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条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か

前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。
最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっただろう。そして、このような世論の高まりがなかったならば、明治政府は「条約改正」をなしえなかったのではないか。

広重 東海道53次 袋井

いきなりたとえ話で恐縮だが、凧は強い風があれば高く上がるし、凧が高く上がっていれば強い風があることが分かる。政治家と世論との関係は凧と風との関係のようものではないか。強い世論の支援があってこそ、相手国に強く主張することが出来るし、風がなければ政治家は重たい外交交渉は難しいし、逆に相手から舐められることになる。

そのことは戦後のわが国を見ればわかる。北方領土問題や尖閣諸島、竹島問題などの領土問題は長い間先送りされ続けてきたし、慰安婦問題もあいまいな対応を続けてきたことがかえって問題を大きくしてしまった。これらの問題のいくつかは、初期の段階で事実を示して反論していれば、早期に解決していた可能性が高かっただろう。しかしながら当時の政治家が正論を訴えて早期解決の手を打たなかったのは、解決の志を持つ政治家を支えるだけの世論の高まりがなかったからとしか言いようがない。
今でこそ、ネットにおける言論が大きな力になる可能性が出てきたが、それまではマスコミが主に世論を誘導してきたと思う。そして特に外交問題に関する問題については、少なくとも戦後においては、マスコミは国益のために動こうとする政治家の足を引っ張ることの方に熱心ではなかったか。

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今では多くの国民が認識するようになったが、今の大手マスコミには反日勢力や外国勢力に繋がる者が幹部に少なからずおり、報道内容は公平中立とはとても言い難い。
ネットで探すといろんな勢力がマスコミに影響を与えていると主張するサイトがいくつもあるが、上記の相関図以外にもいろんな国や組織が影響を与えていると私は考えている。

政治家が重たい外交交渉を成す場合は、余程大きな世論がバックになければ相手国に対して強く出ることができないことを述べたが、戦後の大手マスコミは、その様な外交交渉を有利に導くために必要な世論が高まらないようにコントロールし、むしろ外国の国益になることに世論を誘導することが少なくなかった。
領土問題や慰安婦問題や拉致事件などの重要問題が長い時間をかけても解決が出来なかったのは、勿論政治家にも責任があることなのだが、諸外国に対して政治家が正論で立ち向かう事を封じ続け、志のある政治家の足を引っ張り続けた大手マスコミの責任も重大ではないのか。

話を明治時代に戻そう。
わが国が明治時代に「不平等条約改正」という難しい問題を解決できたのは、この世論の高まりが重要だということが言いたいのだが、なぜこの時期に「条約改正」の気運が盛り上がっていったかを振り返ると、薩長の藩閥政治に対抗して大物が野に下って自由民権運動が盛り上がり、民権派の勢力が強くなって新聞の論調も政府に批判的となり、そこに不平等条約の問題点が浮き彫りになるような事件が相次いだ上に、欧化政策を推進してきた外務卿・井上馨の国辱的な条約改正案の内容が伝わって、政府内外からの批判が噴出するという流れであった。
わかりやすくいえば、自由民権論者が「条約改正問題」を政府批判の格好の材料にしたことが、この問題の早期解決を望む世論を高めるきっかけになったということだ。

条約改正に失敗した井上は職を辞し、次いで大隈重信に白羽の矢が立った。

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菊池寛の『大衆明治史』はこう述べている。
寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。
 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである

 大隈は明治14年の政変で、薩長の総攻撃を受けて廟堂を逐(お)われたが、今や再び外相の印綬を帯びて、枢機に参ずることになった。明治21年2月のことである。」(『大衆明治史』p.145)

大隈に対し数度にわたり入閣を懇請したのは伊藤博文だが、当時大隈重信は立憲改進党の党首であった。そのために立憲改進党は党首不在のまま帝国議会の開設を迎えることになったのだが、では、仲間を裏切ってまでして入閣した大隈の仕事ぶりはどのようなものであったのだろう。

