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『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、国内でこれだけ激しく意見の対立があったのは、この『ポツダム宣言』の内容が、連合国とわが国が戦争を終結するための条件を呈示したものでものであったからとも言える。

このシリーズの最初の記事で『ポツダム宣言』に書かれている内容を紹介したが、この宣言で、連合国はわが国に対して、条件付きで戦争を終結させようと提案してきたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-290.html

なぜ連合国が、わが国の本土決戦の前にこのような提案をしてきたのだろうか。
もし『ポツダム宣言』がなければ、連合国が勝利するためには、わが国が降伏するまで攻撃をし続けるしかなかったのだが、わが国は簡単には降伏しそうな国ではなく、本土決戦に突入すると、わが国だけではなく連合国側にもさらに多くの犠牲者が出ることが予想されていた。
ポツダム宣言』が発表された背景には、連合国側に、これ以上犠牲がでることを避けようとする意図が見えてくるのだ。

実は『ポツダム宣言』以前にも、アメリカは、何度もわが国に対して降伏勧告をしていたようだ。
それまでのアメリカの動きを、このシリーズの最初に紹介した山下祐志氏の論文『アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』を参考にみていこう。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1391217393&cp=

トルーマン大統領

1945年(昭和20)5月7日にドイツが無条件降伏すると、アメリカのトルーマン大統領は次のような対日降伏勧告声明を発している。
日本軍の無条件降伏は日本国民にとってはなにを意味するのかといえば、それは戦争の終結にほかならない。日本を惨禍の淵に追い込んだ軍部指導者の無力化を意味する。兵士たちが家庭に、農場にまた職場に復帰できることを意味する。またそれは勝利の希望のない日本人の現在の苦悩や困難をこれ以上引きのばさないことを意味している。無条件降伏は決して日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものではない。」

しかしわが国政府は5月9日に次のような声明を発して、あくまで徹底抗戦することを告げている。
「帝国と盟を一にせる独逸(ドイツ)の降伏は帝国の衷心より遺憾とするところなり、帝国の戦争目的はもとよりその自尊と自衛とに存す。これ帝国の不動の信念にして欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の欲意と暴力の下に蹂躙せんとする米英の非望に対し、あくまでも之を破摧しもって東亜の安定を確保せんことを期す。」

アメリカはそれ以降、ザカリアス米海軍大佐によって、14回にわたって降伏勧告を求める放送を実施したのだが、わが国を動かすことはできなかった。

空襲だけでは日本を降伏にまで追い込むことはできないと考えられ、九州上陸作戦および関東平野上陸作戦が検討されていて、その作戦を実行に移したとしても、もし300万人近い内地の日本軍将兵が山地や森林にこもってゲリラ戦を展開したとしたら、米軍側に大量の犠牲者で出ることは確実であり、あまり時間をかけすぎれば、ソ連が対日参戦して北海道や東北を狙ってくることも充分に考えられたのである。

アメリカがそう考えたのも無理もない。米軍は硫黄島、沖縄の戦いで多くの犠牲者を出している。
硫黄島の戦い

例えば、硫黄島の戦いについてWikipediaではこう解説されている。
「日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことオーバーロード作戦における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地のひとつとして知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

硫黄島には、米軍は日本軍2.3万人の5倍にあたる11万人もの兵士を送りこんだのだが、日本兵を上回る犠牲者を出していたというのは驚きだ。この戦いで日本兵は約千名が捕虜になった他はほとんどが戦死あるいは自決したという。それにしても、日本軍は少ない兵力ながらも、僅かな武器を有効に用いて、勇敢に戦ったのである。
また沖縄戦も同様に、米兵は日本兵の5倍の55万人の兵士を送り込んで戦ったのだが、8.5万人もの死傷者を出している。

このような日本軍の悲壮な抗戦は決して無駄ではなかったとも言える。もし硫黄島も沖縄も米軍の圧勝で終っていたなら、『ポツダム宣言』のような終戦条件の提示はあり得ず、わが国は本土決戦で焦土となり多くの人命が失われ、敗戦後はドイツなどと同様に国土が分断されていたに違いない。
アメリカでは1944年10月のレイテの戦いが始まる前あたりから、出来るだけ早く条件付き終戦に持ち込もうとする考えがでてきたようだが、硫黄島や沖縄の戦いにおける米軍の犠牲が大きかったことが、その流れを加速させたと言えるだろう。

