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紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて

聖徳太子や恵便にゆかりのある寺を訪れたのち、兵庫県養父市にある養父(やぶ)神社に向かう。
養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。
名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313座が記されておりWikipediaにそのリストが出ていて、但馬国に「夜夫坐神社」の名を見つけることが出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE

養父神社本殿

養父神社の歴史はかなり古く、『正倉院文書』の天平9年(737)但馬国正税帳に名前が出ているのでそれよりも古いことはわかっているのだが、いつごろ創られた神社なのか。
社伝によると第10代天皇である崇神天皇13年の創祀とあるのだが、崇神天皇は学術上、3世紀から4世紀の初めにかけて実在していた可能性が高い天皇であると言われており、神武天皇と同一人物ではないかという説が有力なのだそうだ。社伝が正しいとすれば1700年近い歴史がある神社ということになる。

一方、養父神社から近い養父町大藪には兵庫県下でも代表的な禁裡塚古墳など4基の巨大横穴式石室古墳と、多数の小規模古墳(大藪古墳群)が群在している。考古学の調査から、本古墳群は6世紀後半に築造が開始され、7世紀半ばまでに築かれたものであることが分かっているという。そのことから、6世紀後半以降に養父地域で養父氏(但馬氏)が夜夫坐神を祀り、大藪古墳群を残したという説もある。その説だとこの神社の歴史は1500年近いということになる。ネットで「但馬歴史文化研究書」の「但馬古代の地名」という論文が公開されている。
http://rekibuntajima.web.fc2.com/PDF/chimei.pdf

img520494f68206b.jpg

古い社寺には紅葉の美しいところが多いのだが、この養父神社も但馬地方では紅葉の名所として有名な場所だ。訪れた日はちょうど「やぶ紅葉まつり」の期間中であったが、うまい具合に駐車場が空いて、待ち時間なく楽しむことができた。

養父神社紅葉1

朱塗りの橋と本殿の近くに枝ぶりが良く色鮮やかな楓の木が数多くあって、素晴らしい紅葉を見ることが出来た。
何枚か写真を撮ったが、観光客が多いとシャッターを押すタイミングがなかなか難しい。
下から紅葉と橋を狙ったほうがいい写真が撮れたかもしれない。

養父神社紅葉3

先ほど養父神社の近くに古墳が多いことを書いたが、いろいろ調べると兵庫県は日本で一番古墳が多い県なのだそうだ。しかも但馬地方にかなり集中している

nantanmap.jpg

養父神社よりももう少し南の朝来市和田山町には5世紀前葉に築造された近畿地方最大規模の円墳である「茶すり山古墳」(直径90メートル)があり、また5世紀半ばに築造された兵庫県下で4番目に大きい池田古墳(全長170メートル)などがある。かつて但馬地方に強い政治勢力が存在したことは確実なのだ

ではこれらの古墳を築造した政治勢力とはどのようなものであったのか。

古代あさご館

翌日立ち寄った道の駅『但馬のまほろば』の敷地内にある『古代あさご館(朝来市埋蔵文化財センター)』の解説では、3世紀後半に但馬地区で、大和の大王と手を結んで力をつけた「但馬王」が誕生し、武力を背景に但馬地域を治めたのだが、大和朝廷は但馬王の影響力を削ぐために、但馬王の下の豪族とのつながりを強めて、武器を送り、寺院を築かせていったという趣旨のことが書かれていた。

ひょっとすると但馬王と何らかの関係があるのではないかと気になっているのが、『日本書紀』巻第六に記されている、垂仁天皇の時代に新羅の王子が但馬の地に移り住んだ天日槍(あめのひほこ)の話。『古事記』『播磨国風土記』などにも天日槍の記述があり、新羅の王子が渡来して、一族郎党とともにこの但馬に移り住んだというようなことが、実際にあったのではなかったか。

『日本書紀』の該当部分の翻訳文を紹介しておこう。
「(垂仁天皇)三年春三月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)がきた。持ってきたのは、羽太の玉一つ・足高の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ(赤く輝く石の玉の意か)・出石の小刀一つ・出石の鉾一つ(出石は但馬の国)・日鏡一つ・熊の神籬一具(ひもろぎひとそなえ)、合わせて七点あった。それを但馬の国におさめて神宝とした。
一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国に来て宍粟邑(しそうむら)にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)とを遣わして、天日槍に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました』という。そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠…(略)…合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい』といわれた。天日槍は申し上げるのに『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるのなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許しがあった。そこで天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居所を定めた。…天日槍は但馬国の出石の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ。」(講談社学術文庫『全現代語訳日本書紀(上)p.137-138』)

