HOME   »  2014年07月
Archive | 2014年07月

世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した

前回は明治37年(1904)11月26日の白襷隊の攻防戦のことまでを書いた。その翌日の午前10時に乃木の率いる第三軍は東北正面の総攻撃を中止し、戦線は西に移動したという。
乃木の27日の日記には「日夕、二〇三攻撃を第一師団に命ず」と書かれている。「二〇三攻撃」とは旅順の旧市街地から北西2kmほどのところにある丘陵である「二〇三高地」を攻撃せよとの意で、「二〇三高地」と呼ぶのは山頂が海抜203mであることによる。

203高地

国立公文書館『アジア歴史資料センター』のサイトに日露戦争に関する公文書が多数紹介されている。その中には乃木が11月27日に出した東北正面の攻撃を中止して二〇三高地を奪取せよという命令や、同じく乃木が11月29日に出した、軍はあくまで二〇三高地の占領を目指せとの命令がある。いずれも乃木大将の自筆のもののようだ。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou08_detail.html
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響で、児玉源太郎が乃木に代わって指揮を執って203高地を攻略したという説が拡がったのだが、Wikipediaによると、そのような説は「司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない」と書いている。さらに「乃木擁護論」とその論拠が紹介されているが、誰でもこれを読めば、司馬遼太郎の説の誤りに納得できると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

11月27日から始まった二〇三高地をめぐる戦いは壮絶を極めたようだ。
日本軍は何度も突入を繰り返し、11月30日午後6時には山頂東北部に突き進みこれを占領するも、ロシア軍は次々と増援隊を出して逆襲をかけ、弾薬、手榴弾の不足に苦しみ、12月1日朝にやむなく山麓まで後退した。しかし日本軍は日没を待って突撃を再開し、激戦の末午後10時ごろ山頂の散兵壕の一部を奪取し、一時は二〇三高地の両山頂を占領したものの、東北部は奪取されて西南部はその一部を確保したにとどまった。
ちなみに、満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に着いたのは12月1日のことなのである


地理学者で『日本風景論』を著した志賀重昂(しがしげたか)が第三軍司令部に従軍していて、この戦いの壮絶な光景を『旅順攻囲軍』(明治45年刊)という本に記しており、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。

「…さて二〇三高地を眺むると、山頂には敵兵頑強に踏張(ふんば)りて、我を瞰射(かんしゃ)し、我また山下より二八センチ砲を間断なく射撃し、命中正確にして弾の地に落つる毎に敵兵は空中に飛びて粉砕さるる。かくて敵味方の大小弾丸は数限りもなく打ちに打ち続けられたることとて、二〇三高地は元来素直なる二子山(ふたごやま)なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凸凹(でこぼこ)の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも、初め七日間はこの凸凹も判然と見えたるが、味方の屍(しかばね)の上に敵の屍が累(かさ)なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布を敷き詰めたる様になりしより、七日目以後には再び従前の素直なる形に返った様に見えた。こは屍を平面的に敷きたることになるが、味方が山の西南嘴を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢が無くなりたる故、屍を積みに積みて、累々と高く胸墻(きょうしょう)を築きたるなど、殆んど小説を読むの感がする。ナント十一月二十七日夜より十二月六日朝まで全九昼夜の間、一小地点に於いて間断なく戦闘、否な短兵接戦し、格闘し、爆薬の投合いをなせしとは、世界の歴史に比類はない…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774533/108

ではなぜ、日露両軍はここまで激しく戦ったのだろうか。それは、山頂から旅順港が見渡せ、制圧すれば旅順港の敵艦に砲撃を仕掛けることが可能となるからだ。
11月30日の攻撃で203高地の西南の山頂に達した旭川師団の生き残りの兵から、山頂の西南角から、待望の旅順港内が見えるという報告が入ったという。
その報告を受けて、第7師団の白水参謀、総司令部の国司参謀、海軍の岩村参謀が観測将校として、決死の面持で飛び出していったのだそうだ。目的は敵の戦艦がどの地点にあるかを確認するためである。

ryojunkouryakusen2_p5.jpg

菊池寛は『大衆明治史』にこう書いている。
「雨と降る弾丸を冒してその突角部にたどりつき、遥かに見れば、旅順の町は一望の下にあり、港内には目の上の瘤(たんこぶ)ともいうべき、旅順艦隊が七隻、その他船舶が歴々と手に取るように見えるのである。転げるようして山を降りるや山麓の重砲陣地にかけこみ、それから十分後には二十八センチ砲はじめほとんど此処に集中したと思われる重砲が、今までにない正確さを以て、旅順市の中枢部と敵艦に向かって雨と注がれた
 その日の夕方、
『ポペータ艦上に白煙湧く。四十五度傾斜、ポルタワは沈没、海底に膠着す』といった、快報が続々と達した。
 この砲火に居たたまれなくなって港外へ逃げ出したセパストポーリ号を除き残りの六艦は撃沈あるいは擱座(かくざ:座礁)して全く殲滅されたのである。」(『大衆明治史』p.318-319)

