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白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて

白骨温泉で清々しい朝を迎えて、小鳥の囀りを聞きながら白濁した源泉かけ流しの温泉に浸かったあと、時間があったので宿の近くを20分程度散策した。

三十三観音

旅館から県道300号線に出てしばらく歩くと江戸時代に湯治客の有志が建てたと言われている三十三観音がある。
さらに進むと「竜神の滝」と呼ばれる滝があり、そこから遊歩道が整備されている。

隧通し

原生林の緑に囲まれた道を少しばかり歩くと、湯川が石灰岩を侵食してできた「隧通し(すいとおし)」と呼ばれる天然の洞窟がある。トンネルの出口周辺を「冠水渓」と呼び、紅葉の季節には鮮やかな彩りを映す風景が楽しめるのだそうだ。

旅館に戻って朝食を楽しむ。朝食にはこの旅館の源泉を入れて土鍋で炊いた温泉粥が印象に残った。帰宅してから気が付いたのだが、この旅館では温泉の持ち帰りが出来たようだ。持って帰れば、自宅で温泉粥を楽しめたのにちょっぴり残念だ。

旅館を出て奈良井宿に向かう。中山道の宿場町は、馬籠宿、妻籠宿は3年前に行ってこのブログにも書いたので、今回は奈良井宿に行く旅程を組んでいた。
2年前にはNHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地になったこともあり、その頃は観光客がかなり多かったそうだが今はそれほど多くはない。

JR奈良井駅近くの駐車場に車を停めて、古い街並みを歩き出す。散策には奈良井宿観光協会の地図を参考にさせていただいた。
http://www.naraijuku.com/map/naraijuku_map.pdf

奈良井宿杉並木

宿場町の中心部に行く前に、中山道の杉並木が残されている場所に行く。カメラを構えながら、数百年の時代を遡ったような錯覚を覚えた。

二百地蔵

この杉並木を過ぎると二百地蔵と呼ばれる場所がある。これだけの地蔵がこの場所の為に造られたのではなく、案内板によると「明治期の国道開削。鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという」と書かれていた。誰が何のためにこれだけのお地蔵さんを集めたのかがよく解らないのだが、一部の石碑やお地蔵さんの首が折れているのが気になった。ひょっとすると廃仏毀釈と関係があるのかもしれない。

奈良井宿1

八幡宮を抜けて旧街道を歩く。観光客の少ないタイミングを狙って何枚かシャッターを押したが、馬籠宿、妻籠宿では観光客が写らないような画像を撮ることは難しいだろう。
ここにはけばけばしい看板は一つもなく、電柱もなければ自販機もない。このような街並みを残しつつ、現代の生活が行われていることはすごいことであるが、このような街並みが1km近く続いているのは驚きだ。

国の重要文化財に指定されている手塚家住宅(上問屋資料館)がお休みだったので、塩尻市の指定文化財である中村邸に入った。

中村邸

この住宅は櫛問屋であった中村利兵衛の屋敷で、江戸時代の天保8年(1837)から14年(1843)頃に建築されたとされている。
NHKの朝ドラ「おひさま」では、この建物が「飴屋」の「村上堂」として使われたのだそうだ。塩尻市観光協会が作成した「おひさま」ロケ地のマップがある。
http://www.city.shiojiri.nagano.jp/kanko/locachi.files/map.pdf

昭和44年(1969)にこの中村邸を川崎民家園に移築する話が持ち上がり、これを機に町並み保存の機運が高まり、昭和53年(1978)に奈良井宿が国の重要伝統的建造群保存地区に選定されることになったという。
この素晴らしい景観を維持するために地元では様々な苦労があったと推察するが、この町並みをこれからさらに後世に残すことは更に大変な事だと思う。そのためには、もっと多くの観光客がこの地を訪れて、土産物を買ったり食事をしたりすることが必要だ。
地元の人も、この観光資源を活かして観光客を呼び込むアイデアがもっと必要だと思う。
京都ではレトロな人力車や、着物等のレンタルが結構人気があるが、奈良井宿で和服を着て、下駄や草履をはいて歩きたいという人が沢山いるような気がするし、人力車などもこの町並みには良く似合いそうだ。

