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聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。

たとえば『もういちど読む山川日本史』の本文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については本文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。
仁徳天皇陵
その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日本史』による解説によると
「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは、地方の首長がしだいにヤマト王権の身分秩序に編入され、服属するようになったことを物語るものであろう。」(p.14)
と記述されている

しかしよくよく考えると、文化が伝播することと特定勢力が領土を拡げることがイコールであるはずがなく、また古墳などの遺跡調査だけで大和朝廷の統一時期を4世紀前半と推定できるものでもないだろう。
昔の教科書にどこまで書かれていたかは記憶していないが、4世紀前半に大和朝廷による統一がなされたとする論拠として『日本書紀』における記述が挙げられていたと思う。ポイントになるのは崇神天皇と景行天皇だ。

第10代崇神天皇は3世紀に実在したと考えられている天皇で、『日本書紀』の記述によると、天皇は四人の皇族を将軍に任命し、北陸・東海・西道(にしのみち:山陽)・丹波(山陰)に派遣した。この4人のことを「四道将軍」と呼ぶが、「四道将軍」は敵対する勢力を討ち破り、天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の称号を得たという。
この称号の「御肇国」の意味は「はじめて整った国を治める」という意味で、ちなみに初代の神武天皇も「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれ、この意味は「はじめて天下を治める」という意味なのだそうだ。

また第12代景行天皇は4世紀前半に活躍したとされる天皇で、『日本書紀』の記述によると、皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を遣わして、九州の熊襲と東国の蝦夷を征討したことが書かれている。

今の教科書では、神話や伝承を表に出さず、一見科学的な考古学の成果を強調して、4世紀後半以降に皇室の祖先を中心とする勢力がわが国を統治した、という結論だけが承継されている印象があるのだが、そもそもこの結論は信用するに足るものなのだろうか。
隋書倭国伝

中国の正史である『隋書倭国伝』に、倭国が隋に2度使者を派遣し、隋も倭国に1度使者を派遣した記録がある。それをよく読むと、わが国の通説となっている歴史解釈と矛盾することが書かれていることに気が付く。

一度このブログで聖徳太子のことを書いたときにこの部分を引用したことがあるが、再度引用させていただく。

1回目の記録は、
隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している
。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)
煬帝

2回目の記録は、
隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…
倭国王は小徳阿輩台(しょうとくあほたい)を数百人の供揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして隋使裴世清を迎えさせた。倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで
…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と、隋の使者は倭国王に面談しているのだが、『隋書倭国伝』に書かれている「倭王」とはいったい誰のことなのか。
普通に考えれば天皇という事になると思うのだが、その頃在位していた天皇は推古天皇(在位592-628年)であり女帝である。しかし第1回目の使節派遣(600年)の記録では倭国王の妻の名前が記されている。『隋書』の記述だと、当時の倭国王は男性でなければならないのだ。しかも『隋書』には倭国王の太子の名前まで記されている。
日本書紀下
これらの『隋書』の記述に対応する『日本書紀』の文章を探すと、第1回目の使節派遣の記録がない。第2回目の使節派遣については確かに推古天皇15年(607)に記事はあるのだが、極めて短いものである。
「秋7月3日、大礼小野臣妹子(だいらいおののおみいもこ)を大唐(もろこし)に遣わされた。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.99)

有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」という国書のことは、『日本書紀』にはどこにも書かれていない。
聖徳太子
学生時代に聖徳太子が遣隋使を派遣したと学んだ記憶があるのだが、『日本書紀』の遣隋使に関わる記述には聖徳太子のことが全く書かれていないことは意外だった。
聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に19歳で皇太子となり、摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で、聖徳太子の事績が記録されているのに、なぜか遣隋使に関しては、翌年に小野妹子が帰朝し隋の使者裴世清を饗応した記事も含めて、どこにも「皇太子」という字が出てこないのである。
このことは次のURLの『日本書紀』の全文テキストファイルを全文検索することで、誰でも確認することが出来る。
http://www.j-texts.com/jodai/shokiall.html

今までの常識にこだわらずに、『隋書』と『日本書紀』の遣隋使に関する記述を読み比べてほしい。普通の人が普通に読めばどちらかの記述がおかしいことになるのだが、『隋書』には嘘を書く動機は考えにくいので、以前このブログで聖徳太子のことを書いたときには『日本書紀』の記述には重大な嘘があるとしか考えられないと書いた。
その時は、それ以上深くは考えなかったが、最近読者の方から別の見方があることを教えて頂いた。その見方というのは、わが国はその時点では統一国家ではなかったというものなのだが、紹介いただいた論文にすごく説得力があるのだ。

