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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か

前回は、遭難したサン・フェリペ号の積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件について、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインとの主張が真っ向から異なり、前者は、両事件ともイエズス会・ポルトガルの関与はないと言い、後者はイエズス会の讒言により、フィリピンのサン・フェリペ号の荷物が没収されフランシスコ会の宣教師らが処刑されたと主張したことを書いた。

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高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に、イエズス会東インド管区の巡察師*であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰の一節が紹介されており、ここではフィリピンの修道士(フランシスコ会士)は日本に来るなと述べている。ヴァリニャーノはイタリア人だが、フランシスコ会のようにヨーロッパのやり方を押し通すような手法には批判的であったという。ちなみに、この書翰は長崎で二十六聖人が処刑された日からおおよそ9カ月後の、1597年11月19日付で記されたものである。
*巡察師: イエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師

「私は自分の良心の重荷をおろすために、そしてまたフィリピンにおいて真実を知ってもらうために尊師に申述べたいが、われわれ日本イエズス会や日本に関することは別において、一般的に言って、フィリピンの修道士は何人もシナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、主への奉仕、霊魂の救済、更には国王陛下への奉仕を願い、それに沿った行動をしてはならない。それどころか彼らがそれらの国に行こうとすればするほど、ますます大きな弊害が生じ、その目的を達するのが困難になるであろう。
その主な理由は、これらの地域の王や領主は、すべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次の事を知っているからである。即ち、彼らは征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャ*を奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。そしてその近くの国々にいろいろ襲撃を仕かけており、何年か以前にボルネオに対し、また今から2年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナの船がマニラを往き来しており、見聞していることを良く語っているからである。このようなわけで、これらの国々は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に到来する修道士に対しても疑念を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。このため彼らを自国に迎えるのを望まないばかりか、彼らとポルトガル人が同じ国王の下にある事**を知っているので、我々に対しても疑念を抱いており、それは現在われわれが日本で見ている通りであり…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132)
*ヌエバ・エスパーニャ:1519~1821までの北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の領地
**『ポルトガル人が同じ国王の下にある事』:1580年にポルトガルのエンリケ1世が死去し、以後スペイン国王がポルトガルの国王を兼ねた。その後、ポルトガル人はスペインの苛政に反発し1640年にポルトガルはスペインからの独立を果たしている。


この文章の中にある『シナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域』という言葉の意味は、少し補足が必要だ。
高瀬弘一郎氏によると、このような表現は「当時のカトリック宣教師や貿易商人、植民者が頻繁に用いた常套の表現」であったようだが、当時においてはスペインやポルトガルに征服されていない国々についても、どちらの国が征服事業に手を付けるかが予め決められていたことを知る必要がある。
わが国は、中国大陸と同様に、ポルトガルが布教をし征服をする権利を有していたのである。

以前このブログで記したことがあるのだが、1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線(デマルカシオン)が定められた。下図のサラゴサ条約におけるデマルカシオンを確認すると、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

デマルカシオン

その取り決めによりスペインは西回りで侵略を進め、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服し、そして1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本に上陸しキリスト教の布教を開始している。

日本におけるキリスト教の布教については、ローマ教皇はポルトガルの事業であるとし、ポルトガル国王がイエズス会に布教を許可したのだが、一方スペインは、豊臣秀吉がフィリピンに対し降伏勧告状を数回にわたって突きつけたことに対し、その2度目の交渉でフィリピンからわが国に送り込んだ使節のメンバーに、ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師をわが国に紛れ込ませている。
そしてフランシスコ会は、『伴天連追放令』が出されて以来おおっぴらな布教活動を自粛していたイエズス会を尻目に3つの教会を相次いで建築し、わが国で本格的な布教活動を開始したのである。

このことにイエズス会が強く反発したのだが、イエズス会とフランシスコ会の対立は、1580年にスペインがポルトガルを併合し、サン・フェリペ号事件および日本二十六聖人殉教事件があった後にはさらに尖鋭化していったようである。

この両派の対立をわかりやすく言うと、日本という国の領土を「ポルトガル国民の征服に属する地域とするのか、スペインにも一部地域の征服を認めるのか」、あるいは「ポルトガル国王の許可を得たイエズス会のみが布教をするのか、スペイン国王の許可を得たフランシスコ会等の布教をも認めるのか」という対立である。

アウグスチノ会所属のポルトガル人、フライ・マヌエル・デ・ラ・マードレ・ディオスは、日本二十六聖人殉教事件が起こった年である1597年に、次のように書いてイエズス会を擁護している。

