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徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。

徳川家光

家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国に在留する外国人は長崎(ポルトガル人)と平戸(オランダ人)に限られることとなった。

では家光は、日本人のキリスト教に対してはどのような施策をとったのか。
家光が将軍の位についた年の12月4日に、江戸の札の辻(東京都港区)で多くのキリスト教信徒の処刑が行われている。

原主水

その処刑の中心人物は原主水(はらもんど)という武士で、以前は徳川家康に仕えていたのだが、慶長17年(1612)に江戸・京都・駿府をはじめとする直轄地に対してキリスト教禁教令が出され、キリスト教徒であった原主水は10名の旗本とともに殿中を追われることになった。しかしその後も布教を続けたために慶長19年(1614)に捕えられ、その時も棄教を拒んだために手足の指が切られた上に額に十字の烙印を押される身となったのだが、その後は教会に出入りして神父らを助けて、非合法活動であったキリスト教の布教に従事していた。

原主水らの殉教

ところが密告者があり、原主水、外国人宣教師をはじめ約50名が捕えられ、処刑の日には3つの組に分けられて江戸の町を引き回された後、火刑に処せられることとなった。
処刑される前に原主水は「キリストの為に死する時きたり、天国に行くことを喜び、進んで刑場に着す。これ我が勝利を得たる者にて、こよなき幸福なり」と述べたそうだが、他のキリシタンもほとんどが同様な態度で死んでいったという。(ヴイリヨン 著『日本聖人鮮血遺書』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019243/206

キリスト信徒の世界では、あらゆる迫害を耐えて信仰を守り、キリストの為に命を捧げることを「殉教」と呼ぶのだが、家光の時代には数多くのキリシタン殉教者が出ている。
彼らの多くが処刑に抵抗せず従容として死に就いていった理由は、「殉教者」が聖なるものとして信徒から非常に尊崇されていたからである。だから処刑の後に多くのキリスト教信徒が、殉教者の遺骸や遺品を持ち去ろうとするので、またまた信徒が捕えられて処刑されることになる。
江戸では12月29日にはさらに37人が火炙りなどで処刑された記録があるが、この様にしてキリスト教信徒が各地で処刑されたようだ。この年には一説では天領だけで4~500人が殉教したというが、詳しい記録が残っているわけではなさそうだ。

学生時代に鎖国に至る歴史を学んだ際に、江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由も、また鎖国に踏み切った理由も、いま一つ納得できなかった。

教科書などを読んで分かりにくい主な原因は、戦後の書物は西洋諸国の暗部を記述しない点にあると思うのだが、その理由は、その点を詳述してしまうと戦後に戦勝国が広めようとした歴史観と矛盾することになり、それでは困る勢力が今も内外に強い影響力を保持しているからではないかと考えている。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

では、戦前の書物ではどう解説されているのか。
やや長文だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』(昭和10年刊)の解説を引用したい。

