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世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って

滋賀県大津市坂本の観光の途中で明智家の菩提寺である西教寺(さいきょうじ)に立ち寄り、光秀の墓の案内文に違和感を覚えたので、しばらく脱線して「明智光秀=天海説」について思うところを書いてきたが、再び滋賀の旅のレポートを続けることにしよう。

西教寺をあとにして、湖西道路を北に進み、雄琴IC口を左折し、仰木郵便局前から奥比叡ドライブウェイに入る。ちょっと割高な有料道路だが、よく整備されていて走りやすく、秋の紅葉時期は結構楽しめそうだ。

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大津市坂本から車で比叡山に登るのは北の仰木ゲートから奥比叡ドライブウェイに入るか、南の田の谷ゲートから比叡山ドライブウェイに入るかのいずれかだが、延暦寺の諸堂を訪れるのならば、両方の有料道路を使って縦走する方が割安になる。
奥比叡ドライブウェイや比叡山ドライブウェイを走る際に忘れないでほしいのが割引クーポン券。ネットで簡単に手に入るので、延暦寺に自家用車で行かれる方は、事前にプリントアウトされることをお勧めしたい。
http://www.hieizan.co.jp/access/coupon.html

奥比叡ドライブウェイは初めて走ったのだが、途中で琵琶湖が望める見晴らしの良い場所がいくつもある。
路肩に車を停めて琵琶湖の景色をカメラに収めたが、中央に見える橋が琵琶湖大橋で、湖に浮かぶ島は「沖島」と名付けられている琵琶湖最大の島だ。

琵琶湖大橋を臨む

昔は、この島に余り人が住んでいなかったようだが、保元・平治の乱(1156~1159)のあとに源氏の落ち武者7人が山裾を切り開き漁業を生業として住み着いて以降、本格的に人が住むようになったという。
昭和の時代は漁業と石材業で栄えて人口が800人近かったそうだが、急激に過疎化が進んで現在の人口は350人程度だという。
それでも淡水湖にある島でこれだけ人口のある事例は珍しいのだそうだ。住民のほとんどが漁業に従事していて、車の代わりに一家に一艘の船があって島には信号が一つもないという。
http://matome.naver.jp/odai/2139738895869575501

琵琶湖の景色を楽しんだのち、ドライブを再開して比叡山延暦寺に向かったのだが、ここで簡単に比叡山延暦寺の歴史を振り返っておこう。

最澄

比叡山を本格的に開いたのは伝教大師最澄(さいちょう)で、奈良東大寺戒壇院で受戒したのち比叡山に入り、延暦7年(788)に薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創建したと伝えられている。
その後最澄は唐へ渡り、帰国したのち天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂(こんぽんちゅうどう)と名を改め、弘仁14年(823)に「延暦寺」と称することの勅許を得て、この寺は鎮護国家の祈禱道場となり、京都御所の鬼門を守る寺として不動の地位を占めることになる。

昔は比叡山も神仏混淆であり、神と仏は同一であった。
延暦寺は自らの意に沿わないことがあると、僧兵たちが神輿を奉じて強訴するという手段で勢力を拡大し、Wikipediaによると「祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を『境内』として認められ、朝廷権力からの『不入権』を承認された」とあるが、京都から滋賀のかなり広い地域が延暦寺の影響下にあり、ほとんど独立国のような状態が長く続いたようである。

延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられて南都北嶺と恐れられ、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残している。「山法師」とはもちろん比叡山の僧兵のことである。

しかしながら有能な僧を輩出したことも記しておく必要がある。鎌倉仏教の宗祖の多くがこの延暦寺で修業している。浄土宗法然、浄土真宗親鸞、日蓮宗日蓮、曹洞宗道元、臨済宗栄西らはすべて、延暦寺で学んだのである。さらに六歌仙の一人、僧遍照や、『徒然草』を著した吉田兼好も延暦寺で修業をした人物である。