「昨年司教ドン・ペテロ・マルティンスは、上述の跣足修道会遣外管区長[26聖人となったフランシスコ会のバプチスタのこと]に書き送り、全く友好的かつ敬虔な表現で、日本に於いて原住民改宗のために聖福音を説く聖務は、教皇聖下の大勅書、ことに教皇グレゴリウス13世の大勅書、及びポルトガル国王の勅命よってイエズス会のパードレ*に指定されているので、この政務を行なうことを尊師に許可するわけにはゆかないという点を了承してもらいたい。というのは、それは教皇聖下の命令にそむき、教皇や権威ある地理学者達がポルトガルとカスティーリヤ(スペイン)の両王位の間で二分した征服の全体的な分割を侵すことに外ならないからである、と懇願した。」(高瀬弘一郎 同上書 p.5-6)
*パードレ:神父、司祭のこと

しかし、よくよく先ほどのデマルカシオンの地図を見て頂きたいのが、スペインが1571年に征服したフィリピンは「ポルトガル国民の征服に属する地域」に入っているし、今回の記事の冒頭で紹介したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書状では、ボルネオやカンボジアにも近年攻撃を加えており、日本と中国も狙っている趣旨の事が書かれている。なぜスペインはサラゴサ条約で定められたルールを無視したのであろうか。

理由はいろいろあるのだろうが、貿易上のメリットという観点から考察すると、スペインの西回りのルート上の国々よりも、中国やインドや日本との交易が可能なポルトガルの東回りのルートの方がはるかにメリットが大きかった。だからスペインは、再三にわたり、日本や中国がポルトガルのデマルカシオンに入る教皇文書を取り消させようとし、同時に、教皇文書を無視して、フィリピンを足場に日本や中国との貿易を開始し、布教をも敢行してきたのである。
ポルトガル商人からすれば、もしスペインが日本や中国との貿易に割り込んでくるのを放置していたら、日本貿易に対する依存度の高いポルトガル領マカオに甚大な打撃を与えることになる。そのために、イエズス会士やポルトガル植民地関係者が大反対したのだが、当時の文書を読むと、この対立関係はかなり根深いものがありそうである。

例えば1597年にマカオのイエズス会士からゴアのインド副王に宛てた書状にこのようなものがある。

イエズス会士でない修道士が日本に渡ることを禁じた教皇聖下の小勅書に反し、また世俗の者であれ修道士であれカスティーリャ(スペイン)の征服の地からポルトガルの征服の地に赴くことを禁じた国王陛下の勅令を犯すものである。教皇聖下は修道士であれ世俗の者であれカスティーリャ(スペイン)人に対してはこの門戸を鎖し、もう決して彼らが日本およびそれに隣接したすべての島、シナの全海岸…に入国することがないようにしなければならない。…
…そして次のように厳罰を以てルソンの総督に命じてもらいたい旨このインド領国の名で国王陛下に要請しなければならないと思う。…」(高瀬弘一郎 同上書p.26)

また、この時代の宣教師の書翰を読んでいると、わが国の布教を推進するために、わが国を武力で征服すべきだという内容のものが少なくないことに驚く。

前回および前々回の記事で、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻めることをスペイン国王に提案したことを書いたが、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰には、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとするかなり詳細なレポートが記されている。一部を紹介したい。

クルスは、わが国をこう攻めるべきだと進言している。
日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(同上書p.140-142)

この様にして、キリスト教を受け入れた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本国を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしている。少なくとも当時の九州には、有馬晴信、大村喜前、黒田長政、小西行長など有力なキリシタン大名が大勢いたことを考えると、それは充分可能であっただろう。

次に、攻撃をする正当理由はどこにあったかというと、前回の記事で記したサン・フェリペ号の荷物没収とフランシスコ会士とその使者を殺害(日本26聖人殉教事件)したことで充分だという。

ではどうやって勝利するのか。そのためには軍事拠点が不可欠だが、クルスはその港まで指定している。38年後に島原の乱が起きた場所が指定されている点に注目したい。

島原の乱

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

さらにクルスは、どこかの港(薩摩、四国、関東)に、スペインの都市を建設し、スペイン国王が絶対的な支配権を確立することを述べた後、シナを武力征服しない限り、シナを改宗させることは出来ないとし、その武力と武器の調達は、安価でそれが可能な日本で行う以外はあり得ないと書いている。彼等は、キリシタン大名を使ってシナを攻めようと考えていたようである。

小西行長

また、ポルトガル人も都市を建設し基地を作るべきであるとし、小西行長が志岐の港を宣教師に提供することは間違いがないとまで記している。もしスペインが基地の取得に失敗したとしても、ポルトガルならば、従来の経緯から容易にそれが可能だとする意見を述べている。

その上で、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということまで触れている。文中の「下(シモ)」とは九州の事である。

