HOME   »  2015年11月
Archive | 2015年11月

三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて

大津市歴史博物館の企画展を楽しんだ後、すぐ近くにある円満院を訪れた。

円満院は寛和3年(987)に村上天皇の皇子である悟円法親王によって創建され、以来皇族が入寺する門跡寺院となり、戦前までは三井寺(園城寺[おんじょうじ])三門跡の1つであったのだが、戦後になって三井寺から独立したのだそうだ。

円満院宸殿

安土桃山時代の建築物である宸殿(しんでん)は、明正天皇の御殿を下賜されて正保4年(1647)に御所からここに移築されたもので、国の重要文化財に指定されている。以前各室には狩野派による障壁画(国重文)が描かれていたのだが、今は複製したものが襖に貼られている。本物は売却されて京都国立博物館に収納されているのだそうだ。

円満院庭園

宸殿に南面して作られた庭園は、室町時代の造園家である相阿弥の作と伝えられる池泉観賞式庭園で、国名勝・国史跡に指定されている。

いろいろこの寺について調べていくと、宸殿の障壁画が売却されただけでない。円山応挙の「絹本著色孔雀牡丹画」「紙本著色七難七福図」ほか、絵画や書跡など多くの重要文化財を保有していたのだが、すべて手放してしまっている。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/bunkazaimokuroku/files/20.pdf
また、2009年には宸殿や庭園までもが競売にかけられて、ある宗教法人に10億6700万円で落札され所有権が移転しているようだ。
http://blog.goo.ne.jp/jiten4u/e/97d33b3c3e48bf160e09dba733fc283a

以前の門主が水子供養事業などに乗り出して多額の債務を抱え込み、借金のカタに取られていた文化財が競売されることになってしまったわけだが、文化財を担保に金を借りるという行為自体を禁止しなければいけないのだと思う。この人物は円満院を追われた後、戒名ビジネスを展開し、さらにその息子は、出家すれば戸籍の名前を法名に変更できる仕組みを悪用して、多重債務者を出家させて別人とし、金融機関からローンをだまし取る詐欺行為(出家詐欺)で逮捕されているようだ。
https://sites.google.com/site/antireligionwiki/shukkesagi
宗教法人の悪用が後を絶たないようだが、こういうことを許さない取組みが、行政にも宗教界にももっと必要だと思う。

大津絵美術館

円満院の拝観ルートを進んでいくと、最後に大津絵美術館がある。大津絵は江戸時代の初期から大津で描かれていた民族絵画で、神仏や人間や動物などがユーモラスに表現されていて、大津の宿場を訪れた旅人達が縁起物として購入していったという。

三井寺マップ

途中で昼食を取って、いよいよ三井寺の中心部に向かう。

園城寺仁王門

上の画像は、国の重要文化財に指定されている仁王門で、宝徳4年(1452)に建立の湖南市の常楽寺の門を、慶長6年(1601)に徳川家康によって移築されたものである。

園城寺釈迦堂

この門を潜ると右手に釈迦堂(国重文)がある。これは室町時代中頃の建物を元和7年(1621)に移築したものだそうだ。

たまたま、国宝の光浄院(こうじょういん)客殿が特別公開をしていたので、そちらに向かうことにした。

光浄院客殿

境内での写真撮影が禁止されていたので、自分のカメラで外から撮影したのだが、門の奥にある大きな屋根が、国宝の光浄院客殿の屋根で、その左側に国名勝の光浄院庭園がある。

光浄院は三井寺の子院で、客殿は慶長6年(1601)に山岡道阿弥によって再建され、「書院造」の代表的遺構として国宝に指定されている。障壁画は狩野山楽をはじめとする狩野派の筆によるもので、国の重要文化財に指定されている。

光浄院

また客殿の南面に拡がる光浄院庭園は室町時代に作庭されたもので、国の名勝史跡に指定されている。上の画像は入口で頂いた絵葉書であるが、せめて庭園や建物ぐらいは自由に撮影させてほしいものである。

