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島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか

前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。

厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により島原の乱が起こる10年近く前に住民はキリスト教を棄教していた。また、天草では関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が領主となり、島原と同様にキリシタン弾圧が行なわれ、ずっと以前から住民はキリスト教を棄教していたのである。
ところが、彼らは島原の乱が起こる直前の短期間のうちにキリシタンに立ち返ったのだが、何がそのきっかけになったのであろうか。

この謎を解く鍵が、島原の乱が勃発する直前の10月13日付けに書かれた『じゅわん廻状』と呼ばれる文書にあるようだ。この文書が、地域一帯に回付され、12日後の10月25日に島原の乱が起こっている。

原文は読みづらいので、神田千里氏の解説でその内容を紹介したい。
「まず『天人』が地上に降り、『ぜんちょ』(gentio、異教徒)はすべて唯一神デウスから火の『ぜいちょ』(juizo、審判)が下されることになったと述べられ、誰でもキリシタンになったものは自分達のもとに馳せ参じよ、特に村々の庄屋や乙名*は馳せ参じよ、との要請がなされている。さらに『天草四郎様』という人は『天人』であること、たとえ『異教徒』の僧侶であろうとキリシタンに改宗したものはデウスの審判から許されるが、キリシタンに改宗しない者は、デウスから『いんへるの』(inferno、地獄)に堕されると宣言している。要するに『天人』が来臨し、デウスの審判が行なわれることになったから、キリシタンになって馳せ参じよ、というわけである。」(『宗教で読む戦国時代』p.182)
*乙名(おとな):長老、村落の有力者

この『じゅわん廻状』の原文は、早稲田大学の大橋幸泰准教授の講義のレジメの「史料3」に紹介されており、誰でもネットで読むことができる。
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/0703.pdf

キリスト教の世界では、この世の終末に近くなると主イエス・キリストが再臨して、異教徒が裁かれて地獄に堕ち、キリスト教徒は天に導かれて神の国を確立するという信仰があるようだが、熱心なキリシタン大名が統治する時代が長かった島原や天草の人々にとっては、領主が変わってキリスト教の棄教を迫られ、多くの仲間を「殉教」で失い、不作であるにもかかわらず過酷な課税をかけられて生活は苦しかったために、「この世の終末」が近づいてきており、キリストが再臨してキリスト教徒が救われるとの話に飛び付きたくなるような心理的状況にあったことは充分に理解できる。

さらに、島原の乱の起こる26年前に追放されたイエズス会のマルコス神父が、日本を離れる際に残した予言があったことが、神田千里氏の著書に紹介されている。
「その予言書には、26年後、すなわち乱の起こった年に必ず『善人』が生まれ、その者は習わないで字が読めるものである。天にも徴(しるし)が現われ、人々の頭に『くるす』(十字架)が立ち、雲が焼け、木に饅頭がなり、人々の什器をはじめ野も山も皆焼けるだろう、というものであった(『山田右衛門昨口書写』)。人々はこの予言にある『善人』とは天草四郎すなわち益田四郎であり、彼は『天の使い』に違いないと信じたと言う(同上)。…
事実天草四郎(益田四郎)については、この時期不思議な噂が立っていた。島原の町役人であった杢左衛門の証言では、このころ大矢野村の益田四郎はわずか16歳で近国でも評判になっていた。稽古なしに読書をし、経典の講釈を行ない、やがてキリシタンの世になる、と人々に改宗を勧めた。…(『別当杢左衛門覚書』)」(『宗教で読む戦国時代』 p.183)

天草四郎像

少し補足すると、天草四郎は関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされ、益田家は小西氏滅亡の後、浪人百姓として一家で宇土に居住していたという。

神田氏の著書には、ほかにも当時の島原や天草に残された数多くの記録を紹介しておられるが、これらを読むと、「一揆勢」が代官のところに押しかけたのは、年貢の減免を要求したのではなく、公の場でキリシタンに立ち返ることを宣言することであったことが理解できる。

