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なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3

前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。
通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重根が撃った5発の弾はいずれも伊藤には当たらず、伊藤は別の人物によって上方から狙撃され命中したものが致命傷になったことを意味する。

室田義文は詳細な証言を残したのだが公式書類から抜き取られて、前回紹介した若狭和朋氏の論文(「伊藤博文暗殺■安重根は犯人ではない」)の表現を借りると、わが国政府はこの事件を「安重根の凶行として幕にした」、ということになる。

他にも同様な証言があったようなのだが、ではなぜわが国政府は室田らの証言を隠蔽したのだろうか。本当の犯人は誰だったかを考える前に、何のために伊藤博文がハルビンを訪問したのかを先に考えることにしたい。

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前回の記事で紹介した若狭氏は、伊藤博文のハルビン訪問の目的は朝鮮問題ではなく満州問題であったと述べている。

満州とは現在の中国東北部を指すが、当時の満州はどんな状況であったのか。Wikipediaの解説が解りやすい。

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「ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順大連租借条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得して満洲支配を進めた。
20世紀初期の日本では、すでに外満州(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。
日露両国は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進めて戦勝国となる。これにより南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

韓国については各国ともわが国の自由裁量権を認めていたのだが、満州についてはアメリカも清国もロシアも狙っていた地域であった。そして伊藤博文が暗殺されたハルビンは、清国の領土(満州)ではあったが、ハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であった。
Wikipediaによると、ハルビンには19世紀末から白系ロシア人が急激に増加し、ロシアは1907年には中東鉄道管理局による『ハルビン自治公議会章程』を発布し、埠頭区(現在の道里区)、新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定めロシアの公議会の管轄として清朝と対抗したとある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E5%B8%82
ロシアはこのように、日露戦争で敗戦後も着々と満州の権益拡大をはかっていたのだ。

伊藤博文

前回紹介した若狭氏の論文では伊藤のハルビン訪問の目的についてこう書いている。
「満州はアメリカ、清国、ロシアがそれぞれ食指を動かしているのだから、最悪の場合、日本はこれら三国と敵対することになりかねないとの不安が伊藤の頭を支配していた。後に満州事変に始まる日本の悲劇は伊藤の不安が的中したものともいえる。
…こうした不安を抱いて、伊藤博文は満州に『最後の御奉公』に出かけていったのである。満州問題の根本的な解決の下準備の方途を探るべく伊藤は満州に出向いたのだ。…
伊藤とコ蔵相の会見には、何か重要な目的があるものと推測するのは不自然ではない。清国政府はそのように考え、盛んに情報の収集・解析に努めていた。清国側には日露の接近により、将来、満州問題について清国にとって非常な不利益が生じるとの観測が支配的であった。
そして、伊藤は凶弾に倒れるのである。安重根の『義挙』を愛国至誠の行動とすますのは安易に過ぎると言わざるを得ない。」(『歴史通(2010/7号)』p.84)

安重根が使用したブローニング拳銃はベルギーのFN社製のもので、拳銃の製造番号(262336)から、1906年9月8日に「クンフト社」に販売されたものであることが解っているのだそうだが、この拳銃に関して若狭氏は興味深いことを書いておられる。

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「大野芳*氏は次のような事実を指摘している。つまり第一次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺に使われた拳銃が、同型の次のタイプだというのだ。次からは私の推測である。

クンフト社ならば販売先はロシア陸軍である。皇太子夫妻を暗殺した犯人は『セルビアの民族主義の青年』だと、高校教科書は書く。
だが、これは間違いである。犯人たちはセルビア陸軍の青年将校たちであり、レーニンの同志であった。世界大戦を共産主義革命の起点と考えたレーニンはセルビアの国王や閣僚たちをクーデターで殺し、セルビアを制圧していたのである。クーデターを起こした将校たちはレーニンから支給された武器で武装していたのである。」(同上書 p.82)
*大野芳:ノンフィクションライター。『伊藤博文暗殺事件』の中にその記述がある。

要するに若狭氏は、安重根は伊藤博文の真の暗殺者を隠すための存在にすぎず、真犯人はロシア側にいるという考え方であるが、クンフト社によってロシア陸軍に販売された拳銃が、どういう経緯でレーニンに渡ったかについては、この叙述ではよく解らない。