「…当時の耶蘇(キリスト)教徒が、ややもすれば日本主権者の命令を無視して、独自勝手の運動をしたのは、当局者の目に余る事実であった。いわば当時の宣教師そのものが、この点について、甚だ不謹慎であった。されば耶蘇教徒の災難は、半ば自ら招きたるものであるというのが、むしろ公平の見解であろう。
[耶蘇教禁圧の主な理由]
(第一)耶蘇教は、日本の国法を無視すること
(第二)耶蘇教は、日本の神仏を侮蔑、攻撃し、平地に波乱を起こさしむること
(第三)耶蘇教は、社会の落伍者を収拾し、自然に不平党の巣窟となること
(第四)耶蘇教は、スペインの手先となりて、日本侵略の間諜となること
(第五)外国の勢力を利用せんとする、内地の野心者の手引きとなるのおそれあること。
以上はおそらくは幕閣が耶蘇教禁圧のやむべからざるを認めた理由であろう。これは幕閣としては杞憂であったか、真憂であったか。いまにわかに断言すべきではないが、しかもこれを一掃的に杞憂であると抹去すべきではない。
[宣教師らの反抗運動]
特に幕閣をして、禁教の手を厳重ならしめたのは、宣教師らの反抗運動であった。彼らは退去を命じられればたちまち逃走した、隠匿した。しからざれば一たび退去し、更に商人の服装をして渡来した。しかして彼らを厳刑に処すれば、信者は踴躍(ようやく)してこれに赴き、しかして就刑者の或る者は、直ちに天子に等しき待遇を受け、しからざるも、殉教者として尊崇せられた。信徒らはその流したる一滴の血さえも、これを手巾(ハンカチ)に潤し、神聖視した
[不得止一切無差別渡航禁止]
かかる状態に際しては、幕閣たるものは、根本的にこれを杜絶(とぜつ)するの策を考えねばならぬ。いやしくも船舶が交通するにおいては、如何に宣教師渡航禁止の法律を励行するも、これを潜る者あるは、事実の証明するところで、今さら致し方がない。商売は商売、宗教は宗教との区別は、秀吉以来、家康以来、既にしばしば経験したところだ。しかもそれがことごとく水泡に帰した。こちらでは区別をするが、あちらでは区別をせぬ。さればその上は、一切無差別に、通航を禁止するしか他はないのだ
[余儀なき鎖国]
必ずしも徳川幕府の為に、耶蘇教禁止の政策を弁護するのではない。しかも彼等の立場として、まことに余儀なき次第と言わねばならない。しかしてさらに、より以上の必要は、幕府自身の自衛だ。幕府の憂いは、内には不平党の召集だ。ほかには外国の干渉、および侵襲だ。しかしてこの両者の導火線は、いずれも耶蘇教と睨(にら)んだからには、これを禁止するは、幕府の自衛策として必須である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/138

戦後の歴史書が分りにくい理由は、わが国を植民地化することを執拗に狙っていた国のことがほとんど紹介されていない点にあるからだと考えているが、江戸幕府が自衛のために、また、外国の干渉を排除するためにキリスト教の禁教が不可欠であったことは、この点を理解しないと見えてこないのである。

この当時わが国と接触があった西洋諸国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国であるが、この中で最大の恐怖は、メキシコやフィリピンを植民地化したスペインであろう。

Spanish_Empire_Anachronous_0.png

スペインがわが国に対してどの程度の野心があったかについてはスペインの公文書で明記されている訳ではなさそうだが、その敵国であるオランダやイギリスから、スペインに野心があることをわが国に警告していた記録がある。
また、スペインも、わが国の沿岸を勝手に測量したり、わが国の禁令を破って宣教師を潜入させるなど、スペイン人の野心を疑わせる行為を繰り返していたので、江戸幕府が警戒したことはむしろ当然の事であった。

徳富蘇峰はこうも述べている。
禁教と鎖国は至近至切の関係がある。鎖国せねば禁教が徹底的に行われず、禁教するには鎖国が第一要件だ。しかし鎖国は禁教のためと思うべきではない。世間に発表したる理由は、耶蘇教禁圧のためというが、その実は決してそれのみではない。徳川幕府は、日本の大名もしくは個人が、外来の勢力と接触するを甚だ危険に思った。そはその勢力をもって、幕府に当たらんことを懼(おそ)れたからだ。これは幕閣としては杞憂であったか、否か。当時の大名には、それほどの気力あるものもなかったようだが、しかも幕閣の立場としては、相当の遠慮というべきであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/144

家康の時代に、幕府は鉱山採掘や、航海、造船の技術をスペインから得ようとしたことがあったが、彼らは宣教師ばかりを送り込んできた。江戸幕府から禁教令が出されても、スペイン人はフィリピンのルソンから宣教師を送り続けたという。

そこで、フィリピンからの宣教師の潜入をストップさせるために、江戸幕府がフィリピンの征伐を検討していたことが2度ばかりあったようだ。

再び徳富蘇峰の文章を引用する。文中の「彼」というのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功があり、肥前島原領主となった松倉重政のことである。

松倉重政

「彼は寛永7年(1630)、自力にてルソンを征服せんと幕府に請うた。彼は耶蘇教の根本療治は、ルソンを退治するにある。もし某(それがし)に十万石の朱印を賜い、ルソンを領することを許されなば、独力にてこれに当たらんと申し出でた。かくて彼は吉岡九左衛門、木村権之丞に20人の足軽をつけ、絲屋随右衛門の船に乗せて、偵察に赴かしめた。彼らは11月11日に出帆し、木村は途中に死し、吉岡はマニラに入り、翌年6月に帰朝したが、松倉は前年吉岡らの出帆後いくばくもなく、11月16日に逝き、壮図は空しく彼とともに葬り去られた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/145