面白いことに、天日槍が一時住んだ近江国も若狭国もまた但馬国も鉄の産地なのだという。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/hiboko.html
また、但馬国一の宮である出石神社の主祭神がこの天日槍で、養父神社の祭神の五座のうちの一つが大己貴命すなわち「オオクニヌシノミコト」だという。
そして『播磨国風土記』では天日槍命は、オオクニヌシノミコトと土地を奪い合った神として描かれているというのが面白い。
http://koujiyama.at.webry.info/201007/article_17.html

養父神社の鮮やかな紅葉を見た後は、宿泊先の香住に向かう。
民宿の近くに帝釈寺(たいしゃくじ)という古そうな寺院があったので立ち寄ってみると、案内を読んで、ここにも聖徳太子が出てくるのに驚いた。案内板にはこう書かれていた。

帝釈寺

この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。
その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛をきわめたといわれています。…」

そもそも大阪湾に捨てられた仏像が日本海に漂着するはずがないし、捨てられた仏像をみて聖徳太子の制作によるものだと判断できるはずがないのだが、そういう伝承を残しながらも価値ある仏像を護持してきた歴史のある寺がこの香住にあるということに非常に興味を持った。

拝観には事前の予約が必要なので中に入ることは諦めたが、香美町のホームページに国重文の木造聖観音立像の写真と、県重文の木造帝釈天倚像の写真がでている。

http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264032293716/index.html
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264036103392/index.html

香美町教育委員会の解説によれば国重文の木造聖観音立像は平安時代のものとされており、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人が刻んだ伝承も実際は怪しいのだが、こんなに古くて貴重な仏像がこの寺に残されていることには驚かざるを得ない。
またこの寺院の庭園は香美町の指定文化財で、江戸時代初期の枯山水の名庭なのだそうだ。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1267663758384/index.html

さらに帝釈寺には、文書にも貴重なものが残されている。
弘安8年(1285) 但馬国守護太田政頼は、蒙古襲来直後の軍事的目的で幕府に報告するために『但馬国大田文(おおたぶみ)』を帝釈寺の僧侶尊阿(そんあ)に書かせたのだそうだ。
帝釈寺にその写本が残っていてそこには13世紀ごろの但馬を知る貴重な史料になっているという。

帝釈寺本堂jpg

このような貴重な文化財が、わが国の中心地から離れた香住のお寺に残されているのは意外であった。
翻って今のわが国で、千年以上たってその価値が評価されるような建物や芸術品をどれだけ制作しているのか、と考えさせられてしまう。地方都市をドライブすると、コンクリートのバカでかい店舗と看板にうんざりさせられることが多い。
田園や古民家のある風景が破壊されて地域の魅力を台なしにするような開発を続けられては、古い社寺は残っても観光地としての魅力が失われていくばかりではないか。

ところで私は毎年この季節に紅葉を楽しんだあとで、解禁になった日本海のカニを食べることを楽しみにしている。
数年前に越前ガニを食べに行くつもりで有名なホテルに宿泊した時に、カニの産地を聞くとオホーツク海だと聞いてがっかりしたことがある。その時に、いくら都会人が地方の観光地を旅行しても、パックツアーでは地元の人々はほとんど潤わないことを直感した。

以前は大手旅行会社のバスツアーを良く申し込んでいたのだが、都会資本のホテルで宿泊し、ホテルの売店で買い物をし、観光地から随分離れたドライブインでみやげものをまとめ買いしてしまっては、観光地の地元の人々の収入になるものはわずかでしかないはずだ。
ホテルによっては重要な食材を地元で調達するとはかぎらないので、旅行者が払う旅行代金の大半は旅行業者やホテルが吸い上げて、純利益は地元の人々にではなく旅行会社やホテルの本社のある都市に蓄積されてしまうことになってしまう。
昔は、観光地の宿泊施設は施設の売店で多くの商品を置くことを控えていて、観光客は地元の土産物屋で多くの買い物をすることによって、その店で売る商品の生産・流通にかかわる地元の多くの人々が潤っていたのだが、今は多くの観光地で宿泊施設と地元との共存共栄の関係が崩れてしまっている。そもそも観光地の地元の人々が潤わずして、どうして観光地の歴史的文化や風土を守ることができようか。

