されるのは明治20年(1887)11月であるから、11年半にわたり「奈良県」が地図から消滅したのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県が再設置されるまではいろいろドラマがあったのだが、詳しく知りたい方は奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国 ―奈良県誕生物語―」がネットで読むことが出来て内容もわかりやすくて面白い。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

話を奈良県が堺県に編入された明治9 (1876) 年4月に戻す。その時点から、堺県令であった税所が現在の奈良県地区の最高責任者となり、先ほど引用した尾佐竹氏の言葉を借りれば、司法権も警察権も握ったのである。

彼が堺県令として具体的にどうやって奈良の寺院の文化財を手に入れたについて詳しく記されているような文章はネットでは見つからなかったが、彼を批判する文章は、先ほど紹介した朝田純一氏のホームページでいくつか引用されている。

例えば
「内山永久寺の廃寺と共に、権勢家であった税所篤が寺宝を収奪したのであった。」(森本和男「文化財の社会史」)
税所篤も、明治初年の混乱期にしばしば顔を見せる、いわくのある人物であった。」(由水常雄「廃仏毀釈の行方」)

朝田氏によると、明治21年に当時の美術行政を策定してきた九鬼隆一氏が大規模な宝物調査を実施し、寺社所蔵品や個人コレクションの目録作成が行われたそうだ。その時の宝物目録が東京国立博物館にあり、奈良県の個人コレクターのランキングが『文化財の社会史』という本に出ているのだそうだ。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

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税所篤が集めた古美術品の優等品・次優等品はすべてが絵画だったそうだが、薩摩の下級武士出身であった税所篤が、なぜ奈良県の個人コレクターでダントツの1位となりえたのか。このランキングを見て、これらの逸品をこの人物がまともなルートで手に入れたと考える人は殆んどいないのではないだろうか。

先程紹介した昭和2年(1927)の文言春秋の座談会の記事は、税所篤がこの世を去ってから16年も経過しているのだが、それにもかかわらず文芸春秋は税所の名前を伏せている。薩長の藩閥政治が終焉したのは大正13年(1924)の護憲三派内閣成立により政党内閣の慣行が生まれてからだと言われるが、昭和に入っても明治政府に対する批判につながる発言がおおっぴらにはできなかった時代が続いていたと考えればいいのだろうか。

税所篤が寺院から古美術品を強引な手法で集めたかどうかについては、具体な記録が残されていないので想像するしかないが、税所は考古遺物についても収集癖があり、堺県令時代にいくつもの古墳を発掘して考古遺物を強引に手に入れたとの疑惑があることが、朝田氏のホームページに記されている。

朝田氏は税所県令が発掘に関わったものとして朝田氏は、松丘山古墳(大阪府柏原市)、長持山古墳(大阪府藤井寺市)、美努岡萬墓(奈良県生駒市)、仁徳天皇陵(大阪府堺市)の4つを挙げておられる。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana146.htm

松丘山古墳は4世紀ごろの前方後円墳で、江戸時代に7世紀の船王後(ふなのおうご)墓誌が出土し、西琳寺という寺の寺宝になっていたのを、廃仏毀釈の時に税所篤県令の手中になったそうだ。その後県令は古墳群を掘り返して、古剣や鏡片などが発掘されたという。
長持山古墳、美努岡萬(みののおかまろ)墓は省略するとして、最後の仁徳天皇陵は誰でも知っている我が国最大の前方後円墳である。以前このブログでこの古墳のことを書いたが、最近の教科書では、被葬者が誰であるかが特定されていないため、『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』とか『大山古墳』とか『伝仁徳陵』などと呼ばれているようだ。ややこしいので、とりあえず、ここでは『仁徳天皇陵』と呼ぶことにする。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-123.html

税所篤はこの『仁徳天皇陵』の石室を発掘し、その副葬品を持ち出したという疑惑があるのだという。

img20120418234351359.jpg

以前このブログで、ボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」が収蔵されていることを書いた。

この副葬品が発掘された経緯については、明治5年の秋に台風による土砂崩れのために仁徳陵の前方部が一部崩壊してたまたま石室が露出し、副葬品が持ち出されたものと長い間信じられていた。しかし、最近の研究では税所篤が意図的に発掘し盗掘したという説が有力なのだそうだ。
しばらく朝田氏の文章を引用させていただく。

