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南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか

前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。
しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸戦隊警備兵が機関銃を浴びせられ、さらに夕方には砲撃を開始されたために、ついにわが国も戦闘を開始するに至る。
このように発生した第二次上海事変は、やがて日本軍が上海地方を制圧し、逃げる中国軍を追撃するかたちで南京戦へと展開していくのだが、この戦いで日本軍に大きな犠牲が出た。

松井石根

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。
「8月13日、上海陸戦隊と支那軍との間に戦闘が開始されると、我国は海軍の要請によって陸軍部隊を増援することになり、8月15日、上海派遣軍(軍司令官・松井石根大将。第三、第十一師団基幹)の編成派遣を下令した。…
 当時陸戦隊は十数倍の中国軍と対峙して苦戦を続けていたため、第三、第十一師団は応急動員のまま出発、8月24日未明より呉淞(ウースン)およびその上流揚子江岸に上陸した。
 クリーク*とトーチカ**に拠る中国軍十五万の抵抗は激しく、我軍の攻撃は9月に入ってから停滞し、兵員の損害も急増したため、統帥部は台湾から重藤支隊(約1個旅団)を、内地からは第九、十三、百一各師団、野戦重砲兵第五旅団などを増派した。激戦の末、10月下旬に中国軍は退却を開始し、派遣軍は進撃に移り、26日大場鎮を占領、進んで蘇州河を越え、11月9日大上海全域を占領した。
 11月8日までの上海戦に於ける我軍の戦死者は9,115、負傷者は31,257。南京占領までを合算すると戦死者は21,300、負傷者は5万余に達する大激戦であった。」(『大東亜戦争への道』p.422-423)
*クリーク:小運河  **トーチカ:鉄筋コンクリート製の防御陣地

少し補足すると、戦闘が開始されたとはいえ当初の日本軍は4~5千人程度の兵力しかなく、一方国民党軍は8月17日の段階で7万名を超えていたというから、日本軍は本土から援軍が来るまでわずかな兵力で持ちこたえなければならなかったし、我国の援軍が到着した後も、次から次へと繰り出してくる中国兵との苦しい戦いを余儀なくされている。
Wikipediaによると、第二次上海事変においては航空機、戦車、軍艦の数では日本軍が優っていたのだが、兵士の数では中国兵約60万に対し日本兵は約25万と、圧倒的に中国兵が多かったのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

子供の頃に中国軍は「烏合の衆」で、日本軍の相手ではなかったという話を何度か聞いた記憶があるが、第二次上海事変では日本軍に多くの犠牲者が出ている。では、中国軍は日本軍に対してどのような戦術で臨んで日本軍を苦戦させたのであろうか。中村粲氏の文章を続けよう。

大東亜戦争への道

「上海付近の中国軍官民は、長年にわたって排日・侮日思想を鼓吹されてきたため、日本への敵愾(てきがい)心が強く、婦女子を含む一般人民までゲリラ行動に出たため、作戦は頗(すこぶ)る困難であった。また中国軍は、後退する友軍の兵を射殺する『督戦隊(とくせんたい)』という異常かつ非人道的な部隊を第一線の後方に配置したため、退路を断たれた中国兵は命を捨てて頑強に抵抗せざるを得ず、ために極めて悲惨な状況が展開したのであった。
 また中国軍は退却に際しては、重要交通機関や建造物を破壊、焼却するいわゆる『清野(せいや)戦術』*を行なったため、その道路周辺は忽ち無残な荒廃に帰したのである。のみならず敗退する中国将兵の中に『便衣隊』となり、軍服を平服に着換えて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かす者も少なくなかった。これは明白に戦時国際法の違反であった。」(同上書 p.424)
*清野戦術:焦土戦術のこと。敵が行っても泊まるところも食べるものもないように、全部焼き払う戦術。日本軍に追われた支那軍は退却の際、何もかも焼き払い、同胞も平気で犠牲にした。そのため、退路周辺はたちまち荒廃に帰した。

以前このブログで、日本に留学していた中国人陳登元氏が帰郷した際に徴兵され、日中戦争に従軍させられて負傷した体験談をもとに記された『敗走千里』という本の一節を紹介したことがあるのだが、その本には『便衣』になって逃げ延びようとした兵士の話や、『督戦隊』に銃殺されて、兵士の死体の山が出来たなどの話が赤裸々に記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

この本は戦後まもなくGHQによって焚書にされてしまったのだが、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で内容を解説しておられるだけでなく、日本文化チャンネル桜でこの本の講話をしておられる番組を、誰でもYouTubeで視聴することが出来るようになっているのはありがたい。