最後の審判

この世の終末にイエス・キリストの再臨を信じる人々にとっては、表面的にせよ異教徒であり続けることは、自分自身が裁かれて地獄に墜ちてしまうことになる。だから、何としてでも元のキリスト教信者に戻りたいと願い、自分が異教徒ではない証(あかし)として、あるいは『天の使い』である天草四郎が異教や異教徒を撲滅する『審判』に協力するために、寺社に火を点けたり僧侶や神官を殺したりしたと理解すれば良いのだろうか。
そして、この「最後の審判」の後は、「異教徒」はこの世にいなくなり、キリシタンだけの世の中に生まれ変わることになる。

さて、一揆勢の蜂起は島原藩の予測をはるかに超えて広がっていった。翌10月26日の早朝にはさらに7ヶ村の立ち返ったキリシタンたちが蜂起し、一揆勢に押されて島原藩の軍勢は島原城に籠城したという。

一方、島原の蜂起を聞いた数日後に、天草地方も多くの住民がキリシタンに立ち返って、蜂起している。
天草四郎を戴いた一揆軍は11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利を討ち取り、さらに唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃し、落城寸前まで追い詰めたという。
しかしながら、九州諸藩の討伐軍が近づいていることを知って島原半島に移動し、島原領民の旧主有馬家の居城で廃城となっていた原城に籠城している。
この原城で島原と天草の一揆勢が合流したのだが、幕府側の記録では37千人程の勢力が、大量の鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て籠もったのである。

板倉重昌

幕府は御書院番頭であった板倉重昌を派遣し、重昌は九州諸藩による討伐軍を率いて原城を包囲して、12月10日、20日に総攻撃を行ったのだが、城の守りは固かった。そして寛永15年(1638)1月1日に再度攻撃を試みるも失敗に終わり、総大将の板倉重昌は一揆勢から鉄砲の直撃を受けて戦死している。

さらに幕府は討伐上使として老中・松平信綱らを派遣し、西国諸侯の増援を得て12万以上の軍勢で、陸と海から原城を完全に包囲し、兵糧攻めでじっと勝機を待つこととした。

松平信綱

その際松平信綱は籠城する一揆勢に対して、この度の反乱の意図を問い質しているのだが、面白い部分なので神田氏の解説を引用する。
原城に籠城する一揆に対して幕府総大将の松平信綱は、なぜ籠城して幕府軍に反抗するのか、その理由を矢文(やぶみ)で問い質し『天下』すなわち将軍への遺恨によるのか、それとも『長門守(ながとのかみ)』すなわち島原藩主松倉勝家への遺恨によるのか、もし謂われのある遺恨であれば相談するにやぶさかではない、と宣言した(『新撰御家譜』正月中旬松平信綱矢文)。これに対して城中から回答があり、『上様』へも『松倉殿』へも遺恨はない、『宗門』のことで籠城しているのであり、『宗門』を認めてほしい、との回答があったという(『新撰御家譜』正月十四日堀江勘兵衛書状)。原城からの一揆の矢文とされるものがいくつか伝わっているがどれも、『宗門』すなわち信仰を認めてほしいとの要求で一致している
 そのうちの一つは次のように述べている。『現世のことについては、我々は『天下様』(将軍)に背くつもりはありません。もし謀反人などが出た場合には、討伐軍の一手はキリシタンにお任せ下さい。一命を軽んじてご奉公申し上げることを『天主』(デウス)に誓います。しかし『後生の一大事』については、天使様のご命令を守ります』と。(『新撰御家譜』正月十九城中矢文)」(同上書 p.192-193)

前回の記事で、島原の乱は極めて宗教的な動機によるものであることを書いたが、わが国に残されている史料の多くがそのことを裏付けているのである。
にもかかわらず、わが国の通史ではこの乱の原因を島原藩、唐津藩のキリシタン弾圧と苛政にあったとしてきたのだが、そのようなスタンスで書かれているのは、ほとんどがキリスト教徒の立場からの書物である。
例えば『日本基督教史. 下巻』では
先代の苛税に苦しみつつあった農民らは、この上更に新税を納むるの資力なく、遂に食物に窮し、終に草根、菜蔬を採って辛うじて生命を維ぐに至り、空しく餓えて死せんよりは、一挙領主に反抗して死を速ならしめんことを希い、終に騒乱を爆発するに至った。」
とわが国の通説に近い内容になっているのだが、この書物では一揆勢が大量の鉄砲と銃弾を以て戦った事にはほとんど触れていないのである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/230