光浄院から南に進むと国宝の三井寺の金堂が見えてくるのだが、ここで三井寺の歴史を簡単に振り返っておこう。

壬申の乱(672)に敗れた大友皇子の子、大友与多王が父の霊を弔うために「田園城邑(でんえんじょうゆう)」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅願を贈られたことが園城寺(おんじょうじ:三井寺)の始まりだとされている。
実際に境内からは白鳳時代の瓦が出土しており、その時期の創建であることが裏付けられているという。
その後9世紀に唐から帰国した留学僧円珍により再興されたが、円珍の死後、延暦寺では円仁派と円珍派との対立が激化し、正暦4年(993)に円珍派が比叡山を下りて園城寺に入り、以後山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の抗争が繰り広げられるようになり、園城寺はしばしば戦禍を被ることとなる。
そして文禄4年(1595)、豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領の没収を命じられて、金堂をはじめとする堂宇は強制的に移築されたのだが、慶長3年(1598)に秀吉は死の直前にこの寺の再興を許可し、徳川家康らが再建に着手し、現在の堂宇が整えられたという。

園城寺金堂

上の画像は国宝に指定されている三井寺の金堂で、秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の寄進により慶長4年(1599)に再建された安土桃山時代を代表する建物である。

金堂の南東には、慶長7年(1602)に再建された鐘楼(国重文)がある。鐘楼にかかる梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られ、宇治の平等院、高尾の神護寺とともに日本三名鐘に数えられている。

閼伽井屋

金堂の後ろには慶長5年(1600)建立の閼伽井屋(あかいや:国重文)があり、その中に天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があることから「御井(みい)の寺」とされ、「園城寺」の別名を「三井寺」と呼ぶのは、この泉に由来するのだそうだ。この閼伽井屋の正面上部に、左甚五郎作と伝えられている龍の彫刻がある。

園城寺 弁慶鐘

ここから山手に上がると、「弁慶の引摺り鐘」伝説で知られる奈良時代の梵鐘(国重文)がある。

園城寺一切経蔵

そのすぐ南には室町時代の中期の建造物で、慶長7年(1602)に毛利輝元が周防国の洞春寺から移築し寄進した一切経蔵(国重文)がある。堂内には輪蔵と呼ばれる八角形の回転書架がありその中に高麗版一切経が収められているという。

園城寺三重塔

その南には室町時代の建物で、徳川家康により慶長6年(1601)に大和吉野の比曽寺(現在の世尊寺)から移築された三重塔(国重文)がある。

園城寺 唐院灌頂堂

そしてその南には円珍の廟所である唐院があり、灌頂堂(国重文:上画像)、唐門(国重文)、大師堂(国重文)、四脚門(国重文)がある。この辺りは三井寺の中でもっとも神聖な区域とされ、大師堂には2つの木造智証大師坐像(国宝)があるが、普段は公開されていない。

園城寺毘沙門堂

唐院を出て石段を下りて南に行くと、右手に元和2年(1616)建立の毘沙門堂(国重文)がある。

園城寺観音堂

さらに右手の石段を登って行くと、元禄2年(1689)に再建された観音堂や観月舞台などの伽藍が立ち並んでいる。観音堂は西国三十三所観音霊場の14番札所となっており、本尊の木造如意輪観音坐像は国の重要文化財となっているが、33年ごとに公開される秘仏のため拝見することはできなかった。

三井寺の観光を切り上げて、最後の目的地である大津市木戸の安養寺に向かう。大津市は想像していた以上に広く、ここまで来ると比良山の麓になる。

安養寺

この寺は非公開寺院で、文化財指定のある仏像などはないのだが、前回記事で紹介した大津市歴史博物館の25周年企画で、この寺の末寺である西方寺の平安時代の仏像を出展しておられる。今回ある人の紹介を得て安養寺の住職のお話を伺うことができたのは有難いことである。

安養寺の由緒書きによると、この寺は貞和4年(1348)に木戸城主・佐野豊賢により建立されたのだそうだが、元亀3年(1572)に織田信長に木戸城が攻められた際にこの寺も罹災してしまう。

安養寺本堂

その後天正9年(1581)に幻誉信窮(げんよしんきゅう)上人により再興され、現在の本堂は寛政6年(1794)に再建されたものだそうだ。

安養寺阿弥陀如来像

安養寺の御本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代に制作されたもので、もともとはこの地にあった正法寺という寺にあった仏像だと伝えられているが、6年前の調査でこの仏像の中から、鎌倉時代に納めたとみられる人間の歯と髪の束が見つかったという。そして輪状の髪の奉書の表面には「源氏女」と記されていたという。
このことは新聞でも大きく報道され、この仏像が大津市歴史博物館の『湖都大津社寺の名宝』展で、展示されたのだそうだ。