山下祐志は上記論文でこう述べている。
「日本捕虜の意識調査をしていたジョン・エマーソンらのグループは、すでに1944年10月10日の時点で、日本の早期降伏をもたらすためには国体護持を認め、なおかつ日本人が将来に希望を持ち得るよう『無条件降伏以上のことを告げるべき』との報告書を提出しており、ザカリアス大佐の対日放送もこれに準じたものであった。ゆえにこの日、ジョン・マックロイ陸軍次官が、本土上陸作戦の代案を検討すべきだと主張した。彼の考えは、大統領が立憲君主としての天皇制の保持を認め名誉ある降伏を日本人に勧告する個人的メッセージを発表すべきだ、というもので、この勧告は、もし日本人が拒否した場合には原爆をみまう、という警告と組み合わせて出すのが効果的だとした。彼の提案に対してトルーマン大統領は、原爆にはいっさい言及することなく対日警告文をもっと練り上げるように命じた。まだ、原爆実験成功の確証がなかったことと、ソ連に秘密にしたまま原爆の研究・製造を進めるべきだ、という意見が関係者の間で支配的であったからである。ともあれ、この決定によって、後の『ポツダム宣言』が実現に向かって一歩を進めることになる。」(同上論文 p.14)

その後国務省内で、親日派と親中国派との係争があり、『ポツダム宣言』の公表文書が出来上がるまでにはかなりの紆余曲折があったようだ。

一方わが国にとっては、『ポツダム宣言』が連合国からの終戦条件の提示であったからこそ、受諾するかしないかで国論が2つに割れた。
もしこの文書が無条件降伏を要求するものであれば議論の余地は乏しく、陸軍主導で本土決戦に進んでいたものと思われるのだが、「国体護持」に希望が持てたからこそ、昭和天皇の『御聖断』によりわが国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、終戦することを選択したのである。

重要なポイントなので繰り返して言おう。
『ポツダム宣言』はわが国に無条件降伏を勧告した文書ではなく、戦争を終結させるために連合国からの条件を呈示した文書である。さらにこの文書は、わが国のみならず連合国をも拘束する双務的な協定である。だからこそわが国は、これを受諾したのだ
アメリカもこの文書に拘束されることは、アメリカの公文書の中に記録がある。
「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものになる」(『アメリカ合衆国外交関係文書・1945年・ベルリン会議』所収第1254文書「国務省覚書」)

ところが『ポツダム宣言』の各条項を、わが国は遵守したのだが、連合国がそれを平然と無視し、わが国でやりたい放題の国際法違反を重ねたのである

連合国の重大な違反行為をいくつか指摘しておこう。
例えば『ポツダム宣言』の第9項には、
日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる。」とある。
シベリア抑留

このブログで以前書いたが、50万人以上の日本人が戦後ソ連に抑留された史実は、明らかにこの条項に違反する。ソ連は対日参戦と同時に『ポツダム宣言』の署名国に参加し、この「協定」の拘束を受けているはずだ。

また、わが国が『ポツダム宣言』を正式に受諾した後に、ソ連がわが国の北方領土を占領し不法占拠を続けている問題も、ポツダム宣言の第8項で、領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を承継しているという原則を侵害している

また『ポツダム宣言』の第10項には、
われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられることになる。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする。」とある。

しかし、昭和20年9月から占領軍による検閲がはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、出版物であれ放送原稿であれ私信であれ、たとえその内容が真実であっても、徹底的に排除された。
さらにGHQは西洋の世界侵略や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書など7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄させている。(GHQ焚書)

次のURLに新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかった
http://www.tanken.com/kenetu.html

そもそも、占領軍がわが国に憲法を押し付けることは国際法違反である。
1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議で採択され、1907年の第2回万国平和会議で改訂された『ハーグ陸戦条約』第43条にはこう書かれている。
「国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。」

また、東京裁判では「平和に対する罪」「人道上の罪」という国際実定法上根拠のない「事後法」により訴訟が提起され、この裁判で多くの日本人被告が裁かれたのだが、この行為も明らかに第10項に違反している
東京裁判

「A級犯罪」というのは「平和に対する罪」で、「A級戦犯」というのはこの罪を問われた日本人のことである。同様に「B級犯罪」というのは「通常の戦争犯罪」で、「C級犯罪」は「人道上の罪」であり、「A級」「C級」というのはいずれも「事後法」なのである。

そもそも戦争を起こしたことを犯罪とする法律は存在しない。
東京裁判において、連合国が「罪刑法定主義」の法治社会の根本原則に違反して、日本の指導者たちを「事後法」で裁いたことは、裁判らしき形式はとってはいるものの、実態は法律とは無関係の行為である。裁判は法に基づいて裁くものであって、感情や道義で裁くものではないはずだ。
百歩譲って「事後法」で裁くことを許容したとしても、「平和に対する罪」「人道上の罪」という罪状で戦争犯罪人を裁くのであれば、アメリカの原爆投下やソ連のシベリア抑留をなぜ裁かないのか。連合国側には適用されず、わが国にだけそのような罪を適用するのは、「法の下の平等」にも反する行為であり、実態は勝者の敗者に対する野蛮な報復行為でしかなかったのだ。

