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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

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柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

関連記事

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア

義和団は北京や天津だけで暴動を起こしたわけではなく、清の朝廷が彼らを義民として庇護したことからたちまち勢力範囲を拡げて、満州地区にも波及していった。

かねてから満州全域への進出を狙っていたロシアは、建設中の東支鉄道(東清鉄道ともいう)保護を名目にシベリア方面と旅順から大軍を送り込み、1900年7月13日から満州侵攻を開始したのだが、このタイミングに注目したい。

前回まで2回に分けて北京の公使館区域が義和団と清兵に囲まれて、柴五郎らが籠城戦を戦ったことを書いたが、ロシアの満州侵攻はその最中の出来事なのである。
北京に20万人ともいわれる義和団が入城して6月に公使館区域を取り囲み、清国が列国に宣戦布告したのが6月21日。8ヶ国連合軍が天津を占領したのが7月14日。そして連合軍が北京に到達し総攻撃を開始したのが8月14日だ。清国にとっても他国にとっても、こんな時期に満州に兵を送るような余裕はなかったであろう。

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宮脇淳子著『世界史からみた満州帝国』にはこう記されている。
「ロシアの東清鉄道敷設は、1897年夏、ハルビンを起点にはじまっていた。工事開始直後から、土地の強制収奪に反対する農民の自衛組織と、鉄道建設によって生活の糧を奪われる運送業者が、ロシアに対するゲリラ戦を展開していた。
 満州に移住した中国人たちの郷里、山東で起こった義和団運動の報が1899年秋に伝わると、工事妨害の小競り合いは、清国正規軍もまきこんだ外国人排斥の大暴動に転化し、教会がおそわれ、鉄道の組織的破壊がはじまった。このときロシアの陸軍大臣クロパトキンは『願ってもない好機だ、これで満州を押さえる口実ができた』とウィッテに語ったという。
 こうして東清鉄道の保護を謳った177000のロシア軍は、6方面からいっせいに満州に侵攻した。そのはじまりとなった『アムール川の流血事件は、偶然その地に語学留学中であった日本軍人石光真清(いしみつまきよ)の手記にくわしい。ロシア軍は、7月、ロシア領ブラゴヴェシチェンスクに住んでいた清国人3000人を虐殺してアムール川に投げ込み、さらに対岸の清国領の黒河鎮(こっかちん)と愛琿(あいぐん)城を焼き払い、避難する市民を虐殺した。ロシア軍はこれから、8月にチチハル、9月には長春、吉林、遼陽、10月には瀋陽を占領したのであるが、各地でロシア軍によるすさまじい殺戮がつづいた。」(PHP新書『世界史からみた満州帝国』p.136)

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この『アムール川の流血事件』は、当時の日本人ならほとんどの人が知っていたのだと思う。旧制第一高等学校の寮歌のひとつに『アムール川の流血や』という歌があるそうだ。
次のURLに歌詞全文とその解説が出ているが、この歌詞はロシア軍を多数の清国人を虐殺したこの事件のことを描いている。たとえば2番までの歌詞はこのようになっている。
「1.アムール川の流血や  凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は   怪雲空にはびこりつ
2.コサック兵の剣戟(けんげき)や 怒りて光散らしけむ
二十世紀の東洋は 荒浪海に立ちさわぐ…」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/M37P29amurukawa.html

旧制の第一高等学校(一高)は現在の東京大学教養部の前身だが、この歌を作詞したのは当時一高生であった栗林宇一で、事件の翌年である明治34年(1901)に、一高の第11回寮祭の記念の歌としてこの歌が披露されたという。このような寮歌が唄われたということは、この流血事件を知った多くの学生が、ロシアのひどいやり方に憤慨したからであると思う。

江東64屯

Wikipediaに解説されているが、かつてアムール川の東側に広さ3600㎢ににおよぶ中国人居留区があり、中国黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側一帯に64ヶ所の村落があり、江東六十四屯(こうとう・ろくじゅうしとん)と呼ばれていたそうだ。
1858年に締結された愛琿(アイグン)条約で、清の領土であったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%85%AD%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B1%AF