安養寺木造阿弥陀如来記事

平成21年10月7日付の京都新聞の記事によると、
「歯と髪の納入品が確認された仏像は全国的にも少ないという。歯等を入れるのは極楽往生を願ったり、仏像が生身に近づくという思想があり、博物館は『特殊な阿弥陀信仰の一端がうかがえ、貴重だ』としている」と書かれている。

また安養寺には、南北朝時代に描かれたという「阿弥陀来迎図」もある。写真で見ると衣の柄までが細かく描きこまれていて、頭髪には本物の人毛がらせん状に編み込まれているのだそうだ。

本物の「阿弥陀来迎図」は33年に1度開帳されるのだそうだが、2008年に開帳された際に傷んでいることに気付き、住職がこの来迎図を修復すると同時に、常に多くの人に見てもらえるようにと復元品の制作を決心され、4年がかりで完成されたという。

住職に本堂に案内いただいて貴重な復元品を見せていただいたが、素晴らしい阿弥陀来迎図であった。良く見ると金箔を髪の毛ほどの細さに切って後光だけでなく衣の模様までもが細かく表現されているのだが、遠くから見ると阿弥陀如来が光を発しているかのように神々しく見えた。
また本堂の裏には、円山応挙の次男である木下応受が描いた「拈華微笑図」もある。

前回の記事で、滋賀県には京都や奈良に次いで国宝や重要文化財が多いことや、文化財の指定を受けると法律の制約が多すぎるために、所蔵している仏像などに価値があることが分かっていてもあえて文化財指定を望まない寺社が多いことを書いた。
安養寺はかなり古くてしかも価値のあるものが残されていることは間違いがないのだが、いずれも文化財指定を受けていないのは、非公開寺院にとっては文化財の指定を受けるメリットよりもデメリットの方が大きいからだと私は理解している。

前回の記事で紹介した大津市歴史博物館の25周年の企画展で出展した寺院の多くは、観光においてはほとんど無名の寺である。滋賀県にはこういう名もなき寺に、古い仏像や仏画がいくつも残されていることに感心してしまったのだが、大津市歴史博物館の学芸員によると、「大津市近辺には今まで知られていなかった平安・鎌倉時代の仏像が数多くある」のだという。
「今まで知られていなかった」ということは文化財の指定を受けていないものがほとんどだと思われるが、そのような古い仏像が今まで大切に守られてきたことは素晴らしいことである。しかしながら、これから先このような貴重なものを、昔ながらの「祈りの空間」のままで、何百年にわたり維持していくことが可能なのだろうか。

冒頭で記した円満院の様に、戦後になって国の重要文化財すべてを失ってしまった寺もあるのだが、地域の高齢化が進んで寺を支えてきた檀家が減少するなどして、本業収入が減少傾向となっている寺は少なくない。安養寺はともかくとして、価値あるものを守り続けることは、多くの寺にとって容易なことではないのである。

前回の記事で少し触れたのだがが、今の文化財保護法では地方の文化財は守れない。この法律では、大手建設業者やセキュリティサービス業者は潤っても、寺社は逆に富を吸い取られることになりはしないか。
文化財を守るために一番大切な事は、これらの文化財を代々大切に守ってきた人々が、地元で普通の暮らしができる環境を整えることではないのか。若い世代が地元に残って生活が出来ない地方に未来はなく、地方の経済を活性化させて若い人が戻って来る経済施策こそが、地域の文化財を守り、地域の伝統文化を後世に繋いでいくために必要なことなのだと思う。

ではどうすれば地域を豊かにすることができるのか。
農家の人に話を聞くと、作物によっては、農協を経由して大手流通に売る場合と産直などで売る場合とは、農家の手取り収入が倍ほど違うのだそうだ。大手流通は利幅を取り過ぎており、地方の生産者は大手流通に農作物を売っても豊かになれない仕組みになっているということなのだが、このことを理解すると地方を豊かにさせるヒントが見えてくる。

