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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話

白川郷の民宿「十右エ門」を8時半ごろ出て、御母衣(みぼろ)ダムの近くの「御母衣ダムサイトパーク」(05769-5-2012)に向かう。白川郷からは17kmで27分程度かかる。

荘川村風景

今は御母衣湖の湖底に沈んでしまったのだが、以前は「飛騨の白川郷」と呼ばれ、合掌造りの家々が数多く建っていた「岐阜県大野郡荘川村」というのどかな集落が、庄川のさらに上流に存在していたという。
沈む前の荘川村の写真が次のURLにいくつか紹介されている。
http://www.westsho.jp/syoukawa/db/feeling/index.html
また、次のURLでは水没前の航空写真と水没後の航空写真が紹介されている。
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf

庄川上流に東洋一のダムの建築計画が持ち上がったのは昭和27年(1952)のことだ。
当時のわが国は高度成長期の入口にあり、産業界から電力供給増加について強い要望があり、そのために国内の多くの河川で水力発電の開発が盛んに行われていた時代である。
庄川上流に大貯水池を設ければ下流のダムの水量を増加させながら、年間の流量を調節できる。しかしそのためには、荘川村の3分の1にあたる240戸が水没してしまうことになり、住民1200人に故郷を捨てる苦渋の決断をしてもらわなければならなかった
そして水没することになる家の多くは白川郷と同様に合掌造りの建物であり、またこの村は標高700mの高冷地でありながら、質・収穫量ともに第一級の米どころであり、反当りの収穫高は濃尾平野と変わらなかったというから、人々の生活も豊かであったようなのだ。

地元の人々は昭和28年(1953)に「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し、その年の10月には東京の電源開発本社の前で「御母衣ダム絶対反対」という襷をかけた陳情団を送り込み、高碕達之助総裁に会わせろと要求すると、総裁本人が出てきたという。

「死守会」の書記長であった若山芳枝氏はその時の高碕総裁の言葉を著書にこう記している。

高碕達之助
「日本の国の資源は雨と高い山である。バケツ一ぱいの水を山の上に持っていくには相当の努力がいる。上から落とすことは容易である。雨を降らせてくれる神様によってその雨を利用して電力をおこし、そのために国の産業が発展する。雨を無駄にすれば河川は洪水となる。雨は利用すればよいもの、捨てておけば悪いものだ」
皆さんの苦痛は金銭のみではかえられない。第一に故郷を失い、すべてを無くされることについてこれをどうしてあげるかということで私も頭を悩ましている。多数の人たちのため感情を殺しなさい、と言えぬところが一番苦しむ点である。私も六十八になりこの仕事は最後の国に対する御奉公だと思っている。」(『ふるさとはダムの底に』)

また若山氏は、同じ著書で次のように高碕総裁の印象を記している。
「この総裁のコトバには不思議な力があった。先程とは全く打って変わった何かしら温い空気が死守会員の胸に流れ始めたのである。」
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html

しかし地元民は「故郷を守りたい」という純粋な思いを放棄するわけにはいかなかった。
強力な反対運動が続いて膠着状態が続いていたのだが、昭和31年3月4日に荘川村を電源開発の藤井栄治副総裁が突如訪れて、5月8日の死守会総会での会見の約束を取り付けている。
そしてその5月8日に藤井副総裁が再び荘川村にやって来た。若山氏の著書によると、この日の会場の雰囲気は、反対派の「殺気が感じられたほどであった」そうだが、一人で壇上に上がった藤井副総裁はこのように切り出したという。
「なんとかダムをつくらせてくれと、みなさんから承諾いただくまで、私は1週間でも10日でも動きませんと」
私も命をかけて参りました
壇上の藤井副総裁の鬼気迫る説得に死守会の面々は沈黙したという。

藤井が別室で休憩している時間に、このまま対話を続けるか、決裂させるかで賛否両論が飛びだしたが、死守会会長の建石福蔵氏から、相手側から「覚書」をもらうという意見が出て、メンバーの同意が出たので建石会長と若山書記長らが学校の校長室に移動して、校長に文章作成を要請したことが次のURLに書かれている。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post04.html