曠野の花

宮脇氏の著書に名前が出てきた石光真清という人物は日本陸軍の軍人で、たまたまアムール川沿いのブラゴヴェシチェンスクをロシア留学の地に選んだのだが、すぐ近くで清国市民が大虐殺されるこの事件が起こり、その後に東亜の戦乱に巻き込まれ、ロシア革命後は再びシベリアにわたって諜報活動に従事することになる。
彼の手記が中公文庫に収められており、4冊中の2冊目『曠野の花』の「アムール河の流血」に、この大虐殺に参加したロシア人の知り合いから聞いた話が記されている。

石光真清は7月16日の出来事をこう記している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人狩りが一斉に行われ、約3千人が支那街に押し込まれ、馬に乗った将校が「ロシアは清国の無謀な賊徒を討伐することになった。お前たち良民はここにいると危険だから安全な土地へ避難させてやる。討伐が済んだら元の家に帰るが良い。…」とふれ歩き、大勢の清国人を引き連れて黒龍江(アムール)沿いに向かう

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石光真清の文章をしばらく引用する。
「(将校は)到着すると直ぐ河岸に集め、静かにしろと命令しました。そして銃剣を構えた兵隊がぐるりと取り巻いて……取巻いてと言っても河岸の方をあけたままで、じりじりと包囲を縮めて行きました。将校が馬を走らせて指揮していました。勿論抜剣して……命令に服さん奴は撃ち殺せと怒号していました。えらい騒ぎでした。命令に服するも服さないもあったものではありません。どうしてと言ったって、なにしろ銃剣や槍を持った騎兵が退れ退れと怒鳴りながら包囲を縮めて、河岸へ迫ってゆくのですから堪りません。河岸から人間の雪崩が濁流の中へ押し流され始めたのです。わあっという得体の知れない喚声が挙がるともう全部気狂いです。人波をかき分け奥へもぐり込もうとする奴もいれば、女子供を踏み潰して逃れようとする者、それを騎兵が馬の蹄で蹴散らしながら銃剣で突く、ついに一斉に小銃を発射し始めました。叫喚と銃声と泣声と怒号と、とてもとても、あの地獄のような惨劇は口では言えません。二隊に分けたと言っても全部で二千名近い人間を一束にして殺そうというのです。…子供を抱いて逃れようとした母親が芋のように刺し殺される。子供が放り出されて踏み潰される。馬の蹄に顔を潰された少年や、火の付いたように泣き叫ぶ奴等が、銃尻で撲り殺される。先生先生と縋り付いて助けを乞う子供を蹴倒して、濁流ヘ引きずり落す。良心を持っている人間に、どうしてこんなことが出来るのでしょう。良心なんてない野獣になっていたのでしょうか。子供の泣き顔を銃尻で潰す時に、自分の良心も一緒に叩き潰してしまったのでしょう。…」(中公文庫『曠野の花』p.39-40)

そして8月に入ってロシア軍は、露満国境を徹底的に掃討しようと企て、3日に黒河鎮に上陸し、たちまち城内を確保し火を放って焼き払い、逃げ遅れた市民を片端から虐殺して火炎の中に投じ、次に愛暉城を包囲し、ここでも逃げ遅れた市民をことごとく虐殺して、火を放って焼き払ったというという。
清国の官吏は数日前に逃亡し、軍人も撤退してしまっていた。市民のうち裕福な者だけが財物をまとめて逃げたのだが、約3万人の市民の大部分が自分の家々に踏みとどまっていたそうだ。しかし黒河鎮の人々が虐殺された話が伝わると、一斉に斉斉哈爾(チチハル)公路を南に向かって避難し始めたのである。

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石光真清の文章を続けよう。
「…従って斉斉哈爾公路には蟻の行列のように、二万幾千人の避難民が家財を持って殺到した。大半が未だ付近にうろうろ犇(ひし)めき合っている時分に、早くもロシア軍は城内に火を放ち、渦巻く猛煙の中で大虐殺の修羅場を展開したのである。
 ロシア軍は城内に取残された市民を片端から虐殺したばかりではない。勢いを駆って市民の避難路へ追跡攻撃を始めた。既に清軍の影もなく、武器ひとつ持たぬ彼ら避難家族の大群を目がけて射撃したから堪らない。その惨状はブラゴヴェヒチェンスクや黒河鎮における虐殺に劣らなかった。…
 こうしてブラゴヴェヒチェンスク対岸の清国の都市村落はことごとく焼払われ、その住民は徹底的に殺された。…」(同上書 p.45-46)