店の名前は失念したが、お土産に地元の工芸品を買い、おいしい蕎麦を食べて、次の目的地である定勝寺(じょうしょうじ)に向かった。

定勝寺は木曽郡大桑村須原にある臨済宗の寺院で、室町時代初期にこの地を領した木曽親豊が始め木曽川の近くに創建したのだが数回洪水に襲われ、豊臣秀吉が全国を統一したのち、犬山城主石川光吉が慶長3年(1598)に現在のこの地に再建したとされる。

定勝寺山門

この寺の本堂は再建時の頃のもので、江戸時代初期に建てられた山門、庫裏とともに国の重要文化財に指定されている。上の画像が山門で下の画像が庫裏だが、この寺の庭も良い。紅葉の時期は山門付近も庭もさぞ美しいことだろう。

定勝寺庫裏

真夏の暑い季節には緑の多い寺社も良いが、炎天下の中を旅行するには渓谷が涼しくて良い。大桑村には「阿寺渓谷(あてらけいこく)」という素晴らしい渓谷があるので、午後の旅程に組み入れていた。

阿寺渓谷の入口にも駐車場があるが、入口から歩き出すと時間がかかりすぎるので、渓谷の中間地点にある駐車場から遊歩道を歩きはじめる。次のURLに渓谷の地図がある。
http://www.vill.ookuwa.nagano.jp/kankou/plays/nature/nature_atera/nature_map.html

阿寺渓谷6段の瀧

緑深い森の中を進むと6段の滝がある。画像は対岸から写したものだが、3段ぐらいしか見ることが出来なかった。
この渓谷の魅力は何と言っても水の美しさにある。今回は時間がなかったのであまり奥には行かなかったが、エメラルドグリーンの清流は深いところでも川底の石までがくっきりと見える。

犬帰りの淵

上の画像は「犬帰りの淵」のあたりを撮ったものだが、こういう景色を楽しみながら歩くのは楽しい。

苗木遠山史料館

1時間ばかり散策して清新な気分になった後、岐阜県中津川市の苗木遠山史料館に向かう。この史料館は苗木城跡(国史跡)のある高森山の登り口にある。
ここには苗木城の模型や城門の一つである風吹門が展示されているほか、苗木藩の廃仏毀釈の資料などが展示されていた。

苗木遠山史料館の裏から城跡につながる道がある。Wikipediaによると、苗木城は大永6年(1526)に遠山昌利が植苗木(うわなぎ)から高森山に館を移し、天文年間(1532)に遠山直廉が隆盛に苗木城を築いたが、織田信長没後豊臣方の森長可に城を落され、城主・遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。その後関ヶ原の戦いの後、遠山友忠の子・友政は、豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取り、この功が認められて遠山氏はこの地に返り咲き、その後幕末まで苗木の地を治めたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E6%9C%A8%E5%9F%8E

苗木城址1

史料館から15分ほど歩けば、苗木城の立派な石垣が見えてくる。上の画像は大矢倉跡だ。

苗木城天守

上の画像は坂下門跡付近から見上げた天守の石垣だ。苗木城の石垣は天然の巨岩をうまく利用しながら積み上げられている。苗木藩は石高わずか一万石の小藩であったが、石垣はなかなか立派であることに驚いた。

苗木城からの眺め

この日は天気が良くて、高森山からの眺めは格別であった。眼下には木曽川が流れ、遠くに中津川の市街地が見える。更に向うに見える高い山は標高2191mの恵那山だそうだ。

高森山を下山して、苗木遠山史料館の近くを散策する。この場所を旅程に入れたのは、苗木城の石垣を見ることもあったが、苗木藩が明治時代の初めに徹底した廃仏毀釈を行なった足跡をこの目で見たかったからである。 この苗木遠山史料館のあたりは、藩主・遠山家の菩提寺であった雲林寺という臨済宗の寺があった場所なのだが、墓を残したまま雲林寺は廃寺とされてしまった。
苗木藩の廃仏毀釈で廃寺とされたのは雲林寺だけではない。藩内には15ヶ寺が存在したのだがその全てが廃寺となっている。また村内に数多くあった無住の阿弥陀堂や観音堂、地蔵堂、薬師堂などは壊されて、仏蔵仏具類は焼かれたり、土に埋められたり他領へ売却され、路傍にある石仏や名号塔、供養塔なども打ち割られたり引き倒されたという。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

