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白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて

白馬落倉高原の朝を迎えて、いい天気なので朝食までの時間に高原の散歩に出かけることにした。ペンションで貰った地図を片手に歩き始めたのだが、野鳥のさえずりや川のせせらぎの音を聴き、景色を楽しみながら歩く高原の散歩は心地の良いものである。

白馬岳の雪渓

しばらく東に進んでいくと、白馬岳の大雪渓が見えてきた。訪れた日はまだ梅雨明け宣言が出ていなかったのだが、こんなにきれいに晴れ渡った空を背景にして、白馬連峰の写真が撮れたことは幸運だった。

白樺通りを一回りして433号線に戻ると、「風切地蔵」があり、何気なく立ち寄ってみると、案内板に興味深いことが記されていた。

風切地蔵

「農作物を風や病気や虫から守るということは、農民が何千年来かにわたって持ちつづけてきた悲願であった。風害や病虫害を恐れるのは、今日にあっても同じことであるが現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている。
 かつては、風祭・虫送り・鳥追いなどは、いずれも農耕儀礼の一種で、近年までは庶民信仰という形の中で、年中行事ともなっていた。風切地蔵(風除地蔵)は道祖神や庚申様が、何でも聞き届けてくれる神様となっているように風害防除というだけでなく風邪や疫病をもたらす悪霊も、追い払ってくれという祈願にもこたえてくださったもののようである。
 白馬村内には、何体かの風切地蔵が存在しているが、西方白馬連山の北橋にある大日岳と東方の野平武士落から鬼無里村に通ずる柄山峠にあるものはここ(落倉)のものを中にして一直線上に置かれている。白馬村には、鎌を立てて風を断ち切るという風習も残っているが昔人の風から農作物を守り、災厄から身を守る切なる願いを知って心が痛む。」

白馬村に3つの風切地蔵があり、それらが1直線状に並んでいるというのだが、自宅に帰ってパソコンで調べると、このことについて詳しく調べている人が何人も見つかった。

風切地蔵レイライン

例えば内田一成氏のブログによると、この直線は冬至の日の出を指し示す直線上にあり、「地元の古老によれば、それが『結界』を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられている」のだという。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/07/1---super-mappl.html

戸隠神社奥社参道杉並木

そして、さらに面白いのは、前回の記事で紹介した戸隠神社奥社につながる杉並木の長い参道は、風切地蔵の並ぶ直線と平行なのだそうだ。一体誰が、何のために、またどうやって、冬至の太陽の登る方向に参道を作り、風切地蔵をその参道と平行な直線上に設置したのか、非常に興味深いところである。
おそらく古来からの太陽信仰と無縁ではないだろうし、もしかすると修験道のルーツにもつながるものがあるのかもしれない。

戸隠奥社参道

いくら科学が進歩しても、人間の力では解決できないことが、今も数えきれないくらいに存在する。地域の人々が力を合わせれば最悪の事態を防ぐ道があるのにもかかわらず、みんなの価値観がバラバラで、それぞれが好き勝手に行動するのではそれは不可能だ。
昔の日本人は、地域の人々が自然災害に遭わないよう、みんなが幸せに暮らせるようにと、メンバーが心を一つにして祈る世界が存在した。その祈りがあったからこそ、地域の人々とのつながりを強めて、もし災害が起きてもみんなで助け合う価値観を共有できたのではなかったか。
風切地蔵の案内板に、「現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている」と書いてあったが、何でもお金で解決しようとする都会の多くの日本人は、何か大切なものを失ってしまってはいないだろうか。

そんな事を考えながら宿に戻ると、オーナーがパンを焼く香ばしい匂いがした。

コットンスノー朝食

これがコットンスノーの朝食のメニューだが、パンはもちろんおかわり自由で、ジャムもオーナーが昨晩造ったものだという。昨夜ここに宿泊したのは私達1組だけだったのだが、そのためにジャムまで作って用意していただいたのが嬉しくて、無理を言って両方のジャムを安く分けていただいたのだが、チェックアウトするときに、「主人からのプレゼントです。お昼にどうぞ」と手造りのハンバーガーまで用意して下さった。
至れり尽くせりのサービスに感激してしまった。

お世話になったコットンスノーのママにお別れをして、信州旅行3日目の最初の目的地である神明社(白馬村神城)に向かう。

神明社の創建時期は不明だが、弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(長野県宝)が現存しており、国重文の本殿は棟札から天正16年(1588)に建築されたものであることが判明している。
古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心になっているという。

予めよく調べておけばよかったのだが、昨年の11月に長野県の北部でかなり大きな地震があり、その時境内に亀裂が入って、国の重要文化財である神明社の本殿、諏訪社本殿を守る覆屋の柱が変形して大きく傾き、文化財に少しの被害が出たために修理工事が行われており、境内は立入禁止となっていた。
次のURLに地震直後の神明社の画像がある。
http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/2event/2014/jishin2.pdf

