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日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える

前回の記事で、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスが、太閤秀吉の言葉として「商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している」と記していることを書いた。
またシャム国では、日本人武士を買って傭兵として用いる強いニーズがあり、山田長政はその日本人傭兵部隊を率いて国王の信任を得て活躍したのだが、他の国も同様に日本人兵士のニーズが高かったようだ。
あまり知らなかったのだが、秀吉が『伴天連追放令』を出した天正15年(1587)の後も、日本人が奴隷として売買される時代が長く続いたようである。

『ナチュラリストの散歩道』というブログの、「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(4)」に、1605年に出されたポルトガルの公文書が紹介されているので引用させていただく。

「今までに行われた売却は、日本司教の書面による同意を得て行われた。(中略)彼ら(日本人)は非常に好戦的な国民で、戦争のためや、攻囲にあるいは必要に際して奉仕をする。少し前に、オランダ人たちのためにその必要が生じた際に見られた通りである。ゴア市から1 人の妻帯者 が、鉄砲と槍を持ったこれら従者7、8 人を従えて出征した。というのはインディアにおいては、兵役を果たすことの出来る奴隷は日本人奴隷だけだからである。ゴアの如き大都市では、その城壁の守りのために必要な兵士に不足することがしばしばあるのだ。 (1605 年、ポルトガル公文書148・「大航海時代の日本」高瀬弘一郎訳註)
http://denjiha55.blog.fc2.com/blog-entry-51.html

ゴアの要塞地図

少し補足すると、インドはポルトガルの植民地であり、軍事拠点には多くの兵士を必要としたのだが、特にゴア市には大きな要塞があり、その防衛に日本人奴隷が用いられていたのである。そもそも傭兵というものは消耗が激しいので、戦闘があるたびに兵士がしばしば不足したようなのだが、当時は市場で容易に調達できる状況にあったようだ。
またゴアは火薬の原料となる硝石の産地でもあり、かなりの日本人奴隷が採掘に従事させられていたと思われる。そのためゴアでは「一時期白人より日本人が多く居住するような状況であった」というから驚きである。

日本人傭兵を高く評価したのはシャムやカンボジアやポルトガルだけではなかった。
講談社の奈良静馬氏が著し、昭和17年に出版された『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』という書物によると、1586年7月にスペインも、支那を征服するために、日本人傭兵6000人を調達しようと具体的に検討した記録があるという。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/21
その計画は実行に移されなかったのだが、1603年にはスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、フィリピンにおける支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功し、さらに支那人の攻撃を続けている。奈良氏は著書にこう記している。

スペイン人は、この討伐戦で日本人の剛毅沈着、勇猛無比であることを実際に見て、日本兵を信頼することいよいよ厚く、太守および軍事参議会においては、さらに支那人攻撃の手配を定め、同年10月7日朝8時から9時までの間に、おのおの鉄砲を持った150名のスペイン兵と、総数500の日本人をガリナトという者に指揮させて出発し、非常な勢いを以て進撃した。スペイン人はなかなか狡猾で、先鋒にはすべて日本人を配し、自分らは殿(しんがり)軍となって敵陣営に乗り込み、支那人500人を殺したほか多数を傷つけ、彼等の軍旗を奪い取った。…(最終的にスペインが勝利し)スペイン人はこの時の日本人の勇敢にして、冷静沈着なる戦闘ぶりを見ていたく感心した。何分この頃は秀吉の朝鮮征伐が終わってからほんの間もない頃で、日本国民の気象はいやがうえにも尚武の気を以て固められていたころであるから、スペイン人が支那人討伐に日本人を傭うたことは、よほど考えたやりかたであったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/97

しかしながら、スペイン人は次第に強すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとしている。当時のフィリピンにおいては日本人の方がスペイン人よりも圧倒的に人数が多く、兵力にも優っていたという。再び奈良氏の文章を引用する。文中の「僧侶」というのはキリスト教の宣教師の意味である。

