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新年のご挨拶と、メインブログをFC2に変更するお知らせ

今年は喪中につき祝辞は控えさせていただきますが、旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただきまして まことに有難うございました。

また多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。

何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやツイッターなどで記事の紹介をしていただいた方、SNSなどでメッセージを送っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。

雪の金沢城
【金沢城】

ブロガリというブログサービスを使って、この「しばやんの日々」というブログを立ち上げてから、4年以上の年月が経過しました。
読者の皆様に支えられながら、楽しみつつ調べて書き続けている内に、ブロガリのファイル使用容量はあとわずかになってしまいました。

数か月前から、新しい年を迎えたタイミングでファイル容量が大きく機能も豊富なFC2にブログを一本化する方針で準備を進めてきましたが、ブロガリにはブログ移転ツールがないため、手作業で歴史に関する主要記事を一本ずつ移し替えていきました。その作業が漸く完了しましたので、今までメインブログであったブロガリの更新を停止し、今後はこのFC2ブログをメインブログとして、新しい記事はこのブログにのみ掲載することにします。
残念ながら、ブロガリでいただいた貴重なコメントまでは移転できなかったことはご容赦願います。

清水寺
【清水寺】

しかしながら今までブロガリで書いてきた記事は多くの方にリンクを貼って頂いたり、いろんな方のブログやホームページなどに紹介して頂いたことによって、多くの記事に毎月少なからずのアクセスがあります。せっかく数多くのアクセスを頂いているのにリンクが切れてしまっては申し訳ないので、ブロガリの記事はそのまま残しておきますし、ブロガリでコメントを頂いた場合は、今後とも出来るだけお返しさせていただく所存です。

FC2にはブロガリで書いた日付で元の記事を転記しています。また、移転作業をしながら新しい記事を同時に載せたりしましたので、FC2の記事の番号が連続していないことが多々あります。
読者の皆様には少々手数をおかけすることになりますが、カテゴリ別や月別や記事内検索などにより比較的簡単に目的の記事を探して頂けるものと確信しております。また、字が大きくて読みやすいテンプレートに変更しておきましたので、親しんで頂ければ幸いです。

にこ淵
【にこ淵:高知県】

飽き性の私が、4年間以上このブログを続けることが出来、こうして毎日充実した日々が送れるのも、読者の皆様から暖かいコメントや応援を頂いているおかげだと感謝しています。
もし自分一人で歴史を勉強するだけなら、こんなに多くのことを調べることはなかったでしょうし、こんなに文章を書くことが続くこともなかったと思います。

まだまだ勉強不足ではありますが、本年も引き続き、日本の歴史や文化について私が興味を覚えたことや、疑問に感じたこと、旅行やドライブで見聞きしたことなどをこのブログに書き記していく所存です。

本年も、ぜひ時々覗いてみてください。読んで頂いてもし気に入っていただいたら、応援ボタンを押して頂くとありがたいです。

本年もよろしくお願い致します。

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【御参考】
このブログでこんな記事を書いています。興味のある方は覗いて見てください。

大晦日の「年越の祓」と「除夜の鐘」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-58.html

坂上田村麻呂と清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-166.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-168.html



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関連記事

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5

前々回の記事で、昭和3年(1928)5月24日付のプラウダ (ソ連共産党機関紙)に、日本の陸海軍の軍人に対し「諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と書いていることを紹介した。このような記事がプラウダに掲載されていたということは、昭和初期には日本軍人の中に、ソ連の共産主義に共鳴するメンバーが少なからずいたと考えるべきである。

さすがに昭和初期には軍の幹部にそのような人物は少なかったかもしれないが、終戦の頃には共産主義者が日本軍の枢要な地位を獲得していたようなのだ。

日本が共産主義に降伏

以前このブログで紹介したが、昨年8月11日の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出た。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、産経新聞はこの記事の中で、こう解説している。
松谷大佐

「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
「同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている
。」