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確かにロシアには不審な点がいくつかある。
事件の日、伊藤をプラットフォームに連れ出したのはロシア蔵相ココーフツォフで、銃撃の時に伊藤のすぐそばにいながら、かすり傷ひとつ負っていない。
また、前述したとおり、事件の起きたハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であり、不審な人物をVIPに近づかせない義務はロシアにあったはずだが、ロシア軍や警察が多数いた中で、ロシア兵の間から(股の下からという説もある)、拳銃を持った韓国人を伊藤らのすぐ近くにまで接近させて拳銃を発射させてしまった。そしてロシア軍や警察にも負傷者はいなかった。
さらに、ロシア国境裁判所は、安重根らは韓国人であるから、ロシアには裁判管轄権がないと決定した…。

直感的にはロシア関与の可能性はかなり高そうなのだが、もしそうだとすると、ロシアが伊藤を暗殺する動機は何処にあったのか。若狭氏によると、ロシア皇帝にとって伊藤は許しがたい存在であったという。
若狭氏の論文のポイントを引用する。
「日露開戦の前には伊藤は日露協商を唱えて、日英同盟に反対の先頭に立っていた。日英同盟を主導したのは山縣有朋や桂太郎であり、日露協商を主導したのが伊藤や井上馨たちである。…
しかし、…満州のロシア軍の態勢は整うばかりである。日本参謀本部の戦略は、ロシア軍の態勢が整う以前に決戦を臨むことであり、ロシア軍の態勢が整った後には日本には勝ち目はないという判断であった。…明治35年(1902)1月30日、日英同盟は条約として署名され…た。これはロシアにとっては完全な不意打ちであった。
ロシア皇帝の戦略では、あと2年後に日露は開戦すべきであった。ロシアにしてみれば態勢の整う前に戦いを日本から強いられたものであり、その『策略』の中心部にいたのが伊藤博文にほかならなかった――ロシアはそう見たのである。」(同上書 p.88)

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Wikipediaによると、伊藤は日露開戦までは日露協商の立場から満韓交換論を提唱してロシアとの交渉にあたっていたが、山縣や桂は、仮に日露協商が成立しても長続きせず、ロシア側がこれを破棄することは確実で、戦争は避けられないのなら相手の準備が整わない内に早く手を打った方が良いと考えていた。
1902年の日英同盟で、わが国はイギリスを後ろ盾としてロシアに対抗する方針に転じ、1903年8月にわが国はロシアに満韓交換論を提示したがロシアはこれを拒否し、逆に朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、当時の日本としてはのめる提案ではなく、翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうことになる流れだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E9%9F%93%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E8%AB%96

ロシア海軍軍令部編纂『一九〇四・五年露日海戦史』という本には、当時のロシアの戦略が書かれていて、その内容はロシアは朝鮮を全面征服し、馬山浦を完全に根拠地にして、対馬、壱岐を基地化し、日本を完全に無力化する計画であったという。
もし朝鮮半島と対馬・壱岐がロシアに占領され、そこからバルチック艦隊が日本海を最短距離で進んでわが国に攻撃をしかけてきたとすれば、日本連合艦隊が日露戦争に勝つことは厳しかったことは間違いなく、もしわが国が敗れていたら、明治時代に多くの領土がロシアに奪われたとしてもおかしくなかったと思う。

だからロシアにとっては伊藤博文は日露協商・満韓交換論路線の裏切者であり、それにもかかわらず伊藤博文が、復讐心に燃えるロシアに出向いたことが結果として自らの寿命を縮める原因となってしまったことになる。

とは言いながら、若狭氏はロシア政府や皇帝の意志が伊藤暗殺にあったと考えている訳ではなく、ロシアの暗殺史は日本人の発想の外にあるとも言っている。
「日露戦争にロシアの敗色が兆しはじめた時期に、ロシア各地にストライキや暴動が頻発した。明石元二郎やレーニンの同志たちの姿が見える。
バクー油田、プチーロフ工場のストライキ、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱、怪僧ラスプーチンの暗殺、ゼネストの広がりとロシア国内は政治危機の様相を呈してきた。この混乱を背景にポーツマス条約は成立した。」(同上書p.89)

若狭氏の論文は、殺人犯の黒幕がロシアの「特務機関」なのか、レーニンに近いグループなのか、どちらとも読めるような書き方になっている。ひょっとするとレーニンは「特務機関」の中に、工作員を送り込んでいたのだろうか。
また若狭氏は、わが国とロシアとの間に水面下でどのような交渉があったかについては何も触れていない。ただ、最後に「日本は事件を糾明するよりは、朝鮮青年を『犯人』として処刑することにロシアと『外交的に』同意した」とまとめているのだが、ロシア側の資料など確かな資料が出てこない限りは真の犯人グループを特定することは難しいということなのだろう。