菊池寛の文章では日付があいまいだが、明治38年刊の『日露戦役史. 前編』(早稲田大学編輯部編)には、重砲陣地から放った砲弾が旅順港の敵艦に命中したのは12月3日と5~7日で、5日には白玉山の南方火薬庫にも命中して大爆烟を揚げ、6日にはポルタワが沈没したことなどが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774293/464

大激戦203高地占領

このような砲撃は二〇三高地を完全占領してこそできた話で、二百三高地は12月5日の夜に日本軍が奪取に成功したのである。

11月26日から12月6日まで11日間に及んだ第三回総攻撃で、日本軍は総兵力6万4千人中1万7千の死傷者を出している。これに対し、ロシア軍は3万2千人中死傷者は4千5百人だったという。

二百三高地を奪取したとはいえ、旅順要塞は少しもゆらぐことはなく、いまだに鉄壁の堅城であることには変わりなかったし、ロシア軍が降伏する気配もなかった。
しかしながら、旅順の太平洋艦隊が全滅したことにより、多大な犠牲を払って強襲する必要がなくなったので、乃木率いる第三軍は坑道掘削作業に全力を挙げ、坑道に大量の爆薬を仕掛けて爆発させると同時に突入する作戦で臨んでいる。旅順要塞は二十八センチ砲でも攻略しきれなかったほど堅牢であったのだ。
そして第三軍は12月18日に東鶏冠山北堡塁を10時間の激闘で陥落させ、28日には二龍山堡塁を17時間の激闘で奪取し、12月31日には松樹山堡塁を30分で陥落させている。

かくして日本軍は旅順要塞の三大永久堡塁を奪取したのだが、次の難関はその背後に控える東北正面の最高地点にある「望台」と呼ばれる陣地の奪取である。この「望台」を日本軍は翌1月1日の午後3時に占領したという。
そしてこの直後に、ロシア関東軍司令官ステッセル中将はついに降伏を決意して第三軍に降伏を申し入れ、翌2日に旅順要塞はついに落城したのである。

1月5日にステッセル中将と乃木は旅順近郊の水師営で会見した。二人は互いの武勇や防備を称え合ったのち、ステッセルが乃木の2人の息子の戦死を悼んだところ、乃木は「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてともにその死所を得たることを悦んでいる。」と答えたという。

水師営

この会見の最後に両社が対等に並んだあの有名な記念撮影が行なわれている。敗れた側のロシア将校も全員が武装し帯刀することを許して、武士の名誉を保持させたことは有名な話だが、これは明治天皇の聖旨によるものだったようだ。

世界は旅順の陥落に驚愕し、さらに水師営の会見における乃木のステッセルに対する仁義と礼節にあふれた態度に感嘆して、上の記念写真とともに全世界に喧伝されたという。

とは言いながら、日本軍に多くの犠牲者が出た。
日本軍は全部で13万人の兵力を投入したが、そのうち戦死者が1万5千人、負傷者が4万5千人だったという。一方のロシア軍は4万7千人のうち、死傷者および病者は半数を超え、開城時健全な戦闘員は2万名に満たなかったのだそうだ。

しかしこれだけの犠牲者が出たにもかかわらず、世界は日本軍が半年足らずで旅順要塞を奪取し、犠牲者も少なかったことに驚いたのである。

201003132334108ba.jpg

1854-1856年のクリミア戦争で、ロシア軍と英・仏・オスマン帝国連合軍が戦った。その戦争の最大の戦闘が「セヴァストポリ要塞戦」であったのだが、この要塞に英・仏連合軍がこの要塞を落すのに349日もかかっており、犠牲者は英国軍で3万3千人、フランス軍に8万2千人も出ているのである。しかるに旅順要塞の規模ははるかにセヴァストポリ要塞を上回っており、乃木軍はそれよりも少ない犠牲で、しかも短期間で勝利したことを評価されていたようなのである。

平間洋一氏の『日露戦争が変えた世界史』に、旅順陥落後にレーニンが機関誌『フペリヨード』第2号に寄稿した文章が紹介されているので引用したい。
「…ロシアは6年のあいだ旅順を領有し、幾億、幾十億ルーブルを費し、戦略的な鉄道を敷設し港を造り新しい都市を建設し、要塞を強化した。この要塞はヨーロッパの多くの新聞が難攻不落だと褒め称えたものである。軍事評論家たちは、旅順の力は6つのセヴァストポリに等しいと言っていた。ところが、イギリスとフランスがセヴァストポリを占領するのにまる1年もかかったが、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、8か月*で占領したのである。この軍事的打撃は取り返しのつかないものである。…旅順港の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。戦争は限りなく拡大し、新しい膨大な戦争、先生にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる。」(『日露戦争が変えた世界史』p.63-64)
*乃木が第三軍司令官に任命されたのは明治37年5月だが、旅順要塞に対する本格攻撃を開始したのは8月で、乃木軍はそれから約5ヶ月で落城させた。

