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日清戦争で日本軍は、陸も海も連戦連勝だった

明治27年(1894)7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦の秋津洲(あきつしま)、吉野と浪速(なにわ)の三鑑が、会合予定であった巡洋艦の武蔵と八重山を捜していたところ、突然、清国巡洋艦の済遠(サイエン)と広乙が海上にあらわれた。

日清戦争地図

この段階では日清両国で互いに宣戦布告は出されていなかったが、わが国が7月19日に突きつけた5日間の猶予つきの最後通牒への返答がないまま期限が切れており、法的には戦争状態に入っていた。
まもなく豊島沖(ほうとうおき)海戦が始まったが、すぐに済遠が「日本軍艦旗の上に白旗」を掲げて降伏を装った。
広乙は、秋津洲が海岸方面に追い詰めて座礁させると、広乙の艦長は乗員を上陸させたのち船体を爆破させたという。その隙に、降伏したはずの済遠が逃走し、つかさず吉野・浪速が追跡を開始する。

済遠は降伏の意を示したと思えば逃走することを繰り返しているうちに、清国艦隊が合流を予定していた清国軍艦の操江及び英国商船旗を掲揚している汽船の高陞号(こうしょうごう)が海上に出現する。
秋津洲が操江を追撃してこれを拿捕し、逃走した済遠は吉野が追撃したが、済遠が浅瀬に逃げたので途中で追撃を中止したという。

豊島沖海戦

高陞号を追跡していた浪速は空砲2発を撃ち、手旗信号で停船を求め、その臨検を開始した。高陞号は戦争準備行動として、仁川に清国兵約1100名および大砲14門と弾薬を輸送中であった

東郷平八郎 

浪速の東郷平八郎艦長は、中立国である英国の船舶を利用して兵員・武器を輸送することは戦時国際法違反であるため、高陞号に随行命令を発し4時間に亘る説得を試みたが清国兵が拒否したので、高陞号乗組員に危険退避信号を発した後に撃沈し、東郷艦長は、泳いで浪速に向かってきた船員士官全員を救助したそうだ
英国船が撃沈されたことで英国対日世論が一時沸騰したが、上海の英海軍裁判所が浪速の処置が戦時国際法に照らして問題がないと宣言し、英国の国際法学者のトーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキも同様の見解であったことから英国世論は沈静化したという
一方、清国が天津条約を背馳し、日本の最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことが全世界に暴露されたため、清国がこの戦争における侵略者であるというイメージが拡がったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

日本艦隊が豊島沖海戦で圧勝した7月25日に、朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退が要請されている。
7月29日午前8時半頃に日本軍は成歓の敵陣地を制圧し、さらに牙山に向かったが、午後3時ごろに到達すると、清国軍は武器などを放棄して平壌方面に逃亡していたという。(成歓[セイカン]の戦い)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E6%AD%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

そして7月31日にわが国は清国に対し国交断絶を通告。翌8月1日に日清両国は互いに宣戦を布告している
次のURLに両軍の宣戦詔勅の全文と訳文が読めるが、この文章を読み比べると、日清戦争が、朝鮮を独立国として認めさせるか、清国の属国であるかをめぐる戦いであったことが見えてくる。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/062/resi063.html

【日本】
朝鮮は、帝国が其の始に啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。しかるに清国は事あるごとに朝鮮を属邦と称して、陰に陽にその内政に干渉し、今度の内乱があるに於いて、属邦の難を救うという言葉と共に兵を出した。…
<中略>
事はすでにここに至った。平和を以って国の光栄とするを内外に宣言することを常とするが、また公式に戦いも宣言せざるを得ない。よって、国民と政府の忠実と武勇に依頼して、速かに平和を回復し我が国の光栄を全うするように。」

【清国】
朝鮮は我が大清国の属藩として二百余年、貢を歳に修めていることは国の内外で知るところである。…
 <中略>
厳しく装備して各軍を派出し、迅速に討伐し、雄師を厚く集めて陸続進発し、以って韓民が塗炭にあるを救い、また沿川沿海の各将軍を督励して軍大臣に厳に整えさせ、倭人の軍艦が各口に入ることがある時には、即ち迎えて痛撃を行い、数を尽して殲滅する。
決して罪を犯し背いて退くことなかれ。」

640px-Battle_of_Pyongyang_by_Mizuno_To.jpg

宣戦布告のあと清国は、日本軍の北進を阻止するために平壌に軍隊を集結させていた。
9月15日に日本軍の平壌攻略戦が始まったが、夕刻には清国軍は白旗を掲げ降伏を装い、休戦後に退却すると書状を届けて、夜陰に紛れて城から逃亡したという。(平壌[ピョンヤン]の戦い)

於黄海我軍大捷第一図

また9月17日には清の北洋艦隊が大狐山沖合で訓練をしていたところに、索敵中のわが国の連合艦隊が遭遇し、12時50分に北洋艦隊の旗艦・定遠の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた。
海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は134発の被弾を受けたが沈没艦はなく4隻の大・中破にとどまり、一方、北洋艦隊は5隻が沈没し6隻が大・中破、2隻が座礁した。(黄海海戦)