わが国政府もロシアに疑いの目を向けたと思うのだが、なぜ真犯人をつきとめることなしに、安重根を犯人とすることでロシアと『外交的に』同意したのだろうか。

わが国が『外交的に』ロシアと同意できるケースとして考えられるのは、犯人を追及しないことで手を打った方がわが国にとってプラスである場合に限られると思うのだが、そのようなケースは、
①ロシアの犯行と分かっていながら、裏交渉でわが国に有利な条件を引き出すことに成功した場合
②犯人をあまり追及するとわが国の立場が悪くなることがわかっている場合(真犯人がわが国側の権力に近い人物に繋がるなど)
のいずれかに限られてくるだろう。

①のケースとしては、
たとえば日韓併合推進派にとっては、伊藤がいなくなったことはチャンスととらえた可能性がある。また、ロシア側に非がある場合は、わが国が事件の追及を緩めることで、水面下で満州権益の確保などの条件闘争を有利に進めたことも考えられる。
あるいは将来的に「韓民会」勢力を温存したほうが、ロシアの弱体化につながるという判断があったのかもしれない。

また②は、わが国の方に伊藤暗殺の黒幕がいたケースである。
ネットなどで検索していくと、伊藤のライバルであった山縣有朋や、政界の黒幕的存在であった杉山茂丸、レーニンに接近し機密工作により日露戦争を勝利に導いた明石元二郎の名前がでてくるようだ。

この事件に関しては多くの史料が伏せられたままなので、さまざまな説がありうるのだが、いずれの説も、新たな資料でも発掘されない限りは、立証困難だと思う。

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話を安重根に戻そう。
安重根が伊藤博文を暗殺しようとして拳銃の引き金を引いたことは間違いがない。
彼が撃った弾丸は伊藤博文には当たっていなかったようだし、当たっていようがいまいが彼の行為は結果として日韓併合を早めたことになるのだが、どういうわけかお隣の国では、この人物を今も「義士」と呼び、国民的英雄扱いにしているようだ。

しかし、普通に考えれば安重根は単なるテロリストか、あるいはロシアからの指令で動いただけの人物なのだが、このような人物を「偉人」として教育しているようでは、お隣の国に世界から尊敬されるような人材が育つとは思えない。
竹島を不法占拠していることだけでなく、対馬市観音寺の仏像盗難まで正当化するのも同根だと思うのだが、このような不法行為を是とする教育をこれからも続けているようでは、隣の国はいずれ国際的信用を失い活力を失っていくことになると思う。

伊藤博文の暗殺事件が起きる18年前の明治24年(1891)5月に、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場において、巡査の津田三蔵が、ニコライをサーベルで斬りつけ負傷させた事件があった(大津事件)。

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若狭氏はわが国とお隣の国の教育スタンスの違いを的確に述べておられるので、最後に引用させていただくことにする。
「わが国ではロシアの皇太子ニコライに斬りつけた大津事件の津田三蔵巡査は教室の偉人ではない。むしろ、本件に腰を抜かした政府の圧力に屈することなく『罪刑法定主義』を貫いた大審院長の児島惟謙の姿勢を学べと教えてきたのである。」(同上書 p.89)
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正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える

京都に生まれ育ったこともあって、京都御所の一般公開には何度か行った。
京都御所は毎年春と秋の2回一般公開が行われ、紫宸殿や清涼殿などが公開されるのだが、公開日数がそれぞれ5日程度と短く、期間中は大勢の観光客が訪れる。

京都御所・植物園・西本願寺 037

上の画像は3年前の春に公開の時に撮った紫宸殿だが、この建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」の一部が見える。

高御座

この時は「現在の高御座は古制に則って、大正天皇即位式の際に造られたものです」との解説板をあまり深く考えずに読んだだけだったのだが、最近になって、「高御座」が東京の皇居には存在せず、京都御所に常設されていることを知った。

高御座」が京都に常設されているために、明治天皇のあとの大正天皇、昭和天皇の即位の大礼はいずれも京都御所で執り行われている。今上天皇の即位の際には、この「高御座」を東京の皇居まで運んで大礼が行われたそうだが、終了後にはもとの京都御所紫宸殿に戻されたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7
何も「高御座」を京都御所に戻さなくても、そのまま東京の皇居に置いておけば良いではないかと誰でも考えるところなのだが、それが出来ない歴史的事情がどうやらあるようなのである。