前回の記事で、ロシアの満州軍総司令官であったアレクセイ・クロパトキンがこの旅順要塞について『これを陥すには、欧州最強の陸軍でも3ヶ年はかかる』と豪語していたことを紹介したが、その点については他の欧米諸国も同様の認識であったのである。だから世界は日本軍が予想以上に短期間で旅順を占領したことに驚愕し、乃木の戦術に学ぼうとしたのである。

平間洋一氏の前掲書に、世界の日本軍に対する評価が紹介されている。
「英国国防委員会が…1920年に編纂した『公刊日露戦争史』…に、『結論として旅順の事例は今までと同様に、塁堡の興亡の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらせられた。作戦準備、編成、リーダーシップ、作戦のミスや怠慢などにどんな欠陥があったとしても、この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう。』と書いている。
また日露戦争に観戦武官として参加したイアン・ハミルトン大将は、日本から学ぶべきものとして、兵士の忠誠心の重要性をあげ、われわれは『自国の子供たちに軍人の理想を教え込まねばらない。保育園で使用する玩具類に始まって、教会の日曜学校や少年団にいたるまで、自分達の先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、愛情、忠誠心、伝統および教育のあらゆる感化力を動員し、次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである』と説いた
一方、フランスのフランソワ・ド・スーグリエ将軍も、旅順攻撃戦は『精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心および騎士道的な死をも恐れぬ精神力による圧倒的な力の作用となる印象深い戦例』であると、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えた(マイケル・ハワード『ヨーロッパ諸国より見た日露戦争』)。このように、ヨーロッパでも日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられていた。このため、10年後に起きた第一次世界大戦では、日露戦争の戦訓を学んだヨーロッパ諸国の軍司令官たちの脳裏に、この突撃精神がよみがえり、突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。」(『日露戦争が変えた世界史』p.59-60)

司馬遼太郎

このように乃木将軍率いる第三軍の旅順攻略戦について世界が高く評価していたことは、当時の記録を読めばわかるのだが、それではなぜ司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、史実を一部歪めてまでして乃木のことを愚将と描いたのか、少し考えこんでしまう。

わが国では、戦後の長きにわたって「先の大戦ではわが国だけが悪かった」とする「戦勝国にとって都合の良い歴史」がマスコミや教育機関で広められて、いつの間にかその歴史観が日本人の常識になってしまっている。
今の一般的な教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には、政治家の名前は出てきても、乃木希助の名前も東郷平八郎の名前も出てこないのだ。私にはこのような歴史の叙述が公平で正しいものだとはとても思えない。

昔を振り返ってみても、子供の頃に日本の軍人が英雄や偉人として描かれるような読み物を読んだりドラマなどを見た記憶がなく、大人になってからも、テレビ番組や映画で観るものは日本の軍部を否定的に描いたものが大半だったと思う。

樋口季一郎

以前このブログで、オトポール事件で迫害されたユダヤ人を助け、敗戦後に占守島の戦いでソ連軍に痛撃を与えて、ソ連の北海道侵略から守った樋口季一郎中将のことを書いたのだが、このような人物の功績がテレビドラマや小説や映画などで国民に広く知らされることがないのは何故なのか。

日本軍人を国民の英雄として描かせたくない国内外の勢力が存在して、教育界やマスコミや出版界に対して今も圧力をかけている可能性を強く感じているのだが、彼らからすれば、日本国民が「自虐史観」で洗脳されている状態が長く続くことが望ましく、そのためには日本軍人が肯定的に描かれることは、絶対にあってはならないと考えているのであろう。

司馬遼太郎が乃木を愚将としたのは司馬の持論であるのかもしれないが、何らかの圧力がかかって司馬が乃木を否定的に描いたという可能性はないのだろうか。
もし司馬のような一流の人気作家が作品の中で乃木を英雄として描けば、国民に与える影響は相当大きなものになっていたはずだ。それをさせないために、司馬本人や出版社などに対して強い圧力があってもおかしくない時代が、戦後からずっと続いていることだけは確かな事なのである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html



関連記事

圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か

旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。

旅順遼陽奉天地図

この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。
日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉天地区には強固な防御陣地を構築していたという。普通に考えれば、日本軍がロシア軍に勝つことは奇跡に近いことであったのだが、なぜ日本軍はこの大戦に勝利することができたのであろうか。