菊池寛は入閣した頃の大隈の活躍を、こう記している。(原文は旧字旧かな)
入閣した大隈は非常の抱負と自身の中に、条約改正に邁進した。伊藤や井上が条約改正の手段として、欧化政策を採ったため、外国からは却って軽蔑され国内からは非難されたという前例に鑑みて、大隈はその反対を往って、排外政策を採った。彼は今まで黙認されていた外人の居留地外の家屋所有や、自由旅行をピシピシ取締って、現行条約励行と称して、その反省を促したのである。
 しかも自分の手腕をあくまで信じている大隈は、談判を外国駐在の日本公使に一任せず、なるべく東京に於いて外国公使と折衝する方針をとった。しかも各国別に比較的に楽な方から片づけていくといった風である。
 そこで列国の中、最も人種的の偏見を持たないメキシコを相手にまず交渉を開始して、22年2月には新条約の批准を完了し、その成功の第1歩を踏み出したのである
。これには駐米公使、陸奥宗光の隠れたる功績があったのである。
これに勇気を得た大隈は、同月米国との間に、新条約を結び、6月には駐独公使西園寺公望はベルリンにおいて、日独条約を調印し、8月、大隈は外務省に於いて露国公使との間に日露条約を締結、その目的に向かって着々と効果を収めて行ったのである。
この間、ひとり英国だけは、頑強にその特権を固執して、反対の意思を表示してやまなかった。」(『大衆明治史』p.145-146)

当時の英国駐日公使はフレザーという人物で、日本の申し出に対して頑強に反対し続けたという。このフレザーとの駆け引きが面白い。今のわが国の政治家にこんな芸当のできる人物がいるのだろうか。

「一筋縄ではゆかぬと見た大隈は、がらりと態度を変えて、今度は強硬に出たのである。
 加藤高明の話によると、この時大隈はフレザーに対して、一種の威嚇を示し、東洋における日本の武力の侮るべからざることを説いて、次のように言ったそうである。
日本は東洋におけるイギリスである。陸には6万の常備軍がある。海には30余艘の軍艦がある。この武力を擁して東洋に雄飛する日本を敵に回すことは、イギリスにとって不利であろう。シャムを見られよ。朝鮮を見られよ。東洋に於いて屹然として独立を保っているのは日本と支那だけである。この辺を、イギリスのために篤と考慮すべきであろう
 と、高飛車に出たというが、如何にも大隈のやりそうな芸当である。当時の日本の国力としては、随分思い切ったことを言ったものだ。
 これに対して、フレザー公使は、暫く黙考していたが、
『お話の件は、頗る重大事ですから、よく熟考致しましょう』
 と答えて、去ったという。
 案外におとなしい英国の態度に、大隈は一層勇気を得て、駐英大使岡部長職を督励して、尚も強硬に我が権利を主張させたところ、英政府の意向も漸く動いてきた。
 こうして、宿望の条約改正は成功の曙光を見るに至ったかに見えたが、茲にはしなくも憲法違反問題が起こって、大隈のこの努力も水泡に帰すことになった。強烈な反対の声は、外国から出たのではなく、実に日本内部に萌していた諸々の矛盾が、表面に爆発することによって、打倒大隈の声は旋風のように巻き起こったのである。」(同上書 p.147-148)

今の政治家が大隈のような発言をすれば、今のマスコミから『軍国主義者』『右翼』などと叩かれることは確実だと思うのだが、一方的に相手国に非がある場合の外交交渉は、それぐらいの覚悟をしてこちらが本気であることを相手に示してこそ、相手がようやく動きだすのである。大隈は世論を味方に付けながらそのスタンスでいいところまで行ったのだが、あと少しというところで国内から反対の声が上がって、結局失敗に終わってしまった。では、大隈案のどこに問題があったのか。