松倉重政は、吉岡九左衛門らを乗せた船が出帆してわずか5日後に亡くなったために、この計画は消滅してしまったのだが、この7年後に江戸幕府は再びフィリピン征伐を計画している。

寛永14年(1637)に、幕府はルソン征伐を企てた。これは宣教師の根拠地を覆すと同時に、彼らが琉球を経て、密貿易を行なうを杜絶するためであった。而して幕府は、寛永15年(1638)」の冬、遠征軍を出す計画を立て、末次平蔵をして、兵士輸送の為に、蘭(オランダ)人から船舶を借るべく交渉せしめた。蘭人もその相談に乗りかかり、さらに戦艦をも供給すべく準備したが、島原の一揆の為に、中絶した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/146

では、もし江戸幕府がフィリピン征伐に動いていたとしたら、江戸幕府が勝利した可能性はどの程度あったのだろうか。

当時スペインやポルトガルが多くの国々の領土を簡単に侵略できたのは、弓矢しか武器を持たない国が大半であったからなのであって、わが国だけは鉄砲伝来の翌年に鉄砲の大量生産に成功し、16世紀の末期には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、フィリピンの国防は日本人の傭兵部隊に頼り、武器も日本から輸入していたことを知る必要がある。
もし日本から傭兵と武器を調達できなければ、スペイン人はそう長くは戦えなかっただろうし、徳川幕府軍が日本人傭兵やフィリピンの原住民と繋がれば、スペイン人を追い出すことは、それほど難しくはなかったと考えられる
のだ。
なぜなら、当時のスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしており、フィリピンを守るためにわざわざ本国から軍隊を派遣するような余裕は考えにくく、もし長期戦になった場合に武器の補充は容易ではなかったからである。

以前このブログで書いたが、フィリピンでは1603年にスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功した記録がある。しかし、その3年後の1606年には、スペイン人は強すぎて多すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとする動きが起こっている。

山田長政

シャム国では1621年に山田長政率いる日本人を中心とする部隊が、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けている
また同じ1621年には、オランダとイギリスの艦隊が日本行のポルトガル船とそれに乗っていたスペイン人宣教師を江戸幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めている
この時2代将軍秀忠は、このオランダ・イギリスの申し出を拒否したばかりではなく、逆に『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』との禁令を発し、オランダ・イギリス両国に大きな衝撃を与えることになったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
この様な史実を知ると、「日の沈むことのない帝国」と言われたスペインも、またオランダもイギリスも、それほどの強国であったとは思えなくなる。

93-se-kaigainiyuhi1.jpg

菊池寛の『海外に雄飛した人々』(昭和16年刊)という書物に、英国人のバラード中将が、次のような発言をしていることが紹介されている。

ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

現在はともかくとして、少なくとも当時の日本人は非常に勇敢であり、江戸幕府がその気になればこの時期に東南アジアから白人勢力を排除できたということを、英国の軍人が述べていることは驚きだ。

江戸幕府がキリスト教を禁じ鎖国に至る流れについての歴史叙述については、戦前に出版された書物の方が、当時の世界の動きを良く伝えていてはるかにわかりやすい。
戦後の書物では世界の動きをほとんど触れずに、キリスト教徒を激しく迫害したことや江戸幕府の偏狭さを記して禁教から鎖国が論じられることが多いのだが、これではなぜ江戸幕府がキリスト教を禁じ、鎖国するに至ったのかがスッキリ理解できるはずがないと思う。

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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
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日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html




関連記事

石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて

毎年桜の咲くころになると、桜の名所やその近辺の社寺を訪ねるブログの記事を書いてきた。今までは旅行記事の直前に連載記事を終えるように調整ができていたのだが、先月来書き始めた鎖国のテーマが意外と長くなりそうなので、しばらくは重たいテーマから離れて、滋賀県の湖東の桜を訪ねる小旅行のレポートをさせていただくことにする。車で行かれる方のために、今回もカーナビで登録できるよう、私が訪れた場所の住所と電話番号を付記しておく。