かくして江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、ロシアが軍事的にこの地を占領したのだが、ロシアはその後も、満州に居座り続けるのである。
ちなみにネットで「江東六十四屯」をキーワードに検索を試みると、中国系のサイトが随分たくさんヒットし、写真や記録などが数多く残されているようである。

余談だが、その後清国は何度かこの地の返還をロシアに要求しているもののロシアは応じず、清国が滅亡した後も同様で、江沢民総書記とエリツィン大統領の時代に、中華人民共和国は正式にこの地に対する主権を放棄することを承認したのだそうだ。
しかしながら、中華民国(台湾国民政府)は法律上は江東六十四屯に対する主権をまだ放棄しておらず、中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今でも中国領として表示されているという。

このロシアの満州進出に脅威を覚えたイギリスは、義和団事件で日本軍が勇敢に戦い、規律正しかったことを評価し、ロシアを牽制するためにわが国に接近しようとした。
当時のわが国は、ロシアと妥協してその侵略政策を緩和させるべきだという日露協商論(伊藤博文、井上馨ら)と、日本と利害を同じくする英国と結んで、実力でロシアの南侵を阻止すべしとする日英同盟論(桂首相、小村外相ら)の二つの考えがあったが、日露協商交渉は失敗に終わって明治35年(1902)1月に日英同盟が締結されている
この同盟は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものであるが、2年後の日露戦争の時はこの同盟があることによって、イギリスは表面的には中立を装いつつもロシアと同盟国であるフランスの参戦を防止させ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等でわが国を支援したのである。このイギリスの支援がなければ、わが国が日露戦争で勝利することは難しかったのではないかと思う。

この日英同盟締結の交渉を推し進めた小村寿太郎らは、ロシアは満州占領だけでは満足せず、次に韓国を侵略することは必至であると考えていたのだが、その後のロシアの動きを見てみよう。

日英同盟を締結した2ヶ月後にロシアは3回に分けて満州から撤退するという満州還付条約を清国と締結し、第1回目の撤兵は実施したものの、翌1903年4月に二度目の撤兵を行なうという約束を実行せず、むしろ奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、さらに森林保護を理由に韓国の龍岩浦(りゅうがんほ:鴨緑江河口)を軍事占領している

ryuganpo.gif

次のURLに、5月8日付の『東京朝日新聞』の記事が掲載されている。
http://ww1-danro.com/sib/ryugampo.html

朝鮮圧迫せらる  露国が撤兵期日前後において朝鮮境上に著しく増兵したることは疑わざる事実なるが、さらに信ずべき筋より聞き得たる所によれば、本社京城特派員の露兵入韓の報道以後において、大東溝に露兵来着の報ありて先月来宿舎の用意道路の掃除をなし準備を整えおれり。 而して鴨緑江の左岸なる龍岩浦と名づくる一朝鮮部落には既に若干の露兵進入したり。 また安東県よりも、数日中に二千人の露兵義州に入るべしとの報道地方官に達したれば、同地にてはこれがために甚だ混雑を極め居れリ。 露国人がかかる多数の軍隊を鴨緑江左岸に入るるの趣旨那辺にあるかは明白ならざれども、露人のいう所によれば、義州の東南数里にある白馬山の森林を伐採しかつこの地方の要害を占領すると同時に、鴨緑江口に運輸通信部を設け何等かの運動を開始せんとするものの如し」

ロシアは龍岩浦を軍事占領した後、7月には韓国に龍岩浦租借条約を結ばせている。我が国は、韓国に強く抗議した結果、韓国はこの契約の無効を声明したが、ロシアはこれを無視し、龍岩浦に要塞工事を起こし、ポート・ニコラス*と改称して龍岩浦の占領の既成事実化を進めて行った。
*ポート・ニコラス:当時のロシア皇帝であったニコラス2世の名前を冠したもの

では、何のためにロシアは龍岩浦を占領したのか。森林ならばロシアのシベリアには無尽蔵にある。何も他国を侵略してまで森林が必要であるわけがない。私には、先ほど紹介したURLの解説が一番納得できる。