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…教皇アレクサンデル6世が行なった分割において、その『東方』と『西方』のいずれに日本が属するかについて意見が分かれている。…このような分割が行なわれたのは、両国が協力し合って布教等を行なうためのものであった。まして同一国王のもとにあるなら尚更それは当然のことである。」(同上書 p.154)

ペドロ・デ・ラ・クルスが指摘したような、良港を手に入れて軍事と貿易の拠点として、布教を進めて領土を拡大する手法は、スペインやポルトガルが世界の植民地化を進めてきた常套手段ではなかったか。
彼らが目の敵にしていた豊臣秀吉が死んだのが1598年(慶長3年)で、クルスの書翰はその翌年に記されたものである。侵略する側の視点に立てば、絶好のタイミングでこの書翰が記されたと言って良い。

もし、関ヶ原の戦い以前にスペインがわが国に攻撃を仕掛けたとしたら、果たしてわが国は一枚岩で戦うことが可能であっただろうか。
豊臣秀頼

秀吉の遺児・秀頼は大のキリシタンびいきであり、もし豊臣家がキリシタン大名と共にスペインの支援を得て徳川連合軍と戦っていたら、徳川の時代はなかったかもしれないし、わが国の一部がスペインの植民地になっていてもおかしくなかっただろう。もしわが国がスペインの勢力を撥ね退けることができたとしても、相当な犠牲が避けられず、国力を消耗していたことは確実だ。

わが国の政局が極めて不安定であった時期に、サン・フェリペ号積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件が起こり、スペインにとってはわが国に対する復讐としてわが国を攻撃する絶好期であった。スペインの宣教師たちも再三そのことを催促していたにもかかわらず、スペインが攻めて来なかったことはわが国にとって幸運なことであったのだが、この背景を調べると、スペインはそれどころではなかったお家の事情があったことが見えてくる。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この時期にスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしていたのだ。

Battle_of_Lepanto_1571.jpg

ネーデルラント(オランダ)の反乱(八十年戦争)(1568~1648)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571)、英西戦争(1585~1604)、モリスコ追放(1609)、三十年戦争(1618~1648)フランス・スペイン戦争(1635~1659)、ポルトガル王政復古運動(1640)…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3

これだけ国内外で戦っていては軍事資金の調達も厳しかったはずだし、そのための増税や兵役に対する不満が各地で反乱の種となる。スペインが遠方のわが国に軍隊を派遣する余裕などは到底なかったであろう。

前回記事で記したサン・フェリペ号事件日本二十六聖人殉教事件における、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインの対立も、ポルトガル勢力がスペイン勢力に対して反発を強めて行った大きな流れの中で捉えるべきなのだろう。
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このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

東大寺二月堂のお水取り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-142.html

龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
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津山城址と千光寺の桜を楽しむ
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津山の文化財を訪ねた後、尾道の桜を楽しむ
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関連記事

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。

キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペインはイギリスとの戦争(英西戦争)の真っ最中であり、国内ではネーデルランド(オランダ)の反乱が続いていて、わが国を攻めるどころではなかったと思われる。

しかしわが国に滞在していた宣教師たちは、秀吉の死を、日本に再びキリスト教を広める好機だと捉えて布教活動を活発化させたことが記録に残されている。五大老の筆頭であった徳川家康は、当時はキリスト教に比較的寛容であったことから、秀吉が出した『伴天連追放令』は有って無きがごとくのようだったという。

日本切支丹宗門史

フランスの日本史家のレオン・パジェスは1598-1599年の情勢をこう述べている。
「…家康は政治的の見地から、異国との通商をかち得んがために、決して(キリスト教に対して)不愛想にはしなかった。政策や一般の取締りを変更したり、太閤様の遺命を蹂躙したことが際立たないように、彼は、正式に認可を与えた訳ではないが、宗教上の事には故意に目をつぶった。そこで京都の付近のキリシタンは、自由になったものと考えて、あるいは天主堂を復興したり、あるいは公然儀式を行なった。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史 上巻』p.25)

徳川家康

このように家康は海外貿易の利権を重んじたために、当初はキリスト教に対して寛大であり、その当然の帰結として、この時期にキリスト教信者が各地で激増したという。

「当時、帝国全土宗門は目覚ましい勢いで拡がりつつあった。数多の宣教師たちは、秘かに旧の伝道所に帰っていた。有馬や大村の領内には天主堂が再興され、各所に新しい信者の団体が出来た。1599年の2月から9月までの8ヶ月間に、約4万人の未信者が洗礼を受けた。」(同上書 p.29)