苗木遠山家廟所

史料館の近くに墓地があり、その中に苗木遠山家廟所(中津川市指定史跡)がある。ここには遠山家とその家臣団が眠っている。

雲林寺跡

お墓以外に、寺院の跡地である事をうかがわせるものが、史料館の駐車場のすぐ近くにあった。自然石に文字が彫られているが「菩薩」「菩提」という字が読める。お経の一節なのだろうか。
石の上にはお地蔵さんがあるのだが、首はあとから付けたものであることが明らかだ。

苗木藩の廃仏毀釈のことを書きだすとまた文章が長くなるので、詳しくは次回に記すこととしたい。
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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて

前回の記事で、苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われて、藩内の15ヶ寺全てが明治の初期に廃寺となったことを書いた。

今までこのブログで廃仏毀釈のことを何度か書いてきたが、苗木藩廃仏毀釈は相当激しいものであったことを多くの人が指摘している。なぜ苗木藩のような小さな藩で、徹底した廃仏毀釈が行われたのだろうか。まずそのことについて考えることとしたい。

遠山友禄

12代藩主の遠山友禄(ともよし)は慶応3年(1867)6月まで幕府若年寄を勤めて江戸にいた人物である。帰国を願い出て苗木に戻ったが、東征軍はすぐそこまで進軍していた。つい最近まで幕府の若年寄だったというだけで朝敵と見做される可能性があったことから、友禄は東山道鎮撫軍の総督に面談を求め、勤皇の誠意を示し恭順の意を伝えたという。

また幕末期の苗木藩は財政が厳しかった。そこで友禄は、思い切った人材登用と大胆な藩政改革を断行して財政を建て直し、さらに新政府の施策を率先して行うことで生き延びようと考えたようだ。
ここで重要な役割を担ったのは青山景通(かげみち)・青山直道の父子であった。
苗木藩の下級士族であった青山景通は、 江戸で平田派の国学を学び、嘉永5年(1852)東濃地方で最初に平田篤胤の門人となり、慶応4年(1868)の5月には新政府の神祇官の高級官僚となっていた。
苗木藩主・遠山友禄は、新政府と苗木藩との関係を良くするために青山景通を重んじ、さらにその長男の直道を藩職の最高位である大参事に抜擢し、その結果平田篤胤国学思想が苗木藩の中枢に拡がるようになっていった。
そして明治3年(1870)には藩主自らが平田国学に入門し、藩の政治と諸改革が、国学者によって運営されるようになったという。

神々の明治維新

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)にはこう書かれている。
「慶応4年7月、苗木城の守護神竜王権現は高森神社と改められ、本尊大日如来像の撤去などがおこなわれた。その後、地域での神仏分離や平田門人の神葬祭改宗などがあったが、苗木藩の廃仏毀釈が本格的に進行するのは、明治3年7月に知事(旧藩主)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされるようになってからである。ついで8月には、村々の辻堂や路傍の石仏・石塔などを毀(こぼ)ち、神社の神仏分離も徹底することが命ぜられた。苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(15か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものであった。」(『神々の明治維新』p.99-100)

そして、藩知事(遠山友禄)自らが率先して廃仏毀釈を徹底させたのである。安丸氏は続けてこう書いている。
「3年閏10月、廃仏毀釈を督促するために領内を巡視していた藩知事遠山友禄は、加茂郡塩見村の庄屋宅に一泊した。そして、庄屋の後見役柘植謙八郎を召しだし、過日、神葬祭に改めるといったのに、仏壇がそのままになっているのはどうしてか、と詰問した。謙八郎が、伯父(庄屋?)は七十余歳で、日夜あまりに廃仏を歎くのでやむをえず『等閑』にすごした、と答えた。友禄は、明朝、仏壇を庭前にもちだすように命じた。ついで病気の組頭市蔵に代わって倅為八が呼び出され、同家の仏壇も明朝もってきて、おなじく庄屋宅の庭前におくように命じられた。翌朝、両家の仏壇から本尊と脇仏六幅がとりだされ、一つ一つ土足で踏みにじられ、火中へ投げこまれた。仏壇も焼き捨てられた。これを見た市蔵の妻は、狂乱のようになって本尊とともに身を投じて焼死しようとして、まわりの者から抱きとめられた。
こうして、塩見村の人々は、恐怖と不安にかられながらも、結局は神葬祭を受けいれるほかなかった。…」(同上書 p.100)