そう考えるようになって、ここ数年の旅行は自分の車で好きな所を回り、なるべく地元の方が経営しておられるお店で食事や買い物をし、宿泊先も地元で獲れた海産物や農産物で調理する民宿や旅館などを事前に自分で探すことにしている。旅行する以上は、できるかぎり観光地の地元で頑張っているお店や企業にお金を払いたいからだ。

夕食2

宿泊先は地元の民宿で、夕食はもちろん松葉カニのフルコース。地元で食べるカニは身がしまり、味噌がたくさん詰まっていて、都会で手に入るカニとは全然違う。カニは、漁場に近い場所で、地場のカニを食べるのが最高だ。
この日は、聖徳太子や恵便にゆかりのある寺院や養父神社などを巡り、また大好きなカニを腹いっぱい食べることが出来て大満足だった。
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

さて、旅行の2日目に入るが、朝一番に向かったのは兵庫県豊岡市但東町にある但馬安国寺。紅葉の名所なので朝一番に向かったのだが、すでに大勢の観光客が来ていた。

安国寺2

「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの寺をすべて新たに建てたわけではなく、一部は既存の寺院を改称したケースも多いらしい。
この寺は鎌倉時代後期に無本覚心(法灯国師)による開山といわれ、貞和元年(1345年)に「安国寺」と改称されたものだという。

その頃の境内は現在地より南方三百メートルのところにあり、寺伝によると足利幕府より朱印と三百石余の禄が与えられ、七堂伽藍を有した大寺院だったそうだが、享保2年(1717)に火災ですべてを焼失してしまったという。
その後現在地に近い山地に草庵が建てられて、出石宗鏡寺の末寺になったというが、その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は明治37年(1904)に落慶した建物なのだそうだ。

思ったよりも本堂は小さくて、これといった文化財は残されていないのだが、毎年紅葉の時期になるとテレビによく報道される寺であることをご存知の方も多いのではないだろうか。

安国寺の裏庭は狭く、斜面にドウダンツツジが流れるように植えられているだけなのだが、11月の半ばには真赤に色づいて、本堂の座敷の障子越しに見る紅葉が額縁の絵のようになる。

安国寺

この写真を観光客の誰もが撮れるように、裏庭のツツジの近くには観光客が近寄れないようにロープが張ってあって、本堂には観光客を数十人ずつ順番に誘導し、座敷で紅葉の写真を存分に撮影させた後、本堂から出て頂いて座敷が無人となる状態をつくる。そこで次のグループが本堂の外から座敷の障子越しに見るドウダンツツジの写真を撮影し、それから本堂に招き入れられる…。そのようにして手際よく観光客を回転させていた。

本堂を出て外に廻って、庭の斜面を彩っているドウダンツツジを見てもそれなりに美しいものなのだが、やはり障子越しで見るのが一番良い。

安国寺つつじ2

庭はこのドウダンツツジがなければただ斜面があるだけのことなのだが、この狭い空間を見事に活かしていることに感心してしまう。

このドウダンツツジは現在の本堂が建てられた際に裏庭に植えられたのだそうだ。とすると樹齢はおそらく110年程度だということになるが、文化財をほとんど焼失してしまったにもかかわらず斜面にドウダンツツジを植えたことで、今ではこの寺に全国から観光客が訪れるようになり、結構な町おこしになっている。
地元の方がテントを張って地元の農産物などを販売しておられたので、椎茸と銀杏を買って帰った。採れて間もない椎茸なのだろう、ずっしりと重くて肉厚で、帰宅後食べたらとても旨かった。

次の目的地に向かう途中の朝来市和田山町で車を停めて『はっかく亭』で昼食をとる。 ここで休息をとったのは、せっかく但馬に来たのだから、新鮮な野菜と少しばかり但馬牛を買い込んで帰りたかったからだ。隣に新鮮野菜の産直店があり、向かいに但馬牛の『太田家』がある。

太田家

グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、数年前に会社の同僚から教えてもらった『太田家』しか知らないので今年もまた来てしまった。ここでは柔らかくておいしい肉が安く買えるのでお勧めだ。

買い物を済ませてから次の目的地である丹波市柏原(かいばら)町の柏原八幡神社に向かう。

柏原八幡鳥居

この神社は、平安時代の万寿元年(1024) に京都の石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を祀った柏原別宮として創建されたのち、貞和元年(1345)の南北朝時代の争乱により社殿が焼失。間もなく再建されたが戦国時代の明智光秀の丹波攻めの兵火でふたたび焼失し、その後羽柴秀吉が黒井城主の堀尾吉晴に社殿の造営を命じて天正13年(1585)に現在の社殿(国重文)が竣工している。