記事に出てくる松谷誠・陸軍大佐は、解説記事を読むだけで共産主義者であることが分かる。種村佐孝・陸軍大佐については後述するので、ここではこの人物は戦後に日本共産党に入党した人物であることだけを補足しておこう。

この記事に出てくる最高機密の電報がベルンから重慶に打たれた日付は1945年6月22日なのだが、この日にわが国でどのような出来事があったのか気になるところである。
この点についてはこの記事を書いた産経新聞編集委員の岡部伸氏が、『正論』平成25年10月号の「日本を赤化寸前まで追い込んだ『敗戦革命』工作」という論文に詳しく書かれている。次のURLに全文がある。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

正論2013年10月

「この電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。奇妙にもソ連仲介案が正式決定したその日に、ベルンから『共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている』と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から夏時間で7時間遅れの時差があることを差し引いても、国策が決まった直後に打電されていることには、アメリカの素早い情報のキャッチとともに驚くしかない。しかも中国は以前から『迷走』する日本の動きを正確に捉えていたのである。」

このように、わが国の最高戦争指導者会議における重要決定事項がその直後に中国に把握され、そのことを伝えた機密電文がアメリカに傍受され、英国にも伝えられているのである。わが国の機密が奪われていたのはゾルゲグループばかりではなかったのだ。当時のわが国は主要国に対してほとんど丸裸の状態になっていたと言って良い。

しかし、なぜソ連仲介和平案を国策として正式に決定したその日に、わが国の政権中枢が「共産主義に降伏している」と中国陸軍の武官が重慶に打電したのだろうか。そもそも、この機密電文の内容は信頼に値するものなのかとまず疑問に思うところだ。

大戦時に政府中枢の主導権を握っていたのは陸軍の統制派だと言われているが、岡部論文を読み進むとそのことを匂わせる文書が、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAの中にあり、その内容の紹介とともに解説がなされている。しばらく岡部論文を引用する。

「…ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日にベルリン駐在ポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンの亡命ポーランド政府に送った電報である。
『日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を護る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京-ベルリン-モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである
 軍部が、なお日独ソの連携に幻想を抱き、共産主義に共感を抱いているというのだ。アングロサクソンに対抗するためソ連と結合してアジアの利権を分け合うというのは実現性に乏しい白日夢だろう。ソ連はヤルタで対日参戦の密約を交わしている。ポーランド外交官が日本公使館員から聞いた情報として伝えているので、日本の外務当局が『軍部は共産主義に共感を抱き、ソ連に幻想を抱いている』と理解していたとも考えられる。中国の電報が指摘した日本政府の指導層とは、軍部とりわけ陸軍統制派であったに違いない。
 ここまで来れば合点が行くことだろう。日本は早くからソ連が中立条約を破って参戦してくることを察知していた。1945年2月、クリミア半島ヤルタでソ連が対日参戦を正式に決めた密約を会談直後にストックホルムから陸軍武官、小野寺信少将が参謀本部に打電していた。さらに同3月に大島浩駐ドイツ大使が『ロシアが適当な時期に参戦する』と外務省に打電。5月以降は、ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らもソ連参戦を機密電報で報告している。6月22日の最高戦争指導会議でソ連仲介和平を決定する時点で、陸軍、海軍、外務省ともソ連参戦情報は掴んでいたのだ。にもかかわらずソ連が『最後は助けてくれる』『交渉で参戦阻止できる』と希望的観測を抱き、ソ連に擦り寄り、和平交渉を委ねたのである。この様な非論理的行動も、政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら理解出来よう。愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた『敗戦革命』工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。」

東郷茂徳

上記岡部論文のなかで、この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ねたことが記されている。その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書は、冒頭に紹介した産経新聞の記事に出てきた種村佐孝大佐が作成したものであったが、その内容は『ソ連の言いなりに従え』という、とんでもないものであった。再び岡野論文を引用する。

「陸軍は本土決戦準備と沖縄戦で奔走する中、22日午後、参謀本部の新任次長、河辺虎四郎中将は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に新任の東郷外相を訪問、対ソ仲介による和平工作を持ちかけ、渋る東郷を河辺は説得した
『特使は大物中の大物・・・出来れば外相ご自身か近衛公・・・。大物が直接スターリンに会って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けませんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます
しばらくして参謀本部から、東郷外相に4月29日作成の『今後の対『ソ』施策に対する意見』と『対ソ外交交渉要綱』がもたらされた。作成したのは参謀本部第二十班(戦争指導班)班長、種村佐孝大佐だった。対ソ和平の意見書は、『ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ』という主張に貫かれていた。全面的に対ソ依存して、日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよというのである
対米戦争継続には『日ソ戦争を絶対に回避すべき』で、そのために、『ソ連側に確約せしむ条件は日「ソ」同盟なり』と主張、日本の対ソ交渉は『ソ連側の言い分を持ってこれに応ずるという態度』(ソ連の言いなりに従え)、ソ連が寝返ってソ連の干渉(仲介もしくは恫喝)で戦争終結が余儀なくされる場合には、『否応なしに仲介もしくは恫喝に従わざるをえない』と唱えた。ソ連に与える条件は、『ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる』前提で、『満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ』としている
ソ連と日本列島との間にある北側の領土と日本の南側の台湾、沖縄までソ連に差し出せば、日本はソ連に包囲され、東欧が辿ったように共産政権によるソ連の衛星国になっただろう。沖縄まで献上するというのは、ヤルタ密約にさえない。
さらに『対ソ外交交渉要綱』は、『対米英戦争を完遂のため、ソ連と中国共産党に、すべてを引き渡せ』と述べている。米英の『世界侵略』の野望に対して、日・ソ・支三国が『善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄を図る』ため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、『乾坤一擲』を下せと進言している。支那との交渉相手は延安(共産党)政権として、同政権の拡大強化を計り、希望する地域から日本軍を撤退させ、必要ならば国民政府を解消せよとも主張。ソ連には、北支鉄道も満鉄も漁業条約も捨て、満州国も遼東半島も南樺太も割譲し南方占領地域の権益を譲渡せよと訴えていた。」

このような史料が教科書などに引用されていたら、終戦直後は参謀本部が共産主義者に主導権を握られていたことが誰でもわかる。
しかし、このような史実がもし国民に広く知られていてら、「日本だけが悪かった」という偏頗な歴史観が通用しなくなってしまうに決まっている。そうなっては困る勢力が国内外にいるからこそ、公教育やマスコミに圧力をかけて今も『自虐史観』を垂れ流し、日本人をいつまでも洗脳し続けようとするのだろう。

ソ連が参戦することが分かっていながら、『ポツダム宣言』が出た後もソ連の和平工作の回答を待ち続けようとしたわが国の不可解な動きは、ソ連軍にわが国土を存分に占領させるところまで戦争を終わらせたくなかった共産主義者たちが、この時期にわが国の主導権を握っていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのだ。

こういうことを書くと、「共産主義者が判明していると言っても、たった数名で主導権が握れるはずがない」などと考える人もいるだろう。
しかし、わが国の政治や外交に影響を与えるような参謀本部の重要なポストにこの様な人物が就いていたことは、その背後には相当数の共産主義者がいたと考えるのが自然だと思う。ほかにもソ連に忠誠を尽くそうとした幹部メンバーの固有名詞がわかっているのでついでに挙げておこう。

昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを有していたと証言したことがマスコミに報じられ、エージェントのうち元関東軍第三方面軍情報参謀・志位正二少佐と元参謀本部作戦課参謀・朝枝繁春中佐が警視庁に自首したという。志位正二少佐という人物は現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父だという。

ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言もしているようだ
その11名のうち氏名が判明しているのは、志位、朝枝のほかには、帰国後総合商社伊藤忠商事の会長や中曽根康弘総理のブレーンを務めた瀬島龍三、先ほどの対ソ和平仲介工作で名前の出てきた種村佐孝がいる。種村は帰国後、日本共産党員となっている

読売報知S200315

『一億玉砕』と本土決戦を国民に呼びかけたことも種村や松谷が作成した「終戦構想」にあるようなのだが、こういう史実を追っていくと、われわれには重要な真実が戦後の長きにわたって封印されてきたことを知らざるを得ない。真の戦争犯罪人はソ連のスターリンではなかったか。

岸信介

第56-57代の内閣総理大臣を務めた岸信介は、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』の序文でこう記している。

近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない

スターリン

何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼・左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当然、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制(筆者註:昭和25年)と酷似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる
…日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らねばならない。…」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.319-320)

わが国が国益を考えて何か新しい動きをしようとすると、必ずマスコミが「軍国主義の足音が聞こえる」などと言うフレーズを繰り返し国民を思考停止に陥れてきたのだが、史実に照らして日本人が真に警戒すべきものは、「軍国主義の足音」ではなく「共産主義の足音」であると言いかえるべきなのではないのだろうか

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関連記事

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6

このシリーズの3回目に、昭和天皇御聖断でわが国が『ポツダム宣言』を受諾することが決まった経緯について書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.html

しかしながら、わが国はこの御聖断によりすんなりと終戦に向かったのではなかったのだ。
今回は、昭和天皇の二度にわたる御聖断とその後の動きについて、寺崎英成ら昭和天皇の側近が昭和21年の3月から4月にかけて天皇から直々に聞きまとめたとされる記録(『昭和天皇独白録』)が残されているので、その文章を参照しながら、内閣や軍部の動きを2回に分けてまとめてみたい。

最高戦争指導会議天皇ご臨席_0007

まず第1回目の御聖断の出た昭和20年8月9日の深夜の御前会議については、『独白録』にこう記されている。(原文は旧字旧かな)

「政府もいよいよ『ポツダム』宣言を受諾することに意見を極めて、8月9日閣議を開いた。
また最高戦争指導会議も開かれた。
 海軍省は外務省と解釈を同じうするが、陸軍省、参謀本部および軍司令部は、外務省と意見を異にした
 領土を削られることは強硬論と雖も、余り問題とはしないが、国体護持、戦争犯罪人処罰、武装解除および保障占領*の4点が問題となった。軍人たちは自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除について、反対したのは、拙いことであった。閣議も会議も議論は二つに分かれた。」
 会議は翌10日の午前2時まで続いたが、議論は一致に至らない。
 鈴木(貫太郎首相)は決心して、会議の席上私に対して、両論いずれかに決して頂きたいと希望した。
 会議の出席者は、鈴木総理のほか、平沼、米内、阿南、東郷、梅津、豊田の6人。**
 国体護持の条件を付することに於いては全員一致であるけれども、阿南、豊田、梅津の3人は保障占領を行なわないこと、武装解除と戦犯処罰はわが方の手で行う事の3条件を更に加えて交渉することを主張し、戦争の現段階ではこの交渉の余裕はあるとの意見であったに反し、鈴木、平沼、米内、東郷の4人はその余裕なしとの議論である
 そこで私は戦争の継続は不可と思う。参謀総長から聞いた事だが、犬吠埼と九十九里海岸との防備は未だ出来ていないという。また陸軍大臣の話によると、関東地方の決戦師団には9月に入らぬと、武装が完備するように物が行き渡らぬという。かかる状況でどうして帝都が守れるか、どうして戦争が出来るか、私には了解が出来ない。
 私は外務大臣の案に賛成する(ポツダム宣言受諾)、と言った
。」(文春文庫『昭和天皇独白録』p.146-148)
*保障占領:国際協定の実行を保証する担保としての占領。協定履行により解除され、施政権は主権国に返還されるのが建前。
**鈴木貫太郎首相、平沼騏一郎枢密院議長、米内光政海軍大臣、阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長

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少しばかり補足しておく。
この第1回目の御聖断により、国体護持を条件として『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答をすることが正式に決定され、翌10日の午前6時45分から連合国軍にその旨連絡されたのだが、陸軍省では徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こり、阿南陸相は苦境に立たされてしまう
午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだと匂わせたメンバーがいたそうだが、陸相は「不服な者は、まずこの阿南を斬れ」と述べて鎮静化をはかったというのは有名な話だ

そしてこの日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民にどう伝えるかが議論されている。その結果、わが国が連合国軍に対し国体護持を条件にポツダム宣言の受諾する回答をしたことについては、天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしいのだ。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている。この文書の一部を引用する。

全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。… 」
別宮暖朗氏の『終戦クーデター』によると、この文書は阿南陸相の義弟の竹下正彦(陸軍・軍務課内政班長)らが作成し、新聞社やNHKに手渡され実際に報道されたという

一方連合国側では、わが国が『ポツダム宣言』に対し「国体護持」を前提とする受諾回答であることを不満とする意見もあり、12日の連合国の正式回答文(「バーンズ回答文」)においては、「国体護持」については正面からの回答を避けたあいまいな表現となっていた。
ポイントとなるのは、次の部分である。

降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす
最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす

要するに、保障占領の間は日本政府と天皇は連合国最高司令官に遵う(subject to)こと。その後の政体については「日本国民の自由に表明する意思」で決定されるというのだが、この”subject to”の解釈で紛糾する。外務省は「制限の下に置かれる」と訳し、陸軍省は「隷属する」ではないかと反論した。

この連合国側の回答文では納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張し、再び議論は平行線になった。
そして8月13日午後2時20分にスウェーデンの岡本公使より緊急電報が外務省に届き、そこには連合国正式回答文に関する米英ソの交渉経緯を伝え、この回答文はソ連の反対を押し切り、実質的には日本側条件を是認したものであるという内容が書かれていたという。
この電報が功を奏し、同日の午後4時から始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となるが、それでも3名の反対者が出て、また議論はまた堂々巡りとなる。前にも書いたが、明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としており、多数決では決められなかったのだ。

13日の午後8時に陸軍官邸に戻った阿南陸相は、軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐の訪問を受け、義弟の竹下中佐から「兵力使用計画案」の説明を受けてクーデター計画の賛同を迫られたという。

その「計画案」については2通りの記録が残されていて、昭和57年に出版された井田正孝中佐の手記『雄誥』に書かれている「竹下案」と、稲葉正夫中佐が昭和24年10月にGHQ歴史課に説明して残された「稲葉案」があるのだが、2つの案はかなり異なるという。

終戦クーデター

別宮暖朗氏の『終戦クーデター』にその双方の案が紹介されているが、いずれも事件を起こした当事者が説明しているものであり、仲間を庇ったり自分を護るためにかなりの修正がなされているらしく、特に井田の手記は、クーデターを行なったメンバーを美化する立場で書かれている点を割り引いて読む必要があるという。
別宮氏も稲葉が残した「兵力使用計画案」の方が原型に近いものであると考えておられるようだが、その「稲葉案」においては、誰が読んでも驚くようなことが書かれている。

「使用兵力 東部軍および近衛師団
 使用方法 天皇を宮中に軟禁す。その他木戸、鈴木、外相等々の和平派の人達を兵力を以て隔離す。次いで戒厳に移る
 目的 天皇に関するわが方条件に対する確証を取り付けるまでは降伏せず、交渉を続ける。
 条件 陸相、総長*、東部軍司令官**、近衛師団長***の4者一致の上であること。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.71)
*梅津美治郎参謀総長、**田中静壹東部軍司令官、***森赴近衛師団長

竹下の計画説明に対し、阿南陸相がどういう反応を示したのだろうか。別宮氏は先程紹介した著書で、竹下が著した『機密終戦日誌』の該当部分を現代語訳で紹介しておられる。

「…たとえ逆臣となっても永遠の国体護持のため断乎明日午前クーデターを決行することを具申した。大臣は容易に同調する気色はなかったが『西郷南洲の心境がよくわかる』『自分の命は君等に差し上げる』などと言った。」
と、しぶしぶ同意したとも不同意であったとも、どちらともとれる書き方になっているのだが、井田の手記『雄誥』では、阿南陸相はクーデターに賛成したことになっているという。
しかし、計画案に「天皇を軟禁す」と書かれていることが真実であったならば、簡単に阿南陸相が賛成したとは考えにくいところだ。

翌14日午前7時に阿南陸相は荒尾興功軍務局軍事課長とともに梅津美治郎参謀総長を訪ね、軍は断乎クーデターによって天皇を擁し、軍政府を立てて戦争を続行する旨述べたのだが、梅津は天皇陛下の御聖断があった以上は、軍は陛下の御意志に副うべく万全を尽くすべきだとして同意せず、さらに中堅将校の不心得を十分に取締まることを要求したそうだ。
ついで阿南陸相は7時半には田中静壹東部軍司令官と高嶋辰彦参謀長を陸軍大臣応接室に招請して、クーデターに参加することを求めたがそれも不調に終わっている。
その際に高嶋参謀長は「明治憲法規定によって担当大臣副署による昭和天皇の命令を出してくれ」と要求したという。

ここで大日本帝国憲法の条文を復習しておこう。
第 3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
とある。
この憲法を読んで普通に考えれば、昭和天皇による第1回目の御聖断が出た時点で、陸海軍ともそれに従うしかなかったはずである。
クーデターを起こそうとした将校たちは、いったいどういう論理で陛下の御聖断を無視したのだろうか。この点は気にかかるところだ。

別宮暖朗氏の著書に、阿南陸相の義弟・竹下正彦が昭和22年2月28日にGHQ歴史課の尋問を受けた時の陳述内容が紹介されている。この文章を読めばクーデターを起こしたメンバーは昭和天皇を護衛する意識などはなかったことが誰でもわかる。

「この度天皇は民族の根さえ残っておれば、国家再興の時機は必ず到来すると申されたが果たしてそれでいいのか。天皇ヒロヒトはそう申されても、それは明治天皇やその他の皇祖皇宗の御考えと一致しているとは思われない。今上天皇の意図に反することは避けたいけれども、たとえ一時そういう結果になっても皇祖皇宗の御志にそうて行動することが大きな意味において本当の忠節である。東洋思想によれば承詔必謹のみでは不十分で諌争(かんそう)*ということがあって本当に忠義になるのである。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.172)
*諌争:君主に諫言して、自分の意見に従わせること

別宮暖朗

別宮氏はこう解説している。
竹下は自分の意見『太平洋戦争継続』を昭和天皇と諌争して、実現させたかったというのである。ソ連が参戦し原爆を落とされ、多くの陸兵が太平洋の孤島で玉砕したあとの言い分である。ただし、竹下自身も、降伏自体は避けられず、『国体護持』のため武装解除、保障占領、戦犯裁判回避のため、多少継戦して、本土決戦で一撃を与え、その三つの条件を撤回させたいと主張した。
 諌争といっても、ただの軍事課課員の竹下が直接やるわけにもいかず、義兄の阿南も他の閣僚に継戦論を説得できずにいたのである。竹下の諌言や諌争は、昭和天皇に達する以前に他省庁に対しても説得力を欠いていた
それでも竹下が昭和25年に昭和天皇を『ヒロヒト』と呼ぶことは極めて異例であろう。…竹下も義兄を『コレチカ』と呼び棄てにすることはなかったであろう。
諌争とは君主が自分の意見と異なった命令を出した場合、あくまでも論争を挑み、不服従を遂げることであった。儒教とは選民=エリートである官僚がどのように振る舞うべきかを説いたものであり、陸軍エリート将校の頭に入りやすかったのである。」(同上書 p.172-173)

このような考え方で、竹下らは昭和天皇を軟禁し和平派を隔離して戦争を継続させようとしたのだが、この続きは次回に記すことにしたい。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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