藩知事が平田国学に心酔し、自ら廃仏毀釈を推し進めていたのであるから、結果は推して知るべしである。

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページに、苗木藩の廃仏毀釈の通達などが紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

「明治3年8月15日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 『一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中』

明治3年8月27日、達
 『一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。』

明治3年9月3日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し
 『今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。』
住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。」

苗木藩の廃仏毀釈は、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」という強引な薩摩藩の廃仏毀釈とはかなり異なるのだが、かくして苗木藩の寺は収入源が断たれて全てが廃寺となり、仏像・仏具類は破壊されたり売却されたりしたようだ。旧苗木藩の領地であった場所には、廃仏毀釈の痕跡が今も何箇所か残されている。

旅行の3日目は、午前中に苗木藩の廃仏毀釈の史跡などを訪ねる旅程を立てていたが、該当の場所は、地元の方も良く知らない場所であることが多く、初めて訪れる旅行者がカーナビで辿りつける場所はわずかしかない。

最初に訪れた場所は東白川村役場(岐阜県加茂郡東白川村神土548)である。
岐阜県内には「村」が白川村と東白川村の2つしかないというのは意外だったが、東白川村はわが国で唯一、域内に寺のない自治体なのだそうだ。要するに東白川村では、明治の廃仏毀釈のあと仏教が復活することなく現在に及んでおり、ここでは冠婚葬祭の全てが神式で執り行われているという。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑

この村役場の敷地は、廃仏毀釈以前は「常楽寺」という寺の境内であった場所で、この役場の脇に「4つ割りの南無阿弥陀仏碑」が建っている。この碑は正面から見ても、真横から見ても、縦に見事に割られている。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑2

こんなに綺麗に割れているのは、常楽寺の住職がこの名号塔を制作した高遠の石工・守屋伝蔵を呼び寄せ。石の節理に沿って割らせたことによるのだそうだ。割られた石は畑の石積みとして利用されたそうだが、昭和10年(1935)に有志の手により掘り起こされて再建されたという。

東白川村役場で『美しスポットマップ』という案内地図を入手して、次に東白川村五加大沢の「蟠龍寺跡」を目指す。村役場から白川街道を西に6km程度の距離なのだが、これといって目印になるものはなく、簡単な地図だけを頼りになんとか辿りついた。

蟠龍寺跡

東白川村の特産品であるお茶は、約600年ほど前に蟠龍寺の住職が京都の宇治から茶の実を持ち帰り、里人に茶の栽培を薦めたのが始まりなのだそうだが、その蟠龍寺はすでになく、茶畑と石垣とお墓だけが残されていた。

次に中津川市苗木609にある「穴観音」を目指す。住所は昨日苗木遠山史料館で教えて頂いたのだが、次のURLで地図がでている。近くまで来ると大きな岩があるのでわかると思う。
http://jimy1700.blog62.fc2.com/category8-1.html

穴観音

この巨岩の下のお堂が「穴観音」で、中にはにいくつかの石仏などが安置されていて、この史跡全体が中津川市の文化財に指定されている。
明治の廃仏毀釈の時に、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがあるのだが、中津川市教育委員会による案内板には「広さ約10㎡の堂内には、明治2年(1869)に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置され、また穴観音の周囲には破壊された石仏約8体が集められている」と書かれている。

穴観音の内部

この穴に石仏を隠したのか、難を逃れた石仏がこの穴に安置されているのかは大違いなのだが、地元では廃仏毀釈の蛮行があったことを、あまり思い出してほしくないような意図を感じさせる文章でもある。
格子戸越しに中を覗くと、首を切断された跡のある石仏もあるようだ。

次に、昨日苗木遠山史料館でもう1か所教えて頂いた、「くろぜ道地蔵」を訪ねる。
穴観音から裏木曽街道に戻り、高山という交差点を右折し高山大橋で付知川を渡り、すぐ右折してさらに左折した場所に「くろぜ道地蔵」が建っていた。この地蔵も中津川市の文化財に指定されている。