柏原八幡本殿

社殿の前に立つ狛犬は柏原出身の石工・村上照信により文久元年(1861)に制作され、佐吉の傑作だとされているそうだ。次のURLに様々な角度からの狛犬の画像があるが、よく見るとなかなか迫力のある狛犬である。
http://www.228400.com/tatsumi/tanbasakichi/sakichi/sakichi-11.html

この神社の魅力は何と言っても素晴らしい三重塔(県指定文化財)。ここでは神社の象徴的建造物である鳥居や本殿の背後に、仏教の象徴的建造物である三重塔が聳えるという、珍しい光景を見ることが出来る。

柏原八幡神社三重塔

昔はこのような光景を各地で見ることが出来たと思うのだが、明治初期の廃仏毀釈で全国の神仏習合的な施設のうち仏教施設が徹底的に破壊されてしまった。
以前このブログでも書いたが、この柏原八幡宮の本家である京都の石清水八幡宮はもともとはお寺であり、「男山四十八坊」と言われるように石清水八幡宮護国寺を中心とした多くの仏教施設があったのだが、明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
男山の多くの寺院にあった阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったのだが、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像は人目を避けるように運ばれて、今は淡路島の東山寺(とうさんじ)に祀られている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-50.html

本家の石清水八幡宮にあった仏教施設が徹底的に破壊されたにもかかわらず、柏原八幡神社の境内の三重塔がなぜ残されたのだろうか。
境内には以前、神宮寺であった乗宝寺という寺が存在していて、三重塔はその寺の所有であったそうだ。明治の廃仏毀釈の時に乗宝寺の他の堂宇は取り壊されたのだが、この三重塔については中に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れた経緯のようだ。

このように神社の境内の中に塔が残されているような事例として、昨年は兵庫県養父市にある名草神社の朱塗りの三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

また三年前には奈良県桜井市の談山神社・十三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

何れの事例も、寺院であったものを無理やりに神社にしたものなのだが、柏原八幡神社はは神仏習合の荘厳な風景を今も残す数少ない事例なのだと思う。

Wikipediaによると、神社の境内に塔が残されているのは今では全国で18例があるだけなのだそうだが、こういう貴重な景色をカメラに収めることが出来て大満足だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

柏原大ケヤキ

ところで柏原八幡神社の鳥居の近くに、大きなケヤキの木がある。樹高22mで推定樹齢は1000年と言われている大木なのだが、なんとこの木の根の1本が、幅8メートルの奥村川をまたいで自然の橋を形作っており横から見ると、その根の太さに驚いてしまう。

IMG_2284.jpg

地元では「木の根橋」と呼ばれているようだが、このケヤキは兵庫県文化財(天然記念物)にも指定されているようである。
https://www.city.tamba.hyogo.jp/soshiki/bunka/ookeyaki.html

丹波市柏原町を後にして、最後の目的地に向かう。
この旅行の初日に、兵庫県加古川市の鶴林寺や姫路市の随願寺を訪ねてきたのだが、2つの寺の共通点は「高麗僧恵便(えべん)」にゆかりがあることである。
このブログで何度か書いたことだが『日本書紀』には、わが国で仏教が拡がったのは敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まると明記されている。
そして恵便にゆかりのある安海寺という寺が、兵庫県多可郡多可町八千代区中村に残されている。

安海寺

敏達天皇13年(584)に仏像2体を手に入れた蘇我馬子は司馬達等らに仏教修行者を探させて、播磨の国にいた高麗人の恵便を見つけて仏法の師としたのだが、国内に疫病が流行ったために排仏派の物部尾輿(もののべおこし)らは、仏教信仰がその原因であるとして排仏活動を行ない、恵便も迫害を受け還俗させられたらしい。
そして、現在の八千代区大矢笠形谷にある稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられている。
その場所に室町時代にはお寺があったらしく、それが安海寺の前身だとされている。
予約すれば中に入って拝観できたかもしれないが、この寺の本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安時代の後期のもので、兵庫県の文化財に指定されているそうだ。

ネットでいろいろ調べていくと、安海寺の佐藤住職は恵便についてかなり研究しておられるようだ。2008年に「高麗僧恵便 播磨ゆかりの地サミット」というイベントが姫路市で行われ、パネラーとしてこの寺の佐藤住職が話された内容が、在日の方の機関誌『平和統一News第20号』「播磨と渡来人(第5回)」に出ている。渡来人の話は在日の方が興味を持たれることは当然だと思う。
http://fpuhg.main.jp/news20.pdf