神明社

せっかく来たのだからとお願いして、覆屋をカメラに収めてきたが、国重文の神明社本殿と諏訪者本殿はこの中にあって観賞することはできなかった。

神明社からの白馬連峰

神明社の参道を降りていくと、白馬連邦の山並みが綺麗だったので思わずシャッターを押したのだが、残念ながら山の名前が良く分からない。
.
神明社参道

自宅に戻ってGoogle Earthで確認すると、偶然かもしれないが、この神明社の参道の方向も、戸隠奥社の参道や風切地蔵の指し示す方向と同じのようだ。

次の目的地は大町市にある若一(にゃくいち)王子神社(0261-22-1626)である。

Wikipediaによると、
「鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が紀伊国熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降『若一の宮』(若一王寺、王子権現)と称されるようになった。その際、盛遠は後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士として仕えた。仁科氏が主家の武田氏とともに滅亡すると、織田信長以後の天下人は安曇郡を歴代松本城主の所領とし、松本藩の庇護を受けるようになった。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称した。…」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B8%80%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

この神社も明治の神仏分離以前は「若一王寺」という名の寺であったのだが、注目すべきは、廃仏毀釈によって「神社」とされながらも寺の施設である三重塔と観音堂を残して、神仏習合の姿を今に伝えている点である。

若一王子神社鳥居と三重塔

上の画像が若一王子神社の全景だが、江戸時代まではこのような景色が全国各地にあったはずである。
できれば車はあまり写したくなかったのだが、この日はたまたまこの神社の例祭の1週間前で、近隣の方が大勢集まって境内の草刈りの奉仕をしておられたために、三重塔の周囲は車が何台も停まっていたので、車が写ることは仕方がなかった。

若一王子本殿

この神社の本殿は戦国末期の弘治2年(1556年)に仁科盛康により造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。拝殿は昭和50年(1975)に伊勢神宮の旧社殿の一部を譲り受けたものだという。

若一王子神社観音堂

本殿の東に長野県宝に指定されている観音堂がある。その内陣の中央の厨子に十一面観音坐像御正体(みしょうたい:長野県宝)があるのだが、その右隣には廃仏毀釈以前に本尊であった平安時代の仏像を納めた小さな厨子がある。ネットで探すと、その無残な姿に変貌してしまった仏像の画像を容易に見つけることが出来るが、この画像を見てさすがに私もショックを受けた。

若一王子神社 観音堂 旧御本尊

もともとはこの仏像が観音堂の御本尊として中央の厨子に安置されていたのである。詳しく知りたい方は、次のURLに詳しくレポートされているので参考にしていただきたい。
http://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16

実のところ信濃国で最も激しく廃仏毀釈が行われたのは松本藩だった。にもかかわらず、なぜ若一王子神社は観音堂と三重塔を守り通せたのかと誰でも思う。

長野県の解説によると、
「『信濃日光』として知られていた若沢寺(波田町)をはじめ無住・廃寺となった寺が全寺院の74%にも達した(『長野県史』通史編7)。そうした中で、若一王子神社では、三重塔は『物見の高楼』、観音堂は『神楽殿』とされ(『明治28年北安曇神社明細帳』)、仏具を移転撤去し、建物の名前を変更することで破却を免れたようである。また、寺と神社に明確に区画すれば破却されないというので境界石を置いて免れたともいわれる(『大町町史』第4巻)
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h23/teireikai/documents/930-2.pdf

簡単に書かれてはいるが、実際には松本藩とは相当激しいやり取りがあったはずである。

仏教遭難史論

このブログで何度か紹介させていただいた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』の本記(13)に松本藩の廃仏状況がかなり詳しく記されており、それによると、明治3年8月に松本藩は廃仏の藩令を発し、寺院は悉くこれを破却し、仏像仏具はみな焼き捨て、僧侶は、すべて帰農せしめんとしたという。

松本藩の藩吏が大町市に出張し、54ヶ寺と檀徒総代と名主らを集めて、廃寺と帰農を伝達したのは明治4年(1871)3月のことだという。この時に彼らは衆人の面前で何度も僧侶を辱しめ、だから帰農せよと迫ったのだが、その席で敢然と命令に抵抗した僧侶が二名いたのである。
羽根田氏の著書から、霊松寺の達淳和尚の発言を引用する。
「…大町の巨刹、曹洞宗、霊松寺住持達淳和尚出て曰く、全体貴官方は何所よりの命を帯びて、廃寺、帰農を促さるるや、太政官よりか、また何時、何所よりかかる命令が出たか、特に寺院には、各自、其宗本山との、密接不離なる関係あり、このこと果たして、各宗本山との、協議を遂げられたのかと詰問し、拙僧が、帰農すると否とは貴官に返答する義務なし、むしろ貴官が、命令の出所を、明了にせられたしとて、あくまで役人を詰責し、かえって和尚が、翻弄したという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/106

この席で廃寺に抵抗する発言をした大澤寺、霊松寺は、ともに廃寺を免れたそうだが、もしこの2ヶ寺が反対の発言をしていなければ、おそらく寺は破却されていたことだろう。
若一王寺はこの席では発言しなかったようだが、おそらく檀徒らが抵抗して知恵を絞ったからこそ、観音堂も三重塔も残すことが出来たのだと思う。