石山寺 仁王門

自宅を早めに出発して、最初に訪れたのが滋賀県大津市にある西国巡礼第13番札所の石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1:077-537-0013)。
寺伝では、天平19年(747)に聖武天皇の命により良弁僧正が開創したという古いお寺だ。
滋賀県の桜の名所としては結構有名なので、開門時間の朝の8時を目指して向かったのだが、少し早めに駐車場に到着した。駐車場から歩いてすぐに、東大門(国重文)がある。

石山寺の参道の桜

開門となり東大門をくぐるとしばらく参道が続き、参道に沿って多くの桜の木が植えられている。桜並木を過ぎると右手に、やや急な石段が続き、それを登りきると、石山寺の名前の由来でもある硅灰石(けいかいせき:国指定天然記念物)の奇岩・怪石があり、その石の向こうに国宝の多宝塔が見える。

石山寺 硅灰石

左には蓮如堂(国重文)があり、近くの桜がちょうど満開であった。この建物は仏事だけでなく神事にも用いられてきたのだそうだ。

石山寺 蓮如堂

更に進むと、滋賀県最古の木造建築物で国宝の本殿がある。天平時代建てられた本殿は承暦2年(1078)に焼失し、今の本堂は永長元年(1096)に再建されたものだそうだ。

石山寺 紫式部

本堂の一角に3畳ばかりの薄暗い「源氏の間」があり、紫式部が『源氏物語』の構想を練り筆を起こした場所と伝えられている。石山寺のHPによると『石山寺縁起絵巻』には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」ことが記されているのだそうだ。

石山寺 多宝塔

本堂の横から石段を登ったところに、さきほど奇岩の向こうに向うに見えた多宝塔(国宝)が目前にある。この多宝塔は建久5年(1194)に、源頼朝の寄進により再建されたもので、屋根の曲線美の優美な姿が印象に残った。

石山寺鐘楼

多宝塔から石段を下ったところにある鐘楼(国重文)も源頼朝の寄進とされ、均整のとれた美しい建物である。

石山寺の境内は広く、月見亭、宝物殿や3つの梅園や回遊式庭園の無憂(むゆう)園など見所は結構あるのだが、宝物殿の開館は10時なので入ることを諦めた。

石山 貝塚標本

石山寺の駐車場の周辺で、昭和15年(1940)に縄文時代早期(約6~7千年前)の淡水貝塚が発見され、石山貝塚と命名されている。かつては貝層がむき出しになっていたのだそうだが今はコンクリートで覆われてしまって、近くの石山観光会館内に剥ぎとった貝塚の一部が展示されているだけのようだ。

次に向かったのは東近江市にある百済寺(ひゃくさいじ: 滋賀県東近江市百済寺町323:0749-46-1036)。石山寺から44kmで、名神高速を用いて30分程度で到着する。

この百済寺は、愛知郡愛荘町の金剛輪寺、犬上郡甲良町の西明寺の3つの寺とともに「湖東三山」と称される天台宗の寺院だが、いずれも応仁の乱や織田信長の焼き討ちによって衰退し、江戸時代以降復興した寺と言われている。3つの寺ともかなり広い境内を持ち、特に紅葉が有名で、秋には多くの観光客で賑わうのだが、桜もまた多いと聞いていたので、今回の旅程に入れていた。

百済寺 桜

境内には確かに桜の木が数多くあり、満開時にはこの門前の桜が素晴らしいはずなのだが、まだつぼみが開いていなかったのは残念だった。

寺伝によるとこの寺は、聖徳太子の発願により、高句麗の僧・恵慈(えじ)を導師に百済僧・道欣が推古天皇法興元年(590)に創建したと伝えられており、近江最古の寺の一つと考えられているようだ。この一帯には古代より、渡来人が多く定住していた地域であり、寺号からしてもこの寺が渡来人と関わりがあった可能性が高そうだ。

平安時代には僧坊が300あったという大寺院だったが、何度か火災に会い、特に天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭ったと記録されている。

近代デジタルライブラリーで『信長公記』巻六が公開されており、百済寺の焼き討ちに関する記録を誰でも読むことができるので紹介しよう。
「近年鯰江之城百済寺より持続一揆同意たるの由被及聞食 四月十一日 百済寺堂塔伽藍坊舎仏閣悉灰燼となる哀成様不被当目」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/103

少し補足すると、織田信長の侵攻を受けて観音寺城から逃れた六角義賢(ろっかくよしかた)らを鯰江(なまずえ)城の城主・鯰江貞景(なまずえさだかげ)が迎え入れたため、信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛、柴田勝家、蒲生賢秀(がもうかたひで)、丹羽長秀により鯰江城を囲んだのだが、4月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして信長軍がこの寺を焼き払ったと伝えられている。
この時にこの寺の堂塔・伽藍・坊舎・仏閣の全てが灰になり、哀れな様は目も当てられなかったと『信長公記』には書かれているのだが、信長勢は鯰江城の六角義賢らと戦わなければならなかったのに、百済寺焼き討ち後、兵を引き揚げたのは何故なのか。
調べると、柴田勝家が鯰江城を攻略して六角義賢を降参させたのは、百済寺焼き討ちから5ヶ月もあとの9月4日の事なのである。となると織田軍は敵軍を倒す事よりも、自陣を構えた百済寺を焼き尽くすことに熱心であったことになるのだが、自陣に火をつけることを「焼き討ち」と呼ぶことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

このブログでも紹介したが、当時宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』を読むと、宣教師たちが大名や信徒たちに寺を焼くことを教唆していたことが具体的に記されており、永禄10年(1567)に東大寺大仏殿に火をつけたのは三好三人衆側の警備に当たっていたキリシタン武士であったことが明記されている。
もしかすると百済寺も東大寺と同様に、偶像崇拝を禁じるキリスト教を奉じる武将が織田方に多数いて、警護あたっていたメンバーが宣教師の教え通りに火をつけたのではないだろうか。この時代に数多くの寺が「焼き討ち」に遭って焼失してしまっているのだが、私はこの時期にキリスト教が布教されていたことと関係があるのではないかと考えている。

百済寺はその後、寛永11年(1634)に天海僧正の高弟の亮算が入山して百済寺の復興に着手し、彦根藩の支援もあって現在の山門、仁王門、本堂などが再建されたのだが、以前の規模とは全く比較にならない。

喜見院(きけんいん)で拝観の受付けをし、喜見院の庭園を観賞したのち長い石段を上っていく。昔は石段やなだら坂の周囲には300を数える寺坊が存在していたというが、今は喜見院と本堂と門だけが残されている。広い境内に桜の木は結構あるのだがつぼみはまだ固かった。

百済寺 仁王門

ようやく大きな草鞋のかかった仁王門に辿りつく。普通の寺の金剛力士像は門の外側に向いているのだが、この寺では門を潜る者を睨むように向かい合っている。
また、門の右側に咲いている黄色い花は「みつまた」といい、この寺の境内に数多くの花を咲かせていた。

百済寺 本堂

さらに階段を上ると、本堂(国重文)がある。この本堂は仁王門とともに慶安3年(1650)に再建されたものである。
かつての本堂は現在よりもさらに山手にあって、大きさは現本堂の約4倍もあり、近くには五重塔もあったという。いずれも信長勢に焼かれてしまったのだが、この時、高さ2.6mもあるご本尊の十一面観音像(平安時代)など多くの寺宝は、奥の院不動堂に避難して難を逃れたのだそうだ。

このご本尊は御開帳の時しか観ることができないのだが、『観仏日々帖』にその画像が紹介されている。
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
また今年の3月から8月末まで、本尊の左右にある如意輪観音半跏思惟像と聖観音座像が公開されていて、観ることができたのはラッキーだった。