どこまで史料の裏付けがあるかはよく解らないが、このイベントで佐藤住職が話された内容を姫路市の英裕司氏が要約されたものが、ネットで見つけることの出来る恵便という人物についての一番詳しい文章である。
しばらく引用させていただく。

「今から1400年前、恵便法師は弟子の百済僧 恵聡(えそう)を伴って日本へ来られた。
しばらくして、仏教に反対する物部氏による仏教弾圧がはじまる。この時、恵便法師と弟子の恵聡は捕らえられ、生駒山に送られた。しかし、都に近いとの理由で今度は播磨の赤穂に流され、最後に播磨の多可郡八千代(安海寺のある地域)に流された。物部氏は、二人を無理やり還俗させた上、『右次郎』『左次郎』と呼び、逃げないように家に閉じこめた。(他の伝承では弾圧から逃れ、隠れ住んだという話が主流だが、ここでは捕えられ幽閉されたということになっている。)
その間、還俗した恵便法師は村の娘と恋におち、一子を授かる(?!)。村娘の名前は、『恵忍』といったそうだ。数年後、恵便法師は一人息子を弟子の恵聡に託し、ひそかに朝鮮半島に逃亡させることに成功する。これが故に、恵便法師笠形山の洞窟に幽閉されてしまう。今も恵便法師がわが子の無事を祈りながら、彫ったとされる山石の地蔵菩薩が残っている。
ほどなく聖徳太子を中心とする崇仏派が排仏派の物部氏を滅亡させるといった政変が起こるのであった。
その後、仏教の指導者をさがして、蘇我馬子の使いが播磨の地にやって来た。ここで恵便法師は中央に復帰することになった。(この辺りの経緯は事実である。都からの使いが直接、幽閉されていた山奥に来たのか、それとも恵便法師がこの場所から脱出して、播磨の姫路に隠れ住んでいた時に、都の使いが来たのかはっきりしない)ともかく都に戻った恵便法師は、蘇我馬子の師となり、3人の尼僧を出家させるなど大活躍した。
時は流れて、595年、弟子の恵聡が恵便の子を連れて日本に戻ってくる。実はこの恵便の子こそは、名を恵慈(えじ)といい、のちに聖徳太子の師となった有名な高僧なのである。なんと高僧 恵慈と恵便法師が前述したように親子であったのだ。」

聖徳太子の仏教の師となった「恵慈」は『日本書紀』では「慧慈」と違う字で書かれていて、「恵便の子」であるとは一言も書かれていない。恵便が娘と恋に落ちた話や、二人の間に恵慈を生んだという佐藤住職の話は何を根拠にしているのだろうか。

ところで相生市のホームページにも、恵便についてこんな伝承が残されていることが紹介されている。
兵庫県相生市矢野町瓜生に羅漢の石仏があり、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟に入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いからその石仏を彫ったというのだ。
しかしその伝承には恵弁と恵聰が還俗させられて『右次郎』『左次郎』と呼ばれたことは佐藤住職の話と一致しているものの、恵便が恋に落ちて子供ができたという話はないようだ。
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/04.htm

相生市のホームページも根拠となる文書についての記載がないのは残念だが、恵便に関しては『日本書紀』の記述とは異なる伝承が複数残されていることは注目して良いだろう。どこまでか真実であるかは人によって感じ方が異なるのだと思うのだが、この時期に恵便という渡来人がわが国に仏教を広めたことについては確かな事だと思うのだ。

帰宅途上中国自動車道で渋滞に巻き込まれて帰るのに随分時間がかかってしまったが、あまりよく知らなかった播磨や但馬の聖徳太子と恵便のゆかりの地を巡り、紅葉もカニも楽しめて、いい旅行だった。
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『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか

1945年8月14日、日本国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、9月2日に降伏文書に調印した。
学生時代には「太平洋戦争はわが国が連合国に無条件で降伏した」と学んだ記憶があるし、テレビの解説などで「無条件降伏」という言葉を何度も聞いたと思うのだが、最近のわが国の高校教科書ではそう書かれていないことに気がついた。

降伏文書調印

例えば『もういちど読む山川日本史』では、
「8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天皇自身のラジオ放送をつうじて、国民にこれを明らかにした。そして9月2日には、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、日本は連合国とのあいだで降伏文書に調印した」(p.313)とある。