「(税所篤が盗掘したという説が唱えられた)きっかけは、昭和48年、堺市の旧家に、堺県令、税所篤名の、このような文書が残されていることが、報告されたことによる。
『仁徳陵が鳥の巣窟になって汚穢不潔であるので、鳥糞を取り除く為に清掃を行なう伺い出したところ許可されたので、清掃を行なったところ、甲冑や剣、陶器ならびに広大な石櫃が見つかった。その検分の為に官員の派遣を要請する。』
という内容の文書で、教部卿宛に出されている。

この伺いへの回答文書も、併せて残されている。
その内容は、石室・石棺のことには一切触れておらず
『鳥糞の掃除は、即刻中止し差し止めること。墳丘内の仮小屋や小船も撤去すること。』
という厳しい口調の内容で、言外に発掘行為を事実上不能にさせるものであった。

仁徳天皇陵

この文書に着目した、考古学者・森浩一は、
『仁徳天皇陵の石室の発掘は、当時の堺県令・税所篤が、鳥糞の清掃等が必要という口実をつけて、計画的に大掛かりに発掘を行なったものに違いない。ボストン美術館所蔵の考古遺物は、このときこの石室から持ち出されたのがほぼ間違いないだろう。
明治5年の発掘経過を振り返ると、これらの遺物が、堺県令・税所篤によって持ち出された疑惑はやはり大きく、時間をかけて真相を明らかにする必要がある。』と、論じた。

この説にも、異論がないわけではないが、税所篤が、仁徳陵の石室を、口実を設けて計画的に発掘したという考え方が、現在では主流になっているといってよいようだ。」

ボストン美術館にある副葬品に税所篤がどこまで関与したについては証拠となる記録があるわけではないが、証拠がないので関与してないと断ずるのには違和感がありすぎる。
税所が仁徳天皇陵の石室を発掘したことは確実で、この男の所業化や収集癖からすれば、副葬品を発掘するために盗掘まがいのことを為したことを疑うのが自然だと思う。

また税所篤は大久保利通と子供の頃から仲が良かったらしく、Wikipediaで「大久保利通」の項目を読むと、何度か税所の名前が出てくる。ちょっと気になるのが、大久保利通が明治8年に麹町三年町に建てた白い木造洋館を建てた建築費用は「恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる」と書かれているところだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
税所が大久保に貸した金額までは判らないが、洋館の建築資金ともなれば少ない金額ではなかっただろう。税所がこの金をどうやって捻出したかが問題なのだが、普通に考えれば、県令である税所の収入が大久保よりも多いはずがないではないか。

この税所篤が明治14年(1881)まで堺県の県令を勤め、明治20年(1887)に奈良県が再設置された時に再び奈良県の知事となり、同じ年に維新の功を認められて子爵になっており、彼の疑惑が追及されることはなかったようなのである。
明治政府の人材レベルはこの程度のものでしかなかったのか。あるいは、この程度のことは他にもいくつもあったなど処分できない事情があったのか。

徳川幕府も腐敗していたかもしれないが、明治の初期に山縣有朋や井上馨のひどい汚職事件がありながら、その後処分もされずに登用され続けていることを知ると、明治新政府も権力を掌握した早い時期から腐敗していたと思わざるを得ない。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述を、それが史実であると鵜呑みしていいのだろうかと疑問に思う事がある。ひょっとすると我々は、教科書や小説などを読み映画やテレビドラマなどを見ているうちに、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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津山城址と千光寺の桜を楽しむ

毎年桜の時期になると、桜の美しいところを訪ねてブログの記事を書きたくなるのだが、ずっと以前にポスターで見た岡山県の津山城址の桜が素晴らしかったのが気になっていた。
たまたま4月に広島方面に行く予定があったので津山市に途中で立ち寄ることにし、津山城址の満開の桜をこの目で見て、あわせて津山市の名所旧跡などを訪ねることにした。

津山城は、織田信長の小姓・森蘭丸(もりらんまる)の末弟の森忠政(もりただまさ)が、慶長8年(1603)に徳川家康・秀忠父子から美作国18万6500石を受封し、翌年から元和2年(1616)まで12年かけて、津山盆地の中央部にあった鶴山(つるやま)と呼ばれた丘陵に築城したお城である。
往時は77棟もの櫓(やぐら)があり、天守閣は四重五階の立派なものであったそうだが、明治6年(1873)の廃城令により大蔵省管理とされた後に売却され、明治7年(1874)から8年(1875)にかけて石垣を残してすべての建物が解体されてしまったという。