「…日本人放逐問題は1606年に至って再燃したが、太守ドン・ペテロ・デ・アキユナは自らモルッカ遠征に出かけて、参議院がその政治を預かっていた。放逐の理由として彼等の言うところは、日本人は争闘を好む民にして、かつフィリピンを威嚇するからというのであった。
これが実施せらるる前に日本人はスペイン人が自分らを放逐する計画を立てている事を聞いて大いに怒り、まさに大闘争の起らんとするを、僧侶達の仲裁でようやく事なきを得た。日本人は僧侶たちの情理を尽くした言を聴き、ひとまずフィリピンを引き揚げることを承知した。スペイン官憲はこの機を逸せずできるだけ多くの日本人を本国に送還しようとした。当時フィリピンにいた日本人は1500人以上であったという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/86

この事件はスペイン人がフィリピンを占領して以来の最大の危機とされているのだそうだが、当時フィリピンにいたスペイン人は少なく、日本人が結束して反乱を起こせばスペインには勝ち目がなかったということだろう。宣教師の説得により多数の日本人が帰国したことからスペインは危機を乗り越え、この事件以後日本人をDilanoという町に移住させてスペイン人が監視するようになったという。当時フィリピンにいた日本人にはキリスト教徒がかなりいたようだ。

このブログで、台湾でオランダと戦った浜田弥兵衛の話や、シャムでスペインと戦った山田長政のことを書いてきたが、これらの史実を知ると当時の日本人は西洋人の軍隊に決して負けてはいなかったことがわかっていただけると思う。

平戸商館

藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』に、この頃わが国から、どのような商品が運ばれていたかが記されているので紹介したい。

「加藤栄一氏の研究によってオランダの動きを見ると、日本の平戸商館は、オランダの軍事行動を支える、東南アジア随一の兵站基地と化し、主力商品であった日本の銀とともに、平戸から積み出された軍需物資は、武器・弾薬のほか銅・鉄・木材・食糧・薬品にわたった。
 1615年末から翌年2月まで、わずか3ヵ月に出港した三隻の船の積荷目録だけで、日本製の鉄砲120・日本刀223・槍57、鉄丸など銃弾11万斤、火薬用の硫黄8250斤・硝石2225斤などが、平戸からシャム、バンタンに積み出されていた

 とくに注目したいのは日本人傭兵の流出ぶりである。…」(朝日選書『雑兵たちの戦場』p.273)

同上書で、オランダが日本人傭兵を送りだした記録も紹介されている。
1616年に連合東インド会社が平戸で雇った59名の日本人の名簿から推測すると、この船に乗せられた日本人傭兵でミゲル、パウロなどキリシタンらしき名前の者が13名、武士らしき者が3名、あとは農民なのだそうだ。そのレベルの傭兵のメンバー構成で活躍できたということは、当時の日本人が勇敢であったこともあるだろうが、日本から輸出された武器の性能が優秀であったことも見逃せない

ノエル・ペリン

以前このブログで、わが国は天文12年(1543)に種子島に伝来した翌年に鉄砲の大量生産に成功し、その後世界最大の鉄砲保有国となり、以後200年ぐらいは世界有数の武器輸出国であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html
上記記事で紹介した米国のノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』という本を読むと、この時代にわが国は、武器の保有数量で優っていただけでなく、性能においても西洋のものを凌いでいたことがかなり具体的に書かれている。

教科書などには絶対に書かれていないことなのだが、この時代にスペインやオランダ、イギリスなどが東南アジアの植民地を奪い合い、植民地の内乱の抑圧が出来たのは、日本から大量の優秀な武器と傭兵を手に入れることができたことが大きかったのである。

雑兵たちの戦場

再び藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』を引用する。こんな史実を知って驚いてしまった。

翌年(元和7年:1621)7月、両国(オランダ・イギリス)の艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった。

徳川秀忠

 しかし、もともと友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、7月27日付けで、幕府(2代将軍:徳川秀忠)は突然『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う…禁令を発した。」(同上書p.275-276)