その詳しい内容は次回以降に書くことにするが、その情報を知ってから好奇心に火がついて、もう一度『隋書』を読み直してみた。
隋の煬帝が608年に裴世清を使者として倭国に派遣したときに、どのようなルートで倭国に着いたかが書かれている。その部分を紹介したい。

「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に?羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、?羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

最後の文章は筑紫国と倭国とは別の国であったと読むのが普通ではないのか。そもそもこの時に隋と交渉していたのは、大和朝廷と関係のない国家であったという解釈もありうるのではないか。そう考えれば、先ほどの『隋書倭国伝』の記述も理解できるものとなる。

いろいろ調べていくと、この当時わが国が統一国家でなかったことの証拠になる記録が、別の中国の正史に明確に書かれていることがわかった。
そのことを書き出すとまた長くなるので、次回はその中国の正史の内容を紹介することから書き始めることとしたい。
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唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2

学生時代に歴史を学んだ時に、「倭国」と「日本国」とは同じ国のことだと教えられてずっと鵜呑みにしてきたのだが、最近になって中国の正史である『旧唐書(ぐとうしょ)』*東夷伝では「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている事を知った。それぞれの位置関係を記した部分を中心に、現代語で内容を紹介したい。
*『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945)
旧唐書
先ず「倭国」である。
原文と読み下し文は次のURLで読むことが出来る。(原文の10行目までが「倭国」)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm


倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西端までは歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
…その周辺の小島五十国あまりはすべて倭国に所属している
。倭国王の姓は阿毎氏(あめし)で、一人の大将軍を置いて諸国をとりしまらせている。小島の諸国はみなこの大将軍を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。…」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.206-207)
金印
倭の奴国というのは『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』にあらわれる倭人の国で、後漢の光武帝に倭奴国が使節を派遣した際に金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されたことは学生時代の教科書にも書いてあった。
倭国の位置や広さに関する記述内容は『隋書』東夷伝では「東西三月行南北五月行」と、東西と南北の数字が逆になっているのが少し気になるが、倭奴国のことが書かれており、代々中国へ使節を遣わしていた事や阿蘇山の噴火のことが書かれている。普通に読めば『旧唐書』東夷伝における「倭国」と『隋書』東夷伝における「倭国」とは連続しており、九州のことを指しているとしか考えられない。

次に『旧唐書』東夷伝の「日本国」である。
先程のURLで、原文の11行目からが「日本国」である。
日本国は、倭国の一種族である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。
『倭国では、倭国という名が華美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ』

とも言われるし、また、
『日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した』
とも言われる

日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に応じようとはしない。だから中国では、彼らの言うことが、どこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また、
『その国界(くにざかい)は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その山の向こう側が、毛ぶかい人の住む国なのである』

とも言う。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.211)

読み進んでいくと、魏の時代から唐の時代まで通交していた倭国とは別の国である日本国が、唐に使節を派遣してきたことが記されている。そして文章の中に、わが国においても名前が記録されている粟田真人、阿倍仲麻呂、空海らが、唐に来たことが記されている。

『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べておきながら、日本国が倭国を併合したのか、倭国が名前を改めて日本国となったのか、真相が掴めきれていない書き方になっている。中国にとっては、これまで通交のあった倭国とは異なる日本国の使節がやってきて、「倭国が国名を変えた」とか「日本国が倭を併合した」とか説明を受けても事実が確認できるはずもなく、どこまで話を信用して良いか悩んだ末に、倭国とは別の国だという日本国の使節の説明にもとづき、「倭国」とは別に「日本国」の記録を残すことにしたのだろう。

ところで唐の時代の正史は、後に書き改められた、『新唐書』という史書がある。唐の時代の同じ時代のことを書いた正史が書き改められた理由は、Wikipediaによると「編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった」ために、北宋の嘉祐6年(1060)に再編纂されたものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8

この『新唐書』東夷伝には、「倭国」の記録はなく、「日本国」の記録に一本化されている。
そこにはどう書かれているのか。現代語で一部を紹介したい。
原文と読み下し文は、次のURLで読むことが出来る。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shintoujo/shintoujo_frame.htm

日本は古(いにしえ)の倭の奴国である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは東西は歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月の行程である。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.269)
と、『旧唐書』の倭国を紹介する文章とほとんど同じである。