次に向かったのが金剛輪寺(こんごうりんじ: 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874:0749-37-3211)だ。
この寺は天平13年(741)に、聖武天皇の祈禱寺として行基が開山し、嘉祥年間(850)に延暦寺の慈覚大師が来山し天台宗に改められたと伝えられている。応仁・文明の乱以降の争乱や織田信長の近江侵攻と佐々木、六角氏の滅亡により多くの坊舎を失ってしまったが。湖東三山の中では最も多くの文化財を残している寺なのだそうだ。
織田信長勢に百済寺が焼かれた天正元年(1573)にこの寺も焼かれた記録があるようだが、焼かれたのは本坊や総門で、本堂および三重塔はさらに数百メートルも奥にあるために、見落とされて、焼失を免れたという。
しかし、織田勢がこの寺を焼いたことについては『信長公記』には全く何も書かれていないのである。戦場でもないのに織田勢がなぜ火を放ったか、原因を明確に論じている記録がないのになぜ『焼き討ち』という呼び方をするのだろうか。単なる『放火』と呼ぶべきではないのか。

金剛輪寺 庭

金剛輪寺の総門をくぐりしばらく進むと、左に本坊明壽院(みょうじゅいん)がある。ここの庭園が、桃山、江戸初期、江戸中期に作庭された三つの庭から構成され、国の名勝に指定されているという。この庭の紅葉は「血染めのもみじ」と呼ばれて有名なのだそうだが、桜の木はわずかしかなかった。やはり、訪れるべきは秋のようだ。

金剛輪寺三重塔

明壽院を出て、かなり長い参道を登って行くと、室町時代後期に造営された二天門(国重文)があり、それを抜けると国宝の本堂とその左手に重要文化財の三重塔が見えてくる。

kongorinji01s.jpg

三重塔は室町時代前期の建立で、長らく荒廃していたのを昭和53年に解体復元工事がなされて、その優美さを取り戻したという。修復される前の三重塔の写真がminagaさんのサイトにあるが、江戸時代の天保期からこのような状態であったのだろうか。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_kongorinji.htm

金剛輪寺本堂

国法の本堂も室町時代前期の造営と考えられており、内部は外陣・内陣・裏堂に分かれていて、内陣には平安時代から鎌倉時代にかけて制作された数多くの仏像が並んでおり、10体ばかりが国の重要文化財に指定されている。裏堂にまわると、客仏が立ち並んでいるのだが、平安時代の木造十一面観音像や慈恵大師坐像は国の重要文化財に指定されている。

わが国の多くの寺が明治の廃仏毀釈で苦しんだのだが、この寺もかなり苦労したことは間違いないだろう。アメリカのボストン美術館が所蔵する金銅造聖観音坐像は、金剛輪寺本堂に安置されていた像であることがわかっており、また東京都港区・根津美術館の刺繍曼荼羅図もこの寺の旧蔵品であったことがわかっているという。
明治4年(1871)の太政官布告で寺の領地を国が接収したために収入が激減し、少なからずの寺院が生活の為に宝物を売ることを余儀なくされてしまった。この事は、過去このブログでいくつかの事例を書いて来たので、興味のある方は覗いてみてしていただきたい。

あびこ屋

丁度お昼の時間になったので、地元で創業70年のあびこ屋(0749-37-2016)という日本料理店に向かった。
ネットで事前に調べて選んでいたのだが、きれいな個室で最高の料理を頂くことができて大満足だった。都会の高級料亭に引けを取らないような料理がリーズナブルな価格で頂ける店があるのはうれしい限りだ。

あびこ屋 うなぎ料理

メニューの中からうなぎ御膳を選んだのだが、うなぎは外はカリッと焼かれて中はふかふかでとても旨かった。また機会があれば、この店を訪れたいと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。


戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html


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湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる

あびこ屋で昼食を終えてから、次の目的地である西明寺(さいみょうじ:滋賀県犬神郡甲良町池寺26:0749-38-4008)に向かう。金剛輪寺からは8分程度で到着する。

西明寺 本坊庭園入口

この寺は平安時代の承和(じょうわ)元年(834)に三修上人が、仁妙天皇の勅願により開創されたと伝えられ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があったという。
しかしながら、元亀2年(1571)に織田信長はこの寺にも「焼き討ち」をかけたとされ、幸い本堂・三重塔・二天門だけが焼け残ったという。
その後は、天海大僧正や公海大僧正の尽力により復興に務められたが、旧観に復すことは出来なかった。