後に『幸福の覚書』と呼ばれるようになった次の文書は、学校の便せんに手書きで書かれたものだという。

「覚書
御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我が社は責任を以て樹立し、之を実行するものであることを約束する
昭和31年5月8日
電源開発株式会社 副総裁 藤井栄治
御母衣ダム絶対反対死守会 会長 建石福蔵殿」

いくら出費しても相手方が「以前より幸福でない」と言いだしたら更なる出費を余儀なくされることになる内容であり、今の企業なら普通は出せない内容の文書だと思うのだが、この覚書を交わしたことで、「死守会」が次第に歩み寄ろうとするようになったという。

昭和34年(1959)年に入ると補償交渉が成立して新天地に去る人が多くなり、会員の相当数が現地に残っている内に、円満に交渉が妥結したという証として、11月22日に「死守会」の解散式を行う運びとなった。

移植前の光輪寺の荘川桜

この会に東京から参加した電源開発の高碕総裁は、湖底に沈む集落を最後に見たいと言って、ふと立ち寄った光輪寺の桜の巨木に遭遇した。高碕はこの桜を「水没から助けたい」と死守会書記長の若山さんに語ったという。ダムに土地を奪われた村人たちが故郷を偲ぶよすがにしてほしいとの思いからであった。

老桜の移植を心に決めた高碕だったが、多くの専門家に相談しても、古い巨木の移植は難しいと何度も断られたようだ。しかし高碕は諦めず、当時「桜博士」と呼ばれていた笹部新太郎という人物を訪ねた。当時高碕は電源開発総裁の職を辞していたが、なんとしてでも桜の命を守りたいという高碕の心に打たれて、笹部は心を決めたという。
笹部は早速荘川町を訪れて、光輪寺のほかに照蓮寺という寺にも桜の古木があることを発見し、万が一1本が枯れてももう1本が助かればとの思いから、2本を同時に移植することを提案している。

移植中の荘川桜

昭和35年(1960)11月15日から巨桜の移植作業が開始された。いずれも樹齢400年を超え、重量は光輪寺の桜が約35t、照蓮寺の桜が38tととんでもない重さであり、それぞれの木を距離にして600m、高低差50mまで引き上げねばならない。そのために新しい道路までが作られたという。
大きすぎては運ぶことが出来ないし、切りすぎてもいけないし、樹木に傷をつけてもいけない。地下100mも伸ばした根を何処まで切り、枝を何処まで切るかというバランスを誤れば移植はうまく行かないのだそうだ。12月24日に移植工事が完了したのだが、いくら難工事であったにせよこの木が移植先で活着しなければ何の意味もない。当初は無残に枝や根を切り落とされた桜の木を見て、村人の反応はかなり冷ややかだったという。

年が明けて待ち望んだ遅い春が荘川の地にもやってきた。そして待ちに待った若芽が、こもの目をついて出始めたという報告があった。2本の桜は枝を伸ばし、日を追うごとに元気を増し、かっての美しさを取り戻そうとしていた。

昭和37年(1962)6月12日に水没記念碑除幕式が行われ、電源開発関係者と桜を移植に携わった人々や、元村民ら500人余りが桜のもとに集まった。

この式に参加した「桜博士」の笹部新太郎氏は、自著『桜男行状』にこう書いておられるという。
見渡すかぎり、山は削られ川は埋められまさに山渓あらたまるというべき索漠たる風景を前にして、これらの人たちは老若を分かたず、申し合せたように誰もかもみな、この僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声を上げて泣いていた。」

また、挨拶に立った高碕達之助も眼鏡の下を指で押さえて、感激に唇を震わせながらこう述べたという。
昭和27年10月18日基本計画の発表を見た時から、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています。」
また、高碕はこの桜をこう詠ったという。
ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに

荘川桜の開花

2本の桜は「荘川桜」と命名され、昭和41年には岐阜県の天然記念物の指定を受けて、いまも春には美しい花を咲かせてくれている。
満開の季節には多くの観光客が訪れるのだそうだが、このような経緯があったことも是非知ってもらいたいものである。

御母衣電力館

「御母衣ダムサイトパーク」の右側の建物の中にシアターがあり、このダム建設の交渉から荘川桜の移植までの出来事をまとめた「桜守の詩」という18分の映画があるので観賞してきたが、なかなかいい映画で感動してしまった。
この建物の左側には、荘川桜の美しい写真などが展示されている。2階に上がれば、御母衣ダムの外観を見ることが出来る。