くろぜ地蔵

高さ2メートルを超える大きな石仏なのだが、首がきれいに切断されている。もちろん背面まで切断されているのだが、教育委員会の案内板には「…尊像の傷跡は明治初年の廃仏毀釈によるもので、村人の厚い信仰により一時期、山中に匿われていたが、その後この地に再建されたものである。」と書かれている。
首が切断されているのを「傷跡」とさりげなく書くのは、地元の人々にとっては「苗木藩の廃仏毀釈」は触れたくない史実であり、忘れてしまいたい歴史ということなのだろう。 だから地元の人に聞いても知っている人は少なく、知っている人も詳しくは語りたくないようなのだ。

地元にはすでに歴史ある寺もなければ文化財もない。廃仏毀釈の真実を詳しく知ることは、仏教を捨てた先祖が為したことを否定することにもなり、現在の神道を中心とした生活をも否定することにも繋がってしまう。それでは、地元で生きることに誇りが持てないだろう。
地元の人にとっては、苗木藩の廃仏毀釈は「触れたくない歴史」であり、できれば、そっとして欲しいというのが本音なのではないだろうか。

苗木遠山史料館で教えて頂いた史跡の場所は、どちらかというときれいに切断された仏像や石碑であったのだが、ネット探すと激しく破壊された仏像などが結構出てくる。このような史跡は、地元の人々からすれば「人に見せたくない史跡」なのだろう。

次のURLに詳しいレポートが写真付きで出ているのだが、住所がよくわからないので、どうやって行けばよいかがよく解らないのは残念だった。
http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/cb370b833fc2c394791a25cc43ea37e4
その多くは中津川市が史跡に指定しているようだが、経度や緯度は書かれていても住所で場所を示している史跡はほとんどない。
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/wiki/%E5%8F%B2%E8%B7%A1

廃仏毀釈は明らかに明治政府が主導したのだが、このブログで何度か書いているように、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実が通史などには書かれることはほとんどない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(p.231)
と、自然発生的な運動が全国に広がったような書き方がされ、政府が関与したとはひとことも書かれていないのだが、例えば奈良県の廃仏毀釈を推進したのは、明治政府が地方に派遣した役人であり、伝統寺院などを破壊し寺宝を収奪して財を成したと言われている税所篤(さいしょあつし)のような県令もいたのである。しかしそのような史実は、為政者にとっては都合の悪い真実であり、教科書に記述されることはないのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

苗木藩は、明治政府の神仏分離の施策を先取りし徹底して実行したばかりに廃仏毀釈で目立ってしまったのだが、本当の悪玉は、施策の誤りを最後まで認めずに、「一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた」と教科書に記述させて、地方に責任を擦り付けて固定化させようとした明治政府の中心勢力ではなかったのか。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述で幕末から明治の歴史が描かれることが多いのだが、このような叙述を鵜呑みにするのではなく、薩長閥がどれだけわが国の歴史を都合よく歪めてきたかという視点から、本当は何があったかを考えることも必要だと思う。
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日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る

苗木藩の廃仏毀釈の史跡を見た後、岩村城跡(県史跡)に向かう。
岩村城は鎌倉時代中期頃に、砦あるいは城館のようなものが平坦部に築かれ、戦国時代に入って本格的な城山が築かれたとされる。
この城の本丸は標高717mの城山山頂にあり、諸藩の居城の中では最も高い場所にあるのだそうだ。この城の付近でよく霧が発生するために、別名「霧が城」とも呼ばれている。

また岩村城は、高取城(奈良県高市郡高取町)、備中松山城(岡山県高梁市)と並ぶ日本三大山城の1つに数えられているのみならず、公益財団法人日本城郭協会が平成18年2月に公表した「日本百名城」にもリストアップされている。岐阜県で選ばれているのはこの城と、岐阜城の2つのみである。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nihonjokaku/pdf/100list.pdf
1989年にJTBが選んだ「日本秘境百選」にもこの城が選ばれているのが気になっていて、以前から行きたいと思っていた。
http://j100s.com/hikyo.html