当時の軍艦の燃料は石炭であり、後に開発された石油推進の軍艦に較べて、航続距離が5分の1程度しかなかったのだそうだ。当時のロシアは旅順とウラジオストックに軍港を持っていたが、戦闘速度(13ノット以上)で戦艦が移動するためには、石炭庫の積載量は不足しており、ロシアが朝鮮半島に勢力を拡大していくためには、新たな基地の獲得が不可欠であったという。
しかしそのことはわが国からすれば、朝鮮半島がいずれロシアの支配下となることは確実で、そうなれば日本海の制海権がロシアに奪われ、次はわが国がロシアに狙われてもおかしくない、ということになる。

ロシアの朝鮮半島への侵略意図がいよいよ確実なものとなって、明治36年(1903)8月に、わが国は対露直接談判を開くに至った。
わが国がロシアに主張したのは
清韓両国の独立と領土保全の尊重
② 満州を日本の利益外とするなら韓国も露国の利益の範囲外として相互に承認すること。
③ 中立地帯を設けるなら韓国側だけではなく、満韓境界の両側50㌔を中立とすること。
④ 日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること
だったが、ロシア側は満州の独立と領土保全にはふれずに、わが国が韓国に派兵することを禁止し、更に韓国北部を中立化することで、満州におけるロシアの自由行動を安全ならしめようとしたという。

談判は翌年1月まで5ヶ月に及んだが、ロシアは頑として自らの主張を譲らず、その一方で極東のロシア軍には動員令を下し、満州には戒厳令を敷くなど、急ピッチでわが国との戦争の準備を進めて行った。
わが国は1月13日に最終提案を行なったのだがロシアからは何の回答もなく、わが国は2月4日に対露断交と開戦を決定し、2月6日に露国に国交断絶を通告したのである。

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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか

明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定したのだが、その御前会議が終わった後の夕刻6時に、枢密院議長・伊藤博文は、金子堅太郎を官舎に呼び寄せて、「これから直ぐにアメリカに行ってもらいたい」と告げたという。

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に金子堅太郎本人が口述した『日露戦役秘録』という本が公開されているが、この時の金子堅太郎伊藤博文の会話を読んでいると、この時期のわが国の状況や、伊藤博文の悲壮な決意が伝わってきて引き込まれる。ちょっと引用しておこう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/15

伊藤博文

「伊藤公の言われるには、
この日露の戦争が1年続くか、2年続くか、また3年続くか知らぬが、もし勝敗が決しなければ両国の中に入って調停する国がなければならぬ。それがイギリスはわが同盟国だから嘴(くちばし)は出せぬ。フランスはロシアの同盟国だからまたしかりで、ドイツは日本に対しては甚だ宜しくない態度を執っている。今度の戦争もドイツ皇帝が多少唆(そそのか)した形跡がある。よってドイツは調停の地位には立てまい。ただ頼むところはアメリカ合衆国一つだけである。公平な立場において日露の間に介在して、平和克服を勧告するのは北米合衆国の大統領の外はない。君が大統領のルーズベルト氏とかねて懇意のとは吾輩も知っているから、君直ちに往って大統領に会ってそのことを通じて、又アメリカの国民にも日本に同情を寄せるように一つ尽力してもらえまいか。これが君にアメリカに往って貰う主な目的である。』
と沈痛な態度で申されました。」

ところが、金子堅太郎はアメリカとロシアとの関係が親密であることを理由に断るのである。伊藤公はその説明を求めると、金子はこう答えたという。

金子堅太郎

「それは閣下も御承知の通り、アメリカが独立して間もない1812年に英と米の戦いのおりには、ヨーロッパ各国はみな英を助けたが、ひとりロシアだけは合衆国側に立って影になり日向になり援助したために、あの戦いも相引きになって講和条約が出来た。爾来アメリカの人は非常にロシアを徳としている。そのつぎは1861年から65年までの5ヵ年続いた南北戦争、これは合衆国の南部と北部が奴隷廃止のことから兄弟争いをして戦うようになって、非常な激戦であった。その時はイギリスは全力を挙げて南方を助け、兵器弾薬は勿論、軍艦まで造って渡した。…のみならず…イギリスの艦隊がニューヨーク湾に入って、ニューヨークの市民を恐喝しようとした。しかるにロシアは直ちに艦隊を派してニューヨークの港の口に整列させて、イギリスの軍艦が大西洋からニューヨーク港に入ることが出来ぬようにして、イギリスの艦隊の示威運動を阻止した。…」