そして関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600)の頃の情勢については、パジェスはこう記している。
当時、日本にはイエズス会の司祭・修士合わせて109人あり。うち14人は本年到着した者であった。彼等は30か所の駐在所、また伝道所に分散していたが、うち6か所が主要なるものであった。彼等の肝煎りで50か所の天主堂が再建され、5万人の新しいキリシタンが洗礼をうけた
長崎教区の大駐在所には、伝道所の教師を加えて30人の宣教師がいた。…
大駐在所の大村と、それに付属する伝道所には4人の司祭と7人の修士とがいた。国中あげてカトリック教信者で、他国から来て洗礼を受けた者が600人あった。…
5つの伝道所の付属する大駐在所のある有馬には、14人の伝道師がいた。この地は人口7万、全部がキリシタンであった。なお600人の他国者が洗礼を受けた。…
志岐と天草の島では、当時司教のいた志岐の駐在所とこれに付属して3箇所の伝道所があって、6人の司祭と10人の修士がいた。国中あげてキリシタンで、他国者300人が洗礼を受け、諸方の伝道所のあるところに新しい7つの天主堂が建立された。…
肥後では、宇土の大駐在所に、いくつかの伝道所が付属していて、5人の司祭と7人の修士がいた。既に1万人の信者がいたが、更に17千人の新受洗者ができた。…」(同上書 p.37)

この様に九州では、秀吉の死後にキリスト教が急激に広まっていったのだが、この年大阪にも駐在所が2箇所出来、京都にも天主堂と駐在所が出来、近隣各地からも宣教師の要望があったが、新たに派遣する余裕がなかったために、京都、大阪の宣教師を訪問させたことなどが記されている。                                                 
関ヶ原合戦屏風

しかし、豊臣政権下で秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(いわゆる武断派)との対立が激化し、この年の9月15日に美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として、両派が激突した(関ヶ原の戦い)。
この戦いの結果次第で今後のキリスト教の布教に大きな影響が出ることは確実な情勢であり、キリシタン大名たちは、徳川家康を総大将とする東軍につくか、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍につくか、あるいは中立の立場を取るか、相当迷ったはずである。

歴史の教科書などでは「キリシタン大名」といえば、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、高山右近ぐらいしか名前が出てこないのだが、実際はキリシタン大名は驚くほど多かった。

日本基督教史

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で大正14年に出版された山本秀煌著『日本基督教史. 上巻』という本が公開されていて、この本に、当時のキリシタン大名がこの関ヶ原の戦いにどちらの側についたかが纏められているので引用しておく。

「 西軍に属せる者。  藩翰譜、三河風土記、切支丹大名記による
美濃岐阜の城主、  織田秀信。  信長の嫡孫三法師
肥後宇土の城主、  小西行長。  関ヶ原にて奮闘
丹波福知山の城主、 小野木縫殿。 丹後田邊の城を囲み細川藤孝を攻む
筑後久留米の城主、 毛利秀包。  輝元の叔父、大津に京極高次を攻む
筑後山下の城主、  筑紫廣門。  大津を囲み、京極高次を攻む
対馬列島の領主、  宗 義智。  その陣代柳川某伏見攻撃に加わる
阿波徳島の城主、  蜂須賀家政。 その子至鎮東軍に従う
豊後佐伯の領主、  毛利高政。  本姓森大阪城に在りて濱の櫓を守る
元の府内の領主、  大友義統。  九州豊後に至り故旧を集めて東軍と戦う

東軍に属せる者
近江大津の城主、  京極高次。  大津城を守るのち開城
信州高遠の城主、  京極高知。  関ヶ原にて奮闘す
伊賀上野の城主、  筒井定次。  同上
豊前中津の城主、  黒田長政。  同上
同  長政の父、  黒田孝高。  九州において西軍に属する諸城を降す
下野宇都宮の城主、 浦生秀行。  居城において上杉に当たる
田邊城主忠興の嗣子、細川忠隆。  関ヶ原にて奮闘す
丹後峰山の城主、  細川興元。
陸奥弘前の城主、  津軽為信。  上杉軍を牽制するの任に当たる
肥前唐津の城主、  寺澤廣高。  関ヶ原にて奮闘す
日向飫肥の城主、  伊東祐岳。  九州において島津氏を撃つ

中立の態度を取りし者 
丹波篠山の城主、  前田玄以。  その長子右近秀似は西軍に属せしと言う
肥前大村の城主、  大村喜前。  本国にあり
肥前有馬の城主、  有馬晴信。  本国にあり
若狭小浜の城主、  木下勝俊。  本国にあり
五島宇久の城主、  五島純玄。  その伯父玄雅なりという説あり。