児玉源太郎

日本軍の作戦は児玉源太郎総参謀長が中心となって立案したものだが、このようなものであったという。

「1.まず、最右翼(東側)の鴨緑江軍が動き、ロシア軍総司令官クロパトキンの注意を向け、次いで隣の第一軍の攻撃を開始させ、出来る限り敵の予備軍を右翼に引きよせる。
2.右翼が動き出し敵軍をひきつけるのに成功したならば、最左翼たる第三軍に大きく迂回運動させ、敵の右翼(西側)を脅かし、ロシア軍を牽制する。
3.左右の行動が功を奏するや、中央に位置する第二、第四軍を進出させ中央突破を決行し、勝利を一気に決する。」(岡田幹彦『乃木希助』p.174-175)

b0012636_2105194.jpg

しかしこの作戦は圧倒的に兵力の少ない日本軍にとってはかなり危険なものであった。常識的に考えて、ロシア軍を包囲する戦略であるならば、ロシア軍より兵力が多くなければならないだろう。

菊池寛の『大衆明治史』にはこう書かれている。
「…第三者とも言うべき人の批評に、野津大将の第四軍に従軍したドイツのカール親王の従軍記がある。
『日本の左翼軍の迂回前進に伴い、第四軍も自然、左翼を張り出さねばならなくなった。然るに右翼にいる第一軍もますます右翼に延長していくので、第一軍の左翼と、第四軍の右翼との間には少なくとも7キロメートルの隙間が出来た。而も第四軍はその手許には予備歩兵一連隊、徒歩せる騎兵二連隊、砲兵一大隊しかもっていないのだ。もし露軍がこの隙間を狙って突破して来たら、日本軍はどうなるだろうと、思わず慄然とした。』
と書いている。
 要するに、わが包囲陣は全般的に兵力が少なく、しかも所々に綻びが出来ていたのである。露軍に猛烈な戦意があって、随所に突破戦術に出られたら、日本軍は四部五裂の惨状を呈したかもしれないのである。」(『大衆明治史』p.325-326)

ところが、児玉がどこまで考えていたかはともかく、この作戦は成功したのである。それはなぜか。

kuropatkin1.jpg

菊池寛はこう解説している。
「…クロパトキン大将が最も頭痛に病んだのは、旅順を陥(おと)した乃木軍がどの方面から現われるかという、第三軍の動静だった。第三軍は旅順戦の創痍全く癒えず、必ずしも偉容を張っていたわけではなく、総司令部の松川少将など『総司令部としては第三軍に大きな期待は持っていないよ』などと放言して、乃木の津野田参謀を口惜しがらせたこともあるくらいだ。
 しかし、これがロシア軍にしてみれば、あの難攻不落の旅順を陥した兵団だと知れば、大いに警戒を要する相手なのである。
『天帝よ。願わくは、乃木軍の対戦だけは許して下さい』
 そう言って、無智なロシア兵が神に祈っているのを見たと、外国従軍記者は書いている。
 とにかくクロパトキンは乃木軍については、神経衰弱のようになって、気にしていたのである。そこへ諜報が入った。即ち乃木軍に属する第十一師団の兵隊が右翼(敵の左翼)に現われたというのである
 この斥候の報告は正しかった。たしかに、彼が認めた日本兵の襟の連隊番号は、第三軍の第十一師団に属する連隊だったからである。
 これを知ったクロパトキンは、これこそまさに第三軍の主力だと思って、自己の指揮下ににあった予備兵を全部そっちへ移動してしまった。
 しかるに、第十一師団は十一師団でも、それは第三軍に属するものではなく、新編成の鴨緑江軍だったのである。つまり鴨緑江軍は奉天戦のために新たに編成されたもので、第三軍から第十一師団を分離させ、これに後備第一師団を加えた二ヶ師団からなる兵団だった

…果たして日本軍はその方面の鴨緑江軍をまず動かし始めた。その中に第十一師団がある。これぞ乃木軍の主力、というので総予備隊をそっちへ移動したさいに、わが乃木軍は急進また急進、敵の右翼を大きく迂回し、氷雪の野を、戦史に有名な大繞回(にょうかい)運動を敢行し、奉天城を大きく後方から包むという態勢を採ったのである。」(同上書 p.331-332)