この禁令がオランダ・イギリスに大きな衝撃を与えたことは間違いがない。オランダのインド総督クーンは、本国に多数の兵士を本国から派遣することを要請し、さらに日本の商館に次のような対策をとることを指示したという。
「① 『諸地方(東南アジアの各地)において当面の戦争が継続する限り、日本人がインドの他の国民と同様に役立つことは、何びとも疑わざるところ』だ。日本人傭兵なしではとうてい東南アジアの戦争を戦えぬ。将軍から再び日本人連れ出しの特権を得るよう、あらゆる手を尽くせ
 ②さらに日本から『わが城塞や艦船、およびインドの戦争に要する軍需品を十分に供給』できなければ、戦況に深刻な影響を受ける。これ以上、日本貿易が制約されないよう、将軍に請願を重ねよ(武器だけでなく、米麦・葡萄酒・肉類など食糧の禁輸も噂され、恐慌を来していた。)
 ③海上のどの地点まで日本の君主の裁判権が及ぶのか、その限界を明らかにせよ。だが、日本の周辺でポルトガル・イスパニアの商船を捕獲することは、われらの立場を危険に陥れる。充分に注意せよ」(同上書 p.279)

南蛮人来朝之図屏風

しかしオランダやイギリスが何を言っても江戸幕府は方針を変えなかったようだ。
その後まもなく九州では、外国船の臨検が実際に始められ、
「8月6日、ジャカトラ(ジャカルタ)行きのオランダ船は槍を押収された。翌日には船内の火薬の捜査が行われ、9月12日には長崎にいたイギリスのフリゲート船から、槍・長刀・刀など千挺余りが没収されたし、その後も武器の押収が相次いでいた」(同上書 p.280)という。

このブログで何度か紹介した菊池寛の『海外に雄飛した人々』に、英国人のバラード中将が著書にこの様に記していることを紹介している。わが国の鎖国について、イギリスでこのような考え方があることをこの本を読むまで知らなかったのだが、この時代の日本人の勇敢さと武器性能の優秀さを理解すれば、充分納得できる話ではある。

「ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

バラード中将の言う通り、江戸幕府がその気になっていれば東南アジアから白人勢力を排除するくらいのことは容易に出来たのかもしれないが、そんなことをしていれば、いずれわが国は東南アジアの紛争に巻き込まれて、長期間にわたり国力を削がれることになっていたことに違いない。その後江戸幕府は、日本人の海外渡航を禁止し、外国との貿易を制限し、武器の製造をも制限していく流れとなるのだが、これは賢明な考え方であったと思う。

この時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのは、鎖国によって国を閉ざしたからだという議論を何度か聞いた事があるのだが、この説には説得力を感じない。なぜなら、鎖国したと宣言したところで、どの国も攻めてこないという保証がないからだ。この時代に多くの東南アジアの国々が西洋諸国の植民地となったのだが、海禁政策をとっていても、一方的に西洋諸国に、武力で国を奪われたのである。

わが国民の一部がこの時代に奴隷に売られた事実はあるが、江戸時代の長きにわたり鎖国という政策をとりながら、わが国が西洋の植民地とならずに済んだのは、16世紀末から17世紀前半の東南アジアにおいて、日本人傭兵部隊の強さと、日本の武器の優秀さと量の多さを西洋人の目に焼き付けたことと無関係ではなかったと思う。わが国が強い国であることを多くの西洋諸国に認識されていたがゆえに、200年以上もの間、西洋諸国が攻めて来ることがなかったと考えるべきではないだろうか。
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【ご参考】
わが国は、鉄砲が伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功しています。インドや中国はもっと早く鉄砲が入っていますが、自国で鉄砲が生産できたのはわが国だけでした。ノエル・ペリンの著書が参考になります。
この時代に、キリスト教が伝来するかなり前に鉄砲が伝来していたことはわが国にとってはラッキーでした。もし先にキリスト教が伝来していたら、わが国も植民地になっていた可能性を感じています。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html


