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特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

前回まで3回にわたって、宮下弘氏の『特高の回想』の文章を引用しながら、ゾルゲ事件について書いてきた。

この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。
よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく支配してきた左翼系の人々が、天敵であった特高を悪しざまに言うのは当然のことだと思うのだ。

もちろん、特高出身者の宮下氏が語る言葉が、実際にあったことを控えめに述べている可能性は否定できないのだが、宮下氏は高等小学校後職工生活を経て20歳の時に警察練習所を経て巡査となり、26歳で巡査部長、29歳で警部補に昇進し特高に抜擢された苦労人である。また戦後の特高は解散されて公職追放で職を追われ、悲惨な生活の中で栄養失調で歯がガタガタになってやせこけたという宮下氏に、前の職場を美化する動機が強いとは考えにくいのだ。

宮下氏は、特高のいい面も悪い面もかなり正直に述べていると私は判断しているのだが、特高の取調べの際の暴力がどのようなものであったのか、宮下氏自身が語っている部分を紹介することから始めたい。

特高の回想

特高警察を特殊視して、そこで暴力・拷問といった固定観念がつくられてしまっている。しかし特高警察と一般の警察がまるでちがったものに考えられているのは誤解です。
 司法警察官として検事の命を受けることも、普通の刑事犯を扱う司法警察官と変わりありません。刑事訴訟法のたてまえからいうと、検事が捜査し、司法警察官がそれを補助するということですから、検事が中心です。じっさいに検事が捜査を指揮するわけではないのですが、法のたてまえはそういうことです。警視庁特高であるわたしたちの場合は、東京地検の思想部検事の補助をする。

 取調べのさいの暴力ですが、ぶんなぐるというようなことがなかったかというと、それはずいぶんあったかもしれない。それはいろんなものが重なり合って、警察にはそういう習慣があるんです。刑事部屋というのはずっとつづいていますから、それに体罰をくわえるというのは、当時は親でも学校の教師でも、かんたんにやった。わたしなんかも巡査時代、同僚に殴られたりしたことがある。軍隊経験者も多いし、挑発されるとつい手がでる。そういう意味では暴力は警察のなかでは日常化しているということはありました。…」(宮下弘特高の回想』p.123-124)

と、宮下氏は暴力行為があったことは否定しないが、当時は体罰を加えることは、親でも学校の教師でもよくあったことだし、宮下氏が特高に抜擢される前の警察勤務時代においてもある程度の暴力はあり、同僚から殴られたこともあると書いておられる。では特高は一般の警察と較べて、暴力を用いることが多かったのか、少なかったのか。

そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから

 … わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125)

なるほど、革命を夢見ている共産主義者からすれば、特高は憎むべき敵であり、特高の取調べは国家権力との戦いであり、その戦いに勝つことが正しいことなのである。したがって、逮捕されたところで罪の意識は殆んどないのだ。そういうメンバーを自白させるのには、一般の警察の場合よりもかなり大きなエネルギーを必要としたことは間違いがないだろう。
多くの日本人は、「特高」といえば「拷問」をしたと考えてしまうところなのだが、そのイメージはプロレタリア作家の作品などで拷問の場面が何度も描かれたことから作り上げられた側面もあると思われる。

宮下氏は、
知識人や作家が書くものには誇張もあるだろうし、自分を美化するところもあるだろうし、戦後自分は軍と協力した、というひとは一人もいなかったように、書かれるのは特高にひどい目にあわされたという話ばかりですから。」(同上書 P.126)
と述べて、実際には嘘話が平気で書かれている書物がある事を具体例を挙げて説明しておられるのだが、その点は省略する。

プロレタリア作家からすれば、国家権力に雄々しく立ち向かう主人公を描くためには、特高の取調べが余程厳しく描かなければ物語が成立しないだろうし、嘘をもっともらしく広めて国家権力を貶めることも権力闘争の一手段であると彼らが考えていた可能性もあると思う。

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とは言いながら、特高の取調べの最中に死亡した人物がいることもまた事実である。このことをどう解釈すれば良いのだろう。
『日本資本主義発達史』を著した野呂栄太郎が昭和9年2月に品川警察署から北品川病院に移送された後に死亡しているが、このケースでは、もともと肺結核で療養中のところを検挙され、取調べ中に持病が悪化したために死亡した可能性も考えておく必要がある。