菊地寛

菊池寛はこう解説している。
「大隈は条約改正の談判に於いて、その内容が事前に洩れることを恐れて、極秘の中に、進行していったが、その成功の直前、すなわち明治22年4月19日のロンドン・タイムスはこの新条約の内容を大要発表し、それが東京の諸新聞に記載されるに至って、事態は急激に険悪になった。
 問題となった点は、改正案の中の『大審院に外国法律家若干名を任用する』という宣言であった
 憲法第19条に『日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格に応ジ均ク文武官ニ任セラレ、及ビ其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得』と規定してあるが、これは日本人の特権を規定したものであって、外国人はこの公権を日本臣民と同様に享有することが出来ない、というのが、法理論からする有力な反対論の趣旨であった。
 領事裁判の撤廃は良いが、大審院に外国人を加えるとは何事かというのが、谷干城や三浦梧櫻などの国粋主義の人達の言い分であった。
 この他に、大隈の改進党に対して、政敵として対立する自由党の面々、また大隈に条約改正の功を奪われるのを快しとしない連中など一斉に起って、囂々と大隈非難の声を放ったのである。
 この際において、大隈を無理やりに内閣に引張りだした、伊藤や井上馨の態度こそ見物であった。
 伊藤は初めから大隈の改正案の内容を知っており、賛成もして、中途まではこれに助力を与えていたのである。ところが、天下を挙げての反対気勢を知ると、世論に敏感な伊藤は大隈に黙って、アッサリと枢密院議長の辞表を出してしまった
。これでは百難を排して新条約断行の意気に燃えていた黒田も大隈も、意気阻喪せざるを得なかった。
井上馨も…当然賛成でなければならぬが、いつの間にか大隈に対して嫉妬の念を抱くようになった。とにかく世論の沸騰するにつれ、伊藤も井上も、なるべく火の粉が飛びかからぬよう、韜晦*しだしているのである。」(同上書 p.148-150)
*韜晦(とうかい):姿を隠すこと

大日本帝国憲法

少し補足しておく。
大日本帝国憲法は伊藤博文、井上毅らが検討を重ねて枢密院の信義を明治22年(1889)1月に結了し、国民に公布されたのはその年の2月11日である。[施行は明治23年(1890)11月29日]
そして大隈がロンドン・タイムズに新条約の大要を発表したのは、憲法公布から2ヶ月を過ぎた明治22年(1889)4月19日のことであったが、憲法制定と条約改正は同時並行で行われていたものの相互に没交渉であったという。そのために憲法が制定される状況下で、憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった
大隈の条約案で非難の的となった大審院に外人判事を任用する点については、12年後には廃止されることになっていて、大隈にすれば、現実に居留地や治外法権という憲法に規定されていない事態が継続している以上、その問題を解決するためにはある程度憲法上の例外が生じても問題にならないという考えだったようだが、世論は大隈を非難した。その中で最後まで大隈を支持したのは首相の黒田清隆と文相の榎本武揚だけであったという。
榎本は「今日まで大隈に少なからず骨を折らせておいて、事が捗(はかど)ってから、かれこれ嘴(くちばし)を入れて破壊するが如き、真に国家を憂うる者の仕方ではない」と書き送って、大隈を激励したそうだ。榎本が批難しているのは伊藤博文や井上馨あたりだろうが、この2人は大隈が簡単に条約改正を成し遂げてしまっては都合が悪いと考えたのではないか。

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そんな矢先に大隈に事件が起こる。
その年の10月18日、閣議を終えた大隈が官邸に戻る途中で国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて右脚の切断を余儀なくされる。
Wikipediaによると、その翌日に黒田首相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝え、10月21日に入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定し、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れ、その責任をとって内閣は総辞職したとある。
かくして大隈の努力はすべて水泡に帰し、安政時代の条約に戻ってしまったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3

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首相として大隈を支えた黒田清隆は、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件を明治22年に起こしたというが、大隈を文字通り「失脚」させた背景には、かなりドロドロしたものがありそうである。

菊池寛は条約改正を最後にこう纏めている。
「…この後、陸奥宗光、小村寿太郎などの決死の奮闘によって、条約改正のことが一応完成したのは、その後10年も経った、明治32年7月のことである。この時治外法権は撤廃され、居留地はすべて、わが地方組織の中に入った。そしてさらに明治44年に至って、最後に関税の自由権を完全に認めさせ、初めて日本の全面的な対外平等の要求が貫徹されたのであるから、ほとんど明治史の終焉に及んで、やっと日本の国際的平等権が確立したのである。」(同上書 p.154)
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このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いて見てください。

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
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関連記事

陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について

引き続き条約改正に関する記事を続ける。
前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。

早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日本における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。
「…当時の日本国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国辱であるとした。
日本の現状においては大隈案が最良であり、それによって改正が実現すれば、国家財政はいうまでもなく、国民の日常生活も向上し、また豊かになるという現実的利益を考えようとしなかった国権主義の陰に、具体的な国民の利益がかくされてしまったともいえよう。
 反対運動が激しくなった他の理由に、政府部内における対立があった。それは大隈案によって条約改正が実現した場合、国民の間における大隈の声望が高まり、翌年から始まる議会政治において、…立憲改進党が最大勢力となることを、かつての政敵である伊藤・井上らの藩閥政治家が危惧したのである。大隈は薩摩・長州という日本の二大派閥の出身者ではなく、それら派閥の動向に対しては常に批判的であったから、伊藤らは自分たちの政治勢力の失われることを恐れ、国家的利害を無視して大隈案に反対したのである。…」(『日本における条約改正の経緯』p.10-11)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/10153/1/43111_19.pdf

