HOME   »  2013年07月
Archive | 2013年07月

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。

シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。

その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。

丸山遊郭

『寄合町諸事書上控』という古文書は、長崎にあった丸山遊郭の出来事を記録したものだそうだが、その文政10年(1827)の5月7日付の文章が『長崎のおもしろい歴史』というホームページで紹介されている。当該のページのURLは次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

「恐乍口上書 引田家卯太郎抱遊女そのぎ21歳 上記の者去る未年より外科阿蘭陀人シーボルト呼入候処、懐妊仕りに付、御届申上候処 銅座跡親佐平方に於、昨夜女子出産仕り候段、抱主卯太郎申出候に付、此の段書付を以って御届申上候、 以上。」

なんとシーボルトに女児が誕生したのである。
記録では「遊女そのぎ」とあるが、上記URLでは
「シーボルトは来日草々長崎奉行の特別の計らいで、出島を出て蘭医吉雄、楢林家へ出帳し、日本人の患者を診察し治療した。
そのためオランダ商館に名医来るの評判が直ちに長崎の街中に広がった。
楠本瀧はこの時シーボルトの診察を受け、シーボルトと恋におちたと推測される。
二人は、程なくして、寄合町の引田家卯太郎宅へ赴き、何がしかの金子を支払い、瀧は遊女『そのぎ』の名義を借り、出島へ入ったのである」と解説している。

楠本瀧

遊女『そのぎ』の本名は楠本瀧だそうだが、古文書の通り遊女だったとする説と、遊女でなかったという説とがありどちらが正しいのだろうか。
いずれにせよ、シーボルトが瀧を本気で愛していたことは、シーボルトが出島に上陸した3カ月後の1823年11月15日に書いた伯父のロッツへ宛てた手紙を読めばわかる。
ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」にその手紙が引用されていて、その翻訳文が上記URLで読める。

「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」
そして同様の手紙を、母親のアポロニアにも出しているという。

そして文政10年(1827)の5月7日に二人の間に女の子が生まれてイネと名付けた。
このイネはどうやら出島で生まれたと考えるべきだろう。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に記していて(「唐人番倉田氏日記」)、その文政10年7月9日の記録では、
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/oine/index.html

出島は遊女以外に女性の出入りを禁止されていたために、乳の出る女性を遊女の振りをして入れざるを得なかったというのは面白い。こういう抜け道があるから、シーボルトが惚れた楠本瀧を妻としてではなく、遊女として出島に入れた可能性を感じさせる古文書でもある。

唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図

長崎歴史文化博物館に、当時出島に出入りしていた絵師の川原慶賀が描いた「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」という絵がある。この絵の中で緑色の帽子をかぶった男性がシーボルトで、後ろに立つ着物の女性は瀧で、抱かれている子供はイネだと言われている。
他にも川原慶賀がオランダ商館員たちの生活を描いた絵があり、長崎市立博物館に「宴会図」「玉突の図」にシーボルトと瀧が描かれているとされている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

シーボルトは、事件のあとオランダに帰国した際に、日本で採集した植物や動物の膨大な標本や絵図を持ち帰り、『日本植物誌』『日本動物誌』を著している。サクラソウ、スズキ、イセエビなど彼が命名したことにより、学名が確定したものが少なくないそうだが、彼が命名した中に妻の瀧の名前を入れた植物があるという。

Hydrangea otaksa

上の画像はシーボルトが『日本植物誌』に掲載したホンアジサイの図だが、これを彼はHydrangea otaksaと分類している。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10595694473.html

「お瀧さん(otakisan)」が”otaksa”となったのは、長崎の方言では「キ」が無声化するらしく、また最後の”n”がないのは、学名はラテン語を用いるのだが、ラテン語では語末が”a”で終わらないと、女性の名前にならないということらしい。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10596656979.html

シーボルト妻子像螺鈿合子

長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。

直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。
http://www.geidai.ac.jp/~s1306937/KautzschMAthesis.pdf