金子は、他にも貿易関係で米ロが親密である事、また前大統領のグランド将軍の長女がロシア第一公爵の妻となっているほか、シカゴ、ニューヨークなどの富豪の娘がロシアの貴族と結婚していることなどを理由に、自分が粉骨砕身努力してもこの任務が成功する見込みがない。私がアメリカに往っても使命を汚してしまうだけなので、どうか他の方に命じて欲しいと具体名をあげて頼んでいる。

しかし、伊藤は引き下がらない。
「『君は、成功不成功の懸念の為に往かないのか
『さようでございます。』
『それならば言うが、今度の戦いについては一人として成功すると思うものはない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦いに日本が確実に勝つという見込みを立てて居るものは一人としてありはしない。この戦いを決める前にだんだん陸海軍の当局者に聞いてみても成功の見込みはないという。
しかしながら打ち捨てておけば露国はどんどん満州を占領し、朝鮮を侵略し、遂には我が国家を脅迫するまで暴威を振るうであろう。ことここに至れば、国を賭して戦うの一途あるのみ。成功不成功などは眼中にない
かく言う伊藤博文の如きは栄位栄爵生命財産はみな、陛下の賜物である。今日は国運を賭して戦う時であるから、わが生命財産栄位栄爵悉く陛下に捧げて御奉公する時機であると思う。…ゆえに、君も博文とともに手を握ってこの難局に当たってもらいたい。かくいう伊藤はもしも満州の野にあるわが陸軍が悉く大陸から追い払われ、わが海軍は対馬海峡で悉く打ち沈められ、いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫った時には、伊藤は身を士卒に伍して鉄砲を担いで、山陰道から九州海岸に於いて、博文の命あらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一歩たりとも日本の土地を踏ませぬという決心をしている。…
成功・不成功などという事は眼中にないから、君も一つ成功・不成功は措いて問わず、ただ君があらん限りの力を盡して米国人が同情を寄せるようにやってくれ。それでもしアメリカ人が同情せず、またいざという時に大統領ルーズベルト氏も調停してくれなければ、それはもとより誰が往ってもできない。かく博文は決意をしたから、君も是非奮発して米国に往ってくれよ』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/19

と満腔の熱意で伊藤に説得され、金子堅太郎はとうとうアメリカ行きを承諾している。

金子はそのあと、日露戦争に勝てる見込みはどの程度あるのかを探るために、参謀本部の児玉源太郎大将を訪ねている。児玉は30日間、参謀本部で作戦計画を練っていたのだが、金子はその児玉に「一体、勝つ見込みがあるのかどうか。第一にそれを聞きたい」と尋ねたところ、児玉はこう答えたという。

児玉源太郎

「『さあ、まあ、どうも何とも言えぬが、五分五分だと思う』
『そうか』
『しかし、五分五分では到底始末がつかぬから、4分6分にしようと思ってこの両3日非常に頭を痛めている。4分6分にして6遍勝って4遍負けるとなれば、そのうちに誰か調停者が出るであろう。それにはまず第一番に鴨緑江辺の戦いで露国が1万で来ればこちらは2万、露国が3万で来ればこちらは6万と言うように倍数を以て戦うつもりで、今ちゃんと兵数を計算し、兵器・弾薬を集めてその用意をしている。一旦倍数を以て初度の戦いに勝てば士気が振るってくる。しかし、もしこれに負けたら士気が阻喪するから、今せっかくその計画をしている。』…
『それじゃ6遍だけ勝ち戦(いく)さ、4遍だけは負け戦で、僕が大雄弁を振るっている最中、4遍は負け戦さの電報を聞き、こそこそと裏のドアから逃げねばならぬねー。』と言ったくらいでありました。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/24

山本権兵衛

続いて金子は海軍省に行って、山本権兵衛海軍大臣に会っている。
この時山本は、海軍はもう少し可能性がある発言をしている。
「『まず日本の軍艦は半分沈める。その代りに残りの半分を以てロシアの軍艦を全滅させる。僕はこういう見当をつけている。』
『そうすると海軍の方は余程陸軍より良い方だね。児玉はこれこれ言った。』
といってさきの児玉の談話を話した。
『そうか、僕の方はそのつもりで半分は軍艦を沈める。また人間も半分は殺す故に君もアメリカに於いて、どうかそのつもりでおってくれ。』
と言って互いに手を握って山本海軍大臣に別れを告げた。