木村氏は早稲田大学の名誉教授なので大隈びいきではないかと考える人もいるとは思うが、明治14年の政変で伊藤博文らの藩閥出身者が陰謀により大隈を政府から追放したのち、伊藤や井上が極端な欧化政策を採って条約改正交渉に失敗すると、次いで伊藤は野に下って立憲改進党の党首であった大隈に条約改正を担当させようとし、黒田清隆とともに口説いて黒田内閣の外相として大隈を入閣させたのである。その大隈が、帝国議会の開催を前に条約改正をまとめそうな雲行きになって、伊藤や井上らの藩閥政治家が自らの政治勢力をを失うことを危惧したという木村氏の解説には説得力がある。

青木周蔵

大隈が失脚した後は、大隈のもとで外務次官を務め、井上馨の時代から改正交渉の実務に当たっていた青木周蔵が外相となり、条約改正を担当した。
青木は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を目指し、まずイギリスから個別交渉に入ったのだが、イギリスは予想に反して日本の提案に同意したのである。

木村氏の解説をしばし、引用する。

それは、当時アジアを含む世界情勢が大きく変化していたからである。その一つは日本が明治17年(1884)の朝鮮の動乱(甲申の変)以後にとった対策によって、東アジアにおける日本の実力をイギリスが認めたことで、第二には明治24年(1891)にロシアがウラジオストークを起点として、欧亜をむすぶシベリア鉄道の建設工事を開始したからである。これはロシアのアジア経営が積極化したことを示すもので、結果としてアジアにおけるイギリスの権益に対する脅威となった。第三に西欧における仏・独両国がロシアと連携して、アジアにおけるイギリスの権益に圧力をかけてきたからである。イギリスはアジアにおける孤立化を痛感し、改めて新興国日本の実力に依頼し、その協力によって自らの地位を維持しようとするにいたったのである。」(同上論文 p.12)

大津事件

したがって、日英間で新条約が成立するかに見えたのだが、明治24年(1891)にわが国を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライが、警備に当たっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられて負傷する事件がおきる。(大津事件)
青木周蔵は、その責任を取って外務大臣を辞任し、せっかくの条約改正交渉も中断されてしまう。

榎本武揚

青木の後任として外務大臣になったのは榎本武揚だが、明治25年(1892)の帝国議会において商法・民法など諸法典の実施延期が可決されて、条約改正よりも重要法案の修正の議論が必要との意見が多数を占め、また第2回衆議院総選挙で品川弥二郎内務大臣の選挙干渉にもかかわらず民党が多数を占めたために政局が紛糾してしまう。8月に松方内閣は総辞職したために、条約改正問題はこの内閣では進展しなかった。

明治25年(1892)、大命を受けた伊藤博文は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行ない、黒田清隆、山縣有朋の両首相経験者を入閣させ、外務大臣には陸奥宗光を迎えている。

陸奥宗光

陸奥は大隈・青木と同様、国別談判方式を採用し、まずイギリスから交渉を開始しているのだが、明治26年(1893)の12月に「条約励行建議案」を帝国議会で突きつけられている。

この「条約励行建議案」というのは、江戸幕府が幕末に結んだ条約のなかで外国人居留地の問題に着目したものである。
条約では、横浜・長崎・函館・神戸・東京・大阪の各開港地に一定の居留地が設けられ、外国人は居留地以外に住みついたり、自由に旅行することが出来ないと定められていた。
ところが、実際には外国人は、日本国内を自由に歩き回り勝手な事をしている。
そこで、民党は政府に対し、「外国人に厳しく申し入れて条約を守らせるようにせよ」と主張した


陸奥宗光外相はこの民党の主張に反対して、閣議にこのような意見書を提出したという。
「近ごろ、外人の内地雑居に反対するやからが増え、協会を作り、各地で運動し、これに付和雷同するものが増えて、猖獗(しょうけつ)を極めている。反対派にはいろいろな分子もいるが、言っていることは畢竟、攘夷ということである。
 …これは、政府が維新以来一貫してとってきた開国の精神に反するもので、断乎押さえつけねばならない。そうしないと条約改正の交渉にも大きな支障となり、維新以来の宿望たるこの大事業も達成できないかもしれない
。」(岡崎久彦『陸奥宗光 下』p.208)