10月に入ると、山縣有朋陸軍大将を司令官とする第一軍は鴨緑江を超えて満州に進み、下旬には九連城、鳳凰城を陥れている。(鴨緑江作戦)
また大山巌陸軍大将を司令官とする第二軍も、遼東半島の花園口に上陸し、金州・大連湾を攻略し、11月21日には旅順を占領した。(旅順口の戦い)

明治28年(1895)1月には、日本軍は山東半島の威海衛(いかいえい)に集結していた清軍の北洋艦隊の敗残の軍艦への攻撃を開始。30日に威海衛湾の南岸要塞を制圧し、2月1日には北岸要塞などを占領。また海軍は水雷攻撃で清軍の旗艦・定遠をはじめとする諸艦を撃破し、清の北洋水師は全滅した。(威海衛の戦い)

李鴻章

その勢いで日本軍は3月には遼東半島に兵を進め半島全域を占領し、いよいよ首都北京に迫らんとしたために、とうとう清は3月19日に全権大使李鴻章をわが国に派遣し、下関で講和にむけての交渉を開始させたのである。日本側の全権大使は伊藤博文であった。
その日清両国の交渉の詳細が公文書に残されていて、次のURLでその口語訳が読める。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/062/resi072.html

21日の交渉で日本側は、休戦の条件として、まだ制圧していない太沽、天津、山海関を日本軍が占領し天津、山海関の鉄道を支配すること、休戦期間中は清国が日本国の軍事費用を負担するとの強気の交渉を行なった。
24日に李鴻章全権大使は日本側の休戦条件を拒否したのだが、その会議の後でとんでもない事件が起こる。
この李鴻章が会議を終えて旅館に戻る途中で、26歳の小山六之助という人物がピストルで李鴻章を狙撃したのである
幸い命には別状はなかったが、この事件は講和会議の流れに多大なマイナス影響を与えることになった。

当時外相であった陸奥宗光が『蹇蹇録(けんけんろく)』でこう書いている。
「この事変の全国に流伝するや、世人は痛飲の情余りてやや狼狽の色を顕わし、我が国各種公私の団体を代表する者と一個人の資格を以てする者とに論なく、いずれも下ノ関に来集し清国使臣の旅館を訪いて慰問の意を述べ、かつ遠隔の地にあるものは電信もしくは郵便に由りてその意志を表し、あるいは種々の物品を贈与するもの日夜陸続絶えず、清使旅寓の門前は群衆市をなすの観あり。これ一兇漢の所為は国民全般の同情を表せざる所たるを内外に明らかにせんと欲するに出づるものなるべく、その意固(もと)より美しといえども往々徒(いたずら)に外面を粉飾するに急なるより、言行あるいは虚偽に渉(わた)り中庸を失うものもこれなしとせず。…
…昨日まで戦勝に浮かれ狂喜を極めたる社会はあたかも居喪の悲境に陥りたるが如く、人情の反覆、波瀾に似たるは是非なき次第とはいえ、少しく言い甲斐なきに驚かざるを得ず。李鴻章は早くもこの形情を看破したり。…」(『蹇蹇録』岩波文庫p.265)
この事件のために世論は李鴻章に同情的となり、新聞の論調までがすっかり変調してしまったのだ。

この段階では日本軍はまだ戦闘を止めてはいなかったのだが、もし李鴻章がこのまま帰国し、欧米列強の同情を得るような動きをすれば、わが国は欧米列強の干渉を受けて立場が悪くなるばかりだと、陸奥はこの事件におけるわが国の反応を、深刻に受け止めていたのである。
このような日本国民の外交というものに対する単純な甘い考え方は、戦後になっていくつかの国に対して、事実も確認しないまま相手国の言いなりに子供じみた謝罪外交を繰り返してきたわが国の外交姿勢や、その様な対応を支持してきたマスコミの報道姿勢にもつながるところがあると思うのだが、今の政治家や外務官僚やマスコミは、もっと明治時代の政治家の外交交渉の厳しさを学んでもらいたいものである。

この事件があって、日本側は講和条件の緩和を余儀なくされ、3月30日には李の要望する休戦を合意することとなる。
日本軍が休戦ともなれば李鴻章からすれば講和条件の決定を急ぐ理由がなくなり、李は一般論を押し立ててのらりくらりと要領を得ず、日本側は手を焼いたようだ。
陸奥は伊藤全権に対し、こんな空論で時日を浪費すべきではないと迫り、単刀直入に押し切るよう力説したという。