蟹工船

しかし『蟹工船』を著した小林多喜二が昭和8年(1933)2月20日に特高での取調べ中に死亡した件については、写真も残されており拷問があった可能性を感じさせる。
この小林多喜二の件については宮下氏の言葉の歯切れは良くないのだ。
「拷問で殺したとはおもっていませんよ。殺したというんじゃない。死なせたわけですわね。むろんそれはまずいことですよ。死なせてしまったんですから。いいことをしたというようなことはぜんぜんない、まずいことです。大失敗です。しかし、部内で責任がどうこうということはなかった。誰が責任を取る、追及されるという事柄ではなかった。」(同上書 P.126)

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ところがプロレタリア作家の江口換は、赤坂福吉町で小林多喜二とともに捕らわれて、膀胱結核で保釈となった今村恒夫を病院に訪ねて、今村から多喜二のことを聞いたとして
「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」
とひどい拷問が行なわれたことを書いているという。これは取調べというよりもリンチというべきだが、本当に特高はここまでやったのだろうか。
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7
次のURLに小林多喜二の遺体の写真があるが、両足が内出血で黒ずんでしまっており正視できるものではない。
http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-774d.html

しかしこのような拷問がもし日常的に行われていたとしたら、報復で特高警部が襲われたり、自宅が襲撃されるようなことがあってもおかしくないと思うのだが、そのようなことはなかったという。宮下氏はこう述べている。

「ありませんね。わたしはいまの暴力の問題もふくめて、そんなに憎まれるような調べをやったことがありませんから。まえにも言ったが、いま住んでいるわたしの家は戦後建てたんですが、あれはわたしが取調べた共青*の中央組織部長がつくってくれたんですよ。加藤工務店という工務店をやっていましてね。」(同上書 p.127)
(*共青:日本共産青年同盟の略。現在の日本民主青年同盟の前身。)

特高には宮下氏のように、後に取り調べを受けた者から感謝された人物もいたのである。取調べられる方も、自白するかどうかは相手の人柄と力量に左右される部分が大きいのだと思う。

とは言いながら、昭和3年から4年の頃には「取調べる方がなんにもわからないんだから、ひっぱたくしかしょうがない。特高にひっぱられたら拷問というのは、そのころの話がいつまでも伝わっているんじゃないかな。もっとも、その後でも、そういうやり方の人間がいたことは否定しませんが。」(同上書 p.128)とも述べている。

さらに、宮下氏は取調べには拷問は必要ないとはっきり述べている。

とにかく調べというのは、意志と意志の戦いですよ。調べるほうの意志が相手を打ち負かすか、相手の方が優位に立つかで、相手が優位に立てば取調べなんかにならないでしょう。だからぶんなぐるというのも、相手の意志を挫き、弱くする方法であるが、調べる側がじゅうぶんな知識をもってのぞめば、拷問というような手段は必要ないんです

取調べる側からいえば、取調主任の能力が問題ですね。調べられる側の話しやすい人間というか、話してくることをピンと受けるとる感度を持っている人間というか、ですね。それからツボを衝かなければ訊きだすものも訊き出せない。自分でもスリができるくらいでないと有能なスリ係の刑事にはなれないと警察ではよく言いましたよ。バクチの調べでもそうです、自分がぜんぜんバクチできなくては取調べはできない。
 われわれでいえば、革命運動をやろうとする心理、それが逮捕されたときの心理、そういうものを知っていて、それから言葉づかいでも彼らと同じ用語を使う。仲間としゃべっているような気分にさせてしまうくらいにね。(笑)
 留置場に長いあいだ放り込まれていると、しゃべりたくなるのが人情なので、そのあたりをみはからって取調べに呼び出し、ツボをはずさなければ、たいていはしゃべります。それでもしゃべらないというのは、まず、いません。」(同上書p.128-129)

教育は教師と生徒との魂のぶつかり合いだという話を聞いたことがあるが、特高の取調べも同様であろう。相手から自白を引き出す仕事はリンチのような拷問行為は必要がないという宮下氏の話にはかなり説得力がある。

小林多喜二が死んだ年である昭和8年(1933)の12月23日に、当時の日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の二人が、渋谷区内のアジトで仲間に針金等で手足を縛られ、目隠しとさるぐつわをされて暴行されために、小畑が24日に外傷性ショックにより死亡した「日本共産党スパイ査問事件」という事件があった。
二人に暴行を加えた人物の供述によると「最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた」というもので、小林多喜二の場合の場合よりさらに残酷なやり方で小畑は命を奪われていることになる。二人が仲間から暴行された理由は、特高のスパイ行為を働いたというものであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_ref-4