岩村城の麓の藩主邸跡に「岩村歴史資料館・民俗資料館」があり、その駐車場に車を駐めた。
この資料館には岐阜県の重要文化財に指定されている「享保岩村城絵図」「明和岩村城絵図」「佐藤一斎自讃画像」などが展示されている。

知新館と櫓

藩主邸の敷地には岩村城の太鼓櫓、表御門が復元され、すぐ横に岩村藩校知新館正門(岐阜県指定史跡)が移築されている。
知新館は、元禄16年(1703)に信州小諸から転封してきた松平乗紀(まつだいらのりただ)によって創設された岩村藩の藩校だが、当時、藩校は全国的にもまだ数少なく、特に2万石という小禄の大名が創設した事例は他にはないのだそうだ。
岩村藩では藩士は8歳になるとここで学ぶことが義務付けられ、20歳まで四書五経や儒学の修養、算術や書道などを学んだという。そしてこの藩校から、その後の日本の学問をリードした人物が何人か出ている。

江戸幕府の儒家である林家の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与した林述斎(はやしじゅっさい)や、後に昌平坂学問所に入門し、文化2年(1805)には昌平黌の儒官(総長)となった佐藤一斎(さとういっさい)が有名だが、佐藤一斎の弟子には佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など幕末で活躍した著名な人物がかなりいるのに驚いてしまう。

佐藤一斎像

知新館の横に佐藤一斎の銅像があり、その左に佐藤一斎の有名な言葉が刻まれている。
「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

岩村城天守跡へはこの場所から徒歩で20分くらいと書かれていた。
「日本秘境百選」のリストのなかで、この場所ほど簡単に目的地に辿りつける場所は多くはないと思うのだが、真夏の炎天下に天守に続く坂道を登っていくのは正直言ってきつかった。歴史資料館近辺には飲料水の自販機が見当たらなかったので、汗をかく人は、事前に水筒を用意しておいた方が良いだろう。

岩村城址1

15分ほど登ると大手門を過ぎて立派な石垣が見えてくる。

岩村城址2

天然の地形を活かした菱櫓があり、奥に六段壁の石垣が見える。

岩村城址4

この坂を登れば、本丸の跡だ。このあたりの石垣は見事である。

岩村城址3

本丸跡からの眺めも素晴らしいのだが、3日連続の山歩きで、しかも炎天下の散策はきつかった。普段ならベストアングルを狙って、石段を登ったり下りたりしていろんな場所からカメラの位置を変えて写すところなのだが、この日はその元気がなかったので、本丸から出丸、南曲輪方面には行かずに、来た道を引き返すことにした。

ここで岩村城の話題をひとつ。
岩村城は「女城主」と呼ばれた人物がいたという伝説がある。この話はネットでいろんな人が書いているが、朝日新聞の記事などを参考にして、簡単にまとめておく。
http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200908170117.html

元亀3年(1572)、城主の遠山景任(かげとう)が子供のないまま病死する。織田信長の叔母にあたるという景任の妻の「おつやの方」は、信長の五男坊丸(後の織田勝長)を養嗣子としたのだが、坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継いで岩村城の女城主となったと言う話だ。

ところが、同年10月に武田信玄が西上作戦を開始した際に、おつやの方は武田軍に寝返り、武田の将・秋山信友の妻となって岩村城主の妻の座に着き、この時に坊丸は人質として甲斐に送られたという。このことが信長の逆鱗に触れることとなる。

長篠の戦いで武田勢に圧勝した信長は、嫡男の信忠を大将として岩村城を攻めたのだがなかなか落ちない。そこで信長は城兵の助命を条件に開城させるのだが、その後和議の約束を反故にして秋山信友以下の城将を皆殺しにしたという。この時におつやの方がどうなったかについては、武田家軍学書「甲陽軍艦」には、信長によって成敗されたと書かれているそうなのだが、捕らえ逆磔刑に処されたという話もあるようだ。

遠山景任の妻が織田信長の叔母であったというのが多数説なのだそうだが、甲陽軍鑑では「伯母」、「巌邑府誌」では「信長の女弟なり」と記されているようで、「女城主」の伝説も後世の創作部分がかなりありそうな気がする。

前日は奈良井宿の古い街並みを楽しんだが、岩村城の城下町である岩村町の散策を予定に入れていた。この岩村町も重要伝統的建造物保存地区に指定されており、現在も本町通りの4分の1は江戸時代の建物なのだそうだ。

岩村城下町

本町通り沿いには古い家がびっしり建っているので駐車場はない。少し歩くことになるが、大きな駐車場が岩村振興事務所の近くにあるのでそこを利用するのが良いだろう。次のURLの観光マップが参考になる。
http://www.fureai.enat.jp/kankou/images/map1.pdf

昼食を終えて本町通りを少し歩いて、勝川家に入った。
勝川家は屋号を「松屋」と言い、江戸末期から台頭した材木や米を扱う商家だったそうだ。

勝川家

中庭には米蔵があり、年間3千俵の米を取扱い、幕末にはその財力で逼迫した岩村藩の財政を支えたと言われている。敷地内には江戸時代の土蔵などが残されている。

予定の時間が過ぎたので岩村町の観光を切り上げたが、時間があれば幕末の庄屋であった浅見家や江戸時代の問屋で岩村藩御用達であった木村屋なども見ておきたかった。

最後の目的地は、多治見市にある永保寺(えいほうじ)。

夢窓礎石

この寺は正和2年(1313)に土岐氏の招きを受けた夢窓礎石(むそうそせき)により開創されたと伝えられ、現存の開山堂と観音堂はともに国宝に指定され、庭園は国の名勝に指定されている。

永保寺観音堂2

上の画像は国宝の観音堂で、この建物は夢窓礎石が来られた翌年の正和3年(1314)5月に建立されたもので、夢窓礎石により建てられた建築物としてわが国に唯一現存するものだそうだ。唐様建築の手法に平安時代から続く和様建築の手法を折衷させた建築様式で、鎌倉時代末期の折衷様建築の代表作と評価されている。
庭園は寺の創建直後に夢窓礎石に造庭されたと言われ、観音堂の横の岩山、臥龍池にかかり観音堂につながる無際橋(むさいきょう)など歩きながら景色の変化を存分に楽しむことが出来る。

永保寺開山堂2

庭園の西北の奥まったところに、国宝の開山堂がある。この建物は1352年頃に足利尊氏が建立したと言われ、室町時代初期の唐様建築の代表的な建物だとされている。
この建物の裏には祠堂(しどう:神社でいえば本殿のようなもの)があり、夢窓国師とこの寺を開山した仏徳禅師の座像が安置されているという。
前部の礼堂、後部の祠堂とは相の間によって繋がっていて、その建て方が「後の神社建築(権現造)の原型になった」と、案内板に解説されていた。
「権現造」は、本殿と拝殿が一体化され、間に「石の間」と呼ばれる低い建物を設けているのだが、永保寺に来て神社の建築様式の原型を見ることになるとは思わなかった。

岐阜県には何度か来ているが、国宝を訪ねたのは今回の旅行が初めてだ。
岐阜県の国宝建造物は3つだけで、今回の旅行の初日で安国寺経蔵を見学し、最終日の最期に永保寺の観音堂と開山堂を見学した。岐阜県のすべての国宝建造物を今回の旅行で訪ねたことになる。
http://otakaramap.funboy.info/modules/pico/index.php?content_id=220

今までいくつもの国宝や文化財を見てきたのだが、国宝や文化財があるにもかかわらず、その場所を訪れる観光客が驚くほど少ないことが気になっている。
このブログで何度か書いてきたが、美しい街並みや建造物や伝統文化などは、訪れる人がいなくなれば、いずれは地元の人々だけでは支えられない時が来てしまうことになる。

しかし、我々の先祖が、数百年以上ものあいだ何世代にもわたって護り育ててきた地域の伝統や文化やその景観を、我々の世代で朽ち果てさせて良いのかという思いがあるのは私だけではないだろう。
そうならないためには、地方の魅力をできるだけ多くの人に知っていただき、興味を持っていただいて実際に足を運んでいただくことが必要なのだ。

私に出来ることは、地方を訪れて社寺などの名所を訪ね、その地域の農産物や加工品などを買ったり食事をして、その旅行の記事を書くことくらいなのだが、旅行の雑誌に載っていないような場所にも、地域の人々が誇りにするさまざまな歴史や文化があることを、このブログでこれからも伝えていきたいと思う。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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