下関会議

しばらく菊池寛の文章を引用したい。講和交渉が決着する場面である。

「『講和談判は、普通の談判とは訳が違うから、清国全権は逐条的に諾否の返答を承りたい』と伊藤は陸奥の指示通りに、李鴻章に迫って行った。その傍(かたわら)には、いつも黙々として剃刀と言われた眼を光らせながら陸奥が穴のあく程、李の顔を瞠(みつ)めているのである。これには李も得意の大風呂敷をひろげることは出来ない。すっかり気を呑まれてしまった。
一、清国は朝鮮の独立を認めること
一、遼東半島、台湾、および澎湖島を全部日本に割与す
一、軍費賠償として、庫平銀二億両(テール)を支払うこと
一条また一条と、具体的に決まって行った。償金の件では、李は執拗にねばった。
『請将賠款大減』(償金はうんとまけて下さい)
いとうもさるもの、笑いながら首を振り、
『不能再減』(此の上まけられん)
和議が全く成立して、両国全権の調印したのは4月17日であった。4月21日には、平和回復の大詔が渙発され、国民は歓呼の声に酔ったのであるが、それは僅かに1週間と続かなかった。霹靂の如く、国民の頭上を脅したのは、露独仏の三国干渉であった。」(『大衆明治史』p.189-190)

講和が成立して日本国民は喜んで当然なのだが、清国の方では囂々たる反対で沸き返ったという。そこで「夷を以て夷を制す」という中国の伝統的な外交術を用いて、清国は外国の力を得て日本を追い払おうと考えたのである。
一方、南進を企むロシアは、わが国が遼東半島を領有することを認めるわけにはいかず、それを阻止するために武力行使も辞さない方針を早い段階で固めていたようだ。
三国干渉については次回に記すことにしたい。

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関連記事

三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか

世界の予想を裏切ってわが国は清に圧勝し、講和談判が下関で行われて、明治28年(1895)4月17日に講和条約(下関条約)が調印された。

下関条約で得た領土

この条約によって清国はわが国に
①朝鮮の独立
遼東半島・台湾・澎湖島の割譲
③賠償金2億両(テール:当時の日本円で3億1000万円)の支払い
などを認め、わが国は戦勝の喜びに沸いたのだが、清国ではその逆で囂々たる反対で沸き返ったという。

中村粲(あきら)氏は清国の動きを著書でこう述べている。
「例えば、当時湖広総督(湖南・湖北両省を管轄する)の要職にあった張之洞は『速やかに英露独諸国に利益を与えて実力援助を乞うべし。重酬(手厚い報酬)を与え、決して惜しむべからず。英露独はいかなる報酬を与えても中国を距(さ)ること遠く、これを日患(日本による禍い)に比すれば甚軽なり』という驚くべき意見を上申している。英露独に望むままの報酬を与えて、その援助で日本の講和条約を破棄すべしというのであるから、日本を追い出すために狼を室に入れるようなもので、浅慮というほかない。だがこれが、李鴻章とともに清朝政治家の双璧と言われた人物の講和反対論なのであった。」(『大東亜戦争への道』p.62)

英国は、武力行使をしてまで日本を干渉することは出来ないとして外れて仏国が参加することになったが、下関条約調印から1週間もたたない4月23日に、露仏独の三国が、わが国が条約で獲得した遼東半島を放棄せよと「勧告」してきたのである。ロシア公使の勧告は「遼東半島を日本が領有することは清国の首都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするものので、右は極東平和に障害を与えるものである」と述べ、その上でわが国に対して遼東半島の放棄を勧告するという内容で、仏独の勧告もそれと同様な文面であったようだ。(三国干渉)

中村粲氏の著書を再び引用するが、清国の張之洞に関する次の記述を読めば、日本人なら誰もが戦慄するに違いない。

張之洞

三国干渉が行なわれるや、張之洞は再び講和条約の廃約を皇帝に上奏した。…
曰く『三国に援を乞うならば空言を以てせず、必ず割地(領土割譲)を実利を以てすべし』と。『威海衛と旅順と台湾は倭(日本の蔑称)に与えるよりは露英に与うべし』とし、『倭を脅かして条約を廃約にした暁には、露には新疆あるいは天山南路か北路の数城を与え、英にはチベットを与えるべし』とまで進言した
 のみならず張は『露英いずれかの艦隊を以て横浜か長崎、あるいは直ちに広島を襲わんか、倭国は挙げて震駭(しんがい)すべし。故に露英一国の援助あらば中国は刀に血ぬらずして条約は自ずから廃滅すべし』との強硬論を主張した。(古川暁村『近代支那外交秘録』)」(『大東亜戦争への道』p.63)

このような清国の動きはあるものの、もともと列強諸国は清朝の衰退に乗じて、清国領土の分割を虎視眈々と狙っていたことを忘れてはいけない。清国の張之洞の戦略にロシアが飛びつくことは当然のことである。