原城包囲の図

またオランダ商館長のクーケバッケルは、長崎奉行の要請を受けて、船砲五門を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行なっている。
しかし、キリスト教国であるオランダが、なぜキリシタンの反乱を鎮圧する幕府側に協力したのであろうか。Wikipediaはこう解説している。
当時オランダとポルトガルは、蘭葡戦争(1603~1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1

原城地図

島原・天草で蜂起したキリシタン達が原城跡に籠城したということは、常識的に考えて、どこかの勢力の支援を待つということである。では彼らがどこの支援を待っていのたかと言うと、この地域のキリスト教化に関わったイエズス会やポルトガルかスペインの可能性が高そうだ。次のURLで写真が出ているが、原城阯からはイエズス会のロヨラやザビエルの像が描かれたメダル等、キリシタンの遺品が多数出土している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sitijyou/harajo-3.htm

島原の乱

神田千里氏は中公新書の『島原の乱』で松平信綱がオランダ船の砲撃を要請した理由について、信綱自身がこう述べたと書いている。
拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、我々は『南蛮国』と通じているのでやがて『南蛮』から援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、その『異国人』(つまりオランダ人)に砲撃させれば『南蛮国』さえあのとおりではないかと百姓も合点がいき、宗旨の嘘に気が付くのではないか、と思った」(中公新書『島原の乱』電子書籍29/58)

江戸幕府は、一揆勢の背後にはポルトガルがいると考えたのだろう。島原の乱の頃はポルトガルとオランダの両国は交戦中であったので、江戸幕府はオランダなら協力要請に応じてくれるという計算をしていたのではないか。百姓らにとってはポルトガル人もオランダ人も同じ『南蛮人』で区別がつかないと思われるので、オランダの艦船から原城を砲撃させることは、一揆勢に対して大きな心理的打撃を与えることになると松平信綱は考えたようだが、それなりの効果があったと思われる。

実際にポルトガルやイエズス会、あるいはスペインが背後でどう動いたかどうかは、具体的な記録がないのでよく分からないのだが、少なくとも江戸幕府はかなり早い時期から、島原の乱の背後に外国勢力やそれにつながる日本人キリシタンが存在し、その連携によりこの乱が全国に広がることを怖れていたようだ。

たとえば江戸幕府は、11月13日に山形城主保科正之、庄内藩主酒井忠当、四国松山藩主松平定行、今治藩主松平定房ら奥羽や四国の諸大名に国元への帰国を命じている。その理由は「天草蜂起による不慮に備える」ためであったというが、いずれもキリシタンの多い地域である。
特に警戒されたのはキリシタンの多い長崎で、中心に出島があり、ポルトガル商館があった。幕府方は兵力のかなりを割いて、日見峠など長崎につながる場所の警戒に当たったようだが、蜂起の直後に一揆の指導者の一部が戦列を離れ、商売人等に変装して、長崎に行っていた記録や、全国のキリシタンに蜂起を促そうとした記録があるという。

また、オランダ船レイプ号が有馬に到着した際に、幕府の作戦本部の司令塔であった上使戸田左門は、オランダ商館長に対しマニラ攻略の可能性を問いただしたという記録があるのだそうだ。(『オランダ商館日記』1638年2月24日[寛永15年1月11日])マニラはスペインの拠点であるルソン島にあるが、江戸幕府は、スペイン、ポルトガル両国とも敵であり、その拠点を叩きたいと考えていたようだ。

このように江戸幕府は、ポルトガルやスペインが島原に援軍を差し向けることを警戒していたようだが、当時の船の推進力は風であり、冬の季節は長崎からマカオに進めることができても、逆の方向は春以降まで不可能であった。もし一揆勢がもう少し持ちこたえていたら、外国勢力を巻き込んでもっと大規模な戦いになっていてもおかしくない。

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また、当時のわが国にはキリシタンがまだまだ各地にいて、この反乱が全国に飛び火するのを恐れていたのは幕府だけではなかったようだ。
服部英雄氏の『原城の戦いを考え直す――新視点からの新構図』という論考が次のURLにあるが、その中に熊本藩主細川忠利が仙台藩主伊達忠宗に11月12日付に出した書状が紹介され、そのなかで領内の転びキリシタンの動きを警戒せよと忠告していることがわかる。
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p178-197.pdf