『帝国電網省』というサイトの「歴史再考」に書かれている「73. 東京は首都ではない!?~異例中の異例だった『東京遷都』」という記事にそのヒントがある。一部を引用させていただく。
http://teikoku-denmo.jp/

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「明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる『東京奠都』(東京遷都)ですが、この京都から東京への『遷都』の際、明治天皇は『ちょっと(東京へ)行って来る』と言って、京都を出たと言います。『ちょっと行って来る」と言う以上、当然、『暫くしたら(京都へ)帰って来る』と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への『遷都』では無く、せいぜい『行幸』程度にしか考えていなかったと言えます。又、『東京遷都』に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、『何時いっか何処々々に都を遷す』と宣言するもので、いわゆる『遷都の詔勅』と呼ばれるものです。この『遷都の詔勅』は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、『東京遷都』に際して、明治天皇は『遷都の詔勅』を発してはいないのです。
更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ『遷都』したにも関わらず、東京を『首都』とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への『遷都』は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は『遷都の詔勅』と言う『お墨付き』の無い中途半端な都だと言えるのです。」

「本当かな」と思っていろいろネットで検索して調べてみたのだが、「遷都の詔勅」が出ていないことは間違いがない。

一部の人が、慶応4年(1868) 7月17日に、明治天皇が発した『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』を『東京奠都の詔』と呼んでいるようだが、この詔書の内容を普通に読むと、『東京奠都の詔』と理解することは誤りであることがわかる。Wikipediaに現代語訳があるので引用させていただく。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%B2%E7%A7%B0%E3%82%B7%E3%83%86%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%88%E7%82%BA%E3%82%B9%E3%83%8E%E8%A9%94%E6%9B%B8

上記の詔書の原文では「因テ自今、江戸ヲ稱シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶、此意ヲ體セヨ」となっており、都を遷すとは何処にも書かれておらず、ただ江戸の呼称を「東京」と変えただけのことなのだが、江戸をわざわざ東の「京」を意味する「東京」と変え、さらに「衆庶、此意ヲ體セヨ」と書くあたりに、東京を「みやこ」にしたいとの意がある程度読み取れるのだが、この詔では東京に都を遷すことを宣言したことにはなっていない。

この『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が出された翌月の八月二七日に明治天皇は京都で即位され、即位の宣命には「掛けまくも畏(かしこ)き平安京に御宇(あめのしたしろしめ)す倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)が宣りたまふ」と書かれており、この時点ではまだ京都が都であることは明白だ。

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ところが、同年九月八日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月二〇日には東京へと「行幸(ぎょうこう)」される。「行幸」とは天皇が一時的にご旅行されることで、ご旅行が終われば、当然京都へ還幸(かんこう)されることを意味する。明治天皇は京都に正式に還幸されないまま崩御されたという事になるのだ。

学生時代に歴史を学んだ時は明治2年(1869)に「東京遷都」があり、首都が京都から東京に遷されたと学んだ記憶があるのだが、たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(p.218)
と、本文では「遷都」という言葉を使わず、巻末の年表では1869年の欄に「東京遷都」と書いている。この書き方では、誰でも明治2年に京都から東京に遷都されたと単純に理解するであろう。

調べていくと当初は東京遷都論ではなく大阪遷都論が唱えられていたようだ。
近世日本史の権威であった故大石慎三郎氏の『日本の遷都の系譜』という論文を読むと、大久保利通が大阪遷都案を唱えたが、公家達が「この計画は薩長の陰謀であって、その私権を拡張するためのものだ」と猛反対をし、議論に決着がつきそうになかったそうだ。そこで東京遷都論が出てくる。しばらく大石氏の論文を引用する。
「このようにして議論が定まらないうちに閏4月になって徳川将軍家に一度没収していた領地を与えようという話が出てくると、福井の松平慶永は江戸の地を徳川家に賜うよう運動を始めた。これをみた大久保利通と木戸孝允は先の大阪遷都論を撤回、京都を首都、大阪を西京、江戸を東京とし、天皇は便宜これらの首都を巡行すればよい、というあたらしい案を提案した。これにたいし江藤新平と大木喬任の佐賀藩出身者は、東国地方の民心を得るためには、速やかに天皇が行幸してこれを東京とし、京都を西京としてこの間に鉄道を敷設して両者を結ぶのが最良という案を提出した。これについても賛否両論があり公家達は強硬な反対論、また山口藩士たちの中にも反対を唱えるものもあったが、結局木戸孝允、広沢眞臣を説いて遷都に同意させ、木戸が岩倉具視と密議して同12日天皇から木戸に江戸行幸の内意を伝えることで、江戸を明治政権の首都にすることが決まった。」
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/2803/2803-11oishi.pdf