また明成社の『最新日本史』では、
「アメリカ・イギリス・中華民国の三国は、共同で降伏条件を示したポツダム宣言を発表した。…8月14日、日本はポツダム宣言を受諾した。翌日天皇は『終戦の詔書』を…発表され、全日本軍は…連合国に降伏した」(p.267-268)とあり、いずれの教科書にも「無条件」という文字がないばかりか、明成社の教科書には降伏条件があったと書かれている。この叙述は学生時代に学んだ歴史とは異なる印象を受けた。

ネットでいろいろ検索していくと、国会答弁で「わが国が連合国に無条件降伏した」という表現が何度かされていたことがわかる。

たとえば昭和24年11月26日の衆議院予算委員会で、野党の西村栄一議員から、講和会議に関して、わが国は無条件降伏をしたのであるから何ら発言権がないという定説があるが、カイロ宣言・ヤルタ協定は日本国民を敵対視していないので、日本国民は講和条約に対し、発言権が認められてもいいではないかという質問に対し、吉田茂首相がこう答弁したという。

吉田茂

「…またこの間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては、無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております。繰返して申しますが、日本としては権利として主張することはできないと思います。しかしながら日本国国民の希望に反した条約、協定は結局行われないことになりますから、好意を持つておる連合国としては、日本国民の希望は十分取入れたものを条約の内容としてつくるだろう、こう思うのであります。」
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/Mujoukenkoufuku.htm

上記URLには最高裁判決で「無条件降伏」という言葉を使っている事例も紹介されているが、昭和28年6月3日の最高裁判決に出てくる「わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印し連合国に対して無条件降伏をした」(昭和23年政令第201号違反被告事件)という言い回しは今まで何度目にしたかわからないくらいだ。

ではなぜ最近の教科書に、わが国の降伏について「無条件」という言葉が書かれていないのだろうかと少し疑問を感じて、「ポツダム宣言」を探して読むことにした。今ではネットで簡単に読むことが出来る。日本語訳文は外務省の訳文は旧字旧かなでわかりづらいので、それを参考にして私なりに現代文に書きなおしてみた。
原文・外務省訳: http://home.c07.itscom.net/sampei/potsdam/potsdam.html

『ポツダム宣言』は13の条文からなるが、初めの(1)~(4)は、いわば連合国のわが国に対する「脅し」のようなものである。「最後の一撃を加える体制が整っている」とか「日本の国土の完全なる破滅を意味する」というのは、いくつかの原爆を投下する準備が出来ているという意味なのか。
一応引用しておくが、太字の部分だけをざっと読み流していただくだけで構わない。

「(1) われわれ、合衆国大統領、中華民国政府主席及び英国首相は、われわれ数億人の国民を代表し協議の上、今回の戦争を終結する機会を日本国に与えることで意見が一致した

(2) 合衆国、英帝国及び中華民国の陸海空軍は、西方から自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受けて巨大となり、日本国に対して最後の一撃を加える体制を整えた
この軍事力は、日本国が抵抗をやめるまで、同国に対し戦争を遂行しているすべての連合国の決意により支持され、かつ鼓舞されているものである。

(3)世界の自由なる人民が蹶起した力に対するドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対して、その先例を明白に示すものである。現在日本に向かって集結しつつある軍事力は、ナチスに対し適用されてドイツ国人民の土地、産業、および生活様式を荒廃せしめた力と較べれば、はかりしれぬほどに強大である。われわれの決意に支持されたわれわれの軍事力を最高度に使用すれば、日本国の軍隊を不可避的かつ完全にを壊滅させ、そしてそれは必然的に日本国土の完全なる破滅を意味することになる

(4) 無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたわがままな軍国主義的助言者によって日本国が引き続き支配されるのがよいか、あるいは日本国が理性の道を歩むのがよいか、日本国が決断する時が来ている。」

そして(5)に、以下は連合国がわが国に呈示した、わが国の降伏を認める条件であるとし、(6)以下にその条件が記されている。ここからが重要なところなのだが、『ポツダム宣言』は普通に読めば「条件付き降伏」なのだ

「(5)われわれの条件は以下の通りである。 われわれはこの条件から逸脱することはないし、これに代わる条件は存在しない。遅延は認めない

(6)われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、世界の平和、安全および正義の新秩序が生まれ得ないことを主張する。 日本国民を欺瞞し、彼らに世界征服の挙に出るという過ちを犯させた者の権力および勢力は永久に除去されなければならない