しかしながら議会では、「条約励行建議案」に賛成する者が多数を占めていた。もし、このような議案が議会で可決されたら、陸奥外相が進めている条約改正の交渉にマイナスになるので、伊藤博文首相は12月30日に議会を解散させ、翌年3月の選挙、5月の議会開催まで時間を稼いだのである。
しかし英国の正式交渉がなかなか進まない。

陸奥は明治27年(1894)3月、英国ロンドンにいた青木周蔵公使(元外相)に次のような書簡を送っている。
国内の事情は、日一日と切迫して、政府が、何か人の目を驚かすようなことをしていることを国内に見せなければ、この騒然たる状況は収まらない。理由もないのに戦争を起こすわけにもいかないのだから、唯一の目標は条約改正であり、せめて公式交渉でも始められるよう、精いっぱい働いてみてください。内政のために外交の成功を促進するのは、本末転倒のきらいがないでもないが、この際、やむを得ません」(同上書p.219)

明治27年(1894)という年は日清戦争が始まった年でもある。6月2日に清国が朝鮮に出兵し、6月4日には日本が朝鮮に出兵した。そして6月5日には大本営が設置されている。
わが国にとっては、日清戦争が始まる前に、妥結目前の日英条約を成立させて日英関係を固めることが重要であった。
また、イギリスにとってもアジアでイギリス勢力を保つために、明治維新以降目覚ましい発展をしてきた日本と手を組むとが国益に叶うと考えられていたようである


陸奥宗光やロンドンの青木周蔵の努力がいよいよ実を結ぶ時が来た。
青木公使は7月12日に最後の交渉を行ない、一旦は14日に調印の運びとなることが決定したが、朝鮮の英国総領事が日本との条約改正の調印を妨害する動きが入る。陸奥は英国総領事の主張していることが事実無根であることを確認して、青木に「条約の調印は、これとは別の問題として速やかに行ってほしい」と訓令している。すると17日にロンドンから電報が入った。

蹇蹇録

岩波文庫に陸奥宗光が著した『蹇蹇録(けんけんろく)』という本がある。
この日の喜びを陸奥はこう記している。
「越えて17日暁天に至り、外務省電信課長は余が臥床(がしょう)に就き一通の電信を手交せり。果然青木公使の来電なり。曰く『今回の困難もまた漸く排除したる上、新条約は7月16日を以て調印を了せり。本使はここに慎みて祝詞を天皇陛下に奉り、併せて内閣諸公に向かい賀意を表す』と。余は直ちに斎戒沐浴して宮城に趨(はし)り 御前に伺候し日英条約調印結了の旨を伏奏し、…青木公使に…電信を発したり。『天皇陛下は貴官の成功を嘉(よみ)し給えり。余はここに内閣同僚を代表し貴官に祝意を表す。貴官は英国外務大臣に向かい新条約締結に付き英国政府の好意を陳謝すべし』と。」(陸奥宗光『蹇蹇録』岩波文庫p.125)

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わが国の謝意の表明に対して、キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだ。

政府は8月25日東京で日英新条約の批准書を交換し、27日に公布した。つづいて各国(条約国15か国)とも同様の条約を調印している。

この条約改正では「治外法権」はなくすことができたが、関税や居留地の問題については充分に解決したものではなかった。しかし、不平等条約の一部とはいえ改正が実現したことの喜びは大きかった。その頃のわが国のマスコミだけでなく議会も条約改正を高く評価している。しばらくWikipediaを引用する。