関連記事

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。
そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。

豊臣秀吉

しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。
当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、コエリョが秀吉の出した質問に回答した翌日の朝に、秀吉は家臣や貴族を前にしてこう述べたと記している。

「…奴ら(キリスト教徒)は一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らの方がより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が弘まったのは百姓や下賤の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主とし主君として迎えた。(顕如)は予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。たがいっぽう伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.213-214)

秀吉はそう述べた後に、別の伝言を申し渡すために二名の家臣を呼んで司祭の許に派遣した。その伝言は、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」というものであった。
その質問に対するイエズス会の回答書は、フロイスの記録するところでは次のようなものであった。

「御身らは殿下に告げられよ。われら司祭は、神、仏、またその像とはなんら関わりなき者である。だがキリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、坊主たちと同様、日本人であり、幼少時からその宗派と教義の中で育ってきた人たちであるが、神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、キリシタンになってからは、デウスから賜った光と真理を確信し、なんら我等から説得や勧告をされることなく、神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

日本西教史

イエズス会の秀吉への回答書に関して、同じイエズス会のジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』にも記録が残されている。この書物は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができるので、秀吉に対する回答部分を引用しておこう。クラッセはフロイスの書いている内容とは異なることを書いている。

「…関白殿下かつて書を下し、キリストの法教を国内一般に説法するを許せり。キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

偶像崇拝を禁じているキリスト教の布教を秀吉から許されたということは、異教である仏教の寺や仏像、神社を破壊することも許されたことになると解釈するのは、多神教の日本人にはなかなか理解しがたいところだが、キリスト教以外の宗教を認めず異教はすべて根絶すべきものと考える人々の発想は、所詮こういう単純なものなのだろう。だが、このような善悪二元論的な考え方では、異教を根絶する日が来るまで、その地域の人々との共存はありえないことになる。

伴天連追放令

話を元に戻そう。
イエズス会の回答を確認した後に秀吉は、「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を出している。

秀吉を激怒させたのは、大量の日本人が奴隷として売られていたこともあるのだが、それ以外にキリシタンが大量の神社仏閣を破壊したことも大きかったようだ。
明治維新期の廃仏毀釈もひどかったが、この時代のキリシタン大名の領地では、それ以上の激しい破壊活動が行なわれたのではないだろうか。

以前このブログで、イエズス会のルイス・フロイスの記録を追って、九州地区の文化破壊のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html
ここで紹介したフロイスの詳細な記録を読めば、イエズス会の宣教師が神社仏閣や仏像等の破壊を先導したことは明らかであるが、ここでは繰り返さない。

長崎の神社仏閣の破壊に関して、大正12~14年に編纂された『長崎市史』の記述を紹介したい。
その『地誌編 仏寺部 上巻』の第1章が「総説」となっていて、長崎市の仏教史を7期に分けて概括しているのだが、第1期がいきなり「仏寺破滅時代」となっていて、それ以前の仏教史がないのは驚きである。この本も「近代デジタルライブラリー」でPCで読むことができる。

「第1期 仏寺破滅時代
  この時期においてはキリスト教が長崎およびその付近に伝道せられ、住民はこれに帰すべく強いられ、神社仏閣はことごとく破却せられ、長崎はいわゆる伴天連の知行所となり、政教の実権がことごとく耶蘇会(イエズス会)の手に帰したる時代で、年代で言えば開港の当初から天正15年までである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/25

ちなみに、天正15年(1587)というのは、秀吉が「伴天連追放令」を出した年である
「ことごとく破却せられ」ということは神社仏閣の全てが破壊されたということである。さらに本文にこう解説されている。