クロパトキンが日本軍の北上に気付いたのが2月28日、それが乃木軍であることを知ったのは3月1日だった。そこでクロパトキンは乃木の北上を阻止しようと、最終的には10万以上の大兵力を振り向けたのだが、それほど彼は乃木軍の戦力を過大に評価し恐れていたようだ。乃木の第三軍の兵力は3万8千であったという
満州軍総司令部は、右を衝いたあと左の乃木軍を動かしてロシア軍を狼狽させたタイミングで、3月1日に一気に中央を突破しようとしたのだが、戦力の優るロシア軍に前進を堅く阻止され、多くの死傷者が出て戦いの見通しが立たなくなった。この行き詰まりを打開するために、総司令部は乃木の第三軍を東清鉄道南武線に向かって進撃させ、ロシア軍の退路を断つ任務を与えている。ロシア軍は3月6日に乃木軍に大攻勢をかけたのだが、乃木軍は辛うじてロシア軍を撃退した。
そこでクロパトキンは3月7日の夕方に、優勢に戦っていた中央の第一軍と第三軍の戦線を縮少して乃木軍に振り向けている。このクロパトキンの決断が奉天会戦の帰趨を決することになった。3月8日に満州軍総司令部はロシア軍の退却に気付いて、直ちに追撃開始を命令した。

ロシア軍は兵を増やしても乃木軍を撃退することが出来ず、クロパトキンは日本軍に東西より包囲され退路を断たれることを怖れた。9日にはロシア軍の総退却を決意し、10日には最後の激戦が展開されたが、追撃戦では日本軍は砲弾の大半を使い果たしてしまっており、将兵の疲労もあって、敗走するロシア軍に大打撃を与えるには至らなかったという。

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、『クロパトキン回想録』が全巻公開されていて、2巻に奉天会戦のことを記したところがある。少し引用してみよう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782304/144
奉天会戦は全然わが軍の不利に終われり。…我が第二軍は1905年3月7日に既に側面および背面に敵の迂回を受け、…現状を脱せんがためには将卒の多大なる努力を要せり。然るにわが軍の努力発揮せられず。7、8、9日の3日間に軍の状況は益々危急に陥り、乃木軍は我が第二軍の大部を包囲せり。
3月7、8両日における両軍の戦況および位置を対比し、主として敵の精神上我に勝れるを見、もって予は7、8両日既にわが軍の敗戦を予知し、適時鉄嶺に向かい退却するに決心せり。これにより、おそらく将来の歴史家は、奉天会戦を叙するにあたり、予の持久力なきを非難すべし。


早い話が、ロシア軍は途中までは優勢であったのだが、乃木軍を恐れるがあまり、この軍に退路を断たれることを恐れて退却を急いだのである。ロシア軍が乃木軍を恐れた理由は、クロパトキンが記している通り、死をも恐れずに前進してくる乃木軍将兵の敢闘精神なのだ。

弾薬不足の為に多くの敵兵を最後に逃してしまったが、この奉天会戦でロシア軍は兵力37万人のうち、死傷者6万、捕虜2万2千ほか失踪者を含め合計9万人の損害を出し、片や日本軍は兵力25万人のうち死傷者7万人であったという。
また、日本軍の死傷者のなかで、乃木軍は18500人と各軍中最大の犠牲者を出したという。そしてこの乃木軍のすさまじい奮戦がなければ、奉天会戦における日本軍の勝利はなかったと考えて良いだろう。

乃木大将と日本人

この戦争に従軍したアメリカ人記者のS.ウォシュバンは、いかにロシア軍が乃木を恐れていたかについて著書にこう記している。
軍人として、また軍隊として、この奉天における乃木大将とその部下ほど恐れられたものは絶無だといっても過言ではない。会戦当初から、襲いくるのは乃木その人に外ならずとの恐怖が、露軍の陣営いたるところに蔓(はびこ)り、幾他の流言は、この鬼神を欺く怪物接近のお伽話(とぎばなし)を、まことしやかに幾多の陣屋に伝達して、また幾度か風声鶴唳(ふうせいかくれい)となって消えるのであった。しかし、今度はいよいよ大鉄槌が振りかかった。音に聞えた日本第三軍が、既に彼らの右翼を迂回して、全速力をもってその退路を遮断しているという事実は、野火のごとく稲妻(いなずま)のごとく全露軍の頭上に閃いた。いよいよ襲撃ぞとなると、乃木大将が何処にどうして討ってくるかは疑う余地もなかった。かの物すごき山砦(さんさい)の包囲戦を経て来ては、野戦のごときを物の数とも思わない旅順口の老兵が、露軍の側面に接触して、突如として出現したのである。そして露軍の知らぬ間に、既に深くその側背(そくはい)に迫っていて、第一回の突撃に、露軍の防御工事は、紙屑の如く揉み潰されてしまったのだ。日本軍は巧みに覚えたロシア語の喊声(かんせい)を揚げ、日本語の『万歳』の声も打ち交えて『我らは旅順の乃木軍ぞ』と叫んで追撃した。
この戦慄すべき喊声が露軍の側面に鳴り響くと同時に、勝敗の数は既に決していた。絶望は火の如く蔓延して、やがて全軍こぞっての退却となった。あるいは周章狼狽のあまりの退却ではなかったかも知れないが、とにかく、頽勢(たいせい)また如何ともしがたいとの確信に麻痺し切った軍勢の、頑強たる後退であったのだ
。」(講談社学術文庫『乃木大将と日本人』p.39-40)
これを読めば、日本軍を辛うじて勝利に導いたのは、乃木軍の存在が極めて大きかったことがわかる。