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津山藩の城代家老職を務めた松平国忠が明治5年か6年ごろに撮影した写真が残されているが、かなり大きな城であったことがこの写真を見ればわかる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E

この津山城の跡地を、明治32年(1899)に公園にすることを条件に津山町に払い下げられ、その後鶴山公園(かくざんこうえん)として整備されていくのだが、当時津山町議会議員(後の津山市議会議長)であった福井純一らの尽力でこの地に桜の木が数多く植えられて、昭和3年(1928)ごろには、春には城址全体が桜で覆われる現在の姿になったと言われている。

財団法人日本さくらの会が全国各地の桜の名所を100箇所選定した「日本さくら名所100選」というのがあるが、岡山県で唯一この鶴山公園が100選に選ばれている。
http://www.sakuranokai.or.jp/information/

自宅を早朝に出て、9時前に津山観光センターの駐車場に到着した。
朝早かったのでまだ観光客も少なく、城址を包み込むような満開の桜の圧巻の景色を楽しみながら、少しずつ石段を登って行く。

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津山城築城400年を記念して平成年(2005)に備中櫓が復元されている。美しい石垣の上に立つ備中櫓の白い壁の周囲を囲むように咲く桜が、青い空をバックにすると一段と映えるのである。

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昨年に「天空の城」で名高い竹田城を訪れてその石垣の堅牢さに驚いたが、津山城の石垣も見事な石垣である。この石垣を築造したのは、竹田城と同じく近江の国の穴太衆(あのうしゅう)で、石垣の反りが実に美しい。

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天守閣址から鶴山公園を眺める桜もまた素晴らしい。公園には数多くの露店が店を開けているのだが、満開の桜の花が露店や観光客のほとんどを覆い隠してしまっている。街中に咲く桜のほとんどは、道路の通行の妨げにならないように枝を短く切られてしまうのだが、鶴山公園の桜は、それぞれの桜の木が陽光を求めて枝を拡げて、多くの花を咲かせているのが良い。

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鶴山公園の桜に堪能した後、公園の南にある津山郷土博物館に入る。この建物は昭和8年に建てられ昭和57年までは津山市庁舎として利用されていたもので、国の登録文化財となっている。

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たまたまこの日は3階の展示物を入れ換え中で、一日違いで江戸一目図屏風や津山景観図屏風など近世以降の展示物を見ることが出来なかったのはちょっと残念だった。

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また観光センターの西側には大正15年(1926)に建てられたイオニア様式の森本慶三記念館(旧津山基督教図書館)がある。この建物も国登録文化財となっている。
森本慶三という人物は内村鑑三に師事し、キリスト教伝道に努めた人物で、建物内には幕末から明治にかけての洋学資料や、津山藩の道具類、森本慶三に関する資料などが展示されていた。

観光センターの駐車場を出て、出雲街道を東に進んで作州城東屋敷に到着。その奥にだんじり展示館があったので覗いてみた。
だんじりは岸和田など大阪府泉州地域のお祭りが有名だが、岡山県にもだんじり祭りがあることは知らなかった。
自宅に戻って調べると、岡山県のだんじり祭りは津山祭り、倉敷市児島の鴻八幡宮例大祭、真庭市の久世祭りなどがあるが、津山のだんじりは400年の歴史があり、約50台のだんじりの内27台が岡山県の有形民俗文化財に指定されているという。そしてそのうちの4台が、このだんじり展示館に保管されていたようだ。

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津山のだんじりは岸和田のものよりかはやや小振りだが、どのようにだんじりを曳くのか興味を覚えたのでYoutubeで確認すると、津山のだんじり祭りも屋根の上で踊る大工方の動画が確認できた。
http://www.youtube.com/watch?v=3SL4gTb2BI8
さらに調べると、津山のだんじりは明治以前は「ソーヤレ」という掛け声とともに神輿のように担がれていたようだ。もともと人が屋根の上で踊るようには作られていないためにあまり派手に屋根の上でパーフォーマンスを行なっては、貴重な文化財を壊してしまう懸念があると書いてある。大工方が躍っているだんじりは、かなり補強がなされているのだろう。
http://www.e-tsuyama.com/ichioshi/2012/10_matsuri/danjiri/mukashi.html