都会の消費者が、都会資本の大手スーパーばかりで買い物をするのではなく、一部でも産直で買ったり、地元の生産者や加工業者などから直接ネットで買うようになれば、確実に地方の生産者は豊かになるのだ。そうすることで都会の消費者は、今まで以上に新鮮で美味しいものがかなり安く手に入り、地方の生産者は政府の補助金がなくとも潤うようになり、地域によっては若い世代が住み着くようになって、地域が経済的にも文化的にも甦ることが可能になるのではないだろうか。

そんな事を考えながら、滋賀県の文化財がこれからも長く地域の人々によって守られることを祈りつつ、いつものように地元の農産物や加工品などをいくつか買って、半日の旅を終えることにした。
**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




【ご参考】
このブログでいくつかの紅葉の名所を訪れました。よかったら覗いてみてください。

素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて~~隠れた紅葉の名所・大門寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-111.html

国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-218.html

三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-219.html

丹波古刹の「もみじめぐり」から香住へ~~香住カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-227.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

素晴らしい紅葉の国宝寺院・一乗寺から日本海へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-358.html

柴山漁港の競りを見学のあと出石神社、宗鏡寺の紅葉を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-359.html

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-360.html



関連記事

軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。

東南海地震震度

内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。
「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/

三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、近畿から中部までの広範囲で震度5を記録したのだが、Wikipediaに都道府県別の被害が纏められている。
それによると死亡・行方不明者は全国で1223名で、愛知県438名、三重県406名、静岡県295名の3県で全体の93%を越えている。また、住居の全壊は静岡県が6970軒、愛知県が6411軒、三重県が3776軒で、この3県が全体の95%を越えている。

これだけ大きな被害が出たというのだが、この大地震に関してはあまり記録が残されていないようなのだ。その理由についてWikipediaにはこう解説されている。

「当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。また翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。地震についての情報は、(1面ではない)紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも『被害は大したことはない』『すぐに復旧できる』といった主旨のこと、つまり実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容が書かれたにとどまる。
また、被害を受けた各地の住民は、被害について話さないように、とする戦時統制に基づく通達が行政側からまわった。例えば学徒動員され、半田市の中島飛行機の工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を『決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい』などと、教師から指示されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87


ここで、この時期に日本軍はどのような戦況にあったかを簡単に振り返っておこう。
昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てと出撃潜水艦の多くを失う壊滅的敗北を喫し、西太平洋の制海権と制空権を喪失。7月にはサイパン島で3万人が玉砕し、11月24日以降米軍は、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から新型爆撃機B-29で、日本本土への戦略爆撃を開始している。
ネットで東京が米軍に空襲された日を調べると、11月24日、27日、29日、30日、12月3日、6日と、随分高い頻度で繰り返し攻撃されているのだが、そんな最中に「昭和東南海地震」が発生しているのである。

昭和の動乱

この地震に関する記録はあまり多くないことを先ほど記したが、当時の小磯内閣で外務大臣を務めた重光葵(まもる)が、著書『昭和の動乱』に少しだけこの地震のことを記している。

重光葵

「…かくして、日本は国を挙げて日々焦土と化して行った。この惨状に直面しながら、食糧品を探し求める人々の声は悲痛であった。それにも拘らず、当時軍の主張した玉砕説は、当然のことのように考えられて、天皇の命ずるところとあらば、火の中にも飛び込む気持ちは、全国民にあった。
 空襲は、初期においては、名古屋一帯の工業地域に集中せられたため、同地域における軍需生産は多大の損害を受けたが、恰(あた)かもその際に起こったこの地方の大地震による損害は、空襲によるものよりも遥かに大で、豊橋地区は全滅し、ある種の精密工業は、恢復不可能の程度に破壊されるに至った。連日の空襲に加うるに、大地震の天災は、日本人にとってはまことに不吉のものであった。
 空襲と地震とによって、我が軍需工業は再び立つ能わざる致命的損害を受けた。にも拘わらず、軍需大臣以下の政府機関は勿論、工業経営者も労働者も、戦場における勇士の如くに、その職場に踏みとどまって災厄と闘った。飛行機工場の地下移転も考案され、幾分実現されたが、これは既に遅過ぎた。
 血と汗の奮闘で製作した飛行機及び船舶を初め多くの軍需品が、工場より送り出されたが、その少なからざる部分は、戦場に到着する前に海中に沈むか、また空襲により破壊された。」(中公文庫『昭和の動乱 下』p.270-271)
と名古屋一帯の工業地域が、「地震」で大損害を受けたと記されている。「津波」という言葉が用いられていないのだが、「軍需品が…海中に沈む」という言葉で伝えようとしたのだろう。