奉天入城

しかし、日本軍の弾薬は底を突き、これまでに多くの将兵を失ってしまって補充も厳しい。これから先、露軍を追走したくとも、わが国には北満州の詳細な地図も持っておらず人家の少ない地域では食糧や兵器の補給は容易ではない。国民は連戦連勝に謳歌して、盛り上がっていたのだが、満州では陸軍がみだりに大兵力を動かせるような状況ではなかったのである。

奉天会戦後の状況について、沼田多稼蔵の『日露陸戦新史』という本に詳しく書かれている。これも『近代デジタルライブラリー』で読むことが出来る。
「三月上中旬における外交の関係を見るに、露国政府は暗に駐米独仏大使を介し米国大統領をして日本政府より講和の提議を為さしめんとするの意あるがごとく、これに対し米国大統領は、戦勝者が和議を呈出するが如きは絶対に不可能なりとし、帝国政府もまた、もとより彼に先んじて和議を呈出するの意なしと雖も、深く米国大統領の好意に信頼し、韓国、旅順、満州の善後策および償金に関する政府の意見を開陳せり。しかれども、三月下旬に至るも平和の曙光を見ざるのみならず露国は更にその軍隊を増遣し、バルチック艦隊の東航を継続し、以て雌雄を招来に決せんとするものの如く、鋭意シベリア鉄道の輸送行程増大を計画し、中央シベリア線を複線となし、新たに車両数千両を注文し、なおシベリア水路をも軍事輸送に併用せんとするもののごとし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942003/131

意外にもロシア側で奉天戦の後で講和を探るような動きがあったようなのだが、アメリカから「戦勝者から講和を申し込むようにすることは不可能」と断られて、いよいよロシア軍はバルチック艦隊と日本海軍との戦いで最後の決着をつけようと動き出したのである。
ロシア軍にすれば、その決戦に勝利すれば日本海の制海権を奪うことができ、満州の日本軍への補給が遮断できる。そうすれば日露戦争にロシア軍が逆転勝利する可能性が残されていたのである。

日本海海戦については次回に記すことにしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






岡山市北区の林原美術館が所蔵する古文書から「本能寺の変」にかかわった戦国武将たちの書状が新たに確認されましたが、このブログで、光秀の動機は四国攻めであったという説を3年前に紹介しています。良かったら覗いて見てください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html




関連記事

日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断

乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前の、明治37年(1904)10月15日にバルチック艦隊はリバウ軍港から出航している。
ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷なものであった。

M380527-1.jpg

そもそも、バルチック艦隊は出航して間もなくトラブルを起こしている。
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、佐藤市郎氏の『海軍五十年史』という本が公開されている。そこにはこう書かれている。
出発前より、日本軍は丁抹(デンマーク)海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艦艇がひそんでいるとかと、いろいろ噂がとんでいたので、悲壮な決意をもって壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思いであった。果たして北海航路の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲(めくら)滅法に砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあい、水線上に四弾をうけるという悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1872367/120
要するにバルチック艦隊の構成は世界最強を誇っていたが、極東への出航が急遽決定されて農民らを徴集し5カ月程度の準備期間があったものの、彼らの多くは戦闘員として充分に訓練されたレベルではなかったのである。

英国は自国の漁船が砲撃されたことを強く抗議し、後に賠償金を勝ち取っただけではとどまらなかった。菊池寛の『大衆明治史』によると、
英国は、とにかくバルチック艦隊は危険だという口実で、巡洋艦10隻を派して、艦隊の後を追って、監視の目を光らせて、スペイン沿岸まで併航した。もちろん、同艦隊の編成と行動は、詳細に英国政府と、同盟国日本政府に打電されているのである。」(『大衆明治史』p.345)と書かれている。

また、当時の艦船の燃料は石炭で、燃料効率が悪かったことから、航海には大量の石炭補給を何度も何度も繰り返さねばならなかったということを知る必要がある。
石炭資源開発株式会社の大槻重之氏の『石炭をゆく』というサイトには、
艦隊の一日の石炭使用量は三千トン、フルスピードの場合は一万トンという数字が記録されている。石炭貯蔵庫の容量の小さい船は数日おきに補炭しなければならず、その都度、大船団は停滞をよぎなくされた。
 石炭積込み作業は水兵に大変な労力負担になった。船間に渡した板の上を石炭籠を天秤でかついで運ぶ。作業のため波の小さい日を選ぶということは必然的に炎天下の作業になる。何れにしろロシア水兵が慣れているはずのない熱帯の海上である。熱病で死ぬ水兵が相次いだ。」と書かれている。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page141.html