津山祭は毎年10月の第3週の土日と第4週の土日に行われ、総鎮守の徳守神社の祭礼には、日本三大みこしの一つとされる文化6年(1809)に造られた1トン超の重量のある「徳守神社の大神輿」が繰り出すのだそうだ。
http://mikoshi.danjiri-jp.net/tmikoshi/

これだけ大きな神輿は担ぎ手を集めるのが大変だ。昭和40年(1965)に担ぎ手不足から台車に載せての巡行がしばらく行われたのだが、昭和46年(1971)に津山青年会議所の音頭で若者を120人集めて担いでの巡行を復活させ、今に続いていることは素晴らしいことである。
私の実家の近くの神社も同じような時期に担ぎ手が集まらなくなり、伝統ある神輿が新調されて随分小さくなってしまった。それ以来私にとっては地元の祭りに愛着を覚えなくなってしまった。

地域の伝統行事や文化は同じことを世代から世代につないでこそ意味がある。地域の人々が伝統の重さを伝えていくことで、共同体としての地域が纏まっていくということの価値があると思うだが、多くの地方で世代をつなぐ媒体としての伝統文化を失い、あるいは引継ぐべき若い世代を失ってしまっているのは悲しい。津山の人々にはこれからもがんばって400年の伝統の祭りを繋いでいってほしいものである。

作州城東屋敷に車を置いたまま、近くにある千光寺のしだれ桜を見に行く。
千光寺というと広島県尾道市にある千光寺公園が「日本さくら名所100選」に選ばれているが、津山の千光寺も桜の名所として知られている。このお寺は室町時代に開創されたそうだが、戦国時代に戦火で焼けたのか、その後200年の寺の歴史はよく解らないのだそうだ。

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このしだれ桜は樹齢150年程度とされるが、なかなか見事なものである。例年は鶴山公園の桜が咲いた後に満開となるのだそうだが、今年は鶴山公園より早く満開を迎えてしまった。なんとか間に合って良かった。

<つづく>
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開国・維新後のわが国の近代化の礎を築いた津山の洋学者たち

千光寺の枝垂れ桜を楽しんだ後、西新町の出雲街道沿いにある津山洋学資料館に向かう。

以前の洋学資料館は出雲街道沿いをもっと東に進んだ場所に赤レンガの建物があったそうだが、平成22年3月に現在の場所に移転したばかりなのだそうだ。ここには『解体新書』『本草綱目』などの古書や、木製の人骨模型や、さまざまな道具や文書などわが国の洋学の貴重な史料が多数展示されている。駐車場もあるので出雲街道沿いの町並み保存地区近辺を散策するのにも都合がよい。

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津山は江戸時代後期から明治初期にかけて優れた洋学者を数多く輩出している。
学生時代の教科書や参考書でこの時代の洋学者の名前が何人か記載されていたが、そのうちの多くが津山にゆかりのある人物だとは知らなかった。

宇田川玄随(うだがわげんずい)・宇田川玄真(うだがわげんしん) ・宇田川榕菴(うだがわようあん)・箕作阮甫(みつくりげんぽ)・津田真道(つだまみち)の五名を「津山洋学五峰」と呼ぶのだそうだが、このモダンな資料館は、津山にゆかりのあるこの五名の洋学者を顕彰する意味合いで五角形にデザインされたのだそうだ。

宇田川玄随

宇田川家は代々江戸詰の津山藩医を勤めてきた家系で、宇田川玄随(1756-1798)は、もともとは漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢と交流するうちに蘭学に転向したのだという。わが国最初の蘭和辞書である「ハルマ和解(わげ)」を、蘭学者の稲村三伯らとともに編纂し、またわが国で最初に西洋内科学の書物を翻訳し『西説内科撰要』を著した人物でもある。

宇田川玄真

宇田川玄真(1770-1835)は伊勢国の出身で、若くして杉田玄白、大槻玄沢に蘭学を学び、宇田川玄随が亡くなると宇田川家の当主として養子に入りその跡を継いだ人物で、医学のみならず、化学、自然哲学など幅広い分野で日本の洋学の礎を築いたと評価されている。

宇田川榕菴

宇田川榕菴(1798-1846)は江戸に生まれ、父の師匠である宇田川玄真に才能を見出されて玄真の養子となり、玄真との共著で薬学書を何冊か出版しているほか、わが国で最初に西洋の植物学を伝え、近代化学を紹介した人物である。