「…長崎およびその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教、すなわち当時の切支丹宗門に転宗を強いられ、これに従わざるものは皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣のごときは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして…神宮寺、神通寺、杵崎神社などは皆破却せられて烏有に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、萬福寺、鎮通寺、齊通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などもまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。かくして長崎およびその付近の仏寺は天正中*に全滅し、これに代りてキリスト教の寺院会堂、学校、病院などが漸次設立せらるることになり、…長崎は耶蘇会の知行所となりて政教の実権はその手に帰し、南蛮人らは横暴を極め、奴隷売買の如きも盛んに行われたけれども、日本に実力ある主権者なかりしためこれを如何ともすることは出来なかった。」
*天正中:天正年間中の意。1573~1593年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

このブログで明治維新期の薩摩藩や苗木藩などで激しい廃仏毀釈が起こったことを書いてきたが、戦国時代の長崎の社寺破壊も同様であった。『長崎市史』によると、こんなに激しい文化破壊が行なわれたきっかけとなったのは、南蛮貿易の利益のためであったということである。

「当時耶蘇会宣教師とポルトガル商人との間には非常に密接な連絡があって、たがいに相援けてその勢力利権の拡張に努めつつあったので、キリスト教と無関係でポルトガル貿易のみを営まんことは当時にありては絶対的に不可能なことがらであった。現に薩摩の島津氏や平戸の松浦氏はこの不可能事を行なわんとして、ついに貿易の利を失ったのである。
されば大村純忠の横瀬浦を開くや、その付近二里四方の地を無税地としてポルトガル人に交付し、宣教師の許可なくして異教徒のその地位内に入るを禁じ、盛んに伴天連を保護崇拝した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

少し補足すると、天正5年(1577)大村純忠が龍造寺隆信と戦うために、宣教師から軍資金として銀百貫文を借受け、その時に所領の一部をその担保としたことがきっかけだったようだ。かくして長崎は天正8年(1580)以来イエズス会に寄進されてしまったのだが、この地域には仏教徒である一般の日本人は、宣教師の許可がなくては立入ることを禁じられてしまったという。

有馬晴信

同様に有馬晴信も龍造寺隆信と戦う際に大砲を提供されたことから、勝利の恩賞としてイエズス会に長崎の浦上村を寄進したそうだ。こんなことがいつまでも放置されては、イエズス会の支配する地域がどんどんわが国で広がっていくことになる。

キリシタン大名達は海外貿易の利権を得ただけではなく武器や戦費の援助を得て、宣教師たちの指示に重きを置くようになっていったのだが、この問題のおそろしさは、キリシタン大名が自国の武力をわが国の為政者よりも外国勢力のために動かす可能性を考えればよく分かる。
秀吉は、キリシタン大名の領国がいずれ天下統一の妨げになるばかりではなく、いずれ外国勢力は彼等の武力を利用してわが国を占領していく魂胆があることを認識していたのである。
今回の記事の最初に引用した、ルイス・フロイスが秀吉の言葉として記した「伴天連らは、…日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」という言葉は、そのことを秀吉が強く警戒していた証左だと考えられる。

しかし困ったことに、秀吉が『伴天連追放令』を出しても、長崎にいた宣教師たちはほとんど帰国しなかったのである。彼らは九州にいたキリシタン大名たちが保護してくれることを信じ、6カ月の猶予期限経過後も長らく長崎に留まっていた。期限までに帰国したのは、司祭になるためにマカオに向かった者が3人いただけだったようだ。

天正16年(1588)にコエリョは秀吉に書を送り「今年は貨物が多いため、多くの宣教師を送還することができない。来年は必ず送還する。」と伝えたのだが、これを読んで秀吉は激怒し、近畿のキリシタン寺22箇所を破却し、長崎のイエズス会の所領を没収して直轄地とし、長崎代官を置いたという。

その後宣教師らは秀吉を刺戟しないようにし、法服を脱ぎ、商人の姿で布教活動に努めたのだそうだが、その結果、長崎のキリスト教信者はさらに増加し、文禄元年(1592)に長崎奉行に寺沢広高(肥前唐津城主)が任地に就いた頃には、長崎の住民は悉くキリスト教徒であったという。
秀吉は南蛮貿易の実利を重視していて、一般庶民にまでは禁教を求めていたわけでもなかったので、キリスト教徒が増加したことについては黙認していたようなのだ。

