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江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した

Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

この記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ内容にかなり近いのだが、よくよく考えるとおかしな解説である。前半の文章ではこの政策によりわが国が「孤立状態」になったことを匂わせておきながら、後半では「実際には孤立しているわけではなく」と矛盾していることを述べているのだ。

Wikipediaの記述を読み進むと、こうも書かれている。
「『鎖国』という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年~1806年)が、1801年成立の『鎖国論』」(写本)において初めて使用した。…実際に『鎖国』という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及する時期は明治時代以降である。」

分かりやすく言うと、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の時代には、「鎖国」という言葉が存在せず、この言葉が本格的に使われようになったのは江戸幕末期に「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に「鎖国」という言葉が広まったということなのだ。

学生時代に「鎖国」を学んだ際には、教科書に「鎖国令」という言葉が使われて、Wikipediaにも第一次から第五次まで五回に分けて「鎖国令」が出たことが解説されているのだが、実際には、江戸幕府は「鎖国令」という名の布令を一度も出していないのである。

では、家光の時代に出されたという五回の「鎖国令」とは、いったいどのような内容であったのか。上記のWikipediaの解説ではこう記されている。

「1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船*以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた
1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた
1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す
1637年~1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。」
*奉書船: 将軍が発給した朱印状に加えて、老中の書いた奉書という許可証をもった船

江戸幕府は「鎖国令」という名の布令は出していないにもかかわらず、後世の歴史家がこれらを「鎖国令」と呼んでいるだけの話なのだが、外国との貿易を制限し統制することと、国を閉ざすこととは異なることは言うまでもない。

国民の歴史

西尾幹二氏は『国民の歴史』で次のように述べているのだが、この指摘は全く正しいと思われる。
「第一『鎖国』という言葉は当時存在しなかった。幕府は『寛永十年の令』『寛永十六年の令』といった渡航禁止令や蛮族打払いの令を出しただけである。しかも、これら政策の立案者にも、実行者にも、国を閉ざすという意識がまったくといっていいほどなかった。『寛永の令』は国を閉ざしたものではなく、ポルトガルとの断交を意味したにすぎない
 そんなことは江戸時代史を学ぶ学者ならみな当然知っていることであり、知らなくてはならないことではないか。それなのに教科書から専門書に至るまで無反省に『鎖国』という文字を濫用するのはなんという学問上の思慮の欠落であろう。まず幕藩体制について『鎖国』という用語を日本のすべての歴史書からことごとく追放することを提言したい。
幕府がキリシタン禁止令を決めたこと、貿易を一手に国家統制下においたこと、日本人の海外渡航の自由を禁じたこと―――これらの事実はまちがいなくあった。しかしそれは『鎖国』という言葉では表現されていなかった。それらの事象が意味するものは日本の“守り”であると同時に“余裕”である。幕府が海外交渉のあるべきかたちを求めつづけ、必要とみて断乎実施した外交政策上の積極的な表現にほかならなかった。外国の怪しげな諸勢力が侵入するのを拒絶する自由独立の意志の表現であると同時に、17―18世紀にかけて主権国家体制をとり始めた西欧各国と歩調を合わせ、日本が統一国家としての体制を確立せんとしていた証拠である。…」(産経新聞社『国民の歴史』p.402)

もしわが国が、家光の時代に外国との貿易を厳しく制限していたのなら、その後の貿易高は大幅に減らなければおかしいところだが、「鎖国令」の後も、わが国の海外貿易は活発に行われていたようだ。