佐々木揚氏の論文『露朝関係と日清戦争』がネットで公開されていて、そこにはこう書かれている。
「4月初め日本が遼東半島割譲を含む講和条約案を開示すると、4月8日ロシアは遼東半島放棄を日本に勧告することを英独仏に提案した。独仏はこれに同意したが、イギリスは対日武力行使はできぬという判断に立ち、これを拒んだ。ロシア政府は11日特別会議を開き、…この際ヴィッテ蔵相は、日本の対清戦争はシベリア鉄道建設の結果でありロシアを指向したものであると論じ、同鉄道の建設により近未来の清国分割競争でロシアが優位を占めるという観点に立って、今は日本に対し武力を行使してでも干渉を行ない、日本の南満州進出――これは早晩日露衝突をもたらす――を阻むべきであると主張した。会議はこの主張を採用して対日干渉を決定し、独仏の同意を得て、4月23日に三国干渉が実現する。」(『露朝関係と日清戦争』p.142)
佐々木氏は水面下で清国が動いたかどうかについては触れていないが、清国からの要請があったにせよなかったにせよ、ロシアが、下関条約が締結されるかなり前から水面下で動いていた事実は重要である。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0CCkQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fyk_namiki%2Fstock%2F050916%2Fjapan_korea_history%2Fcontemporary%2F03-0j_sasaki_j.pdf&ei=WW05U5C7Bs2ykgXRsoCgAg&usg=AFQjCNE1jnE5SKXm6pjQuj0u2ln5u9OO4g&sig2=XDLDLQ7CuL28S-I5oY6gLg&bvm=bv.63808443,d.dGI

以前このブログで、1885年(明治18年)に英国東洋艦隊が、突然朝鮮半島南方沖の巨文島(こむんど)を占領したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-308.html
この流れからすれば、英国もロシアの申し出を受けて遼東半島に拠点を作る話に乗ってもおかしくなかったし、実際に1895年(明治28)2月7日のロンドンタイムズの社説には「欧州諸国は、支那大陸の寸土たりとも、日本に許与すべきではない」と主張していたという。それが3月15日には遼東半島を手に入れる日本の講和条件を、「欧州人も認めてやらねばならぬ」と大きく論調を変えている。論調を変えたのは、英国がロシアから提案のあったわが国に対する共同干渉の提案を拒んだのと同じ理由のはずだ。

菊池寛

菊池寛はこう解説しているが、その通りだと思う。
「その理由はどこにあるか、英国の現実、実利外交というものを、われわれはここにも見なければならない。
 英国は初め、日本の勃興を、英国東亜政策の妨害者として、これを抑えようとした。ところが、次第に日本の進出より、露国が南下して北部支那に勢力を得ることの方が恐ろしいと感じたのである。戦争の進展とともに、略々明らかとなった新興日本の実力を利用して、この際露国の南下に備えた方が、得策であると考えたのである
 ロシアはただ支那にたいしてばかりでない。英領印度を常に北から脅かしている。英国の勢力下にある近東アフガニスタンに於いては、英露の角逐戦はすでに年久しい。バルカン地方では如何。ここでもトルコなどを中心に、英露はクリミヤ戦争をやっている。
 英国としては、その世界帝国完成のため、どうしてもロシアの鋭鋒を、あらゆる形で破砕しなければならぬ。その一つとして採りあげられたのが、極東における新興日本への接近だったのである。これが後の日英同盟の起点になるのである。
だから、日本に対する共同干渉案に対して、英国閣議は次のような回答を露国に与えている。
『英国の東亜における利害は、日本の講和条件によって損害を蒙ることはないから、共同提案には参加せぬ。』
」(『大衆明治史』p.196-197)

英国が「紳士の国」であったから、わが国を干渉しようとするロシアの誘いに乗らなかったのではない。英国は極東利権を守るために、わが国を英国の番犬にしようとしたと言えば言い過ぎであろうか。

また、わが国の教科書などには、露仏独の三国干渉に対して、「わが国は戦うだけの力がなかったのでやむなくこの勧告を受け入れた」と書かれているのだが、こんな重要な事が簡単に決まるはずがないのだ。実際にはわが国の政府内では激論が交わされていたのだが、なぜか、その内容がほとんど現在の日本人に知らされていないのだ。では、いったいどんな議論があったのか。

もちろん当時のわが国の連合艦隊では露仏独の艦隊に到底対抗することは出来ず、さらに陸軍の精鋭は遼東半島にあって国内は空っぽであったので、もし、三国連合艦隊に守られてウラジオストックからロシアを中心とする軍隊が侵攻してきたとしたら、わが国の国土防衛は不可能であった。
とは言いながら、わが国が三国の圧力に屈して簡単に遼東半島の放棄を決めては、国内世論が許さないことは目に見えていた。

4月24日に伊藤博文は、山縣、西郷その他の軍幕僚を集めて広島で御前会議を開き、列国会議を開いて遼東半島問題を付議しようという結論を出している。翌朝伊藤は、舞子で療養中のために御前会議に参加できなかった陸奥宗光を訪ねている。陸奥は伊藤らが出した御前会議の結論に反対して自説を述べているのだが、これがなかなか面白い。