御母衣ダム

多くの住宅は湖底に沈んでしまったのだが、いくつかの建物は移築され、今も見ることができる。

wakayamake.jpg

上の画像は高山市の「飛騨の里」に移築された「旧若山家住宅」で国の重要文化財に指定されている。
下の画像は横浜「三溪園」に移築された「旧矢篦原(やのはら)家住宅」でこれも国の重要文化財だ。

矢篦原家

360px-Takayama_Shorenji_temple_main_hall.jpg

荘川桜があった照蓮寺は高山市堀端町に移築されているが、この本堂は国の重要文化財に指定され、中門と梵鐘は岐阜県の重要文化財だ。もう一つの桜のあった光輪寺は関市清蔵寺町に移築されたという。

御母衣ダムサイトパークから荘川桜までは9.3km。15分程度で到着する。

荘川桜

手前の桜が、高碕総裁が一目見て移植したいと考えた光輪寺の桜で、奥の桜が照蓮寺の桜である。

高碕の歌碑

この2つの桜の大樹の間に、先ほど紹介した高碕達之助の歌碑が建っている。
ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに
何度もこの歌を口ずさんで、私も胸が熱くなった。

この歌を残した高碕達之助は、水没記念碑除幕式の翌年に病に倒れ、その翌年(昭和39年)の2月24日に帰らぬ人となった。高碕は充分に枝を拡げ咲き誇る荘川桜を見ることは叶わなかったのである。
高碕の葬儀の時に、棺には荘川桜の小枝が手向けられたという。

ふるさと友の会

昭和45年3月に、県内外に散在していた女性たちが声を掛け合って水没地の元住民による『ふるさと友の会』が結成され、平成10年頃まで毎年のこの桜の元に集い、多い時には400人ものメンバーが集まったという。
また当時荘川村の中学校の教員であった林子平氏の回顧談を読むと、地元で高碕氏の7回忌から27回忌まで年忌法要を行なったのだそうだが、この桜が蘇生したことを荘川村にいた人々が喜び、高碕氏がこの桜を残してくれたことにいかに感謝したかがよくわかる。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html

故郷を失った人は誰でも悲しいものだと思うが、少しでも故郷のものが残っていれば嬉しい、懐かしいと思うに違いない。高碕はそこまで考えて荘川桜の移転を決断したのだと考えるのだが、高碕が念願していたとおりにこの桜は、荘川村にいた人々にとって故郷を偲ぶよすがとなり、そしてかけがえのない宝物となったのである。

最後に高碕達之助氏の言葉を記しておきたい。

進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。
だか、人力で救える限りのものは、なんとかして残していきたい。
古きものは、古きが故に尊い。
」(文芸春秋 第40巻 第8号より)
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世界遺産の越中五箇山の合掌造り集落を訪ねて~~富山・岐阜・愛知方面旅行①
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飛騨古川から禅昌寺を訪ねて下呂温泉へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行②
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下呂温泉から国宝犬山城へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行③
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信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目
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御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目
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昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目
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3度目の高山と円空仏を訪ねて丹生川から平湯温泉へ
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平湯温泉から上高地を散策して濁河温泉へ
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濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠・馬籠へ
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関連記事

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう

前回は荘川桜のことを書いたが、この荘川桜の移植に興味を持ち、その一部始終をカメラに収めた佐藤良二という人がいた。佐藤氏は当時国鉄バスの名古屋から金沢を結ぶ「名金線」の運転手だったのだが、移植2年後の春に再び彼が荘川桜を見に来ると、お花見の最中に老婆が立ち上がり、桜の太い枝を抱えて突然声を上げて泣き出したのだそうだ。

ryoji.jpg

この出来事は佐藤氏の心に強く焼き付いて、彼は自分の走る沿線266kmを桜並木で結ぶことを決意したという。昭和41年頃から私費で桜を植え始め、12年間で約2000本の桜を植樹したのだそうだが、残念ながら若くして亡くなられたようだ。この佐藤氏の人生は小説にもなり映画にもなった。

荘川桜を見たあと白山信仰の聖地である白山中居神社に行こうとしたのだが、土砂降りになったので山道を走るのを諦め、午後の目的地である岐阜城を目指すことに変更した。
荘川桜からはずっと飛騨街道(国道156号線)を南に走っていたが、この道は佐藤氏が桜を植え続けた道で「さくら道」と親しみを込めて呼ばれているようだ。