もう少し読み進むと、「倭国」「日本国」の関係について書かれている。

「咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
『わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名にしたのだ』と。
また、こういう説もある。
『日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ』
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。またその使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向うは毛人の住む地だ、などと言っている
。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.272)

とあるのだが、先ほどの『旧唐書』では「小さな日本国が倭国を併合した」という説があると書かれていた。ところが、『新唐書』では「小さな日本国が倭国に併合され、倭国が日本国の国名を奪った」という説があると書かれている。

中国と古来通交のあった倭国を日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、その違いはとんでもなく大きい。
もし前者の視点である『旧唐書』の記述が正しいとすれば、わが国の古代史は全面的に書き直さねばならなくなるだろうし、後者の『新唐書』の記述が正しいとしても、4世紀後半までに大和朝廷がわが国を統一したという話は、日本国が余程小さい国でない限りは成り立たないだろう
わが国の歴史家の大半は、後漢書や三国志、隋書などのわが国に関する記述を重視している割には、『旧唐書』や『新唐書』の記述を軽視し、わが国の『日本書紀』の記述を重視していると思わざるを得ないのだ。

このブログで何度か書いているが、いわゆる『正史』と言われる歴史書は、自国についてはその時の為政者にとって都合よく書かれることが多くて当たり前だ。しかしながら他国のことに関しては、真実の追求に限界があるとしても、外交・安全保障観点からできるだけ正しく分析して後世に記録を残そうとする傾向にあるものであり、嘘を書く動機が乏しいものであるはずだ。したがって、わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視することはおかしなことだと思う。
古田武彦
逆に、『旧唐書』の記述に注目した歴史家もいる。
九州に日本を代表する王朝が存在したという古田武彦氏の「九州王朝説」は、日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明でき、説得力もあると思うのだが、なぜか日本古代史学会からは黙殺されているようだ。

黙殺されるのは、この説を認めることは今までの古代史研究の成果を否定することに繋がることにあるという点が最大の理由であろう。わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっているとは言えないか。
失われた九州王朝
「九州王朝説」の中にも諸説があるようだが、この考え方に立つと九州から王権が移動し、ヤマト王権が確立したのは7世紀末という事になるのだ。

ここで7世紀の半ばから後半にかけて、日本列島でどんなことがあったのか拾ってみる。
645年 大化の改新(蘇我入鹿暗殺)。難波宮遷都。
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮へ遷都
694年 藤原京へ遷都

大きな争いごとといえば「壬申の乱」がある。
壬申の乱については、天智天皇がなくなった翌年に天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子のあいだに皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったと学生時代に学んだ記憶がある。
天武天皇は天智天皇の同母弟であることについては『日本書紀』明確に書かれているのだが、不思議なことに天武天皇の出生年については『日本書紀』には何も書かれていないという。その理由は恐らく、天武天皇が天智天皇の弟であることが嘘であることが明らかになるからではないのか。
例えば次のURLでは、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので、逆残して生年を割り出すと、天武のほうが4歳天智よりも年上であったことが書かれている。
http://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html

草壁・大津系図
また、天武天皇は天智天皇の皇女を4人も妃にしている。天智天皇と天武天皇とが兄弟であることはかなり疑わしいのだ。

さらに、平安時代に書かれた『扶桑略記』には天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま行方不明になり、天皇の靴だけは見つかったが、どこで亡くなったかわからない旨の記録がある。暗殺された可能性が極めて高いのだが、天武天皇とその側近が怪しいと誰でも思うだろう。

そもそも『日本書紀』は681年に天武天皇の命により執筆が開始され、720年(養老4)に完成した『正史』であるのだが、その編纂の目的は為政者の政治権力に正統性があることを史実として固定化させることにあったはずだ。
したがって、わが国に文字のなかった時代に、天皇家によってわが国が統一され、それからずっとその尊い血筋を引いているという物語を作らせたかったという側面を割り引いて『日本書紀』を読む必要があるのだと思う。7世紀以前の出来事については、中国の正史その他の記録とバランスよく読まないと、古代史の真実は見えて来ないだろう。

ところでこの『日本書紀』にも、わが国に別の王朝があったことを示している部分があることを書いた論文がある。読者の方から教えて頂いた情報だが、このことを書き出すとまた長くなってしまうので、次回にその内容を記すこととしたい。
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『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日本国」とは別の国として書かれていることを紹介した。

そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。
後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州にあったと考えるしかない。
そして『旧唐書』には、「日本國者倭國之別種也」と書かれており、「倭国」と「日本国」とは別の国であると当時の中国人は判断したのだ。

中国と古来通交のあった倭国日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、諸説があって当たり前なのだが、わが国の古代史学界では4世紀中ごろには天皇家を中心とする勢力によりわが国は統一されていたことが通説になっている。この通説の根拠は『日本書紀』を重視しているところにあるのだが、この説は明らかに中国の正史と矛盾している。

要するにわが国の大半の古代史学者は、4世紀中ごろに統一されたとする通説と矛盾する資料に、長い間目を塞ぎ続けているのである。
日本書紀

しかし、わが国の古代史学者が重視している『日本書紀』のなかに、わが国が統一国家でなかった事の重要なヒントがあるという、目からウロコの落ちるような論文がある。
このブログの読者の方から教えて頂いたのだが、1988年に中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)が書かれた「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文がそれである。
次のURLでその全文を読むことが出来る。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

この論文は、『日本書紀』が編纂された頃の我が国は統一国家でなかった事を鮮やかに証明しているのだが、なぜかわが国の古代史学者からはほとんど無視されているようなのだ。
この論文の一部を引用しながら、この論文の内容を紹介することにしたい。

まず、『日本書紀』に次いで編纂された『続日本紀』には「書」という文字が使われていないという点に中小路氏は注目して、『日本書紀』の書名を決定する際に参考にしたであろう中国の歴史書のうち、「書」という字を国の名前のあとに付けた歴史書は、どのような歴史書であったかを検討するところから論旨が展開されていく。
中国の歴史書を年代順に並べると、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志(『魏書』『蜀書』『呉書』からなる)』、『晋書』、『宋書』、『南宋書』、『梁書』、『魏書(北魏書)』、『北斉書』、『周書(北周書または後周書)』、『隋書』、『南史』、『北史』となるのだそうだが、「書」という字で終わるものばかりではないのだ。

しばらく、中小路氏の文章を引用しながら説明する。
「すなわち、その書名に『史』を有する史書とは、複数の王朝についてその継起順に、本紀をまず掲げ、ついで列伝をつらねた体裁の史書なのである。
 では『志』のいた史書とは何か。
 …同時期に鼎立した三つの王朝のそれぞれについて紀伝体で叙述した三つの書を並列した体裁の史書である。つまり、たがいに並立した複数の王朝のなかの一王朝ごとに叙述した紀伝体史書を、全部並べて収めたのが『志』なのである。」(p.5-6)

次にいよいよ、「書」を有した史書の解説に入る。
「かくして、つまるところ、『なになに書』という史書は、何か。
 継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書。これが『なになに書』なのである。
 言いかえると、『書』に国号を冠した史書は、そこに冠せられた国以外に、継起、あるいは並立しつつ興亡した別の国が存在したことを、前提とし、ないしは指示しつつ書かれているのである。」(p.6)

そして、こう述べている。
「かれ、あるいはかれらは、問題の『書』の字の意味を、前例により知っていた。ゆえに『書』の字を入れたのである。
言いかえると、かれ、あるいはかれらは、この列島上にかれらの属する王朝以外に、それに先住し、または並立した、一つ以上の王朝があったことを知っており、その事実を知ったうえで、ただ、かれらの属する一王朝のみについて、その歴史を叙述した。すなわちこの書物の書名の『書』の字は、八世紀の天皇家の王朝とは別の、それに先住し、もしくは並立した1つ以上の王朝の存在を、前提とし、かつ指示しているのである。」(p.7-8)

さらに中小路氏は、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないと述べている。これは重要な指摘である。
神武天皇
天照大神の孫にあたる人物の子孫である神武天皇が「東征」して、大和に来てそこで即位して初代王となったことが『日本書紀』に記されているが、「東征」の出発地である九州を統治していたとは書かれておらず、「東征」して大和に至った段階ではじめて「治」の字が用いられていることを指摘され、こう推理している。

こういうことが起こり得るのは、昔の王の“傍流の子孫”、すなわち代々の王位を受け継がなかった子孫のひとりが、本流とは別の一王権を、あらたに樹立したこと以外の何であろう。
 すなわち『紀』の本文は“わが朝”は古き九州の初代王の“傍流の子孫のひとり”を初代王としてはじまったのだ」と、明白に告げているのである。『古事記』の記載するところも、これと別段矛盾しない