宮本顕治

このリンチを行なった中心人物は、後に日本共産党委員長となった宮本顕治である。 宮本はこのリンチ事件の2日後で捕えられたが、なぜ宮本の場合は小林多喜二のようにならなくて済んだのか。
そもそも地下活動に入っていた小林多喜二が、仲間と待ち合わせしていた場所になぜ特高警察が待ち伏せしていたのか。いったい誰が多喜二の待ち合わせ場所を特高に洩らしたのか。特高が多喜二を拷問にかけて死に追いやったのがプロレタリア作家・江口換の記述の通りなら、仲間や家族が国を相手に訴えなかったのはなぜなのか。

私には、この事件にはもっとドロドロとした背景があるような気がしてならない。
ネットでは宮本顕治が怪しいと考えている人もいるようだが、なかなか興味のある視点である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/hosoku_mifuneco.htm

今まで小林多喜二が特高による拷問で死んだ話は何度も聞かされてきたのだが、その前に日本共産党員が昭和5年「川崎武装メーデー事件」で拳銃を発砲し警官やメーデー実行委員を負傷させた事件があった。昭和7年にはスパイ容疑で仲間を射殺する事件があり、10月には拳銃と実弾購入資金を得るために銀行を強盗した「赤色ギャング事件」が起こっている。
そして昭和8年2月に小林多喜二事件があり、12月に「日本共産党スパイ査問事件」があった。

このような事件が当時の日本共産党で相次いだことを知ったのは比較的最近のことなのだが、このような一連の事件を伝えずに小林多喜二の特高の拷問で死んだことばかりが強調されるのが公平な歴史叙述の姿勢であるとは思えないのだ。

我々は、教科書や新聞などを読み、テレビや映画などを見ているうちに、いつの間にか「共産主義者やコミンテルンにとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党

前回記事の最後に、昭和8年(1933)の12月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件で日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の2名がリンチに遭い、翌日に小畑が死亡したのだが、この二人が仲間から暴行を受けた理由は「特高のスパイ行為を働いた」というものであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html

特高の回想』を著した宮下弘氏はこの事件の担当ではなかったが、当時の日本共産党では仲間をリンチにかける事件が結構多かったようだ。宮下氏はこんな事件のことを述べておられる。

「わたしが直接調べたリンチ事件は、小畑達夫のもとで党中央財政部員だった全協*出身の大沢武男がリンチされた事件です。
昭和8年(1933)暮の宮本・袴田たちによるリンチ査問のあと、翌年1月から2月にかけて、大沢はひどい目にあわされています。査問されても、頑強にスパイであることを否認するので、査問する側は党中央にお伺いをたてたら、スパイであるという印をつけて釈放しろ、と。それで、大沢の額に焼きごてをあて、硫酸を流し込んで、スパイの烙印をつけて釈放したんです。
 同じころ査問された江東地区委員だった波多然のばあいも、やっぱり同じようにして烙印をつけられている
。この大沢や波多然にたいするリンチを木島(日本共産党委員、江東地区責任者)らがやっています。
 大沢がスパイ容疑で査問されているらしいという情報があって、内偵しているうちに、大沢のハウスキーパーをしていた女性の実家で女中をしていた女の口から、大沢の居場所を訊いた。そこは引っ越して空き家だったが、運送屋を調べたりして隠れ家を突きとめたら、真夏だというのに昼でも雨戸を閉めきりにしている。額に烙印をおされて、戸外に出られないで、部屋の中に閉じこもって、新聞の碁の欄を見ては一日じゅう碁盤に石を並べていた。それを逮捕したのです。」(『特高の回想』p.130-131)
*全協:日本労働組合全国協議会の略。昭和3年に左翼が再結集し発足。日本共産党の指導下にあった。

s8.11.20全協1700検挙

「日本共産党スパイ査問事件」でリンチに遭い、生き延びた大泉兼蔵は六本木の隠れ家に監禁されていた。大泉を援けたのも警官だった。宮下氏はこう述べている。

あれは六本木署の巡査が通りかかったら、家の中でわめいているのが聞こえて、入ったら大泉が転がり出て来たんです。ピストルをもった木俣鈴子を突きとばすようにしてね
 大泉がどこかに監禁されていることはわかっていたけれども、どこかはわからない。どうもおかしい、どこかでやられているとはわかっていた。」(同上書 p.131)