さくら

途中で雨脚が強くなったので郡上市白鳥町あたりで早目の昼食をとることにした。このあたりはたまたま桜を植え続けた佐藤良二氏の生まれ故郷であり、飛び込んだレストランも「さくら」という店だった。

雨が小降りになったのでドライブを再開し、東海北陸道を通ってまず岐阜城に向かった。
1時間程度で岐阜公園の駐車場に到着し、金華山ロープウェイで金華山の頂上にある岐阜城に向かう。駐車場の地図は次のURLが参考になる。
http://www.city.gifu.lg.jp/8416.htm

ロープウェイの往復1080円はやや高いが、JAFの会員なら100円の割引がある。歩いて登る人もいるようだが45分はかかるし、かなりの急坂を覚悟しなければならないことは、ロープウェイからの景色でわかる。ロープウェイの山頂駅から天守閣に続く道も、坂が続いて結構きつかった。

Gifujyou11.jpg

岐阜城はかつて稲葉山城と称し、戦国時代は斉藤利政(道三)の居城であったが、天文23年(1554)に嫡子の斎藤義龍に城と家督を譲り、また永禄4年(1561)に義龍が急死し、斉藤龍興が13歳で家督を継いで城主となっている。
そして永禄10年(1567)に、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が稲葉山城の戦いで勝利し、本拠地を小牧山城からこの城に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めている。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、天下統一を目指すようになったとされる
信長が安土に移ると、城は長男信忠に与えられ、その後3男信孝、池田輝政、豊臣秀勝らが城主となったが文禄元年(1592)からは信長の孫の織田秀信が城主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で、織田秀信が石田三成方の西軍に属していたことから東軍の福島正則や池田輝政に攻められて落城し、翌慶長6年(1601)に徳川家康は岐阜城の廃城を決め、この城は解体されてしまったいう。

岐阜城

現在の岐阜城は昭和31年(1956)に完成したコンクリート造りの建物で、内部は展示場と展望台になっている。

天守閣の最上階に登ると、信長政権を支えた濃尾平野が眺望できる。中央に流れる川は長良川で、近くに見える橋が長良橋だ。なかなか素晴らしい眺めで、織田信長はこの景色をみて、天下を志したのである。

岐阜城から観た景色

ロープウェイで山麓駅に戻って、岐阜公園を散策する。山麓駅の近くにシートで覆われた場所がいくつかあったが、織田信長の居館の発掘調査が行われているようだ。

Odanobunaga.jpg

イエズス会宣教師のルイス・フロイスが自著に、1569年にこの居館で織田信長に謁見した記録を残しているが、これを読むと、かなり大規模な宮殿であったことがわかる。

「…彼は自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています。それゆえにこそ、彼は多額の金子を費やし、自らの慰安、娯楽としてこの宮殿を建築しようと決意したのであります。宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くベき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。 第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、 二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨ(宮殿)のそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、 そこから市の一部が望まれます。
…私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、…これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝き、あたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語の絵を描いたもので一面満されていました。この前廊の外に、 庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであます。それらの幾つかには、1パルモ(約20cm)の深さの池があり、その底には入念に選ばれた小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚がおりました。…
二階には婦人部屋があり、…三階は山と同じ高さで、 一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、 静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。」(中公文庫『完訳フロイス日本史2』p.205-207)

最近の発掘調査の成果を岐阜市教育委員会が次のURLでまとめているが、この図を見ると、フロイスが二階、三階などと書いているのは、平地に四階建ての建物があったのではなく、緩やかな山の斜面に建物が配置され、登り廊下で繋がっていたようだ。
http://www.nobunaga-kyokan.jp/siryou/sj_gensetsu_h25.pdf

信長宮殿金箔瓦

この居館の発掘調査で花をかたどった瓦がいくつか出土し、当時は金箔が貼られていたことも判明しているのだそうだ。最初に金箔瓦が用いられたのは安土城だとされてきたが、岐阜城でより早く用いられていた可能性があるのだという。今後の発掘調査の結果が楽しみである。

