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紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。

輪王寺逍遥園

最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えられている。
10月下旬だというのに結構紅葉していたのは嬉しかった。日光の紅葉は関西よりも2週間以上早いようだ。

東日本では最大の木造建築物である三仏堂(国重文)が50年ぶりの大修理中のために、仮囲いで覆われていたのは残念であったが、ほとんど解体された工事現場を見てもそれ程面白いものではない。完成するのは平成30年の予定だという。

今はごく一部を観ることができるだけだが、「三仏」というのは木造千手観音坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造馬頭観音坐像で、これらは二荒山神社の御祭神にあたる日光三所権現の本地仏である。

木曽路名所図会 日光

三仏堂は今では輪王寺の中心施設であるが、明治時代初期までは二荒山神社本社の東側(現社務所)にあったようだ。
『木曽路名所図絵』巻之六に江戸時代の日光の絵が描かれているが、日光東照宮の五重塔と新宮(二荒山神社)の間に三仏堂と相輪橖(そうりんとう)があったことが分かる。
前々回の記事で記したとおり、明治に入って神仏分離令が出され、三仏堂は相輪橖とともに二荒山神社の東側から輪王寺の境内に移されたのである。

輪王寺糸割符灯籠と相輪橖

上の画像の中央にあるロケットのようなものが相輪橖(国重文)だが、これは寛永20年(1643)に慈眼大師天海が比叡山延暦寺にある伝教大師最澄建立の相輪橖を模したものと伝えられている。塔内に千部の経典を収蔵されているという。
その横には慶安元年(1648)に生糸貿易をになう糸割符(いとわっぷ)仲間が、徳川家康による生糸貿易の特権付与に対する謝意を表して東照宮に寄進した唐銅製灯籠(糸割符灯籠)もある。

輪王寺護摩堂の紅葉

相輪橖の左には大護摩堂があり、中では護摩壇に火が点っていて、ちょうど護摩祈願が行なわれているところであった。ここでは朝7時半、午前11時、午後2時に毎日護摩祈禱が行なわれていることが案内されていた。
大護摩堂の近くの紅葉が見ごろを迎えていたので、思わずシャッターを押した。

日光東照宮五重塔

輪王寺から東照宮に向かう。
日光東照宮の石の鳥居(国重文)をくぐるとすぐに五重塔(国重文)が見えてくる。
慶安2年(1649)に大老酒井忠勝が寄進した塔が落雷で焼失したために、文政元年(1818)に酒井忠勝の子孫である老中酒井忠進(ただゆき)によって再建されたという。
東照宮は徳川家康を祀る神社なのだが、その境内地に仏教寺の建造物である五重塔が建てられているのは、神仏分離を進めようとした明治政府にとっては看過できなかったに違いない。この五重塔も輪王寺に移せと命じられていたのだが、日光山の総代・彦坂諶厚(ひこさかじんこう)や日光の住民らの努力によって、三仏堂と相輪橖のみが輪王寺に移され、日光は神仏分離令の影響を最小限に止めることができたのである。

日光東照宮 神庫

五重塔の近くで昼食をすませたのち、日光東照宮の表門をくぐる。
最初に眼に入ってくるのは三神庫(さんじんこ:上神庫、中神庫、下神庫)で、いずれも国の重要文化財に指定されている。中には千人行列の装束や道具が納められているのだそうだ。
上の画像は上神庫だが、切妻にあるゾウの彫刻が目にとまった。調べるとこの絵の下絵は幕府御用絵師の狩野探幽の筆によるものだそうだ。

日光東照宮 三猿

上神庫の向かいには、神厩(しんきゅう:国重文)があり、猿の一生を描く欄間彫刻がある。有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の欄間もここにある。

日光東照宮 陽明門

右に曲がると国宝の陽明門が見えてくるのだが、残念ながら、昨年から工事に入っていて完成するのは平成31年3月末なのだそうだ。輪王寺の三仏堂の工事もそうなのだが、観光の目玉であるような重要な施設の工事については、日光全体で日程を調整してずらして欲しいものである。

日光東照宮 経蔵

上の画像は陽明門の手前にある輪蔵(経蔵:国重文)で、残念ながら内部は公開されていないが、扉の奥には八角形の回転式の書架があり、昔は天海版と呼ばれる一切経数千巻が納められていたそうだが、今はお経が残されているのだろうか。

日光東照宮 本地堂

左に折れると鳴龍(なきりゅう)で有名な本地堂(薬師堂:国重文)がある。以前は狩野永真安信が描いた竜の絵があったそうだが、残念ながら昭和36年(1961)に焼失してしまい、現在の天井絵は日本画家の堅山南風(かたやまなんぷう)の筆によるものだそうだ。
絵の下で拍子木を打つと、その反響音が竜の鳴き声の様に聞こえるのが面白い。

本地堂のご本尊は、東照宮の本地仏である薬師如来で、輪蔵とともに明らかな仏教施設であり、いずれも明治の神仏分離令が出た際に、輪王寺に移すように命令されたのだが、五重塔と同様の経緯で移転を免れている。

日光ではこのような神仏習合の姿をそのまま残していることは非常に興味深いのだが、Wikipediaによると「本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による『管理団体』に指定されている」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE#cite_note-28

日光東照宮 袖塀

陽明門の両脇には花鳥の彫刻が美しい袖塀(そでべい:国宝)がある。

日光東照宮唐門

陽明門をくぐると、正面に東照宮の本社がある。本社は、唐門(国宝)と東西透塀(すきべい:国宝)に囲まれた空間に、本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造(ごんげんづくり)の構造になっている。

日光東照宮 唐門 意匠

白い胡粉塗りの唐門の彫刻も凝っている。中央に多くの人物が彫られているが、古代中国の舜帝の朝見の様子を描いているのだという。舜帝は中国の古伝説上の聖王だが、この彫刻は家康こそが舜帝に比すべき人物であり、徳川幕府が目指すべき政治は舜帝の治世であることを意味していると理解されている。

日光東照宮 眠り猫

本社の見学を終えて、家康の墓所である奥社に向かう。
入口の坂下門(国重文)手前の東廻廊には、左甚五郎作とされる眠り猫の彫刻がある。

日光東照宮 奥宮 御宝塔

200段余りあるという石段を登って行くと、銅鳥居(国重文)や銅神庫(国重文)、鋳抜門(国重文)などがあり、一番奥に家康公の神柩をおさめた八角九段の基盤の上に立つ宝塔(国重文)がある。

奥社参道を歩いていた時には気が付かなかったのだが、陽明門-唐門-拝殿-本殿-奥宮拝殿-奥社宝塔は一直線上に並んでいるのだそうだ。この配置は、どう考えればよいのだろうか。普通は本殿の奥に墓がある事などは考えにくいことである。

東照宮配置図

作家の今井敏夫氏『二つの東照宮・久能山と日光』という論文がネットで公開されており、その点についてわかりやすく書いておられる。しばらく引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「日光東照宮の社殿を注意深く見学された人ならば、奇妙なことに気づかれるだろう。それは本殿の背後に扉と后拝(こうはい)、それに階(きざはし)が付いていることである。どんな神社にいっても、本殿の背後に扉がある神社などは、まず見ることがない。同じ東照宮でも、久能山、上野、和歌山、世良田、川越、日吉(坂本)、滝山などの東照宮本殿の背後には扉や后拝は一切見られない。神社の本殿は云うまでもなく、神が鎮座する場所であり、拝殿はそれを拝む所である。拝殿と本殿は東照宮の場合は〃石の間〃で隔てられているが、この隔絶は厳格なもので、例え将軍であろうと本殿内には立ち入ることはできない。
神君・東照大権現(家康)が鎮座する、その本殿の背後に扉があるということは、これは本殿に神君がいないということになるのではないのか
。つまり、本殿が筒抜けの格好になってしまう様式である。
 それでは拝殿において何に向って拝んでいるのか。…そう、家康の廟所、つまりお墓に向って拝んでいることになるわけである。また、本殿の裏側の端垣(透塀・元禄時代までは回廊があった)には北唐門があり、奥宮の廟所の前には拝殿もある。これらはすべて南向きにほぼ一直線上に並んでおり、まことに不思議な社殿の配置といえる。
 久能山東照宮と比較するとよく分かる。本殿は地形上やや南西に向って建てられているが、廟所は明らかに西を向いており、本殿とは一直線上の位置にない。本殿の背後の扉もなければ后拝もない。吉田神道(唯一神道)では、神を本地とするので、墓所を拝礼するなど忌み嫌うところから、当然の建築上の配置であった。久能山東照宮はまったく「大明神造」にふさわしい伝統的な神社的要素の強い社殿形式であった。
日光東照宮では山王一実神道による仏教色の強い社殿形式が必要であり、社殿と墓所の関係は密接にしなければ意味がない。拝殿・本殿・北唐門・廟所を正中線上に並べで参拝の形式をとり、家康の神号「東照大権現」の本地である薬師如来の本地堂を建て、経堂等を配置している。…」
 
今井氏の表現を借りると「寛永大造替の東照宮本殿は、日吉神社本殿と天台仏堂を総合して造られたもので、これこそ山王一実神道の社殿形式」ということになるが、もともと神仏習合の思想で建てられた東照宮を厳密に神仏分離などできるはずがないし、神仏分離を徹底させれば東照宮の建造物の多くを除去することになってしまう。

明治政府は東照宮の本地堂、経蔵、五重塔、鐘楼や仁王像などの移転を命じたのだが、もし政府の言いなりで移転させたり、あるいは破壊してしまっていたら、この時に日光の魅力のかなり多くを失っていたことは確実なのだと思う。
<つづく>

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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
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家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
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日光二荒山神社から国宝・大猷院へ~~日光観光その3

日光東照宮の拝観を終えて、上新道を歩いて二荒山神社の楼門に向かう。

二荒山神社 楼門

楼門をくぐり、鳥居を過ぎると右側に社務所があるが、前回記したとおり、かつてはこのあたりに三仏堂があり、明治初期の神仏分離により輪王寺の境内に移築されてしまったのである。

前回の記事で、江戸時代の日光を描いた『木曽路名所図会 巻之六』の挿絵を紹介したが、拡大してもう一度見てみよう。

木曽路名所図会

画像の右にある「仁王門」は現在の東照宮の表門*で、「大塔」は東照宮の五重塔である。
左端の「新宮」は現在の二荒山神社の本殿であり、その右に「三仏堂」が描かれていることがわかる。
*表門:東照宮の「表門」には仁王像が存置されており、明治の神仏分離までは「仁王門」と呼ばれていた。「仁王」とは寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神であるため、神社である東照宮には相応しくないとの理由で呼称のみを変えたと考えられる。

現在の日光は次のURLの地図が、比較的分かりやすいので、上の画像と見比べて頂きたい。
http://www.mapandnews-japan.com/big_map/toshogu01_big.html

map-toshogu01.gif

誰でも疑問に思うのは、かなり昔から二荒山神社の本殿の近くに仏教施設である三仏堂が建てられたのはなぜかという点である。

『木曽路名所図会』には三仏堂は「日光三社大権現の御本地堂なり」と解説されている。
「日光三社」とは、前々回の記事で書いたとおり二荒山神社(新宮)、瀧尾神社と本宮神社(本宮)である。そして三仏堂にある三つの仏像は、木造千手観音坐像(新宮本地仏)、木造阿弥陀如来坐像(瀧尾神社本地仏)、木造馬頭観音坐像(本宮本地仏)なのである。

神仏習合思想の一つである「本地垂迹説」では、日本の八百万(やおよろず)の神々は、さまざまな仏が化身として日本の地に現われたと考え、その化身として現れた仏を「本地仏」と言い、仏となって現われた神を「権現(ごんげん)」と言う。
日光では男体山を御神体とし大巳貴(オオナムチ)命を祀る新宮(現二荒山神社)と、女峰山を御神体とし田心姫(タキリビメ)命を祀る瀧尾神社と、太郎山を御神体とし味耜高彦根(アジスタカヒコネ)命を祀る本宮神社の三社の本地仏が一堂に存置されているのが三仏堂なのである。
かつては二荒山神社を「日光三社権現」と称されたのだが、このことは、この三仏堂が「新宮」と呼ばれていた場所のすぐ近くにあったことと無関係であるはずがないだろう。神仏習合の考え方からすれば、二荒山神社の本殿や拝殿の近くに三仏堂があることは、理に適っていることなのだ。

ところで、二荒山神社で1200年以上の長い歴史のある「弥生祭」という伝統行事がある。その日程や神輿の巡行ルートを調べると、4月14日には二荒山神社の拝殿から別宮である瀧尾神社に神輿1基が出て、16日に二荒山神社に戻って来る神輿を迎える神事が行われ、17日には本宮神社に3つの神輿が渡御して戻ってくる神事が行われる。
http://www.futarasan.jp/yayoi/nittei.html

明治の神仏分離で三仏堂は輪王寺の敷地に移転されてしまったのだが、三仏堂は日光で最大の建物であり、東日本全体でもこの建物より大きな木造建築物は存在しない。
少なくとも神仏分離令が出るまでは、弥生祭における三つの神輿は三仏堂においても何らかの儀式が行われていなければ不自然だと思うし、また、この三仏堂が年間を通して多くの参拝者を集めていたことは想像に難くない。
二荒山神社は、明治の神仏分離のために日光の社寺の中では最も変質してしまったのだが、もし三仏堂が今もこの場所に残っていたとしたら、二荒山神社の観光客は現在の十倍以上あってもおかしくないだろう。

二荒山神社 本社拝殿

社務所の隣に拝殿(国重文)がある。

二荒山神社 本殿と化灯籠

参拝を済ませて、その西側から二荒山神社の神苑に入ると、右側に本殿(国重文)が見える。本殿の透塀(国重文)の脇にある鎌倉時代に奉納された銅灯籠(国重文)は別名「化(ばけ)灯籠」と呼ばれ、この灯籠に明かりを灯すと周りのものが2重に見えたり、灯籠そのものが様々な姿に変化したと懼れられ、警固の武士たちが刀で切りつけた刀傷が無数に残されている。

二荒山神社の観光を終えて、徳川第三代将軍家光公の廟所である大猷院(たいゆういん)に向かう。
家康は神となったために、日光東照宮は明治の神仏分離以降は神社とされたのだが、大猷院は東照宮とかなりよく似た建造物でありながら、輪王寺の管理下にある仏教施設であるというのはどうもピンとこない。

家光は祖父家康を崇敬し、死後は東照宮の近くに葬ることと、廟所は祖父家康を権現として祀る東照宮を凌いではならないと遺言したという。そのために大猷院は、東照宮よりは規模が一回り小さくなっている。

大猷院 仁王門2

上の画像は仁王門(国重文)だが、お目当ての一つであった二天門(国重文)が改修工事中であったのは残念だった。

大猷院 夜叉門

上の画像は夜叉門(国重文)と左右の廻廊(国重文)だが、夜叉門には四体の夜叉(やしゃ)像が置かれている。
下の画像は、烏摩勒伽(うまろきゃ)といい、金色の弓矢を携えて霊廟鎮護に当たっている夜叉で、正月の縁起物として神社などで授与される破魔矢(はまや)発祥の仏様なのだそうだ。

大猷院 烏摩勒伽

夜叉門をくぐると、いよいよ大猷院の中心部分になる。

大猷院 唐門

唐門(国重文)にはふんだんに金箔が貼られているのだが、漆黒が多く用いられてためか、東照宮の唐門よりも随分シックな印象を受ける。

大猷院 拝殿

唐門をくぐると、国宝の拝殿・相の間・本殿と続く。上の画像は拝殿で、下の画像は、逆光になってしまってうまく撮れなかったが、相の間と本殿を写したものである。

大猷院 相の間・本殿

参拝客が入れるのは拝殿までであったが、拝殿から相の間、本殿を見通すことができる。

拝殿には、教科書などでよく紹介されている狩野探幽の唐獅子図があり、天井には龍の絵が描かれ、秀光の鎧が展示されているなど見ごたえ十分である。金箔で囲まれたすごい空間なのだが、内部の撮影が禁じられていたので、日光山輪王寺のホームページの画像のURLを紹介しておく。
http://rinnoji.or.jp/precincts/taiyuin_before/naibu
構造的には東照宮にかなり似ているが、漆黒の中に輝く金銀の装飾は、東照宮に引けを取らぬ豪華絢爛で一見の価値がある。

大猷院の建物配置図

拝殿で僧侶の説明を受けている時にやたら寒く感じたのだが、普通の寺では本尊は南を向いて祀られるので本堂の正面は南向きになっていることが多い。しかしながら、この大猷院の拝殿や本殿は鬼門の方向である北東を向いているので、昼からは陽光が全く入らないことになる。寒く感じたのはそのためであろう。
ではなぜ鬼門の方向に向いているのかと言うと、北東方向には家康公を祀る東照宮の奥宮があるからだという。これは48歳で没した家光が、祖父である家康を敬愛していて、生前に「死してのちも朝夕東照大権現の側でお使え奉る」と遺言していたことによるのだと言われている。
ところが拝殿や本殿は北東に向いていても、本殿の奥壁の裏にもう一つ部屋があって、そこには釈迦三尊画像が後ろ向き(南面)に掛けられているのだそうだ。

大猷院 皇嘉門

上の画像は、奥院の入口にある皇嘉門(国重文)である。東照宮とは違い大猷院の奥の院は公開されていないため、この門は常時締められているのだが、天井には天女が舞う姿が描かれ、奥院には唐銅宝塔と拝殿があるのだという。

この大猷院は、家光の嫡子である4代将軍家綱によって、翌年の承応元年(1652)2月から大棟梁・平内大隅守応勝の指揮により造営工事が始まり、承応 2年(1653)年 4月 4日に建立されたというが、こんな豪華絢爛の建物がわずか1年 2ヶ月という短期間で完成したことは驚くべきことだ。木造建築の技術に関しては、江戸時代の方が今よりもはるかにレベルが高く、優れた技術者が多かったと思われる。
4月 9日からは家光の命日である20日にかけて、3回忌の法要が盛大に執り行われたのだそうだ。

ヴィラ・リバージュ

朝から瀧尾神社、四本竜寺、本宮神社、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院と随分歩いて疲れてしまった。他にも見たいところがないわけではなかったが、良い時間になったので、土産物を買ってから、宿のヴィラ・リバージュに向かうことにした。

ヴィラ・リバージュ夕食

夕食は、地酒や地ワインを楽しみながら、自家菜園の無農薬有機栽培で育てた採れたての野菜の盛り合わせや、日光の清流で育ったイワナや霧降高原牛のサーロインステーキなど、出てくる料理がどれも美味しく、大満足だった。
<つづく>
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素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて~~隠れた紅葉の名所・大門寺
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日光の秋を求めて憾満ヶ淵から田母沢御用邸へ~~~日光観光その4

日光旅行の初日は、瀧尾神社、四本竜寺、本宮神社、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院と周ってきたが、東照宮や大猷院が造営される前の日光を描いた絵はないものかと、ネットで探してみた。
ひと昔前なら、万巻の書を手当たり次第に紐解かなければわからないことが、検索キーワードをいくつか選ぶだけで、ネットで簡単に探すことのできる便利な世の中になっているのはありがたい。

日光山古絵図

日光山輪王寺宝物殿にある、元和3年(1617)に制作された東照宮造営前の日光山を描いた三幅の『日光山古絵図』が見つかった。
中央に三仏堂が大きく描かれ、その隣には三重塔がある。
左幅には中禅寺湖の二荒山神社中宮祠や立木観音等が描かれ、右幅には神橋から四本竜寺、本宮神社。道伝いに観音堂、開山堂があり、その先に瀧尾神社が描かれている。
http://www.rinnoji.or.jp/keidai/homotu/past/109-nikkounokoezu/109-nikkonokoezu.html

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトで右幅の大きな画像を見ることができる。開山堂や瀧尾神社の仁王門などの絵は、建物の特徴を良く捉えていて興味深い。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_nikkosan.htm

nikosan_k01.jpg

この絵を見ると、日光東照宮が造営される以前の日光中心部の観光の中心は、二荒山神社や三仏堂や四本竜寺、本宮神社、開山堂、瀧尾神社であったことが誰でも分かる。前回の記事で書いた、毎年4月に行われる二荒山神社の「弥生祭」の神輿の巡行ルートそのものなのである。一度、「弥生祭」を見てみたいものである。

憾満の路

旅行の二日目の朝を迎えて、いつものように早目に起床して、近くを散歩することにした。
宿の方から教えて頂いたルートで、大日橋という橋を渡って途中から大谷(だいや)川沿いを歩くことになるのだが、このルートも結構見どころがあって楽しめた。
地図は次のURLに詳しく書かれているのが参考になる。
http://www.nikko-kankou.org/pamphlet/pdf/nikko_walking.pdf

日光の紅葉

大日橋を渡って振り返ると、紅葉が綺麗だったので思わずシャッターを押した。バックに見える山は二荒山神社の御神体である男体山である。

しばらくは日光・宇都宮道路沿いを東に進み、途中で左折して大谷川の方向に向かう。

化け地蔵2

川沿いに出ると、江戸時代に慈限大師天海の門弟らが「過去万霊・自己菩提」のために刻んだという、苔むしたお地蔵さんが多数並んでいる。
当初は100体余りあったお地蔵さんは、明治35年(1902)の大洪水のためにいくつかが流出してしまい、現在は74体が残っているだけだという。このお地蔵さんを「並び地蔵」と呼んでいるのだが、数えるたびごとに数が違うので「化け地蔵」とも呼ばれているそうだ。

華厳の滝から流れて来る大谷川の激しい水流が、男体山の溶岩を削って美しい渓谷になっている。このあたりは「憾満ヶ淵(かんまんがふち)」と名付けられ、紅葉の名所なのそうだが、訪れた日は色づき始めたばかりだった。

憾満ヶ淵

憾満ヶ淵は古来不動明王の現われる霊地とされ、東照宮を創建した慈眼大師天海の弟子の晃海大僧正が承応3年(1654)にこの地を開き、慈雲寺を創建して霊庇閣(れいひかく)という護摩壇を建て、天下泰平を祈ったと伝えられている。
霊庇閣は洪水のために流出してしまったらしいのだが、昭和46年(1971)に輪王寺によって復元されたものが建っている。
そしてその霊庇閣の大谷川対岸の岸壁に「カンマン」と梵字が刻まれているらしいのだが、見落としてしまった。その梵字が「憾満(かんまん)ヶ淵」という名の由来で、次のURLに岸壁に刻まれた梵字の写真が出ている。
http://www1.ocn.ne.jp/~mtnikko/kannmann.html

慈雲寺

上の画像は晃海大僧正が創建して阿弥陀如来と慈眼大師天海を祀った慈雲寺である。
当時の建物は、残念ながら明治35年(1902)の洪水時に流出してしまい、現在の本堂は昭和48年(1973)に復元されたものだという。現在は無住の寺になっているが、毎年7月14日に輪王寺により盂蘭盆会(うらぼんえ)の法要が営まれているのだそうだ。

浄光寺

含満大谷橋を渡ると、すぐ近くに浄光寺という天台宗の寺がある。
紅葉が美しかったので立ち寄ったのだが、案内立札を読むと1200年以上の歴史のある寺だという。
ここにはこう書かれていた。
「…日光開山の祖・勝道上人が日光一山の菩提寺として、仏岩(山内)に往生院を創設した。これが浄光寺の起源である。」
 
勝道上人が日光を開山したのは766年(天平神護2年)で、「仏岩」というのは、今回の日光の旅行で最初に訪れた、開山堂の近くにある岩のことである。たまたま立ち寄った浄光寺が、勝道上人と繋がるとは思わなかった。

案内はさらにこう続いていた。歴史のある寺だけあって結構古いものが残されているようである。
「延応2年(1240)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永17年(1640)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。本堂は、昭和48年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊坐像。…」

この浄光寺の境内には長禄3年(1459)の銘のある銅鐘(県文化財)がある。この鐘は、もとは本宮神社に奉納されたもので、銘文には「当将軍源朝臣成氏(しげうじ)公」とかかれており、古賀公方足利成氏を将軍としている点で、歴史資料としても注目されているという。

あまり時間をとるわけにはいかなかったので宿に戻ることにしたが、門前の右には庚申塔がいくつか建てられていて、珍しいのでシャッターを押した。

庚申塔

「庚申塔」は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、日本各地に見ることができる。
「庚申信仰」とはどのようなものかというと、人間の体の中には三尸(さんし)という虫がいて、60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の日に人々が寝静まった夜、その虫が体内から出てきて天帝にその人の悪行を報告し、怒った天帝はその人を早死にさせてしまう。
そうならないために庚申の日は寝ないで夜通し起きていて、三尸(さんし)が体内から抜け出さないように、この夜を一緒に庚申待を過ごす人たちの集まりを「庚申講(講」と呼ぶそうなのだが、それが平安時代から、2ヶ月に1度の楽しい宴会の日となり、娯楽の乏しかった時代に全国に広がっていったと考えられている。
そして「庚申塔」は江戸時代の寛永期以降に盛んに建てられたのだそうだが、明治政府が庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心に撤去を進め、さらに高度成長期の道路拡張で多くが撤去や移転されてしまって、今では田舎町でしか見ることができなくなってしまっている。
このような「庚申塔」が、1200年以上の歴史を持つ寺の門前に何気なく残されていることが嬉しい。

東照宮や大猷院など権力者が残した豪華絢爛の文化財を観賞できるのも日光の魅力の一つではあるが、山を御神体として崇める地元の人々の信仰により、美しい自然だけでなく古い寺社や石仏が残されて、あちこちで歴史的景観を楽しむことができるところにも、日光の魅力を感じるのである。

40分程度の朝の散歩を終えて宿に戻って朝食をとり、早目にチェックアウトを済ませて、最後の目的地である田母沢御用邸(0288-53-6767)に向かう。

田母沢御用邸御車寄

田母沢御用邸は明治31年(1898)に、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう:後の大正天皇)の静養のため、東京赤坂離宮から紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築して翌年に完成され、その後3度にわたり増改築され、第二次世界大戦後に廃用となるまで大正・昭和の2代の天皇の避暑や明仁親王(今上天皇)・正仁親王(後の常陸宮)の疎開に利用された建物だという。

田母沢御用邸庭

大正時代は御用邸の敷地面積が107,000㎡もあったのだそうだが、戦後に御用邸が廃止となったのち庭園の一部が日光植物園に併合されてしまい、今は39,390㎡が日光田母沢御用邸記念公園となっており、平成19年(2007)に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。

田母沢御用邸玉突台

いろんな部屋があるのだが、上の画像は御玉突所。
下の画像は「謁見所」で、大正天皇が公式儀礼で用いられた部屋だという。いずれの部屋も、大正期に増築された部分である。

田母沢御用邸謁見の間

田母沢御用邸内部3

ちょうど秋の特別企画で、江戸時代の「半尻」という公家の装束を着た子供の人形が展示されていた。

田母沢御用邸内部2

田母沢御用邸の部屋の数は106で建築床面積は4,471㎡もあり、とにかく広い。
建物の東側には研修室や研修ホールもあり、こんな贅沢な空間が半日1~2千円程度で借りることができるのは、随分割安だ。
http://www.park-tochigi.com/tamozawa/sisetu/

田母沢御用邸庭2

庭に下りて庭園を散策する予定だったが、部屋を見ているうちに随分時間が経ってしまい、11時に宇都宮で所用があるために、売店でお土産に「御用邸チョコレート」をいくつか買って旅行を切り上げることにした。

実は9年ほど前に日光で宿泊したことがあるのだが、その時は電車とバスを乗り継いで、中禅寺湖と華厳の滝と二社一寺を見ただけで終ってしまった。今回はカーナビのおかげで、随分有意義な旅行が出来たと思う。

日光の観光客の大半は短時間の滞在で、二社一寺の一部を観光するだけで帰ってしまうのだが、日光にはまだまだ見るべきところがある。
読者の皆さんには是非、二社一寺以外の日光をゆっくりと散策していただきたいものである。

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明治の皇室と仏教
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

千古の家、丸岡城、東尋坊から芦原温泉へ~~越前カニ旅行1日目その2
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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
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「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
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松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口をとらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引きの破(やぶれ)をつゞり、笠の緒付(つけ)かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、…」

有名な『奥の細道』の冒頭の部分だが、古文の教科書にも出ていたので何度も口ずさんだ記憶がある。

gakan01.jpg

松尾芭蕉は元禄2年(1689)の3月27日、弟子の河合曾良とともに、『奥の細道』の旅に出たのだが、この二人が歩いた距離が半端ではなかった。
全行程約600里(2400km)を150日で歩いたということになるのだそうだが、当然のことながら当時の旅は基本的に自分で歩くしかなかったし、何度も山を越えなければいけなかった。雨が降れば道路はぬかるんだと思うのだが、そのような道を、草鞋をいくつも履き潰しながらこれだけの距離を歩いたことはすごいことなのである。

aamap999.gif

次のURLに『奥の細道』の全行程と日付が出ているが、3月27日に江戸深川を出発した芭蕉がわずか3日後の4月1日に日光東照宮を参拝している。車で走れば150kmにもなる距離を、1日平均50km近く歩いたことを意味している。
http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/aamap999.htm

当時、江戸日本橋から京都までの東海道五十三次(約492km)を、旅人は徒歩で2週間前後かけていたようだが、14日で計算すれば歩行距離は1日平均して35kmである。当時芭蕉が4 6歳であったことを考慮すれば、芭蕉が相当な健脚であったと言わざるを得ない。観光が主たる目的である旅行であるのに、なぜこんなに急いで歩く必要があるのか誰しも疑問に思うところだ。

そこで、こんな見方が存在する。Wikipediaは、芭蕉の1日の移動距離の大きさに触れた後、こう述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

「…これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって『芭蕉忍者』が生まれた。
また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に『松島の月まづ心にかかりて』と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている。」

auto-fdeh38.jpg

松尾芭蕉は寛永21年(1644)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたのだが、「伊賀」と言えば忍者の里として有名な場所である。
父・松尾与左衛門は阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の無足人(準武士待遇の農民)で、母・梅は百地(桃地)氏出身とも言われ、いずれも伊賀忍者の一族であったという説もあるようだ。

少し気になったので、伊賀忍者の歴史を調べてみた。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、外部からの侵略に対しては結束して戦った歴史がある
伊賀衆は天正6年(1578)に織田信雄が伊賀国を支配するために送り込んだ滝川雄利(たきがわかつとし)を追放し、その報復として攻め込んできた織田信雄(おだのぶかつ)の軍をも翌年に壊滅させたという。(第一次天正伊賀の乱)
しかし天正9年(1581)に織田信長が大軍を編成して攻め込んで来た際には伊賀衆は壊滅的な打撃を受け(第二次天正伊賀の乱)、百地丹波以下100名が紀州に落ち延びたと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
その後天正10年(1582)に、信長の招きで徳川家康が少数の供回りで堺の見物中に本能寺の変が起き、この際に家康らを三河の岡崎まで安全に帰らせる(神君伊賀越え)ために、服部半蔵正成らの伊賀衆や甲賀衆が家康の警護に当たったことが評価され、その後服部半蔵は徳川家に重用され、伊賀衆や甲賀衆も徳川家に召し抱えられるようになって、諸大名の内情を探ったり、大奥の警護、屋敷の管理や江戸城下の治安警護などを行なったという。

再び芭蕉の話に戻そう。
明暦2年(1656)、芭蕉が13歳の時に父・与左衛門が死去し、兄の半左衛門が家督を継いだが、その生活は苦しかったと言われている。
また寛文2年(1662)、19歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の三男・良忠に仕えたそうだが、芭蕉はこの頃に良忠とともに俳句を学び、俳諧の道に入ったという。
ところが寛文6年(1666)23歳の時に、藤堂良忠が死亡し藤堂藩への仕官の道が途絶えてしまう。芭蕉は突如脱藩して京へ上り、その6年後には江戸へ住まいを移している。
次のURLに松尾芭蕉の年譜が詳しく記されているので、興味のある方は参考にしていただきたい。
http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm#t01

伊賀の国で生まれたことや、服部半蔵の親族に一時仕えたことや、異常に健脚であることが『芭蕉忍者説』の主要な論拠になっているようだが、他にもいくつかの論拠がある。

宗長

室町時代の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)は、朝比奈家の掛川城について詳しい記述を残しているなど、連歌師として各地を渡り歩きながら、諜報活動をしていたことが窺われるのだそうだが、各地を旅する者に接近して、情報収集を依頼する者が出てきてもおかしくないという考え方がある。
条件が良ければ、芭蕉も応じることがあったのかも知れないが、これだけでは芭蕉が諜報活動をしていたと断じる論拠にはならないだろう。

また、2人の156日にもわたる旅費をどうやって捻出したのかと疑問を持つ人も少なくない。俳句による収入だけではとても生活できず、別の安定収入がなければこのような長期間にわたる旅行に出ることは考えにくいとの視点である。

俳句を作ったり指導することで、当時どの程度の収入になったのかはよく分からないのだが、芸術や文学の世界では、知名度の低い時期は多くの収入を得られないという構造は今も昔も変わらない。
いろいろ調べていると、寛文12年(1672)に江戸に下り(29歳)、日本橋にあった小沢卜尺の家に起居するようになってから、延宝8年(1680)深川の芭蕉庵に移る(37歳)までの間に、芭蕉が神田川の水道工事に携わった時期があったようだ。

『東京の川と橋  知命庵論考』というホームページの第三章に『6 芭蕉と神田上水』という文章がある。
http://hix05.com/rivers/river03/river036.html
知命庵氏によると、芭蕉の弟子の森川許六という人物が著した『風俗文選』という書物に、この様な記述があるという。
世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す

20120519135024d36.jpg

神田上水は家光の時代(1629)に作られて、樋が木製であったために何度も改修や修繕が加えられ、特に延宝5年(1677)から8年かけて行われた改修工事は大規模なものであったらしく、芭蕉がこの工事に4年間関わったことが、先ほど紹介した芭蕉の年譜にも記されている。
普通に考えれば、もし芭蕉が諜報活動に従事していたならば、この様な仕事に就く必要があるとは思えないのだ。

芭蕉が俳諧の宗匠となったのが延宝5年(1677)で、この頃になると連句興行や撰集を刊行するなどして、俳諧師としての収入も安定していたはずだ。
俳諧師として注目されるようになると、裕福な商人や豪農、上級武士などが門人となり後援者となって、俳句を作ったり指導することで結構な収入になったと思われる。
芭蕉の年譜を見ればわかるが、宗匠となった後は各地で句会などを興行し、精力的に句集などを刊行している。また短冊や色紙に何かを書けば、容易に資金が捻出できたであろうし、弟子の家や支持者の家に泊まった日が多いので、実際にはそれほど旅費はかかっていなかったと考えられる。

しかしながら、『奥の細道』の旅行に何らかの諜報目的があった可能性を匂わせる重要な史実がある。
芭蕉に同行した河合曾良という人物は、宝永7年(1710)に幕府の大目付直轄の巡見使・土屋数馬喬直の用人として雇われ、九州地方査察団に加わったという。「巡見使」というのは江戸幕府が諸国の大名・旗本を監視する目的で設置されたもので、情報収集が主な仕事であり、「悪政」と評価された大名は処罰される可能性があった。

河合曾良が巡見使になった年齢は61歳と高齢であったが、Wikipediaによれば「寛文8年頃より長島藩主松平康尚に仕え、天和元年(1681年)頃に致仕」とある。
29年間も公職に就いていなかった人物が、61歳の時にいきなり幕府に雇われたというのは異常なことであり、それまでに何らかの形で、幕府と繋がっていた人物だと考える方が自然ではないだろうか。当然情報収集に関する経験がなければ、その年齢で雇われるはずのない類の仕事なのである

kurobane.jpg

もし芭蕉と曾良に、『奥の細道』の旅をしながら情報を収集する目的があったとすれば、「黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に『松島の月まづ心にかかりて』と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している」という異様な行程が、少しは理解できるのではないだろうか。

ではその観点に立った場合に、二人はどのような情報を集めようとしていたことになるのか。
河合曾良は『曾良旅日記』という旅行記を残している。それと『奥の細道』とを読み比べると、80ヶ所以上の食い違いがあるのだそうだ。

例えば『奥の細道』には3月30日に日光に入り、翌4月1日に「御山に詣拝(けいはい)す。往昔、此御山を『二荒山』と書(かき)しを、空海大師開基の時『日光』と改(あらため)給う。」と書かれていて、日光東照宮に行ったことは明記されていないのだが、『曾良旅日記』には江戸浅草・清水寺からの紹介状を携えて、養源院という水戸家代々の宿坊に拝観の便宜をはかってもらって、東照宮を拝観したことが記されているようだ。

ところで芭蕉には以前から水戸家と接点があった。
芭蕉の俳句の師匠である北村季吟は水戸家の出入りを許された幕府お抱えの文人だったし、先ほど芭蕉が神田川の水道工事に携わった時期があったと記したが、この神田上水は水戸家の庭園である後楽園にも引き込まれていたのだそうだ。
今でこそ東照宮は誰でも拝観料を支払えば拝観できるが、当時は然るべき紹介がなければ拝観できなかった。芭蕉が東照宮を拝観できたのは、水戸家の便宜によるものだったのだ。

ところで、芭蕉が訪れた際の日光東照宮は天和3年(1683)の大地震により、奥社宝塔が倒壊するなど、社殿全体が被害を受けていて、大規模な修復を行なおうとしていたのだそうだ。そしてその修理費を、江戸幕府は伊達藩に命じていたという。おそらく、江戸幕府は東北の雄藩である伊達藩に巨額の負担を押し付けて藩の弱体化を狙ったのだろう。

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宮本健次氏の『日光東照宮 隠された真実』に、江戸幕府と伊達藩とのやり取りについてこう記されている。
『伊達家文書』によれば、芭蕉が日光を訪れる3か月前の1689年1月、伊達藩は、『全面的建て替えではなく、一部修理なら大変ありがたい』という書状を幕府に提出した。その2ヶ月後の3月、将軍綱吉から『日光の修復について申し出ることはまかりならぬ』という返書が届き、両者の間が極めて緊迫したことがうかがえる。芭蕉が日光へと旅立つまさに1ヶ月前であった。
 おそらく、芭蕉は、日光の修復の状況及び伊達藩のその後の動きを偵察する目的を持っていたため、日光と伊達藩領は急いで通過し、句を詠むことも少なかったと金子氏は指摘するのだ。」(『日光東照宮 隠された真実』p.92-93)

金子兜太

「金子氏」というのは、『芭蕉=隠密説』を持論とする俳人の金子兜太(とうた)氏のことである。日光では芭蕉は「あらとうと青葉若葉の日の光」という、日光で詠んだとは思えないような句を残して1泊しただけだ。伊達藩領でも仙台や塩釜や松島や石巻では1句も残さずに通り過ぎている。

面白いことに、芭蕉が伊達藩を訪れたすぐ後に江戸幕府が動いたのだが、これは果たして偶然だったのか。宮本氏は続けてこう述べている。
芭蕉が伊達藩領を訪れたのは5月。その1か月後の6月11日、幕府ははじめて日光の具体的内容を発表した。この時点ではじめて、今回の工事が『一部修理』であることが明らかにされた。伊達藩の希望が受け入れられたのである
 金子氏は芭蕉が日光と領地における伊達藩の状況を幕府に知らせ、それが幕府の判断材料になったというのだ。」(同上書 p.93)

私は金子氏の説に結構説得力を感じるのだが、反応は人により様々であろう。
『俳聖』とまで呼ばれた松尾芭蕉の評価を貶めるつもりは毛頭ないのだが、いくら優秀な作家であっても、旅行を楽しまずしては良い作品が残せないだろうと思うのだ。
芭蕉が有名な観光地であった日光や松島でほとんど創作活動が出来なかったのは、このような事情があったのかもしれない。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



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播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺

毎年紅葉の時期に古社寺を訪ねて日本海方面で一泊する旅行を企画するのだが、今年は兵庫県の国宝や紅葉名所をいくつか織り込んだ計画を立てて、先週行ってきた。

中国自動車道のひょうご東条ICから社(やしろ)方面に北上していくと、加東市に朝光寺(ちょうこうじ)という古い寺がある。この寺の本堂が国宝に指定されている。

寺伝によると白雉(はくち)2年(651)に法道上人によって開基され、当初は裏山の権現山に建立されたそうだが、治承8年(1184)に源義経が平資盛(たいらのすけもり)を夜半に襲撃した「三草山の合戦」で焼失してしまい、その後の文治5年(1189)に後鳥羽上皇の命により現在地に再建されたという。
天明7年(1787)の記録では、学侶3ヶ院・坊21・末寺5ヶ寺とかなり大規模な寺であったのだが、今では吉祥院・総持院の2つの塔頭が残るのみとなっている。今では朝光寺は無人の寺になっているが、車で行かれる方は塔頭の吉祥院の電話番号(0795-44-0733)をカーナビに登録されればよいだろう。

つくばねの滝

吉祥院から道なりに200mほど進むと、山を切り開いた駐車場があり、そこから山門につながる参道がある。小さな川に沿って歩き進むとせせらぎの音が聞こえ始めて、「つくばねの滝」という滝が参拝者を迎えてくれる。

地元のボランティアの方の話によると、滝の名前にある「つくばね」というのは、スギなどの根に半寄生する植物の名で、昔は滝の付近に多く自生していたのだが随分少なくなってしまったという。

つくばね

上の画像が「つくばね」で、秋の季節には羽子板の羽根のような形をした実ができる。
この植物の成育地は乾燥する急斜面や尾根に限られ、他の環境では育つことはないのだそうだ。持ち帰る人がいるために少なくなっているようだが、加東市の天然記念物にも指定されているこの植物を是非大切にしてほしいものである。

朝光寺本堂

山門をくぐると、寄棟造り・本瓦葺の堂々とした風格の国宝の本堂がある。
本堂内の羽目板に墨書があり、応永20年(1413)に仏壇を建立し本尊を移転し、屋根葺きが正長元年(1428)に終わったことが記載されているのだそうだ。

朝光寺本堂内陣

ボランティアの方に案内いただき、中に入ると格子戸と菱格子欄間により内陣と外陣が区切られていた。連子窓から柔らかい光が堂内に差し込んで、こういう場所にいると正座して瞑想したい気持ちになってくる。

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内陣には須弥壇が置かれていて、御本尊である2体の木造千手観音像は、60年に一度の御開帳の時しか見ることが出来ないのは残念なことだが、平安期と鎌倉期のかなり古い仏像で、2年前に本堂の大屋根の改修工事が完了し落慶法要時に特別開帳されたばかりのようだ。ネットで検索すると当時の新聞記事を拾う事が出来る。

朝光寺多宝塔

多宝塔(県文化)は文治年間(1185~1190)の建立と伝えられ、慶長6年(1601)に池田輝政の発願で再建された、美しい建物である。

朝光寺鐘楼

鐘楼(国重文)は、永正年間(1504~21)に赤松義村の再建と伝えられている。屋根の曲線や袴腰の曲線が美しくバランスがよくとれている。そしてその隣には護法社と鎮守社がある。
このような神仏習合の景観が残された背景には、明治初期に地元の人々の多くの苦労があったと思うのだが、詳しいことはよく分からない。

この朝光寺で、毎年5月5日に「鬼追儺(おについな)」が行なわれる。翁1人と鬼方4人が五穀豊穣・無病息災を祈り、松明や太刀を持ち勇壮に舞い踊るのだそうだが、この翁は法道仙人が朝光寺を開基した時に出会ったという住吉明神の化身なのだそうだ。
このように、寺の開基が神仏習合の世界で描かれていて、伝統行事の鬼追儺はその物語につながることから、地元の人々は明治政府の神仏分離令に抵抗したのではないだろうか。
神々の信仰は、本来土着の素朴な信仰であり、地域共同体の安寧を祈願するものだと思うのだが、この鬼追儺は室町時代から続く伝統行事で、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されているという。
普段はほとんど観光客が来ないこの朝光寺も、次のYoutubeの動画を見ると、この日は随分多くの観光客で賑わうようだ。次回来るときは、この日に合わせて訪れてみたいと思う。


朝光寺から、次の目的地である小野市の浄土寺(0794-62-4318)に向かう。

その昔、小野市の中心部は「大部庄(おおべのしょう)」といい奈良の東大寺の荘園だったのだそうだ。建久9年(1192)、東大寺再建の勧進聖であった重源(ちょうげん)が後白河法皇の命により、弟子をこの地に派遣して荘園の経営にあたらせ、その拠点として建立されたのがこの浄土寺である。

浄土寺浄土堂

上の画像は国宝の浄土堂だが、創建された建久9年(1192)から昭和32年(1957)まで、一度も解体されず、765年間持ちこたえた建物だというからすごい。
昭和32年から始められた解体修理で、創建当初の姿のままに復元されたというが、中に入ると、とてもそんなに古い時代の建物だとは思えない。

小野浄土寺三尊

内部は撮影禁止だったのでパンフレットの画像を紹介するが、中に入ると内陣も外陣もなければ天井もない。化粧屋根裏で垂木など屋根裏が見える構造になっていて、木は丹塗で壁は白く塗られている。まるでモダンな博物館の中にいるような気分になる。
他にも特徴がいくつかあるのだが、この様な建築様式を「大仏様(天竺様)」と呼び、東大寺南大門とともに全国に2つしか残されていない貴重な建物だという。
中央には阿弥陀如来(国宝)、左右に観音菩薩、勢至菩薩(いずれも国宝)が安置されている。
この仏像も創建以来のもので、いずれも鎌倉時代の仏師・快慶の作である。
この日は午前中に訪れたのだが、夕方になると雲形の台座の上に立つ3つの仏像が西日に浮かび上がって、阿弥陀来迎の世界が現出するのだという。

s_saigokuK5_00.jpg

中に入ることができるのは浄土堂だけで、他の堂宇は外から観るだけだ。
浄土堂の本堂あたる薬師堂(国重文)は、浄土堂の反対側に建てられている。この建物も当初は「大仏様(天竺様)」だったのだそうだが室町時代中期に焼失し、永正14年(1517)に和様、唐様、大仏様の折衷様式で再建されたものだという。

浄土寺開山堂

そして、薬師堂の右隣には、開山堂(県文化)があり、当寺を開山した重源上人坐像(国重文)が安置されているようだ。

また浄土堂の北側には、寛永9年(1632)に建立されたとされる鐘楼(県文化)がある。

浄土寺八幡神社

興味深いことに、境内の中央に石の鳥居があり、鎮守社の八幡神社がある。
本殿(国重文)は三間社流(ながれ)造・檜皮葺の入母屋造りで、室町時代の中期に建てられたもので、拝殿も国重文に指定されている。
神仏習合の考え方だと八幡神は阿弥陀仏の化身なので、阿弥陀如来を本尊とする浄土寺の境内に八幡神社がある事は理に適っているのだが、明治初期に出された神仏分離令でこのような景観が全国各地で徹底的に破壊されてしまった。

昨年このブログで加古川市の鶴林寺を紹介したが、播磨地方には国宝に指定されている寺院や仏像が少なくないのに、教科書に記述されている事例はまず見当たらない。
鶴林寺にせよ朝光寺にせよ浄土寺にせよ、いずれも素晴らしいお寺なのだが、教科書に載っていないために知る人は少なく、週末の土曜日だというのに観光客は僅かであるのは勿体ないことだと思う。

しかし、なぜ播磨地域の寺院が教科書に載らないのだろうか。
私は、播磨地域の文化財の価値が低いからではなく、別の理由があって載せたくないのではないかと勘繰っている。

鶴林寺にも確か鳥居が残されていた。播磨地域では明治政府の神仏分離令に反発した歴史があったのかもしれないのだが、その点についてはよく分からない。

もうひとつ、教科書に載らない理由として思いつくのは、播磨地域の仏教文化のレベルの高さが、古代史の通説に矛盾するという点がある。
以前このブログで、『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年(西暦584年)の記録に、蘇我馬子が播磨の国にいた高麗人の恵便(えべん)を師として仏法を学び修行をしたことから仏教が広まったことが書かれていることを記したが、『日本書紀』のこの記述を素直に読めば、584年まではわが国に仏教は拡がっていなかったことになる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

鶴林寺

そして加古川市の鶴林寺の創建は伝承では崇峻天皇2年(589)で、日本史の通説で最も古い寺とされる飛鳥寺(法興寺)が完成したのは推古天皇4年(596)11月であることが『日本書紀』に記されているのだが、仏教の歴史は播磨の方が飛鳥よりも古いということは、播磨が仏教の先進国であったということだろう。

蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた。また、『隋書倭国伝』には、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあって中国系の人々が住む地域があったことなどが記されている。普通に読めば、7世紀の初めにはわが国がまだ統一国家でなかったと理解するしかない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

しかしながら学界の多数派は、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説を守ろうとして、『日本書紀』や中国の正史に明確に書かれていても、通説にとって都合の悪い部分には目を塞ぎ続けているのが現実である。
このような人々にとっては播磨地区の国宝文化財を教科書に掲載することは、通説の説得力が損なわれることに繋がるとでも考えているのではないだろうか。
<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html



関連記事

素晴らしい紅葉の国宝寺院・一乗寺から日本海へ

次に向かったのは西国三十三所巡礼観音霊場第26番札所の一乗寺(0790-48-4000)だ。浄土寺からは車で30分もかからない。

一乗寺歓喜院の紅葉

駐車場に車を停めて、入口に向かうと塔頭寺院である歓喜院の山門あたりの紅葉が、ちょうど見頃を迎えていたので、思わずシャッターを押した。

兵庫県の紅葉スポットを案内するサイトで、一乗寺を紹介しているところはほとんどないのだが、この寺は知る人ぞ知る紅葉の名所である。ただ紅葉の木が多いのではなく、うまく配置されていて、それが美しい空間を醸しだしていて絵になるのである。

一乗寺登り口

上の画像は受付から三重塔に向かう石の階段の登り口を撮影したものであるが、紅葉の色が木によって微妙に異なり、見ていて飽きることがない。

寺伝では、白雉(はくち)元年(650)に法道仙人が開山し、孝徳天皇の勅願により金堂が建立されたことになっているのだが、前回の記事で紹介した朝光寺(ちょうこうじ)の開創も法道上人であった。
法道仙人が実在した人物であるかどうかはよくわからないが、播磨地区にはこの人物が開いたとの言い伝えがある寺が60近くもあるのだそうだ。

一乗寺のある兵庫県加西市は古文化財の宝庫で、150基を超える古墳があり、石棺仏や石仏が多数見られるほか、繁昌廃寺・殿原廃寺・吸谷廃寺など白鳳時代[大化元年(645)~和銅3年(710)]の仏教寺院の遺跡が残されていて、奈良時代以前から仏教文化が栄えていた地域であることがわかっている。にもかかわらず、ほとんどの歴史書ではこの地域のことが無視されているのである。
繁昌廃寺は寺岡洋氏の論文によると寺域は「東西85m(推定)×南北125m。金堂・西塔・講堂・北門・南門・築垣などの遺構が検出」され、「金堂基壇は、東西16m×南北13m」、「西塔は…一辺13~14m」、「講堂基壇は東西24m×南北15m」なのだそうだが、かなりの大寺院である。
http://www.ksyc.jp/mukuge/262/teraoka.pdf

一乗寺三重塔と本堂

一乗寺の急な石段を登っていくと、明治時代に再建された常行堂がある。さらに石段を上ると気品のある三重塔(国宝)と、入母屋造の本堂(大悲閣、国重文)が見えてくる。

一乗寺本堂

上画像は三重塔あたりから本堂を撮影したものだが、このあたりの紅葉は特に鮮やかだった。

一乗寺本堂内部

本堂は寛永5年(1628)に再建されたもので、現在の建物は4代目になるのだそうだ。中には古い絵馬が掲げられていて、長押(なげし)には何やら字が書かれているように見える。

一乗寺三重塔

三重塔は山腹に建てられているので、下からでも上からでも眺めることができる。上の画像は本堂から三重塔を撮ったものである。
この塔は伏鉢や瓦の銘から平安時代末期の承安元年(1171)に建立されたことがわかっており、建築年代が判明している塔としては、この塔がわが国で最古のものだという。

330px-最澄像_一乗寺蔵_平安時代

一乗寺は仏教建築物が素晴らしいだけではない。平安時代に制作された10幅の天台高僧像がすべて国宝に指定されている。上の画像はそのうちの最澄(伝教大師)像で良く見る画像なのだが、この像が兵庫県加東市の一乗寺にあるということは、今回調べて初めて知った。
他にも仏像5体が国の重要文化財に指定されており、文化財の宝庫と言って良い寺院なのである。

一乗寺護法社、妙見社

さらに本堂の奥には護法社、妙見社、弁財天社があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。上の画像は右が護法社で左が妙見社だ。前回の記事で紹介した朝光寺も浄土寺もそうであったが、播磨地区の寺院では神仏習合の景観が結構残されている。

一乗寺の紅葉

あまり紅葉が美しいので予定の時間をオーバーしてしまった。太子堂の近くの紅葉も素晴らしかった。

なぜ播磨地区の寺院は明治政府の神仏分離施策に抵抗できたのだろうかと不思議に思って、ネットでどんな記述があるか探してみたところ、『エピソード日本史』というホームページに、こんな解説を見つけることが出来た。

「…播磨の中心が姫路です。江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、薩長新政府によって、厳しい状況に追いやられます。姫路城の内堀や中堀が破壊され、そこに、軍隊を派遣されました。
 こうした仕打ちを知ってか、播磨では、薩長新政府の政策には、非協力でした
。例えば、廃仏毀釈についても、『灘の喧嘩祭り』で有名な松原神社の隣が、八正寺というお寺です。『継ぎ毛獅子』で有名な大塩天満宮の隣が、明泉寺です。『提灯割神事』で有名な魚吹神社の隣が、円勝寺です。
 政治が、人間の心に介入しました。仏教のルーツは、なるほどインドです。しかし、中国・朝鮮を経て、日本に来たときには、東アジアの仏教に変質しており、日本に土着したときには、日本の民間信仰と混交して、日本人の仏教になっています。…
 歴史のある根強い信仰が、新政府の政策を跳ね除けたといえます。」
http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/151_200/178_03.htm

もともと明治新政府に非協力的であった播磨地区においては、地域の祭礼などで神仏習合的な考え方が庶民レベルで深く浸透していたために、明治政府も神仏分離を徹底させることができなかったということは充分ありうることだと思うが、具体的に民衆が抵抗した記録が残されているなら是非読んでみたいと思う。

前回の記事で、播磨地区の文化財が教科書に載っていないことに触れたのだが、その理由の一つは、明治政府としては、いくら価値ある文化財を残していたとしても、政府に抵抗して神仏習合の世界を残した文化財を教科書に載せるわけにはいかなかったという事情があったのだろう。
しかしそれだけでは、今もなお教科書に載らないことの説明にはならない。
この地域の文化財を学べば学ぶほど、奈良時代のかなり前からこの地域が仏教の先進地域であったことが見えてくるのだが、そのことは4世紀の中ごろには天皇家を中心とする大和朝廷がわが国を統一したという通説を守りたい勢力にとっては都合の悪い真実なのだろう。通説を正しいとする勢力が教科書の編纂に関与する限りは、歴史を書き替えられることはあまり期待できないのかもしれない。

一乗寺を楽しんだ後食事をするつもりだったが、適当な店が道沿いに見つからなかったため、次の目的地の播磨屋本店生野総本店(079-679-4565)で食事をすることにした。下の画像の通り、なかなか素晴らしい建物である。

播磨屋本店全景

ここでのレストラン営業は土日祝日だけなのでそれほど混んでいないと予想していたのだが、当てが外れてずいぶん遅い昼食になってしまった。

播磨屋本店は、幕末の文久年間(1860年頃)に初代播磨屋助次郎が兵庫県生野町で始めた灯明油の販売がルーツで、昭和23年にクロバー製菓㈱として菓子製造に事業転換し、昭和46年頃から、おかき・せんべいの専業メーカーになったという。

播磨屋本店

この建物も庭もなかなか素晴らしいのだが、現在播磨屋本店では同社の豊の岡工園内に、伝統的工法で三重塔を建築中なのだそうだ。なぜ生野町の年商60億円の菓子メーカーがそこまでできるのだろうか。

以前、長野に旅行した際に『かんてんぱぱ』の伊那食品工業のことを書いた。伊那食品工業は、「自分で考えたものは自分で創り、自分で売る」という主義で、大手スーパーには商品を一切卸していない。販売は、直営店とネット・通販が中心で大成功し、48年連続して増収増益を果たしてきたのだが、この播磨屋本店も同様で、現社長(5代目播磨屋助次郎)が、「卸売り販売を全面的に改めて、通信販売と直売店による消費者直接販売に切りかえ」たことで飛躍的に発展した会社である。

地方の多くの食品メーカーが目先の売上高増加の為に大手流通業者に商品を卸して価格主導権を奪われ、次第に厳しい仕入れ価格を要求されて品質を落とし、独自の商品開発をすることを忘れて成長力を失ってしまったのだが、伊那食品工業も播磨屋本店も地方の製造業がこれから進むべきモデルを示しているように思えてならない。

播磨屋水車

地方のメーカーが良いものを作ることにこだわり続け、良い商品を求める消費者と直接つながる売り方に徹していれば、大手流通業者から買いたたかれることもないので無理してコストを下げて品質を落とすこともなく、着実に適正水準の利益を自社に蓄積することができる。
地元に利益を蓄積できてこそ、地元の人の多くを採用することができ、地元の人々に地元で幸せに暮らせる環境を提供できる。伊那食品工業も播磨屋本店もそのことを実践して、地元の経済発展に貢献しているのである。

農業においても同様のことができるはずだ。生産者が都会の消費者とネットや産直で繋がっていけば、消費者はスーパーで買うよりはるかに新鮮な野菜や果物を、安価で求めることができるようになる。

今までは、都会資本の大手流通業が地方の産物を買い叩いて利幅を取りすぎてきたことが、地方の生産者を疲弊させ、地方の職場を奪って、地方の衰退を招いてきた。
これからは、地方の生産者が品質にこだわり、本物を求める消費者とネットなどで直接繋がっていく動きが加速していくことは間違いないだろう。地方の創生は、大手流通に奪われていた価格主導権を、地方の生産者が取り戻すことから始まる
のだと思う。

播磨屋本店から、2時間近く走って日本海方面に向かう。この方面に来るときは、いつもは香住の民宿で宿泊するのだが、連休は一杯だったので今回は柴山の民宿を選んだ。

数年前に越前にカニを食べに行った際に、ある旅館で出てきたカニがオホーツク産と聞いてがっかりして、それ以来地元の人が経営する施設で、地元の食材にこだわっている旅館や民宿を選んで宿泊することにしている。
旅行者が旅行地で支払うお金の多くが、地元の人々の中で経済循環して潤う事がなければ、いずれ若い世代が地元を離れていき、情緒ある観光地の景観や賑わいが失われていくことになる。だから、どうせ泊まるなら、地元の方が運営している宿にこだわりたい。

かに三昧

柴山はカニの漁港として有名で、柴山カニはこの辺りの旅館や料亭で食べることができる。
上の画像は「こえもん」の夕食だが、緑色のタグのある茹でガニは香住漁港産。ピンク色のタグのあるカニは柴山漁港で獲れたもので、そのまま刺身にしても良いし、もちろんカニ鍋にしても良く、身がしっかり詰まっている。
新鮮なカニは天然のままで戴くのが最高に旨く、三杯酢もポン酢も途中から使うのをやめてしまった。

ちょっと残念だったのは、昼食が遅かったために途中で胃袋の限界に達してしまったこと。カニは完食したが、最後の雑炊はとても食べきれなかった。一乗寺に行く前に、簡単に昼食を済ませておけば良かった。<つづく>
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【ご参考】
「かんてんぱぱガーデン」は3万坪の敷地に、レストランや美術館やホールや健康パビリオンやショップなどがあり、駐車場は200台以上のスペースがあり、大変賑わっていました。

「御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-40.html

「かんてんぱぱ」を訪れた日は昼神温泉で宿泊しましたが、ここの朝市は地元農家と観光業界とが共存共栄しています。観光地に近い農村の村おこしに繋がるモデルになると思います。

「昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-41.html


古代史でこんな記事も書いています。良かったら覗いてみてください。

「法隆寺再建論争を追う」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-10.html

「聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-121.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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