戸田光則

松本藩の廃仏毀釈を積極的に推進した藩知事の戸田光則*は、明治4年7月の廃藩置県で藩知事が廃官となって東京に移り、それ以降、廃仏・廃寺の藩令はうやむやになったようだ。
もしも、もっと早く廃藩置県が行なわれていれば、長野県に限らず、全国でもっと多くの文化財が残されていただろうが、廃仏毀釈で多くの文化財が灰燼に帰してしまった原因は寺院側にもあったと思われる。霊松寺の達淳和尚のような気骨のある僧侶がもっと多くいれば、この時期にわが国の大量の文化財を失うことはなかっただろう。
*戸田光則:信濃松本藩の最後の藩主(第9代)。戸田松平家14代。上画像

羽根田文明氏は、こう纏めておられる。
各藩とも、廃仏に、廃寺願書の提出を迫っているのは、これが朝旨*でないからのことである。故に少し強硬に出て、廃寺の朝命を拝するまで、現状を維持せんと、頑張ったら、廃寺の厄は免れたのである。然るに当時、僧侶の意志、薄弱、護法、扶宗の念、皆無であったから、藩吏の奸策に乗り、廃寺の難に罷ったのは、遺憾の極みであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/107
*朝旨:朝廷の意向

このように、激しい廃仏毀釈のあった藩では、多くの場合、寺から「廃寺願書」を提出させてから、仏教施設や仏具類を破壊したようなのである。こんなものを提出してしまっては、寺院側が廃仏毀釈をお願いしますと言ったのと同じではないか。
羽根田氏の指摘の通り、自分の寺と檀徒を守るために身命を賭す僧侶が少なかったことは残念なことである。

若一王子神社をあとにして、国宝・仁科神明宮(0261-62-9168)方面に向かう。

盛蓮寺観音堂

途中で、国の重要文化財に指定されている盛蓮寺(じょうれんじ)観音堂に立ち寄った。
この寺は領主であった仁科氏の祈願寺であったそうだが、この観音堂は室町時代の文明2年(1470)の建築だという。案内板には何も書かれていなかったが、この寺も廃仏毀釈の難を逃れるのに苦労があったと思われる。

ここから1kmほど南に走ると仁科神明宮がある。

参道の脇に空地があり「仁科二十四番 神宮寺」と書かれた道標が建てられていた。この寺は明治の廃仏毀釈で破却され、不動明王と薬師如来は先程紹介した盛蓮寺に移され、本堂は北安曇郡池田町の浄念寺という寺に移築されたという。

仁科神明宮鳥居

この鳥居が仁科神明宮の二の鳥居で、奥に三の鳥居があり神門がある。そしてその奥に、わが国で現存する最古の神明造である国宝の社殿がある。

仁科神明宮本殿

一番奥が本殿で、本殿は手前の中門と釣屋とよばれる屋根で繋がっている。ここまでが国宝指定となっている。

宝物館があるので中に案内していただくことにした。

仁科神明宮棟札

仁科神明宮は20年に一度式年遷宮が行なわれているのだが、南北朝時代の永和2年(1376)の棟札をはじめ620年間の33枚が目の前に残されているのに驚いた。このうち江戸時代幕末の安政3年(1856)までの27枚が国の重要文化財に指定されている

仁科神明宮懸仏

次の画像は懸仏(かけぼとけ)であるが、神仏習合の考えによりご神体である鏡に本地仏の像を毛彫りにして奉納されたもので御正体(みしょうたい)とも言われる。仁科神明宮には懸仏が16面あるのだが、そのうち5面が国の重要文化財に指定されている
懸仏のほとんどが天照大神の本地仏である大日如来で、古いものは鎌倉時代中頃のものがあるという。神仏習合の時代を髣髴とさせる貴重な懸仏が、神社の宝物館でこんなに多く見学できるとは思わなかった。

最近はネットで簡単にいろんなことが調べられるようになってありがたい限りなのだが、『長野県立歴史館/信濃史料』をデジタルアーカイブで調べていると、弘安9年(1286)の記録にこんな記述があるのが見つかった。
「弘安九年一二月二二日(1286) 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht042680

なんと弘安9年(1286)に懸仏を仁科神明宮に寄進した尼妙法という人物が、この日の朝一番に訪れてきた白馬村神城の神明社にも、同じ年に懸仏(長野県宝)を寄進したことが書かれている。
神明社では見ることは叶わなかったが、おそらくこの懸仏と同様のものが奉納されたのであろう。それにしても、長野県がこの様な古文書までデータベースにして公開していることも驚きだ。

今回の旅行で、神社にある三重塔や観音堂や懸仏をいくつか見てきたが、長野に来て、修験道や神仏習合の多神教的祈りの世界が残されていることに親近感を覚えた。

明治政府の宗教政策で、仏教は衰退を余儀なくされ多くの文化財を失わせた一方、伝統的な神道をも否定して、多神教的な神道から天皇という現人神を崇拝する宗教に変質させてしまったとは言えないか。天皇という存在は、本来は多神教的な神々を祀る存在であったのだが、明治政府によって一神教的で絶対的な存在として祀り上げられてしまったと言えば言い過ぎであろうか。
戦国時代にキリスト教宣教師が先導して寺院や仏像を破壊したことと同じことが明治初期に激しく起こったわけだが、特定の神的存在を絶対視する宗教は、純粋化すればするほど異教に対して排撃的となり過激となる。

しかし太平洋戦争でわが国が敗戦したのち、天皇は現人神であることを自ら否定したため、戦後になって多くの日本人は、自分の家族や先祖に対して祈ることはあっても、地域や国のために祈る習慣を失ってしまった。