以上列挙するところによって観れば、東軍に与せるキリシタン大名はその数においても戦闘力においてもはるかに西軍に属せるそれに勝っていた。さればこれをもって禁教令の遠因と為すのは根拠なき妄説と言わざるべからず、而して西軍敗戦の結果、織田信秀、毛利秀包、筑紫廣門、木下勝俊は改易もしくは遠流、大友義統は死一等を減じて常陸へ流され、小西行長、小野木縫殿は梟首せられた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/226

宣教師らは、キリシタン大名が東軍に付くにせよ、西軍に付くにせよ、どちらかが敗れることによって、敗れた側のキリスト教布教の基盤の多くを失ってしまう可能性がある一方、勝利した側には加増されることぐらいのことはわかっていただろう。どちらが勝利するかわからない場合は、一方に偏り過ぎずリスク分散を図るのが鉄則だと思うのだが、関ヶ原の戦いでキリシタン大名が見事に3つのグループに分散したことは、偶然であったのか、それとも宣教師たちの関与があったのかはよくわからない。

この戦いにおいて徳川家康が率いる東軍が勝利し、家康は、西軍に加わった大名を徹底的に厳しい処分を下している。改易 (領地を取り上げる)、転封 (国替――領地を他に移す)という方法で、家康が西軍大名の全員から取り上げた領地はおよそ90家、590万石にも及んだという。例えば毛利輝元は大阪城にとどまっていて関ヶ原の戦いには加わらなかったのだが、それでも8ヶ国・120万石の領地の大部分が取り上げられ、長門・周防の2ヶ国・36万石に減らされている。

小西行長

西軍に加わったキリシタン大名については先程引用した『日本基督教史. 上巻』に記されている通りだが、なかでも小西行長の運命は、武将としては悲惨なものであったようだ。

「関ヶ原の役、西方総敗軍の日、行長の兵もまた潰ゆ。行長遁れて伊吹山中に匿(かくれ)る。人あり此の落ち武者こそは西軍にその人ありと知られたる小西行長の成れの果てで在ると聞き、小西殿とは異国、本朝に名を轟かしたる名将ではないか。勝負は時の運で負けたりとて恥ずべきではない。然るに、何故この場合いさぎよく自殺せずして、かく見苦しき様にておはするぞいう。行長聞きてわれ…耶蘇の門徒にて天主の教を尊信するのであるが、この宗は自殺を重く戒むるをもってかくながらえて居るのだが、如何せん四面皆敵に塞がるれば逃げ行く方もなし。いざ速やかに我に縄かけて領主に引渡したまえとて、キリストの教えに悖って自殺するよりも、キリスト教の為には寧ろ甘んじて武士にあるまじき恥辱をも受けんと決心して捕虜となったのはいと憫なる次第である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/230

自殺を戒めるキリスト教を奉ずるが故に切腹できず、捕えられた行長は市中引き回しののち京都の六条河原において三成・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に斬首され、そして、徳川方によって首を三条大橋に晒されたという。

では行長の家族や家臣たちはどうなったのか。引き続き、『日本基督教史. 上巻』の文章を引用したい。
「関ヶ原の敗報至るや、家臣等これ(行長の子)を広島に送り、毛利氏に帰宅してこれが保護を乞うた。しかるに、毛利輝元は西軍の総大将として12州の大兵を擁し、大阪城にありながら、上方勢破るると聞くや、狼狽為すなく、一戦をも交えずして、直ちに家康に降参し、その領地広島に退いて、恭順の意を表し、戦慄恐懼措くにあたわずといった風で、ひたすら意を用いて家康の恩命に接せんことを嘆願しつつあった折だから、家康の意を迎えるに急にして、…卑劣にも行長の遺孤(子供)を欺き、…安全の地に移すと声言して、広島をつれ出して、家臣をして道にてこれを殺害せしめた。そうしてその首を家康に献じた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/232

一方東軍に加わったキリシタン大名は、家康からその功を賞せられ、例えば黒田長政父子は豊前中津180千石から筑前525千石と大幅に増封され、以後福岡を居城として小西行長に代わりキリスト教の保護に努めた。また浅野幸長、寺澤廣高、京極高次、京極高知も増封されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/235

では、関ヶ原で中立の態度をとったキリシタン大名はどうなったのか。
Wikipediaによると、前田玄以は、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行っている。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかったことで、丹波亀山の本領を安堵されたようだ。
また有馬晴信は、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵されたという。
大村喜前の場合も、西軍の小西行長の宇土城を攻めたことが、本領安堵につながったようだ。