陸奥宗光

菊池寛の文章をしばらく引用する。
「『…列国会議招請とは何です。仮に会議を開いたとしてみる。彼等はめいめい自国の利害を第一に論争するからその結果は遼東半島放棄だけでは済みませんぞ。台湾も支那へ還せと言い出すに決まっておる。償金も多すぎると文句を言うだろう。これでは藪をつついて蛇を出すようなものです。』
蒼白の顔を歪めながら、陸奥は最後に、
『しかしここに切札があります』
と言って、露独仏の三国に対して、英米伊の三国を誘致して、三国を牽制するの策を打ち明けた
 そして陸奥は病床から、一切の外交を指揮することにして、英国公使加藤高明、駐伊公使高平小五郎の活躍を命じた。
 この際、最も日本に好意を示したのは伊太利で、自ら進んで英米に働きかけ三国干渉の不合理を是正しようと試みてくれたが、英国は絶対にこの事件には介入せずの態度のため、伊太利一国ではどうすることも出来なかった。
 こうしている間にも、露国の態度はますます高圧的で、着々とその戦備を整え、ウラヂボストックを臨戦地と宣言し、黒龍江地方に出師準備を命じ、必要の場合には、日本人の立退を命ずる用意ある旨を宣言するに至った。
ここに至っては、万事休すだ、外交手段には一定の限界があるのである。背後に厳然たる軍備のないと
き、陸奥の神謀も、結局は悪あがきに過ぎない。
5月5日、…回答が三国に向かって発せられた。
『日本帝国政府は、露独仏三国の友誼上の忠告に基づき、奉天半島を永久に占領することを放棄するを約す』
 明治天皇は5月10日、大詔を渙発し、遼東半島還付を国民に告げたもうた。国民は等しく悲憤の涙にくれて、臥薪嘗胆を誓うの外はなかったのである。

 遼東半島還付のことが知れると、国民は囂々(ごうごう)として、伊藤陸奥の外交の失敗を難じて止まず、長く議会の問題となって残った。また山縣有朋は、勅命を奉じて5月1日には旅順に渡り、現地軍人の慰撫にあたったほどである。」(『大衆明治史』p.201-202)

陸奥は、英米伊と交渉して露独仏を牽制するという策がうまくいくとは考えていなかったであろう。しかし、陸奥が伊藤に言いたかったのは、最後の覚悟をする前に、八方手を尽くして解決の努力をしなければならないということだった。

陸奥は、病床から指示を飛ばして、駐露、独、仏の日本大使に電報させ、それぞれの国の説得に尽させる一方、英米伊の三国にも事情を説明して、何らかの援助を得られるか打診している。結果としては、陸奥の英米伊三国が露独仏の三国を牽制する案は実現しなかったのであるが、陸奥自身はこの結果について『蹇蹇録(けんけんろく)』に、こう記している。

「…事の成敗はともかくも、この際我が在外各外交官の苦心努力は決して徒労に非ざりし。吾人はよって以て露、独、仏三国連合が如何なる原由に成立せしかを知得し、よって以てその干渉の程度は如何に強勢なるかを知得し、また他の第三者たる諸国がこの事件に関する意向如何を確知し、かつ仮令(たとい)その実力上の強援を獲る能(あた)わざりしも、なおその徳義上の声援を博し、隠然露、独、仏三国を牽制し得たり。」(岩波文庫『蹇蹇録』p.317)

蹇蹇録

さらに陸奥の『蹇蹇録』には重要な事が書かれている。
「…この頃清国は既に三国干渉の事を口実とし、批准交換の期限を延引せんことを提議し来たれり。而して清国がこの提議をなせしは全く露国の教唆に出でたることはすこぶる信拠すべき事実あり。かかる形勢を何時までも継続するときは、ここに外交上両個未定の問題を錯雑せしめ、遂にいわゆる虻も蜂も捕捉し得ざるの愚を招くの虞(おそれ)あり。」(同上P.320)
冒頭で下関条約を4月17日に調印したことを書いたが、なんと清国は調印をしたこの条約の批准を延期することを提議してきたというのだ。
批准とは、全権委員が署名調印した条約を、締結国の元首その他国内法上定められた者が確認をする手続きであり、批准により当該条約に拘束されることへの同意を最終的に示すことなのだが、この手続きを踏まないとこの条約の効力が生じないことになる。すなわち、朝鮮の独立も、台湾・澎湖島の割譲も、賠償金の支払いも、すべてが宙に浮いてしまうことになる。清国はそれを狙って三国干渉を仕掛けようとしたのではないか。

わが国は5月4日の閣議で、露独仏三国に対しては譲歩をしても、清国に対しては一歩も譲らない方針を固め、同日「日本は、三国の忠告にもとづいて遼東半島の永久所有を放棄することを約束する」という簡明な覚書を作り三国に伝達し、5月9日にロシアよりわが国の覚書を是とする回答を受領して、わが国が攻め込まれるという危機がようやく去ったのである