この延暦寺を初めて制圧しようとした権力者は室町幕府六代将軍の足利義教で、永享7年(1435)に謀略により有力僧を斬首し、絶望した僧侶たちは根本中堂に火を放ち、多くの堂宇や仏像が焼失したそうだ。(根本中堂は宝徳2年[1450]に再建)
しかし延暦寺は再び武装して、勢力を回復したため、明応8年(1499)に管領・細川政元が延暦寺を攻め、再び根本中堂を焼失させたという。

織田信長

また織田信長は、延暦寺が全国統一の障害になると考え、元亀2年(1571)に比叡山の焼き討ちを実行している。
『信長公記』にはこう記されているのだが、ここまでやったのかと驚いてしまった。
「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」とすさまじい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)

山王21社というのは、今回の滋賀の旅行の最初の記事で記した大津市坂本にある日吉神社のことで、八王子山というのは、日吉神社の奥宮のことである。
信長は延暦寺だけを焼き討ちしたのではなく、麓の坂本から火を放ち、僧侶だけでなく女子供も多数殺したのである。そして信長はこの焼き討ちの後、明智光秀に志賀郡を与え、光秀は日吉神社に近い坂本に居城を構えたのである。

その後、豊臣秀吉や徳川家康によって延暦寺の諸坊は再建され、荒廃した坂本も家康が南光坊天海に命じて再興させたのだが、家康の死後に江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、延暦寺の権威を復活することはできなかったようだ。 

奥比叡ドライブウェイを走って、まず最初に向かったのは7km程度先の「横川」である。

比叡山延暦寺には全部で133もの堂宇があるそうだが、延暦寺は横川中堂を中心とする「横川」と、転法輪堂などがある「西塔」と、根本中堂を中心とする「東塔」の3つの地域に大きく分けられる。
「延暦寺」は平成6年(1994)に、ユネスコの世界文化遺産に登録されているのだが、「延暦寺」という名称の個別の寺院が存在するわけではなく、この3つの地域を総合して「延暦寺」と呼ぶのだそうだ。

奥比叡ドライブウェイを途中で左折して、延暦寺の横川(よかわ)駐車場に到着する。
横川は、最澄の教えに従って第3代天台座主の円仁(慈覚大師:794~864)が開いたと伝えられている地域である。

横川中堂

上の画像は横川中堂で、嘉祥元年(848)に聖観音像と毘沙門天像を安置して円仁が建てたと伝えられているが、信長の焼き討ちで焼失してしまい、慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって再建されるも、昭和17年(1942)に落雷により再び焼失し、現在の建物は昭和46年(1971)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
ところが、これだけ多くの難に遭ったにもかかわらず、平安時代に制作された本尊の聖観音立像が残されていて国の重要文化財に指定されている。

元三大師堂

横川中堂から鐘楼に向かい、左に折れると元三大師堂(がんざんだいしどう)がある。
元三大師というのは第18代の天台座主を務め、比叡山延暦寺の中興の祖と言われる良源(慈恵大師:912~985)の尊称である。命日が1月3日であることから元三大師と呼ばれるようになったという。

おみくじ発祥の地

元三大師堂の近くにこんな石碑が2つ建っていた。
ひとつは「元三大師と角大師の由来」と書かれた石碑で、上部に「角(つの)大師」の絵が描かれている。

375px-Ryogen1.jpg

この絵は、永観2年(984)に全国で疫病が流行したときに、良源がこのような鬼の姿に化けて疫病神を追い払ったという言い伝えがあり、この絵を描いたお札が魔除けになるとして京都や坂本に拡がったという。今ではこのようなお札を見ることがほとんど無くなってしまったが、子供のころに、実家や友人の家の神棚に「角大師」の絵が描かれたお札があったのを良く見た記憶がある。

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もうひとつは「おみくじ発祥の地」と書かれた石碑。多くの神社仏閣でみられる現在のおみくじの原型は良源が創始したと伝えられているようだ。