また『ポツダム宣言』第12項を読めば、現時点で米軍がわが国に駐留していることも協定に違反していることになる。
前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意志にしたがい平和的傾向を持ち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収するものとする。」

これだけ重要な違反があるのに、なぜわが国の政治家はアメリカやソ連に対して言うべきことを言わなかったのかと誰しも思うところである。
しかし官僚には気骨のある者がいたようだ。以前紹介した江藤淳氏の『忘れたことと忘れさせられたこと』のp.231にこんな記述がある。
占領中に、日本は『無条件降伏』していないという事実を隠蔽し、封殺しようとする圧力が存在したことについては、証言する人々がある。たとえば『終戦史録』第6巻の月報に執筆していている下田武三氏は『ポツダム宣言による戦争終結は、無条件降伏でないと国会答弁で喝破して、条約局長を罷めさせられた萩原徹氏』の例をあげている。」
萩原徹氏の国会答弁を「国会会議録検索システム」で検索しようとすると、該当部分が引っかからないのだ。占領軍から圧力がかかって速記録から削除されたのだろうか。
http://kokkai.ndl.go.jp/

わが国では戦後の長い間にわたり、「わが国は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して無条件降伏した」という謬説が国民に広められてきた。堂々と違反してきた連合国側に問題あったことは言うまでもないが、GHQの占領期が終わってからも、それに対して何も反論してこなかったばかりか、謬説を繰り返すばかりであったわが国の政治家やマスコミ・言論界の罪は大きいと思う。

連合国が重大な数々の違反行為を国民に隠蔽するために「無条件降伏」であることを国民に広めようとしたのだろうが、その安易な対応が「戦勝国はすべていい国だったが、日本だけが悪い国であった」というとんでもない歴史観を押し付けられることに繋がったのだと思う。
そのような歴史観は、戦勝国にとって都合の良い歴史観であることは当然だが、戦争を機に共産主義革命を起こそうとして数々の工作を繰り返した事実を隠蔽するのにも都合の良い歴史観でもある。アメリカだけでなく中国やわが国の左翼が、わが国の歴史教育の見直しの動きに過敏に反応する理由はそのあたりにあるだろう。

東京裁判で戦勝国11人の判事のうち、ただ一人被告全員の無罪を判決した、インド代表のパール判事はこう述べている。
パール判事

「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼等の戦時謀略に誤魔化されてはならぬ。日本が過去の戦争に於いて、国際法上の罪を犯したという錯覚に陥る事は、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈な植民地民族に転落する。」
今のわが国は、パール判事の予言の通りの状態になってはいないか。そして今も身近な国から無理難題を押し付けられているばかりである。

今さらアメリカやソ連や中国を恨んでも仕方がない。世界の国はいずれも、いつの時代も、国益を考えて動いているだけのことである。わが国も現在および将来の国益のことをもっと考えて行動するしかない。当たり前のことだと思うのだが、史実に照らしてまた国際法や慣習に照らしておかしなことは、安易に認めてはいけないのである。そこを何度も認めてしまったからおかしなことが続くのだ。
河野洋平

問題は、わが国が国益を深く考えずに強大国に迎合し、それらの国々が押し付けてきた歴史を十分な検証もせずに受けいれて真実の解明を避けてきたわが国の姿勢であり、政治家やマスコミや教育界や官僚が長い間、国民に歴史の真実を伝えてこなかった姿勢なのである。

今からでも遅くはない。今後のわが国の再生のためには、一人でも多くの国民が歴史の真実を知ることに目覚め、偏頗な歴史観に騙されないことだ。そしてバカな政治家を選ばないことだ。
世論が動いて、政治家もマスコミも米中韓などに安易に迎合できなくなる日は来るのか。

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『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

マリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運ぶ航海の途中で暴風雨に遭い、修理のために横浜港に横付けされている時に、虐待されていた一人の中国人奴隷が逃亡したことが大問題となる。
この事件は神奈川県令の大江卓が自ら裁判長となって、中国人奴隷225名全員を解放したという痛快な話なのだが、このように「奴隷制度」や西洋による世界侵略など、戦勝国にとって都合の悪い史実を記された本は、ほとんど昭和21~23年にGHQによって焚書処分されていると考えて良く、西洋の世界侵略や奴隷制のことを詳細に記述した本は、今も書店で目にすることは滅多にない。

大衆明治史

このようなブログを書くようになってから時々古い本を読むことがあるのだが、平板な歴史叙述に慣らされてきたからなのか、古い本には人物が生き生きと描かれていて面白いと感じることが多いのである。
今回は菊池寛の『大衆明治史』の中から、明治時代の自由民権運動の話を紹介したい。この本の原文を読みたい方は、全文をPDFで公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