ではなぜ日本共産党はこの時期にメンバー内でリンチ事件を繰り返していたのだろうか。
宮下氏の解説によると、昭和7年(1932)の10月に武装闘争のための拳銃と銃弾購入資金を
得るために起こした「赤色ギャング事件」以降大衆の支持を失い離反者が増え、さらに闘争の情報などが漏れて幹部が疑心暗鬼となり、犯人探しに躍起になったようだ。
この頃の日本共産党の状況を宮下氏はこう述べている。

S9.5.23赤色ギャング

「…銀行ギャング事件以後は、大量転向、スパイ除名処分といった、もうほとんど壊滅に近い状態のなかで、ひとにぎりの共産党と警察だけが対抗していました。共産党はいったいどこを向いて、何をやっているのだろう、という気がしたことは事実です。
 とにかくわれわれの側の対策が効果をあげていくにしたがって、共産党のほうでは、おかしいぞ、おかしいぞというので、スパイ容疑で組織から活動家をどんどん処分してゆく。で、ほとんどなんにも動けない状態になっていったわけで、その果てがリンチ事件ですね

 スパイ容疑で除名される者のほとんどがスパイでもなんでもない。当時の『赤旗』に発表されたスパイの氏名や部署などを今日の冷静な目でみれば、いかになんでもそんなにスパイがいるはずないと、誰しも思うでしょうが、当時の党の疑心暗鬼は狂気じみていました。」(同上書 p.133)

Wikipediaに、小畑・大泉の両名がリンチを受けた翌日(昭和8年12月24日)に『赤旗』に掲載された、日本共産党が出した党声明が紹介されている。
中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「極刑をもって断罪する」の意味するところは、リンチによる死刑ということのようだ。

また、生き残った大泉が監禁されているところを警察により救出された翌々日の昭和9年1月17日の『赤旗』には、「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載され、「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であったという。

ところが殺された小畑の方は、特高のスパイではなかったのだ。宮下氏はこう述べている。(Sは、スパイのこと)

「リンチ事件があったあと、わたしは労働係の訊ねたのですが、小畑はぜんぜんSなんかじゃないと言っていました。リンチ共産党事件当時では、わたしももうベテランの部類にはいっていたし、労働係が嘘を言うことはない。それに本人が殺されているのですから、事実を隠す必要もないわけです。
 とにかく、労働係が小畑を当方の協力者として利用していた形跡はぜんぜんなく、わたしたちも彼をSにしたことはない。
 スパイでもないのにスパイとして除名された共産党員や共青同盟員はいっぱいいるわけですが、小畑などは、スパイの濡れ衣を着せられたまま殺されて放置されているんだから、可哀そうです
よ。

小畑に対するスパイという断定の根拠は、小畑が昭和6年(1931)年の夏、万世橋警察署に検挙されたさい、党員なのに40日の拘留で帰された、ということだけのようなんですね。これはまったく滑稽な話で、昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放しているんですよ。…
昭和7年の夏から秋にかけて、村上多喜雄が尹基協をスパイとして射殺したり、城南地区委員の平安名常孝がスパイ容疑で刺されたりしています。この尹基協も平安名も無実だったのを、共産党自身否定できないんじゃないでしょうか。そのほかにも表面に出なかったリンチ事件はかなりあったんじゃないかとおもいます
。」(同上書 p.134-135)

S10.3.袴田逮捕5

このように、当時の日本共産党は無実の党員を何人もリンチにかけ、死亡者も出していたのであるが、日本共産党幹部をここまで疑心暗鬼にさせたのは、特高が日本共産党にスパイを送り込んだことによるのだ。
では、特高はいかにして日本共産党にスパイを送り込んだのか。宮下氏はこう書いている。

わたしたちはS(スパイの頭文字)といっていたが、Sを養成して組織に送り込むという事はしていない。しかし活動していて一定の部署をもった者が没落する、あるいは転向する、それから検挙されて考えが変わった、というようなのが、Sになるんですね

だいたい共産党や共産青年同盟が、前衛党としてガッチリした共産主義者ばかりを組織していれば、スパイというような問題は起こらない。すくなくともひじょうにすくないでしょう。ところが、党員や同盟員は、学生あるいは学生あがりのインテリが大部分だ、と。それで労働者をなるべく獲得したい、それを主要な部署に配置するようにせねばならない、という要請がつよい。で、労働者党員あるいは労働者は、労働者だからというので、ルーズに加入させてしまうというような傾向があったのでしょう

そんなふうにして入ったもののなかには、共産主義運動を命がけでやるという心構えのない者もある。だから検挙されて取調べを受けると、誰彼に誘われてイヤと断れずに入っちゃった、ほんとうはやる気なんぞないんだ、などという。それくらいひどいのも、なかにはいるわけです。それから運動に入っていって失業してしまって、ずるずると、いった格好の者もいる。」(『特高の回想』p.108-109)

インテリは、スターリンは絶対正しくコミンテルンは無謬であるとの考えが固く特高のSには不向きで、Sになったのは主に労働者であったという。そして情報入手の際には金銭がからむことが多かったようだ。平均的には交通費の名目で10円から20円だったようだが、非合法の共産党員として活動している連中には生活をみてやらねばならず、月に100円以上渡していたという。
また、特高は情報を誰から入手したかが相手に分からないように重々配慮し、相手がSをやめてからも一切名前を明かすようなことをしなかったそうだ。
そのため、共産党側では、情報が漏れていることは分かってもどこから漏れているかがわからない。そこで、多くの党員をスパイ、挑発者として除名していくのだが、特高からすれば、スパイでも何でもない人間が処分されていたという。
宮下氏はこういう事例を述べている。

「『赤旗』でも、配布ルートのどこかで入手できたし、のちには印刷直後に入手できるようになりました。
 だから、印刷局の大串雅美が西沢隆二らにリンチされたりした
。あれは宮本や袴田の事件*のちょっと前じゃありませんか。大串が監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきてわかったのですが。しかし大串はスパイじゃありませんよ。われわれが簡単に『赤旗』を入手するし、つぎつぎに印刷所を手入れするしで、彼らがスパイ摘発をあせった、ということです。」(同上書 p.116)
*日本共産党スパイ査問事件のこと

このように当時の日本共産党はかなり多くのメンバーをリンチにかけているのである。そして、前回話題にした小林多喜二の事件もこのような時期に起こっているのだ。

S8.3.16小橋多喜二追悼会



日本共産党幹部からすれば、スパイ分子を組織から排除することが重要であることはもちろんだが、新たな特高のスパイが生まれないようにしなければならないことは言うまでもない。
そのためには、特高がとんでもなく怖ろしい場所であるとメンバーを洗脳することが不可欠であったはずだ。
そのことは、メンバーに特高を怖れていない場合のことを考えればわかる。特高が怖くないと認識されていたら、幹部からリンチを受けそうな気配を感じた場合に、実家などに逃げるよりも特高に逃げることが一番安全となってしまうだろう。それではこれから革命を起こそうとする組織の秘密が守りえない。
だから日本共産党幹部は特高の怖ろしい拷問シーンをプロレタリア作家に書かせたのだと思う。

宮下氏によると、プロレタリア作家らが書いた特高の拷問に関する記述には、特高に実在しない人物が出てきたり、宮下氏が担当していない人物の取調べで宮下氏の名前が出てきたり、特高では存在しなかった電気椅子が登場したりしているのだそうだ。
要するに、特高でとんでもない拷問が行なわれたというプロレタリア作家の記述の多くはフィクションであり、これらの文章がそのまま真実の記録であるかのように考えてこの時代を理解しようとする姿勢は誤りなのだと思う。
実際にひどいリンチを行なっていたのは日本共産党の幹部の方ではなかったか

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軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織

すこし前にゾルゲ事件で主謀者が検挙されたことをこのブログで2回に分けて書いたが、その話に戻そう。ゾルゲや尾崎が捕まったといっても、ソ連の工作ルートは世界に拡がっていて、その一部が解明されたに過ぎなった。
宮下氏は中国共産党につながる諜報ルートが恐らく別にあって、それを解明する必要があると考えていたようだ。
しばらく宮下氏の文章を引用する。

「尾崎秀実の取調べで、周辺の一人ひとりについてくわしい説明を求め、諜報活動との関係を訊問したときに、尾崎自身の口から水野のことが、尾崎第一の側近として出ました。そこで水野に関する中国在住の東亜同文書院出身者のことなどを追及したら、いや、それは水野からいろいろな人間の名前や動きはでるだろう、が、中国関係の線と自分のほうとは関係がないんだ、と。
 水野は中国になら多少は関係があるかもしれないが、ゾルゲや自分たちの諜報活動にはタッチしていないんだと予防線を張って、小さく言って済ませようとしたため、かえって中共の線に関係のあるのを匂わせたようなことになったのですね