板垣退助像

以前このブログで、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われて『板垣死すとも自由は死せず』という言葉を発したとされる話を記したが、その現場である中教院の跡地が今の岐阜公園の中にあったようだ。公園の中に立派な板垣退助像が建てられている。

岐阜公園

岐阜公園は結構広く、金華山の山頂には岐阜城が見え、岐阜市歴史博物館や名和昆虫博物館など、レトロな建物が建っていてなかなか雰囲気が良い。岐阜市民にとっては素晴らしい憩いの場だ。

いろいろ岐阜市の旧市街を歩いても良かったのだが、歩き疲れて足も重たく、夜には「長良川の鵜飼」を見る旅程で天気も心配だったので、宿に近い「長良川うかいミュージアム」(058-210-1555)に行くことにした。

鵜匠の薪

宿泊先の「ホテル石金」の駐車場に車を預けて、「うかいミュージアム」まで歩いたのだが、その近くには鵜匠が住んでおられるようで、鵜飼に使う篝火用の薪などが積んであった。

長良川うかいミュージアム

このミュージアムは2年前にオープンしたばかりだが、以前は「長良川ホテル」本館があったようだ。入館料は大人500円、小人250円だが、JAFの会員はそれぞれ50円、20円の割引特典がある。

鵜飼の歴史や文化に関する様々な展示物があるが、鵜飼については知らないことばかりだったので、色々と勉強になった。
鵜飼は鵜を使い魚を獲る漁法で、わが国ではかなり古くから行なわれてきたことは『隋書倭国伝』や『古事記』、『日本書紀』などの記録にあるようだが、長良川で行われていた記録では、美濃国では大宝2年(702)の各務郡中里(かがみごうりなかざと)の戸籍に『鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)』の記述があることから、長良川の鵜飼には1300年以上の歴史があることがわかるという。
織田信長や徳川家康など時の権力者の保護を受け、松尾芭蕉も鵜飼を観賞して、
「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」
とう句を残しているそうだ。

木曽路名所図会 長良川鵜飼船

上の画像は江戸時代に出版された『木曽路名所図会』巻之二にある「長良川鵜飼船」の挿絵だ。この絵は国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも見ることが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952771/130

しかし明治維新で鵜匠の特権が廃止され、長良川で自由に漁をする人が増えて、魚の数も乱獲のために減ってしまったという。
ところが明治11年1878)に明治天皇が岐阜で鵜飼を見物されたことから、長良川の鵜飼がクローズアップされるようになり、明治23年(1890)には禁猟区の「御料場(ごりょうば)」が設置され、鵜匠には宮内庁の管轄下に身を置く「宮内庁式部職」という肩書が与えられたのだそうだ。意外な事なのだが、現在6人おられる長良川の鵜匠はいまも宮内庁に所属する国家公務員で、代々世襲なのだそうだ

鵜匠は鵜飼に連れて行く鵜にはその日は餌をやらず空腹にさせておき、漁に出る前に鵜の首に「首結い」という縄を巻き、鵜が獲った小さい魚は喉を通っても大きい魚は喉に溜まるようにしておくのだという。
鵜飼が始まると、鵜匠は喉が膨らんだ鵜を見つけては手縄(たなわ)を引いて舟に上げて、くちばしを開いて喉をもみあげて魚を吐き出させて漁を行なうのだが、鵜が吐き出した鮎には鵜のくちばしの痕がつくのだという。鵜はくちばしで瞬時に鮎を殺すので、そのため鵜鮎は釣った鮎より新鮮でおいしいと言われている。
長良川鵜匠副代表の杉山雅彦さんが鵜飼が始まる前に、鵜飼を説明しておられる動画がある。鵜の首の中に10匹以上の魚が蓄えられるというのは驚きだ。


宿泊先のホテル「石金」に戻ると、雷が鳴り響いて凄い夕立になったが、幸いすぐに雨がやんだのでほっとした。夕刻からは鵜飼い観覧の屋形船に乗って食事をし、それから鵜飼を楽しむ旅程になる。

夕刻5時半ごろ、ホテルのマイクロバスに乗って観覧船乗り場に向かう。土曜日であったが、観覧船の多さと観光客の多さに驚いてしまった。観覧船は全部で40艘以上あったと思うが、昔ながらの木造の船で、岐阜市内にある鵜飼観覧船造船所で製造されたものだという。