植民地地図

この文章を読むと、バルチック艦隊の水兵は燃料である大量の石炭を運ぶという重労働を海の上でやっていたことが分かるのだが、当時の世界航路の石炭保有港は英国が支配しており、遠大な航路の大半は英国海軍の勢力下にあった。英国は日本の同盟国であるから、バルチック艦隊は英国が支配する港では石炭を補給することが出来ず、公海上で石炭船を探し求めての航海が続いたようなのだ。当然良質の石炭は手に入らない。

また、バルチック艦隊の航路を見るとスエズ運河を通った船ルートと、アフリカ南端の喜望峰を経由したルートと、二手に分かれているのにも驚く。
燃料効率が悪くかつ、燃料が手に入りにくかったのだから、最短距離で進むことが優先されるはずなのだが、二手に分かれたのは、吃水の深い戦艦は当時のスエズ運河を通ることが出来なかったということがその理由のようだ。

ロシアの同盟国であるフランス領マダガスカル島のノシベ港でバルチック艦隊は合流し、物資の補給を行なった後1905年3月16日にノシベ港を出港したが、この時点では乃木軍の活躍で既に旅順要塞は陥落しており、旅順港に停泊していた艦船も壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の目的達成は困難な状況になっていた。
そのうえ、インド洋方面ではロシアの友好国は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水・食料・石炭の不足はかなり深刻であったという。
そして1905年4月14日に同盟国フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾に投錨し、そこで石炭などの補給を行ない、5月9日にはヴァンフォン沖で追加に派遣された太平洋第三艦隊の到着を待ち、いよいよウラジオストックに向けて50隻の大艦隊が出航した。

『近代デジタルライブラリー』に小笠原長生 著『撃滅 : 日本海海戦秘史』という本がある。
なぜバルチック艦隊の艦船が簡単に沈没したかについて書かれているが、その理由は、隣の国の客船セウォル号沈没とよく似たところがあって興味深い。
「…5月23日は早朝より各艦に最後の石炭搭載を行わしめ、出来うるだけ多量に積み入れるよう命令したので、中には定量の倍以上にも及んだものがあった。これがのち激戦となった際、脆く転覆する艦が続出した一つの原因をなしたのである。露国壮年将校中の腕利きといわれたクラード中佐は、その著『対馬沖会戦論』中に、
『我が良戦艦スウォーロフ。ボロヂノ。オスラービヤの三隻は砲火を以て撃沈せられた。かくの如きは近世の戦闘において甚だ稀有のことであるが、その原因たるや明白だ。即ちこの三艦は過大の積載をなし、復元力が欠乏していたからである。それも静穏の天候であったなら、ああまでならなかったろうが、波浪高く艦隊が動揺したので、水面近い弾孔より自由に浸水した結果だと思う。』
と論じている。のみならず積載過多のため、水際の装甲鈑は水中に没し、全く防御の役に立たなかったことも見逃せない一事であろう。何にしてもこうまですること為すこと手違いになってゆくのは、悲運といわば悲運のようなものの、国交に信義を無視した天譴ではあるまいか。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/56

バルチック艦隊

バルチック艦隊が石炭の調達に苦労した話は以前に読んだことがあるが、イギリスだけでなくアメリカも、バルチック艦隊に物資を供給した国に抗議した記録があり、そのためにバルチック艦隊の兵士はほとんど陸上に上がることが出来ず、海上での燃料運搬作業などで労力を削がれ、半年にもわたる大航海に相当疲弊していたことは重要なポイントだと思う

ここで日露の戦力を比較しておこう。
日本海軍は、戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12他
バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6他
戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。
もし日本海軍が、この艦隊を一旦ウラジオストックに帰港することを許してしまえば、ロシア軍は万全の準備をして戦えるので、戦艦が日本軍の倍もあるロシアに分があったであろう

日本海軍としては、バルチック艦隊がウラジオストックに戻る前に決戦に持ち込むことができれば、相当疲弊した艦隊と戦うことになるので、緒戦の優勢が期待できる。

しかし、この時代には今のレーダーのようなものは存在しなかった。バルチック艦隊が今どのあたりを航海しているかはつかめず、ウラジオストックに戻るのに、対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのかもわからなかったのである。
そこでもし、それぞれの可能性を考えて日本海軍の戦力を分散させて数ヵ所で待ち構えていたとしたら、日本軍が勝利できなかった可能性が高かったと思う。