中国共産党につながって日本の情報をむこうに手渡している諜報組織があるにちがいない、とおもっていたわけですが、しかし、じっさいに特高一課としてそれの究明にとりくむことはできなかった。それが、ゾルゲや尾崎のスパイ活動を摘発して、やはりこれは尾崎周辺の疑わしい人物を検挙してこの線を徹底的に洗い出さねばならない、とわかったので、ゾルゲ事件と併行して、またそれを一段落させた後、この中共の線の追及に全力を挙げました。」(『特高の回想』p.234-235)

東亜同文書院

東亜同文書院」というのは、明治34年(1901)に東亜同文会(近衛篤麿会長)によって上海に設立された日本人のための私立の高等教育機関のことである。設立者近衛篤麿の長男が、のちに尾崎秀実をブレーンとし総理大臣となった近衛文麿である。
また「水野」という人物の名は「水野茂」で、彼が「東亜同文書院」の学生時代、共産主義活動に奔走していた時期に朝日新聞の上海特派員であった尾崎秀実の目にとまり、水野が帰日後はゾルゲ事件が発覚するまでの約10年間、尾崎秀実が就職の面倒を見ていた人物である。

水野茂の自供から、連絡を取っていた人物として西里竜夫、中西功、安斉庫治が浮上し、3名を逮捕すると、中国共産党の上級とのつながりもわかっていったという。
しばらく宮下氏の文章を引用する。

西里は軍嘱託、同盟通信社出向社員のかたちで国民政府宣伝部直属の中央訊社に入っていて、同時に、中共党員として李徳生や汪錦元らの党細胞にも入っている。汪錦元は母親が日本人で、日本名を大橋とかいいましたが、南京政府の汪兆銘政府の動静など、ぜんぶ西里たちはつかんでいた
 西里はこのほかにも、陳という中共党員を中央電訊社の記者として採用させたりしている。人材を採用するんだといって懸賞論文の企画をたて、それに同志を応募させてお手盛りで当選させる。そういうことができたのも、傀儡政権にのりこんだ軍の嘱託という身分の背景があったからでしょう。
 …
 中西功は満鉄調査部の『支那交戦力調査』で軍から信頼されていた。
 とにかく、彼らと中国共産党のつきあいは長いわけです
。西里の場合は東亜同文書院当時から社研などをやっており、卒業して上海日報の記者になったころに、尾崎と知り合っている。
 安斉庫治も、東亜同文書院出身で、逮捕したのですが、安斉は中西らのグループを離れて、蒙古でなにか特殊任務を受けてそれに従事していたようでした。安斉の実兄が軍の要職にいて、こっちで大事に使っているんだからあれは釈放してやってくれという要請があって、釈放しました。釈然としない気持ちでしたが、軍と衝突してもつまりせんから。…」(同上書 p.236-237)

このブログでいろいろ書いてきたので繰り返さないが、軍の幹部にも共産主義者が少なからずいた。軍部の圧力に屈したために、それ以上の真相の究明が出来なくなってしまったのだが、中国諜報団は大変な規模のものであったはずであり、早い時期にこの諜報団の全貌が解明され検挙に至っていたならば、わが国だけでなく中国の歴史も大きく変わっていたかもしれないのだ。
宮下氏はこう述べている。

それはもう、相当な事件だったとおもいます。南京の汪兆銘政権の内部に日本人の参加した中国共産党の組織がもぐりこんでいるのですから。南京政府を強化して中国の統一と日支和平を図ろうとした対支政策の根本が、延安の共産党に筒抜けになってしまっている
 重慶の蒋介石は、一方で日本と戦争をしながら、片方では中共をつぶしたいと考えているのだから、南京政府を漢奸だ、傀儡だといいながら、なんらか反共連絡線はあったでしょう。つまり、日支間の和平工作のパイプは複雑に絡み合っていたとおもうのです。それをぜんぶ失敗させて、抗日戦争を徹底的に続けるという、延安の毛沢東の方針を、李徳生や陳一峯、西里らは実行していたわけですからね。しかもそれを、現に戦争している軍の内部にいて、軍の嘱託として信頼を得ながら、中国政策や軍の占領行政を妨害して、日本人が中共のために活動していた。昭和12年(1937)以来、日本の兵隊は何万と死んでいるのですから、これは重大なことですよ。」(同上書 p.239-240)