細川忠利は細川忠興とガラシャの間に生まれ、幼少時にキリスト教の洗礼を受けた人物である。また書状の相手先である伊達忠宗の父・伊達政宗は、慶長遣欧使節を送り、あわよくばスペインと同盟を結んで、徳川政権にとって代わろうとした時期があった。この点については、以前このブログで詳述したので省略する。

このような史料を読んでいくと、教科書に書かれた「島原の乱」に関する叙述がかなり嘘っぽいことに誰でも気付くことになるだろう。

戦後GHQが、戦勝国にとって都合の悪い史実が書かれた大量の書物を焚書扱いにし、西洋諸国は良い国で、キリスト教は良い宗教で、日本だけが悪い国であったというスタンスで描かれた歴史に書き換え、そのような歴史叙述が、学校やマスコミを通じて広められたために、史実ではないことが日本人の常識となっていることが少なくないのである。

『島原の乱』に関する歴史叙述が、世界史の大きな流れを踏まえて、全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

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【ご参考】
伊達政宗には天下取りの野望があったことが、ローマ教皇に奉呈された日本のキリスト教徒の連書状を読めばわかります。興味のある方は覗いて見てください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html


関連記事

島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか

前回の記事で、島原の乱の「一揆勢」が短期間のうちにキリシタンに立ち返り、社寺を破壊し僧侶や神官を殺害した経緯は、キリスト教の教義にある「最後の審判」と関係がありそうなことや、彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも江戸幕府はそのように考えていたことなどを書いた。

「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量に保有していたからなのだが、では、彼らはこれらをどうやって調達したのだろうか。

島原の乱

「一揆勢」の突然の蜂起を鎮圧するだけの兵力がなかったために、島原藩は領民に武器を貸し与えて鎮圧しようとしたのだが、中にはその武器を手にして一揆軍に加わる者もいたという。しかし、そんなやり方で調達できる武器と弾薬はたかが知れている。
通説では「一揆勢」が島原藩の倉庫や富岡城から武器や弾薬を奪ったと書くのだが、そもそも島原藩の武器倉庫が無防備な状態にあったとは考えにくく、富岡城が落城したわけでもないのに大量の武器が奪えたことも考えにくい。大した武器を持たずに、城内の武器庫から大量の鉄砲・弾薬を奪えたとしたら、余程島原城や富岡城を守る兵士の中に多数の内応者がいたということしかありえないが、もしそうだとしても、満足な訓練もしてこなかった者が、鉄砲のような武器を使いこなせるはずがないのだ。
はじめから「一揆勢」がかなりの武器・弾薬を持っていて、しかも、かなりの訓練を受けていなければ、農民を中心とする部隊が正規軍を相手に戦えるはずがないのだが、それを頭から否定する論者に、かなり臭いものを感じている。

以前このブログで、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰の内容を紹介したことがある。そこには、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであり、そのためにはどのような方法を取るべきかが詳細に記されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

このクルスの考え方でイエズス会あるいはポルトガルスペインが戦う準備していたと考えると、全てが矛盾なく説明ができるのだが、私見を述べる前に、まずクルスの書簡のポイント部分を振り返っておく。文中の国王(陛下)はスペイン王フェリペ3世(当時スペイン王はポルトガル王を兼務し、ポルトガル王としてはフィリペ2世と呼んだ)を意味している。

16世紀日本地図

日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.140-142)

このようにクルスは、キリスト教を受けいれた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしているのだが、少なくとも当時の九州には有力なキリシタン大名が多数いて、その条件は整っていた。

ではどうやって勝利するというのか。クルスの文章は島原の乱の起こる38年も前に記されたものだが、この時点で島原の乱の舞台となった天草に注目しているのは驚きだ。

島原の乱地図

「このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

そのような拠点を確保したうえで、シナ[中国]をまず征服すべきだと説いている。
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服の事業のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。このシナ征服については、…次の3点だけを提言したい。
(1) シナを改宗させるためには、征服による以外に手段があるとは到底考えられない
(2) シナ征服を成就し得る武力は、日本から調達する以外にありえない
(3) このようなスペイン人と日本の国々との結束を見る者は、主がその信仰の大規模な宣布のためにそれを命じ給うたことを信ずることが出来よう。そして当地に充分基礎を固めた都市を所有することが、このような結果を作るきっかけとなる。…」(同上書p.149-150)