当時陸軍少佐であり、後に参議院議員となった松村秀逸氏は著書で督戦隊についてこう述べている。この本は、国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。
松村秀逸

「支那軍は第一線に雑軍を立てる場合が多い。その後に督戦隊が頑張っていて、逃げ出そうとすると後ろから撃つのである。また無茶なことをするもので、トーチカの中で手枷・足枷をつけて、鎖でくくりつけたり、トーチカの鉄の扉に外から錠をかけたりしている。私は北支戦線でも広東でも、この手枷・足枷を見たのであるが、全くひどい事をするものである。要するに逃げ出さないように万般の手段を講じているので、進むも死、退くも死、必死の地に追い込んで、戦いをさせるのである。最も激戦だった上海戦線の如きは八段構えの布陣である。第一線、第二線と第八線迄あって、これを時々取り替えるのである。『この前督戦隊で、おれを撃ったから、今度はこっちが撃ってやるぞ』という寸法。支那人同士が仇討ちのつもりで、第一線が逃げ出そうとすると後ろから撃つのであるから、頑強な抵抗をしたわけである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218491/22

松村氏によると、このような督戦隊は15~16世紀にはいずれの国にも存在し、傭兵のような自国に対して忠誠心の乏しい兵士を働かせるために、後方に督戦隊をつけて戦わせたのだという。

中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲された

Wikipediaで「督戦隊」を調べると、こう記されている。
「国家の近代化と市民化が進むにつれ強制徴募は衰退し、戦時国際法・ハーグ陸戦条約などでは占領地での兵の強制徴募が禁止されることになる。しかしそれ以降も徴兵令による兵士(徴集兵)やゲリラ兵、市民兵、あるいは自国内で不正規に徴発された兵士(強制徴募兵)を督戦するための兵や部隊がしばしば登場した。
第二次世界大戦時、主に独ソ戦のソ連労農赤軍に於けるものや中国軍におけるものが有名である。1937年の南京攻略戦の際にも敗退して潰走する国民党軍将兵を、挹江門(ゆうこうもん)において督戦隊が射殺したと言われる事件でもその存在が知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E6%88%A6%E9%9A%8A

挹江門

第二次上海戦争で敗れた中国軍は撤退を始め、当時の首都であった南京に防衛線を構築した。挹江門というのは南京城の北西にあり揚子江に最も近い場所にある城門である。
閉ざされた挹江門の城壁を登って越えて逃げようとする中国兵を射殺したのが正式な督戦隊であったかどうかは議論があるようだが、南京戦を経験した日本軍の兵士たちが督戦隊について語った証言が残されている。

nanking_senshi01.jpg

『証言による「南京戦史(6)」』p.10に掲載されている高橋義彦中尉の証言を紹介しよう。
高橋氏は当時第6師団左側支隊に所属し、(12月)12日に新河鎮の部落まで進軍して、13日に揚子江沿いを下関(シャーカン)に向かう予定であったが、13日の早朝5時ごろから敵の総攻撃を受け、最初の頃は勇敢な兵士が出てきて手こずったが、9時ごろから次第に敵兵の質が落ちて、11時頃に出てきた敵は戦意を失っていたという。

南京地図

「(12月)13日11時頃、敵の突撃部隊は便衣を着た民兵たちで、質が落ちてヘッピリ腰で押し出してくる。異様な感じがした。見れば、私たちの抵抗をうけて反転しようとする兵を督戦隊が後方から射殺している
督戦隊は『督戦』という腕章.をつけ、大型モーゼル拳銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃部隊を押し出すのが任務であったようだ。 味方撃ちで殺された敵の死体は、死体総数の約1割、三百名を下らないと観察した。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

高橋氏によると9時以降繰り出してくる敵兵の約半分は督戦隊によって射殺され、戦場には遺棄死体が約2300、水際付近には約1000あったと記している。そして、「遺棄死体の服装は区々であったが、一般住民は混入しておらず、すべて武器を持った戦闘員であった。また付近には住民は一人も居らなかった」とある。

中国兵の多くが軍服を着用していない「便衣兵」であったのだが、これは明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうことになるからだ。
南京陥落の前日である12月12日に、中国兵多くが商店などからの掠奪をし、軍服を脱いでいることがニューヨークタイムズのダーディン記者が目撃している。その記事が『証言による「南京戦史(5)」』に掲載されている。

12日の夕方、彼等は安全地帯に充ちあふれ数千の兵士は軍服を脱ぎ始めた。民間人の服を盗んだり、通りがかりの民間人に頼んでわけてもらったが、どうしても『非戦闘員』に化けきれない兵士は、最後には軍服を捨てて、下着姿となった。
持っていた武器は、軍服と一緒に投げ捨てられたので、街頭には銃や手榴弾、軍刀、鉄カブトが山積みされた。特に下関付近に棄てられた軍需品の数は驚くほど大量だった。逓信省前から二区画にわたって、トラック、大砲、バス、乗用車、荷馬車、マシンガンの類がまるでガラクタ置場のように散乱していた。
そして12日の深夜には、南京市が誇る豪華な建物の逓信省に火が放たれ、中に貯蔵されていた弾薬は、物凄い音をたてて、数時間にわたって爆発を続けた。火はやがて付近のゴミの山に燃え移り、この日は翌日も燃え続けた。…
中国軍部隊のうち、数千名は下関に辿りつくと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない『パニック』のため、揚子江で溺死するものも沢山あった。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

そもそも蒋介石は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡していたのだから、中国軍に戦意が乏しかったことは当然なのだが、13日に南京が陥落して日本軍の勝利となったとはいえ、これで戦争が終わったわけではない。南京政府は都落ちしたが、四川省の重慶へ遷都し抗日政権は残っていたのだ。

ここで考えて頂きたいのだが、南京の戦場に残された遺棄死体の多くが軍服を着ていなかったし、遺体の処理は中国側が実施した。武器を回収してしまえば、遺棄死体や処理のために運ばれた死体だけを見れば住民ともども虐殺されたと誤認される可能性が外見上からはありえたということは重要なポイントである。その点を衝いて蒋介石は、プロパガンダで日本を貶める戦略を考えていたようである。

南京事件--国民党極秘文書から読み解く

東中野修道氏の『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』によると、国民党は上海戦に次ぐ南京戦に勝算がないことは承知していたという。しかし蒋介石には別の狙いがあったという。

「だからといって日本との戦いを放棄することはなかった。中央宣伝部が『抗戦6年来の宣伝戦』(1943年)で〈現代戦は武力戦とともに宣伝戦が勝敗を決する決定的要因である〉と言うように、彼らは武力戦で負けても宣伝戦でかつという国策に立っていた。そして董顕光の率いる中央宣伝部はかってない宣伝戦を計画した
 極秘文書の中の『編集課工作概況』は、編集発行した『英文日刊』について、次のように報告している。
 『…たとえば首都(南京)防衛戦のときには我軍の勇気を奮い起こした作戦、後方の救援工作を宣伝し、首都が陥落した跡は、敵の暴行を暴き、武漢会戦の段階では、わが軍事力が日増しに増強したことを宣伝した。』
 つまり中央宣伝部からすると、南京戦の焦点は陥落後の敵軍(日本軍)の暴行を宣伝する宣伝戦に絞られていた。…
 …中央宣伝部が国際宣伝において重要視していたことの一つは『各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする』ことであった。つまり『われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果がある』のであり、そのための工作が重要であった。」

南京陥落直後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いたのだが、この時に世界の報道機関は二紙に追随しなかった。主要国の記者は南京にいたので、何が真実であるかがわかっていたようである。
国民党政府は米紙の報道があったことを根拠に、この事件の直後の1938年2月に国際連盟における顧維鈞の演説で2万人が日本軍に虐殺されたことを世界に向けて公言したのだが、これも世界の反応がなかったという。当時は主要国の記者が南京にいたので、中国の主張が嘘であることが判断できたのだろう。

しかしながら、その後中国は東京裁判以降このプロパガンダを何度も繰り返し、わが国が長きにわたり積極的な反論を行なわなかったために、今では『南京大虐殺があった』という説が世界の多数説になってしまっている。

わが国のマスコミや学校で「自虐史観」が今も拡散されているのだが、当時の南京の写真や映像を先入観なしで観ていただいて、本当は何があったのかを多くの人に考えてほしいと思う。
当時の新聞や写真で報道された、日本軍が南京戦に勝利したあとの南京の写真や映像が数多く残されているのだが、いくつかを見れば、その後に南京に平和が訪れて住民の笑顔が戻ったことが分かっていただけるだろう。

南京風景

Wikipediaに当時の写真がいくつか紹介されているが、上の写真は南京陥落の4日後の12月17日に日本軍による南京入城式が行われた後に、「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民の画像である。(昭和13年1月11日発行『支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影』第15集)
また下の写真は12月20日に南京城内中山路にて子供達と戦車の玩具で遊ぶ日本兵の画像である。(昭和13年刊、朝日新聞『支那事変写真全集〈中〉』)

南京事件1220

もう一度言うが、アメリカの2新聞が「日本軍による大虐殺があった」と報じた日は、12月15日と18日であるのだが、もし本当に大虐殺があったのならば、子供がこのような表情をするはずがないのだ。

また南京陥落の翌年である昭和13年の2月に封切られた『戦線後方記録映画「南京」』がYouTubeで公開されている。



この記録映画は昭和12年(1937)12月14日から翌年1月4日に至るまでの間、南京城内外の様子を撮影したものだが、通説では南京陥落後に『南京大虐殺』が行なわれたことになっていることを頭に入れて、多くの人にじっくり見て頂きたい映像である。
もちろん、わが国が編集したものだからわが国にとって都合の悪い場面はカットされている可能性は否定できない。

南京入城式

とは言いながら、12月17日に陸海軍による入城式が整然と行われ、18日には陸海軍合同慰霊祭が厳かに挙行されている
多くの中国人が映像に出てくるのだが、日本人を恐れている様子は感じられない。正月になって爆竹を鳴らして遊びに興じる子供達の明るい表情を見れば、陥落後わずか1か月で南京の人口が20万人から25万人に膨れ上がったことが、誰しも納得できるのではないだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html


関連記事

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか

前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。

蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる

唐生智将軍記念館

というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党革命委員会の中央常務委員、全国人民代表大会の常務委員会委員、全国人民政治協商会議の常務委員会の委員などを歴任している。調べると南京には「唐生智将軍記念館」というものまでが存在するようだ。
南京戦の最高司令官の任務を放棄して逃亡し、多くの自国の兵士を死なせてしまったのなら、普通に考えれば極刑に処されてしかるべきところだが、そうならなかっただけでなく、偉人扱いされているのは何故なのか。

しかも唐生智は、中国兵が最もショックを受けるタイミングで南京を脱出しているのだ。
前回の記事で書き漏れてしまったが、日本軍は12月9日に空から「投降勧告文」を投下している。そこにはこう書かれていたと12月10日付の朝日新聞に報道されている。

投降勧告

日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり。…本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、即ち南京城を和平に開放し、しかして左記の処置に出でよ。…
本勧告に対する回答は12月10日正午…もしも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば日本軍はやむを得ず南京城攻略を開始せん
。」(水間政憲『ひと目でわかる 日韓・日中の歴史の真実』p.48所収)

ところがこの勧告を総司令官の唐生智が拒絶したため、日本軍の南京城攻撃が決定してしまった。
しかしながらこの唐生智は、日本軍が中華門の一角を占拠した12日夕刻に、自軍に対して撤退命令も出さないままに南京を逃亡してしまったのである。当然のことながら中国軍は大パニックに陥った

Wikipediaには、12月12日の夕方以降の出来事についてこう記されている。
逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門(ゆうこうもん)に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった
この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。…高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%B9%E6%B1%9F%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

挹江門

この城壁の高さは15メートル近くはあっただろう。飛び降りて逃げることは不可能だ。しかも周囲は真っ暗だったはずである。
前回の記事で紹介した『戦線後方記録映画「南京」』には、南京城内から挹江門の城壁を乗り越えて逃げようとした兵士たちが、城壁を降りようとした際に用いた多数の手作りのロープや、乗り越えたあとに脱ぎ捨てた軍服や、打ち捨てた夥しい兵器類など生々しい映像に残されているので、一度視聴されることをお勧めしたい。この映像をスタートさせて6分した頃から挹江門周辺の影像が紹介されている。
https://www.youtube.com/watch?v=nos2prviBq8

挹江門城壁の綱

「ロープ」と言っても決して頑丈なものではなく、帯・ゲートル・縄など長いものを結びつけて作ったもので、その「ロープ」に多くの兵士が殺到して降りようとしたため、持つ手が滑ったり、ロープが重さに耐えられずに切れたりして多くの兵士が落下し、圧死した者が上に積み重なって死体の山が出来たと考えるのが自然だと思う。
後ほど紹介するが、米国『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、南京陥落直後挹江門を通った時に、5フィート(約1.5m)の死体が積もっていてその上をやむなく車を走らせたと12月15日付の新聞記事に書いている。もし日本軍との銃撃戦でこれらの兵士が死んだのなら、その死体が5フィートもの高さで積み重なるはずがないことは誰でもわかる。

Falsehood_in_The_Rape_of_Nanking4.jpg

城壁をなんとか下りて脱出に成功した中国兵たちはそれから揚子江方面に向かっていったのだが、今度は数少ない船を奪い合う争いが起って川岸には多くの兵士の死体が散乱し、溺死していた兵士も多数いたことが目撃されている。

南京戦の戦闘地図

そして翌13日には日本軍が南京城に迫り、揚子江沿いに逃げようとする中国兵と日本軍との銃撃戦となったのだが、中国兵の多くはいわゆる『便衣兵』で軍服を着ていなかったという。また彼らの後ろには督戦隊がいて、逃げようとする多くの兵士が味方の督戦隊に射殺されて、戦場には多くの便衣兵の死体が残されたのである

揚子江に近い挹江門から下関(シャーカン)近辺はそんな状況であったが、南京城内で軍服を脱ぎ捨てて、住民が避難していた『安全地帯』に潜り込んだ中国兵もかなりいた。

中国軍が総崩れになったきっかけは、日本軍が南京の中華門の一角を占拠して唐生智が逃亡したあたりからなのだが、12日の夕方に数千の中国兵たちが軍服を脱いだことと、深夜に逓信省に火が放たれたことは、『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が目撃し記録している。
『証言による「南京戦史」(6)』の中で、当時第十軍参謀であった谷田勇氏は「中国軍の抵抗は12日城壁の線で終わり、13日には戦火を交えることなく城内を平定している。…
軍司令部は翌々日の14日午前、城内に入り、正午過ぎに南京路のほとりにある銀行の社屋に司令部を置いた。市内は既に平静で、駐留間一発の銃声も聞かなかった
。」と書いている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

また、『証言による「南京戦史」(5)』では、歩兵第47連隊速射砲中隊長として参加した安部康彦氏の証言があり、それにによると13日から17日の入城式までの間、一部の兵士に城内掃討を行なわせたがほとんど敵がいなかったという。
「掃討部隊から聞いた話では、便衣の敗残兵は、ほとんど退去した跡であり、掃討といっても遺棄された軍需品の収集や跡片づけが主な仕事であったとのことです。
その全体はわかりませんが、第9中隊の陣中日記によると、『各種弾薬数万発、青竜等数十本、軽機、重機数百挺、小銃六百挺、迫撃砲数門、毛布、天幕、軍服など遺棄されたもの多数』と誌してあります。遺棄された軍需品は多数であったと記憶しております。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

南京城内の残敵掃討は他の部隊も実施ししているが、相手は軍服を着ておらず民間人に成りすましていながら武器を持っている可能性があった。掃討の要領は各部隊により方針が微妙に異なっていた可能性があるが、例えば『証言による「南京戦史」(7)』で畝本正巳氏は、歩兵第6旅団の「掃討実施に関する注意事項」の中には「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とし、すべて逮捕監禁せよ。」という条項があり、実際に14日には「多数の俘虜及び兵器を鹵獲して、…この掃討間、反抗の気配があった敗残兵約七、八十名を射殺している。」と書いている。その日に俘虜250名に対し小銃230挺、軽機関銃11挺、対戦車砲2門、機関砲1門等を鹵獲したとあり、処刑されたのは敵兵であったことは間違いがなかったようだ。「便衣兵」を処刑することは戦時公法の認めるところであるのだが、事情を知らない人物が服装だけで判断すれば、一般市民を虐殺したかのように見えてもおかしくない。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking07.pdf

ここで前回の記事を思い出してほしい。

南京事件--国民党極秘文書から読み解く

東中野修道氏の『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』によると、国民党中央宣伝部の極秘文書『編集課工作概況』に「首都が陥落した後は、敵の暴行を暴き」「各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」と書かれているそうだが、彼らにそのような意図があったことを理解しなければ、南京を逃亡した総司令官の唐生智がのちに栄転した謎が解けないのである。唐生智が逃亡することで、中国軍兵士がパニックに陥り、南京城外には多くの便衣兵の死体ができ、城内では軍服を脱いで安全地帯の民家などに紛れ込んだ一部の兵士が処刑されたのだが、そのような状態を作って外国人記者に見聞させることが蒋介石のねらいだったのだろう。唐生智は抜群のタイミングで逃亡し、中国軍を大混乱させ、ほとんどの兵士を便衣兵にさせて多くを死に至らしめて、日本軍の暴行とする報道に結びつけることに成功したから評価されたのではないのか

「日本軍が中国の民間人を虐殺した」という中国が流したデマに騙されたのか、中国からカネを受け取って書くことになったのかは定かではないが、前回の記事で紹介したとおり、南京陥落直後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いている。では、具体的にはどんな内容であったのだろうか。

次のURLで、15日付の『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が書いた記事の全文が翻訳されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/steele.html

「<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。
 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた
 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。

 五フィートも積もる死体
 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィートの厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。」

スティールが下関門と書いているのは挹江門のことだと思われるが、先ほど少し触れたとおり、もし日本軍が銃殺していたのなら、5フィート(約1.5m)の高さに中国兵の死体が積み上がることはありえないし、また、日本軍と戦う直前に中国兵士が軍服を脱ぎ、大量の武器を捨てたことをどう説明するつもりなのだろうか。挹江門の周囲に武器が散乱していたのは、日本軍と戦う前に逃亡しようとした兵士が多かった以外には考えられないはずだ。

スティール記者の記事はこのくらいにして、次にダーディン記者の記事を読んでみよう。次のURLで、18日付の『ニューヨークタイムズ』の記事が翻訳されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html

ダーディン記者

「十二月十七日、上海アメリカ船オアフ号発 ニューヨーク・タイムズ宛特電
 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。…大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。…」

などと、まるで自分の目で日本軍による虐殺や暴行行為を見たかのようにレポートしているのだが、1987年8月にダーディンは、自分が書いた南京大虐殺の記事は嘘であったことを正直に告白しており、その文章がネットで読める。

この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が挹江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)」
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/7214269.html

蒋介石に協力して『南京大虐殺』の虚報を世界に流した当の本人が、南京の記事は嘘であったというだけでなく、日本軍が占領する前から中国兵の死体の山が出来ていたと思うと述べていることはもっと注目して欲しいところである。

前回も書いたが、このような2人の米人記者の記事を世界のマスコミは追随しなかった。そして翌年2月に、国際連盟における中国の顧維鈞の演説で、中国人2万人が日本軍に虐殺されたと述べたのだがその時も相手にされなかったことは知っておいてよい。
そもそも『南京大虐殺』という言葉が使われるようになったのは東京裁判の時であり、東京裁判の際にも、中国側は虐殺を目撃した証人を出す事ができなかった。
しかしそれ以降、わが国の左翼と連携して何度もこのプロパガンダを繰り返し、わが国政府が積極的な反論を行なってこなかったことから、いつのまにか教科書に『南京大虐殺』が掲載されるようになり、先日はこのウソ話がユネスコ記憶遺産にも登録される見通しになったことが報道されている。

南京大虐殺 記憶遺産へ

中国がこの申請を行なったのは昨年の6月の話なのだが、藤岡信勝(拓殖大学客員教授)らが外務省に対してこの問題にどう取り組んできたかを尋ねたところ、外務省は6回にわたり中国政府とユネスコ事務局に対し反対意見を提出したと答えたそうだ。そこで藤岡氏が、それならばその反対意見の内容を公表せよと迫ったが、外務省はそれを拒否したという。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5985.html

上記URLによれば、中国がユネスコに申請した書類は写真もフィルムも日本軍とは関係がなく、中国人の日記や日本兵の供述書も捏造されたものばかりで「日本軍の犯罪の証拠」とはなりえないものだという。それならば、外務省が反論することは容易であるはずなのだが、反論内容を国民に堂々と公表できないということは、外務省は本気で中国やユネスコと戦っていないと言っていることと同じである。

ユネスコで記憶遺産に登録されたということは、第二次世界大戦は日本だけが悪かったという歴史観を固定化させようとする「歴史戦」なのだが、この戦いを今までのように政治家や官僚や学者やマスコミに任せてもロクなことがなかったし、これからも同様であろう。
わが国は民主主義国家なのだから、まずは国民が真実を知り、おかしな動きをする勢力に「NO」を突きつけて、国民の強い意志を示して政治家を動かさないことには世の中は変わらないのである。
まずは、昨年54億円以上も支払ったユネスコに対する拠出金を凍結せよ。その上で、今回の外務省の失態を徹底的に国会で糾弾せよ。

黄河決壊事件

さらに、中国が民間日本人223名を虐殺した昭和12年(1937)の通州事件と、昭和13年(1938)に中国国民党が日本軍の進撃を止める目的で仕掛けた黄河決壊事件で数十万人の犠牲者が出て、日本兵が多くの地域住民を救助した史実を教科書に載せるだけでなく全世界に発信して、いかに中国という国がウソばかりついてきた国であることを世界の人々の記憶に留めさせよ。
ここでわが国が毅然とした態度を取らなければ、これからも中国から舐められるだけではないのか。
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「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.htm


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田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか

学生時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)を学んだ時に、「賄賂政治」をしたなどと書かれていてあまり良いイメージを持っていなかったのだが、最近では田沼時代が評価されてきているようだ。

たとえば一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』を読むと、昔の教科書とは異なる書き方になっていることに気付く。

田沼意次

「…10代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は600石の小身から身をおこして大名となり、側用人、ついで老中として20年間も幕政の中心にいたので、この時代を田沼時代とよんでいる。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用してそれまでにない積極的な政策をとった。幕府直営の座を設けてと銅や鉄を専売にしたり、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収したり、俵物とよばれる海産物の増産につとめて中国に輸出するなど、幕府の収入の増大をはかった
しかし下総の印旛沼や手賀沼の干拓事業は、途中で大洪水にあって失敗し、武蔵・上野に反物や綿糸の検査料を徴収しようとしたことも、産地の農民が一揆をおこして抵抗したため廃止となった。
意次が新しい計画をたてると、その利権をえようとする業者が暗躍し、役人のあいだにも公然と賄賂がおこなわれて、政治はみだれ、新事業も健全な発展をみることができなかった。」(『もう一度読む 山川の日本史』p.186)

昔の教科書では、田沼時代に賄賂が横行したこと以外は印旛沼や手賀沼の干拓事業のことが少し書かれていた程度の印象しかないのだが、明和7年(1770)には幕府の備蓄金が171万7529両となって5代将軍綱吉以来の最高値となり、幕府の財政基盤の確立に成功したことは評価して良いだろう。

Tanuma Okitsugu

外国人による日本研究の先駆者で同志社大学で教鞭をとり、瑞宝章を受勲したジョン・ホイットニー・ホール氏は『Tanuma Okitsugu』において『意次は近代日本の先駆者』と評価しているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

しかしながら、天明3年(1783)の浅間山噴火などを契機として大凶作となり、米価が高騰して各地で百姓一揆が起こる政情不安な時に、意次の実子である若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺され、それ以降田沼意次の力が衰えていく。

田沼意次の失脚についてWikipediaにはこう記されている。
天明6年(1786)8月25日、将軍家治が死去。…8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された
。長男の意知は一昨年に暗殺されており、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。…
その2年後にあたる天明8年(1788)6月24日、江戸で死去。享年70。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

田沼意次の末路は随分苛烈なものとなったのだが、田沼が失脚した後、天明7年(1787)に徳川家斉が第11代将軍に就任し、松平定信が老中首座となっている。その後定信が主導する反田沼派が井伊直幸、水野忠友、松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃し、田沼派路線を否定して幕風紀粛清、重農主義に回帰する等の寛政の改革に乗り出したのだが、むしろ財政は悪化して田沼時代の資産を食いつぶす形になったという。

このあたりの激しい権力闘争を理解するために、田沼意次がどういう経緯で600石の小姓から老中にのし上がることが出来たかを振り返っておこう。

田沼意次は、第八代将軍徳川吉宗の小姓であった田沼意行(たぬまおきゆき)の長男として享保4年(1719)に生まれ、享保19年(1734)には、後に将軍となる徳川家重の小姓に抜擢されたのだが、その年の年末に父が死去し父の遺跡600石を継いでいる。

延享2年(1745)に家重が第九代将軍に就任し、それに伴って意次は本丸に仕えることとなり、寛延元年(1748)に1,400石を加増され、宝暦5年(1755)には更に3千石を加増され、さらに宝暦8年(1758) 1万石の大名に取り立てられている
宝暦11年(1761)、将軍家重が死去した後も、世子の第十代将軍徳川家治の信任は厚く、明和4年(1767)にはさらに側用人へと出世し5千石の加増を受け、さらに従四位下に進んで2万石の相良城主となり、明和6年(1769)には侍従にあがり老中格。安永元年(1772)には相良藩5万7千石の大名に取り立てられ、老中を兼任している。

なぜ意次がこのような破格の出世を遂げることが出来たかについては、家重、家治の2代にわたり将軍からの信頼が厚かったことがあるのだが、この2人がどのような経緯で将軍となり、またどのような人物であったのかを知ることがポイントになる。

徳川家重

江戸幕府の公式記録である『徳川実記』には、徳川家重について「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とあり、さらに「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と書かれている。生来虚弱の上言語不明瞭であったらしいのだが、要するに徳川幕府ですら第九代将軍の家重が政治家としては無能であったことを認めているようなものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D

家重は八代将軍吉宗の長男であったのだが、次男の宗武は幼少より聡明で将軍後継者に推す声もあったようだが、結局吉宗は家重を自分の後継者としている

徳川吉宗

その理由については、吉宗が長幼の序を重んじたという説や、家重の嫡男・家治が聡明であったのでその将来に期待したなどという説もあれば、吉宗が将軍職を譲ってからも幕政に影響力を保持しようとしたという説もあり、家重は言語不明瞭ではあったが頭は良かったという説もある。いずれの説が正しいかは読者の皆さんの判断にお任せすることにして、吉宗の後継を誰にするかで、家重の兄弟間で揉め事があったことは押さえておくべきである。

徳川吉宗には長男が家重で、ほかに聡明な二男・宗武(むねたけ)や四男・宗尹(むねただ)がいて、この二人のいずれかを新将軍に推す動きがあったという。特に宗武は本人も将軍となることを欲していたようである。
しかし吉宗は、家重を将軍とすることを決めたことに不満を持っていた次男の宗武を3年間登城停止処分とし、次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免している

また徳川吉宗は、次男の宗武、四男の宗尹を養子に出さずに部屋住みのような形で江戸城内に留めて、田安徳川家(初代当主:宗武)、一橋徳川家(初代当主:宗尹)を創設し、後に家重の二男の重好も別家として取立てて清水徳川家が創設され(田安・一橋・清水の三家を御三卿と呼ぶ)、徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担わせている。
つまるところ吉宗は、自分の後継者決定に関わるトラブルを、それぞれの子孫から将来的に将軍が生まれる可能性があることを示すことで解決しようとしたと理解すればよいのだろうか。

徳川家治

では、第十代将軍の家治はどんな人物であったのか。
Wikipediaによると家治は幼少より聡明で、祖父である大御所の徳川吉宗の期待を一身に受けて育ち、吉宗は死ぬまで家治に帝王学等を直接指導したとある。
そして家治は、宝暦10年(1760)に父・家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、父の死後はその遺言に従って田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元の死亡の後は幕政を老中に任命した田沼に任せるようになり、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなったという。

ところが、安永8年(1779)、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代を自分の養子にしている。
そして天明6年(1786)に家治が50歳で急死したため、15歳の豊千代が第11代将軍・徳川家斉となり、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主の松平定信を老中首座に任命した
のである。

松平定信

そしてこの松平定信が寛政の改革を行ない、田沼派の老中や大老が追い出したのだが、なぜ松平定信が激しく田沼派を追い出そうとしたかを考えると、血のつながりの問題に辿りつく。重要なポイントであるのだが、松平定信は、吉宗の後継を誰にするかで揉めた田安徳川家の初代当主である宗武の七男なのである。田安家にせよ一橋家にせよ、無能で何を言っているかもわからないような家重を支えた田沼らを、快く思っていない可能性は高かったはずだ。

田沼の悪評は田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたものなのである。もし世に言われるほどの賄賂を受け取っていたのなら、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがあってもおかしくないのだが田沼には何もないのである。また、意次が失脚した際に巨万の財産が没収されたというような話もないのだという。
伊達藩主の伊達重村が昇進のために老中筆頭の松平武元と側衆の田沼意次と大奥老女高岳に金品を用意して面会を申し込んだ記録が『伊達家文書』に残されているのだそうだが、それによると松平武元と老女高岳は受け取り、田沼意次は「わざわざ御出にもおよばず」と断っているという。

江戸時代

日本近世史の権威であった故・大石慎三郎氏は「田沼意次に関する汚職談には歴史学の問題として信頼するに足るものは一つもないのみならず、その主要なもののなかには明らかに先学の過誤にもとづくものさえある有様である」と書いておられるのだ。(中公新書『江戸時代』p.207)

少し考えればわかる事だが、田沼意次を失脚させた側である松平定信らにとっては、田沼時代の政策を批判してその評価を下げることが、相対的に自らの評価を高めることにつながることになるのである。いくら公式記録に書かれていることであっても、政敵側が編集した文書を長きにわたり鵜呑みにしてきた日本史研究者の研究姿勢に問題はなかったか
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『明暦の大火』の火元の謎を追う
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シーボルトと日本の開国
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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