わが国の教科書では、この頃の中国史が特にわかりにくい。
例えば『もう一度読む山川の日本史』では

「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。このとき日本軍は、非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺傷して国際的に非難をうけた(南京事件)。このころ、ドイツを仲介に日中間の和平交渉がすすめられていたが、日本側が過大な要求を示したため、交渉はなかなかまとまらず、1938(昭和13)年1月、第1次近衛文麿内閣は、参謀本部が反対したにもかかわらず、今後は『国民政府を対手とせず』という声明(近衛声明)をだし、みずからの和平の機会を断ち切ってしまった。
 近衛内閣は、戦争の目的が日本・中国・満州国の協力による”東亜新秩序”の建設にあることを声明し、国民政府の有力指導者の一人汪兆銘(精衛)を重慶から脱出させて、1940(昭和15)年には南京に新政府をつくらせた。しかし重慶を首都にした国民政府は共産党と協力して、アメリカ・イギリス・ソ連などの援助でねばり強く抗戦をつづけ、日本はいつはてるともしれない長期戦の泥沼にふみこんでいった。」(『もういちど読む山川日本史』p.302)
と書かれている。

教科書は、「南京大虐殺事件」という事件があったことを前提にし、諸悪の根源は日本に在るように描きたいのであろうが、背後で共産主義勢力がどういう目的でどのような動きをしていたかを一言も触れずに「共産主義者にとって都合の良い歴史」を書こうとするから理解しづらいのだと思う。

教科書の叙述は「近衛内閣」を主語とし「汪兆銘を…重慶から脱出させ」、「南京に新政府をつくらせた」と、いかにも日本側が押し付けたような書き方になっているが、汪兆銘は1939年7月10日に上海で発表した声明で、彼は盧溝橋事件発生以来「全く日支戦争を阻止する方法がなかつたが、一刻といへども事態の転換を思はざるはなく、一刻といへども共産党の陰謀を抑制し、これを暴露せんと思はざるはなかつた」と述べたという。

汪兆銘

要するに汪兆銘は、日中戦争が長引いて国民政府軍の戦力が消耗していけば、たとえ勝利したとしても、共産主義勢力が勢力を伸ばすことになることを憂慮していた。
彼が重慶を脱して日本と手を握ろうとしたのは彼の意志であった
のだが、その後の中国の歴史は汪兆銘の憂慮したとおりとなり、中国は共産国家となるのである。

宮下氏はさらに、「中国共産党が日本人を組織して諜報団をつくっているにちがいないということは、昭和10年(1935年)の8.1抗日宣言のときから確信していた」(同上書p.240)と述べているのだが、ここで昭和10年以降の出来事をWikipedia等の記事を参考にまとめておきたい。<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98

8.1抗日宣言」とは、1935(昭和10)年8月1日にモスクワで発表されたもので、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で日本の中国進出に対抗するよう要求した宣言である。

汪氏狙撃事件

そしてこの宣言が出た3カ月後の11月1日に中華民国首都南京で開かれた国民党六中全会の開会式の記念撮影の時に、汪兆銘が狙撃される事件が起きた。汪は一命を取り留めたが、その後も知日派や日本人を狙ったテロが続発し、12月12日には蒋介石が拉致監禁される西安事件が起きて、その事件以降蒋介石は抗日路線を採るようになった。
1937(昭和12)年7月に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まる
。その後も汪兆銘は日本との戦いはすべきではないとの考えであった。
徹底抗戦を主張する蒋介石と袂を分かち、1938(昭和13)年12月に汪兆銘はフランス領インドシナのハノイに拠点を写したのだが、翌1939年3月には汪の腹心であった曾仲鳴が射殺されている
ハノイでの狙撃事件をきっかけに、汪兆銘は「日本占領地域内での新政府樹立」を決意し、5月に日本を訪問して新政府樹立の内諾を取り付け、10月から日本との間に締結する条約の交渉が開始されたのだが、日本から提案されたものは、なぜか従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、交渉の一員であった今井武夫氏は「帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物」「日華協議記録に違背し、近衛第三次声明*の精神を逸脱するもの」であったと述懐しているという。(『支那事変の回想』)