福沢諭吉

「公布直後の8月28日付『時事新報』では、福澤諭吉が『純然たる対等条約、独立国の面目、利益に一毫も損する所なきもなれば今回の改正こそは国民年来の希望を達したるものとして、国家のために祝せざるを得ず』との社説を掲げ、日英新条約に讃辞を送り、井上・大隈改正案より格段にすぐれていると評価しながらも、かれらの努力があったればこその新条約であるとして交渉担当者の今までの労苦をねぎらっている。8月29日の『東京朝日新聞』社説でも伊藤内閣が絶賛され、9月1日付『東京経済雑誌』も条約改正を手放しで喜んだ。10月18日、大本営の置かれた広島で開催された第7臨時議会では、各派各党とも政府に協力し挙国一致の体制となり、新条約に関する追及や批判はほとんどなかった。
なお、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したといわれている。日本が後顧の憂いなく戦争に突入することができたのは条約改正のおかげだったのである
。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3#.E9.99.B8.E5.A5.A5.E5.AE.97.E5.85.89.E3.81.A8.E6.97.A5.E8.8B.B1.E9.80.9A.E5.95.86.E8.88.AA.E6.B5.B7.E6.9D.A1.E7.B4.84.E3.81.AE.E8.AA.BF.E5.8D.B0

Wikipediaの解説を読むだけでは、なぜわが国と清国が朝鮮半島を舞台に戦うことになったかがピンと来ない。日清戦争については、次回以降のテーマと致したい。
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関連記事

明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか

前回の記事で、陸奥宗光外相らの努力により日清戦争の始まる直前に、英国との間に治外法権を撤廃する条約改正が成就したことを書いた。
150px-1st_Earl_of_Kimberley.png

キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだが、この言葉の意味を理解するためには当時の朝鮮半島のことを知る必要がある。

征韓論

以前このブログで「征韓論争」のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-161.html

大院君

明治政府は欧米諸国が朝鮮半島に進出することを警戒し、鎖国政策を採っていた李氏朝鮮に強く開国を迫ったのだが、当時の同国の実権は国王(高宗)の父・大院君によって握られていて、その外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象とされていたようだ。そのため、同国にわが国が使節を送っても、侮辱され威嚇されて国外に追いだされたという
しかし当時の李氏朝鮮はあまりにも弱体であった。もしこの国がこのまま鎖国を続けていては、いずれ朝鮮半島はいずれ欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立をも脅かされることになってしまう。そう考えて、西郷隆盛や板垣退助が武力を用いてでもこの国を開国させようと政府部内で「征韓論」を唱えたとされ、明治6年(1873)に欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対し、議論に敗れた西郷らは政府を去ったというのが通説になっている。

雲揚艦兵士朝鮮江華島之図・錦絵

しかし、西郷らを退けた大久保らを中心とする明治政府は、明治7年(1874)には台湾に出兵し、明治8年(1875)には李氏朝鮮に向かって公然と武力挑発に出た(江華島事件)うえに、不平等条約(日朝修好条規)締結を強要している。教科書などで記述されているように、大久保ら欧米視察組は「国内改革を優先」しようとしたという内容を鵜呑みにしてはならないのだと思う。

明治政府が朝鮮に対して出力挑発をし、不平等条約を締結したことについて、西郷隆盛が政府を厳しく非難している文章が残されている。
勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に、明治8年(1875)10月8日付けで篠原冬一郎に宛てた西郷の書簡が紹介されているので引用しておきたい。

「…全く交際これなく人事尽し難き国と同様の戦端を開き候議、誠に遺憾千万に御座候。(中略)
一向[ひたすら]彼[朝鮮]を蔑視し、発砲いたし候故(ゆえ)応報に及び候と申すものにては、是迄(これまで)の交誼上実に天理において恥ずべきの所為に御座候。(中略)
何分にも道を尽さず只弱きを慢(あなど)り強きを恐れ候 心底(しんてい)より起り候ものと察せられ申し候。」(『抹殺された大東亜戦争』p.142)
西郷は、大久保らの明治政府がやったことは、日本に開国を迫ったペリーやハリスと同じやり口であり「天理において恥ずべき所為」だと書いているのである。

西郷の考え方が変わったわけではない。もともと西郷は政府にいた時も、西郷は、武力を用いて朝鮮を開国させよとは言っていないようなのだ。
明治6年(1873)6月12日に初めて朝鮮問題が閣議に諮られた時に、板垣退助の「居留民保護の為に軍隊派遣した後に修好条約の談判にかけるべきだ」という発言に対し、西郷は真っ向から反対したという。
次のURLに閣議における西郷の発言が口語訳されているが、西郷は軍隊派遣を明確に否定し、朝鮮には礼を尽くして全権大使を派遣すべきであるとし、その全権大使に自分を任命してもらいたいと主張したのである
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