横川の駐車場から西塔に進む。

延暦寺 常行堂

駐車場から歩いてすぐに常行堂(じょうぎょうどう:国重文:上画像)と法華堂(国重文)が左右に並んでいる。この2つのお堂は文禄4年(1595)の建築で、間に渡り廊下が配されていて、弁慶がこの廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、「にない堂」とも呼ばれているのだそうだ。いずれも内部が一般公開されていないのが残念だが、訪れた日は中で修業が行なわれていたようである。

延暦寺 西塔釈迦堂

にない堂の渡り廊下を門のようにしてくぐってしばらく進み、石段を降りると転法輪堂(釈迦堂:国重文)がある。この大きな建物は、織田信長による焼き討ちのあと、文禄4年(1595)に秀吉の命により、園城寺の弥勒堂(貞和3年[1347]頃築)を移築したもので、比叡山では最古の建物だそうだ。本尊は木造釈迦如来立像(国重文)である。

西塔から東塔に進む。
駐車場の近くにある国宝殿がある。
延暦寺は何度か火災に遭っているため、古い仏像はあまり残されていないのではないかと思っていたが、鎌倉時代や平安時代の仏像が結構残されていた。

延暦寺 戒壇院

上の画像は戒壇院(国重文)で、戒壇とは仏門に入る者に戒法を授けることを言う。立派な建物だが中には入れなかった。
戒壇堂の西には昭和52年に再建された法華総持院の諸堂がある。

東に進むと、いよいよ東塔の中心地区になる。

大講堂IMG_7042

上の画像は大講堂(国重文)で、結構大きな建物である。
案内板には「昭和31年の旧堂の焼失後、山麓坂本にあったものを移築した」と書かれているのだが、こんな立派な建物を坂本のどこから移築したのか気になって調べたところ、午前中に訪れた日吉東照宮にあった本地堂を移築したようだ。
日吉東照宮は創建時は延暦寺の末寺であったが、明治の廃仏毀釈のあと、明治9年に日吉大社の末社となったそうだが、神社には「本地堂」は不要なので手放したという事なのだろう。日吉東照宮が「西の日光」と呼ばれているにしては随分狭くて違和感を覚えたのだが、その理由がよくわかった。

延暦寺根本中堂

大講堂から少し東に行くと、国宝の根本中堂がある。この建物は全国で3番目に大きい木造建築で、三方を廻廊で囲まれている。
内部は、人々が座る外陣が高く、天皇の御座所となる中陣が一段低くなっていて、中央の本尊の木造薬師如来立像と同じ高さになっているという。
内陣は格子戸があって見えにくいが、大きな厨子があって、その前に1200年以上ともし続けられているという「不滅の法灯」がある。

この「不滅の法灯」については、元亀2年(1571)の信長の焼き討ちにより失われているはずだと誰でも考えるところだが、天文12年(1543)に山形県の立石寺という寺にこの「法灯」を分灯した記録が残されていて、この灯名が再建された根本中堂に運ばれたのが天正17年(1589)なのだそうだ。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page011.html

しかし、いろいろ調べていくと『太平記』巻五に『中堂新常灯消ゆる事』という記事が書かれている。簡単に記すと根本中堂の内陣に鳩1つがいが飛んできて、新常灯の油つぎの中に飛び入り、暴れたので燈明が消えてしまった事が書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877613/102
このことは重要文化財である『花園天皇宸翰御消息』にも書かれているので史実であることは間違いなさそうだ。
http://www.emuseum.jp/detail/101087/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%B0%8A%E5%86%86&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=6

同様のことは1200年以上の歴史の中で、何度かあったのかもしれないが、灯明はおそらく比叡山の中や各地の天台宗の寺院に分灯されていたので、灯りをつなぐことが出来たのだと思う。たとえ何度か灯りが消えたことがあったとしても、その灯りを千年以上にわたって守ろうとしてきたことが尊いのである。

そのことは、わが国の伝統や文化を世代から世代に繋いできたことと良く似ている。
各時代の人々がかけがえのない価値を感じたものを、次の世代に残そうとすることによって、わが国の文化や伝統が洗練されながら、継承されてきたのであるが、これからも是非そうあってほしいものだと思う。

延暦寺の根本中堂でそんなことを考えながら、滋賀の旅を終えることにした。
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家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。

国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818

徳川家康

外様大名に対しては、家康はこう述べたという。
「…大樹天下の政(まつりごと)を統領すれば、我なからん後の事、更に憂(うれい)とせず。ただし大樹の政策ひが事あらんには、おのおの代わりて天下のことはからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…」

第2代の将軍となった家康の嫡男の秀忠による政治が、もし道を外れて多くの人々が苦しむことになれば、誰でもその座に変わるが良い。天下は一人のためのものではなく、すべての人のためにある。誰が天下を治めようとも、人々の幸せに通じるのなら家康はそれを恨むことはないと、なかなか立派な事を述べている。

しかしながら、家康は2代将軍秀忠に対しては、
「天下の政において、いささか不道(ふどう)あるべからず。諸国の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、おのおの代わりて政柄(せいへい)を取るべしと遺言しぬ。もしまた諸国の大名、大樹の命に背き、参勤に怠る者あらんには、一門世臣というとも、速やかに兵を発し誅戮すべきなり。さらに親疎愛憎をもって、政事をみだるべからず。…」
と全く抜け目がない。

金地院崇伝

また、家康は自分の葬儀のことまで詳細に指示したようである。
黒衣の宰相と言われた金地院崇伝(こんちいんすうでん)が残した日記(『本光国師日記』)によると、徳川家康は金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を枕元に呼んで、自分の死んだあとのことをこう述べたという。
「御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候」

すなわち家康は、自分の遺体を駿府城の近くの久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に建て、1周忌の後に日光に小さな祠を立てて関東の守り神として勧請することを指示したという。

そして家康は4月17日に駿府城にて75歳で逝去し、金地院崇伝の日記に記された通り、遺骸は直ちに駿河の国の久能山に移されて、仮殿竣工の十九日夜は、将軍秀忠以下、家康に近仕した家臣をはじめ数百人の葬列が続いて、柩を仮殿に移したという。

4月18日と19日の両日にわたって久能山でとり行われた葬事は、金地院崇伝が吉田神道(唯一神道)によって取り仕切ったのだが、このやり方に南光坊天海が異議を唱えている。

天海によると、家康公の本当のご遺言は、葬儀は吉田神道に偏することなく、山王一実の習合神道にて行うことであったと言うのだが、家康がこのような遺言をしたことは誰も知らず、おそらくは天海の創作であったのだろう。

徳川秀忠

ところが、第二代の将軍の徳川秀忠はこの天海の説を支持したという。
その理由は作家の今井敏夫氏の論文『二つの東照宮・久能山と日光』がわかりやすく書かれていて、全文をネットで読むことができる。ポイントとなる部分を引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「秀忠が天海の言を採り上げた理由には二つあった。一つは駿府の大御所政治の残影を払拭し、江戸将軍政治への一元化である。家康の生存中、秀忠は何事も駿府の指図を仰がねばならなかった。その駿府で側近として権勢を振るっていたのが本多正純である。家康没後の正純は幕府の閣僚に加わることになっていたが、秀忠は内心快く思っていない。秀忠には土井利勝、酒井忠世らのブレーンがおり、正純はむしろ排斥したい存在だった。政治嗅覚の鋭い天海は、この辺りの情勢を読み取り、新実力者土井利勝に運動したのであろう。
 二つには、駿府城主徳川頼宣の存在がある。頼宣は家康の十男で、当時十五歳であったが、晩年の家康が手元において訓育したほどだから、幼少から英邁の誉れ高く、すこぶる出来の良い男である。東海道の要衝を治め、徳川家の精神的象徴となる久能山の霊廟をひかえている。しかも家康廟の造営は頼宣であり、以降、祭祀とその守護にあたることになっている。」

将軍秀忠にとっては徳川頼宣は弟になるのだが、秀忠の嫡男である家光とは2歳しか離れておらず、しかも頼宣は英邁であり久能山の霊廟を守護する立場にある。いずれ家光の強力なライバルになることは目に見えていた。頼宣を早い時期にたたいておく必要を秀忠が認識していた可能性はかなり高そうだ。事実、秀忠は家康死去の3年後に、頼宣を紀州に転封している。 
家康が亡くなったことで、将軍秀忠が幕府の主導権を掌握し、嫡男・家光に跡目を継がせるためのかけひきが、家康の葬儀から始まったということだ。

かくして天海は将軍・秀忠を味方につけた。
そして、江戸城で家康の神号を決める論争が始まった。
金地院崇伝は神号を「大明神」とすべきだと主張し、天海は「大権現」とすべきだとしたのだが、天海は、「大明神」は秀吉を祭祀した「豊国大明神」と同じで不吉であると主張して崇伝を論破し、祭祀の主導権を握ることに成功したのである。

南光坊天海

家康の神号は「東照大権現」に決定され、11月になると天海は日光の地に社殿の建築を開始する。天海が主張していた通り日光では山王一実神道が採用されて、薬師如来を本地仏とする神仏習合で祀られることになった。造営は元和3年(1617)4月の1周忌に合わせて進められ、わずか5カ月ほどで落成したという。 (『元和御造営』)

ここで家康の遺言を思い出していただきたいのだが、家康は「一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ」と指示していたことである。そのために、最初に造営された日光東照宮の規模はかなり小さく、現在残されている豪華絢爛な日光東照宮とは全く異なっていたようだ。
『仮名縁起』の「元和御造営御宮の図」に描かれた拝殿は五間×三間*しかなく、奥宮の家康廟も白木の塔であったという。もし日光東照宮が元和御造営のままであったなら、世界遺産に指定されることは考えられないところだ。
*間(けん):1間=6尺=1.818m

久能山から日光へ、家康の遺体が本当に運ばれたかどうかはよくわからない。死後1年も経過して、かなり腐敗していただろうから、運んだとしても遺髪とか爪のようなものであったのかも知れないが、『徳川実記』には、「久能の宮の奥で神秘の事を取り計らった」と記されているそうだ。
そして元和3年3月15日に久能山から日光に向かって霊柩を運ぶ1300人もの行列が出発し、4月8日にその霊柩は日光東照宮の奥院に埋葬され、14日に御神霊を仮殿に移し、17日に正遷宮の儀式が執り行われたという。

しかしながら日光東照宮はその18年後に荘厳な社殿への大規模改修が行われることになった。なぜ建築して日の浅い東照宮を建て替えるに至ったのか。

その経緯が、先ほど紹介した今井敏夫氏の『二つの東照宮・久能山と日光』にわかりやすく書かれている。
再び引用させていただく。
「久能山東照宮は1年7ヶ月を要して完成した。屋根は桧皮葺(のち銅版葺)ながら、概観は壮麗。細部にわたり彫刻・絵画・色彩金箔を施し、本田の左右・背面は黒漆で仕上げ、その華麗さは目を奪った。にわか造りの元和の日光東照宮とは比べものにならない。東照宮は御三家の尾張、紀伊、水戸にも勧請され、続いて上野寛永寺、南禅寺金地院、仙波喜多院、坂本日吉にもそれぞれ豪壮・華麗な社殿が造営された。天海にすれば、自分が支配する日光東照宮が元和創建の社殿では見劣りがしてならない。そこで大造営をしたいが、まだ秀忠や崇伝が健在であり、『日光に小廟を建てよ』という家康の遺言は無視することはできない。しかし、寛永9年秀忠が没し、翌10年には金地院崇伝も亡くなると、もはや家康の遺言や当時の真相を知る者がいなくなった。
 三代目家光は自分を将軍にしてくれた祖父家康を崇敬すること甚だしく、…そんな家光の性格を見抜いて、天海は日光東照宮の大造営を勧めたのである。家光は当然のこと、幕府首脳も徳川政権の力強さを天下に知らしめす一大事業を行う必要があった
。かくして寛永大造営は、天海、家光、幕府首脳のそれぞれの思惑が一致したことから興されたのである。」

かくして日光東照宮は、わずか1年5ヶ月という短い工期で、五間×三間の小さな拝殿から豪華絢爛の建造物に生まれ変わったのである。
『日光山東照大権現様御造営御目録』という文書に、この寛永の大造営の総工費が「金56万8千両、銀百貫匁、米千石」であったことが記されていることが日光東照宮のホームページで紹介されている。
http://toshogu.jp/shaden/

日光東照宮

現在のお金でいくらになるかは、数百億円から数兆円まで諸説があるが、『日光山東照大権現様御造営御目録』の総工費には、大工や職人らの人件費をどこまで織り込んでいるかよく分からない。
『日本史まるごとHowマッチ』という本に、建物建築費2,500億円・内外装人件費3,500億円・内外装材料費2,000億円で合計8000億円と試算されていることが次のURLに紹介されている。動員されたのは大工・木挽き職人170万人、雑役280万人と書かれているが、この数字が正しいかどうかは見当もつかない。
http://d.hatena.ne.jp/fushikian15301578/20121001

しかしよくよく考えると、数千億円程度ならば安いと考える人がいてもおかしくない。
平成23年のデータだと、日光市を訪れた観光客は862万人。うち日光に宿泊した観光客は276万人なのだそうだ。観光客が平均3千円、宿泊客が平均15千円を日光市で支出したとすると、毎年673億円が日光市のホテル・旅館、社寺、商店、飲食店などの収入になる。日光東照宮が、ほぼ400年にわたって日光周辺の繁栄に貢献してきたことは間違いがないことだ。
日光神橋

ところが、今のわが国の公共事業にはどう考えても無駄だと思われるものが少なくない。
次のURLに、学者・ジャーナリストからなる「21世紀環境委員会」が『無駄な公共事業100』を選定し公表しているが、1件で数千億円にも及ぶ案件が満載だ。工事の中には地元は殆んど潤わず、建築を受注した業者ばかりが潤うような案件がいくつかありそうだ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm

高級官僚の天下りポストを作るために、閑古鳥の鳴くようなハコモノを建てたり、車がほとんど通らない道路を建設することに、今までどれだけの多くの血税がつぎ込まれてきたことであろうか。文化的に魅力の少ない地方が少々便利になった程度では、都会から観光客を呼べるはずがないのだ。
地方が潤わないような工事に税金を使うくらいなら、地方の貴重な文化財の価値を失わないようにすることや、地方にわが国の最高の職人を集めて、将来の国宝となりうる建造物をいくつも建造することに支出する方が賢明ではないか。
今のわが国に歴史的価値のある文化財が豊富なのは、過去の為政者が、風光明媚な場所にそれぞれの時代の最高の建築物や絵画などを後世に残そうとしてきたことが大きいのだと思う。そのような姿勢が、今のわが国に少しくらいあっても良いのではないだろうか。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html




関連記事

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。


板垣退助像

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政府は同日の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えず、さらに慶喜に内大臣の官職と領地の返上を命じている。当然旧幕府側はこの措置に強い不満を抱いた。

鳥羽伏見の戦い

そして翌年の1月に、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間で、京都の近くで武力衝突が起こり、新政府軍はこれに勝利した。世に言う「鳥羽伏見の戦い」で、「戊辰戦争」はこの戦いよりはじまる。

新政府軍は徳川慶喜を朝敵として江戸へ軍を進め、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との交渉により、江戸は戦火を交えることなく新政府軍に占領された。

しかし一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗して各地で新政府軍と戦ったのだが、彼らの中には徳川政権の聖地日光廟で決戦を行なおうとするメンバーがいた。
慶応4年(1868)4月12日に下総市川の国府台を出発し北上を開始した旧幕府側の歩兵隊約2千名は、日光に向かう途中の宇都宮で新政府軍と激突した。

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Wikipdiaの「宇都宮城の戦い」によると、「この歩兵隊は、当時最新鋭の火器を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総国松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野国壬生・鹿沼および真岡へと向かった。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

宇都宮城

この「宇都宮城の戦い」における旧幕府軍残党勢力と、東山道総督府軍を中心とする新政府軍との戦いは、当初は旧幕府軍が優勢であったが最終的には新政府軍が勝利し、その結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、宇都宮二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したそうだ。

新政府軍の猛攻を受けて、これ以上の宇都宮城の維持は難しいと判断した大鳥圭介は、指揮下の軍勢に宇都宮城から脱出して日光への退避を指示し、このあとは戦いの舞台は日光に移り、旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟を背景に日光山に陣を張ったという。

この時に、旧幕府軍の大鳥圭介らと対峙したのが、新政府軍の板垣退助であった。

板垣退助

板垣は鳥羽伏見開戦の直後に土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、江戸に向かって新政府軍に加わり、東山道先鋒総督府参謀として関東地方を中心にゲリラ戦を展開している旧幕府の大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊の討伐を命じられていたという

『我が愛すべき幕末』というサイトに『板垣退助と日光東照宮』という記事がある。
関連する部分を引用させていただく。

「板垣は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥らが日光東照宮のある日光山を本拠として立てこもっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、鹿沼という場所において、日光の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように言いました。

『日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立てこもる限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ』

 板垣は大鳥ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。
 この板垣の言葉に動かされた日光の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
 旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行ないました。その板垣のとった立派な態度は、東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu13.htm

板垣を「日光の恩人」であると説明する文章はだいたいこのように書かれているのだが、旧幕府軍の大鳥らが下山したのは板垣の説得によるものと解釈することは正しいのだろうか。

大鳥らが宇都宮から日光への逃避行をしている間に、旧幕府軍には士官・兵士の脱走が相次ぎ、脱走の際に大量の軍資金が持ち逃げされていたようだ。さらに小銃の弾薬が不足していたし、その補給の目途も立たなかった。その上、勇猛な桑名藩兵が4月25日に藩の事情により離脱していたことも大きかったと思われる。

戊辰戦争について詳しく調べておられる『上杉家の戊辰戦争』というホームページで「野州戦争* 第三章:板垣退助と大鳥圭介、今市の地で激突」を読むと、このあたりの事情がかなり詳しく記されている。(*野州=下野国[現在の栃木県]のこと)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/utunomiya/imaichi.htm

新政府軍にすれば、堅固な石垣に囲まれた日光山に篭る大鳥軍を撃破するためには、土佐藩兵から多くの犠牲者が出ることが避けられない。
また旧幕府軍からすれば、日光山は堅固な要害ではあったにせよ、補給の当てがない状態で新政府軍と戦っても勝てる見込みはなく、日光山で玉砕することが避けられない状況にあったようだ。

『會東照大権現』というホームページの『野州戦史料』には、戊辰戦争の野州戦争に関わった人々が書き記した記録の原文が多数紹介されている。
http://www.geocities.jp/aogiri40/siryou.html

4月26日の『日光山東照宮記』によると

廿六日の早天に、別当僧大楽院、卒爾に東照宮神体、並在世の宝器類を荷て山中に入り、栗山村に退き、兵威を避けんと擬して、一社当直の人共に荷を持たしめ奔出つ。」
とあるように、日光東照宮では最悪の事態を考慮して御神体や宝物類を運び出し、3日かけて会津若松城の三の丸南方の東照社に安置したことが記されている。それほど戊辰戦争の戦渦に巻き込まれる可能性が高かったのである。