このように東京遷都が朝議で決定されたのではあるが、今度は公家だけではなく、西国四国の藩士や京都市民も大反対したようだ。

歴史作家の高野澄氏が、京都市民が反対したことをこのように書いている。
「明治天皇が明治2年3月、東京に二度目の行幸をしてからも、皇居は京都に残っていた。この二度目の行幸が事実としての東京遷都になったのだが、皇后が残留しているのは、京都市民のこころに、
――ことによると――
東京遷都の噂が根も葉もない虚説に過ぎないのだという、万が一の僥倖を期待する気持ちをうえつけていた。
だが、ついに皇后の東京行啓が発表されたのである。行啓は十月だという。

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九月二十四日、石薬師門に数千人の市民があつまり、旗をおしたて、皇后の東京行啓を中止してもらいたいと嘆願した。いまの京都御苑の築地塀の、東北の一角にあるのが石薬師門である。
嘆願の群れは門から奥にははいれなかったが、京都府は動揺した。上京と下京の町組(ちょうぐみ:京都の自治自衛の組織)の代表者を呼び出し、懇切な言葉によって説諭した。説諭のうち、もっとも力点がおかれていたのは大嘗会について、である。
天皇自身がみずからの即位を神に告げる神聖な儀式を大嘗会(だいじょうえ)という。明治天皇は慶応三年(一八六七)一月九日に践祚(せんそ:天皇の地位をうけつぐこと)し、即位の礼も上げたが、目まぐるしい政変のため、大嘗会をおこなうことができなかった。
説諭はいう。
大嘗会をなされぬまま、天皇は二度にわたって東京にゆかれた』
『それは、大嘗会を東京ではなく、この京都で行われるお気持ちであるからだ。大嘗会は帝都でなければおこなえない定めであって、もしも東京で大嘗会をおこなわれるであれば、その前に東京遷都の詔(みことのり)が発布されはずだ。ところが、今日まで、遷都の詔は発布されていない。これこそ、天皇が東京には遷都なされないお気持ちであるしるしなのだ』(意訳)
しかし、このころすでに、政府の政策としての東京遷都は動かしいがたいものになっていた。政府と京都府は、東京遷都による京都の市民が味わう喪失感をやわらげなければならないとの認識で一致していた。」(祥伝社黄金文庫『京都の謎 東京遷都その後』p.24-25)

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大嘗会についてもう少し補足すると、天皇が即位の礼の後で初めて行う新嘗祭(にいなめさい:天皇がその年の収穫を祝う宮中祭祀)であり一代一度限りの大祭である。しかし、その大嘗会は明治4年3月に東京で行う事が発表され、同年11月17日に東京で行われたのだそうだ。

同志社女子大学教授の山田邦和氏は著書『京都』にはこんな記述もある。この文章はGoogleブックスで誰でもネットで読むことが出来る。
「…明治天皇は京都を離れて東京へと遷り、翌年には太政官もそれを追った。しかし、この時もついに遷都の詔は発布されなかった。遷都に反対する京都市民を前にして、新政権は幾度となくこれが遷都ではないことを説明する。天皇東幸は臨時の行幸であって遷都ではない。東国鎮撫のために江戸を「東の京」とするが、正都はあくまで京都である。天皇は必ず京都に還幸される…。
 京都市民はこの欺瞞にまんまとだまされた。しかし、約束は約束だ。いまだに日本の首都は京都であり、東京は行在所(あんざいしょ)にすぎない。市民はずっとこう信じてきた。明治の一時期、東京に対して京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶことがはやったが、市民はこの名も拒否する。そりゃそうだ。東京なんかと対等に並べてほしくはない。なにせ本家本元はこちらなんだから。
 とにかく、恐るべきプライド、『中華思想』がこの町にはある。…」(カラーブックス「京都」p.105)
http://books.google.co.jp/books?id=OnQAj0EqMNwC&printsec=frontcover&dq=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%92%8C&hl=ja&sa=X&ei=cXmHUcsnieaQBdrpgJAH&ved=0CDoQ6wEwAA