清国は批准書の交換をできれば引き延ばしたかったようだが、遼東半島が還付する旨の確約があり、休戦期間が終わって日本軍の一斉攻撃が再開される状況の下ではどうしようもなく、さらに露独の両公使から批准書交換は予定の日程でやるべきであるとの警告を受けて、5月8日に予定通り批准書の交換が行われたのである。

もしわが国が、三国干渉直後に露独仏や英米伊と交渉をなさず、早々と露独仏の要求を呑んでいたとしたら、清国は批准書の交換をしたであろうか。また国民はそのような政府の軟弱な外交姿勢を許しただろうか。
この時代の外交をリードしたのは陸奥宗光だが、露独仏の三国干渉を受けながら、清国からの戦勝の結果を失わず、かつロシアとの戦争を避け、さらに国民世論を納得させるという交渉はかなり難易度が高かったことは間違いがないのだ。これを切り抜けた外交力・政治力はもっと評価されても良いのではないかと思う。

しかしながら、北京侵攻さえ望んだわが国の世論が、屈辱の三国干渉に容易に納得するはずがなかった。誰が根回ししたかはよく分からなかったのだが、5月10日に明治天皇が「遼東還付の詔勅」を出しておられる。この日は日清両国が下関条約の批准書を交換した翌々日であり、わが国が遼東半島を還付する旨の覚書を露独仏三国に出してその回答が来た翌日でもある。かなり前から準備していなければこのようなタイミングで詔勅を出すことは難しいと思われる。
『近代デジタルライブラリー』の次のURLに、この「遼東還付の詔勅」の画像を見ることが出来る。
http://www.jacar.go.jp/nichiro/djvu_doc/a03020190800/directory.djvu

遼東還付の詔勅号外記事

この詔勅で、明治天皇自らが「深く時勢の大局に見、微を慎み漸を戒め、邦家の大計を誤ることなきを期せよ」と、激昂した世論を鎮められ、国民に隠忍自重を諭されたのである
今の時代はこのようにはいかないとは思うが、この時代は天皇陛下の詔勅は人心を鎮静化するのに甚大な効果があったようだ。
例えば大阪朝日新聞は「大御心の深きに対し奉り、ただ血涙あるのみ。読み終わりて嗚咽(おえつ)言う所を知らず。帝国臣民たる者、宜しく沈重謹慎、以て他日の商定を待つべきのみ」と書き、福沢諭吉は時事新報上で「世界の勢いに於いて今はただ無言にして堪忍する外あるべからず」と書き、この詔勅の論旨と歩調を合わせている。

その後わが国は軍事力強化をはかることとなり、一方の清国はロシアの満州支配が進み、さらに西洋列強によるあからさまな利権争奪が始まって、急激に衰退していくことになる。
清国の悲劇は、「夷を以て夷を制す」の術策で露独仏の三国を利用したことから始まったと考えて良いのではないだろうか。
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遷御の儀を終えた伊勢神宮の外宮から内宮を訪ねて

毎年桜の咲く季節になると、どこか桜の名所やその近辺の社寺仏閣の歴史を調べてブログの記事を書いているのだが、先日、昨年の10月に式年遷宮の遷御(せんぎょ)の儀を済ませた伊勢神宮の外宮・内宮や、近辺の重要文化財や桜の風景などを訪ねてきたので、そのレポートをさせていただく。

伊勢神宮については、2つの正宮である外宮(げぐう)と内宮(ないぐう)しか知らなかったのだが、他に14の別宮(べつぐう)があり、さらに43の摂社、24の末社、42の所管社があって、この合計125社の総称を「伊勢神宮」と呼ぶのだそうだ。

これだけ多くの場所を巡ることはとても無理なので、どこを参拝しようかと旅程を組んでいた時に、そもそも伊勢神宮の外宮と内宮とはどちらを先に参拝すべきなのかが気になったので調べていくと、「外宮先祭(げぐうせんさい)」という言葉があることを知った。

「外宮先祭」とは、伊勢の神宮の諸祭事はまず豊受大神宮(外宮)を先に行い、続いて皇大神宮(内宮)を行いなさいという意味なのだが、参拝もその順序でするべきだという説がネットでは多数ヒットする。
しかし、次のURLの記事などを読むと、祭事によっては「内宮先祭」であることもあり、参拝順についてはとくに取り決めはなく、絶対に外宮から内宮の順に参拝をしないといけないというものではなさそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20131005

また平成25年1月28日の「神社新報」にはもっと具体的に書かれていて、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)の神饌奉奠や祝詞、神宮最大の神事である式年遷宮の諸祭は内宮が先に斎行され、恒例祭典で一番重要な神嘗祭は古くから外宮が先に奉仕されるので、どちらの優先順位が高いというものではないのだが、慣例的に皇族方の御参拝をはじめ、多くの公式な参拝は外宮、内宮の順で行われるのだという。