菊池寛は、明治元年に会津藩の処遇をめぐる明治新政府軍と奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた「会津の戦」に関する板垣退助の述懐から書き起こしている。
しばらく菊池の文章を引用する。(原文は旧字旧かな)
松平容保

「会津の戦いが済んだ松平容保*父子が城を出て妙国寺に退隠したある日、一人の百姓が来て、芋を藩公に献じてその不幸を慰めようとした。
 その護衛の任にあたっていた土佐の士が、美談として、これを官軍の板垣退助に語ったのである。傍らで聞いていた者は、皆その忠義を褒めないものはない。

 この時、板垣は静かに次のような述懐を洩らしたという。これは日本の憲政史でも、有名な言葉である。

『我輩先日、日光今市の戦いの時、友人にして戦死する者多く、その屍を見るたびに、身を切られるような思いをした。しかるに敵の死兵を検査すると、皆身に文身(いれずみ)をした無頼漢ばかりであった。自分はこれを見て、石と玉とを交換したような気がして、甚だ落胆痛恨した。その夜、床の中で考えたのであるが、ヨーロッパの戦争では、常に万を超える死傷者があるのに、士気は毫(ごう)も衰えぬという。その理由はどこにあるかといえば、だいたい、日本の兵士は僅かな士族だけで組織してあるから、平常の友情関係が極めて濃厚で、人員もまた少ないから、これが戦死を見て、心を痛めることが深い。これは全く封建制度の罪であって、その人情関係が狭いためである。したがって、国民皆兵の時代が来れば、こうした弊害は結局打破されるであろうと考えた。』

彼はさらに語を継いで、
『やがて兵を進めて会津に近づくや、会津の雄藩、必ず一藩を焦土と化して戦うであろうから、三千未満の官兵では、とても攻略することは出来ん。唯討死の外あるまいと秘かに覚悟を決めていた。ところが若松城に近づくにつれて、人民は家財道具を携えて、争って地方に遁(のが)れ、甚だしきに至っては、人足となって官軍の手助けをする者がある。我輩はその意外なるに驚いた。諸君は芋を持ってきてその旧主を慰めんとする百姓に感心してているが、それなら何故初めからわれわれに抵抗して、旧主を助けなかったのか。これを要するに、戦争は士がやるもの、百姓は初めから不関焉(ふかんえん:われ関せず)だからである。その楽しみをともにせざるものは、その憂いをともにせずだ。武士だけがその特権を振り廻している時代に、百姓がどうして国事を共に憂えるものか。これ程の大藩が亡びるのに、之に殉ずる者、僅かに三千に過ぎないというのはこの道理にほかならぬ。我輩は、昨日まではこれを会津のこととして、冷ややかに見ることとが出来たが、これを今後の日本に及ぼして考えれば、由々しき大事である。要するに、今日以後は、四民平等の制度を布(し)いて、国民全体が楽しみをともにし、憂いをともにせねばならぬ。』」(汎洋社版『大衆明治史』p.86-88)
*松平容保(まつだいらかたもり)第9代会津藩主。
会津若松城

平石弁蔵と言う人物が大正6年(1917)に会津人の立場から『會津戊辰戰爭』という本を著して、平石はその序文を板垣退助に執筆を依頼している。
板垣は戊辰戦争で官軍の東山道総督府の参謀をつとめ、非凡な軍略の才能を発揮したと言われているが、板垣がその本の序文に記した文章は、なかなかの名文だ。次のURLにその全文と訳文が出ているが、これを読めば菊池寛が書いた板垣の述懐は、史実にかなり忠実に書かれているものであることが分かる。
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/itagaki.htm

板垣は、会津では士族出身者だけが戦っただけで、会津の他の人々はみんな知らぬふりの状態であったことに官軍の参謀として強く危機感を抱いたのである。
板垣自身の文章を紹介したい。
會津は天下屈指の雄藩也、若し上下心を一にし、戮力以て藩國に盡さば、僅かに五千未満の我官兵、豈容易に之を降すを得んや。」

官軍はわずか5千にも満たない兵力しかいなかった。もし会津の人々が心を一つにして藩に協力していたならば、官軍が会津を簡単に降伏させることはできなかったと書いている。
にもかかわらず会津の人々は戦火を避けて逃げて、藩の滅亡を目前に見ても誰もが知らぬふりをしているのは何故なのか。わずかでも藩主の恩に報いようと考えたなら、人々は生命を犠牲にして国を護ろうとするべきではないか。
板垣退助

板垣は、会津の一般の人々がこのような行動をとったことの原因について、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかったために、身分の上と下とで心が離れてしまったことにあると考えた。
この問題は会津藩だけにあてはまるものではない。もし生まれたばかりの明治日本が他国と戦うことになれば、このままではとんでもないことになると危機感を抱いたのである。