西郷の考えは内容的には「征韓論」ではなく、「遣韓大使派遣論」「遣韓論」と呼ぶべきとする説があるが、その説の方が正しいのだと思う。
征韓論争で「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と主張して西郷らを退けておきながら、その数カ月後には台湾に出兵しさらに翌年には江華島事件で朝鮮に武力挑発勝利した岩倉や大久保を「内治派」と呼ぶことに違和感を覚えるのだが、歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の良いように叙述されるものであり、敗者や死者には理不尽なレッテルが貼られるものであると考えるしかない。

ではなぜ、当時のわが国で朝鮮半島が重要視されたのか。この点については、菊池寛の次の文章が分かりやすい。
日本列島

朝鮮半島はその地形上、日本列島に対して短刀を擬したような恰好をしている。もし、この地が支那やロシアに占領されたとしたら、その時の日本はどうであろう。脇腹に匕首(あいくち)を当てられたようなもので、たえずその生存を脅威されるであろう。
 朝鮮問題が明治史のほとんど全部を通じて、終始重大問題を孕んだのは、実にこの日本国家の生存という根本に触れたためであって、日清戦争も日露戦争も、全く朝鮮問題を中心として惹起されたのである
。」(『大衆明治史』p.155)

この地政学上の問題は、秀吉の時代も同じことが言えるし、現在のわが国の安全保障についても絡んでくる話であるのだが、この時期の李氏朝鮮は弱体でかつ王朝内部に開国派と攘夷派との対立が深く、ある時は清に靡き、ある時は南下するロシアに屈服するといった状態であったのだ。

もっとも李氏朝鮮に自国を守れるだけの国力があれば明治政府はそれほど深刻に考えなかったのだろうが、当時のこの国はあまりに弱体で、もし清国やロシアが攻め入ったら、簡単に滅ぼされていたことは確実だ。
次のURLに当時の李氏朝鮮の写真が紹介されているが、このいくつかを見ればこの国がいかに貧しかったかが瞬時に理解できる。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

ソウル

イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)

1888年ソウル南大門大通り

明治政府がそんな李氏朝鮮と締結した日朝修好通商条規の第一款には「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とあるのだが、その後もこの国は独立国だという気力も実力もなく、清国は相変わらずその宗主権を主張して隷属国視していたのである

閔妃

李氏朝鮮では1873年に大院君が失脚し、以降、国王(高宗)と皇后(閔妃[びんぴ])が国王親政の名のもとに一族とともに政治の実権を握っていた。後に初代内閣総理大臣となった金弘集(きんこうしゅう)は、明治13年(1880)に修信使として来日して開国の必要性を認識し、国王に日朝支が連携すべきであると進言してそれが閔妃一派に採用され、朝鮮もようやく積極的開国に転じるようになる。翌年には日本から軍事顧問を招き、新式の陸軍を編成するとともに、日本に大規模な使節団を派遣している。金玉均(きんぎょくきん) はその使節団のメンバーであったのだそうだ。
ところが1882年(明治15)7月23日に大院君によるクーデターが勃発し、日本公使館は焼き討ちされ、日本人軍事顧問や公使館員が多数殺害されている。(壬午[じんご]事変)
清国は、閔妃の頼みを受けて乱を鎮圧し、大院君を拉致・監禁することでクーデターは失敗に終わったのだが、以後朝鮮には清国に阿(おもね)る「事大党」が跋扈するようになり、清国はこの事件をきっかけに対朝鮮干渉を強化した
ソウルに3000名の清国軍を駐留させたまま袁世凱に指揮を執らせ、ソウルを軍事制圧下に置き、不平等条約を締結し、条文には朝鮮が清国の属国である事が明記されていたという。そのために、わが国が江華島事件の後で締結した日朝修好条規の効果が吹き飛んでしまうのだ。

呉善花さんの『韓国併合への道』を読むと、この清国の駐留軍がソウルで随分乱暴狼藉を働いたことが書かれている。
駐留清国軍は、ソウル各所で略奪、暴行を働き、多くのソウル市民がその被害にあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくのはては金銭財貨を奪うなどの乱暴狼藉が日常のごとく行なわれたのである。…
中国には伝統的に、軍隊は略奪を一種の戦利行為として許されるという習慣があったから、将官はそうした兵士の乱暴狼藉は見て見ないふりをするのが常だった。…
清国兵士たちの暴状は際限なくエスカレートしていくばかりであった。さすがの清国軍総司令官の呉長慶もそれを放っておくことができなくなり、ついに特別風紀隊を編成して自国軍兵士たちの取締りを行なったほどである。」(『韓国併合への道』p.69-70)