このように受け取れば、自動的に、この列島上には九州の本流と、大和にできたそれの分流と、すくなくともこの2つの王権が――それら両者の関係が、ただの“並立”であるか、一方が他方に“統属”したかたちか、そのいずれでもないかたちのものであったかはともかく――存在していたとしるされているのだと、認めざるをえなくなること、必然である。」(p.11)

そう述べたあと、中小路氏は従来の日本古代史学会の研究手法を厳しく批判している。

「…従来の日本古代史に対する人々の思考の手順は、どうやら、おおむね次のようなものであったらしいのである。
まず、歴史について、特定の骨組みを、権威あり、かつ自明して不動のものとして据え、これを思考の前提とする。
その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する

そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えを出す。この場合史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。
そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切これを問わない。」(p.15)

このようなスタンスは、ある人に言わせれば、カルトのようなものである。これでは、戦前から続く古代史観が抜本的に変わることはあり得ず、いつまでたっても真実に到達することはできないだろう。

では、わが国が統一されたのは、本当はいつ頃なのだろうか。
わが国は『日本書紀』以降漢文体の正史が次々と書かれた。
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を『六国史』と呼ぶのだが、この書名の中に『書』の字があるのは『日本書紀』だけである
続日本紀
また『日本書紀』神代から持統朝までが書かれており、『続日本紀』は文武朝から書かれているのだが、『日本書紀』が奏上されたのは文武天皇の次の元明天皇のさらに次の元正天皇の養老4年(720)である。
なぜ『日本書紀』は前代の元明朝末までが記されず、持統朝で筆を止められたのか
初期天皇系図
中小路氏はその理由を、こう記している。

持統朝から文武朝への受け渡しには、わが朝の歴史を二分するほどの、何か、重大な意味を持つ変化が伴っていたからだ。…
そして、その“変化”とは、以後の史書には書名に『書』の字を用いる理由をなくさせる性質のものなのであった


端的に言おう。
持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方王権であった大和の王権が、九州まで ――― そしておそらく間もおかず、東国まで ――― 統一的支配下におく、列島上唯一の代表的王権としての実態をそなえるにいたっていた。そして、…この王権は列島上に唯一の、卓越した王権としての名と形式とを具備するにいたった。…」(p.17)

なるほど、持統朝以前は大和朝廷以外に別の王朝があったと考えれば『古事記』にも『日本書紀』にも中国の正史にも矛盾することはないのである。「4世紀の後半までに大和朝廷により全国が統一された」とは記紀にはどこにも書かれていない事であり、後世の人間が勝手にそう考えただけのことなのだ。

中小路氏の論文を読んで、初めて知ったことがいくつかあるのだが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることもその一つである。
蘇我馬子が修行者を探し、播磨国に僧で還俗した恵便(えべん)という人物を仏法の師とし、仏教に帰依して仏殿をつくったことが、『日本書紀』に明記されているのだ。
播磨は今の兵庫県の南西部にあたる地域を指すが、『日本書紀』のこの記述は、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味している。

ネットでいろいろ調べていると、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に、兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した「鶏足寺」という寺のことが書かれているという。
『峯相記』によると「鶏足寺」は神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は敏達天皇10年(581)に没したと書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%B6%B3%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82
この記録から「鶏足寺」は日本最古の寺院と呼ばれているようだが、この「鶏足寺」が存在していたのが播磨の国なのである。
鶴林寺
そういえば播磨地域には古刹が多い。さきほど『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があると書いたが、蘇我馬子が仏法の師としたという恵便(えべん)法師の名が、加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)の歴史にも出てくるのには驚いた。聖徳太子も恵便法師に教えを乞うたことが、鶴林寺のホームページにも書かれている。
http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm
また揖保郡太子町には推古天皇14年に聖徳太子が建立した斑鳩寺(いかるがでら)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%91%E9%B3%A9%E5%AF%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AD%90%E7%94%BA)

ほかにも姫路市に随願寺(ずいがんじ)という寺があり、聖徳太子が高麗僧の慧便(えべん)に命じて開基した増位寺がその前身なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E9%A1%98%E5%AF%BA

聖徳太子
なぜ奈良から随分遠い播磨の地に、聖徳太子ゆかりの寺が多いのか長い間不思議に思っていたのだが、中小路氏の論文を読んですっきりした。
6世紀後半の敏達天皇の頃は、『日本書紀』に記述されている時代だ。
その頃わが国はまだ播磨国を領有しておらず、播磨国は独立した国であり仏教の先進国でもあったと解釈するのが正しい理解ということになるのではないか。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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