HOME   »  2014年12月
Archive | 2014年12月

柴山漁港の競りを見学のあと出石神社、宗鏡寺の紅葉を楽しむ

柴山で宿泊した民宿から15分ほど歩いたところに柴山漁港がある。7時ごろからカニの競りがあると聞いたので、朝食前に散歩をかねて見に行くことにした。

柴山漁港の朝

ちょっと早い目に着くと、ちょうどカニをランク順に並べておられる最中だった。
柴山漁港で水揚げされるズワイガニの活カニは「柴山がに」と呼ばれて高級ブランドになっているが、「柴山がに」のランクは大きさ、重さ、姿などで50種類近くあるようだ。
柴山漁港のカニのランクは次のURLに出ている。
http://www.jftajima.com/shibayama_shop/kani/page02.html

柴山漁港かに

最高級品を「番ガニ」と呼ぶことは知っていたが、「番ガニ」にも大きさによって等級が7つに分かれ、少し身の入りが少ないものは別に大・中・小で分けられる。
また、サイズは大きくても、甲らが少し柔らかくて身の入りが少ないカニは「ボタガニ」と言い、それにも大・中・小に分けられるという具合だ。
ある程度大きなカニは一匹ごと競りにかかり、標準的なサイズのカニは、それも大・中・小に分類されて箱ごと競りにかけられる。

柴山漁港せり

競りが始まった。私には競り人が早口で何を言っているかさっぱりわからなかったが、業者が札を入れていって小気味よく買い手が決まっていく。競りを実際に見たのは初めてだが、なかなかいい勉強になった。Youtubeでも多くの方が柴山漁港の競りを紹介しておられるが、こんなに早いテンポで実際の競りが進んでいくことに多くの方が驚かれると思う。


宿に戻って朝食を済ませて、次の目的地である出石(いずし)神社(0796-52-2440)に向かう。

出石神社

『日本書紀』巻第六に、垂仁天皇3年春3月、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参し、これを但馬国に納めて神宝としたことが記されている。
天日槍は播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとあるのだが、驚くことにこの新羅王子の天日槍が、出石神社の主祭神になっているのである。なぜ但馬国の一の宮で異国の皇子を祀るのだろうか。

出石神社社殿

しかも案内立札に記された出石神社の由緒には、日本語と韓国語が併記されている。神社の由緒でハングル文字を見たのは初めての経験だが、そこにはこう書かれていた。
天日槍命のご子孫には、田道間守命(タジマモリノミコト)や神功 (じんぐう) 皇后があります。
 神社の創立年代はあきらかではありません
が、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命(タニハノミチヌシノミコト)と多遅麻比那良岐(タジマヒナラキ)と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。」
千三百年前とは奈良時代の初めのことである。

田道間守が天日槍の玄孫であることは『日本書紀』巻第六に明記されているが、神功皇后については田道間守の次の代の多遅摩比多詞(タヂマヒタカ)の娘が葛城高額比売命(カツラギタカヌカヒメノミコト)で、神功皇后の母になるのだそうだ。第14代仲哀天皇と神功皇后の子が第15代の応神天皇でその子が第16代の仁徳天皇になる。
要するに、この頃のわが国の歴史は朝鮮半島と密接な関係にあったということなのだが、近代デジタルライブラリーなどで検索すると戦前の歴史書には天日槍が新羅の王子であり神功皇后がその後裔であることが多くの書物に書かれていることが確認できる。しかしながら、戦後になってこの時代のことは「神話」の領域にされてしまっていて、学ぶ機会が失われてしまっていることがわかる。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%A4%A9%E6%97%A5%E6%A7%8D

出石神社から次の目的地の宗鏡寺(すきょうじ:0796-52-2333)に向かう。距離にして3km程度なので数分で到着する。

宗鏡寺

宗鏡寺は明徳3年(1392)頃に山名氏の菩提寺として建てられ、一時は山陰随一の伽藍を誇っていたというが、織田信長の第2回但馬征伐で山名氏が滅亡したあと寺は荒廃してしまう。
その後、出石城主・小出吉英のすすめを受けた沢庵(たくあん)により、元和2年(1616)にこの寺は再興され、沢庵は通算30年間この宗鏡寺で過ごしたという。
その後小出家が断絶となり、その後は出石城主となった仙石氏の支援により隆盛したという歴史がある。

宗鏡寺 鐘楼

山門をくぐると右側に鐘楼が見え、モミジとドウダンツツジの紅葉が美しい。

宗鏡寺庭園

本堂庭園の紅葉がちょうど見ごろを迎えていた。
緑色の厚い苔の上に毎日大量の紅葉が落ちているはずなのだが、落葉が庭の奥の方に集められていた。苔の緑色を鮮やかさを維持しようとすれば、毎日落葉を掃除することが不可欠である。おそらく、落葉用の掃除機を使っておられるのだろうが、庭の美しさを引き立たせるために、この時期は定期的な手入れがなされているのだろう。

宗鏡寺庭園2

上の画像は本堂の庭園は沢庵和尚が作庭したと伝えられている「鶴亀の庭」。木を鶴に見立てて池の中の島が亀を表しているのだそうだが、そんな説明はどうでもよい。とにかくこの庭の紅葉が素晴らしい。

投淵軒

紅葉の季節だけかもしれないが、庭園の中に「投淵軒」という茶室があり、そこで抹茶を頂いた。本物の茶室の4畳半の空間で点てていただいた抹茶を味わったのは初めての経験で、とても贅沢なひとときを過ごすことが出来た。

「投淵軒」というのは、元和6年(1620)に沢庵和尚が宗鏡寺の後山に建てた小庵の名前と同じだが、沢庵は世塵を避けてその場所で和歌を楽しみ、多くの著書を表したという。
また沢庵和尚がこの投淵軒時代に考案したという「沢庵漬け」は、今も日本人の食膳に親しまれている。

takuan001.jpg

ところが、この沢庵和尚が朝廷と江戸幕府との対立事件に巻き込まれてしまう。
紫色の法衣や袈裟は、昔から宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜ったのだが、後水尾天皇が沢庵に紫衣を授けたことを寛永4年(1627)に徳川3代将軍家光が問題にし、朝廷に対し、これまで授与した紫衣着用の勅許を無効にすることを要求した。(紫衣事件)
幕府の要求の根拠は、慶長18年(1613)に定めた「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」および、その2年後に定めた「禁中並公家諸法度」に違反するというものである。
朝廷は幕府に強く反対し、沢庵や妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出したのだが、寛永6年(1629年)に幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処したという。
江戸幕府はこういう形で「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示したわけだが、このことは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上位に立ったという事を意味しているという説があるが、そのとおりだろう。

寛永9年(1632)に紫衣事件に連座された者たちは許されたのだが、沢庵和尚は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍することとなった。以前このブログで何回かに分けて南光坊天海のことを書いたが、処罰は自分だけにしてほしいとのべた沢庵に感銘した天海が沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張したのだそうだ。

宗鏡寺 野菜

宗鏡寺の本堂で地元の野菜を並べておられた。宗鏡寺の方が地元の農家を応援するために、地元の無農薬野菜を販売しておられると聞いて、小野芋、ビタミン大根、紅芯大根を買って帰った。
小野芋はサトイモとよく似ているが、戦前には京都祇園の料亭にも出荷され京芋として親しまれたという。ビタミン大根は先が白く胴の部分は中まで緑色のダイコンだ。サラダにするとパリッとした食感で歯ごたえがあった。紅芯大根もサラダにたが普通のダイコンと比べ水分が少なく、コリコリした食感が楽しめる。

宗鏡寺の山門を出てすぐ近くに、願成寺(がんじょうじ)という寺がある。この寺は山名氏創建だと伝えられているが詳しいことはよく分からない。

願成寺 山門

この山門は江戸時代のもので豊岡市の文化財に指定されているそうだが、この門前にユニークな達磨大師の像がある。京丹後市の正徳院という寺の住職が数十年前に制作されたものだそうだが、じっと見ていると、逆に自分が達磨に見られているような気になってくる。観る角度によって表情が変わるので写真ではうまく伝わらないのだが、宗鏡寺に来られた際にはぜひ願成寺に立ち寄って見て頂きたいと思う。

昼食は出石蕎麦に決めていたので、出石の中心部に移動する。
時刻は11時を過ぎていたが、さすがに紅葉時期は出石蕎麦と紅葉を求めて大阪方面からくる車が多く、大手前駐車場は既に満車で出石支所南駐車場になんとか入れることが出来たのはラッキーだった。他には西の丸駐車場や鉄砲駐車場もあるのだが、出石に来るときは11時を大きく過ぎると、駐車場待ちの車の列に並んで待たねばならなくなるリスクがある。

出石蕎麦

出石蕎麦の店は数えきないほどあるので、どこがいいのか正直よく分からないが、前回出石に来た時に食事をした湖月堂に今回も入ることにした。
2回に上って、出石のシンボルである辰鼓楼を眺めながら食べる、出石名物の皿そばは旨かった。
<つづく>
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






【ご参考】
このブログで南光坊天海について、こんな記事を書いています。
良かったら覗いてみてください。

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-346.html

南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-347.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html



関連記事

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ

出石蕎麦の昼食を終えて出石城址に向かう。途中で出石のシンボルである辰鼓楼(しんころう)がある。

辰鼓楼

辰鼓楼は明治4年(1871)に建てられたもので、昔は太鼓をたたいて時刻を報じたのだそうだ。

谷山川にかかる橋を渡り城址にのぼる階段のすぐ東隣りに諸杉(もろすぎ)神社がある。この神社の祭神は多遅摩母呂須久(たじまもろすく)で、この人物は、前回の記事で記した出石神社の祭神である新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)の嫡子なのだそうだ。

出石城櫓2

出石城は14世紀ごろに山名時吉が築いた城だが、当初は出石神社の裏にある此隅山に建てられたという。しかし永禄12年(1569)に木下秀吉の出兵で落城したため、織田信長の許しを得て天正2年(1574)に山名祐豊が有子山(ありこやま)山頂に有子山城を築き本拠を移したが、天正8年(1580)羽柴秀吉の第二次但馬征伐で羽柴秀長に敗れてしまい、但馬山名氏は滅亡してしまう。その後、龍野から小出氏が入封し、慶長9年(1604)に小出吉英(こいでよしふさ)が有子山の麓、現在の出石城跡に築城したのだそうだ。

出石城櫓

明治初期の廃城令で出石城は取り壊されてしまったが、その後、隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、お堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備され、桜や紅葉の名所になっている。上画像は本丸東隅櫓周囲の紅葉である。

出石城鳥居

城の麓から始まる石段の参道には37基の鳥居が並んでいる。

有子山稲荷神社

石段を上って行くと、石垣最上段の稲荷郭には城の鎮守である稲荷神社が祀られている。この神社は慶長9年(1604)の築城時に建てられて、城郭内にありながら江戸時代から身分を問わず参拝が許されていたのだそうだ。

普通の城なら、一番高いところに天守閣があるだろうと考えてしまうところだが、この城には天守閣は存在しない。
江戸幕府が出石藩に天守閣を建てることを認めなかったのがその理由だと考えるのだが、初代城主の小出吉英は有子山山頂の有子山城の天守は廃したものの郭や館の一部を残す選択をしたという。
いつかは天守閣を建てたかったと思うのだがそのチャンスは訪れず、旧有子山城は、歴代城主が江戸幕府を憚って一切修理がなされず、荒れるに任されて放置されたそうだ。

出石城

この稲荷郭からは出石の町並みを一望することができる。「但馬の小京都」と呼ばれる出石の中心部は思っていたよりも狭かった。
この場所から有子山城跡に登ることも出来るのだそうだが、かなりの急坂なので諦めた。

斎藤隆夫顕彰碑

石段を下まで降りていくと、吉田茂筆の斎藤隆夫顕彰碑がある。
斎藤隆夫は出石出身の政治家で、戦前期に帝国議会で軍部やファシズムに抵抗した人物である。昭和11年(1936)に、帝国議会で『粛軍演説』を行ない、昭和13年(1938)には『国家総動員法案に関する質問演説』を行なった。そして昭和15年(1940)2月には「支那事変処理を中心とした質問演説」を行ない、軍部を批判したことが問題となり、斎藤は決議によって衆議院議員を除名されてしまうのだが、第二次世界大戦に参戦後の昭和17年(1942)の選挙では、軍部による選挙妨害をはねのけて、兵庫5区(但馬選挙区)でトップ当選を果たし、見事に衆議院議員に返り咲いている。こういう気骨のある政治家が、今の与党にも野党にもほとんど見当たらないのは悲しいことである。

続いて明治時代に建築された芝居小屋である永楽館を見学する予定だったが、この日はイベントで貸切であったため中に入れなかったのは残念だった。

出石史料館

予定を変更して出石の町を歩いて、出石史料館に入る。
この建物は生糸を商う豪商福富家の本邸だったものを出石町が譲り受け、公開しているものである。
明治9年(1876)3月に出石町の家の8割以上が焼失したという大火事があり、この建物は、福富家が火災のすぐ後に、京都から職人を招いて建築させたものだそうだ。

出石史料館 囲炉裏

建築されてから138年もの年数が経過しているのだが、今もなお頑丈で、古さを感じさせない立派な建物である。
また土倉には出石藩第3代藩主仙石政辰公の鎧兜や、『仙石騒動』の資料などが展示されていた。

出石史料館 鎧兜

仙石騒動』というのは、江戸時代の後期に出石藩(仙石藩)で発生したお家騒動で、しばしば「江戸時代の三大お家騒動」の一つとして紹介されている。
どんな事件であったかと言うと、第6代藩主仙石政美(まさみつ)の代に藩の財政が逼迫して藩政改革の気運が盛り上がり、筆頭家老の仙石左京は産業振興策を、もう一人の家老仙石造酒は、質素倹約の財政引締め政策を、という対立構造の中、藩主政美は左京の政策を支持し、左京は強引な改革を推進していった。ところが、はかばかしい成果が出ないまま、文政7年(1824)に藩主・仙石政美が参勤交代で江戸に向かう途中で発病し、江戸で病没してしまう。
後継の藩主として政美の弟である道之助を元服させることとなり、藩政は、財政引締め派の仙石造酒らが完全に掌握して、左京の政策はすべて廃止されることとなる。
ところが、派閥争いで乱闘騒ぎがおこり、仙石造酒らは隠居を余儀なくされて、再び左京が筆頭家老として人事権を掌握することとなる。
しかし反左京派はおさまらず、左京が自分の子を藩主につけようと、藩主久利の暗殺まで計画しているなどと誹謗中傷を繰り返し、ついに藩内の争いは幕府に聞こえて裁定を仰ぐこととなる。
天保6年に裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に晒首され、左京の子小太郎は八丈島へ流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは無かったものの、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となったというが、これで全てが決着したわけではなく、その後も出石仙石藩では抗争のしこりが残り、30年ほど藩内の政争が続いたという事件である。

出石酒蔵

出石史料館の近くに出石酒造の酒蔵がある。江戸中期の建物だそうだが、こういう土の壁を見ることが少なくなってしまった。文化財などの指定は受けていないようだが、こういう古い建物が数多く残されているところが出石を散策する魅力でもある。これからもこのような景観を後世に残してほしいものである。

土産物屋でお菓子をいくつか買ってから、最後の目的地である神戸市西区の太山寺(たいざんじ:078-976-6658)に向かう。播但連絡道路から第二神明道路、阪神7号北神戸線を走って2時間程度で到着した。


簡単に太山寺の歴史をまとめると、この寺は藤原鎌足の長男、定恵(じょうえ)和尚の開山で、霊亀2年(716)に藤原宇合(うまかい:藤原不比等の子)が堂塔伽藍を建立したと伝えられている。
鎌倉時代から室町時代にかけて栄え、最盛期の南北朝時代には支院41坊・末寺8ヵ寺・末社6社を持ち、さらに僧兵も養っていたとのことが、現在では龍象院・成就院・安養院・歓喜院の4坊が残っているだけだ。

太山寺 播磨名所巡覧図会

文化元年(1804)に刊行された『播磨名所巡覧図会』に描かれた太山寺の絵図をネットで見ることができる。この頃の太山寺は今よりもかなり賑わっていたようだ。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/harima_m/taizanji.jpg

太山寺正面

正面に見えるのは国宝に指定されている太山寺の本堂。神戸市内で国宝に指定されている唯一の建物で、弘安8年(1285)に火災で焼失したのち、1300年ごろに再建されたと考えられている。

太山寺三重塔2

本堂の右手には、美しい三重塔(県文化)がある。拝観は出来ないが、天井などには極彩色の装飾が施されているという。心柱の墨書銘から貞享5年(1688)に寄進により建てられたと考えられている。

太山寺阿弥陀堂

本堂の左手にある阿弥陀堂も同じ時期に再建されたものである。中には鎌倉時代に制作された阿弥陀如来座像(国重文)が存置されている。
毎年5月12日には、阿弥陀如来来迎の様子を僧侶や稚児らで演じる「練り供養」と呼ばれる珍しい法要が行われるそうだ。次のURLに詳しくレポートがなされている。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/case/9_2ikawa/0512_001.html

太山寺本堂2

この寺も紅葉の隠れた名所で、境内の各所で鮮やかな紅葉を楽しむことができる。

太山寺本堂内部

国宝の本堂の中に入る。思った以上に中は広い。
この本堂を舞台に、毎年1月7日に走り鬼と3匹の太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼が松明(たいまつ)を持ち、太鼓の音に合わせて踊り悪霊を退治する行事が行われるという。
どんなに古い伝統のある行事も、地元に若い世代が残らなければ繋ぐことが難しいことは言うまでもない。太山寺に限らず全国の多くの寺や神社で大変苦労しておられることだと思うのだが、地方の経済の活力を削ぐような経済政策を続けて行けば、残すべきものも残せない日が来るだろう。
Youtubeでいろんな方がこの行事を紹介しておられるが、安土・桃山時代から伝わるこの伝統行事を、私もこの目で見てみたいものだ。


この旅行の1日目で朝光寺、浄土寺、一乗寺の神仏習合の景観を観てきたが、この太山寺も同様な風景を容易に見つけることができる。

太山寺神仏習合

本堂の右に稲荷社があり、その隣に太子堂があるが、太子堂の正面には大きな石の鳥居がある。

太山寺には奥の院があって、稲荷社と地蔵堂と鎌倉時代の磨崖仏があるのだそうだ。時間がなかったので奥の院に行くことは出来なかったが、今度来るときには、塔頭の安養院庭園(国名勝)とあわせて訪問したいと思う。

2日間天候に恵まれて、あまり知られていない播磨や但馬の紅葉の名所を一年で一番美しい時期に訪れることが出来、柴山カニや出石蕎麦も味わう事が出来て、大満足で帰途に就いた。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。
よかったら、覗いてみてください。

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html

赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-152.html

赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったか~~忠臣蔵5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html


関連記事

明治維新と武士の没落

明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。

そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。

次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。

山縣有朋

さらに明治5年(1872)には、2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられている。この詔は原文ではこう書かれていた。

徴兵の詔

「朕惟ル(おもんみる:思い巡らす)ニ古昔郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう:若者)ヲ募リ軍団ヲ設ケ以テ国家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ当リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ体シ普ク之ヲ全国ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」