こう言う事を知ると、なぜシーボルトがオランダに帰国してからも、わが国が西洋列強に呑まれないように奔走したかがなんとなく見えてくる。
彼が日本に滞在した期間は決して長くはなかったが、瀧とイネを愛し、瀧の育った日本という国の文化や自然に魅了されたということではなかったのか。

Wikipediaによると、シーボルトが集めた植物の押し葉標本だけで12000点で、『日本植物誌』で記載されている種は2300種にも及ぶという。『日本動物誌』や大著『日本』もそうだが、日本という国を好きにならずして、そのような研究が出来るとはとても考えられないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

わが国は「オランダ風説書」により世界の情勢についての知識を入手していたことを学生時代に学んだ記憶があるが、Wikipediaによるとオランダが「阿片戦争」に限らず世界的な情報が提供されるようになったのは、1846年からだというが、このことは、オランダにシーボルトがいたのと無関係ではないような気がする。

前回の記事で、1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容を紹介したが、この文書を書いたシーボルトに日本を列強の侵略から守りたいという気持ちがあったと私は考えている。

シーボルトは江戸幕府から国外追放処分を受けている。瀧やイネに再開したいと思っても、日本国の鎖国が続くかぎりはそれが難しいことは少し考えればわかることだ。
シーボルトが再度日本の土を踏むためには、日本が外国に門戸を開かねばならず、しかもわが国が西洋列強に呑みこまれることなくそのことが実現できなければ意味がない。
シーボルトはそのために尽力したのではなかったのか。

安政5年(1858)に日蘭通商条約が結ばれ、江戸幕府のシーボルトに対する追放令も解除される。そして翌安政6年(1859)、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たし、文久元年(1861)5月15日に江戸幕府の外交問題の顧問として雇われている。しかしながらわずか4か月後の9月16日に幕府により解雇されているのだ。いったい何があったのか。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1861.html

調べると、外交問題の顧問に就任した13日後の5月28日に水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使らを襲撃した事件(東禅寺事件)が起きている。

東禅寺事件

この事件でシーボルトは負傷した浪人を手当てし、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べたという。しかし、このシーボルトによる幕府寄りの指導が、オランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買ったためにオランダ領事館から解雇処分を受けてしまったとされている。文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国し、その翌年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったという。
そして1866年10月18日、ミュンヘンで70歳の人生の幕を閉じた。

楠本イネ

シーボルトの娘の楠本イネは後に医学を志し、日本人女性で最初に産科医として西洋医学を学んだという。そのイネには娘がいて、その写真が今も残されている。シーボルトの孫娘でもある楠本高子は、今でも美人で十分通用する女性である。

楠本高子

慶応2年(1866)にシーボルト門下の三瀬諸淵と結婚するも明治10年(1877)に夫に先立たれ、その後医師の山脇泰助と再婚し、一男二女を生むが、結婚7年目にまたもや夫に先立たれている。
彼女の身の上話が、最初に紹介した『長崎のおもしろい歴史』というホームページに掲載されている。当時は今以上に混血児として生きることは今よりもはるかに厳しい時代であったろう。イネも経験しただろうが、高子も何度も辛い思いをしたことが書かれている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html

その文章の前半に、シーボルトが2度目の来日を果たし、江戸幕府の顧問となった時に高子の夫である三瀬を連れて行ったという記述に注目したい。

「祖父が江戸に招かれました時も三瀬はついて行きました。
祖父が江戸のエライ方々とお話をいたします時に、福地源一郎さまや、福沢諭吉さまが通弁に当たられましたが、どうにもよく話が通じません。祖父もやきもきいたしましたが、そのような時に三瀬が通弁をいたしますと、忽ち話が通じまして、幕府の方々とスラスラと話が通じたということもうかがっております。
ところが、やはりそうした出過ぎたことが宜しゆうございませんでしたようで、公儀の役人を差しおいて僭越の段不都合とお思いの方もあったものと見えます。
祖父が江戸を去りますと、三瀬は町家の出でありながら身分を弁えず、宇和島藩士と称して帯刀をしたという廉で佃島(つくだじま)に永牢申しつくということに相成りました。
しかし、三瀬は獄中でも医者としての本分を忘れず、役人の病を治療したりいたしまして、それに宇和島の伊達さまのお力添えもございまして、元治元年(1864)に出獄となりました。…」