伊勢街道

しかし、これは伊勢湾沿いに伊勢街道を進み、津、松阪などを経て伊勢神宮方面へと進むと、外宮が先になるのは自然の成り行きでもあるので、特に深い意味があるとは思えない。
http://itakiso.ikora.tv/e866532.html

そもそも外宮の参拝が優先すべきものであるならば、外宮の参拝者が内宮より多くなければ理屈に合わないことになる。
「伊勢市の観光統計」で調べると、太平洋戦争の頃は、内宮の参拝客が年間約350万人、外宮は約400万人だったのだが、昭和40年代以降外宮の参拝客が大きく落ち込んだ一方で内宮の参拝者が増加し、平成24年の参拝者の数は内宮が551万人、外宮は252万人で、内宮の参拝者が外宮の倍以上多いことが分かる。
http://www.city.ise.mie.jp/secure/12124/24kankotoukei.pdf

このことは、近くに賑やかな「おはらい町」や「おかげ横丁」があって、食事や買い物で楽しめる内宮だけを参拝して、外宮には足を伸ばしていない観光客が半分以上であることを物語るのだが、昨年秋に遷御の儀を終えたばかりの真新しい社殿を参拝して、わが国の古き伝統文化の重みと静寂なる神域の厳かな雰囲気を感じたいので、今回は内宮・外宮はもちろんのこと、別宮もいくつかを訪ねてみたいと考えていた。

どちらから先に行っても良いのだが、昔の参拝者と同様に、伊勢街道の道順に宮川から外宮に進むことにし、外宮参拝の前に宮川堤の桜を楽しむことにした。

宮川堤の桜1

宮川堤は古くから桜の名所で、明治時代に橋が出来るまでは渡し船が活躍し、現在の宮川橋あたりにあった渡船場を往復する船を「桜の渡し」と呼んだという。
この桜は『日本さくら100選』に選ばれていて、土手には千本近い桜が、南北1キロにわたってほぼ満開状態だった。

宮川堤から2kmも走れば、外宮に到着する。
外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)とも言い、御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神である豊受大神(とようけのおおみかみ)である。

以前このブログで天橋立の近くにある元伊勢籠神社*(もといせこのじんじゃ)のことを書いたが、平安時代に書かれた『止由気宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によると、第二十一代雄略天皇22年7月に、豊受大神は元伊勢籠神社からこの場所に遷座したのだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html

外宮北御門鳥居

上の画像は外宮の駐車場の近くの北御門の鳥居だが、建て替えられたばかりの真新しい鳥居をくぐると随分清々しい気持ちになれる。

外宮正宮

参道を歩いて正宮(しょうぐう)に至る。昨年の10月5日に遷御がなされたばかりで、屋根も柱もまだまだ美しい。
外宮の社殿の中心である正殿(しょうでん)の周りには4重の御垣がめぐらされていて、参拝客は外玉垣南御門の前で参拝をするのだが、そこからは正殿を見ることが出来ず、外玉垣南御門から右ないし左に行っても、わずかに正殿の屋根の一部が見えるだけだ。

正宮は参拝者が神に感謝の意を伝える場所で個人的なお願い事をする場所ではないという。従って外宮にせよ内宮にせよ正宮には賽銭箱が存在しない。
個人的なお願い事は、第一の別宮(外宮:多賀宮、内宮:荒祭宮)でするのだそうだ。

内宮も外宮も正殿は「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」と呼ばれ、掘立柱・切妻造・平入の極めてシンプルな構造だが、内宮と外宮の違いは鰹木(かつおぎ)の本数と千木(ちぎ)の形にある。

内宮と外宮の違い

鰹木というのは屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材を呼ぶが、外宮の正殿は9本、内宮の正殿では10本になっている。正殿以外の建物についても、また別宮も摂社においても、外宮の鰹木の本数は奇数で内宮は偶数になっているという。
千木というのは屋根の両端で交叉させた部材だが、外宮では千木の先は垂直に切られていて、これを外削(そとそぎ)といい、内宮では水平に切られていて、これを内削(うちそぎ)と言うのだそうだ。
鰹木や千木は他の神社の社殿にもあるのだが、祭神が男神の社は鰹木の本数が奇数で千木は外削ぎ、祭神が女神の社は鰹木の本数は偶数で千木は内削ぎとするのが原則のようだ。しかしながら、伊勢神宮・外宮の祭神である豊受大神は女神でありながら、正殿の鰹木の本数は9本で千木は外削ぎとなっていて、その例外になっている。

外宮古殿地

正宮の東隣は古殿地で、昨年まで正宮であった建物が残っている。いずれ撤去されて、19年後には今の場所から正宮が移されることになる。
20年も経てば、こんなに屋根が苔むしてしまうのだ。