南蛮屏風

キリスト教宣教師たちにとっては、関ヶ原の戦いで布教基盤の多くを失ってしまう可能性があったのだが、キリシタン大名が東軍、西軍、中立派にうまく勢力が分れた上に、中立派を装っていた有馬晴信と大村喜前が、同じキリシタン大名である小西行長の居城を、関ヶ原の戦いの直後に攻撃したことが幸いして、結果として大きなダメージを受けずに済んだのである。
彼らは、天下分け目の戦いの後でも、九州地域におけるキリスト教が優勢な状況を維持することができたのだが、このような彼らにとって望ましい状況が、多くのキリシタン大名がそれぞれの判断で行動した結果なのだとすると、少々出来過ぎた感がしないでもない。
もしかすると、彼ら宣教師の中にこのような結果を生むための戦略を練った知恵者がいて、キリシタン大名の何人かはその指示に従って動いたということではなかったのだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

遷御の儀を終えた伊勢神宮の外宮から内宮を訪ねて
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伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
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伊勢神宮内宮の別宮・月讀宮、神宮徴古館、金剛證寺などを訪ねて
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二見ヶ浦観光のあと、明治時代の名建築である賓日館を楽しむ
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郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
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「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
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徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。
寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。

ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。
徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

彼は宗教と貿易が、至近至密の関係にあるを看取し、対外貿易を隆盛ならしむるには、外教の伝来をも黙許せねばならぬ事情を、洞察したためである。坊主悪ければ袈裟まで憎いの反対で、外国商船の来たるを望むのあまり、外国船教師の来たるのをも、甚だしく拒まなかった。いわば、耶蘇教は、外国貿易には付属物だと考え、これを奨励せざるまでも、これを容認したのであろう。

関ヶ原役において、オランダ船リーフデ号の水先案内者安針(アダムス)より、18個乃至20個の大砲を購い、少なからざる便益を得た家康は、いかに外国貿易が、必要であるかを自覚するに余りあった。…彼は外国貿易と、交通とが、一国の富を増殖し、生活を向上し、かつ知見を開発する上において、少なからざる利益有るべきを会得し、極力これを奨励せんとした。しかしてこれがために、やむをえず、耶蘇教師の表向き国法と抵触せざる範囲における、行動を認容した

しかし家康は本来、耶蘇教に好意を持っていなかった。彼は用心深き性質であった。ゆえに、耶蘇教については、少なからざる注意を払うて、その国内に及ぼす利害得失を監視していたに相違ない。ただ当分の内、貿易に欠くべからざる付属物として、貿易奨励のため、これを認容していたにすぎぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/21

LiefdeAlone.jpg

少し補足しておく。
慶長5年(1600)の3月に、豊後国の臼杵にオランダ船・リーフデ号が漂着した。その船は5隻からなる船団を組んで、1598年にロッテルダムから出航しインドに向かったのだが、悪天候のために他の船と離れてしまって漂流している内に、22カ月もの航海でようやくわが国に漂着したのである。出航時には110人も乗り込んだ船だったが、漂着時には生存者はわずか24名だったという。その中にイギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)オランダ人のヤン・ヨーステン(日本名:耶楊子)という人物がいて、家康はこの二人をのちに江戸幕府の外交顧問として採りたてることになる。

ところで、このオランダ船・リーフデ号の漂着をポルトガル人やスペイン人は喜ばなかった。彼等は、乗船していたオランダ人やイギリス人の処刑を要求したのだそうだが、家康はウィリアム・アダムスらを大阪に招いて西洋諸国の事情を問いただしている。

徳川家康

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第13 家康時代 下巻』に、『アダムス書簡』に記されている家康とアダムスとのやり取りの場面が引用されている。

大君(家康)はさらにポルトガル、スペインがオランダを敵視する理由と、その戦争の模様とを尋ねた。予(アダムス)はいちいち明細に答えたが、大君はすこぶる満足の様子であった。…予らは牢にある三十余日、もとより十字架上の刑を予期した。何となれば、ポルトガルの耶蘇会(イエズス会)徒らは、予らを誣(し)いて盗賊となし、予らを誅戮(ちゅうりく)せば、オランダ人も、英国人も、再び大君の威に恐れて、日本に来たることなかるべし、と讒訴(ざんそ)したからだ。
 しかも大君はこれを斥(しりぞ)けた。オランダ人やイギリス人は汝らの敵であるも、日本人には何等の損害を与えたことがない。汝らの敵国人であるからとて、日本の大君は、これを殺すべき理由がない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818/150

徳川家康がアダムスに対し、ポルトガルやスペインがオランダを敵視する理由を尋ねたということは、ポルトガル、スペイン、オランダの三国がそれぞれ敵対関係にあることを敏感に感じとっていたのだろう。アダムスがどう説明したかまでは記されていないのは残念だが、このブログで書いてきたように、太陽の沈まない国・スペイン帝国では属領のネーデルランド(オランダ)やポルトガルで紛争が激化していた時期であったことを知るべきである。