幕府の偉い役人たちがいくら外国人と話をしても通じず、三瀬が通訳すると相手に通じたということが妬まれて、些細なことで牢屋に入れられてしまった。ようやく再来日を果たしたシーボルトを追い出したのも、こういう役人連中ではなかったか。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事

シーボルトはスパイであったのか

シーボルトがスパイであったというのが多数説になっているのだが、いろいろ調べていくとシーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草しているという。
わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとしたら、いったいどこの国のスパイだというのだろうか。シーボルトはわが国で得た資料をもとに、大著『日本』のほか多くの著作により、世界に対してわが国のことを知らしめたという事実はどう理解すればよいのだろうか。

シーボルトにより複製された伊能図

シーボルトが文政11年(1828)に帰国する際に、オランダ船に積みこんだ荷物の中から、国外持ち出しを禁じられていた日本地図が発見され、この地図は幕府天文方高橋景保がシーボルトに贈ったことがわかり、関係者50人が捕えられて高橋が獄死し、シーボルトが国外追放の処分を受けた「シーボルト事件」があったのだが、この事件に関しては幕府の記録をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

これまでの通説では、文政11年(1828)9月17日夜半から18日未明に西南地方を襲った台風で座礁したオランダ船コルネリス・ハウトマン号の中から、禁制品の地図などが見つかっていたことになっていたのだが、この話は後世の創作で、この船が台風で座礁したことは史実だが、その船にはシーボルトが収集した物は一切積み込まれていなかったことが今では明らかになっている。

西南学院大学国際文化論集第26巻第1号に「創られた『シーボルト事件』」という論文が掲載されており、ネットでも公開されている。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nippon%20neo/10.pdf
その論文のp.78-79に、商館長メイランが記載した、この船に関する荷揚げや積み込みの実務的な記録が紹介されているが、積み込まれたものは9月2日にバラストとしての銅500ピコルのみで、台風の襲来した前日の16日まで何も積み込まれていないことが確認できる。

では、座礁した船の中のシーボルトが依頼した荷物から禁制品があらわれたということを最初に書いたのはだれかというと中島廣足という人物で、事件のあった5年後の天保4年(1833)年に刊行された『樺島浪風記』という書物にこう記しているという。

「こたびの大風は、まさしく神風なりと世にいひながせるはさる事ありたり、かの阿蘭陀船はこたびかへるべきときにて、其船乃中にわが国乃地図をはじめて外国にわたすことをいみじくいましめたまふ物どもを、たれか取つたへけむ、くさぐさつみいれ、ものしいたるを、此大風にあひて、船(*オランダ船)をふきあげられしかば、やがてこなたの司人(*役人)たちゆき見て、つみ入たる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるものども(*禁制品)みなあらはれ出て、ことごとにおほやけにめしあげ、取をさめられぬ…
天保四年正月十五日橿園のあるじ(*中島廣足)、長崎のたびやどりにて、ふたゝび此よしをしるしぬ」(「創られた『シーボルト事件』」p.80所収)

この中島廣足は熊本藩士で、国学者でもあり歌人でもあるそうだが、この人物は実際に樺島付近でこの台風に遭遇し、長崎に帰りついたのち街中の被害を目の当たりにし、座礁したオランダ船も目撃した直後の記録も残しているという。

中島廣足の記録に書かれているのは、
「大浦乃方より見やれば、海かたづける家々はみなくづれて、ありしおもかげもなし、まづ近く見えたる阿蘭陀館、うみにのぞめる高楼なかばよりくづれおちたり…」(同上p.80) とあるだけで、座礁したオランダ船の積荷検査や禁制品発覚のことは何も書かれていないのである。