内田銀蔵

大正8年に出版された内田銀蔵氏の『近世の日本』に、「鎖国令」が出された後にわが国がどのような交易を行なっていたかが記されている。

「…いわゆる鎖国後におきましても、引き続いて日本に来ることを許されておりましたオランダ人およびシナ人に対して、直ちに貿易の額を制限するとか、渡航船の船数を限るということはしなかったのであります。いわゆる寛永の鎖国には、経済上の理由というものはない。そのゆえにいわゆる鎖国後しばらくの間は、長崎におきましてオランダ人およびシナ人の商売はなかなか盛んに行われていたのであります。その貿易に制限を置くようになりましたのは、その後この方から向うにやります品物の欠乏を告ぐることとなり、それからいたしまして貿易の額を限定し、あるいは渡航船の数を限るということになったのである。即ちそれはやや後のことであって、寛永*からそういうような制限をしたのではない。
 なお、この貿易のことにつきまして、簡単に申してみますと、当時シナ人はすでに南洋方面に頗(すこぶ)る移住しておりまして、東南アジアの各地において盛んに商売をしておった。この東南アジアの方に参っておったシナ人は、やはりシナ人として船を長崎によこして商売をすることを許されていた。そのゆえに、実はシナと通商関係を保ったということによりまして、日本はある程度まで東南アジア一帯の地と経済上の関係を持っておったのであります。彼等シナ人はシナ本土の貨物、ならびに東南アジアの産物を色々持ってまいりました。つぎにオランダ人は買い継ぎをしますことが頗(すこぶ)る得意でありまして、彼らは決してオランダ本国のものだけを持って参ったのではない。アジアの各地の産物を持って、日本に来たことであります。西洋の貨物も、オランダ以外で作った品をも持参したのである。」
*寛永:寛永元年(1624)~寛永21年(1645)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981125/50

貿易の相手国がオランダと中国の2国に限定されたものの、その2国については貿易の額や渡航船に関する制限はなく、わが国に西洋や東南アジアの産物が大量に運ばれてきて、盛んに交易がなされていたのである。

出島

当時の主な輸入品は、木綿、生糸、絹織物、砂糖、茶、香辛料、陶磁器などで、これらの商品をわが国は主に金、銀、銅で購ったわけだが、江戸幕府がポルトガル船の入港を禁止した「第5次鎖国令」以降の方が、わが国の対外貿易高は増加しているということを初めて知った時は驚いた。

大石慎三郎 江戸時代

大石慎三郎氏の『江戸時代』には、鎖国についてこう解説されている。

「戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島国日本ははじめて世界史にとりこまれることになった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史にとりこまれたという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難問に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして“鎖国”という体制はその解答であった。
“鎖国”という言葉の持つ語感から、われわれはわが国が、この行為によって諸外国にたいして国を閉ざして貿易、交通さえしなかったと誤解しがちであるが、鎖国の方がその前よりわが国の対外貿易額は増えているのである
。また江戸時代の“鎖国”なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。
 “鎖国”とは一度とりこまれた世界史の柵(しがらみ)から、日本が離脱することだけでなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり“鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への“開国”であったとすべきであろう。…」(中公新書『江戸時代』p.19-20)

「鎖国」という言葉を読み下すと「国を鎖(とざ)す」となり、世界の中で孤立した状態を連想してしまうのだが、江戸幕府が寛永期に行った対外政策は、「国を閉ざす」というものではなく、わが国にキリスト教が流入し侵略の種を蒔かれることを阻止するために、貿易を幕府のコントロール下に置いたと考えるべきではないだろうか。

鎖国

「鎖国」に関して私が子供の頃から何度も聞かされてきたのは、「鎖国は日本の損失であった。もし日本が鎖国をせず、広く西洋文明を取り入れていたならば、もっと日本はもっと発展していたはずだ」という類の議論だが、このような偏狭な西洋文明至上主義的な発想でこの時代を論じることが正しいとは思えない。

もし戦国から江戸時代にかけて諸大名が自由に外国と交通できる状況が放置されていたら、早い段階でわが国の一部が西洋の植民地となっていたことだろう。大石慎三郎氏が述べている通り、この時期の西欧は「メキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴極まりない存在」であり、このブログで何度か紹介してきたように、わが国においてもこの時代に、多くの住民が奴隷にされ、寺や神社や仏像などが大量に破壊されたのである。
江戸幕府が寛永期に行った外交・貿易に関する諸施策については、マイナス面があったことは認めるが、マイナス面だけを見てプラス面を充分に考慮しない歴史叙述は誤りだと思う。