しかし、西洋の学問を伝えようにも西洋で使われている用語の多くがわが国に存在しなかった時代である。翻訳といっても機械的に訳すわけではなく、日本語にない用語をわかりやすく適切な言葉を考案して置き換えていかなければならないのである。この作業は高度に知的なものあることは言うまでもない。
こういう先人たちの努力があったからこそ、我々日本人は日本語で世界の最先端の知識を吸収できるようになったのである。このことはわが国の基礎科学が強いことと無関係ではないはずだ。

今日当たり前のように使われている用語は、宇田川玄真や榕菴が作った言葉がかなりあることを知って驚いた。
Wikipediaによると「分泌器官に用いる『腺』や膵臓の『膵』の字などの医学用語を作成(字を発見し当てはめたわけではなく造字した)したのも(宇田川)玄真の功績の一つである」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E7%8E%84%E7%9C%9F
そもそも「膵臓」は和漢の解剖学の知識において認識がなく、杉田玄白らが1774年に出版した『解体新書』では、オランダ語"alvleesklier"から「大機里爾」と表されていたのだそうだが、こんなわけのわからない当て字ばかりが並んでいたら、誰でも途中で読む気がしなくなるだろう。
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%86%B5

また宇田川榕菴に関しては、「酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語」なのだそうだ。また、私の大好きなコーヒーを「珈琲」と表記することを考えたのも宇田川榕菴だという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%A6%95%E8%8F%B4

このような伝統があるから、その後もわが国は西洋の最先端の学問の基本用語を翻案し続けている。「素粒子」「陽子」「電子」「化学」「物理」など、漢字文化圏に存在しなかった言葉を日本人が作り出してきているのだ。日本語で基礎科学が学べるからこそ、わが国の研究者は日本語で深く思考することが出来し、学生もテキストを読んで基本を早くマスターすることが出来る。

一方、お隣の韓国では英語のテキストで基礎科学を教えている。韓国人は外国語を学ぶ負担が大きいために内容理解が浅くなり、深く考えることが出来ないという韓国日報の論説が次のURLに紹介されているが、この主張の通りではないかと思う。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/14d2499f8076680e26530cad5d60e2a3

漢文を読み下すのと同様に最先端の西洋科学を日本語で理解しようとし、後進の研究者達が日本語で西洋科学を学ぶ道筋をつけた津山の洋学者たちの功績は、もっと高く評価すべきではないだろうか。わが国は明治以降富国強兵と殖産興業を合言葉にし近代国家建設の道を邁進したのだが、彼らの活躍がなければそれがどこまで可能であったかと思うのだ。

話を「津山洋学五峰」に戻そう。
「津山洋学五峰」のうち宇田川家の3名は津山の出身者ではなかったが、あとの二人は津山の出身者である。

箕作阮甫

箕作阮甫(1799-1863)は津山藩医の箕作貞固の第三子として現在の津山市西新町に生まれたが、4歳の時に父を失い12歳で兄をなくして家督を継ぎ、貧しい暮らしの中で勉学に励んだという。
箕作家の再興をかけて3年間京都で漢方医学の修行をして津山に戻り、その後藩医に取り立てられている。
文政6年(1823)に藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り以後洋学の研鑽を積み、多くの訳述書を残しているが、その分野は医学のみにとどまらず、語学、西洋史、兵学など広範囲にわたっているのだそうだ
http://www.tsuyama-yougaku.jp/mitukurigennpo.html
嘉永6年(1853)のペリー来航時にアメリカ大統領の国書の翻訳を命ぜられたほか、同じ時期にロシアのプチャーチンがやって来た時は、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮したという。
開国後に本格的な洋学研究・教育機関の必要性を認識した江戸幕府は安政3年(1856)に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を設立し、阮甫はその主席教授に任命されている。この蕃書調所が後に東京大学に発展することになるのだ。
http://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/23,16947,131,401,html

  箕作家の系譜が次のURLに出ているが、有名大学の教授や総長(学長)が何人もいるのに驚いてしまう。
http://miguchi.sakura.ne.jp/blog/wp-content/uploads/2013/04/Mitsukuri.jpg