「然るに斯の如く一般人民に愛國心なき所以のものは、畢竟(ひっきょう:つまるところ)上下離隔し、士族の階級が其樂を獨占して、平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず。夫れ樂を共にせざる者は亦た其憂を共にする能はざるは、理の當に然る所、天下の雄藩たる會津にして既に然り、況や他の弱藩に於てをや。我邦にして若し一朝外國と事を構ふるあらば、其結果知るべきのみ、今や封建の勢既に蹙(ちぢ)まり、時局是より一新せんとす。此時に方り我邦にして苟(いやし)くも東海の表に屹立し、富國強兵の實を擧げんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦樂を同ふするの精神を以て、士の常職を解き、其世禄を廢し、階級の制度を撤去して、國民皆兵を實行したりき。」

明治新政府が封建的な身分制度を改革して四民平等政策をとり、士族を路頭に迷わせてまでして国民皆兵の政府軍を作ろうとした流れは、この板垣の戊辰戦争に関する感想を読めば腑に落ちる。
板垣はここでは「愛国心」という言葉を用いているが、文脈からすれば「愛郷心」に近いと思う。しかしもしわが国が外国との戦いに巻き込まれたとしたら、それに勝つためには自らの郷土を愛するだけではなくこの国を護ろうとする「愛国心」に高めて、国民にあまねく普及させることが必要である。そのためには、士族の持っている特権を国民に広く享受させる一方、兵士になって国のために戦い、死ぬことにおいてもすべての国民が平等であるべきだと考えたのだ。

しかし明治の日本は、板垣が理想と考えていた方向とは違う方向に進んでいく。
明治4年(1871)に廃藩置県が完成して「藩」は制度としては廃止されたのだが、薩長を中心とする藩閥政治が長い間わが国の政治を支配することになるのだ

菊地寛

菊池寛はこの時代の流れをこう書いている。
「しかし、藩閥政治が強大になるにつれて、この反対勢力も勢力を得てくる。藩閥が自己の利益を中心にして、団結しようとすればするほど、これに対する民間の反抗は漸次組織立っていき、自然々々の中に、これが政党という形を採ってくるのだから面白い。 
明治6年の征韓論の決裂は、土佐を政治の中心から追い出しているが、この時飛び出した板垣退助、後藤象二郎等が、後の自由党結成の中心になったのも皮肉だし、明治14年の政変で、藩閥政治は無理やりに佐賀出身の大隈参議を罷免したが、大隈は負けずに改進党を組織して、藩閥打倒の旗幟を高く揚げるようになったのだから、これもまた皮肉である。」(同上書 P.91)

明治6年に征韓論が決裂し板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が下野し、板垣、後藤らは、明治7年(1874)に「愛国公党」を結成したが、世の注意を惹かずに自然消滅となる。
板垣は同年故郷の土佐に帰り立志社を設立し、明治11年(1878)には大阪に出て同志を糾合して愛国社と改称してその勢力を拡大し、全国的な運動団体となる。
そして明治13年(1880)には国会期成同盟と改称し2府22県、8万7千人の署名を集めて政府に国会開設を請願したという。

このあたりのことは教科書にも書かれていたのだが、学生時代に学んだ時に、なぜこんなに自由民権運動がこの時期に国民に広まったかについては腑に落ちなかった。教科書には薩長の藩閥政治がいかなるもであったかがほとんど何も記されていないから、わからなかったのだと思う。
菊池寛の文章は、そういう疑問点をスッキリ理解させてくれるのでありがたい。

自由民権論がこれほどまでに全国民にとって魅力的となったのは、1つには当時の官僚たちが、封建大名以上に威張り散らしたことに対する反抗であった
 当時の知事が地方巡回をするときは、人民に対して土下座を強要した者があった程である。地方の多少でも、気骨のある有志が、こうした役人の横暴を実際に見て、大いに怒り、自由民権の叫びを挙げるのも当然だったのである。
 これに対して、自由党の板垣でも後藤象二郎でも、かつては参議までした人物が、一般人民と膝を交えて政治論を闘わせたのであるから、その人気が益々高くなったのは無理もない。…」(同上書p.95-96)

三島通庸

当時の知事(県令)で悪名高い人物としては薩摩出身の三島通庸(みしまみちつね)が有名で、山形、福島、栃木の県令時代に住民の反対を押し切り土木工事を進めて住民に増税や労役賦課、寄付金強要を行ない、批判に対しては弾圧一辺倒であったという。藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』の次のページには、三島通庸と戦った田中正造の活躍が描かれている。
http://www.ashikagatakauji.jp/tanaka/tanaka06.html
また宮武外骨は『明治奇聞』の中で、「圧制三県令」として「明治十五年頃、政府が民権家を敵視して圧迫加えた当時、最も辛辣を極めた地方官中の三酷吏」として、福島県令・三島通庸、岡山県令・高崎五六、愛媛県令・関新平を挙げているという。調べると高崎五六も薩摩出身、関新平は肥前出身だ。
http://blog.svp2.com/?eid=938821
以前このブログで書いた、廃仏毀釈で奈良の寺院の文化財などを収奪し財を成した堺・奈良県令の税所篤(さいしょあつし)も薩摩出身である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html