 これが、当時の日本政府の当局者の考えであった。この事はあまり人には言わなかったが、あの連戦連勝の電報を見た国民は最初から勝つ、最初からこの通りと思っていただろうが、それは大間違いで、政府当局者は今言うように陸軍は4分6分、海軍は半分の軍艦を沈める、伊藤公は負ければ身を卒伍に落として兵隊とともに戦うというのが当時の実情であった。かくの如き有様が日露戦争の初めであったが、その後ああいう良い結果を得ようと誰も思って居らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/25

日露戦争の開戦は明治37年(1904)2月9日、仁川港内にあるロシア東洋艦隊コレアツ、ワリヤーク号を撃沈したことから始まるのだが、この戦争が海戦から始まったことは、海軍ではわが国の方が優勢であったことと無関係ではないだろう。

さて、金子堅太郎は2月24日に随行員2人を連れてアメリカに向かい、3月11日にサンフランシスコに到着したのだが、その前日の3月10日にルーズベルト大統領が日露戦争に関して局外中立の布告を出したことを知り、金子はかなり失望した。
金子の渡米の目的は、ハーバード大学同窓で懇意であるルーズベルトに会って、わが国に援助することを依頼することであったのだが、米大統領が厳正中立の布告を出した以上は、アメリカから良い返事を引き出すことは難しいと考えたのである


しかし渡米したからには、ルーズベルトに会ってみるしかない。
金子はシカゴからニューヨークを経由して3月26日にワシントンに着き、高平公使とともに3月27日に大統領官邸に出向いている。
約束の時間に到着すると、ルーズベルトが走ってきて玄関に佇立している金子の手を握り、「君はなぜ早く来なかったのか。僕は君を待っていた」と言ったというのだ。

金子とルーズベルトの対話を読むと多くの日本人が驚くことだと思う。再び金子の著書を引用する。ルーズベルトが出した「厳正中立の布告」に、金子が失望したと答えたあとの米大統領の言葉に注目したい。

セオドア・ルーズベルト

「そうだろう。君が失望したろうと思うから、僕は早く君が来たら説明しようと思っていた。実は日本の宣戦の布告が出て日露間に戦争が始まるや、アメリカの陸海軍の若い軍人は、今後の戦は日本に勝たせたいから、我々は予備になって日本の軍に投じて加勢しようという者が諸所に出てきた。以上のような意見を宴会で食後演説する者もある。そこでロシアの大使が困って、どうもお前の国の陸海軍の若い軍人どもは日本贔屓(びいき)と見え、日本軍に投ずるというような演説を彼処でもした、此処でもした。どうかああいうことは取締ってくれろと懇請せられたから、やむをえずあの布告をだしたのだ。しかしかく言うルーズベルトの肚の中には、日本に満腔の同情を寄せている。あれはロシア大使の交渉があったから大統領として外交上やむをえず出したのだ。僕の肚の中は全然違う。君に早くそういう内情を話そうと思って待っておったのだ。
 さて今度の戦争が始まるや否や、僕は参謀本部に言いつけて、日露の軍隊の実況、また海軍兵学校長に言いつけて、日露の軍艦のトン数およびその実況如何ということを、詳細に調べさせて、ロシアの有様、日本の有様を能く承知しているが、今度の戦は日本が勝つ。」

わが国の首脳は、開戦を決定したもののわが国の勝利を確信していたわけではなかったのだが、ルーズベルトは両国の兵力や情勢を分析したうえで、わが国が勝つと明言したことは驚きだ。さらに続けて、こう述べたという。

日本は正義の為に、また人道の為に戦っている。ロシアは近年各国に向かって悪逆無道の振舞いをしている。特に日本に対しての処置は甚だ人道に背き正義に反した行為である。今度の戦も、ずっと初めからの経緯を調べてみると、日本が戦をせざるを得ない立場になって居る。よって今度の戦は日本に勝たせなければならぬ。そこで吾輩は影になり、日向になり、日本のために働く。これは君と僕との間の内輪話で、之を新聞に公にしては困る。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/40