汪兆銘南京国民政府時代

最終的には日本側が若干の譲歩を行なって、1940(昭和15)年3月30日に南京国民政府が誕生したのだが、なぜわが国は、自らの政治生命を懸けて重慶を脱出した汪兆銘に対し、従来の交渉経緯からすれば背信的とも受け取られて仕方がないような協定案しか出せなかったのだろうか。
*近衛第三次声明: 近衛は昭和13年(1938)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示したが、この声明の2週間後に内閣総辞職となり、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。

汪兆銘とわが国の交渉に関する情報も中国共産党にかなり漏れていたことは間違いがない。
ゾルゲ諜報団が逮捕され、次いで特高は中国ルートの解明に進もうとしたのだが、今回の記事の冒頭で記したように軍部の圧力があり、特高の取調べが東亜同文書院のグループの摘発だけで終わってしまったことは非常に残念な事であった。

特高の回想』の著者である宮下弘氏は、特高在籍中に左翼だけでなく右翼についても担当されたことがあった。最後に、当時の右翼について宮下氏が面白いことを述べておられる部分を紹介したい。

多くの右翼団体の資金源は、軍や艦長の機密費であったり、テロをおそれる財界からの寄付金であったりして、かなり潤沢なようだった。それをまたたくさんの予算をつけて監視していたので、おかしな話ですよ
 けっきょく、右翼で一番問題なのは、テロのおそれあり、これだけです。5.15事件、血盟団事件、2.26事件と、個人的であれ、集団的であれ、政府要人や財界の代表的人物が狙われ、殺された。上層部はそれをいちばん恐怖した。だから、特高二課(右翼担当)の組織も人員も拡充されたわけです。」(同上書 p.157)

左翼と右翼をくらべれば、わたしは絶対に、とくに共産党の連中が好きだった。純真でね。理屈いいあっても張りあいがありましたよ。わたしは自分自身が労働者あがりだから、労働者の心情にはとうぜん共感するところがあったし、学生やインテリが労働者や下層階級の窮乏を救いたいとする人道的なものの考え方をありがたいとおもったから、人間的に彼らを好ましくおもうことが多かったのです。

 それにくらべれば、国家主義の運動家などといっても、多くはガラがわるい。カネばかりせびってね。右翼は大嫌いです。」(同上書 p.158)

宮下氏は右翼担当であった時に、2.26事件の黒幕と疑われた皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れている。この時真崎が宮下氏に語ったという言葉は特に印象深いものがある。

真崎甚三郎

君、世間は知らないんだが、2.26事件の青年将校たちをふくめて、みんなアカなんだよ。統制派も皇道派もそんなものはありゃしないんだよ。アカがなにもかも仕組んでいろんなことをやっているんで、軍もアカに攪乱されているんだよ。」

近衛文麿

そういえば近衛文麿が昭和20年2月に昭和天皇に宛てた『近衛上奏文』の中で、
是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」
と述べたが、真崎甚三郎が言っていることもほぼ同じことである。

治安維持法の存在と特高の活躍でこの時期に日本共産党はほとんど壊滅的な状況になったのだが、共産主義的信条を持つメンバーがこれでいなくなったわけではなかったし、革命により新しい社会をつくるという彼等の夢が捨て去られたわけではなかったのだ。
宮下氏の著書には「昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放」(同上書p.135)したことが書かれているが、これが事実ならば、左翼に対して特高の対応が苛酷であったというよりも、むしろ甘かったというべきではないだろうか。
当時高級官僚や軍人には「転向者」や「隠れ左翼」が少なからずいたという。だからこそ、尾崎秀実のような共産主義者が権力の中枢に近づくことができ、機密情報を入手することが可能であったのだろう。
ゾルゲは、日本には「最早盗むべき機密はない」と豪語したというが、治安維持法が存在し、特高が頑張っていた戦前においても、わが国の機密情報が相当盗まれていたことを知るべきである。

情報漏えいに関する厳しい法律が存在しても、またその法律に基づいて怪しい人物を検挙して厳しい取調べが出来たとしても、自国以外の国やグループに忠誠心を持つ人間が中枢部に何人かいるようでは、国家の重要機密が守れないことはゾルゲ事件を学べばわかる
まして、いまだに機密情報に関する法律すら整備されず、アメリカや中国や韓国に擦り寄るような政治家や官僚や言論人が少なからずいるわが国の現状では、国家機密がいくら洩れていてもおかしくないはずだ。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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