このブログで何度か書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは為政者にとって都合の良いように編集され、為政者にとって都合の悪いことは書かれないものだと考えて良い。教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官製史料を重視するスタンスで叙述される傾向が強いと思うのだが、それでは何回読んでも、為政者にとって都合の良い歴史を読むことになって、真実が見えてくるとは限らない。
真実を追及していくためには、同じ時代を生きた人々の記録と読み比べて、その上で本当は何があったのかを考える姿勢が不可欠なのだと思う。

ところで先ほど紹介した藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』には、田中正造に対して三島通庸が刺客を送り込んだという記述がある。
もしかすると、明治15年(1882)に板垣退助が岐阜で刺客に襲われたのも、同様な背景があったのかもしれない。板垣を襲った相原は北海道に向かう船上で行方不明となっており、板垣襲撃を計画した者に殺害されたという説もあるようだ。

板垣退助遭難の図

有名な『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、板垣が岐阜で襲われた時に発したとされているのだが、右胸、左胸を刺された本人が刺客に対して言う言葉としては芝居のセリフのようで、どうも不自然だと思う人は私だけではないだろう。
本人は別の言葉を発したとかいろいろな説があるようだが、事件後の報知新聞の取材では、刺客の相原を抑え込んだ内藤魯一が事件時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」を、内藤が、板垣が叫んだことにしたという説がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この内藤魯一は、明治17年(1884)民権運動を弾圧した三島通庸や大臣たちを爆殺しようとした加波山事件に連座して2年の獄中生活を送った人物だ。

菊池寛は、この板垣襲撃事件を自由党が党勢拡大に利用したことをうまく書いている。
「明治15年3月、自由党総理、板垣退助は東海道の遊説に赴き、静岡、名古屋を経て、4月6日に岐阜において大演説をなした。
 将に玄関を出ようとするところを愛知県の小学校教員、相原某に襲われた。傷は浅かったが、この報が全国に伝わるや自由党員はこぞって岐阜に集まり、これ政府が手を廻して板垣総理を殺さんとしたのであると慷慨激越、意気正に天を衝くの慨があった。
この時板垣は刺客を睥睨して、
『板垣死すとも自由は死せず』
と一喝したとの挿話は、殉教者の様な響きを以て、全国に伝わったのである
。」(同上書 p.96)

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自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯

自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。
政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。
明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを巡り政府内の対立が深まり、政府は国会開設の勅諭を出して、明治23年(1890)に国会を開くことを約束するとともに、大隈参議を辞職させ、伊藤博文を中心とする薩長の政権が確立した。(明治14年の政変)

その直後に、国会期成同盟を母体に板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌明治15年(1882)には大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。

以上のことはどこの教科書にも書かれていることなのだが、この2つの政党の違いが、よくわからなかった。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「両党とも各地で演説会をひらき、機関誌を発行するなど、政党政治の実現をめざし、都市の知識人(おもに士族)や地方の地主・豪農・商工業者などのあいだに勢力をひろめた。その活動は、志士的気風に富み行動力の活発な自由党のほうが、イギリス流の穏健で着実な議会政治を理想とする立憲改進党よりも急進的であった。」(p.236)
と記述されている。
学生時代には「急進的」と「穏健」という言葉で自由党立憲改進党を記憶したが、2つ政党の主義・主張、活動方針がどう異なるのか。こういう肝心なことが何も書かれていない。

前回紹介した菊池寛の『大衆明治史』に、新たな政党を設立して大隈が総裁になるのではないかと言う風説が出て、藤田一郎と言う人物がその真偽を確かめた一問一答をまとめた「東京日日新聞」の記事が引用されている。ここで大隈は自由党に対して結構過激な発言をしているが、こういう文章を読むと、自由党立憲改進党の違いが見えてくる。

大隈は、政府にいても民間にいても自分の主義主張は変えないと述べたあとで、板垣退助を厳しく批判している。
大隈重信

「…彼(か)の板垣退助君の如く、征韓論を以て内閣を去りながら、数月を出でずして民撰議院設立の建白書を上るというが如き挙動は、予の敢てなすところではない。予は主義によって政府を去り、その主義を以て民間に唱う、何ぞ出所の正しからざることあらん。
予、熟々(つらつら:つくづく)近時の我が国情を考えるに、政党組織も遏む(とむ:とめる)べからず。政談演説も絶つべからず。必ずや一日は一日と多くなることと思う。これのみではない。予が兄と共に憂うべきことは、今日の政党者流の挙動である。彼等は政府といえば善悪を弁せず、郡吏、巡査さへも攻撃せんとし、民権と言えば、政府に抗すれば、得られるものと思っている。その最も甚だしきものは彼の自由党の類である。このままに放置して置けば、遂には社会を破壊するに至るであろう。これが予が不敏を省みず、自ら任じ、民間にあってこれを矯正し、国家の保安を維持して、聖天子に報い奉らんと欲する所以(ゆえん)である。予豈(あに:決して)徒(いたずら)に事を好んでこの事をなさん。」(菊池寛大衆明治史』p.99)