西明寺 不断桜

惣門をくぐり参道を進むと左手に天然記念物のフダンザクラ(不断桜)が見ごろを迎えていた。
西明寺にはフダンザクラが7本もあるのだそうだが、上の画像は本坊の庭に咲いていたものである。
フダンザクラは、何も知らなければ普通の桜のようにみえるのだが、バラ科の植物で毎年の9月上旬から 翌年の 5月上旬まで花を咲かせるのだそうだ。

西明寺 二天門

本坊庭園を抜けて参道を登って行くと二天門(国重文)があり、増長天像と持国天像が安置されている。


西明寺 本堂2
この門を抜けると、正面に国宝の本堂が建っている。この本堂は入母屋造・檜皮葺の純和風様式の建物で、鎌倉時代の初期に造営されたのだそうだ。秘仏の木造薬師如来立像(国重文)は公開されていなかったが、木造十二神将像(県文化)の両脇にある多聞天・広目天の木造二天王立像(国重文)など見ごたえのある仏像が多い。

西明寺 三重塔

本堂の左にある三重塔(国宝)は鎌倉時代後期建てられたもので、高さが約24mの均整のとれた美しい建物である。塔の内部中央には木造大日如来坐像が安置され、壁には法華経曼荼羅図などが描かれているそうだが、普段は公開されていないようだ。

次の目的地である多賀大社(0749-48-1101)に向かう。西明寺からは14分程度で到着した。

伊勢へ参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」という里謡があるそうだが、「お多賀の子」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)両神の御子であることをさしている。中世になって多賀信仰が広まり、庶民から「お多賀さん」として親しまれただけでなく、戦国武将の崇敬も篤かったようだ。

多賀大社 太閤橋と桜

天正16年(1588)に豊臣秀吉が、母の病気平癒のため米1万石を寄進して、それにより社殿が整備され、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。
上の画像の石橋が太閤橋だが、御神門の前の桜がほぼ満開だった。

多賀大社本殿

御神門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が見えてくるのだが、境内が随分広く感じるのは、以前は神仏習合で多くの仏教施設があり明治初期の廃仏毀釈でそのほとんどが破壊されたからであろう。

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上の画像は『多賀明神社頭古絵図』で、徳川幕府寛永造営後の景観を描いたものだと考えられているが、境内の中に三重塔や本地仏堂や経蔵などの仏教施設が描かれている。
その後何度か大火に遭い、特に安永2年(1773)の大火で社殿・堂塔のほとんどが焼失してしまい、それ以降多くの建物が再建されたのだが、三重塔は再建されないまま明治維新を迎えたようだ。
上の古絵図はminaga氏のHPに紹介されており、このHPには他にも多くの画像を観ることができるのだが、minaga氏の解説によると、明治4年(1871)に社家側は不動院、観音院、成就院、般若院に乱入して社僧を排撃し、仏像・仏器を投棄し、本地堂に祀られていた平安時代の阿弥陀如来坐像をも路上に遺棄したという。
その仏像は多賀大社の西にある真如寺が保護を願い出て同寺の本堂に安置されたそうだが、その仏像は今も真如寺に残されていて、国の重要文化財に指定されているそうだ。
また、不動院は破壊を免れたものの改造されて社務所にされ、観音院、成就院、般若院は破壊され、本地堂は後で何者かによって火をつけられたようだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_taga.htm

多賀大社 奥の院

多賀大社の奥書院(県文化)は江戸中期の建物で、庭園が国の名勝に指定されているので中に入ったのだが、この建物も庭も、明治の廃仏毀釈以前は不動院の所有であったという。

多賀大社奥書院
雨が降っていたので、庭園はガラス越しに観るしかなかったのは残念だったが、建物はなかなか格調が高く、障壁画もなかなか見ごたえがあった。
また、参集殿につながる廊下を歩いていると、昭和の時代に各界で活躍した著名人が奉納した絵馬が両側の壁に展示されていて、結構楽しむことができた。