クルスはスペイン人なので、スペインが日本に拠点を持つべきだと最初に述べているが、ポルトガル人も同様に拠点を持つべきであるとし、九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視していることに注目したい。前回および前々回に記したとおり、島原の乱を主導したメンバーには小西行長の遺臣が多数いたこともあわせて考えるべきだと思う。

小西行長像

「…日本人はポルトガル人のことを、何ら征服の意図をもたずにマカオに居留していると思いこんでいるので、このような企てが成就する可能性は大きい。その上、この下(シモ:九州)が上(カミ)から離反すると信じられているが、もしそうなれば、下の殿達がポルトガル人にそのような基地を与えることは疑いない。またアウグスチノ津守殿(小西行長)が諸手をあげて志岐の港を彼等に与えることは間違いない。…」(同上書 p.150-151)

このブログで何度か書いてきたが、わが国の為政者はスペインにわが国を占領しようとする意図があることを読みとっていた。しかしポルトガルについてはそれほど警戒していなかったとクルスは述べている。その上でクルスは、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということにも言及している。彼の考えでは九州はポルトガルに任せるのが良いとしている。

ナウ船

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…」(同上書 p.154)

クルスの書翰がその後イエズス会でどのように取り扱われたかは知る由もないが、わが国のキリシタン大名を使ってまずシナを攻めることについては、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、秀吉の時代からスペイン国王に提案していたことを知るべきである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html
そして、シナと朝鮮半島がポルトガルかスペインの植民地とすることに成功すれば、次はわが国が狙われることになることは言うまでもないだろう。

彼らはまずシナを征服し、大陸で布教を拡げようと考えていたことは確実だが、征服するための武力については「日本から調達する以外にありえない」とクルスは断言している。では、彼らはシナに送り込む日本兵および武器・弾薬をどうやって調達するつもりであったのだろうか

もちろん徳川幕府が諸藩に命じてポルトガルとともに中国を攻めることはあり得ないことなので、彼らはキリシタン大名に頼らざるを得ないと思うのだが、もしキリシタン大名がポルトガル支援に前向きであったとしても、幕府の許可なくしては不可能だし、幕府の許可が出るとも思えない。

とすると、ポルトガルは徳川幕府の支配の及ばない地域をわが国の領土の中に確保するしか方法がない。すなわちキリシタン大名が支配する九州の一部をわが国から独立させるか、キリシタン大名の支援を得てポルトガルが支配する地域を九州に作らなければ、堂々と日本兵をシナに派兵できないのである。そのためには、彼らはどこかの時点で幕府と戦わざるを得ないことは誰でもわかる。

クルスの書翰で特に気になるのは、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長天草島の志岐港を与えることを確実視している点である。なぜこ小西行長の名前が出せたのだろうか。イエズス会と小西行長は、シナの侵略とその協力について相当話を進めていた可能性を感じさせる部分である。

もし彼らが、徳川幕府の支配の及ばない地域を確保し、さらに日本の武力を用いてシナを征服するためには、ポルトガルが大量の武器・弾薬をいざという時の為に蓄えていたと考えるのが自然ではないか。その武器が島原の乱に使われたとは考えられないか

ヴァリニャーノ

少し時代は遡るが、天正8年(1580)に大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進している。そしてイエズス会東インド管区の巡察師ヴァリニヤーノが同年の6月に日本準管区長コエリョに宛てて長崎を軍事拠点とせよという指令を出している

イエズス会の世界戦略

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその指令が翻訳されている。
「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

イエズス会マカオ要塞阯

こうして長崎に築かれたイエズス会の城塞は、天正16年(1588)に豊臣秀吉が長崎を直轄領にした際に破壊されたと思っていたが、1590年のオルガンティーノの書簡によると「火縄銃や弾薬、その他の武器で有馬の要塞の防御工事を行ない、有馬にはいくつかの砲門があった」とあり、さらにフランシスコ会のサン・マルティン・デ・ラ・アセンシィオンの報告によると、長崎は再び軍事要塞化されていたとある。上の画像はマカオに残っている17世紀に造られたイエズス会の要塞の址である。