これに対する反動で、1884年(明治17)に甲申事変(こうしんじへん)が起き、再び多数の日本人が犠牲になっている。菊池寛の文章を引用する。

「今度の変は、日本政府の援助を過信した、朝鮮開化党の軽挙に原因しそれに乗じた、支那の駐屯兵と朝鮮軍隊の暴動によって、日本人男女四十余人の惨殺という犠牲を出したのである。
 時の公使、竹添進一郎は直ちに居留民を公使館に集めて、悲壮な演説をして、避難を決行することになった。
 村上中隊長の率いる百四十余名の守備隊と四十余名の警官隊、それが公使館員、家族、居留民百三十名を中央に挟み、三百名の総員が死を決して、城内から脱出しようというのである

…城内光化門にさしかかると、朝鮮兵営から、大砲を二発打って来た。幸い目標は外れ、これに対して日本軍の前衛は一斉射撃を以て応じて、これを沈黙させた。
西大門に達すると、門は堅く閉ざされ、鉄索でごていねいにも封じられてある。
竹添公使はかねてこのことを予想して、大工に斧を持たせてあったので、これを以て打ち破って城外に出で、麻浦から八艘の船に分乗して、川に張った薄氷を砕きながら、仁川に向かって避難して行ったのである。
振り返って京城(ソウル)の空を見ると、黒煙濛々と上り、爆音しきりに起って、凄愴極まりない。これは一行が立退いた後、暴徒が日本公使館に火を放ったのである。
この公使館は、十五万円を投じて前月やっと落成したばかりのもので、京城における最初の洋風2階建ての建築だったのである。」(『大衆明治史』p.160-161)

金玉均

少し補足すると、2年前の壬午事変以降、閔氏一族は親日派政策から清への事大政策へと方向転換していたのだが、それでは朝鮮の近代化は難しいと考えた金玉均らがクーデターを計画して、守旧派の一掃を企てたのがこの甲申事変である。

日本兵は150名だけで1300名の清軍と戦わざるを得なくなったため、形勢は次第に不利となり、竹添公使は撤退の意志を固めて、金玉均らとともに脱出を図った。菊池寛の文章は、その脱出の場面である。
日本公使館は2年前の壬午事変で焼かれて、建て替えたばかりであったのにまた焼かれてしまったのだ。

Wikipedia「甲申政変」に、この時日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民は、特に婦女子30余名は清兵に凌辱され虐殺されたと書かれている。初めて知ったことなので、近代デジタルライブラリーで調べると、たとえば明治43年(1910) に菊池謙譲氏が著した『大院君伝 : 朝鮮最近外交史 附王妃の一生』(日韓書房)のp.132-133にこのような記録がある。(コマ番号91/207)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994464

「…日本居留民の一官舎に逃げ込みし四十余名は或は銃殺せられ石打せられ竹槍にて惨殺せられ、婦人は悉く強姦せられて尚…より竹貫して殺されたるあり、…を斬剥して殺されたるあり、二三の小児と一婦人を除くの外三十九名は清兵の汚辱の為に殺さる。」

このような猟奇的な虐殺の手口は、この事件の53年後に冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)によって日本人居留民の223名が惨殺された通州事件と酷似している。
このような史実を知らずして、なぜ日清戦争が起こったかを真に理解することは難しいと思うのだが、このような史実が日本人にあまり知らされないのは何故なのかを良く考えておく必要がある。

伊藤博文

年が明けた明治18年(1885)、わが国は伊藤博文を全権大使に任じて清国の全権大使・李鴻章と天津で談判し、4月に調印された天津条約では
・日清両国とも4か月以内に朝鮮より撤兵すること
・日清両国とも、朝鮮軍を指導するために軍事顧問は派遣しないこと
・将来朝鮮に重大変乱があり、日清両国において派兵の必要ある時は、まず互いに報告し合うこと
を取り決めている。

この2つの壬午事変甲申事変が起こってから、高宗も閔妃も日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第にロシアに近づくようになっていった。
それを察知した李鴻章は、清国に軟禁していた大院君を、朝鮮に国賓待遇をもって帰国させている。そのことがまた新たな火種となっていくのである。

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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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