東郷平八郎

ここが東郷平八郎の偉いところだが、東郷は、異常な長旅の果てにわざわざ太平洋側を経由する可能性は低く、バルチック艦隊の戦力に自信があるならば必ず最短距離の対馬海峡を通ると確信し、全艦が対馬海峡で待ち伏せしていたのだ。
先ほど紹介した『撃滅 : 日本海海戦秘史』には、日本軍が対馬海峡に全勢力を集めていることが想定外であったとのロシア側の感想が紹介されている。
「…まさかに宗谷・津軽の二海峡をあれ程思い切って放擲(ほうてき)し、朝鮮海峡にのみ全勢力を集めていたとは思わなかったらしい。クラード中佐はこれに対し、『最も驚くべきは、我が艦隊にあって全日本艦隊と遭遇するが如きは、全く予想外で不意に乗せられたようなものだ。と言うている事だ。』と冷評し…」と書いてある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/60

日本海海戦

そして、運命の5月27日の朝を迎えた。
巡洋艦から敵艦発見の連絡を受け、東郷平八郎は午前6時21分に、「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。

barutikku.jpg

両艦隊は急速に接近し、距離8000mにまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ、丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。
軍艦は、その構造上、敵は正面にいるよりも左右どちらかにいた方が、目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところであり、当然命中精度は低い

この時東郷平八郎司令長官の作戦担当参謀であった秋山真之は、自著の『軍談』にこう書いている。この本も『近代デジタルライブラリー』で公開されている。

300px-Akiyama_Saneyuki.jpg

「敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三四分遅れて二時十一分頃であったと記憶している。この三四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。…午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏(か)ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941857/54

海戦は実はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。
一方日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。(平間洋一『日露戦争が変えた世界史』による)
結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。

日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。

ところで、日本海海戦で命令に違反して戦場から離脱してマニラに向かったロシアの巡洋艦が3隻あったという。そのうちのひとつが「アウロラ」である。
この記事の最初に、バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出発した直後に英国漁船を誤爆したことを書いたが、その時に同志討ちにあい、水線上に味方から四弾をうけたのがこの「アウロラ」で、日本海海戦の時は艦長が戦死するなど損傷を受けたのちに逃亡して、中立国であるアメリカ領フィリピンに辿りつきマニラで抑留されたのだが、この巡洋艦のその後の運命が興味深い。
1906年に「アウロラ」はバルト海に戻り、1917年に大改装のためにペトログラードに回航されると、二月革命が起こって艦内に革命委員会が設けられ、多くの乗組員がボルシェビキに同調したそうだ。11月7日(露暦10月25日)には臨時政府が置かれていた冬宮を砲撃し、さらにアウロラの水兵たちが、赤衛隊や反乱兵士とともに、冬宮攻略に参加して10月革命の成功に寄与したという。

アウロラ

1923年には革命記念艦に指定されて、ロシア革命のシンボルのひとつとしてサンクトペテルブルグのネヴァ河畔に今も係留・保存されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

一方、日本海海戦で東郷平八郎が座乗した、連合艦隊旗艦の戦艦三笠はその後どういう運命を辿ったのか
1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、1923年の関東大震災で岸壁に衝突した際に、応急修理中であった破損部位から浸水しそのまま着底してしまう。
解体される予定であったが、国内で保存運動が起こり1925年に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。
第二次大戦後の占領期には、ロシアからの圧力で解体処分にされそうになったが、ウィロビーらの反対でそれを免れた後、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置されて、一時は「キャバレー・トーゴー」が艦上で開かれたという。
その後、物資不足で金属類や甲板の多くが盗まれて荒廃する一方だったが、英国のジョン.S.ルービン、米海軍のチェスター・ニミッツ提督の尽力により保存運動が盛り上がって昭和36年(1961)に修理復元され、現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として公開されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

わが国の歴史遺産として幾世代にもわたって残されるべき船が、占領軍によって娯楽施設にされその後荒れるに任されたことは、日本人の誇りを奪うために占領軍が押し付けた、日露戦争の英雄である乃木や東郷を顕彰しない歴史観と無関係ではなかったと思うのだ。

三笠記念艦

三笠」は日露戦争に勝利しわが国の独立を守った象徴として有志者により護られてきて、現在は三笠記念会メンバーの会費と見学者の観覧料により維持・管理されているのだが、観覧者が少なくては、それも難しくなる日がいずれ来るかもしれない。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa_hozonkai/index.html

日本海海戦にもしわが国が敗れていたら、日本海の制海権がロシアに奪われて、満州や朝鮮半島だけではなく日本列島の北の一部も、ロシアの領土になっていておかしくはなかった。今の多くの日本人は、われわれの祖先が命を懸けて戦って勝利し、わが国を守ってくれたことに感謝することを、忘れてしまってはいないだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

祇園祭の「祇園」とは
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-14.html

二つの祇園祭の関係
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-15.html

祇園祭山鉾巡行と神幸祭を見に行く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html

戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-25.html

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html



関連記事
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    おすすめ商品
    旅館・ホテル