大鳥圭介

また同じホームページで、旧幕府軍の大鳥圭介が記した『南柯紀行』の4月29日の記録を読むと、大鳥軍のこの日の軍議が二つに割れたことが記されている。

「兵隊中議論二種あり、甲は今此に弾薬兵粮の儲(たくわえ)もなく、持久せば不日困迫に至るゆえ一旦会津境内に入り一体の規律を調え薬粮を備え而して後再び帰り来るを良とすと、乙曰く今眼前に敵兵の来るを見て一戦も為さず会領に入るは武人の恥ずるところなり、薬弾は乏しと雖も血戦して神廟の前に死せば是れ元より願う所の墳墓の地なれば遺憾なしと云。両説共に理あり。乍去乙は真に愉快の見識なれども衆人の行いがたきところにしえ、歩兵共にて殊更土崩瓦解を免れず、故に予は甲説の方穏やかにして全隊を取締るにも最も良しと思えり、因て本日早朝各隊の士官を集会し各別に異見も之れなき故に、今より先ず傷者を運出する手筈を為し今晩にも爰許出発可然と各隊へ令を伝えり。」
http://www.geocities.jp/aogiri40/0429.html

谷干城

かくして、大鳥軍は抗戦を続けるために、29日の夜半から会津藩を目指して脱出を開始しのだが、新政府軍の谷干城(土佐藩)が記した『東征私記』を読むと、その29日の記録はこうなっている。

明日日光を進撃に決議せり。余四五輩を師い物見として関門より五六丁進行の所、赤衣の僧両人従僕五六人を連れ扇を振い来る。蓋し発砲を恐れてなり。余の前に来り恭しく礼して隊長に面談を乞う。余云、我れは土州の軍目付なり、何にても我れ承るべしと云。僧云、然れば暫く此の方へ御出て被下度とて、傍らの明き屋に入り、密(ひそか)に余に語りて云、拙僧は日光の櫻本院、安居院の両人なり。何分暫時の所御進軍御差止め被下度、山内にて戦争に及び候ては険難の地故御怪我も少かるまじ、且神廟寺院も如何相成るやも不計万々心痛に付、是非共暫く御止り被下度と達々相頼み申すにつき、余応じて云、我輩朝命を奉じ賊徒討伐の為来れり、貴僧如何計り懇願すとも、賊の籠りたるを知りながら私に軍を止むることは出来ず、人を損ずるは戦地の習い固より顧る暇なし、併し神廟に放火するは全く不忍所なり、…貴僧彼輩を督責して云べし、進で官軍に当る歟(か)又は軍門に降参する歟、速に索を可決、居ながら官軍を引受て神廟を汚すに至るべからずと。」

このように、新政府軍が翌日に日光を攻撃することは軍議で決定していたのである。
二人の僧侶が現われて、「日光への進軍を思いとどまって欲しい」と懇願してきたが、谷干城は「賊軍が立て籠もっていることを知りながら進軍を止めることはできない」と答えた上で、「日光に残って官軍と戦って神廟を汚すな」と言ったのである。新政府軍は進軍を止めると答えたわけではないのだ。

大鳥軍が日光山を退去したことを知らされないまま、閏4月1日に新政府軍は旧幕府軍との交戦を想定して進軍をはじめたのだが、日光山に到着してみると、予想に反して日光山はもぬけの殻だったというのが真相である。

日光東照宮

かくして、日光東照宮や二荒山神社や輪王寺などの寺社はギリギリのところで戦火から免れたのだが、このような事情を知ると、板垣が旧幕府軍を説得して日光の社寺を兵火から守ったという通説が正しいとは、誰も思えないだろう。新政府軍は旧幕府軍の日光退去を条件に戦闘をやめたわけではなく、軍議通りに日光に進軍したところ、相手が退去したあとだったので戦争にならなかっただけのことなのだ。

板垣退助率いる新政府軍が旧幕府軍に圧力をかけたことが、結果として旧幕府軍を神域から退去させ、日光を戦いに巻き込まれることから防いだ、とでも書くべきところなのだろう。
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正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-173.html

東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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