皇居

「御所」という言葉は、本来は今上天皇の住まいのことを意味するはずなのだが、天皇陛下が実際居られるわけではないのだから、今も「京都御所」と呼ぶことを長い間不思議に思っていた。天皇陛下が戻ってこられないのであるから、「京都御所址」とか「元京都御所」などと呼ぶべきではないのかと。
ところが「東京遷都」を実施しようとした明治政府が京都市民らの強烈な反対運動に遭遇して、京都市民らに「行幸」だと騙して東京移転を強行したことから、辻褄を合わせるために「遷都の詔勅」を出すタイミングを失したまま長い年月が経ってしまった。「遷都の詔勅」が出ていない以上、「京都御所」という呼称を変えるわけにはいかなかったということなのだろう。
紫宸殿に高御座が残ったのもおそらく同様の理由によるものだと思う。高御座まで東京に移したら、明治政府が京都市民らを騙したことがいよいよ明白になってしまう。言葉は悪いが、高御座は天皇陛下の身代わりのようなものとして「京都御所・紫宸殿」に残されてきたということではないのか。
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東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか

前回の記事で、明治2年(1869)の「東京遷都」の際に「遷都の詔勅」が出ておらず、東京を首都とする法令も政令も出ていないことを書いた。
明治政府は京都市民らを騙して東京移転することを強行したのだが、「遷都の詔勅」が出せなかったほど京都市民らによる反対が大きかったということだろう。

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明治政府がそこまでして「遷都」を強行したことを、どう評価すればよいのだろうか。
前回の記事で紹介した故大石慎三郎氏の『日本の遷都の系譜』という論文には、もし東京遷都がなければ、中央集権的統一国家が簡単には生まれなかったのではないかと書いておられる。
「…江戸時代の日本は…金を主要通貨とする関東・東国経済圏と、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏とがあった。
 これを金経済圏に足場をおく徳川氏が力で銀経済圏をおさえこみ、統合していたというのが江戸時代の基本構図であった。幕末政争はこのような状況のなか、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏が、皇室をいただいて離反反撃したのだと経済史的には説明できる。
 とすると新しい政権の首都をどちらにおくかで、以降の日本歴史の展開は決定的に違ったはずである。もし万一大久保利通の最初の建白書の通り、明治政権の首都を大阪においていたら、あのような中央集権的統一国家は簡単には生まれなかったはずである。首都の選択は重要である。」
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/2803/2803-11oishi.pdf

大石氏は、京都がそのまま首都であった場合のことを明記してはおられないが、大阪にしても京都にしても銀経済圏であるので、論理的にはその場合も大阪遷都の場合と結論は同じで、「東国の人心が新政府から離反していた可能性は高かったろう。また経済的にも日本は東西に分離していた恐れがある」ということになるだろう。
もし大石氏の指摘が正しいとすると、もし明治期の首都が京都、あるいは大阪であった場合にはわが国の内戦が続いて、西洋諸国につけ入る隙を与えていたこともありうる話になる。
そうなると、遷都において正式な手続きがなされたかどうかは小さな問題で、結果として西洋に飲み込まれずに独立国家を維持できたことを評価すべきなのかもしれない。

しかし、京都市民にとっては、都(みやこ)でなくなるという事は大変な事である。単に千年以上続いた歴史が終わるということだけではなく、経済的ダメージは甚大なものとなる可能性が高かったはずだ。そのことは幕末の京都の地図を見ればおおよその見当がつく。

『“超検索”幕末京都絵図』というサイトで幕末の京都の地図を8分割されたPDFファイルで見ることができる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

次のURLで確認すると、わが国の首都だったから当然ではあるのだが、各藩の屋敷や宮家や公家の家があちこちにあり、またそれぞれが信じられない程の広さなのだ。

幕末京都

例えば、次のURLの地図を見ると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあった。同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があった。平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyou12_7.pdf
これらの建物やその建物に繋がる人々の大半が、首都の機能が東京に移転してしまえば京都にいることの必要性が次第に消えていくことは自明なのである。充分な対策を打たなければいずれ京都の人口は大幅に減少し、武家や宮家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、賑やかだった京都のあちこちに住人不在の屋敷が残されて、荒廃していく可能性を予想できたはずだ。実際に京都の人口は維新前の35万人から20万人に急減したのだそうだ。