松浦静山

また、平戸藩9代藩主の松浦清(号は静山)が隠居した後に書き記した『甲子夜話続編』巻二十一に「シーボルト事件」の記事があるという。そこには文政11年(1828)11月15日付の長崎在住の人からもたらされた「風説」の内容が書かれていて、1つは高橋景保からシーボルトへ送った日本地図などを長崎奉行所で取り上げたことと、関係するオランダ通詞などが捕えられたこと、またシーボルトはロシア人であるという噂もあることが書かれている。
事件の初期の段階では、座礁した船から禁制品が出てきた話はなかったのだが、次第に噂話に尾ひれがついていき、中島廣足の著作などで広がっていったと考えれば良いのだろうか。私には中島廣足が平田篤胤の流れをくむ国学者であることがどうも気にかかるのだ。

当時のわが国の学問の世界では、蘭学者は少数派であり蘭学は異端視されていたと考えて良い。たとえば、シーボルト事件から11年後の天保10年(1839)に蘭学研究者が大弾圧される事件が起きている。世に言う「蛮社の獄」である。
モリソン号

この事件の起こる2年前の天保8年(1837)6月に江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を、外国船打払令に基づいて浦賀奉行が砲撃を加えて追い払う事件があった。(モリソン号事件) この事件における幕府の対応や鎖国政策を批判した高野長英・渡辺崋山ら8名が捕えられて獄に繋がれたのだが、その後の判決で渡辺崋山は蟄居を命じられ天保12年(1841)10月に自刃。高野長英は永牢を命じられたが、弘化元年(1844)牢に放火して脱獄し逃亡し、嘉永3年(1850)に江戸にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84

この事件の問題は、高野長英も渡辺崋山も無罪でありながら、罪をでっち上げられて捕えられている点にある。
この事件を調べていくと、鳥居耀蔵(とりいようぞう)という幕臣の名前が出てくる。鳥居の父は大学頭の儒者・林述斎であり、渡辺らを告発したのがこの人物で、告発状には渡辺らが海外に渡航することを企てていたと書かれていたという。

Wikipediaにはこう解説されている。
「鳥居の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根…
5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。崋山の書類の中から『慎機論』『西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。」
今風の表現をすれば明らかな「不当逮捕」であったのだ。

高野長英は『蛮社遭厄小記』という記録を残していて、その中で鳥居燿蔵の蘭学者攻撃と、蘭学関係者弾圧のためにこの事件が捏造されたことを述べている。読み下し文ではあるが次のURLで全文を読むことが出来る。
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/book/bansha3.html

高野長英

鳥居燿蔵について高野長英はこう書いている。
「儒家ニ出身シテ文人ナル故蠻學ヲ嫌忌セラレケルニ
近來蠻學頗ル旺盛ニシテ上ハ公卿ヨリ下ハ庶人ニ至ル迄往々之ヲ賞揚シ
儒生トイヘドモ是ニ心醉スル者少カラナルヲ以テ常ニ不平ヲ懐カレケル」

要するに、鳥居は蘭学を忌み嫌い、この蘭学がわが国に拡がって行くことが許せなかったから、蘭学関係者の弾圧に踏み切ったのだと長英は考えたのだ。
また鳥居はその後も、阿片戦争ののちわが国も洋式の軍備を採用すべきであると幕府に上申した高島秋帆に謀反の罪をでっち上げて長崎で逮捕させている。

Wikipediaによると、鳥居耀蔵の日記や詩文を読むと「自分を退けて開国したことが幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向け」ていたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5#.E9.B3.A5.E5.B1.85.E8.80.80.E8.94.B5.E3.82.92.E6.89.B1.E3.81.A3.E3.81.9F.E5.8F.B2.E6.9B.B8

この鳥居耀蔵が暗躍した「蛮社の獄」はシーボルト事件から11年も後の話なのである。
また「シーボルト事件」の起きた頃も「蛮社の獄」が起きた時代も、文政8年(1825)年に発せられた異国船打払令が国是であった時代であり、当時の考えではわが国沿岸に接近した外国船は見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕することを命じられていたのだ。 その考え方の延長線上にあるのは、洋学に対してはそれを嫌悪し、洋学者が勢力を伸ばす芽を早い時期から摘みとろうとする姿勢であり、鳥居に限らず多くの幕臣たちはそのような考えにあったと考えるべきではないか。
江戸幕府が本格的な洋学研究の必要を痛感して「洋学所」を開設したのは、ペリー来航後の安政2年(1855)のことである。