ついで金子は高平公使に連れられて、ジョン・ヘイ外務大臣と会っている。外務大臣は金子が十数年前に各国の議員制度を調べていた時に、親友のヘンリー・アダムス氏の晩餐会で金子と会ったことをヘイの方がよく記憶していた。

このヘイが話したことも金子を驚かせるに充分なものであった。
ヘイは、この戦いは「日本がアメリカの為に戦っていると言っても良い」と切り出したのである。金子はヘイの発言をこう記している。

ジョン・ヘイ

「私は外務大臣として支那に向かっては門戸開放、機会均等ということを宣言した。それはロシアが門戸開放せずして満州に外国人を入れぬ。満州においては機会均等ではない。満州はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。しかして日本は満州もやはり支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろと言う。この結果が今日の戦争になったのである。つまりアメリカの政策を日本が維持するが為の戦いであるといっても良いから、今度の戦争はアメリカ人が日本にお礼を言わねばならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦いについては一致しているから、アメリカは日本に同情を寄せるに疑いない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/44

金子は陸軍大臣のタフトとは旧知の仲なので、次に高平公使に連れられて次に海軍大臣に会いに行っている。海軍大臣のムーデーは、ハーバード大で金子と同窓生であったことをよく覚えていて、金子もすぐ学生時代を思い出して、二人は昔話で随分会話が弾んだようである。

金子の一連の報告が、日本政府を大喜びさせたことは言うまでもないだろう。

金子自身が述懐しているが、このような使命を持って外国に行く時に、そこに友達がいるのといないのとでは大違いである。

友達がなくして素手で外国に行って雄弁を揮って、俺は日本では元老だ、大臣だといって威張って見たところが三文の価値もない。真に頼るところのものはその国の親友であるということを痛感した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/46

金子がはアメリカに到着してしばらくはニューヨークに滞在していたが、ニューヨークでは親ロシアの富豪たちが賛成人になって数百名規模の大舞踏会が催されたり、ワシントンでは露国大師カシニー伯が毎日のように新聞記者を大使館に招いて優待し、宣伝戦を仕掛けていたという。

ロシア大使の主張は次のようなものであったという。
「わがロシアは少しも戦意がないのに、突然仁川においてわが軍艦を沈没させた。宣戦の布告をせずしてただ国交断絶だけで戦争を開始するという日本の態度は、国際法違反である。」
今度の戦争は宗教戦であって、耶蘇教(キリスト教)と非耶蘇教の戦いである。…ヨーロッパ、アメリカの耶蘇教国はこぞってこの非耶蘇教国の日本を撲滅しなければ、耶蘇教が東洋に伝播せぬ。よって欧米の耶蘇教国は連合してロシアを助けろ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/35

宣戦布告がなくとも国交を断絶しておれば戦端を開くことは国際法違反ではないのだが、ロシアは1808年には国交断絶もしないままフィンランドに出兵した国でありながら、臆面もなくこのような主張をなし、ニューヨークのヘラルド紙などはロシア大使の言うことをそのまま流していたという。
わが国は伝統的にこのような情報戦への対処が下手な国ではあるのだが、この時は外相の小村寿太郎が新聞紙上でロシアに反論したようだ。
しかし、繰り返し何度も行われるロシアの宣伝戦を長い間放置し、アメリカで反日世論が焚きつけられたあとで、わが国がアメリカに和平仲介を依頼した場合はどのような結果になったであろうか。
一般的な教科書では、「経済的にも軍事的にも、もはや戦争継続困難と判断した日本政府は、日本海海戦の勝利の直後、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに和平の仲介を頼んだ(『もう一度読む山川日本史』p.252)」と書かれているが、年表で調べると日本海海戦の勝利が明治38年(1905)5月28日で、5月31日に小村外相が高平駐米公使に宛て米大統領に日露講和あっせんを依頼する旨打電し、翌6月1日に高平公使が大統領に和平の仲介を依頼。ルーズベルトがその依頼を承諾したのは、なんと6月2日なのである。
和平の仲介をわずか1日で米大統領が応諾したのは、伊藤博文の深謀遠慮によって、対露断交と開戦を決定した直後に金子堅太郎を渡米させていなければ、あり得なかったのではないかと思うのである。
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このブログで、こんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
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米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
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伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html



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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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