ところで、西尾幹二氏が「学問上の思慮の欠落」と痛烈に批判した「鎖国」に関する歴史叙述については、最近の教科書の世界ではかなり改善されてきているようだ。

オランダ船

例えば『もういちど読む 山川日本史』のp.160~162では、「鎖国令」という言葉は使われておらず、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航と、国外にいる日本人の帰国が禁じられ、寛永16年(1639)にはポルトガル船の来航が禁止され、その結果、「朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられ」、中国船からの輸入額が年々増加して次第に制限が加えられるようになったことが記されている。
『山川日本史』では、寛永期のこのような一連の政策を「鎖国政策」と表現してはいるが、注釈で「鎖国」という言葉の適否について議論がある事も述べた上で、「幕府はここ(長崎)を窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、…オランダ風説書によって海外の事情を知ることが出来た」と、昔の教科書と比べると、随分改善されていることは素直に喜びたい。

しかし、いくら教科書の叙述が代わったところで、多くの国民はその変化を知る機会を与えられているわけではなく、「鎖国令」が1639年に出されたという昔の教科書や参考書の記述をそのまま鵜呑みにして人が大半だと思う。高校や中学の教科書をこっそり変えられても、国民の常識とまでなってしまった「鎖国」のイメージは簡単には崩れない。
教科書の記述を全面的に変える時は、せめてマスコミなどでも大きく採りあげて、昔学校で教えていた内容が誤りであることを、何度も大きく伝えて欲しいものである。

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【ご参考】
このブログで長崎の出島のことを何度か書きましたが、この出島にオランダ商館医として来日したドイツ人のシーボルトは来日した翌年に鳴滝塾を開設し、高野長英ら、多くの弟子を育てただけでなく、わが国が欧米に侵略されないように尽力しました。良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html


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シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。

島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、カピタンのほか十数名のオランダ人が住んでいたのだが、閉じ込められていたという表現の方が正しいのかもしれない。

シーボルト

のちにオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたドイツ人のシーボルトが著した『日本交通貿易史』という本が、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されている。この本の第7章に、オランダ人が平戸から出島に居住されられた時のことが記されているので紹介しておこう。文中のル・メールはオランダ商館長である。

1641年5月11日、ル・メールは商館とともに平戸を発して長崎に至るべき命令を受けて、同月21日にこれを実行せり。出島という小島はその数年前にポルトガル人のため国立監獄の如きものとして築かれたるなるが、今はオランダ人の居住のために指定されたり
 彼らここに到着するや、またしても甚だしき侮蔑を受けたり。余は彼らの正統なる抗議を1642年総督ファン・ヂーメンが将軍の老中に宛てたる陳情書中に言いたるとおり、正しく翻訳して次に出だすべし。
『我らは長崎に到りしとき、ポルトガル人の住みし出島を居住地として指定され、ここにて監視され、何人とも話するを得ず、ポルトガルよりもなお悪し様に待遇せられ、何か悪事をなし日本国に取りて危険なる人物の如くに取り扱われしは。これ吾人を侮蔑し吾人に大損害を与えつつなされたるにて、吾人はこの島の借賃として5500両を徴めさせられたるが、これ、わが貿易の甚だしき損害なり。』
『右出島にて、また船の舷上にて神の奉仕を禁ぜられたるは我等を悒鬱(ゆううつ)ならしめ、また我らが古来の自由自主に反するなり。陸上にても舷上にても、我らの死者は海中に沈めねばならず、日本の土地はオランダ人には恵まれず。我が船舶は長崎に投錨するや、厳重に捜査せられ。船上の帆は封印せられ、櫂・舵は揚げられて、再び帆を張らねばならぬその日の確定するまで、陸上に蔵め置かる。船が検査を受けて荷卸しもすめば、我らの荷物および士官たちは検査官のため、何の訳なくに、犬の如くに棒にて打ちのめされ、そのため色々の悶着も起こることあり。我らは船の上において、そこに流鼠されたる如く、検査官に予めもうしいれずば、他の船にも陸地にも行くこと叶わず。』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/95

ある程度誇張もあるのだろうが、オランダ人が長崎奉行から相当ひどい扱いを受けたことは読めばわかる。そのような扱いを受けながら、出島の賃借料を5500両も払わされたというのだから、オランダ人も我慢の限界だったのだろう。

オランダ領インド総督ファン・ヂーメンが江戸幕府の老中に宛てたる陳情書として長崎奉行に提出した文書の最後にはこう書かれていたという。

されば我らは日本より立退くか、またそこに留まるか決せざるべからず。いずれにせよ我らは次の年に地位高き人物に数個希珍物を添えてこれを長崎に送りて、将軍ならびに各高官閣下に敬虔なる訣別を陳べ、もしまた昔年の如き自由にて用命を受くる様にてもあらば、なお永く日本に往来して、我恭順なる恩謝を効すべし。…」

また、総督は長崎奉行に対してはこのように伝えたという。
もし陛下にして自国に於いてキリスト教国人に貿易を許さざる心積もりならば、我らはこれを諒として之に応ずべく、帰去・更来の準備は既に成り居るなり
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/96

このような書状を提出したということは、ここまで書いてもわが国から譲歩を引き出すことが出来ず、このような待遇が続くのであれば、オランダは日本を去る覚悟があったということであろう。

オランダ総督の陳情書は江戸に送られず長崎奉行で処理され、オランダ人の待遇も以降はかなり改善されたようだ。そして陳情書を出した翌年の1643年はシーボルトの前掲書には「オランダ人が出島にて経験せし利潤最も多き年のひとつにて、貿易史上の白眉とも言うべきなりしが。」と書かれている。
要するに、長崎奉行はオランダに充分な経済メリットを与えて、オランダをわが国に止め置こうとしたのである。

しかし、オランダ人の待遇が改善されたとはいえ、狭い小島で自由のない生活を強いられていたことには変わらなかった。

desima.jpg

シーボルトは前掲書にこう述べている。
商館の入口の前には厳重なる布令をうち、門番は長崎市街連絡をさえぎり、オランダ人は緊要なる理由なく、奉行の許可なくば門より出づるあたわず。日本人はオランダ人の家に宿泊すべからずして、そはただ公娼にのみに許さる。これに加え我らは国事犯人の如くに出島の内に厳かに監視され、日本人は彼らと日本語にて、しかも保証人(政府の隠密)なくば話しするを得ず、また彼らの家を訪問するを得ず。奉行の下人は倉庫の鎖錀を預かりて、オランダの商人は我が所有物の持ち主とも言い難き状況にありたり。しかるにオランダ人はすべてこれ一時の事柄にて、しばらくすれば過ぎ行くべきものならんとてこれを堪え忍び、長崎奉行、少なくもその下僚は、時々それを然かあるべきことの様に欺瞞して、オランダ人の希望を堅くせしめ。意気消沈し、不満に堪えざるに至れば、思い設けぬ貿易の利潤を啗(くら)わしてこれを励ますによりて、彼らはいつもつも今よりはよき時の来るべきを望みて、物質的利益もて自らを慰めたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/100

このレベルでオランダ人の待遇が改善されたとは思えないのだが、長崎奉行は、彼らが不満を持ちそうなタイミングで儲けの良い取引をさせるなどして、うまくオランダ人を操っているつもりであったかもしれない。しかしながら、彼らは何度も不満を漏らしながらも、わが国との貿易で結構儲けていたのである。

シーボルトの前掲書にはこう記されている。
出島を通して日本となせし貿易は、この如き制限ありしに関わらず、長き年月オランダ領東インド会社に著しき利益を致し、金の輸出、銀の輸出も制限に制限を受けたれど、日本の銅は全インドを通じて価値騰貴したれば、日本銅の豊富なる輸出はこの損害を利潤にかえなしたり。銅の輸出は銀の自由に充分に輸出されし時代に於いても銀の輸出よりも利益有りたるが如く、今もなお輸入を棒銅に代えることは貨物を高価に金銭その物にて支払うよりも利益多きなり。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/101

オランダがわが国から輸入したのは銅と樟脳が大半だったのだが、シーボルトによると、わが国から輸出される銅の品質が評価されて世界で高値で取引されるようになり、オランダはその銅で儲けていたのである。

adam-smith.jpg

日本の銅をヨーロッパに持ち込んだのはオランダの東インド会社であるが、住友グループ広報委員会のHPに、1776年に刊行されたアダムスミスの『国富論』の第1編第11章に、日本の銅のことが書かれている部分が紹介されている。

「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない
http://sumitomo.gr.jp/magazine/feature02/index.html

18世紀には日本の銅の品質の良さが世界で知られていたわけだが、いくら高品質でも少量では、ヨーロッパの銅価格を動かすほどの存在にはなりえない。ということは、わが国は世界の銅相場を動かすほど大量の銅を海外に流出させていたということになるのである。
では、どの程度の取引がなされていたのであろうか。

日本伸銅協会のHPによると、「1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況でした」と解説されている。
http://www.copper-brass.gr.jp/shindouhin/history.html

江戸時代の銅輸出実績

独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が作成した「銅ビジネスの歴史」というレポートが公開されていて、わが国の銅の需給状況の変遷が詳細に纏められて、ネットで公開されている。
その第2章「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」のp.54の表2-4に「江戸時代の銅輸出実績」が出ていて、元禄10年(1697)の銅輸出量はそれまでの年と比べて突出しており、890万斤(5340トン)もの輸出がなされていることがわかる。
http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2006-08/chapter2.pdf

主要2銅山の生産推移

一方、わが国の銅の生産はどうであったか。
同じレポートのp.53の表2-2に「主要2銅山(足尾銅山、別子鉱山)の生産推移」が出ているが、この2つの銅山を合算した生産量は、1688~1701年の14年間で29,962トン、1年平均で2,340トンに過ぎなかったことがわかる。
元禄期の日本人は、オランダや中国が運んできた商品に飛び付き、その支払額はわが国の銅の生産能力を遥かに超えていた
のである。

JOGMECの同レポートによると「17世紀後半から18世紀前半までは、日本が世界第1位の銅生産国であったと推測できる」(p.54)とあるのだが、再生産が不可能な天然資源である銅を、国力の限界に近いところまで輸出して海外との交易を行なっていたわが国が、「鎖国令」のもとで国を鎖していたと考えることはおかしなことだと思う。

新井白石

拡大するばかりのオランダや中国との貿易を現状のまま放置しているとわが国の貴重な資源が枯渇してしまうことを怖れて、この取引に制限をかけようとしたのが新井白石である。

Wikipediaの「海舶互市新例」にこう解説されている。

「当時は鎖国中であったが、オランダと清とだけは長崎で貿易が行われていた。当然、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年*4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば、わずか60年間で金239万7600両・銀37万4200貫**が国外に流出しており、そして100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅についても、45年間で11億1449万8700斤**に及んでいた。…
白石は、これを野放しにしておけば、あと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまう、と懸念して貿易制限を提案する。その後紆余曲折の末、1715年(正徳5年)、海舶互市新例(長崎新令)を定めた。」*宝永6年:西暦1709年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B
*宝永6年:西暦1709年
**1貫:3.75キログラム  1斤:600グラム

Wikipediaの上記記事によると、この海舶互市新例によって、江戸幕府は年間の貿易枠を次のように定めたとある。わかりやすいように単位をトンで併記しておく。
清  国:年間30隻、取引額は銀6000貫(22.50トン)
オランダ:年間2隻、取引額は銀3000貫(11.25トン)

ところが、その後わが国の銅の生産量が大幅に減少していったため、この貿易枠がさらに削られていったのである。

江戸幕府の銅輸出許可割り当て

先程のJOGMECのレポートのp.54に江戸幕府の銅輸出の許可割り当てが出ているが、ピークの1697年には5340トンもあった銅の輸出が短期間で8割方カットされていることがわかる。しかし、それは銅の生産量が激減したことが背景にある。

先程紹介した主要2銅山の生産推移を見てみると、18世紀の終わりには足尾銅山の銅がほとんど採れなくなり、19世紀には銅の生産を中止していることは重要なポイントである。

この時代にわが国の産品で海外に輸出できる商品は貴金属と樟脳ぐらいしかなかったのだから、銅が採れなくなれば、貿易額が縮小されることは当然のことであった。
言葉を変えて言うと、わが国は、いわゆる「鎖国」後も、相手国はオランダと中国の2国だけではあったが、国富・国力の限界に近い水準まで貿易を行なっていたのである。

オランダ船の入港

もしわが国が徳川家光の時代に「鎖国」を選択せず、その後も独立国家を維持できていたとしても、貴金属の生産量で貿易量が制限される点については同じことで、普通の商品売買においては、貿易を自由にできるようにしたところで貿易高が大幅に拡大するわけではないのである。

前回の記事で、「鎖国」という言葉が本格的に使われるようになったのは幕末期で、18世紀までは「鎖国」という言葉すらなかったことを書いたが、つまるところこの言葉は、「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に広められたと考えて良い。
わが国はオランダを除く欧米列強から見れば国を鎖していたのかもしれないが、わが国全体としては、家光の時代からずっと「鎖国」をしていたという表現が適切であるとは思えない。

しかしながら、日本史の教科書や通史には、江戸時代の「鎖国令」以降、世界の銅相場を動かすほどわが国の貿易高が拡大したという史実がどこにも書かれていない。わが国の一般向けの教養書では「江戸幕府は鎖国令を出して外交・貿易を制限し、世界の中で孤立していった」的な通説に矛盾する史実はほとんどが無視されていると言って良いのだが、その理由はどこにあるのだろうか。

このブログで、幕末の欧米列強は明らかにわが国を侵略する意図を持っていたことを何度か書いてきた。その意図を隠して彼らの為したことを正当化させるためには、わが国が問題国であり、その国を開国させることに義があったという物語を描こうとするはずだ。同様に明治維新を成し遂げたメンバーが彼らの改革を正当化するためには、江戸幕府が無能であり、討幕することに義があったと書こうとするだろう。

「鎖国」から「開国」につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にし無能とする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとって都合の良い歴史であって、戦後の長きにわたりわが国の学界やマスコミや教育界は、この視点に立った歴史叙述を無批判に受け入れ、拡散してきたとは言えないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合悪い史実を封印し、都合の良い歴史を編集して国民に拡散する傾向にある。したがって、勝者が広めようとした歴史叙述を学んでも、それが真実であるという保証はないのだ。
真実は、勝者が広めようとした歴史と、封印しようとした歴史の双方をバランスよく学び、その違いを知ることによって、少しずつ見えてくるものではないだろうか。
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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アメリカ人が王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇と日本~~GHQが封印した歴史5
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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シーボルトと日本の開国
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文化財の宝庫・室生寺とそのルーツを訪ねて

室生寺のことを調べていると、久しぶりに奈良に行きたくなって、先日、室生寺にゆかりのある寺社と、私が訪ねたことのない近くの奈良の古い寺社などをおりまぜて、1泊2日で周ってきた。

朝早く自宅を出て、最初に訪れたのは室生寺の末寺である大野寺(おおのじ:0745-92-2220)。かつては室生寺の西の大門とも呼ばれていたという寺だ。

寺伝によるとこの寺は、白鳳9年(681年)に役小角(えんのおづぬ)により創建され、天長元年(824)に弘法大師が堂を建立して本尊弥勒菩薩を安置し「慈尊院弥勒寺」と称したのがはじまりだとされている。

大野寺

これが大野寺の本堂だが、残念ながらこの寺は明治33年(1900)に火災に遭い、現在の堂宇はその後再建されたものである。中には国重文の木造地蔵菩薩立像が安置されているという。

境内には、樹齢300年を超える小糸桜や、樹齢100年の紅枝垂れ桜が30本もあり、桜の季節には多くの観光客が訪れるという。

この寺を訪れたかったのは、宇陀川を挟んだ対岸の正面の巨岩に彫られている、像高約11mの弥勒如来立像(国史跡)を観賞したかったからである。

大野寺石仏

この磨崖仏は、興福寺の僧・雅縁が笠置寺の磨崖仏を模して造立する事を発願したといい、承元元年(1207)10月から1年かけて、宋人の石工伊行末(いのゆきすえ)とその一派が線刻を施したという。承元3年(1209)3月7日の落慶供養には後鳥羽上皇の御幸があり、盛大に行われた記録があるという。それから800年以上が経過しているにもかかわらず、今も線刻がしっかりと確認できる。
しかし、この大野寺の磨崖仏も地下水の滲出等で剥落する危険があったため、1993年から1999年にかけて保存修理工事を実施したという。その工事によって地下水の流路が変わって、ようやく線刻が鮮明に見えるようになったのだそうだ。

室生寺境内

この大野寺から車で10分ほど走ると室生寺(045-93-2003)がある。

室生寺仁王門

朱塗りの太鼓橋を渡り、右に進んで昭和時代に再建された仁王門を潜ると、左にばん字池と石段が現われる。鎧(よろい)坂と呼ばれるこの石段を登ると、左に弥勒堂(国重文)、正面に金堂(国宝)がある。

室生寺弥勒堂

弥勒堂は鎌倉時代前期に建立された建物で、中央の厨子に木造弥勒菩薩立像(国重文)があり、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)が安置されている。

室生寺金堂

金堂は平安時代前期の建物で、内陣には中央に木造釈迦如来立像(国宝)が、向かって左には木造文殊菩薩立像(国重文)・木造十一面観音菩薩立像(国宝)が、右には木造薬師如来立像・木造地蔵菩薩立像(ともに国重文)が安置されているがいずれも平安時代前期の仏像である。
そして5体の平安仏の前には鎌倉時代の十二神将立像(国重文)が並んでおり、本尊の背後の板壁には国宝の帝釈天曼荼羅図が描かれている。

室生寺ポスター

上の画像はJR東海が2009年に制作した室生寺キャンペーンのポスターだが、ここに写っているのは、室生寺金堂の内陣である。

最近は古刹を訪れても、国宝などの仏像がガラスケースに入れられて、宝物館で拝観するケースが多くなっているのだが、室生寺の良いところは、観光客と文化財である仏像との間に遮るものが何もないところである。
金堂だけではなく室生寺の他の堂宇もそうなのだが、千年以上の歴史のある仏像などが、参拝者の目の前に祈りの対象として存在し、観光客は昔の人と同様に、これらの仏像に手を合わせることが出来る。この当たり前のことが出来る空間が、ずいぶん減ってきていることは悲しいことだ。

室生寺本堂

金堂から石段をさらに登ると国宝の本堂がある。鎌倉時代の延慶(えんぎょう)元年(1308)に建てられもので、内陣にある厨子には、御本尊の木造如意輪観音坐像(国重文)が安置されている。密教系の6本の腕を持った仏像で、観心寺(大阪)・神咒寺(かんのうじ:兵庫)の如意輪とともに日本三如意輪の一つと称されているのだそうだ。

室生寺五重塔

本堂左の石段を登って行くと、国宝の五重塔が姿を見せる。この建物は室生寺の草創期である9世紀前半頃に建てられたとされ、屋外に建てられた五重塔としては法隆寺の塔に次いでわが国で2番目に古く、高さは16.1mで、屋外にあるものとしては日本最小なのだという。
この塔は平成10年(1998)の台風による倒木で大きな被害を受けてしまったが、2年後に修復されて、今も色鮮やかである。

ここで、少しばかり室生寺の歴史を振り返ってみよう。
室生寺の草創期については『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)という文書に記録があり、それによると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、皇太子山部親王(やまべしんのう)の病気平癒のため、5人の僧侶が室生の龍穴にて延寿法(えんじゅほう)を行なったところ、親王は龍神の力で見事に回復したという。
そこで朝廷の命で興福寺の僧賢璟(けんけい)がこの場所に寺院を造ることになったのだそうだが、その後賢璟が没し、山部親王は即位をして桓武天皇となり、この寺の造営は興福寺の僧・修円に引き継がれ、それから相当の年月をかけてこの寺の伽藍が整えられたと考えられている。

以降、室生寺は興福寺の僧侶を中心とする修業の場として発展したのだが、江戸時代に、5代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん)の命により興福寺から分離独立し、当時女人禁制であった高野山とは異なり、女性にも開けた寺として「女人高野」と呼ばれるようになったのだそうだ。

このような室生寺の歴史を知ってから、室生寺のルーツとも言える「龍穴」を祀る、室生龍穴(むろうりゅうけつ)神社に興味を覚え、今回の旅行で是非訪れたいと思っていたので、今回の旅行では室生寺の奥の院をカットして旅程に入れていた。

室生龍穴神社正面鳥居

室生寺から室生川に沿って東に1kmほど進んだ場所に室生龍穴神社(0745-93-2177)がある。
この神社は室生寺よりも古く、この神社の上流に龍神が住むと伝わる「龍穴」があり、古代からこの場所が聖地とされてきたようだ。

そしてこの神社は請雨の神として国家的崇拝を受けてきた記録が残されている。

『日本後紀』をネットでテキストを探して「室生」で文字検索を試みると、嵯峨天皇の御代に室生で雨乞いをした記事がヒットする。

巻第二十六の弘仁8年(817)6月の記録
六月己未朔、庚申。遣律師伝統大法師修円於室生山祈雨。(6月2日 律師伝灯大法師位修円を室生山に派遣して、祈雨をした)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.40)
この雨乞いの祈禱をした修円は、先ほど紹介した、室生寺の草創期に伽藍を整えた興福寺の僧のことである。

また巻二十七の弘仁9年(818)7月の記録。
丙申。遣使山城国貴布禰神社・大和国室生山上竜穴等処。祈雨也。(7月14日 使いを山城の国の貴布禰神社・大和国の室生山上の竜穴等に遣わして、祈雨を行なった。)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.57)
「貴布禰神社」というのは京都の「貴船神社」の事だと思うが、どうやら室生の「龍穴」は、貴船神社とともに日本有数の雨乞いの聖地のような存在であったようだ。

室生龍穴神社

上の画像は寛文11年(1671)の建立と伝えられている本殿で、奈良県の文化財に指定されている。
また、この神社の狛犬もまた素晴らしい。

室生龍穴神社狛犬

このように由緒ある神社なのだが、社務所は無人だった。あまり寄付が集まっているようではなさそうだが、過疎化の進む山合いの地で、このような歴史ある文化財を後世に守り伝えることは大変な事だと思う。

「龍穴」へは、神社の境内から山に入る道があるだろうと思っていたのだが、境内からは聖地に繋がる道がないようだった。

境内を見渡すと「龍穴」への案内地図の看板があるが、わかりにくいので地元の人に聞くと、この神社から28号線をさらに東(室生寺と反対側)に400mほど進むと途中で左に折れる道があり、その山道をまっすぐ進むと「龍穴」があるという。その道は舗装されているとのことだったので車で行くことにした。

道は決して広くはないが、対向車はほとんどなく、待避所もいくつかあるので、運転は心配なかった。

「龍穴」に向かう途中で、天照大神が籠もったとされる「天の岩戸」と呼ばれる巨石があり、その巨石が見事に2つに割れている。

天の岩戸

そこから少し進むと「龍穴」の入口を示す鳥居がある。この辺りは道幅が広くなっていて、2-3台の車は路肩に駐車が可能だ。

室生龍穴

鳥居を潜り川の方向に進むと遥拝所があり、そこから「龍穴」を拝することになる。
上の画像が「龍穴」で、大きな岩にぽっかりと洞穴が開き、しめ縄が架けられている。
この辺りには土はほとんどなく、一帯が大きな岩のようで、岩の割れ目が龍の鱗のようにも見える。

招雨瀑

遥拝所の右手には、巨大な岩盤の上を滑るように水が流れ落ちていく「招雨瀑」(しょううばく)という小さな滝がある。

この滝の上もずっと岩山であり、いかにも巨大な龍が「龍穴」に向かって何度もここを通ったために、岩が平らになっているようにも見える。
何万年かかって自然が造りあげたのだろうがなかなか見事な眺めで、この地に神が宿っていると考えて、古代の人々がこの地を大切にしてきた気持ちが伝わってくる。この日は水量が少なかったが、雨上がりの後の水量の多い時にはかなり見ごたえがありそうだ。

室生寺を訪れる観光客は多くても、その近くに千年以上前から歴史に残される祈禱が行なわれた場所があり、それが室生寺のルーツであり、今も手つかずの自然が残されていることを記した旅行書のようなものがないので、この地を訪れる人はほとんどいないと言って良い。
室生寺に行く予定のある方は、古代の日本人が祈りをささげて来たこの場所に立ち寄ってみられてはいかがだろうか。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。奈良県に興味のある方は覗いてみてください。

奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-127.html

国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて
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東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」
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奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html



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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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