シーボルト

シーボルトが鳴滝塾で洋学を教授していた時代には、外国人を忌み嫌い、洋学をも蔑視し洋学がわが国に拡がって行くことを快く思っていなかった鳥居耀蔵のような考えの役人が幕府内にもっと多数いたはずだから、シーボルトのような影響力の強い人物を目の敵にして、何が何でもシーボルトをわが国から排除し、二度とわが国の土を踏ませたくないと幕府が考えても、おかしくないようにも思えるのだ。とすると、国外追放とするために、シーボルトはスパイということにされた、ということもあり得る話だ。

最初に述べたとおり台風で座礁したオランダ船の荷物から御禁制の伊能忠敬の日本地図が出てきたという話は作り話であり、シーボルトがロシアのスパイだという話なども、当時の風聞をあたかも真実であるかのように書いた国学者の著作から広まって行ったものなのである。
そして現在も当時の風聞が真相のように語られることが多いのだが、本当にシーボルトがスパイであったなら、彼が日本滞在中に収集した標本などを大量に持ち帰ることが出来たことが不自然に思える。また前々回の記事で画像を紹介したが、シーボルトの大著『日本』には伊能忠敬の地図を複製した日本地図が堂々と載っている。さらに、江戸幕府はシーボルトを二度目の来日のあと幕府の外交問題の顧問として採用しているが、これもおかしな話である。

シーボルト事件については、当時の風聞とは異なる観点からの考察が必要な気がするのだが、この話を続けるとまた長くなるので、次回に書くこととしたい。

<つづく>
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか

シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。

エンゲンベルト・ケンペル

エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されている。

ケンペル江戸地図

上の画像は『日本誌』に掲載された江戸の地図だが、大英博物館には彼が持ち帰った日本地図もあるようだ。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/zn/zntop.html

カール・ツンベルク

またカール・ツンベルク(1743~1828)は1775年(安永4)にオランダ商館付医師として出島に赴任し、1776年には江戸参府を果たし徳川家治に謁見している。わが国に滞在したのはわずかに1年だったが、帰国後に『日本植物誌』『江戸参府随行紀』などを著している。 次のURLで、『江戸参府随行紀』の内容の一部が紹介されているが、そこにわが国の地図の話が出てくる。
「測量術については、(日本人は)かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm

このように、ケンペルの時代もツンベルクの時代も、わが国の地図は幕府の禁制品であったはずなのだが、二人とも持ち帰っていることがわかる。
ケンペルやツンベルクの時代の地図はそれほど精度の高いものではなかったにせよ、鎖国していたわが国において、外国人がわが国の地図などの禁制品を国外に持ち出すことについて、厳重なチェックがなされていなかったことは注目して良い。

では、シーボルトの時はどうだったのか。
シーボルト事件」の通説では、シーボルトの荷物を積み込んだオランダ船が台風で座礁したために、シーボルトの荷物の中に御禁制の地図が出てきたという話になっているのだが、この噂話を読み解くと、シーボルトの時代も外国人の積荷を充分にチェックしていなかったことにならないか。

しかし、前回にも書いたように、座礁した船から禁制品が見つかったという噂話は真実ではなく、座礁したオランダ船にはシーボルトの荷物は積まれていなかったことが今では明らかになっている。
では、なぜシーボルトに、御禁制の日本地図などの品々の持ち出しが疑われることになってしまったのだろうか。

間宮林蔵

樺太が島であることを発見したとして教科書にも名前が記されている間宮林蔵(まみやりんぞう)という人物がいる。彼は探検家でもあり江戸幕府の隠密でもあった。
間宮は文化5年(1808)に幕府の命により樺太に渡り、翌年に樺太が島であることを確認し、樺太人とともに海峡を渡って黒竜江下流を調査したというのだが、国境をこえるという行為は鎖国の禁を冒すことであり、幕府の隠密であったからこそ許されたのであろう。