総務省のホームページに名古屋市における空爆の状況が纏められているが、名古屋市が本格的に空襲されたのは地震の後のことである。
「東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。
 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_06.html

そのような軍需工場に対する爆撃だけでなく、住宅地にも焼夷弾が投下されて多くの被害が出た記録は残されているのだが、重光葵は空襲による被害よりも地震による被害の方がはるかに大きかったと書いていることに注目すべきだろう。

ではこの地震による被害は具体的にどのようなものであったのか。
山下文雄氏の著書『津波てんでんこ』にやや詳しく書かれているので紹介したい。

津波てんでんこ

「この地震のため5万7千戸以上の住宅が全半壊、流失し、1200余の人々が死亡行方不明になっていたのである。…それどころか、日本航空産業の心臓部であった東海地方、特に愛知県で、飛行機工場の密集する名古屋の南部が大被害を受け、海軍の主力戦闘機、いわゆるゼロ戦を製作している三菱航空の道徳工場や、海軍の攻撃機などを制作していた半田市の中島飛行機山方工場などが倒壊し、動員されていた少年、少女たちが多数圧死する大惨事にもなっていた
 もっとも、これらの工場被害は、地震のためとはいえ、多分に人災の要素をもっていた。右の中島飛行機山方工場など、もともと明治時代に、軟弱な埋め立て地に建設した鋸形の紡績工場を接収し、飛行機工場にてんようしたものであった。しかも飛行機を製作するためには一定の広さを必要することから、転用に当たって、無謀にも中にあった柱を取り除いたりしていた。山方工場の当時の関係者から直接聞いた話によると、鋸で挽いて柱を切り取ったのだという。むろん、建物の耐震性に厳しい地震学者などには一切タッチさせなかった。こんな建物が震度6~7の地震に耐えられるはずがない。あっという間に倒壊して、右の山方工場だけでも97人の中学生や女学生(勤労学徒)を含む150人が圧死したのであった。」(『津波てんでんこ』p.110-111)

東南海大地震新聞報道

ところがわが国は、地震でこんなに大きな被害が出たことを国民に伝えようとはしなかったのである。山下氏は同じ著書でこう書いている。

「その12月8日。当日は米英に宣戦布告した『開戦記念日』、当時の言葉で言うと『大詔奉戴日』、つまりは宣戦布告についての天皇の詔勅が下った日とあって、新聞各紙は一面トップに天皇の大きな写真を掲載、それを飾るように特攻隊の出陣式の模様や、レイテ島に於ける斬込隊の武勇談などを満載していた。その裏の、ほんの片隅にあった『きのふの地震』(毎日新聞)、『昨日の地震―震源は遠州灘』(東京朝日新聞)などという小さな記事に、果たしてどれだけの読者が気付き、関心を持ったろう?いずれにしろ、これが戦時報道管制下でわずかに許された、前日12月7日に起こった東海大地震に関する記事であった。」

静岡新聞がこの地震に関する特集を2002年に連載していて、誰でもその記事をネットで読むことが出来る。地震被害の大きかった静岡県に本社を置く新聞ですら、僅か数行の記事しか書かれていないのは驚きだ。

「『昨日縣下に強震』『罹災者救助、復舊に萬全期す』。見出しも新聞の段数で縦二段、と目立たない扱い。県内の被害状況は短くまとめられている。
 それによると、『縣下一体にわたり道路の亀裂、堤防の崩壊等あつたが人的並びに家屋の損害は清水市以西に多く、発震と同時に数カ所に火災を発生した。いずれも即時消火し火災の被害は極めて軽微であつた。西遠地方の国民学校中には被害を生んだ処もあり学童も多少負傷した』となっている。」
http://www.at-s.com/news/article/others/36.html