(7) そのような新しい秩序が建設され、かつ日本国における戦争遂行能力が破砕されたことの確証が得られるまでは、連合国が指定する日本国領土内の諸地点は、ここに指示する基本的目的の達成を担保するため、連合国が占領するものとする

(8) カイロ宣言の条項は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国ならびにわれわれの決定する周辺小諸島に限定される

(9) 日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる

(10) われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられることになる。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする

(11) 日本国はその経済活動を維持し、かつ公正な実物による戦争の賠償取り立てを可能にするような産業を維持することを許される。但し、日本国が戦争の為の再軍備を行なうことが出来るような産業はこの限りではない。この目的のため、原料の入手(その支配とはこれを区別する)は許可される。日本国は将来、世界貿易への参加を許される。

(12) 前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意志にしたがい平和的傾向を持ち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収するものとする

(13) われわれは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつその行動における同政府の誠意について、適当かつ充分なる保障を提出することを要求する。これ以外の道を日本国が選択した場合は、迅速かつ完全なる壊滅があるだけである。」

(8)に「カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定される」と書かれている点については、若干の補足が必要だ。

250px-Cairo_conference.jpg

カイロ宣言』というのは1943年11月22日に、米大統領F・ルーズベルト、英首相W・チャーチル、中華民国国民政府主席の蒋介石によって行われた『カイロ会談』で12月1日にメディアに向けて発表された内容指すのだが、この『カイロ宣言』には日時や署名がなく、公文書も存在していない
中国は1943年12月1日にルーズベルトチャーチル蒋介石がカイロで発表したプレスコミュニケが『カイロ宣言』だと主張しているのだが、その日はルーズベルトチャーチルはイランの首都テヘランでスターリンと会議をしていたことが分かっている。また蒋介石は重慶にいたので、三首脳が共同でプレス・コミュニケを出すことはありえないのである。またルーズベルトチャーチルも『カイロ宣言』の内容を否定しており、中国が捏造したものであることは明らかなのである。
2008年に当時の台湾総統であった陳水扁氏が、英国の『ファイナンシャルタイムズ』のインタビューに応じ、『カイロ宣言』はニセモノであると語っている記事も参考になる史料である。
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=52675&ctNode=3591&mp=202

陳水扁

陳水扁が『カイロ宣言』を否定したのは、この宣言に台湾について極めて重要なことが書かれているからなのだが、そこにはわが国が返還すべき領土に関しては次のように記されているのだ。
「右同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し、又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り
日本国は又暴力及貧慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」
http://blog.goo.ne.jp/hm-library/e/1925e39f7d2ee814093e5b07934bb319

台湾・澎湖島地図

このように中国に領土を返還することばかりが書かれているのだが、そもそも台湾や澎湖島はわが国が盗んだわけではなく日清戦争の講和条約により正当に取得したものである。
台湾独立派の陳水扁が「中国は『カイロ宣言』をもとにして、台湾の主権を有していると宣伝しているが、『カイロ宣言』はニセモノであり、歴史を書き改めなければならない」と主張していたことはよくわかる。

しかし中国のこんな捏造文書においても、わが国が1914年以前にわが国の領土であった島などについては中国が問題にしていなかったことは注目して良いだろう。
現在、中国との間で問題になっている尖閣諸島には、1880年代後半から1940年(昭和15)にかけ日本の琉球諸島の住民が建設した船着場や鰹節工場などがあり、居住者もいたのである。もちろん中国から盗んだ島であるわけでもない。

鳩山発言

鳩山由紀夫というバカな政治家が、『ポツダム宣言』第8条を根拠に尖閣諸島は中国領などと発言していたが、この条文に出てくる『カイロ宣言』の条項を尊重したとしても、わが国周辺の島については、わが国が中国から盗み取ったという立証がなされない限り、1914年以前からわが国の領土であれば、まぎれもなく日本の領土ということになる。中国は『カイロ宣言』を重視しているようだが、この宣言はサンフランシスコ講和条約の第二条「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」で書きかえられており、『カイロ宣言』は日本を拘束するものではなく無効である、と反論しなければいけない。

話を『ポツダム宣言』の条文に戻す。
最後の(13)に一度だけ「無条件降伏」という言葉が出てくるのだが、これは全日本国軍隊が「無条件」で降伏することを要求しているのであり、この部分は戦争を終結させるため連合国側が提示した条件のうちの一つであるとしか読めない