フスタ船

高橋氏の『イエズス会の世界戦略』にアセンシィオンの報告の一部が引用されている。
イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(同上書 p.225-226)

このような記述を読むと、イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたことが明らかである。

高橋氏の著書では江戸時代におけるイエズス会の動きについては何も書かれていないのだが、この様な大量の武器弾薬をもし江戸幕府が分捕っていたらそれなりの記録があるはずなのだが、そのような記録は存在しないようだ。
また、イエズス会による火縄銃の訓練がいつまで続けられたかは想像するしかないが、江戸幕府がキリスト教の弾圧を高めたくらいで彼らが諦めて武器・弾薬ごとポルトガルに持ち帰ることは考えにくい。また、徳川幕府の記録では、島原の乱の乱徒は「三万七千名」と記されているそうだが、アセンシィオンの報告では、キリスト教徒たち「三万名の火縄銃兵」が訓練を続けたようなのだが、この数字が近いのは偶然ではないのではないか。

私の考えだが、この訓練で用いられていた大量の武器は島原か天草か、ポルトガル船など何箇所かに分散して隠されていて、訓練は江戸時代に入ってからも何らかの形で続けられていたのではなかったか。そう考えないと、島原の乱の「一揆勢」が島原藩や唐津藩などの正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか

島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。

前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。
しかし、熊本藩の記録『綿考輯録』によると幕府軍の総大将松平信綱は、オランダ船を呼び寄せて砲撃させたのは、『南蛮国』の援軍を心待ちにしていたキリシタン達に対し、同じ『南蛮国』であるオランダから砲撃させて、籠城勢の希望を砕くためであったと答えたという。

原城包囲の図

確かに、幕府軍が攻め急ぐ理由はなかった。単純に戦力を比較すると「一揆勢」37千人に対し幕府方は125千人もいて、すでに原城を取り囲んでいたのである。
普通に勝負すれば幕府方の勝利は確実なのだが、拙速で相手を窮地に追い込んでしまうと、死を恐れない一揆勢が大量の武器・弾薬を用いて最後の戦いを挑んでくることになる。そうなると、幕府側も多大な犠牲を避けられなくなってしまう。
松平信綱は、正面作戦をとらずに相手の戦意を挫く戦略で臨んだようである。

前々回の記事で、松平信綱は「一揆勢」に対し、なぜ籠城して幕府軍に反抗するのかと「矢文」で問いただしたところ、幕府にも藩主にも遺恨はない、ただ「宗門」を認めて欲しいとの返事があったことを書いた。
この返事に対して松平信綱は、キリシタンだけは決して承認しなかったという。

寛永15年(1638)1月21日に「一揆勢」から、城中の大将分3名を成敗される代わりに残りの籠城者は助命して欲しいとの申し入れがあったのだが、松平信綱ら幕府上使はそれを拒否し、さらに男子はすべて成敗されても良いから妻子を助命して欲しいとの申し入れをも拒否したことが、『肥前国有馬高求郡一揆籠城之刻日々記』に記録されているそうだ。

さらに2月1日に松平信綱は、熊本藩に逮捕された天草四郎の親族に書かせた手紙を天草四郎の甥・小兵(こへい)に持たせて原城内に派遣し、一揆に対して申し入れを行わせている。
その手紙の内容が、神田千里氏の著書に要約されているので紹介したい。
第一に去年・今年に原城内から逃げ出した『落人』は命を許され、金銀を与えられ、今年は在所で年貢を免除され、耕作に励んでいること。第二にキリシタン宗旨の者は全員処刑することに決められているが、以前『異教徒』であったのに無理強いにキリシタンにされた者は『上意』により助命するので、『異教徒』を城外に解放すべきこと、ただしキリシタンは殉教を選ぼうと関知しないこと、第三に一時改宗したものの、後悔して今は元の『異教徒』に戻りたいと思っている者もまた、助命すること、第四に天草四郎は、聞くところによればわずか十五、六歳の子供であり、人々を唆(そそのか)した張本人だとは思っていない、もし側近たちが擁立しているだけなら、四郎本人であろうと助命する、との四点である。」(『宗教で読む戦国時代』p.196)

原城に籠城している「一揆勢」には、「キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになった(『御書奉書写言上扣』)」人々や、戦争の惨禍を逃れるために避難した一般住民も含まれていたようだ。松平信綱は、キリシタンと異教徒とを区別し、キリシタンは許さないが無理やりキリシタンにされて後悔している者は許すと明言して、「一揆勢」を分裂させようとしたのである。

原城攻図

このような心理戦が功を奏してかなりの者が幕府軍に投降したという。
たとえば『池田家・島原陣覚書』には、「正月晦日に水汲みにかこつけて幕府軍に投降した者もおり、この者は、城内には投降を希望する者も多いが、監視が厳しいので投降が出来ないでいると語った」と記されているという。
神田千里氏の同上書には「一揆勢」の投降の事例がいくつか紹介されており、投降者は合計で1万人を超えていたと推測しておられるのだが、正確な人数については記録が残っていないので分らないようだ。

また神田氏の著書に、「一揆勢」に敵対した住民数多くいて、当初から幕府方に味方したことが記されている。
島原地方でみてみれば、島原城下町の住民は…町のリーダーたちを中心に藩側に味方し、島原城に籠城していた。また島原半島の北方、『北目』とよばれる地域の山田、森山、野井、愛津の4ヶ村は代官の桂田長兵衛、新甚左衛門に率いられて、一揆方の千々石村と戦っている。(『島原一乱家中前後日記覚』『別当杢左エ門覚書』)」(同上書 p.199)
天草地区でも同様に多くの住民が熊本藩に逃げてきたのだそうだが、このような住民間の対立があった史実を知ると、「島原の乱」は苛酷な年貢の取立てに起因するという通説がおかしいことに誰しも気づくことになるだろう。キリスト教徒の方は認めたくないこととは思うが、島原の乱」は宗教一揆であったと理解すべきなのである。

ところで寛永15年(1638) 2月21日に、原城から夜襲をかけてきた城兵を幕府兵が討ち取り、松平信綱の命令により城兵の死骸の腹を検分させたところ、海藻を食べていることがわかったという。兵糧攻めの効果が出て、「一揆勢」の食糧が尽きかけていることが明らかになったことから、松平信綱は2月28日に総攻撃を決定したのだが、佐賀藩の鍋島勢が抜け駆けをして、予定の前日から総攻撃が開始され、諸大名も続々攻撃に参加した。
兵力的に圧倒的な討伐軍による総攻撃により原城は落城し、天草四郎は討ち取られて、乱は一気に鎮圧に向かった。

しかしながら、この「島原の乱」における幕府方の犠牲は小さくなかったようだ。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の解説を引用する。
「…寛永14年(1637)12月20日の総攻撃には、(原城)城中の手負死人は17人であった。[山田右衛門作覚書*]これに反して、…(幕府方は)立花勢のみでも、主なる士28人討死、手負69人、雑兵手負あわせて380余人あった。2月21日、城中よりの夜襲に際しては、城中の手負死人430人、この内132人は城中に引き取った。[山田右衛門作覚書]而して征討軍の損傷は、比較的少なかった。
最後における、即ち2月27日、28日の総攻撃に於いては、諸方の討死1127人、手負7008人、合計8135人であった。[島原天草日記]而してこの役においては、牧野伝蔵、馬場三郎左衛門、榊原飛騨守、林丹波、石谷十蔵、松平甚三郎、井上筑後守ら、幕府から差遣したる目付その他の負傷者もあった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/236
*山田右衛門作:島原の乱において原城に立て篭もり、「天草四郎陣中旗」を描いた人物とされる。途中で一揆軍に疑問を感じ幕府軍に内通した。

天草四郎陣中旗

幕府方の死傷者については諸説あり、Wikipediaには「『島原記』によれば死者1,130人・負傷者6,960人、『有馬一件』によれば死者2,800人・負傷者7,700人、『オランダ商館長日記』では死者5,712人」と記されているという。

幕府方でも多くの犠牲が出たのは、「一揆勢」の鉄砲と弾薬がその原因なのだが、山田右衛門作覚書によると、
城内に鉄砲の数五百三十挺あり、玉薬正月末よりきれ申候あいだ、打ち申さず候。しかしながら、少しは嗜み、27日に打ち申し候」とある。弾薬は1月末から節約して、最後の総攻撃となった2月27日に再び用いたということだろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/233
また米についても正月十日頃より乏しくなってきたとあり、「一揆勢」が敗北するのは時間の問題であったようだ。

原城を陥落させた総攻撃で、天草四郎を討ち取ったのは肥後熊本藩の細川忠利配下の陳佐左衛門であった。細川勢は27日に原城の詰の丸の東端を乗り破り、28日に天草四郎の居場所を突き止めている。徳富蘇峰の同上書に『細川系譜家伝録』が引用されているので紹介したい。
「28日遅明、忠利出でて焼跡を見る。賊魁(ぞくかい)四郎廬舎(ろしゃ)あり。すなわち使いを信綱、氏鐡*に遣わして曰く、本丸已(すで)に焦土となる。しかも四郎が廬舎石壁を構うるを以て、未だ焼き尽くさず。即ち今火箭を放たんと欲すと。吉田十右衛門をして、之を射らしめた。陳佐左衛門四郎の首を斬獲す。午刻に及び城悉く平らぐ。諸軍凱歌を唱える。(『細川系譜家伝録』)」
*信綱、氏鐡:松平信綱(幕府軍上使)、戸田氏鐡(幕府軍副使)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/230

服部英雄

さて、この天草四郎の首は、見せしめのために晒されたのだが、その場所が興味深い場所なのである。
九州大学大学院の服部英雄教授の『原城の戦いを考え直す――新視点からの新構図―――』という論考にこう記されている。
「…天草四郎の首はポルトガル商館前に晒された。『オランダ商館日記』1638年6月15日条では『もっとも主要な人々の首4つは、約4千の他の人々の首とともに長崎に運ばれ、そして(若干は)棒に刺して梟しものにされた』とある。
 主要な首4つとは天草四郎とその姉、いとこ渡辺小左衛門、また有家監物である。(『長崎志』265頁他)その場所については出島橋または大波戸と書かれている。」(P.196)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p178-197.pdf

では、なぜ江戸幕府は天草四郎の首を、ポルトガル商館前に晒したのだろうか。前々回の記事で、江戸幕府は一揆の背後に外国勢力があると睨んでいて、原城に籠城した「一揆勢」は外国の援軍を待っていると考えていたことを書いた。

服部教授は、その外国勢力はポルトガルであったとし、こう解説しておられる。

首謀者たちの腐敗した首が、長崎大波戸の出島橋、すなわちポルトガル商館の前に晒された。この橋を渡る人間はポルトガル商館出入りの者のみだ。くわえてここは西坂のような獄門場ではない。すさまじく、重苦しい示威だった。敵対国への強烈な見せしめだった。
 そしていわゆる『鎖国』へ。ポルトガルは日本から放逐される。一方オランダは出島という場所に制限はされたが、通商が許された
。もし『鎖国』(海禁)がキリスト教の布教を恐れての措置だけだったのなら、明らかにキリスト教国であるオランダとの貿易は許されるはずはない。
…もっとも重要視されたのはオランダの持つ、対ポルトガル・軍事同盟者としての役割だった。オランダは明らかにキリスト教国であるにも関わらず、ポルトガルを排除し得る武力として、通商が許された。」

出島

今回の記事の冒頭で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことに触れた。この経緯は前々回の記事に書いたので繰り返さないが、この島原の乱を契機として江戸幕府はポルトガルと国交を断絶することとなり、寛永18年(1641)にキリスト教の布教を行なわないことを条件にしてオランダ商館やオランダ人を出島に強制的に移転させ、西欧諸国の中でオランダ一国に通商を許す時代が長らく続くことになるのである。
江戸幕府は、オランダがポルトガルやスペインと対抗関係にある事を利用して、ポルトガル、スペイン両国とキリスト教勢力を追い出したわけだが、もし江戸幕府が島原や天草の地をキリシタンの金城湯池のまま放置していたとしたら、この時代に九州がポルトガルかスペインの植民地になっていてもおかしくなかったし、中国大陸攻略の後はキリスト教国化した九州勢力とともにわが国本土が狙われていたことだろう。
オランダという新興国の「武力」を用い、微妙なバランスでわが国の独立を維持しようとした江戸時代の初期の外交政策は、もう少し評価されても良いのではないかと考える。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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