観覧船に乗り込むと、1kmばかり上流の河川敷に進み、そこで屋形船が斜めに整列する。対岸には長良川うかいミュージアムが見える。

IMG_6686.jpg

その場所でしばらく食事とお酒を楽しみながら、暗くなるのを待つことになる。
上の画像は観覧船で戴いた弁当だが、食事を初めてしばらくしてから、ホテルの船が来て、アユの塩焼きが届いた。船の上で食事をするのもなかなか楽しいものである。
隣の船は団体さんで、随分盛り上がっていた。

長良川鵜飼いの観覧船

観覧船の中は禁煙なので、たばこを吸う人は河川敷に降りて一服して時を過ごす。トイレは、専用の船がいくつか係留されているので困ることはない。

花火が上がると、いよいよ鵜飼が開始となる。

最初は6艘の鵜舟が川を下りながら狩りをする「狩り下り」だが、この日は雨のあとで水量が多くて流れが速く、川の水も汚れていたのか鵜が鮎をつかまえるところや、鵜を船縁に上げて鮎を吐かせるような場面を見ることはできなかった。
それでも篝火を燃やした鵜舟が近づき、風折烏帽子に腰蓑姿の鵜匠が手縄で鵜を操る姿を見ると妙に興奮するものだ。

しばらくして鵜舟は再び上流に進む。そして6艘が横一列となって下りながら魚を追い込みながら漁をする「総がらみ」が始まる。これが長良川鵜飼いのクライマックスである。

長良川鵜飼2

何枚かシャッターを押したのだが、私の安物のデジカメでは夜の写真はなかなかうまく写らず、ほとんどが失敗作で終ってしまった。
岐阜市鵜飼観覧船事務所で入手した絵葉書の画像しか紹介できないのは残念だ。今度来るときはもっとうまく撮りたいものである。  <つづく>

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
良かったら覗いて見てください。

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-237.html

フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html

フランシスゴビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


関連記事

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう

旅行の3日目は、長良川沿いの「ホテル石金」のチェックアウトを済ませて、最初に岐阜県安八郡神戸(あんぱちぐんごうど)町にある日吉神社(0584-27-3628)に向かった。ホテルからは18kmくらいの距離で40分もかからない。

このブログで、今まで何度か明治初期に仏教施設が徹底的に破壊された「廃仏毀釈」のことを書いてきた。明治までは「神仏習合」があたりまえで、多くの有名な神社に仏像・仏具や仏塔が存在していたのだが、明治維新後にそれらのほとんどが破壊されるか、寺院に移されるか、売却されてしまった。
ところがこの日吉神社では、当時の住民たちの努力によって三重塔と仏像が残されていることに興味を覚えたので、旅程の中に組み入れていた。

日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられているが、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社としてこの日吉神社は発展したという。
参道の左右にはむかし寺院があったことを示す石碑がいくつか建てられていて、参道を過ぎると右手に均整のとれた三重塔が見えてくる。

日吉神社三重塔

この三重塔は永正年間(1504-21) 斉藤利網により再建され、天正13年(1585年)稲葉一鉄が修造したものだそうだ。 室町時代の建築様式を伝える貴重なもので、国の重要文化財に指定されているという。神社の立札によると、斉藤利網という人物は春日局の父である斎藤利三の伯父で、稲葉一鉄は春日局の叔父になるのだそうだ。

日吉神社拝殿

正面には拝殿があり、有名な「神戸山王まつり」の時には神輿が7基安置されるのだそうだ。中央の本殿は県の重要文化財に指定されている。
また玉垣中央石段の左右には百八燈明台(県重要文化財)があるが、これは本来寺院にあるもので、神社の社前にあるものとしては珍しいという。

社殿の東側に収納庫があり、その中には平安時代の木造十一面観音坐像2体と、木造地蔵菩薩坐像、安土桃山時代の狛犬一対が納められていていずれも国の重要文化財に指定されている。
これらの文化財は普段は公開されていないようだが、岐阜県安八郡神戸町のホームページに仏像などの画像が紹介されている。仏像の印象は、どちらかというと純日本的で、まるで神像のようである。
http://www.town.godo.gifu.jp/event/event15.html

神仏習合の頃の寺社がどのようなものであったのかは、今は知ることが難しくなってしまったが、神戸日吉神社は、境内にあったという山王社僧八坊は失われたものの、三重塔や神像・仏像とともに古いものを良く残しており、少しばかり神仏習合の名残を感じさせてくれる神社である。

次いで大垣城(0584-74-7875)に向かう。日吉神社からは8km位なので20分もかからない。

大垣城

大垣城の築城については諸説があるが、天文4年(1535)に宮川安定によって本丸と二ノ丸が建てられたとされ、天守閣については慶長元年(1596)に城主の伊藤祐盛によって造営され、その後改築されたとされている。

戦前の大垣城

今回の旅行で初日に訪れた郡上八幡城は、この大垣城をモデルに昭和8年(1933)に木造で再建されたものであるが、大垣城はその後昭和11年(1936)に国宝指定を受けて郷土博物館として親しまれてきた。しかしながら、昭和20年(1945)7月29日に戦災で惜しくも焼失してしまい、現在の天守閣は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。上の画像は戦前に撮影された大垣城だ。

慶長5年(1600)に石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため美濃国に入り、時の大垣城主・伊藤盛宗が豊臣家家臣で西軍に属していたので、石田三成は大垣城を西軍の本拠地とし、全軍が集まるのを待っていた。ところが、東軍の進出が早く、美濃の諸城を攻略して、9月14日に東軍の総大将である徳川家康が、大垣城に近い美濃赤坂の安楽寺に到着した。
事態を憂慮した石田三成の家老、島左近が東軍に奇襲攻撃を仕掛けることを進言。一計を案じて東軍を誘い出して、予め配置した伏兵と呼応して囲い込んで西軍が勝利している。(杭瀬川の戦い)
http://yss-mms.jugem.jp/?eid=81

しかし、東軍徳川方の作戦におびき出されて、西軍は大垣城に7500の兵を残して関ヶ原に移動し、9月15日には「関ヶ原の戦い」で東西両軍が戦うことになるのである。

南宮大社楼門

大垣城から10kmほど西に走ると、美濃国一宮の南宮(なんぐう)大社(0584-22-1225)がある。
この神社の社殿は「関ヶ原の戦い」の戦火にあって焼失してしまったのだが、三代将軍の徳川家光が寛永19年(1642)に現在の社殿を造営したという。上の画像は楼門(国重文)。下の画像は拝殿(国重文)だが、社殿や摂社の多くが国の重要文化財に指定されている。

南宮大社

この南宮大社から900mほど西に行くと朝倉山真禅院(0584-22-2212)という寺がある。
歴史を調べると天平11年(739)の開基で、象背山宮処寺と号したと伝えられている。
その後延暦年間に、南宮社と宮処寺とを習合して、南神宮寺と号したという。
この寺も関ヶ原の戦いで大半が焼失したのだが、寛永16年(1639)に徳川家光が再建・造営を命じて寛永19年に復興されたとある。

南宮山真禅院

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに、江戸後期の「美濃国南宮社之図」が紹介されている。上の画像はその中心部分を拡大してみたのだが、この図では真禅院は南宮大社のすぐ北にある。また三重塔は南宮大社のすぐ南に描かれている。どうやら真禅院は、明治の神仏分離により、南宮大社のかなり西側に移転されたようだ。

真禅院本地堂

上の画像が国の重要文化財である本地堂。御本尊は、神仏分離前は南宮大社の本地仏であった無量寿如来だそうだ。
下の画像は三重塔で、これも国の重要文化財である。他にも、梵鐘(国重文)、木造薬師如来立像(県重文)、鉄塔(県重文)など貴重な文化財を残している。

真禅院三重塔

minagaさんは、自身のサイトでこう解説しておられる。
南宮社執行真禅院秀覚法印が、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに現在地に移建する。
蓋し明治の神仏分離(神仏判然)の時、自ら進んであるいは殆ど抵抗もせず還俗神勤し、堂塔や仏像・仏画・経典・仏器などを自ら進んであるいは手をこまねいて破壊あるいは売却に任せた寺院・僧侶が多い中で、 真禅院秀覚及び村人の『見識』には大いに敬意を払うべし。」
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/iti_nagusan.htm
minagaさんが指摘しておられる通り、廃仏毀釈の時に多くの寺院の僧侶はほとんど抵抗もせず、そのためにわが国の貴重な文化財が数多く破壊され散逸してしまったのだが、この真禅院では住職や村人たちが、文化財の破壊を免れるよう努力したことが記録に残されているようだ。