徳川初期の海外貿易家

大正5年に出版された川島元次郎著の『徳川初期の海外貿易家』という書物では、家康がアダムスらを登用した背景をこう解説している。

「(家康は)宇内の形勢を考察し、リーフデ号乗組みの蘭英人(オランダ人、イギリス人)は、早くわが国において通商および宗教上に侮るべからざる勢力を有する葡西(ポルトガル、スペイン)両国人の讐敵にして、二者相容るべからざる関係に立てるを洞察し、葡西人牽制の政策上、この新来の外人を厚遇するの利なるを看破したりけん、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951020/201

すなわち家康は、アダムスらを優遇することが、スペイン・ポルトガルを牽制することにつながると考えたわけだが、さすがに戦国時代を勝ち抜いた人物だけあって、人の使い方が見事である。
家康はアダムスに大型船の建造を命じ、のちに250石の旗本に取り立てて帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に領地も与えたという。

三浦按針

アダムス自身が、自らが受けた待遇について記した文章が、徳富蘇峰の前掲書に引用されている。
大君は予を遇すること甚だ厚く、英国の大名にも比すべき地位を賜い、八、九十人の百姓を、従僕として給せられた。かかる貴き地位を外人に与えることは、予が最初である。
予がかく大君の信用を得たから、前に予を敵視したる葡西人らの驚きは、大方ではなく、いずれも媚びを呈し、友として交わらんことを希(ねご)うている。予は怨みを棄てて、彼らのために尽力している。(『アダムス書簡』)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818/171

家康はリーフデ号の高級船員であったオランダ人のヤン・ヨースティンも厚遇したのだが、彼らの協力を得て、江戸幕府とオランダとの交易が開始され、後にイギリスとも交易が始まることとなった。

家康の時代には日本人が盛んに南方の各地に往来するようになり、外国の船もわが国に訪れて、外国貿易が一層盛んに行われるようになるのだが、慶長14年(1609)、肥前日野江藩(後の島原藩)主有馬晴信の朱印船の乗組員がマカオに寄港したおり、ポルトガル船の船員と取引を巡って騒擾事件を起こし、マカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧して晴信側の家臣と水夫ら約60人が殺されるという事件があった。(マカオの朱印船騒擾事件)
これに怒った有馬晴信は徳川家康に仇討の許可を求め、そこへアンドレ・ペソアがマードレ・デ・デウス号に乗って長崎に入港したため、晴信は多数の軍船でこの船を包囲しデウス号を攻撃し、船長は船員を逃して船を爆沈させている。(マードレ・デ・デウス号事件)

その後有馬晴信は、デウス号撃沈の功績による旧領(当時鍋島領)回復を試みたがなかなか実現しないために、老中本多正純に与力として仕えていたキリシタンの岡本大八に接近。大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、自分が老中の仲介となるのでそのための資金を無心したという。晴信は、老中の働き掛けがあれば旧領の回復は可能と考え、結果として6000両もの金銭を大八に騙し取られてしまう。(岡本大八事件)

その後、大八の犯罪が露見し、慶長17年(1612)3月21日に安部河原で火刑に処せられたのだが、この同日に江戸幕府は公的に幕府直轄地に対してキリスト教の禁教令を布告して大名に棄教を迫っている。そして翌慶長18年(1613)2月19日には、禁教令を全国に拡大し、金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させている。

高山右近

そして、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、翌慶長19年(1614)11月には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されている。高山右近もこの時にマニラに送られている。

家康が突如キリスト教を禁じた理由は、通説では、岡本大八のようなキリシタンが幕府の中枢近くにいることに家康が驚いたというものだが、私にはこの説にあまり説得力を感じない。なぜ一人の収賄事件でキリスト教を全面禁止し、主要なキリシタンを国外追放することにまで発展したのか、あまりピンと来ないのだ。

徳川家康金地院崇伝に書かせたという「伴天連追放之文」が、徳富蘇峰の前掲書に引用されているのだが、これを読んでも、なぜ家康が急にキリスト教を禁止したという肝心な点が見えてこない。

「かの伴天連の徒党は、みな件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損い善を損す。刑人あるを見れば、載(すなわ)ち欣(よろこ)び載(すなわ)ち奔 (はし) る。自ら拝し自ら礼し、これをもって宗の本懐となす。邪法にあらずして何ぞや。実に神敵仏敵なり。急に禁ぜざれば、後世必ず国家の患(うれい)あらん。ことに号令を司りこれを制せざれば、却って天譴を蒙らん。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/78

また徳富蘇峰の前掲書には、日本に来ていたある宣教師の報告(スペインのセビリア市インド文書館所蔵)が引用されている。

「数年来当地(日本)にある一人のイギリスの航海士(アダムス)は諸国の語に通じ、宣教師らに対し、親友たるがごとく装(よそお)えども、その実甚だしき異教徒にして、重大事件においては、悉くわれらの敵だ。…さきに耶蘇教徒および宣教師に対して、甚だ惨酷なる迫害の起こったのも、彼が国王(家康)に説いて、宣教師の日本にあるは、日本国民を救済するためではなく、多数の信徒を得、スペイン人と共謀して、日本を征服し、ペルーおよびノビスパン*の如くなさんとするにありと言い。国王はこれを信じ、この一事が、迫害の一原因となったとは、当人の英人の口から、われらの親しく聞いたところである。」
*ノビスパン:北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領地を指す名称
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/75

しかし、キリスト教の宣教師たちはわが国を侵略するために派遣されたという説は、すでに1596年のサンフェリペ号事件の時に豊臣秀吉らには知られていたものであり、家康が17年間もこのことに気付かず、アダムスも来日後13年間もこのことを家康に伝えなかったということは考えにくいところである。

では、なぜ家康がキリスト教に対する施策を急変させたのか。

徳川幕府は慶長18年(1613)12月27日以降京都、伏見、大阪、堺のキリスト教信徒(外国人、日本人)の名簿の作成を命じているのだが、蘇峰はその背景についてこう解説している。

徳富蘇峰

耶蘇教徒が、頻りに大阪と交通する傾向があったから、特にこの際において、禁教令は発布せられ、かつ励行せられたものであろう。現に高山右近の如きも、秀頼より大阪に迎えんとしたが、退去の後*にて及ばなかったということだ。
 大阪の陣**に際しては、耶蘇教徒の在城者は少なくなかった。これは追放の結果、ここに至ったのか、もしくは家康が追放しなかったらば、更に多くの耶蘇教徒が入城したであろうか。それはいずれも想像に過ぎぬ。しかし、大阪事件の破裂に先立ち、家康が耶蘇教徒に、一打撃を加えおくの必要を感じたことは、間違いあるまい。」
*「退去の後」:慶長19年(1614)に高山右近が国外追放された後の意
**大阪の陣:江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。大坂冬の陣(慶長19年:1614)、夏の陣(慶長20年:1615)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/84

豊臣秀頼は、キリシタン武将を集めて江戸幕府と本格的に対決する準備をしていたという。同上書で蘇峰は、パジェーの『日本耶蘇教史』には次のような記述があることを紹介している。

豊臣秀頼

秀頼は新たに軍兵を募り、50人の部将を聘した。その内には豊後の旧主ドン・フランシスコ*の子息、右近**殿の子息もあった。明石掃部***、およびその部下の外に、尚五畿内および北国の追放耶蘇教徒の、秀頼に加担せしもの少なくなかった。中にはジュスト右近**殿の旧臣も混じていた。而して六旒(ろくりゅう)の大旗に、神聖なる十字架と、救世主の像、または聖ヤコブの像を描きたるものを用いた。耶蘇教徒に充ちたる、秀頼の軍隊は、其間に多くの宣教師があった。彼等はいずれも教役を行なわんがために来集した。」
*ドン・フランシスコ:大友 義鎮(宗麟)
**右近、ジュスト右近:高山右近
***明石掃部:備前保木城主の明石飛騨守景親(行雄)の子、明石全登

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/84

1280px-The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

もし家康がキリスト教に対して寛大な状態のままで、豊臣家との戦いに突入していたらどのようなことになっていただろうか。
江戸幕府は、外国勢力からの軍事資金や武器支援と勇猛なキリシタン武将を味方につけた豊臣軍を相手に戦うことととなり、最終的に江戸幕府が勝利したにせよ、かなり苦しい戦いを強いられたことは間違いないことだろう。
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【ご参考】
有名な「方広寺鐘銘事件」は、慶長19年(1614)の出来事で、家康が金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させたのが慶長18年、高山右近らが国外追放を受け、大坂冬の陣が起こったのが慶長19年だ。これらの事件は全部繋がっている。
この方広寺という寺は、創建以来約400年の間に、大仏は5回潰れ大仏殿は3回倒壊した寺なのだが、この寺を訪れて、この寺の歴史について書いてみました。

東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-86.html


家康は外国貿易を広めたが、ではスペインやポルトガルはわが国から何を買い求めていたのか。鉄砲や日本刀などの武器が多かったのだが、同時に大量の「日本人」も取引されていたことが、戦後の歴史叙述からは欠落してしまっています。興味のある方は覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html




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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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