この間宮林蔵が命がけで探索して制作した樺太の地図がシーボルトにより持ち帰られ、現在オランダのライデン大学の図書館に保管されているという。
ではその貴重な樺太地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。また、教科書に必ず書かれている伊能忠敬の地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。

文政11年のスパイ合戦

この経緯については、シーボルト研究家の秦新二氏が著した『文政11年のスパイ合戦』に詳しい。

最上徳内

簡単に要約すると、文政9年(1826)にシーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、江戸では多くの学者がシーボルトと交流している。
探検家・最上徳内(もがみとくない)からは、樺太が島であり、その地図(『黒龍江中之洲并天度』)が「江戸城紅葉山文庫」にあって、そこにはほかにも江戸幕府に献上された機密性の高い資料が納められているとの情報を入手する。
そして4月23日、「紅葉山文庫」を管轄する江戸幕府書物方の高橋景保が訪ねてきたときに、江戸城に登城する際に「紅葉山文庫」を見せてほしいと要望し、意外にもその2日後に高橋景保がそれを承諾したという。

シーボルトは高橋の返事に驚いて、この日のことをこう記録している。
「私は驚いた。作左衛門(高橋景保のこと)は江戸城内の文庫に私を連れてゆき、将軍のコレクションを見せるというのだ。私は信じられなかったが、あえて平静をよそおって日時を聞いた。最初の登城(5月1日)の際に、自ら文庫に案内すると、彼は言った。」(秦新二氏『文政11年のスパイ合戦』文春文庫p.173所収)

高橋景保がこの話に乗ったのは、シーボルトの交換条件が良かったからだ。

5月1日は高橋景保が文庫の当番の日で、シーボルトは彼の案内で多くの貴重な資料を閲覧している。そして5月4日にシーボルトは、訪ねてきた高橋景保に、伊能忠敬の『大日本沿海與地全図』や『江戸御城内御住居之図』などの写しを要望し、代わりに高橋景保が欲しがっていた、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』、『蘭領印度の地図』『オランダの地理書』などを手渡すことを約束したという。
そして高橋景保は悩んだ挙句、翌日にシーボルトを訪れ、すべての要求を呑むとの回答をしたという。高橋景保にとっても、『世界周航記』などは何が何でも手に入れたい資料であったようだ。

しかし、最上徳内から情報を得た間宮林蔵の樺太の地図(『黒龍江中之洲并天度』)は「紅葉山文庫」にはなかったらしい。シーボルトは江戸参府を終えて5月18日に江戸から長崎に向かうのだが、肝胆相照らす仲となった探検家・最上徳内は、自らのコレクションの9割方を小田原でシーボルトに内密に手渡し、その中に『黒龍江中之洲并天度』があったという。

一方、高橋景保はシーボルトに渡すことを約束した機密書類の写しを作らせねばならず、その後何度もシーボルトの間で頻繁に手紙などのやり取りが続いた。ある日シーボルトから高橋に届けられたものの中に、間宮林蔵宛の手紙と更紗一反が入っていたので、高橋はそれを間宮に渡したのだが、この間宮への手紙が「シーボルト事件」の発端になったと言われている。

前掲の秦氏の著書のp.272に、シーボルトが間宮に送った手紙の訳文が紹介されているが、意外と簡単な内容である。
「拝啓
江戸滞在中はたった一度しかあなたと親交を深めあう幸運に恵まれず、また後になってあなたの業績を数多く耳にし、大変残念に思っております。そこで今、ささやかな敬意の証をお送りしないではおられず、ここに贈り物として、花柄入りの布を同封させていただきます。私が無事オランダに戻った時には、諸外国の地図をお送りいたします。」

シーボルトは江戸参府の際に何度か最上徳内と会っているが、一度だけ最上が間宮林蔵を連れてきたことがあったという。
先述した通り間宮林蔵は幕府の隠密であった。間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封しないまま上司に提出し、更紗はシーボルトに返却されたそうだ。