次の目的地は国友鉄砲の里資料館(長浜市国友町534:0749-62-1250)。多賀大社からは30分程度で到着する。

国友鉄砲の里資料館

以前このブログで天文12年(1543)、種子島に2挺の鉄砲が伝来した翌年に、我が国で鉄砲の大量生産に成功したことを書いた。
『鉄炮記』によると、2挺の火縄銃を手に入れた種子島時尭は、1挺を室町幕府将軍足利義晴に献上し、もう1挺は鍛冶職人の八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲の生産に成功させたとあるが、金兵衛が最も苦労したのは、銃身の底を塞ぐネジの製造方法であったという。金兵衛の娘の若狭が、ポルトガル人から教えを乞い、種子島では鉄砲伝来からわずか数年で、本物に劣らない鉄砲を生産するようになったという。

また、足利将軍に献上されたもう1挺は、根来の砲術家・津田堅者算長が手に入れ、堺の刀工・柴辻清右衛門に命じて堺鉄砲の元を作らせ、さらに大量生産にも成功したという。

では国友の鉄砲生産はどういう経緯で始まったのか。
湯次行孝氏の『国友鉄砲の歴史』によると、こう解説されている。
「『国友鉄砲記』などによると、足利義輝*は、細川晴元を通じて、国友の鉄匠、善兵衛、藤九左衛門を知り、手許の鉄砲を貸し渡して製造を命じた。当時、国友は京極氏の支配下にあり、京極氏は細川党であった関係上、国友鍛冶の技術が細川氏に見出されたのである。」(別冊淡海文庫5『国友鉄砲の歴史』p.10)
*足利義輝:室町幕府12代将軍・足利義晴の嫡男で、のちに13代将軍(在職:1546~1565年)となる。

当時の刀工の技術では銃身を作ることは難しくなかったようだが、ネジの製造については苦労した記録があるようだ。『国友鉄砲記』によると、「次郎介、小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻というもの出来云々」と、ネジを国友で独自に開発したことが記されているという。
刀工たちは天文13年(1544)8月12日に、足利将軍に完成した鉄砲を2挺献上したというから、種子島で鉄砲が伝来した翌年に、国友でも鉄砲の生産が成功していたようなのだ

国友鉄砲

国友で生産された鉄砲は品質が高かったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、また各地の大名に召し抱えられるなどしてその技術を発展させていったのだが、徳川家康が江戸幕府を開いて以降、鉄砲を必要としない時代が到来する。

慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったことや、特に島原の乱以降は大量注文を受けることが少なくなって、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が農業に従事したり、花火を製造したり、刀鍛冶や金属加工などで収入の道を求めたという。

戦国時代に鉄砲の生産で栄えた日野も堺も早い時期に衰退したにもかかわらず、国友だけが滅亡を免れたのは、国友一貫斎という人物の存在が大きいと言われている。

国友一貫斎生家 

天明3年(1783)以来大飢饉がわが国を襲ったのだが、一貫斎が制作した反射式天体望遠鏡や空気銃などが大名家などに買われて、国友の住民に仕事と現金収入をもたらしたのだそうだ。国友鉄砲の里資料館から少し北に行くと国友一貫斎の生家があり、上の画像はその門を写したものである。個人の家なので内部は公開されていない。

1日目の旅程を終えて、宿に向かう。
この日に予約を入れていたのは、江戸時代から料理旅館を営んでいるという長治庵(0749-84-0015)。
http://chojian.com/index.html

長治庵 外観

長浜市の中心部からかなり離れて、木之本町の山間部にある杉野という小さな集落にある茅葺の1軒宿である。
近くに観光名所があるわけでもなく、こんな田舎にと言っては失礼であるが、創業来270年も続く宿があることに驚いた。

長治庵 いろり

上の画像は私が食事をした茅葺の母屋だが、こういう場所で食事をすると随分ほっこりとした気分になる。

夕食は地元で採れた山菜や川魚や肉を素材にしたものばかりであるのが良い。お米もオーナー自らが無農薬で作っておられるのだそうだ。

長治庵 夕食

上の画像はしか肉のルイベと、ますの竹皮蒸しと長治なべ(いのしし鍋)だが、次から次へと出てくる10品近くのすべての料理がとても美味しくいただけて大満足だった。

近くに店らしきものが見当たらない、自然たっぷりの田舎の集落の一軒宿であるからこそゆっくりと時間が流れて、静けさに心が休まる宿で泊まる旅行もなかなか良いものである。

<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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