大隈はこの発言ののち、明治15年(1882)3月14日に立憲改進党の趣意書を発表し、16日に木挽町で結党式を挙行している。

大隈も板垣も、二人とも薩長閥が権力を握った政府と戦うために政党を作ろうと考えたのは同じだと思うのだが、大隈は、自由党のように政府のすることなすことに抵抗していたら、いずれわが国の社会が破壊されてしまうとまで述べていることは注目して良い。

菊池寛は二つの政党についてこう解説している。
菊地寛

日本の政党が、とかく主義を主としないで人を主とし、ややもすれば封建的な権力争いに浮身をやつす傾向は、既にこの頃から萌(きざ)していたのである
 自由党と改進党は、ともに立憲主義を抱き、藩閥を敵としていたのだから、共同戦線を張ったらよさそうなものだが、実際はお互いの軋轢や党争を繰り返しているのは、その主義と言うより党風の相違とその総理である板垣と大隈の性格の相違に依るものが多い。
 意気を尚(とおと)び、情熱家の板垣は、智略を事とし、品格を重んずる大隈とは合わない。だから自由党に集まる者は、燕趙悲歌*(えんちょうひか)の壮士、地方農民と不平士族が多く、改進党を支持する者は学問常識を誇る者や都会の商工業者が多かった
。」(同上書p.101)
*燕趙悲歌の壮士: 時世を慷慨する者

このようにして自由党、立憲改進党が相次いで成立したのだが、政府が約束した国会開設は明治23年(1890)であり、立憲改進党が出来た年から8年も先の話である。両党にとっても8年近く運動を継続し、支援者を増やして資金を集め続けることは容易な事ではなかったはずだ。しかも両党の党首が仲が良くないときている。そこに薩長藩閥の明治政府がつけ入る隙があった。
板垣退助

政府はまず板垣を外遊させている。
板垣退助は、岐阜で暴漢に襲われた半年後に後藤象二郎とともにヨーロッパに旅立つのだが、その外遊費用2万円は現在価値にして4億円近いとされ、こんな資金が自由党にある筈がなかった。では誰が出したのか。
通説では三井財閥が出したと言われているのだが、板垣の洋行費の出所が改進党系の新聞で追及され、自由党内でも問題になったため、板垣の分は別の人物から工面したというのが真相のようである。

以前このブログで吉野の山林王・土倉庄三郎のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html
土倉庄三郎

この土倉庄三郎が板垣の洋行費の大半を工面したとことがわかっている。
田中淳夫氏は著書『森と近代日本を動かした男』の中で、自由民権運動を経済面で支えたのはこの人物であったことを詳細に記しておられるが、その当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたという。
土倉がなぜ自由民権運動を支援したかについては、田中氏は当時奈良県が大阪府に統合されていたことと関係がある事を示唆しておられる。
森と近代日本を動かした男
以前私のブログにも書いたが、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまっていた。
そのために、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発し、「奈良県再設置」の運動が拡がった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html
土倉庄三郎自由民権運動の高まりに期待して多くの資金を支援したのだが、その資金は最終的には役に立たたず、恒岡直史・今村勤三議院らが政府に何度も陳情して「奈良県再設置」の実現にこぎつけている。

話を板垣の外遊に戻そう。では板垣は、なぜ外遊しただろうか。
板垣は伊藤博文が憲法調査のため西欧に行くことに刺激されて、自分も立憲政治の実情を知りたいと考えていたところに後藤象二郎がその計画を応援したということのようだが、この事情を調べていくと、自由党のリーダーの外遊させて自由党の弱体化を謀ろうとする伊藤博文や井上馨の意図が見え隠れするのだ。
後藤の外遊資金は政府が斡旋した三井の資金を受け取ったと思われるが、板垣の場合は改進党からその資金の出どころを追及されたために、板垣は三井の金を受け取らず土倉庄三郎の資金を頼ったことになる。
この間の事情は、田中由貴乃さんの論文『板垣洋行問題と新聞論争』などが参考になる。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0040/DB00400L001.pdf

しかし、自由民権運動が全国的に盛り上がっている時期に、自由民権派のリーダーである板垣が外遊することに反対する自由党幹部が少なくなかったようだ。板垣は後藤らに説得されて外遊を強行したのだが、そのために自由党を去った者も少なくなかったようだ。