幕府はその後シーボルトとの交友関係を調べはじめ、高橋景保がシーボルトの為に国禁の地図の写しなどの書類を送ったことを突き止める。江戸で高橋景保が逮捕され、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされて、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索を受けることとなる。シーボルトは訊問の際に、科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、自ら日本に帰化し、残りの人生を日本に留まり人質となることさえ申し出たという。

この事件の関係者の判決文が次のURLで読める。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main2.html
高橋景保は死罪の判決が出ているが、「オランダ人へ渡し国禁に背くとは不届であり、その上以前から役所の費用について私用ではないが、不明朗な処理を行い、その上身上に慎みがない事等もある」と書かれている。また、景保が地図を写しを作らせた下川辺林右衛門の娘を、景保が妾同様にしたということも書かれている。高橋景保という人物の評判はあまり芳しくなかったようだが、おそらくシーボルトとの取引の件で密告のようなものがあったのだろう。

シーボルト自身がこの事件の顛末を記した文章が、前掲の秦氏の著作に紹介されている。 ポイントになる部分を一部引用すると、
「江戸参府中に私が集めた品物は、すべて押収されたが、のちに大部分が返されることとなった。幕府が、コレクションを輸送することを知っていながら公然と見逃していたこと、正式に我が政府(オランダ政府)に一切抗議していないことは、事件の性格からして摩訶不思議である。
となると、取り調べの際の尋常ならぬ厳しさと深刻さは、いったい何だったのだろう。…」(同上書p.333)

と、シーボルト自身が訝しがっているのだが、この事件を仲裁した人物がいることを書いている部分がある。この人物がなぜ、この事件の仲裁に動いたのかと誰しも疑問に思うところだ。
シーボルトはこう書いている。
「将軍の義父にあたる薩摩守を始めとする日本の有力者(原註:彼らの支援のおかげで、私は今までやってこれたと信じている)の仲裁により、(オランダ)政府の疑惑を少しずつ晴らすことができ、客観的に事件を判断できるようになってきた。」(同上書p.332)

島津重豪

シーボルトが「将軍の義父にあたる薩摩守」と書いている人物は、11代将軍・徳川家斉の義父である島津重豪(しまづしげひで)のことなのだが、ここになぜ島津重豪の名前が出てくるのだろう。

秦氏の著作によると、島津重豪は将軍の義父という立場を利用して何かと幕府に要求を突き付けて薩摩藩独自の貿易権などを認めさせるばかりか、堂々と密貿易をも行っていたという。1825年に中国から長崎奉行所宛にこのような嘆願書が届いたという。
「長崎会所で買い入れた品物と海産物を持って中国に帰ると、すでにもっと良質の品物や海産物が出回っていて商売になりません。調べてみると、琉球を通じて薩摩藩が本土に密売していることが分りました。どうかこの抜荷(密貿易)を取り締まっていただきたい。」(同上書p.308)

徳川家斉

将軍家斉としても、いつまでも重豪の横暴を放置するわけにもいかず、また重豪やその配下の者がオランダ商館長やシーボルトと何度か接触しており、オランダとの独自貿易をも企んでいることを掴み、シーボルトを捕えて国外追放することで重豪の動きを牽制したというのが秦氏の説だが、豊富な資料をもとに記されていてすごく説得力があるのだ。
実際にシーボルト事件の後、重豪の幕府に対する要求がぱったりと止まり、天保4年(1833)年に重豪がこの世を去った後は、江戸幕府は薩摩藩の密貿易の禁止令を乱発しているのだそうだ。

秦氏はシーボルト事件についてこう纏めておられるのだが、みなさんはどう思われますか。
「家斉にとってこの事件は、将軍としての地位を確固たるものにすべき第一段階であり、これまでの古い関係から脱却するためのものでもあった。その上、家斉は私的な面でもお美代の方と後台所茂姫の間にはさまれ、かなり悩まされていた。公私両面で薩摩にはほとほと嫌気がさしていた。家斉は『シーボルト事件』によって、重豪の行動に大きな釘を打ちつけたのだ。そして、その目的が達成されると、すべてを作左衛門(高橋景保)とシーボルトのせいにして、事件を闇の中に葬り去ったのである。」(同上書p.326)
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル