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2015年 新年のごあいさつ

あけまして おめでとうございます

旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただきまして まことに有難うございました。

多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。
何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやツイッターなどで記事の紹介をしていただいた方、SNSなどでメッセージを送っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。
また昨年にブロガリからFC2にブログ移転をしましたが、予想以上に読者を増やすことができました。これも、皆さまの応援のおかげと感謝いたしております。

化け地蔵2

まだまだ勉強不足ではありますが、読者の皆様の応援で元気を頂きながら、本年も引き続き、日本の歴史や文化について私が興味を覚えたことや、疑問に感じたことを調べたり、旅行やドライブで見聞きしたことなどをこのブログに書き記していく所存です。

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関連記事

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし

前回は、徳川家が駿府(静岡)に移封されることになり、徳川家とともに駿府に移住することを希望した誇り高き旧幕臣とその家族を乗せた米船は、奴隷を運搬するのと同様の方法で彼らを運んだことを書いた。劣悪な環境で二昼夜半帆船に揺られて清水港に着いたあとの彼等の生活はどんな具合であったのか興味を覚えて、引き続き塚原渋柿園の『五十年前』を読み進む。

たとえ無禄であっても徳川家をお供して駿府に移住(無禄移住)するという旧幕臣がかなりいたのだが、武士とはいえ収入がなくては生活が成り立たないことは言うまでもない。
塚原も無禄移住者の一人であったが、藩としても何も与えないわけにはいかなかったようで、わずかながら給料を支給していたようだ。塚原はこう記している。

清水湊

「私の給料というものは、1ヶ月に1人半扶持に1両2分という取前だ。(部屋住だから当主の半減)かねての約束だから、私はその金1両で自分を賄って、残余の1人半扶持と金2分をば親父に送った。その住む長屋のあばら素胴も、自炊も、酒が飲めぬのも仕方がないが、いかな駿州の田舎でも一両は実に食いかねた。據(よんどこ)ろなく、非番の折には、城内から一里半程の城の腰の海辺(今鉄道の通っている焼津の近傍)へ行って、青海苔を採って来て干して食う。あるいは藤枝の山手の太閤平、盃松などの谷に行っては蕨やぜんまいなどを摘んでは食う。…」とかなり苦労したようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/32

「扶持(ふち)」というのは、主として下級武士に蔵米や現金のほかにあたえられた米で、「1人扶持」とは、武士1人1日の標準的生計費用を米5合と算定し、年にして1石8斗(5合×360日=1800合=1.8石)、俵に換算すると、1石=2.5俵なので、「1人扶持」は4.5俵(1.8石×2.5倍)、「一人半扶持」なら6.75俵(4.5俵×1.5倍)という計算になる。
現在価値にすると、1俵は約60kgで、米1kgを400円で計算すると「1人半扶持」は162千円程度(6.75俵×60倍×400円)、1ヶ月にすると13500円となる。
さらに塚原は1両2分の給金があったが、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によると、「慶応3年(1867)頃で1両で米が15~30kg買えた」とある。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf
従って1両の現在価値は、米1kgを400円で計算すると6千円~12千円となり、2分というのは1両の半分(3千円~6千円)を意味する。

まとめると、塚原が藩から受け取っていたのは、現在価値に直して月あたり22千円~31千円程度で、本人は6千円~12千円程度で1ヶ月を生活し、残りを両親に与えたということになる。
当然この程度の収入では、二十歳の塚原がまともな食事をすることは難しく、非番の時には海や山で食べるものを探すという生活であったことを記している。

では、塚原の両親はどんな生活であったのか。

六十余州名所図会 駿河 三保の松原

「…ある日父の許から手紙が来た。その手紙によると、右の禅叢寺から岡清水という所に引っ越した。その家は右に三保の松原を見て、左に富士、頗(すこぶ)る好い景色であるから、家は汚く狭いが是非一日来て見てくれろ、とのことである。私も久しく逢わぬから是非行きたい。そこで田中から宇津谷(うつのや)を超え、安部川を渉って、日の薄暮に漸く父の家へ尋ね当てた。
 まず一同に挨拶して、其の好景色という景色を見ると。成るほど好景色!…絵も及ぶまじき眺望(ながめ)ではあるが。また其の家の汚穢(むさく)るしさといったら、筆にもは及ばぬほどの汚さだ
 私の江戸の市ヶ谷の住居も、決して美麗の、立派のというではないが。とにかく400坪程の地面があって、座敷から隠居所まで大小の間数が十一間、小禄ながら幕府の下士の家として相当なものであったのが。どうだろう。今見るその家と言ったら、6畳に2畳、三尺の台所に1つ竈。四谷の鮫が橋か芝の新網あたりにある田楽長屋という気色(けしき)の、しかも古い古いぶち毀れかかった建地の、天井もなくて、その板葺(こけら)の屋根も半分腐朽(くさ)っている。…実際これが自分の住居かと思ってみると、はなはだ面白くも思われないので『お母さま、実にひどい家ですなあ!』と私が言うと、『いえお前、そんな事言っておくれで無いよ。これでもお前、お泊りさん(移住者の異名)にしちゃ好い分のだよ。あの禅叢寺にいっしょに居た○○さんの家は、町ではあるが裏屋でね、△△さんの引っ越した先は村松の百姓いえの破壊(ぼろ)けた馬屋を直したのさ。これでもここは一軒だてさ。物置の差掛けでもこしらえりゃ当分の凌ぎにはなりますよ。ナニお前、どうせ凌ぎさ。』―――得意ではもとよりあるまいけれども、むしろこの家に、自ら慰めて、住むという心になられた母人の心がいじらしい、と私は思って、黙っていた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/35

塚原が東京にいた時には、敷地が400坪程度で、部屋の数が11間もあったのだが、静岡に移って住むことになった家は、天井もなく屋根も半分朽ちたような6畳に2畳と台所があるだけの小さな古家だった。しかし、こんなボロ家に住んだ塚原家は、徳川家家臣の移住者の中では良い方だったという。

「…母の口状ではないが、実際、乞食小屋でも一軒の家を我がものにして、親子夫婦、とやらかくやら凍餒(とうたい:凍えることと飢えること)の厄(やく)を免れていったのは、当時の移住者として上等の口だった。現にある人の如きは、真にその三餐(そん)の資(し)につきて、家内七人枕を並べて飢えて死に。死後その近隣に見出されて一村の大騒ぎとなったということも、そののちに聞いた。今日の人の目から見たならば、死ぬまでジッとして一家7人、頭を揃えて往生するなどは、人間として余りに意気地(いくじ)がなさ過ぎる。そこらににある芋大根を掘ってきてなり、命一つはどうにか?というでもあろうが。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/37

塚原渋柿園

塚原は、仲間の餓死事件に強いショックを受けたようである。

「とにかく旗本八万旗という、多数の、しかも世渡りにごく不慣れの人間が、一事に無禄の乞食となって他国にさまようというのだから、修羅や餓鬼の悪道に堕ちるのは当然の成り行きで(ある)。…私はこの餓死なる件について非常な教訓を受けている。何かと言えば、『不屈の精神も、食を得る手の働きが伴わねば、即ち経済的生活を得ねば、終にその貫徹を見ることができぬ』という、それである。想うにこれら凍餒の惨話を残した人々も、江戸を出る時、目的の半途で、こんな浅ましい最後の屍(しかばね)を人に見せようとは決して決して思わなんだに違いない。…惜しむべしその無能の手は、この目的や精神を貫き得るまでの年月を支うべく、生命保続の物質をその肉体に与えぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/38

苦しい生活を覚悟して家族とともに静岡に移住して来たからには、新しい時代をどう生きるかについての夢や希望があったはずなのだが、食べるものもまともに得られない状態ならば、生きるということすら難しい。
塚原は「無能の手」という言葉を用いているが、いくら生活が苦しくても、せめて海や山に行って少しでも栄養価のある食材を探すなり、工夫すればもう少し何とかなったはずだと、餓死した仲間のことを惜しんでいるのだと思う。

斗南藩

このようなひどい生活を強いられたのは旧幕臣ばかりではなかったようだ。
戊辰戦争で官軍に降伏した会津藩は23万石であったが、3万石に減封された上に、下北半島の斗南(となみ)に移封となり、2800戸、17300人余りが極寒の地に移住することとなった

海路で移住したメンバーは大きな問題はなかったようだが、陸路で移住を決意したメンバーは、宿泊に難色を示す旅籠が多い上に、駕籠の使用も認められず、移動中に飢えや寒さで絶命した人が少なくなかったそうだ。
その上、入植先での生活もかなり厳しいものであったという。Wikipediaによると3万石とはいっても、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9#.E6.96.97.E5.8D.97.E8.97.A9

『ぐるりんしもきた』には、「一人一日三合の扶持米は保証されていましたが、国産米に南京米を混ぜた粗悪なものでした。でんぷんを作ったり、海草の根を加工したり、松の木の白皮を食べたり農家の残飯を漁ったりしたと言いますから飢餓地獄そのものだったようです。冬に入ると餓死や凍死、栄養失調などで死者が続出しました。」と記されている。
http://www.shimokita-kanko.com/?p=2415

この様な史実を教科書に載せろとまでは言わないが、明治政府がこれら多くの人々の犠牲の上に成り立っていたことを知らなければ、明治という時代を公平な観点から評価できないと思うのだ。

いつの時代もどこの国でも、「勝者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育で広められ、「勝者にとって都合の悪い真実」が伏せられて、人々の記憶から消えていく。

よくよく考えると当然のことなのだが、勝者は「歴史」の叙述の中で、自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものなのだ。
だから勝者は、彼等にとって都合の良い「キレイごとの歴史」を拡散して国民を洗脳し、「勝者にとって都合の良い国民」を作ろうとする傾向にある。
そのために、幕末から明治にかけての歴史は、薩摩藩・長州藩を主役とし、その指導者は偉人として描かれて、それに抗した側は敵として描かれるか無視されることとなる。

歴史叙述においては、往々にして、道理に合わなくても勝てば正義になり、道理に合っていても負ければ正義でなくなってしまうものなのだが、明治維新からすでに147年が経ち、もう薩長両藩の影響を考えなくても良い時代であるにもかかわらず、未だに薩長中心史観で描かれた歴史が、公教育やマスコミで広められていることに疑問を感じざるを得ない。

このことは江戸幕末から明治時代の歴史記述に限ったことではなく、いつの時代においても同様のことが言えるのだが、どの時代を学ぶにせよ、勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、もっとさまざまな視点から、それぞれの時代を考察する必要があるのだと思う。

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【ご参考】
1月の話題で、このブログでこんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-139.htm
神峰山寺は毎年1月9日の「初寅会」には修験者によって「大護摩供」と「火渡りの神事」などが行われています。
本山寺の毘沙門天立像は日本三大毘沙門天(鞍馬寺、朝護孫子寺、本山寺)のうちの一つで、国の重要文化財に指定されており、毎年1月3日、5月第2日曜日、11月第2日曜日の午後1時から3時に御開帳となります。

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-360.html
太山寺本堂を舞台に、1月7日に走り鬼と3匹の太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼が松明(たいまつ)を持ち、太鼓の音に合わせて踊り悪霊を退治する行事(鬼追儺)が行われます。

若草山の山焼き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-140.html
今年は1月24日(土)に行われます

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼失し、焼死者が十万人余も出ました。


関連記事

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」

前回まで、幕臣の家に生まれた塚原渋柿園が記した『歴史の教訓』という書物の中から、徳川家と共に静岡に無禄移住した士族たちが悲惨な生活をした体験談を記した部分を紹介してきた。

塚原が記している通り、徳川の旧幕臣には明治政府に帰順して「朝臣」として働くか、士族の身分を捨てて農業や商業に従事するか、徳川家と共に静岡に移住するかの3つの選択肢が呈示されていたのだが、大多数が「無禄移住」という一番厳しい選択をしてしまったのである。

明治新政府の官吏の道を選んだ場合は収入などの条件は良く、食べることに窮するようなことにはならなかっただろうが、やはり仲間を裏切るようなことはしたくないという思いの方が強かったのだろう。「朝臣」になった旧幕臣の割合は全体の「千分の1位(くらい)」だったそうで、千石以上の旗本に何人かいたレベルだったという。
帰農した者もいたが、千石以上の知行取りが旧采地に引っ込むというケースに限られていたらしく、この選択をしたメンバーも少なかったという。ただし、塚原の文章では、静岡に渡った士族たちの一部が生活に困ってお茶の生産を始めたことについては触れていない。
一方、商売人になった者は、中・下級の武士、すなわち家禄が30~40俵から200~300俵の士族の中に、かなり存在したことが記されている。

今回は、前回に引き続き塚原の文章を紹介しながら、主に江戸に残って商売をはじめた旧幕臣たちのことを書くことにしたい。

士族の商法

「さあその…連中は、これからめいめい商売というのを始めた。あるいは酒屋、あるいは米屋、小間物屋、そのほか種々雑多な新店というができたが、その内いちばん多かったのは汁粉(しるこ)屋、団子屋、炭薪屋に古道具屋というのであった。この道具屋の店(我が居屋敷の長屋などを店にしたもの)にある貨物(しろもの)は、多くはその家重代(じゅうだい)の器物で、膳椀から木具、箪笥長持、槍薙刀(やりなぎなた)の類、それらに一様の紋が揃って、金の高蒔絵の薩摩蝋燭に閃々(ぴかぴか)と輝くなどは、すさまじく、浅ましという形容詞は、こんな気色にでも使われる語(ことば)であろうと、覚えず涙も出た。が又その価(あたい)の廉(やす)いというのは肝も潰れる。惣桐の重箪笥の手摺れ一つつかぬのが金一分(今の25銭)。金蒔絵の紋散らしの夜具長持が同じく二朱(12銭5厘)などという相場だったが、これはその理由(わけ)で、当時いずれも品物は売るばかりで買う者はない。即ち供給余りがあって、需要がない。虚偽の文明が破れて、的実の実世界に入ったという現象を事実に見せたとでもいうのだろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25

商売を始めたといっても、武士が不要な世の中に変わってしまっては、武家の先祖が代々大切にしてきた家具や武具が簡単に売れるはずがない。そこで仕方がないから売値がどんどん低くなる。
ちなみに「金1分」というのは、1両の4分の1で、1朱というのは1分の4分の1になる。前回記事で当時の貨幣価値に触れたが、「金1分」は現在の1,500~3,000円程度、2朱というのは750~1,500円程度だと思われる。
桐の箪笥はピンからキリまであり、その大きさによっても価格は異なるのだが、いくら中古でもこんな安い価格ではほとんど商売にならなかっただろう。もし「金1分」で桐箪笥が売れたとしても、せいぜい米が4~7kg買える程度のお金にすぎないのだ。

商いをして生計を成り立たせるためには、売れないものを並べるのではなく、売れるものを並べる必要がある。そこで誰でも考えるのは、人通りの多いところで食べるものを売ることだ。塚原の文章を続けよう。

溜池

「それから夜になる。この新米商人衆が大道(だいどう)へ露店(みせ)を出す。その場所は、山の手では四谷の大横町辺、赤坂の溜池最寄、市ヶ谷の堀端通り、神楽坂下などが一番多かった。気の利いたのは桟留(さんどめ)の袷に小倉の帯、新しい目倉縞の前垂(まえだれ)で、昨日までの大髷(おおたぶさ)を急に剃(すっ)っこかした月代(さかやき)*の広い天窓(あたま)を、白地の手ぬぐいで眉深(まぶか)に吉原冠り**というものにした、体裁だけは頗(すこぶ)る巧いが、その客応対の調子というものは実におかしい。やはり殿様檀那様の頭横柄でなければ、堅苦しい馬鹿丁寧で、いや聞くも気の毒のもの、哀れなものだった。また中には焼摺木(やけすこ)に、黒木綿の紋付などで、カンテラの油烟(ゆえん)に燻(くす)べられているのもあった。それで重い荷物を大風呂敷に引背負って、据わらない腰つきでひょろひょろと出掛けるなど、之を要するに目も当てられない為体(てい)。…しかし、それらは細々でも、利潤(もうけ)が皆無でも、手に豆をこしらえ損でも、資本をかけぬ労働組の方だったから、後々までも格別損耗をしなかったが、酒屋、米屋、汁粉屋、蕎麦屋、炭薪屋、もしくは小金貸などと来た者は、十中の九分九厘まで苛酷(えら)い目に出遭って、めいめいが所持金、即ち資本(この時帰農商の人々には、班長から高割で、幾許(いくら)かの涙金が出たか?とも記憶している)を瞬く間にすって、多くは見る影もなくなった。」
*月代(さかやき):成人男性の髪型の一つで、頭髪を前額側から頭頂部にかけて半月形に、抜き、または剃り落としたもの。
**吉原かぶり:手ぬぐいのかぶり方で、二つ折りにした手ぬぐいを頭にのせ、その両端を髷(まげ)の後ろで結んだもの。遊里の芸人や物売りなどが多く用いた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25

吉原かぶり

資本をかけないで客の応対するような仕事を選んだ者は失敗しても傷が浅かったようなのだが、商品を販売した連中は随分酷い目に遭ったという。
では、どんな失敗をしたのだろうか。その点について、塚原はかなり具体的に書いている。

「私の知っている市ヶ谷の本村、蓮池の先手与力の某(なにがし)は、この金貸(かねかし)を始めた。私、ある時行って見ると、大勢の借人(かりて)が入替り立替り来る。それらがまたみな砂糖だ酒だ菓子だ反物だというを持ってくる。その家の細君が意気揚々と『塚原さん、商売はお金を貸すのに限りますよ。お金貸はいいものですよ。割の良い利を取って、手堅い証文を入れさした上に、こういう様に毎日いろいろな品物を貰います。これを始めてから菓子に酒に鶏卵に鰹節に魚というを買ったことはございませんよ。真正(ほんとう)に好い商法!』と説き誇る。その買わぬは良かったが、肝腎の貸した金はみな倒されて、この年の内に五、六百両をカラにして、後には夫婦乞食になったとか噂をされた
また牛込神楽坂辺で汁粉屋を始めた人は、日々勘定を〆上げてみると、儲かる儲かる!儲かって仕方がないほどにただ儲かる。どうしてこう商売というものは儲かるものかと主人も怪しんで、さらに家内の会議を開いて、その理由を探求してみると、儲かるわけかな。団子でも汁粉でも雑煮でも、その肝腎の餅なり米粉なりの代が入っていない。それはみな知行所から無銭(ただ)で来ている物だからみな無代(ただ)にして、薪炭も同じく無代(ただ)にして、新たに買い入れた小豆と砂糖の代だけで算盤を執ったのだから、それで儲かったとはじめて知れて、さすがに主人公(あるじ)。これではならぬ、それにしても米の値段は幾らだろう。と皆に聞いたが、その席にいた者は誰一人、それを知っていた者は無かったという笑話(しょうわ)がある。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/26

いくらしっかりした証文を交わしたとしても、商売の基本がわからずに赤字を垂れ流している連中に金を貸してしまっては、その金が回収できないのは当然だ。
現金商売の場合は、ある程度売上げが続くのであれば、余程価格設定を誤って人件費も払えないような大赤字にならない限りは、途中で価格調整をして事業を継続させるぐらいのことはできたはずなのだが、士族たちは商売で利得を得る方法がわからないまま、短期間で事業を破綻させてしまったようである。塚原は続けて、この様な事例を挙げている。

「またある人は、錢勘定をするに、五十(四十八文)と百(九十六文)だけはようやく分かったが、その間の二十四文、三十二文、六十四文の七十二文のというのになるとさぁ滅茶苦茶で、釣り銭となると良いように錢を掴(つか)んで、お客に勘定をしてもらったという奇談もある。
そのほか酒屋は主人から先に飲みつぶれ、古着屋は奥様からべんべら*を引っ張りたがるという。とにかくこんな光景(ありさま)だから到底永続のしようがなくて、早いのは三月か四月、よくもったのでも一年と辛抱したのは稀で、皆潰れてここに「士族の商法」という套語(とうご)**の濫觴 (らんしょう) ***を開いたのであった。」
*べんべら:薄っぺらな絹の衣服  **套語:決まり文句  ***濫觴:物事の始まり

このように釣り銭の計算ができなかったり、ついつい店の商品に手を出してしまうようでは、いつの時代においても、事業を成り立たせることは出来ない相談だ。

山路愛山

塚原渋柿園と同様に、幕末に幕臣の家に生まれて静岡に移住した評論家の山路愛山は、明治41年に上梓した著書『現代金権史』において、多くの士族が商売に失敗した理由について興味深い指摘をしている。

「元来武士と町人はその素養全く反対也。第一武士の生活は社会的にして個人的にあらず。町人の生活は個人的にして社会的にあらず。これそもそも根本的の相違なり。…武士は金はどうして儲かるものか知らぬが本色なり。左様のことに頓着しては武士の本懐を遂ぐべき邪魔になるなり。…しかるに町人はどこまでも個人的也。自分一人富みさえすればそれにて済むことなり。…武士と町人は生れ落ちてよりすぐに心の行方が違うなり。この相違より次に来たるものは金銭に対する心掛けなり。石田三成は奉公人(武士をいう)は主人より与えられるものを遣(つか)いて残すべからず。遣い残すは盗人なり。遣過ごして借銭するは愚人なりと言えり。これは武士道の極意なり。…武士も禄を遣い残し金持ちになりては浮世に執着多く、潔く戦死もなるまじきなり。されば武士は小判を這い虫同様に心得、つとめて利得に遠ざかるをもってその理想とし、貧は士の常なりといいて貧に甘んずるは武士の本色なりとしたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800504/12

現代金権史

山路愛山が指摘しているとおり、武士たる者は利得に遠ざかることを理想とし、蓄財することは「盗人」であるとの考え方に染まっていた士族たちが大半であったのなら、そのような連中がいきなり商売を始めても、手許に資金が残ったらそれを単純に「儲けだ」と考えて、蓄財して「盗人」扱いされないように使ってしまう習性をすぐに矯正できなかったのは仕方のないことであったろう。
明治政府は、士族たちには素養のない商売の道に飛び込ませるのではなく、田畑を与えて農業でもさせていたほうが、はるかに脱落者が少なくてすんだのではなかったか。
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このブログでこんな記事を書いています。よかったら覗いてみて下さい。

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼失し、焼死者が十万人余も出ました。この大火の原因は江戸幕府にあるという説があるのだが、これは結構説得力がある。

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-36.html
慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に坂本龍馬を伏見奉行が捕縛ないしは暗殺しようとした事件がありました。この寺田屋は全焼したことが確認されていますが、今も「寺田屋」が営業していることが問題です。

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html
坂本龍馬は「寺田屋事件」で、お龍に助けられたとされています。そのお龍は後に龍馬の妻となりましたが、すぐに龍馬は暗殺されてしまいます。お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなりましたが、晩年は淋しい人生でした。

若草山の山焼き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-140.html
今年は1月24日(土)に行われます

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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