立命館大学の河島一仁氏がネット上で『大学と旧制高校の立地で考える近代京都の地理』という論文を公開しておられる。その文章の中に、同志社大学の今出川キャンパスの土地を取得する際の状況が書かれている。
「同志社英学校は1875年に寺町丸太町上ルで開校され、翌年に薩摩藩屋敷跡に移転した。『同志社百年史』によると、新島襄らは、もと会津藩士山本覚馬が『所有していた旧薩摩屋敷あとの桑畑を校地として譲り受けること』になった。『山本がそれを入手する以前は薩摩屋敷といわれた』と同書には書かれている。この記載によれば、明治維新後に薩摩藩屋敷は取り壊されて、その跡地は桑畑になっていたことになる。」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/geo/assoc/journal/17129139kawashima.pdf

尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷、彦根井伊屋敷などが、明治時代の初期にどのような状態になったかはよく解らなかったが、薩摩島津屋敷とよく似た状態になっていたのではないか。
しかし、「遷都の詔勅」を出さないで京都市民を騙して遷都を強行した明治政府も、騙された京都市民も、千年の都である京都の経済基盤を瓦解させ、荒廃させていくわけにはいかなかった。

慶応3年(1867)から明治元年(1868)にかけて西谷淇水(にしたにきすい)という寺子屋経営者から数度にわたり官営の教学所すなわち公立学校の設置を建白していたそうだが、京都府はこの建白を採用し、寺子屋に代わるその新しい教育施設を「町組」ごとに創設する計画を立てて強力に推進したという。
「町組」というのは、道路を挟んで形成された「町」が地域的に連合した住民自治の組織で、16世紀ごろから京都で形成され拡大してきた歴史があったのだそうだ。
自然発生的に形成されたものであったために戸数にばらつきがあったので、京都府はまず町組を改正してそれぞれの戸数を平均化し、現在の三条通より北を「上京」と呼んで33、南を「下京」と呼んで32の町組に再編成し、その町組に番号を付した。
そして1つの番組に自治会所的機能を併せ持つ小学校を作ることとなり、明治2年(1869)中には64校の小学校が開校されたという。(町組の番号が付されていたので「番組小学校」と呼んでいた。)
これらの小学校は明治5年(1872)の、国家による学校制度の創設に先立つ、わが国で最初の学区制小学校であった。
これらの小学校の建設に必要な資金として、1校につき800円を京都府が無利子で貸与し、半額は町組が10年で返済し、残りの半額は返済不要としたのだが、その資金をどうやって京都府が捻出したのかは非常に興味深いものがある。

京都の謎

前回紹介した高野澄氏の『京都の謎~~東京遷都その後』によると、高野氏は二条城にあった幕府のものや、旧旗本等から没収された財産を転用した可能性を示唆しておられる。
「旧幕府の財産没収の手続きをしたのがだれであったか、くわしくはわからないが、責任者のひとりは槇村正直(まきむらまさなお)であったはずだ。
槇村は議政官史官試補の身分として、京都府出仕を兼ねていた。太政官の三権――立法・行政・司法――のうち立法をつかさどるのが議政官だが、槇村の例をみてわかるように、議政官は行政にも介入したのである。
旧幕府関係の没収財産はすべて政府の所有であり、京都府の小学校建設の補助金として投入されるとしても、政府の判断が前提となるべきである。
だが、京都の小学校に投じられた補助金については、この手続きは踏まれなかったのではなかろうか。というのは、明治元年12月26日付で、槇村が京都府から特別表彰をうけたのである。小学校建設の費用調達の目途がついたというのが表彰の理由だが、早すぎるのではないか。
府から八百円の補助金の件がしめされたのが12月6日。それからちょうど20日すぎた時点で府は槇村を表彰した。…学校が建てられた時点で槇村を表彰すればいいはずなのに、なぜ、これほど急ぐのか。―-―建設補助金を調達したことに格別の意味があったに違いない。


政府の金庫に入れると、そのままとりあげられるおそれがある。はやいうちに京都の小学校建設の補助金につかってしまって、功績者の槇村を表彰したばかりです――こういえばまさか政府も、返せとはいわないだろう――ということではなかったか。」(『京都の謎~~東京遷都その後』祥伝社黄金文庫p.53-54)
槇村は長州藩の出身で、後に第2代の京都府知事となり京都の復興に尽力した人物だが、要するにこのとき槇村は、京都市の小学校建設のために、明治政府に入れるべき金を流用したと高野氏は書いている。

かくして、明治2年(1869)5月21日に上京27番組小学校が富小路通御池の片山町に完成したのを皮切りに、同年12月のうちに64すべての番組小学校が完成した。
これらの小学校は町組会所を兼ねていただけでなく、校内に見廻り組や火消し役の詰所なども設けられていて、町組の中心施設であったというのがおもしろい。

ryuchi.jpg

上の画像はわが国で最初に開校された学区制の小学校である上京27番組小学校の写真だが、明治6年に「柳池校」と改称され、平成15年(2003)には京都市立柳池中学校と京都市立城巽中学校とが統合され、御池中学校となっている。

当時の小学校は義務教育ではなかったので、京都府からの補助金の年賦返済と学校の運営費を町組の人々が平等に負担しなければならなかったが、負担能力は家によって異なるので、貧窮者に対しては支払いを免除するようなこともあったようだ。また、商売に行き詰った者に資金を貸付するようなこともあったという。
そして、町組ごとに出資金を募ってそれを貸し付けに回し、その運用利息によって小学校の運営費を賄おうという計画が生まれて、「小学校会社」と名付けられたこの基金運用方式を示唆したのは、先程紹介した槇村正直なのだそうだ。
それぞれの番組で小学校会社が設立されて京都市民から総額1万両を超える出資金が集まり、町組の結束を強めることに大いに役立ったという。

明治天皇が明治2年に東京に行幸され、これが実質上の遷都であることを知って京都の人心は動揺したが、京都府は学校設立ばかりではなく様々な勧業政策・開化政策を推進し、それに京都の商工業者が呼応し、官民の協力により京都の近代化が進んでいったという。
明治時代の初期に様々な施策実施されたが、そのほとんどに先ほど紹介した槇村正直が噛んでいる。

槇村正直

槇村が京都府知事時代を離任した明治14年までに起こった京都の出来事を拾うと、
明治2年(1869) わが国最初の学区制小学校の開設
明治3年(1870) 舎密局(せいみきょく、理化学講習所:京都大学の前身)の開設
明治4年(1871) 勧業場(産業振興センター)の創設、製革場の設立、京都博覧会の開催*

京都博覧会場図

*わが国最初の博覧会が西本願寺で行われ、それを機に京都博覧会社が京都府と民間によって創設され、明治5年(1872)に西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として第1回京都博覧会が開催され、それ以降昭和3年(1928)まで毎年開催されたという。そのうち第2回から第9回までの会場は京都御苑であったというのがおもしろい。

つづいて、
明治5年(1872)  新京極の建設、牧畜業の開業、わが国で最初の女学校である「新英学校女紅場」が旧九条殿河原町邸(上京区土手町通丸太町下ル)に設立。(京都府立鴨沂(おうき)高等学校の前身)
明治8年(1875) 同志社英学校(現 同志社大学)が開学。日本初の幼稚園(幼稚遊嬉場)が京都・上京第30区(柳池)小学校内に開設。
明治12年(1879) 京都府の「療病院」に医学院(現 府立医科大学)を開設。西本願寺大教校(現 龍谷大学)が開学
明治13年(1880) 京都府画学校が開学(のちに 京都市立芸術大学美術学部)
など、驚くほど多くの出来事が集中して起こっている。

京都は大阪よりも人口が少なく経済規模も小さいのに、なぜ大きな大学が沢山あるのかと長い間不思議に思っていたのだが、東京遷都の後の京都を復興の歴史を学んでようやくそのことを理解した。
教科書では「東京遷都」と、わずか4文字で書かれているだけなのだが、「遷都」を行なえば良質な消費者が大挙して京都を離れ、生産者や流通に関わる業者は大幅に売り上げを失って衰退していくことが避けられず、連鎖倒産や廃業が続いて人口が減りさらに荒廃していくというスパイラル現象が避けられなかったと思うのだが、当時の京都府は官民が協働して、東京遷都の後の京都を復興させたことをもっと評価すべきではないだろうか。規制緩和至上主義的な経済施策で地方を疲弊させ、地方の経済基盤を台無しにしているどこかの国は見習うべきだと思う。
東京遷都あとの京都で、このような官民あげての努力がなされなかったとしたら、京都の文化財がこれほど多く残されることはなかったであろう。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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