このような経緯で長崎の社寺仏閣が破壊され、キリスト教が庶民にいたるまで広まっていったのだが、他のキリシタン大名の領地でも良く似たことが起こっていたようだ。

ルイス・フロイスは、肥前国有馬晴信の所領においても、領内から僧侶を追放して、寺の僧侶が隠していた仏像に火を点けたり、割って薪にしたことなどを詳細に記している。この点については、以前このブログで書いた記事を参考にしていただきたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

高山右近

では高山右近についてはどうであったか。
ルイス・フロイスの記録に、秀吉が右近に棄教を迫る場面の叙述がある。フロイスは秀吉の言葉をこう記している。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においても弘まっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に類を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。
 同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ。」(中公文庫『完訳フロイス 日本史4』p.221)

それに対し右近は、高槻や明石の家来たちをキリシタンにしたのは自分の手柄であるとし、キリスト教を棄教することについては断って領地と財産を捨てることを選んだ。その後右近はキリシタン大名の小西行長に庇護され、天正16年(1588)に加賀の前田利家に招かれて暮らしたが、慶長19年(1614)徳川家康による国外追放令を受けて国外追放でフィリピンに渡り、翌年マニラで病死したという。

フロイス日本史4

高山右近が高槻城主であった時に、寺を焼いた経緯がフロイスの著書に記されているので紹介しておこう。文章中フロイスが「偶像」とか「悪魔の像」と書いているのは「仏像」のことである。

「…(高山)右近殿は彼ら(仏僧)のところにあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、もしまったくその気持ちがければ、予は貴僧らを領内に留め置くわけにはいかぬと伝えた。そこで遂に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンとなり、領内にあった神と仏の寺社はことごとく焼却されてしまい、そのうち利用できるものは教会に変えられた。それら中には摂津国で高名な忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は今でも同地方でもっとも立派な教会の一つとなっている。そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわちかの地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部にこれらの悪魔の像を隠匿していたが、それらは間もなく破壊され火中に投ぜられてしまった。」(同上書 p.17)

大阪の「北摂」と呼ばれる地域には千年以上の歴史のある寺社がいくつもあるのだが、現在残っている建物で戦国時代よりも古いものは皆無であり、高山右近に焼かれたとの伝承のある寺院が多数存在する。
これらの寺の一部は戦火に巻き込まれて焼けたのかもしれないが、山奥にある寺院までもがことごとく焼けたのは不自然だ。多くはこの時期にキリシタンによって放火されたのだろう。

忍頂寺

フロイスが記録している忍頂寺という寺は、聖武天皇の時代(724-748)に行基が創建した頃は「神岑山寺(かぶさんじ)」と称したとされ、貞観2年(860)には清和天皇より「忍頂寺」の寺号を贈られ勅願寺となったという由緒のある寺である。
最盛期には23もの寺坊を有する大寺院であったようだが、今では、支院の1つであった寿命院が忍頂寺の本堂となっている。
境内にあるもので戦国時代よりも古いものはただ一つ、元亨元年(1321)建立の五輪塔が本堂の右後方に残されているのみである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


ルイス・フロイスの記録をもとに、キリスト教徒による九州地区の神社仏閣の破壊をまとめた記事です。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html


永禄10年(1567)に東大寺大仏殿が焼失した原因は、切支丹の兵士による放火であることをルイス・フロイスが書き残しています。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


戦国時代に、たがいに敵味方に分かれて戦っていながら、永禄9年(1566)に敵味方合同でクリスマスのミサを行っています。これもルイス・フロイスが書いています。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html


高山右近に焼かれた伝承の有る古い寺を巡りました

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-139.html




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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代

前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。

カトリック教会と奴隷貿易

カトリックの司祭である西山俊彦氏の著書『カトリック教会と奴隷貿易』に1454年1月8日に教皇ニコラス5世(在位:1447~1455)が出した『ロマーヌス・ポンティフェックス』が訳出されているので紹介したい。