ある時は太陽に祈り、ある時は山に祈り、またある時には川に祈って、地域の人々が幸せに暮らせることを願う。日本人はそのようにして平和に暮らして来た民族ではなかったか。
その祈りの世界を少しでも日本人が取り戻し、自分や先祖が生まれ育った地域を愛することの大切さを忘れないようにしたいものである。それができなければ、いずれ、わが国の各地で何百年も受け継がれてきた地域の伝統文化や価値ある文化財や歴史的景観の多くを、失ってしまうことになるのではないだろうか。

そんな事を考えながら3日間の信州の旅を終えて、帰途につくことにした。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html




関連記事

アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

私は京都に生まれて京都で育ったが、子供の頃に何度となく「京都の文化遺産を守るために、アメリカは京都の空襲を控えた」という話を聞かされていて、単純にそう信じていた。しかし、ネットでいろいろ調べると、京都でも昭和20年(1945)に何度かアメリカ軍による無差別爆撃がなされていることがわかる。

ネットでは諸説があり、あるサイトでは空襲回数は合計20回を超え、死者302人、負傷者561人と書いているのだが、残念ながらそのサイトでは、いつどこで、どの程度の規模の空襲があったかが良く分からない。

京都馬町空襲

ネットで探すと、1月16日の東山区馬町の空襲の写真を容易に見つけることが出来る。
Wikipediaの「京都空襲」によると5回の空襲があり、日付と場所が具体的に記されている。

「第1回 1月16日23時23分頃、東山空襲(東山区馬町)被災家屋140戸以上
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死傷者100人以上
報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そして極めて重要なことが、そのあとにサラリと記されている。

第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。原爆投下目標だったからとされる。」

この文章を普通に読めば、もうすぐ完成する原爆の威力を確認するためには、原爆を投下する前に通常爆撃で京都を焼け野原にしてしまうわけにはいかないので、アメリカは意図的に6月26日以降の空襲を停止したということになる。
米軍の資料によると京都市内の梅小路機関車庫が原爆投下予定地点であったという。

radius4km.jpg

次のURLにその場所と、その地点を中心に半径4kmの同心円が描かれているが、こんな場所に落とされては、広島以上の犠牲者が出たことは確実で、さらに東寺や西本願寺、東本願寺、三十三間堂をはじめとする多くの歴史的建造物と文化財を焼失させていたことだろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/j_map/umekouji.html

話を京都の空襲規模に戻そう。5回あったとされる京都市の空襲は他の都市と比べて、極端に少なかったと言えるのだろうか。

Wikipediaによると、昭和19年(1944)末頃から米軍機による空襲が熾烈となって、翌年8月15日の終戦当日まで続けられたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した」とある。

b-29s_dropping_bombs.jpg

上記URLに『都道府県別被害数』がまとめられているのだが、それを見ると京都府の空襲被害は人口や世帯数の割に極めて少なく、大阪府や兵庫県と比べると死傷者の数は2ケタ違う。アメリカが意図的に京都を温存していた可能性を感じざるを得ない。

ではどういう経緯で京都が原爆投下の対象とされることになったのか。またなぜ途中で京都が候補から外されて、広島と長崎に投下されることになったのか。その経緯について述べる前に、アメリカの原爆開発から原爆投下までの歴史をおさらいすることにしたい。

第2次世界大戦中の1941年に、アメリカで核兵器開発を計画する部署が設立され、1942年に物理学者ロバート・オッペンハイマーほか当時最高レベルの科学者、技術者を一堂に集められ、マンハッタン計画という名の本格的な核兵器開発のプロジェクトが始まった。

この計画に対してアメリカは当時の額面で19億ドルもの資金を投入して秘密裏に研究が進められ、そして1945年7月上旬には原子爆弾を完成させて、7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)に成功している。この実験は、米英ソの首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を決定するために開かれたポツダム会議の前日に実施されたのだが、この実験に成功したニュースがポツダムにいたトルーマン米大統領に伝えられたのは7月18日だという。

ヤルタ会談

実は、アメリカは1941年の開戦当初から、ソ連に対して対日参戦要請をしていたようだが、スターリンがようやく対日参戦の時期に言及したのは、1945年2月に開かれたヤルタ会談においてであった。その会談でスターリンは、樺太南部の返還と千島列島の引渡しなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月での対日参戦を米英首脳に密約したとされる。

そしてドイツは同年の5月8日に連合国に対し無条件降伏したのが、この時点でアメリカは、ソ連が約束通り8月までに対日参戦することを期待したはずである。

ポツダム会談三首脳

7月15日にポツダム会議に出席したトルーマンは、スターリンから、8月15日に対日参戦する旨の確約を得たのだが、その翌日に原爆実験成功のニュースが伝えられてトルーマンは豹変したという。

ポツダム会談の席上で原爆実験成功のニュースを聴いたトルーマンについて、オリバー・ストーンは著書でこう解説している。

トルーマン、バーンズ、グローヴス*は、これでソ連の手を借りずともアメリカが望む条件で日本の降伏を早期に実現でき、ソ連に確約していた領土と経済上の譲歩もする必要がなくなったと考えた。スティムソンは述べている。『大統領は報告書に浮かれたようになり、会うたびに何度もそのことを口にした。彼は依然とまったく異なる自信を得たと語った』。トルーマンはそれまでの会談はチャーチルやスターリンに主導権を握られていたが、以後は審議を牛耳るようになった。ウィストン・チャーチルが実験後初の本会議での様子について、『私には合点がいかなかった。報告書を読んだあとの彼は別人だった。ロシア人たちにあれこれ指示し、会議をおのれの意のままに進めた』と書いている。」(ハヤカワ文庫『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1』p.367)
*トルーマン米大統領、バーンズ米国務長官、グローヴス陸軍少将(マンハッタン計画責任者)

ポツダム会談

原爆実験が成功した以上、トルーマン、バーンズ、スティムソン*はもはやソ連の参戦を望まなかった。ソ連が参戦すれば、ルーズベルトがヤルタ会談でソ連に約束した譲歩を実施に移さなければならないからだった。7月23日、チャーチルは『アメリカが現段階でソ連の対日戦争参戦を望んでいないのは歴然としている』と述べた。バーンズは『今回の実権が成功したと知った以上、大統領も私もソ連の参戦を望まない』と記している。…トルーマンと顧問たちにとって、これ(日本の降伏)を達成する方法は明らかだった。原爆を落せばよいのだ。トルーマンは述べている。『ソ連が参戦する前に日本は折れるだろう。マンハッタン計画の産物が頭上で炸裂すれば、日本は間違いなくそうすると私は確信している』。」(同上書 p.370)
*スティムソン:陸軍長官

このようにアメリカは、日本を早期に降伏させるために、はじめから原爆を落とすことを考えていた。ではどこに落とそうと考えていたのだろうか。

原爆投下場所についての検討はかなり以前からなされていたらしく、1945年5月12日付のアメリカの極秘文書に、京都が第一候補に書かれていることが確認できる。(英文)
http://www.dannen.com/decision/targets.html
その訳文は次のURLにある。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

その文書によると、京都が選ばれたのは、まだあまり破壊されていない大都市であることと、「他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある」という点。すなわち、米軍の新型爆弾の恐ろしさを認識するだけの知的レベルがあり、日本が降伏を決断するきっかけとなり得るということを述べているようだ。

大阪空襲
【大阪空襲】

また、トルーマンがポツダムで原爆実験のニュースを聞いた5日後の7月21日に、米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書『中小工業都市地域への爆撃』を作成している。その報告書には、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けしたリストがあるという。

Wikipediaでそのリストが紹介されているが、それによると京都市は、東京都、大阪市、名古屋市に次いで攻撃すべき都市の4番目にリストアップされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そのうち、名古屋市については過去5回の攻撃を実施しておりこれ以上の攻撃は不要であるとし、さらに東京都、大阪市も5回の攻撃を行なっており、あと1回の攻撃を行なえばよいと書かれているのだそうだ。では京都市についてはどう書かれているのか。

その報告書の中で都市爆撃を免除する3つの例が示されていて
 1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
    ・京都市、広島市、
小倉市(現北九州市小倉北区、小倉南区)、新潟市
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市
    ・八幡市、山形市、福島市、会津若松市、郡山市、川口市、瀬戸市、高山市、吹田市、長崎市、布施市、久留米市、若松市、戸畑市、都城市
  3.  北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて攻撃不可能であった17都市。
    ・札幌市、函館市、小樽市、室蘭市、青森市、秋田市、盛岡市、旭川市、八戸市、釧路市、弘前市、釜石市、帯広市、池田町、川内町、能代市、宮古市」

とあり、京都市は原爆投下の最有力候補であったことがわかるのである。

しかしながら、京都を原爆のターゲットすることについては当時陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが強力に反対して最終的に外されたようなのだが、彼が反対した理由はどのようなものであったのか。

ヘンリー・スティムソン

スティムソンの7月24日付けの日記には、彼がトルーマン大統領に進言した内容が記されているが、これを読めば彼が京都の文化財を守るために進言したわけではなかったことが誰でもわかる。

「私は大統領に対し、提案されている目標のなかの一つ(京都)を除外すべきであると私が考える理由を再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えを、この上なく力をこめて繰り返し述べた。私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した」(『スチムソン日記(抄)』1945年7月24日付)
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

アメリカは、わが国がソ連を仲介とする和平工作に動き出しており、ソ連に期待をかけていた勢力が政界にも軍部にも少なくなかったことはわかっていた。もしアメリカが京都に原爆を投下したとしたら日本人を怒らせて、戦後日本がソ連に接近するようになってしまっては、アメリカがアジアにおいて主導権を取ることが難しくなることを懸念したのであろう。
スティムソンの説得が功を奏して、最初の原爆の投下地は広島に変更され、長崎が候補地に追加されることになった。
そして7月25日にトルーマン大統領が原爆弾投下の指令を承認しているのである。ポツダム宣言が出る以前に、アメリカはわが国に原爆を投下することを決断していたことは重要なポイントなのだが、例えば『もういちど読む 山川日本史』では、こう記されている。

「1945年7月、米英ソ3国首脳はふたたびポツダムで会談し、その機会に米英中3国(のちにソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
 しかし、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、はじめポツダム宣言を黙殺する態度をとった。これに対してアメリカは、同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、一瞬のうちに市街地を壊滅させ、多数の一般市民を死亡させた。…」(『もういちど読む 山川日本史』p.313)

この文章を普通に読むと、わが国がポツダム宣言を黙殺したから原爆が落とされたかのような書き方になっているのだが、真実はポツダム宣言が出る前に原爆投下が決定されていたのである。

長崎原爆

わざわざ原爆を落とさなくとも日本の敗北は必至だったのだが、ではなぜアメリカは軍事的にあまり必要と思われない原爆をわが国に落としたのだろうか。この点については、前掲のオリバー・ストーンの著書がわかりやすい。

ソ連の指導者は喜ぶどころの騒ぎではなかった。すでに瀕死の状態にある国家を叩きのめすのに原爆は必要ないと承知していたことから、彼らは真の標的がソ連であると結論付けた。アメリカは原爆投下によって日本の降伏を早め、ソ連がアジアの覇者になるのを阻もうとしたと考えたのである。さらに彼らの不安を煽ったのは、アメリカが明らかに無用と思われる局面で広島の原爆を投下したのは、仮にソ連がアメリカの国益を脅かすようなことがあれば、アメリカはソ連に対して原爆を使用することも辞さないという意志の現われと推測できることだった。」(前掲書 p.383-384)

トルーマンもスティムソンも、早期に戦争を終結させるためだけに原爆を用いたのではない。終戦後の戦勝国間において、アメリカがソ連よりも優位な地位に立つことまで考えていたことを理解しなければ、終戦から冷戦に至る歴史を正しく読み取ることは出来ないのだと思う。

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【ご参考】
軍部や官僚の重要メンバーの中にソ連に繋がる者がかなりいたことが今では明らかになっていますが、戦後の歴史叙述ではほとんどそのことが無視されています。しかし、この史実を押さえておかなければ、なぜ関東軍がソ連の対日参戦に抵抗せずに満州をソ連に差出したのか、なぜ昭和天皇の終戦の詔勅の後にクーデターを起こそうとした軍部の動きを理解することは困難です。
興味のある方は、こんな記事を覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html


関連記事

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった

8月8日付の産経新聞にこんな記事が掲載されていた。
ロシアが、米国による広島、長崎への原子爆弾投下を『犯罪』として糾弾する動きを強めている。米国を唯一の『非人道的な使用国』と宣伝することで自国の核保有を正当化し、さらに日米の分断を図る思惑が見える。『米国の原爆でなく、ソ連の対日戦争こそが第二次世界大戦を終結させた』と主張し、日ソ中立条約を破った事実をかき消そうとする論調も目立つ
 プーチン露大統領に近いナルイシキン下院議長は最近、原爆問題を討議する円卓会議を主催。原爆投下には『当時の連合国であったソ連を威嚇する目的があった』などと批判、『人道に対する罪に時効はない』と述べた。また『米ソの戦略核バランスのおかげで第三次世界大戦は起きなかった』とし、ロシアの核戦力は平和目的であるとの主張すらにじませた。円卓会議の出席者からは『国際法廷』を設けて『米国の犯罪』を裁くべきだとする声が相次いだ。」

長崎原爆

ネットで調べると8月6日のJ-CASTニュースで同様な記事がでている。
ここ数日で、ロシアの国会議員が原爆投下について言及する機会が増えている。ロシア国営のタス通信も、発言を積極的に伝えている
 例えば2015年8月4日には、政権与党『統一ロシア』のフランツ・クリンツェヴィチ第1副代表が、原爆投下について『70年が経った今でも、こういった行動を人道に対する罪だと公式に宣言しても遅くはない』と述べたと報じている。発言では、原爆投下は『背景に軍事的理由はない』として、『米国は原爆投下を威嚇のために利用した。日本に向けてではなく、ソ連に向けたものだった』、『こういった野蛮行為は本質的に正気の沙汰ではなく、人類に対する真の犯罪だと信じている。国連を含めた全ての国際機関が関係する方法で、そのように宣言すべきだ』などと米国を非難している
 セルゲイ・ナルイシキン下院議長は、8月5日にモスクワ国際関係大学で開かれた円卓会議で『原爆投下の記憶はナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様に重要』だと指摘。原爆の悲惨さを伝えるために、在京ソ連大使館が原爆投下直後に本国に送った公電をウェブサイトで公開するように指示したという。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000003-jct-soci

このブログで、いつの時代もどこの国でも勝者が、勝者にとって都合の悪い真実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を描いて、それを広めて歴史叙述を固定化させようとしてきたことを、具体事例を挙げながら書いてきた。

そして近世から現代にかけてのわが国の歴史について言うと、戦勝国にとって都合の悪い史実は徹底的に伏せられ、あるいは事実を捻じ曲げられて、学校教育だけでなく新聞・テレビなどのメディアで、戦勝国は良い国でわが国は悪い国であるとの歴史叙述ばかりが拡散されてきたのである。
そのために、戦勝国にとって都合よく描かれた物語がそのまま日本人の常識になり、世界での認識においてもほぼ同様となっている。

原爆ドーム

ところがロシアは戦後70周年を迎えた今年になって、アメリカによる原爆投下を『人類に対する真の犯罪である』として、『国際法廷』を開いてアメリカを断罪すべきであると発言したというのだが、分かりやすく言えばロシアは、戦勝国が日本を悪玉にして作り上げた「戦勝国にとって都合の良い歴史叙述」を、「アメリカにとって都合が悪く、ロシアにとっては都合の良い歴史」に書き換えようとしている動きが出てきたということである。
しかしながら、そもそもロシアはアメリカを断罪する資格があるのだろうか。

シベリア抑留

このブログで何度かシベリア抑留の事を書いたが、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいて、そのうち約107万人がシベリアやソ連各地に送られて強制労働させられたと言われている。
昭和25年12月に外務省は37万人が未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は氏名も判明していたのだが、それから後にソ連からわが国にから帰還してきた人はわずかに2594人だったという。恐らく30万人以上の日本人が極寒の地で命を落としたと考えられるが、このシベリア抑留もアメリカの原爆投下と同様に明らかな国際法違反であり、人類史上最大級の犯罪であった。

自国の戦争犯罪を棚に上げてロシアが『歴史戦』を仕掛けてきた狙いは、産経の記事にあるように、日米の分断をはかろうとしているのだろう。そしてロシアの背後には中国がいるはずだ。

そう言えば今年のテレビの『終戦70周年記念』の特別番組はやたら原爆の話題が多く、今までテレビではあまり見たことのないような、被爆者の皮膚がひどく焼けただれた画像がやたら多く出た一方で、ソ連のシベリア抑留の解説が少なかったのは、ロシアが仕掛けてきた「歴史戦」と無関係ではないのだろう。

先ほどロシアの背後に中国がいると書いたが、歴史問題に関してはここ数年、両国は連携を強めてきている。そして中露にとって都合の良い歴史は、わが国の左派勢力にとっても都合の良い歴史であることは言うまでもない。

ここで、中国とロシアが歴史問題で共闘してきた経緯を振り返っておこう。

メドベージェフ国後島訪問

戦後65年に当たる5年前(2010年)に、当時の胡錦濤国家主席とメドベージェフ大統領は「中露は第二次大戦の歴史の歪曲を断固非難する」との文言を含む共同声明を発表し、その後、中国は尖閣諸島や歴史認識をめぐって対日圧力を強め、メドベージェフ氏もソ連・ロシアの指導者として初めて北方領土を訪問した。
第二次大戦における対日戦で共闘したとの歴史認識を共有し、中国は尖閣諸島、ロシアは北方領土の領有権主張につなげる構図が鮮明になったのだが、当時のわが国は民主党政権の時代で、まともな対応をしなかった。

その後中国は国際ルールを無視して、フィリピンの了解にある南シナ海の南沙諸島で、暗礁を埋め立てて滑走路や軍事施設などの施設の建設を今も進めている。
わが国のマスコミではこの問題をあまり報じていないのが気になるが、南シナ海は原油や液化天然ガス(LNG)の半分近くが通る世界経済の大動脈であり、この問題を放置すればいずれ中国は南シナ海の制海権を掌握し、各国の船舶は自由な航行が出来なくなる可能性が高いのだ。

一方ロシアはウクライナへの軍事介入を行なって、昨年(2014年)3月にはウクライナ南部のクリミアを独立させてロシアに編入することを決定した。欧米の主要国がロシアを非難ししたのち経済制裁を科してわが国も同調したのだが、プーチンは日本に対して高圧的な姿勢に転じて、閣僚に北方領土を視察させ、先日の報道によると、極東地域の振興策として来年1月からは土地を国民向けに無償で分与する法案を準備していて、北方4島にも適用されることが報道されている。こんなことを放置してしまっては、北方領土の返還が益々遠のいてしまう。

ロシアは中国やわが国の左翼マスコミ等と連携して、日本人の歴史認識を「自虐史観」のまま固定化したうえで、アメリカの原爆投下は「ナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様」だとして日米の離反をはかろうとしているようだが、普通に考えると、ロシアから「国際法廷を開いて断罪すべき」とまで言われたアメリカが、何時までも沈黙を続けるとは思えない。
これから戦勝国同士の『歴史戦』が始まるのかもしれないと思うのだが、その場合にアメリカがとる戦略としては、「ロシアや中国にとって都合の悪い真実」が記された文書を逐次世界に公開していき、中露が主張する歴史叙述の嘘を白日の下に晒して、中国やロシアやわが国の左派勢力の論拠を崩すことが、最も有効なのだと思う。
そしてそのための裏付けとなる史料はアメリカにかなり残されていると思われ、それを少しずつ公開していけば、ほとんど資金を使わず、また軍事力も使わずに、中露に決定的なダメージを与えることができる。

ヴェノナ

以前このブログでも書いたが、第二次世界大戦前後にアメリカ国内に多数いたソ連のスパイやエージェントがモスクワの諜報本部と交わした極秘通信をアメリカ陸軍省特殊情報部が傍受していて、1946年以降に解読に成功したヴェノナ文書がある。
この文書が解読され次々と公開されることによって当時のルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明し、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいてソ連と通じていたことがわかってきたのである。
戦前のアメリカの反日運動の背後にもソ連のスパイがいたこともわかっており、「日米戦争を引き起こしたのは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのか」という視点が浮上して、アメリカでは近現代史の見直しについてかなり議論が進んでいるようだ。

次のURLに江崎道朗氏の『アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略』という論文が掲載されているが、これを読むと、こんなに多くのソ連の工作員がアメリカの中枢部に潜り込んでいたことに誰しも驚きを禁じ得ないだろう。
http://ironna.jp/article/915

一方でわが国の政権中枢や軍隊にもソ連のスパイやエージェントがかなりいて暗躍していたこともわかっているのだが、ではソ連が日米双方に大量のスパイを潜り込ませた意図はどこにあったのか。

当時のレーニンとスターリンの考え方を知れば、ソ連が何を考えていたか誰でもわかる。

レーニン

このブログでも紹介したが、レーニンの『敗戦革命論』の考えかたに基づき、は1928年コミンテルン第6回大会議でこのように決議されている。
帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。


帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
要するに、戦争によって自国政府が敗北し崩壊に向かわせて、共産主義革命を導けと言っているのである

スターリン

また1935年の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこう演説している。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

要するにソ連は、先進国同士を戦争させて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得ようと考えていたのである。そしてスターリンのこの戦略を実現するための工作員や協力者が世界中に根を張っていて、わが国の政界や軍の中枢にも上層部にも多数存在していたのである。以前このブログでも書いたが、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉はソ連のスパイであった尾崎秀実らのグループによって広められ、このスローガンで日本を対ソ不戦に導く「南進論」に導いたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

産経0811

上の画像は、平成25年8月11日の産経新聞の記事だが、これによると、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受したことが機密電報でロンドンに伝えられ、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されていることがわかったという。
その記事の解説によると鈴木貫太郎の首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書かれていたことや、陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)ソ連主導で戦争終結し (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶと書かれているのだそうだ。

以前ブログに記したが、ソ連が8月9日に対日宣戦布告したのち、大本営は「対ソ全面作戦」を関東軍総司令部に発動したのだが、驚くべきことにその内容は、満州国を直ちに放棄して軍を朝鮮半島に向かわせ、11日には朝鮮国境に近い場所に総司令部を移転させている。これは種村大佐が終戦工作原案でまとめたとおり「領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる」ことを忠実に実行しているのである。

関東軍は早々と満州国をソ連に差し出したのだが、領土だけでなく居留民をも早々と差し出している。そのことを裏付ける証拠がソ連側にも関東軍にも残されている。

たとえば、関東軍が8月26日にソ連に提出した文書は、このようなものであった。
「一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい。

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

当時の史料を読めば、シベリア抑留の問題は、左傾化していた大本営や関東軍にも責任があることは明らかなのだが、関東軍上層部の異常さは千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)の戦い見てもよくわかる。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて自衛のための戦いを決断し、日本軍は良く戦ってソ連軍の進軍を阻んだのだが、ソ連側の被害があまりに甚大となったために、ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が急遽関東軍の秦関東軍参謀長に仲介を求めてきたという。秦参謀長は直ちに停戦することを樋口中将に要請し、日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされたのだが、この戦いでソ連軍の進軍を止めたことで、北北海道はソ連に侵略されずに済んだのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

わが国よりもソ連に忠誠心を持つような幹部や兵士が関東軍に多数いた事は、わが国が中国大陸で戦争に巻き込まれていったことと無関係ではないと思うのだが、戦後このような史実がほとんど無視されているのは、わが国で拡められている歴史叙述が相当歪められたものであることを物語っている。
こんなことを書くとすぐに中韓や左派勢力から「歴史修正主義は許さない」「陰謀論は聞くに値しない」という声が聞こえてきそうだが、この言葉は「戦勝国および共産主義にとって都合の良い歴史を書き換えるな」という意味の脅しだと理解すれば良いだろう。

しかし、ロシアがアメリカの原爆投下を問題にし出したことで、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が一枚岩ではなくなり、これから大幅に書き替えられる可能性が小さくない。このことはわが国にとってはチャンスなのだと思う。

アメリカは「邪悪な日本との戦争を早く終結させるために原爆投下はやむを得なかった」との従来の主張を続けては中露を叩くことが不可能で、中露から原爆を落とした罪を永遠に問われることになってしまう。
この「歴史戦」でアメリカが不利な状態を脱するためには、ソ連こそが最大の犯罪国家であり、中国共産党はソ連の仕掛けた「敗戦革命工作」に協力したという真実の歴史を描くしかないのではないか。アメリカには「中露にとって都合の良い歴史」が嘘であることを暴く、決定的な史料があるはずで、それを少しずつ呈示しつつ暴露することによって、中露を徹底的に叩くことができる。

そうすれば「日本だけが悪かった」とする歴史は全面的に書き換えられ、ロシアや中国およびわが国の左派勢力も一気に力を失うことになるだろう。
わが国が北方領土問題や尖閣問題について、ロシアや中国とまともな交渉できるようになるのはそのあとのことになると思われる。

今後のアメリカにおける歴史の見直しの動きに注目したい。
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【ご参考】通史では以下のような史実はすべて伏されてしまっていますが、重要な事実でありながらなぜ戦後のわが国で伝えられてこなかったのかと誰でも考えると思います。良かったら覗いてみてください。

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html


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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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