外宮多賀宮

正宮の南側の神域内には、豊受大神の荒御魂(あらみたま)を祀る多賀宮(たかのみや)、山田原の土地と伊勢市内を流れる宮川の洪水から堤防を守る大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀る土宮(つちのみや)、風雨を司る級長津彦(しなつひこ)命と級長戸辺(しなとべ)命を祀る風宮(かぜのみや)の3つの別宮がある。土宮と風宮はまだ遷御が終わっていなかったが、多賀宮は昨年10月13日に遷御がとり行なわれたばかりで、真新しい社殿で参拝すると随分清々しい気持ちになる。
今後の別宮の遷御の日程がWikipediaに出ているが、今年の10月から12月にかけて執り行われるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

外宮せんぐう館

外宮の勾玉池池畔に「せんぐう館」という施設が一昨年にオープンしたので、立ち寄ったが、外宮正殿の東側の4分の1部分を原寸大で再現した模型や外宮殿舎配置模型のほか、式年遷宮が伝えてきた技術や文化が分かりやすく展示されている。式年遷宮によって伝えられているのは建築技法だけではなく、御装束神宝の加工・調整にかかわる匠たちの伝統技法も含まれることは初めて知った。展示品も豪華だが、景観もなかなか素晴らしい。

月夜見宮

外宮の境内を出て駐車場から800mほど北に歩くと、外宮の別宮の1つである月夜見宮がある。
祭神は月夜見尊(つきよみのみこと)と、その魂の月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)の2神で、外宮の境外別宮は月夜見宮1社のみである。
外宮から離れた場所にあるため、ここまで足を運ぶ観光客はかなり少なく、自然に囲まれて静かな伝統的社殿で、祈りの空間を独占できるのも良い。

てんこもり海鮮丼

月夜見宮の参拝を済ませた後、昼食に向かう。
ネットで見つけた「てんこもり海鮮丼」が食べたかったので「花」という店に入ったが、新鮮な魚介類がふんだんに盛られていて、期待通りに旨かった。

続いて、内宮に向かう。内宮の入口に近い駐車場が満車で順番を待つ車の列が長かったので、途中で引き返して猿田彦神社の近くの駐車場に車を停めたが、もともと内宮参拝の後でおはらい町を歩く予定だったので、その方が正解だった。次のURLに駐車場の地図があるので、車で内宮に行かれる方は印刷して持参されることをお勧めしたい。
http://www.city.ise.mie.jp/parking/

内宮宇治橋

内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)ともいい、祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)である。
言うまでもなく、天照大神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは皇居内に祀られていたそうなのだが、その状態を畏怖した同天皇が理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継ぎ、垂仁天皇25年に現在地に遷座した旨が『日本書紀』巻第六に記されているし、詳しくは『皇太神宮儀式帳』および『倭姫命世記』に記されているという。
内宮のご神体は「三種の神器」の1つである八咫鏡(やたのかがみ)で、正殿に安置されているのだそうだ。

内宮神苑桜

雨が止んだばかりのタイミングということもあったが、内宮は外宮よりもはるかに参拝客が多かった。
五十鈴川に架かる、全長約108mの宇治橋を渡るとすぐに神苑があって、桜が見ごろを迎えていた。

五十鈴川

一の鳥居をくぐり手水舎でお清めをしたのち、五十鈴川の流れに手を浸して、清らかな気持ちで正宮の参拝に向かう。
内宮正宮

ここが内宮の正宮である。昨年の10月2日に遷御の儀を終えたばかりで、社殿はいずれも真新しくて清々しい。
社殿の中心である正殿は五重の垣根に囲まれていて、外宮の正宮と同様に、正面からは正殿を見ることが出来ない。

宮域内には、皇大神宮の荒御魂を祀る荒祭宮(あらまつりのみや)、風雨を司る級長津彦命と級長戸辺命をまつる風日祈宮(かざひのみのみや)が別宮として鎮座している。

内宮荒祭宮

荒祭宮は昨年10月10日に遷御の儀を終えた、真新しい社殿である。参拝客が順番待ちだった。

風日祈宮は、内宮神楽殿前から南方へ向かう参道にある風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)で五十鈴川支流の島路川を渡った先にある。この風日祈宮は、古くは末社格の風神社であったが、弘安4年(1281)の元寇の時に、神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格したのだそうだ。

おはらい町

内宮の参拝を済ませて、「おはらい町」に入る。五十鈴川に沿って続く、およそ800mの石畳の通りに江戸時代の町並みが再現されてレトロな雰囲気が楽しい。
おはらい町の中ほどには、江戸期から明治期にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築・再現された「おかげ横丁」もある。赤福の本店など多くの店舗が立ち並び、いつ来てもよく賑わっている。

旧慶光院客殿

「おかげ横丁」で少し遊んでから、「おはらい町」を北に進むと、非公開ではあるが国の重要文化財に指定されている建物がある。華やかな桃山時代の様式を伝えている貴重な建物なのだそうだが、以前はこの建物は尼寺であったという。

この尼寺と伊勢神宮との関係について書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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