関ヶ原歴史民俗資料館

昼食を済ませて、最後の目的地にある関ヶ原に向かう。最初に訪問する「関ヶ原町歴史民俗資料館」(0584-43-2665)へは、真禅院から8km程度である。

この資料館では、「関ヶ原の戦い」を再現したジオラマや、東・西両軍の武将にかかわる資料が展示されているので、最初に訪問して戦いの全体像を掴むのに良い。
また車で古戦場を周ろうと考えている方は、田舎の道なので細い道が多く、どの道順で行けばよいかなどを予め聞いておくことをお勧めしたい。

関ヶ原の戦いについてはいずれ書く機会があると思うが、簡単に戦いの流れを記しておきたい。

関ヶ原合戦

慶長5年(1600)9月15日、天下の覇権を狙う徳川家康率いる西軍と、それを阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍がこの関ヶ原を舞台に、天下分け目の戦いを行なった。
当日は朝から深い霧で覆われていたが、それが少し晴れた午前8時頃に東軍・井伊直正によって決戦の火蓋が切って落とされた。
西軍8万4千人に対し、東軍は7万4千人で、陣形においても西軍は山や丘を見事に押さえて有利な陣形にあったのだが、小早川秀秋の寝返りのあと、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り、戦局が一変してしまう。
西軍の小西行長隊、宇喜多秀家隊の敗走のあと、石田三成隊も敗走し、決戦は開始より6時間余りで決着し、東軍側の勝利に終わっている。

関ヶ原 家康最後陣地

資料館のすぐ近くに陣場野公園があり、ここが徳川家康最後陣地(国史跡)で、西軍将士の首実検をしたところでもある。

岡山烽火場

この場所から車に乗って、陣場野交差点を右折し、丸山交差点を超えると小高い山に岡山烽火場が見える。この見晴らしのよさそうな場所で黒田長政と竹中重門が陣を置いたという。

関ヶ原 決戦地

車をUターンして、陣場野交差点を左折し、1筋目を右折すると、関ヶ原決戦地(国史跡)が見えてくる。
この近辺では東軍の諸隊が石田三成の首を狙って激戦が繰り広げたとされる。

関ヶ原 石田三成陣地

その北800mほどのところに笹尾山の石田三成陣地(国史跡)がある。
この場所は関ヶ原を一望でき、山麓には島左近の陣跡がある。5分程度坂を登ればこの場所に到着する。

関ヶ原 開戦地

笹尾山からほぼ南の位置に開戦地(国史跡)がある。地形を頼りに細い道を走って辿りついた。東軍の先鋒は福島正則隊と決まっていたのだが、決戦の火蓋を切ったのは井伊直正隊で宇喜多秀家隊に対して発砲したのがこの場所だという。

先に進めば宇喜多秀家の陣跡や、大谷吉継の陣跡と墓などがあるのだが、3日間の旅で結構疲れたので、最後に不破の関資料館(0584-43-2611)に向かうことにした。

美濃不破の関資料館

672年に、関ヶ原を舞台に起きたもう一つの「天下分け目の戦い」があった。
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗を翻した、「壬申の乱」である。
戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇となり、673年に飛鳥御原宮を守るために、この地に「不破の関」を置き、さらに鈴鹿関、愛発関(あらちのせき)を設置したとされている。
そして、この不破の関を境に、現在の「関東」「関西」の呼称が使われるようなったことは有名な話だ。

不破関跡

この資料館の裏に不破関跡があるが、発掘調査によると、昔は広さが12万㎡にも及び、不破関資料館もその敷地の中だったという。

不破関跡の庭に松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「秋風や 藪も畠も 不破の関」
芭蕉がこの地を訪れたときには不破の関は跡形もなく、藪や畑になっていたことを詠んだ句なのだそうだ。芭蕉も旅に出る前には、結構歴史を学んでいたことがわかる。

今回の岐阜旅行も、観光地としてはあまり有名でないところをいくつか巡ってきた。
何も知らなければただの田舎の風景があるだけの場所も、歴史を調べてからその地を訪ねると、芭蕉のように句は詠めないが、旅行が少しばかり味わい深くなるものである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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