「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…
 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した
 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5世(在位:1438~1481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

ローマ教皇は「キリストに敵対する者の奴隷化の許可」を記した一方で、「キリスト教徒の奴隷化の禁止」を明記した教書も出したのだそうだが、西山俊彦氏は著書でこれらの教書についてこう解説している。

「…『正義の戦争――正戦――』を行なうに当たっての『正義』の基準が『唯一絶対的真理であるキリスト教』に『味方するか、敵対するか』にあると理解すれば、論理は一貫しています。しかも正戦遂行は義務もともなって、戦争によって生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた『正当な権限』をキリスト教も踏襲しただけということになります。もちろん『正義』にしろ『正当な権限』にしろ、それら原理自体には大いに問題ありと言わねばなりませんが、これが現実だったわけで、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。」(同上書 p.78)

キリスト教徒とイスラム教はいずれも一神教で、お互いが相手の宗教を異教として許容することができない関係にあるために、自国の領土だけでなく奉じる宗教とその文化を守り広げていくために、お互いが相手国の領土や富や人民を奪い合う争いを続けてきた。
ところが、大航海時代に、キリスト教国がわが国のような非イスラム教の国家と接するようになっても、イスラム教の国々と同様の異教徒として、わが国の敗残兵や民衆を奴隷として大量に買い込んだのである。

このブログで、日本男性の奴隷を傭兵として買うニーズが高かったことを書いたが、日本女性のニーズも高かった。

徳富蘇峰

徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されている。
この文章も、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されているが、これを読めば、多くの日本人が絶句するのではないか。

ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214

なんと日本人少女が、ポルトガル人に使われていた黒人奴隷に買われていたケースが少なくなかったというのだが、それほど安く日本人が売られていたのである。
にわかにはこうような記録が事実である事を認めたくない人が少なくないと思うのだが、日本側にも奴隷にされた日本人がどのようにして運ばれたかを記録した文書が残されているので読み比べておこう。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」

豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。この記録も徳富蘇峰の著書に引用されており、『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが可能だ。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/215

日本人奴隷はなんと、鎖に繋がれて、家畜の様に運ばれていたというのである。

完訳フロイス8

ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。

話を元にもそう。
このように、わが国が西洋社会と接するようになって、多くの社寺仏閣が破壊され、多くの日本人が奴隷にされたのだが、宣教師たちはそれを止めようとした形跡は見当たらない。

今回の記事の最初に『ロマーヌス・ポンティフェックス』を紹介したが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

イグナチウス・ロヨラ

イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラは、「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」と述べたのだそうだが、わが国に来た宣教師が残した文書には、東アジアの侵略事業を如何にして進めるかというテーマで書かれたものをいくつも見つけることができる。

たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡にはこう記されている。ここではイエズス会は、キリシタン大名を用いて中国を植民地化することをスペイン国王に提案していたようだ。
「…私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』p.95)

kirisitan.jpg

また1588年にアググスチノ会のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に送った書簡にはこう記されている。
「…もしも陛下が戦争によってシナに攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう、日本に於いて王*達に働きかけるべきである。キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが軍を指揮すれば、シナを占領することは容易であろう。なぜなら、日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、かつ残忍で、シナ人に恐れられているからである。」(同上書P.103)
*王:キリシタン大名の事

このように、宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということであろう。もしキリシタン大名の協力を得てシナがスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら、スペイン海軍はキリシタン大名とともに江戸幕府と戦うことになったであろう。

他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。

この時代のわが国に、キリシタン弾圧があったということをことさらに強調する本やテレビ番組などをしばしば見かけるのだが、このような弾圧があった背景に何があったかを一言も説明しないのは、どう考えてもバランスを欠いている。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人にとって、キリスト教は、20年ほど前のわが国でテロ事件を繰り返した某宗教集団よりも、はるかに悪質な存在であったことを知るべきはないか。

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東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
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東大寺二月堂のお水取り
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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