そのタイミングで明治政府は、リーダー不在の自由党を叩いている。
ここで、前回の記事で紹介した「鬼県令」の三島通庸(みちつね)が登場する
菊池寛の文章を再び引用しよう。
三島通庸

福島県令三島通庸が、『自由党と火放け泥棒は一匹も管内に置かぬ』と嘯いたのは有名な放言であるが、藩閥官僚の面目は、この一句に躍如としている。
 藩閥政治家は、まずこの二大政党の仲の悪いのに乗じて、一層この乖離に努めた
金をバラまいて居た板垣を洋行させるかと思うと、大隈にはその糧道を絶って、その咽喉首を締め上げている。更に正面攻撃では巌法酷刑を設けて、政党員の活動を手も足も出ぬように縛り上げたのである。
 指導者を失い、酷刑に脅かされた自由党は遂に非合法的なギャング党になり、各地に武器をとって政府に反抗する暴動が頻発した。温健をもって誇っていた改進党も、次第に強硬な闘争党となって、長く反政府軍の先鋒となったのである。
 この気分が、国会開設まで残り、主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だと言って不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々がいたるとこで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

少しばかり補足しておく。
三島が福島県令になったのは明治15年(1882)で自由党が結成された翌年のことである。
福島県は自由党勢力が盛んな地域であり、三島は県令に就任するや、会津若松から新潟、山形、栃木に通じる道路(会津三方道路)の開削に着手した。その手法は重税を課した上に県民を強制的に徴発して労役奉仕させるもので、それに応じない者の財産を競売に付したりしたという
三島の強引なやり方に反対して、同年の11月に数千人の住民が喜多方警察署に押しかけ、約2千人が逮捕されている。(福島事件)
また翌明治16年(1883)3月には新潟の自由党の活動家ら37余名が政府転覆容疑で逮捕されたが、逮捕された大部分が冤罪であったという。(高田事件)

同年6月に帰国した板垣は、党再建のための政治資金集めをはかるが失敗し、翌明治17年(1884)3月には総理権限を強化して党員の結集を図ろうとしたが、地方の急進派を押さえきれず、9月には栃木県令三島通庸の暗殺未遂事件(加波山事件)を引き起こしてしまう。
この事件により党内で解党論が高まり10月29日の党大会で自由党は解党したのだが、その2日後の10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方で農民が武装蜂起し、高利貸しや役所などの書類を破棄し、政府は警察隊・憲兵隊だけでなく東京鎮台の兵士まで送り込んで鎮圧するという事件が起こっている。(秩父事件)

一方立憲改進党の方はどうであったのか。
立憲改進党は自由党総裁の板垣退助の洋行費の出所を批判したが、自由党からも同様な批判を受けたようだ。
早稲田大学のホームページに、政治家としての大隈重信のエピソードを纏めたページがある。
http://www.waseda.jp/jp/global/guide/founder/statesperson.html

そこには、こう記されている。
1883(明治16)年、自由党は、大隈と三菱は結託しており、一企業の利益を優先する政党は『私党』だ、『偽党』だと、激しく改進党を攻撃しました。海坊主(三菱)と大隈を退治せよと演説し、熊の人形を引きずり出して火をつけたりして、両党の亀裂は深まっていきました。
 政府による妨害と経済界の不況があいまって、党活動は困難へと追い込まれます。1884(明治17)年11月、自由党の解党に続いて、改進党にも解党問題がおこり、党内は賛否両論に割れました。大隈は調停をはかろうとしましたが、これに失敗し、ついに12月、脱党届を提出して党を去ります。以後、改進党は都市知識人を中心とした集団運営体制へと移行し、党首を欠いたまま、1890(明治23)年の帝国議会の開設を迎えました。」

かくして自由党も立憲改進党も衰退してしまうのだが、帝国議会の開設が近づくと、後藤象二郎が自由民権運動各派を統一させようと再び動き出す。(大同団結運動:明治20-22年)
明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させている。また明治22年(1889)には、後藤象二郎を逓信大臣に入閣させて、大同団結運動から撤退させた。またその年に旧自由党のメンバーの一部が大同協和会を結成し、翌年に自由党と改称している。
明治23年(1890)に帝国議会が開催されると板垣退助を擁立する声が高まり、自由党と愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党している。
第2回帝国議会

こんな細かい話はどうでもよいのだが、菊池寛はわが国の政党の問題点をこのように簡潔に述べている。

「…主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だといって不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々が到るところで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

菊池寛が『大衆明治史』を上梓したのは昭和16年(1941)のことなのだが、党利党略を優先し不必要な摩擦を繰り返して、国家の重要な問題の解決を先延ばし、わが国の発展を阻害してきたというのは、今日の政治家も同様なのではないか。
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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
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吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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