この詔の方針に基づき徴兵告諭が出され、翌明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されたのだが、ポイントは「四民平等、国民皆兵」で、20歳に至る者を陸海両軍に充てて、士族(元武士階級)の採用に限定しないことを明記している点にある。このことは士族においては、生存権にかかわる重大問題であったはずだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』の解説がわかりやすい。この本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、誰でもPCで読むことができる。
明治5年の正月の調査によれば、士族の総数は40万8千戸、その家族を合わせれば190万人という大多数が、封建組織の瓦解と共に、深刻な生活問題に直面したわけである。
  しかも彼等は、今まで生活の本拠となっていた藩がなくなったばかりでなく、明治5年に発布された徴兵令のため、その本来の職能である軍役からもはなれることになり、いよいよその存在の意義を失うことになったのである。
 … 
 元来、幕末期における武士の生活難は維新の一原因と言われるくらいであるから、相当激しいものであった。軽輩の武士は、家禄だけでは生活できないから、内職を営み、そのために地方に特産物が発達したと言われる。仙台の仙台平、甲州の郡内織など、みなこの下級武士の妻子が従事して名産としたものである。
 維新から明治にかけて、全国的の兵乱のため物資は高くなり、藩札その他、財政の混乱から、ただでさえ苦しい武家の家計は、ますます不如意となっているところへ、版籍奉還廃藩置県の大変動を受けたわけである。
 そのために彼等が受けた打撃は、第一に家禄の削減であった。政府としても、藩に代わって禄を全士族に与えるとすると、年2500万円という巨額に達し、これは全歳出の3割6分に当たるのである。今まで通りの知行を与えてはやり切れなくなったので、各々その数分の1に削減している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/77

ではどの程度減らされたのかというと、
「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も100石に減らされている」とあるが、最も悲惨であったのは朝敵であった徳川の旧幕臣であったようだ。
徳川慶喜は明治元年の江戸城明け渡しの後、800万石を70万石に大幅に減らされて、駿府に移封されている。その収入ではとても膨大な家臣団を養えないので、駿府に赴いた者は15000人程度だったことがWikipediaで解説されているが、実収は激減した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E

下級武士の収入までもがそこまで減らされてしまっては生活が成り立つはずがない。その上に新しい税まで課せられたという。
菊池寛は、前掲書で徳川の旧幕臣の生活のことをこう記している。

「静岡における彼等の生活は、嘗て実収1万石を得ていた者でも、250石の収入となってしまった。以下、小録に至るまで、順次低下するのであるから、どんなに惨めな生活だったか分るのである。今日有名になっている静岡の茶業は、実にこれら飢餓に瀕した旧幕臣が辛うじて発見した生活法に由来するものである。
 家禄削減に続いて、明治6年、政府はこれらの家禄に、新たに税を課することになった。しかもその率は高くて、全体からいって1割2分というのである。収入は激減する上に、その激減したものに、こんな高率な税を課したのであるから、彼等の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78

中條景昭

少し補足しておく。
今は一面茶畑となっている静岡県の牧之原台地は、以前は荒廃地であったのだが、徳川慶喜とともに駿河に移住した中條景昭(ちゅうじょうかげあき)ら約250戸の元幕臣たちは牧之原に転住したのち、1425町歩の開墾に精力を注ぎこみ、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達して、明治6年(1873)から茶芽を摘みはじめとある。
度重なる苦労と失敗を重ねながらも、静岡牧之原の茶葉の品質向上に成功させて、『静岡茶』を有名ブランドに育てあげたのは、徳川の旧幕臣であったのだ。
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup03.htm

しかし、このような成功例はごく一部に過ぎなかった。
明治政府は家禄の奉還を願い出た士族に家禄の数か年分の公債を与えて、士族が生業に就くことを促したというのだが、生活を立て直すにはあまりに公債が少なすぎて、家財道具を売るものや、娘を芸娼妓に売ったりする者も少なくなかったという。

士族は、ただ収入が激減しただけではない。徴兵令が出て軍役が国民全体の義務とされたことから、彼等の仕事までもが奪われ、さらに、明治9年(1876)には廃刀令が出されて、彼等の持っていた誇りと特権が悉く剥奪されていったのである。

こんなに悲惨な境遇に追いやられた士族が、明治政府に不平・不満を持つことは至極当然なことだと思うのだが、なぜ明治政府は彼等をここまで追い詰めたのだろうか。
彼等の失業対策が必要になることは初めからわかっていたのだから、四民平等・国民皆兵の考え方で徴兵制により兵士を集めるのではなく、士族を優先して兵士を集めれば良かったのではないかと誰でも考えるところで、明治政府内においても西郷隆盛や谷干城らは山縣有朋の徴兵制の主張に反対したようだ。

大衆明治史

それにもかかわらず、山縣有朋が徴兵制を強く主張した根拠はどこにあったのだろうか。山縣と同様の主張をしたのが大村益次郎なのだが、両名が徴兵制を主張した理由について、菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。

大村益次郎にしても、山縣有朋にしても、徴兵制をあくまでも主張した根拠は、全く同じ経験に出発したものと言われる。即ち、共に奇兵隊長として四境戦争*に臨み戊辰戦争に転戦した経験がある。
 奇兵隊長、高杉晋作は、
砲火による戦闘は、団体の訓練が主で、一個人の格闘力の如き問題ではない。ところが個人的格闘力を誇りとすべき筈の門閥武士は、太平の久しい優柔の風に慣れて堕落し、活発な元気と強健な体躯は、却って下士、足軽百姓町人の階級に見るようになっている。これらの精鋭を選び、軽快な武装と銃器を与え、団体的な訓練を施せば、よく洋夷にも対抗出来よう』
 と述べ、一般四民から募集したのが、有名な奇兵隊
である。これが四境戦争*で、幕兵を向うに廻して、どんなに目覚ましい働きをしたかは、大村も山崎もその隊長として、充分に見届けたのであった。奇兵隊はいわば徴兵制の立派な見本を見せたわけである。…
 また、士族だけで、新興日本が必要とする兵員全部を供給することが出来ぬし、また終身兵制の士族全部に支給する費用は、当時の財政としては、とても支弁しきれたものではないのである。…」(『大衆明治史』p.108-109)
*四境戦争:幕末期に江戸幕府が長州藩攻撃のため起こした戦争のうち、第二次長州征伐を長州側では四境戦争と呼ぶ。兵力では圧倒的に幕府軍が優っていたが、長州軍が勝利した。

長州奇兵隊

山縣らは、奇兵隊が幕府兵を破った経験から銃や大砲を用いる戦いには武士は不要であり、明治政府の乏しい歳入を勘案しても、武士を優先して雇うわけにはいかないと考えたのだが、そのために多くの武士が失業したことに頭を痛めた一人が西郷隆盛である。彼が、征韓論を強く唱えたのは、士族を本来の軍役に就かせる目的があったと考えられている。

しかしながら、その征韓論が認められなかったために、江藤新平、板垣退助、西郷隆盛らが下野し、その後、不平を持つ士族が、明治7年(1874)に佐賀の乱、明治9年(1876)に熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱を起こしている。

鹿児島暴徒出陣の図

そして明治10年(1877)には、ついに西郷も明治政府に反旗を翻したのである。
西郷の率いる1万3千の兵が鹿児島を発って北に向かうと、各地の士族が続々合流し、僅かの間に3万に膨れ上がって、西南戦争が始まっている。
西郷軍は鎮台のある熊本城を目指したが、武士が負けるはずがないと高をくくっていた百姓や町人上がりの新政府軍に敗れてしまい、不平士族の最後の墓場となってしまった。

ところが、不平士族たちの反抗はそれからも続いたのである。
菊池寛は『明治文明綺談』でこう解説している。
「…これから後は、彼等の反抗は思想的なものに代わり、自由民権を唱えることによって、藩閥政府攻撃の火の手を掲げるようになった征韓論に敗れて野に下った、後藤象二郎、江藤新平等によって民選議員設立の建白書が提出されて以来、焦慮憂鬱に閉ざされていた失意の士族は猛烈な勢いでこれを政府攻撃の手段とした。…
 政府としては、一難去ってまた一難である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/82

この難局を明治政府が如何にして切り抜けただろうか。
このテーマは次回に記すことに致したい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ






【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
クリスマスが近づいてきましたが、戦国時代にキリシタンの兵士たちが、敵味方と合同でクリスマスを祝っています。
関連記事と合わせて読んで頂ければありがたいです。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


関連記事
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル