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高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて

前回の記事で『藤原京の聖なるライン』のことを書いた。すなわち壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路の延長線上にあり、そのライン上に天武・持統天皇陵や高松塚古墳・キトラ古墳など天武朝の皇族に関係する古墳が点在する。

壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。
飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も無料であることは有難い。

飛鳥歴史公園

駐車場から高松塚古墳までは歩いて5~6分程度だが、思った以上に緑が多くて、軽いハイキング気分で歩けるのは楽しいものである。

高松塚は小さな古墳なのだが、昭和47年(1972)の発掘調査で彩色壁画が発見されたことで一躍有名になった。石槨内部の天井と側面には漆喰が塗布され、その上に彩色された高松塚古墳壁画(国宝)が描かれているのだが、もちろん本物を見ることは叶わない。

高松塚壁画館

古墳の西側にある『高松塚壁画館』に入る。そこに国宝高松塚壁画の模写、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬品のレプリカなどが展示され、高松塚古墳の全貌がわかりやすく再現されている。

Takamat1.jpg

今まではテレビや書物などで何度見たかわからない壁画なのだが、レプリカとは言え実物大の絵はなかなか迫力がある。

高松塚古墳

そのすぐ近くに特別史跡『高松塚古墳』がある。
思いのほか小さな古墳で、鎌倉時代頃に石室の南壁に盗掘された孔が開けられていたのだそうだが、孔があったにもかかわらず、よくぞ壁画の彩色が、1300年以上の時を超えて鮮やかに残されていたものだと感心する。

ところでこの高松塚古墳の被葬者が誰であるのかについては諸説があるという。
Wikipediaによると、古墳が造られた時期については「2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された」のだそうだが、被葬者については、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説や、臣下の石上麻呂だとする説や朝鮮半島から来た王族の墓とする説などいろいろある。
しかし、この古墳が、ほぼ『藤原京の聖なるライン』の上にあるので、天武天皇の皇子の可能性を考えたくなってしまうところである。

石上神宮

『藤原京の聖なるライン』を離れて、天理市にある石上(いそのかみ)神宮(0743-62-0900)に向かう。
この神社は桜井市の大神(おおみわ)神社と並ぶ日本最古の神社とされているのだが、その理由は『日本書紀』の第十代崇神天皇の記述の中に大神神社と比定される神社があり、第十一代垂仁天皇の記述の中には『石上神宮』が実名で出てくるからなのであろう。

『日本書紀 巻第六』垂仁天皇39年10月の条にはこう記されている。
五十瓊敷命(いにしきのみこと)*は、茅渟(ちぬ:和泉の海)の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)においでになり、剣1千口を造らせられた。よってその剣を…石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
*五十瓊敷命:景行天皇の皇子で、第12代景行天皇の異母兄

また石上神社のホームページにはその歴史についてこう記されている。
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました
。」
http://www.isonokami.jp/about/index.html

この神社が物部氏の総氏神となった経緯については、『日本書紀』にしっかり記されている。
垂仁天皇87年2月5日条にはこんな記述がある。
「五十瓊敷命が妹の大中姫命(おおなかつひめ)に語って言われるのに、『自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい』と言われた。大中姫は辞退していわれるのに『私はか弱い女です。どうしてよく神宝を高い宝庫に登れましょうか』と。五十瓊敷命は『神庫が高いと言っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない』と。…そして大中姫命は、物部十千根大連(もののべとおちねのおおむらじ)に授けて治めさせられた。物部連らが今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)

要するに、五十瓊敷命が石上神社の神宝を掌る役割を妹の大中姫命に引継ごうとしたのだが、重たい神宝を運ぶのは力のいる仕事なので大中姫命は物部氏に譲ってしまい、それ以来この神社は物部家の総氏神となったというのである。

石上神宮楼門

これだけ古い伝承を残す神社であるので、価値あるものが数多く残されていることは注目して良い。
運悪く土塀が修理中であったが、国重文の楼門は文保2年(1318)の建立である。

石上神宮拝殿

中に入ると拝殿(国宝)がある。この建物は白河天皇が永保元年(1081)に皇居の神嘉殿(しんかでん)を移したとされている。面白いことに、石上神宮には大正時代までは本殿がなく拝殿後方の禁足地を神聖な地として、拝殿が本殿と同等の扱いを受けていたそうだ。
その禁足地に本殿を建てるべく明治7年(1874)以降に発掘すると、4世紀ごろの勾玉や武具類が大量に出土して、そのすべてが重要文化財に指定されているという。

またこの神宮の神庫に伝わる「七支刀(しちしとう:国宝)」は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられており、製作年は西暦369年と考えられている。

出雲建雄神社拝殿

石上神宮のホームページには一言も書かれていないのだが、実はこの神社の摂社に国宝の建物が存在する。
修理中で良い写真を撮ることが出来なかったのは残念だったが、上の画像が国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿(文永年代[1264―75]の頃の建立)である。実はこの建物は、ここから800mほど南に存在した内山永久寺の鎮守住吉社の建物を明治時代に移築したものなのである。

江戸時代寛政3年(1791)に出版された『大和名所図会』には、内山永久寺の僧侶が、石上神社のお祭りに関与していた記述がある。
「祭礼にはかの浣布*にとどまりし剣とて、袋におさめて鳥居の外まで出し奉る。また笈渡しということあり。神前に護摩を修し、寶蔵の笈**三負い出して、僧の肩にかけて行いあり。この時内山永久寺・横尾山龍福寺、産沙数村の僧侶ここにあつまりて勤めけるとぞ。」
*浣布(かんぷ):対火性の布  **笈(おい):修験者などが仏具・衣服などを収めて背に負う箱
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/179

神仏習合時代の石上神宮の祭りの形が垣間見える文章だが、調べると内山永久寺は、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記され、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であった。
ところがこの寺は、明治の廃仏毀釈で完全に破壊されてしまったのである


内山永久寺地図

今回の奈良旅行で、最後に内山永久寺の跡地を訪れる計画を立てていた。
カーナビでは行けない場所なのだが、石上神宮から山の辺の道を南に歩けば辿りつけるはずである。
石上神宮の境内にわかりやすい地図が掲示されているが、山の辺の道を歩いて散策するには次のURLの地図が役に立つと思う。
http://kanko-tenri.jp/hiking_course/yamanobe_minami.html

山の辺の道

山の辺の道はしばらく石上神社の境内の森の中を歩く。この辺りは緑に囲まれて非常に気持が良い。

内山永久寺池

そこから細い道を道なりに15分ほど歩いていると大きな池につきあたる。この池が内山永久寺の境内にあった大亀池である。この池に半島の様に突き出した場所があり、そこに「内山永久寺記念碑」が建てられている。
内山永久寺跡

下の画像は江戸時代の享和年中から文化年中(1801-1818)に制作された『和州内山永久寺図』である。中央の池が大亀池で境内には多数の堂宇があったのがわかるのだが、明治初期にすべてが破壊されて今は果樹園になってしまっている。

和州内山永久寺図

先程紹介した『大和名所図会』にはこの寺の挿絵が2枚もあるのだが、同じ寺社についての記事で挿絵が2枚もある事例は珍しい。下の絵はその1枚目のものである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/181
内山永久寺 大和名所図会

またこの書物には、この寺についてこう記述されている。
「宗旨は真言にして、本堂は阿弥陀仏を本尊とす。奥の院の不動明王は、日本三体のその一なり。観音堂・千体仏堂・二層塔・大師堂、真言堂には大日如来を安ず。額は鳥羽院の宸筆(しんぴつ)なり。鎮守の社は清瀧権現・岩上明神・長尾天神を勧請す。また元弘年中笠置城没落の時、後醍醐天皇しのびて入御したまう遺跡、本堂の乾(いぬい)*にあり。また大塔宮(だいとうのみや)**もこの内山に隠れ給う。そのほか諸堂魏々として、子院四十七坊ありとなん。宗派は醍醐金剛院の法流にして、当山派の法頭なり。」
*乾(いぬい):北西の方角   **大塔宮:後醍醐天皇の皇子の護良(もりなが)親王
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/182

少し補足すると「当山派」というのは、真言宗系の修験道の一派である。Wikipediaによると、「平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした」とあり、「平安時代、9世紀に聖宝が金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、『当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)』と称し、毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。」と解説されているのだが、今回の旅行で宿泊した洞川温泉が内山永久寺と繋がっていたことは旅行を終えてから知って驚いてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E5%B1%B1%E6%B4%BE

S.Minagaさんのホームページ『がらくた置場』の「大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔」のページに、この寺に関する多くの史料が紹介されており、その文章の中に、昨年夏に行われた、天理大学の吉井敏幸教授の講演内容が紹介されている。
永久寺東の山中に奥之院、行場が存在した。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織される。中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなす。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm

内山永久寺は前々回の記事で紹介した洞川温泉の龍泉寺と同様に修験道の聖地であったのだが、修験道は神仏習合の信仰であったが故に、この寺が激しく破壊されてしまうことになったのだと思う。

内山永久寺はただ規模が大きかっただけではなく、数多くの価値ある文化財があったことを記さねばならない。
その多くは破壊されてしまったのだが、国内に残されたものの大半が、国宝や国重文に指定されている。また海外に流出した文化財もいくつかあり、ボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。

その点については以前このブログで「奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか」という題名で記事に書いたので、よかったら覗いてみて頂きたい。
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦の著書で昭和12年に出版された『十三松堂閑話録』の一部を紹介したが、これを読めば内山永久寺の優品がどういう経緯でわが国に残されたかを理解していただけると思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

内山永久寺の芭蕉句碑

内山永久寺の境内の中央にあった大亀池のほとりに芭蕉の句碑があったのでカメラに収めておいた。
松尾芭蕉(1644~1694)が伊賀上野に住んでいた頃に、たまたま春にこの地を訪れて、桜が満開であったことを詠んだ作品で、寛文10年(1670)に刊行された『大和順礼』に収録されているという。

うち山や とざましらずの 花ざかり

この場所を訪れて見事に咲き誇る桜を観賞した若き日の芭蕉が、その200年後に、この歴史ある大寺院が日本人の手によって徹底的に破壊されることになるとは、思いもよらなかったことであろう。

明治以降のわが国の歴史叙述では、薩長にとって都合の悪い歴史はほとんどが封印されてしまっており、こういう歴史に触れる機会がほとんどない現状ではあるが、明治維新から150年近く経って、そろそろ明治維新の功罪について公平な視点で議論されても良いのでないだろうか。この時期にわが国で大規模な文化破壊があった事実は、もっと多くの人に知っていただきたいものである。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるそうだが、現在わが国に残されている文化財の一つひとつが、わが国の歴史の中で何度も訪れた様々な危機を乗り越えて、我々の先祖によって代々護られてきた貴重なものであることを知ることが、文化財を大切にすることに繋がるのだと思う。
そんな事を考えながら2日間の奈良の旅行を終えるとにした。

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【ご参考】
このブログで、奈良の廃仏毀釈についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

悲しき阿修羅像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-127.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html


関連記事

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった

前回まで、奈良県の修験道の聖地などを周ってきたことをレポートしてきた。
修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。
修験道神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきたのだが、それが明治維新後に激変することになったのである。

山の宗教

仏教学者・五来重氏の著書『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)で、熊野信仰の解説の中の文章を引用させていただく。

「熊野は、神々の信仰の非常に卓越した修験道の霊所でした。したがって本地仏はあるが神として拝まれており、その結果、近世に入ると紀州藩の宗教政策もあり、神道を表に立てるようになります。
 ふつうは江戸時代に入っても、神社にはそれぞれ別当*がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれる、というのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中ごろから神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなるわけです。」(『山の宗教 修験道案内』p.9)
*別当:神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺を神宮寺と呼び、その寺の社僧の長を別当と呼んだ。別当は神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていた

shugendou_x1.jpg

今では山伏の姿を見ることがめったにないのでこのような記述を読んでもピンと来なかったのだが、明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたという記述を読んで驚いてしまった。

愛知県清洲にある日吉神社の宮司・三輪隆裕氏はこのように述べておられる。
私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。…日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。」
http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66

「修験の先達」というのは山伏のことだが、明治の初めには山伏が17万人いたというのはどう理解すれば良いのだろうか。
内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になるのだが、これは半端な数字ではない。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf

その山伏が、慶応4年(1868)の神仏分離令に続き明治5年(1872)には修験禁止令が出されて、山伏の活動が禁止されだけではなく、信仰に関する建物や文化財の多くが破壊されてしまった。

内山永久寺 大和名所図会

前回まで5回に分けて書いた奈良旅行のレポートで、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたことを書いたが、いずれの寺も修験道の聖地であった。このような明治維新期の宗教政策が、山伏達に多大な影響を与えたことは間違いないのである。

山伏

では江戸時代の山伏達はどのような仕事で生計を成り立たせていたのであろうか。
和歌森太郎氏の『山伏』(中公新書)にはこう書かれている。
「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。
…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた。」(『山伏』(中公新書)p.21-22)

大峯天河社

ところが、近代化への道を急ぐ明治政府にとっては、このような山伏は不要であったようだ。
「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治5年9月15日の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。そうして、およそ18万人もいた山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあったのである。」(同上書p.23)

和歌森氏の著書では、山伏の数は18万人とあるが、正式な統計がないのでどちらが正しいかはよく分からない。いずれにせよ、現在よりも山伏の数が桁違いに多かったことは同じである。
では具体的に政府からどのような布達が出されたのであろうか。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

重要なものだけ内容を簡単に意訳しておく
◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤することを定めている。

◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと

◎明治5年(1872)9月15日 太政官第273号 いわゆる「修験道廃止令
修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。

「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなったのだが、さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。

◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。

◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。

◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す

◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること

具体的にどこまでが取締りの対象でなっていたかは定かではないが、明治以降山伏の収入が激減したことは言うまでもないだろう。

なぜここまで明治政府は山伏を徹底的に叩いたのかと誰でも思うところであるが、その理由を論じる前に、江戸時代に「山伏」の評判がどのようであったかを知る必要がある。

天保14年(1843)に江戸幕府が禁奢令を出し、当山派修験道の本山である醍醐寺三宝院から末徒に出された御触書にこのようなことが書かれていたという。
「『諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡』とはじまり、文中に『不如法之僧徒多有』『貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候』『略服美服ヲ着シ』などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index227.htm

龍泉寺2

もちろん真面目に修行し励む山伏が多数いたとは思うのだが、一部のメンバーが評判を落とすような行動をとると、すべてのメンバーに悪評が及ぶことはいつの時代にも良くあることである。しかし、多くの場合はそのような悪評は意図的に広められて、特定勢力を徹底的に叩くために利用される。
明治政府は、中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした。そこで形成されたのが「国家神道」で、その基盤となる尊王思想を普及させ、神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められたのだが、そのためには神仏習合の山伏や修験道は不要な存在であって、山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具ともども強引に修験道を消滅させようと考えていたのではなかったか。

以前このブログで、戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の宣教師やキリシタン大名が寺社や仏像等を破壊し焼却した記録が残されていることを何度か書いてきたが、明治初期にも同様なことが起り、全国規模で激しい「廃仏毀釈」が行なわれたのである。

明治期に広められた「国家神道」は現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭・政・軍が一体化した国家体制であり、国家自体が「一神教」の教団と化したようなところがある。
一神教の熱心な信徒は過去において、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名のもとにテロ行為や他国の侵略や異教文化の破壊をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。このような原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や文化破壊を行ないながら、自分の行為を正しいと信じて疑わない信徒が少なからず存在する点にある。

しかしながら、本来の日本の神道は、自然現象を敬い八百万の神を見出す多神教であり、明治期の国家神道とは根本的に異なる。そして江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。

和歌森太郎

和歌森太郎氏は前掲書でこう書いておられる。
村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった。」(前掲書 p.172)

厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。

公式には明治5年9月に山伏はいなくなったのだが、その後も峯入り修行の指導者としての山伏が存続した。
また、ネットで調べると、最近では一般人で山伏姿になって山伏体験をする人も増えているという。体験者のブログを読んでいると、自然の霊威を感じて心底から感動したという記録が多く、森羅万象に神が宿るという日本古来の自然観を私も体で感じたい気持ちが湧くのだが、残念ながら、この脚力で難所をいくつも登りきることは難しそうだ。

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【ご参考】
このブログで、戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教徒による文化破壊について何度か書いてきました。当時日本に来ていたイエズス会の宣教師の記録にも、わが国に残された文書にもかなり具体的に書かれています。
興味のある方は覗いてみてください。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html



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日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて

高校時代の教科書に島崎藤村の『千曲川旅情の歌』が出ていて、リズムが良いので何度も口ずさんだ記憶がある。

「小諸なる古城のほとり   雲白く遊子かなしむ
みどりなすはこべはもえず 若草も藉くによしなし…」

藤村が歌った小諸城址とはどんな場所なのか、ずって前から行って見たいと思っていたのだが、たまたま藤村とゆかりのある中棚旅館が予約できたので、長野県に行くついでに、修験道とかかわりのある社寺などをおりまぜて二泊三日の旅行をしてきた。

早朝に自宅を出て約5時間で小諸市懐古園の第一駐車場(0267-22-0296)に着き、まず小諸そばで腹ごしらえをしてから小諸城址の見学に向かう。

パンフレットによると小諸城は、長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城(大手門北側)が築かれ、その子満安(光為)が、現在の二ノ丸付近に乙女城(白鶴城)を築いたが、戦国時代に武田信玄が東信州を治めた頃に山本勘助らによって現在の縄張(設計)がなされ、おおよそ現在の城の原型が作られたとされ、のちに豊臣秀吉が天下統一した頃、小諸城主となった仙石秀久により城の大改修と城下町の整備がなされ、堅固な城を完成したという。

その後仙石氏は上田城に転封となり、その後松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏と藩主が目まぐるしく変わったのだが、元禄15年(1702)に牧野康重が入封した後は国替えが行なわれず、第10代の牧野康済が城主の時に明治を迎えている。
廃藩置県を迎えてこの城は廃城が決定し、しばらく荒れるに任せたようだが、明治13年(1880)に懐古神社が祀られ、以後懐古園として整備されて現在に至っている。

この小諸城址は「日本百名城」に選ばれており、また桜の名所としても有名で「日本さくら名所百選」にも選ばれている観光地である。城郭が城下町よりも低地にあるのは全国的にも珍しく、このようなタイプの城を「穴城」と呼ぶのだそうだ。

小諸城址 大手門

小諸駅の北側に慶長17年(1612)に仙石秀久によって築かれた大手門(国重文)がある。

小諸城三之門

地下道を潜って小諸駅の南側に元和元年(1615)に仙石忠政によって築かれた三の門(国重文)がある。
正面の「懐古園」と書かれた扁額は、徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと) が揮毫したものなのだそうだ。

小諸城址 石垣

二の丸跡に料金所があり入場すると、見事な石垣が視界に入ってくるのだが、右側の二の丸石垣は昭和になって復元されたものだという。

小諸城址 島崎藤村像

黒門橋を渡って少し行くと藤村記念館があり、その前に島崎藤村の銅像がある。記念館には、藤村の自筆原稿や愛用品、有名な作品の初版本などが展示されていた。
島崎藤村は明治32年(1899)に小諸義塾の英語・国語の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間この町で過ごし、函館出身の秦冬子と結婚して三人の子供を授かった。『千曲川旅情の歌』はこの頃の作品で、明治34年(1901)に刊行された『落梅集』のなかに収められているという。
しかし、『破戒』の執筆に専念するために明治38年(1905)に小諸義塾を去って上京するも、その年に三女を失い、その翌年に『破戒』を自費出版した直後に、長女と次女を相次いで失っている。いずれも死因は栄養失調であったとのことだが、有名な明治の文豪が、若い頃にこんなに貧しい生活を送っていたことは記念館の展示物を読んで初めて知った。

小諸城址 千曲川

城内をしばらく進むと『千曲川旅情の歌』の歌碑があり、水の手展望台があってそこから千曲川を望むことができる。藤村はこの景色を何度も観たことだろう。

小諸城 天守石垣

藤村歌碑の近くの東屋から本丸の石垣を眺める。見事な野面積みの石垣で、画像の左側の出っ張った部分が天守閣の石垣である。天守閣は寛永3年に落雷で焼失したのだそうだ。

本丸の中に進むと懐古神社があり、再び黒門橋を渡って元に戻るのだが、徴古館で小諸藩の武具や衣装などを見学したのち、小諸義塾記念館に向かう。

小諸義塾記念館

小諸義塾は明治26年(1893)に、教育者でありキリスト教の牧師でもあった木村熊二によって誕生した私塾で、その教育方針は知識の習得だけではなく、正義に生きる強靭な精神の持ち主を養成することであった。島崎藤村をはじめ著名な教師陣がいたことから、向学の志に燃える生徒が多数集まって発展したという。
しかしながら日露戦争を契機として教育の国家主義化が進み、小諸義塾の自由主義的な教育への風当たりが強まるなかで、町の補助金も減らされて経営が厳しくなり、明治39年(1906)に閉校となってしまったという。

小諸城址から次の目的地である旧中込学校校舎(0267-68-7845)に向かう。

旧中込学校校舎

下中込村(現佐久市)出身の市川代治郎が設計し1875年に竣工した小学校の校舎で、国の重要文化財に指定されていて、現存する洋風建築の小学校としては全国最古の建物なのだそうだ。
美しい建物なので、中に入りたいところだが、今年の7月下旬までは耐震工事の為閉館していたのは残念だった。

龍岡城五稜郭

次の目的地は龍岡城跡(0267-82-0230)。
文久3年(1863)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨(のりかた)は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得たのだが、西洋の軍学に関心を持ち砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計。慶応3年(1867)4月には城郭内に御殿などが完成したのだが、すぐに明治維新を迎え、明治5年(1872)に建物のほとんどは解体されてしまったという。現在、当時の建物は台所が1棟残されているだけだが、予約していなかったので内部を見学することは出来なかった。

Tatsuoka_Castle_1975.jpg

五芒星形の西洋式城郭はわが国に2つしかなく、もう一つは函館の五稜郭である。
廃城となった後は城内のほとんどが農地に転用され、中央部分は小学校となっている。Wikipediaに空から見た龍岡城の写真が出ているが、もう少し原型に近い形で残して欲しかったと思う。

この龍岡城から東に少し進むと、古来から佐久地方の総社として信仰を集めた新海三社(しんかいさんしゃ)神社(0267-82-9651)がある。この神社には神仏習合時代の三重塔が今も残されている珍しい神社なので、是非カメラに収めようとして旅程の中に組み込んでいた。

新海三社神社鳥居

これが新海三社神社の鳥居だが、立派な木製の鳥居ながら何故か朱塗りがされず、太い注連縄が特徴的である。この鳥居から真っ直ぐな長い参道が続いている。
車は参道を進めないので、左に折れて駐車場に向かう。

この神社の主祭神は佐久地方を開拓したとされる興波岐命(おきはぎのみこと)で東本社に祀り、その父神・建御名方命(たてみなかたのみこと)を中本社に、伯父神・事代主命(ことしろぬしのみこと)を西本社に祀っている。このように、当社には3つの社があることから新海三社神社と呼ばれている。

新海三社神社 信玄戦勝祈願書

古来から武将の崇敬が篤く、源頼朝は社殿を修理再建し社領を寄進し、武田信玄は永禄8年(1565)の上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉って勝利したことから社殿の修理を行なったという。神社の案内板の左半分に、その時に信玄が奉った「願書」の全文が紹介されていたが、その最後のところで僧侶が「神前に於いて三百部の法華経王を読誦し、もって神徳に報謝すべし」とあるのは非常に興味深いところである。
戦勝祈願にせよ何にせよ、神主が祝詞をあげて終わったのではなく、神前で僧侶が読経することが古き時代の祈禱行事の中心であったことが窺える

新海三社神社拝殿

上の画像は参道から見た拝殿だが、杉並木が150m近く続いていた。

新海三社神社 中本社と西本社

拝殿の裏に回ると中本社と西本社が並んで建っている。

新海三社神社東本社と三重塔

そして境内の東側に東本社(国重文)と三重塔(国重文)がある。いずれも室町時代後期の建物である。

もちろん神社が塔を建てるわけがなく、以前ここにあった新海山上宮本願院神宮密寺という別当寺の建物が残されているわけだが、他の建物は明治の神仏分離で神社から切り離されて壊されてしまったようだ。
本来ならこの三重塔も破壊される運命にあったのだが、案内板には三重塔についてこう書かれていた。

「新海三社神社の神宮寺の塔として建立され、明治維新の排仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれた。風鐸の銘により永正12年(1515)の建立と考えられる。」

このブログで神社に残されている三重塔をいくつか紹介したが、兵庫県の柏原八幡神社の場合も良く似た話で、神宮寺であった乗宝寺の持ち物であった三重塔に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を柏原八幡神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

また、新海三社神社三重塔の案内板にはつづけてこう書かれていた。
「様式に和様を主としながらも随所に禅宗様が取り入れられており、初重と二三重の垂木の方向の違いなどにそれが見られる。」

新海三社神社三重塔 垂木

始めは何を書いているのか意味がよく分からなかったのだが、三層の軒回りをよく見ると垂木の方向が初層と2・3層で異なることがわかる。
初層は扇のように垂木が均等に広がっているが、2・3層は軒に垂直となるように平行に並べられていることがわかっていただけるだろうか。

明治の廃仏毀釈で壊された神宮寺の文化財の一部が、新海三社神社のすぐ近くの上宮寺というお寺に残されているようだ。新海三社神社から南に300m程度南にあって、事前にわかっていたら旅程に入れていたところなのだが、次のURLの写真などを見ると、安普請の建物に仁王像などが置かれていて心が痛む。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/uemiya.htm

新海三社神社 石仏

新海三社神社の境内横の駐車場の脇に、石像が沢山並んでいたので、カメラに収めておいた。はじめは廃仏毀釈で棄てられた神宮寺の石仏ではないかと思ったのだが、よく見ると大半の石に男女の人間が対になって彫られている。いわゆる双体道祖神と呼ばれるもののようだが、路傍にあったものをこの場所に集めて並べたと考えられる。

信州には安曇野や松本市には多くの道祖神が残されていて、佐久地方にも少なくないという。風工房さんの「風に吹かれて」というサイトに信州佐久平の双体道祖神の画像がいくつか紹介されているので比較していただくと良い。
http://blowinthewind.net/doso/bdoso-sakudaira.htm

新海三社神社のものは相当風化が進行しているので、上記サイトに紹介されているものよりも相当年代が遡るものだと思われるが、何世紀もの間、庶民の信仰を集めてきた道祖神の石像を眺めていると、石仏とは異なり、みんな笑顔でいるようでなんとなく心が和んでくる。
(つづく)
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【ご参考】
このブログで、日本百名城についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-397.html

下呂温泉から国宝犬山城へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-201.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-144.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html



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