要するに、『ポツダム宣言』を正確に読めば、日本国軍は「無条件降伏」したが、国家としては「条件付き」で降伏したのであり、決して「無条件降伏」したわけではないのである

故江藤淳氏は『アメリカ合衆国外交関係文書・1945・ベルリン会議』所収第1254文書「国務省覚書」に「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものになる」との見解が書かれていることを著書で指摘しておられる。(新潮文庫『忘れたことと忘れさせられたこと』P.218)
他にも事例があるが、アメリカ側も『ポツダム宣言』で、わが国に条件付きで降伏を勧告したという認識であった史料が残されているのだ。

しかしながらアメリカ政府は1945年9月6日付でマッカーサーに次のように通達したという。
「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/Mujoukenkoufuku.htm

要するに、連合国が、占領当初から『ポツダム宣言』に違反することをマッカーサーに指示したということなのだが、連合国に占領されたわが国としては、連合国とまともに交渉できる状況にはなかった。その結果、「無条件降伏」に近い状況に陥ってしまったというのが真相のようなのである。

冒頭に、当時の吉田茂首相の国会答弁を紹介したが、吉田はわが国が「無条件降伏」したのではなかったことは実際には分かっていたはずである。わが国の外務省の文書には「日本の降伏は無条件降伏ではない」と記録されたものが残されており、その条件の内容の確認をしたうえでわが国は『ポツダム宣言』を受諾したのである。
紹介した吉田茂の答弁は、占領軍総司令部(GHQ)に対してとてもNOが言える状況ではなかったことを、便宜上わが国が「無条件降伏」であったことにして、苦しい言い逃れをしているものであるとも読める。わが国が自ら「無条件降伏」したと認めることは、『ポツダム宣言』違反をした連合国の行為については目を塞ぐことにしますというメッセージを発しているということにもなるのだ。

『ポツダム宣言』の(10)で、連合国はわが国の言論、宗教、思想の自由及び基本的人権を尊重しなければならなかったのだが、ソ連は北方領土を不法に占拠し、また多くの日本人をシベリアに抑留した。国内ではGHQは徹底的な検閲を行ない、さらに焚書を行なってわが国の言論の自由、思想信条の自由を奪ったうえに、憲法まで押し付けたのである

戦後の長きにわたり、「わが国は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して無条件降伏した」という謬説がまかり通ったのは、『ポツダム宣言』に堂々と違反した連合国側に問題があったことは言うまでもないが、わが国の政治家や官僚やマスコミが連合国のポチのように動き、GHQによる占領が終了してからも、長い間わが国の国民を欺き続けてきたということが重要な問題なのだと思う。

江藤淳

昭和53年に故江藤淳氏がこんな文章を書いているのだが、このような主張を風化させてはならないのだと思う。
「…つまり、ポツダム宣言は、日本のみならず連合国をも拘束する双務的な協定であり、したがって日本は、占領中といえどもこの協定の相手方に対して、降伏条件の実行を求める権利を留保し得ていたのである
 いうまでもなくソ連は対日参戦と同時にポツダム宣言の署名国に参加し、この『協定』の拘束を受けている。ソ連の邦人シベリア抑留が不法だったのは、早期帰還を約束している宣言第9条に違反していたためであり、わが北方領土占拠が不当なのは、ポツダム宣言が領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を承継しているにもかかわらず、その原則を侵害しているためである
 もし…、日本が『無条件降伏』をしていたのであれば、われわれがポツダム宣言署名国であるソ連に対して何等の請求権を持ちえないことになる。今日、わが国の北方領土返還要求が不当だというジャーナリストは、少なくともこの日本にはいないであろう。そうであれば、日本が『無条件降伏』したなどという謬説をただちに去って、敗戦の原点を今一度虚心に見詰めなおしてもらいたいと思う
 戦争の敗け方にも、いろいろな負け方がある。敗けたからと言って事実を曲げ、必要以上に自らを卑しめるのは、気概ある人間のすることとは思われないのである。」(同上書P.218-219)

わが国のリーダーたるべき政治家や官僚や言論人が、右も左も、戦後の長きにわたり大国の圧力に屈して、「事実を曲げ、必要以上に自らを卑しめ」てきたために、わが国は、どれだけ多くの国富を奪われてきたことか.。
対外交渉においては、いずれの国においても同じことだと思うのだが、その国のリーダーたる者に「国を護る」という気概が不可欠である。その気概がなければ、国際社会の中でいいように富を毟り取られ、国民は自国に対する誇りを失って、最後は衰退していくしかないのだと思う。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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