津田真道

津田真道(1829-1903)は津山藩上之町に生まれ、嘉永3年(1850)に脱藩して江戸に出て、箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を学び、佐久間象山に兵学を学んだそうだ。
安政4年(1857)に蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862)から4年間オランダに留学し、帰国後に幕府直参に列せられて開成所(蕃書調所を改称)の教授となり、わが国で最初に西洋法学を紹介した書物である『泰西国法論』を刊行している。
明治6年(1873)に「明六社」の創設に尽力し、明治23年(1891)には第1回衆議院総選挙に立候補して当選し、初代の衆議院副議長に就任している。
津田真道の生家の跡が上之町にあるが、今は石垣だけが残されているようだ。
http://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jyoto/tsudamamichi/index.html

津山に関わる洋学者は他にも大勢いる。次のURLで代表的な洋学者の経歴を調べることが出来る。
http://www.tsuyama-yougaku.jp/mimasakanoyougaku.html

また次のURLでは洋学者の系譜・学統図が出ている。
http://miguchi.sakura.ne.jp/blog/wp-content/uploads/2013/04/Mimasaka.jpg
この中に原敬や平沼騏一郎や東郷平八郎の名前が出てくるので驚いたが、箕作阮甫の三女・つねと結婚して箕作家の婿養子となった箕作秋坪(みつくりしゅうへい)は、明治元年(1868)に浜町(現在の東京都中央区日本橋蠣殻町)にあった津山藩江戸屋敷の一角を借りて、私塾「三叉学舎(さんさがくしゃ)」を開いている。当時東京には洋学塾がいくつかあり、この三叉学舎と福沢諭吉の慶応義塾が「洋学塾の双璧」と呼ばれていたそうだ。
三叉学舎には多い時には百人を超える塾生がいたそうだが、その中に後に首相となる原敬や平沼騏一郎、海軍司令官となる東郷平八郎、早稲田の学長となる平沼淑郎ら、錚々たるメンバーがいたのである。
http://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/23,37528,c,html/37528/686_2.pdf

IMG_7481.jpg

洋学資料館の隣は国指定史跡の箕作阮甫の旧宅だ。
箕作阮甫は寛政11年(1799)に生まれ、文化9年(1812)に戸川町に移転するまでの13年間、この家で過ごしたという。その後この家は明治から大正年代にかけて鍛冶屋、豆腐屋などに使用され、昭和9年(1934)津山市教育委員会が顕彰のため木柱を立て、ついで昭和17年(1942)に津山市が買収したそうだ。
建物全体が老朽化したために昭和50年から51年にかけて解体復元工事がなされ、庭の奥の土蔵に箕作阮甫の業績や箕作家の歴史、復元工事の概要などが展示されている。

次にすぐ近くにある城東むかし町家(旧梶村家住宅:国登録文化財)を訪ねる。

IMG_7469.jpg

城東むかし町家は江戸時代明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許されて茂渡藤右衛門と改名した豪商の家を残したもので、その後数代にわたり「札元」を勤めている。梶村姓を名乗るのは明治4年からなのだそうだ。

IMG_7471.jpg

江戸時代後期頃に建てられた主屋から昭和初期に建てられた西蔵まで、各時代の生活様式に対応した改造・増築が行われてきた建造物がよく保存されている。
この家はまた平成9年にNHKの朝ドラ「あぐり」の主人公の夫の実家として撮影された場所となったようで、ロケの風景などのパネルが展示されていた。

出雲街道沿いには古い街並みが良く残されており、電柱が地中に埋められているので、古い時代の景色を彷彿とさせてくれるものがある。時間があれば徒歩でゆっくりと回っても良かったのだが、スケジュールがタイトだったので昼食を急ぐことにした。

津山といえばごB1グランプリで「ホルモンうどん」が過去入賞しているが、ホルモンはあまり得意な方ではないので、トリップアドバイザーというサイトを参考にして「樹庵」という店を選んだのだが、正解だった。
http://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g1023447-d2026656-Reviews-Juan-Tsuyama_Okayama_Prefecture_Chugoku.html#REVIEWS

ちょっと場所は判りにくいが、「美作の丘」の風車を目指して走れば辿りつく。
古民家を再生して建てられてたお店で、とても落ち着いた雰囲気で食事ができた。

IMG_7490.jpg

この画像のほかにおそばとデザートがついて味もボリュームも満点だ。これで値段が1050円だから大満足だった。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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