しかしながら、この新聞記事が嘘であることは、当時の地元の読者は分かっていたはずだ。なにしろ静岡県では295名の死亡・行方不明者があり、6,970軒の住居が全壊したのだが、肝腎の津波のことを一言も報じていないのである。

情報統制はこの日以降も続き、山下氏の著書によると、地震被害の実態を新聞記者に伝えた人物が憲兵隊に連行されて拷問された話や、工場の休憩時間中に地震の怖さを話した女工が「敵に有利にデマを飛ばしたということになり」憲兵の取締りを受けたことなどが記されている。

東南海大地震調査概報

では、報道機関への情報の発信元となる中央気象台(現気象庁)はどのような記録を残しているのだろうか。
昭和20年2月20日発行の「東南海大地震調査概報」の表紙には「厳重注意」の但し書きがあり、肩には『極秘』の文字がある上、本文にもこう書かれていた。
『本報告ハ極秘事項ヲ含ムヲ以テ之ヲ厳重ニ保管シ其ノ保管状態ニ変動ヲ生ジタル場合ハ遅滞ナク発行者ニ報告シ用済後不用トナリタル場合ハ直チニ発行者ニ返却スベキモノトス』
http://www.at-s.com/news/article/others/38.html

尾鷲市津波の後

こんな具合に、軍はこの地震被害の情報を隠蔽しようとしたのだが、肝腎のアメリカでは日本の中部で関東大震災よりも強大な地震があり、津波が発生して軍需工場に壊滅的打撃を与えたことがニューヨーマタイムズ紙などでトップ記事で報じられたという。どうやらこの地震による津波がハワイやアメリカの太平洋岸に達して、これらの解析で震源地や地震の大きさを掴んでいたようなのである。
またアメリカは地震の3日目に偵察機を飛ばして、高度1万メートルから被害状況を調査していたようだ。その時に撮影した写真が米国公文書館に残されている。

三重県尾鷲市

上の画像は米軍偵察機が12月10日に撮影した三重県尾鷲の写真だが、○印の部分に津波で陸に打ち上げられた船が写っていることがわかる。記録によると尾鷲の津波の高さは5m~10mにも及び、そのために平地の家屋はほとんど全滅したのだそうだ。

ところで、この地震についてネットでいろいろ調べていくと、地震がアメリカによって人工的に起こされたのではないかという議論があることを知った。
その論拠としている資料はいくつかあるが、たとえば2005年4月に米国で公開された『地震を使った対日心理戦争計画』と題する米軍機密文書(1945年、CIAの前身である米戦略事務局OSSによって作成)で、それによれば第二次大戦末期の1944年にカリフォルニア大学のバイヤリー教授を中心とする地震学者たちが総動員され、 「日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるかシュミレーションを繰り返した」と書かれている。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247223

この地震がわが国にとって戦意を高揚させるべき「開戦記念日」の前日に起こったことや、アメリカが直ちに偵察飛行機を飛ばして被害を調査していることや、地震の数日後にB29から撒かれたビラに「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」と毛筆で書かれていたとする情報も確かに気になるし、1945年1月9日の読売東京の朝刊には「日本本土沿岸の軍海域に天文学的数量の炸薬を設置して一挙にこれを爆発させることによって人工地震をおこさせよう」とする研究が行われていることが報じられているのも気になるところである。

人工地震記事

その1月9日付読売東京の記事にはこう書かれている。
「ランネーの計算によれば、大阪沿岸の海底約4千平方呎(フィート)に仕掛けて相当の地震を発生させるには五億トンの爆薬が必要であり、多数の潜水艦がこの爆薬を約六百万トン鋼鉄の筒に入れて、爆雷と同様三千呎の海底に沈下させなければならぬという。
しかもこんな苦労をして地震を起こしたとしても果たしてどの程度の地震が起こるか測定することは不可のだという結論が出てご破算、さすがのヤンキーもフームと唸っているという。」
アメリカに人工地震という構想があったことは確かだとしても、当時は原爆も完成しておらず、津波を起こすのに5億トンもの爆薬が必要であったというのである。ちなみに広島の原爆はTNT火薬に換算して20キロトンで、2万トンのTNT爆薬を一瞬に爆破した時の破壊力であったというが、その2万5千倍の火薬が必要だという計算になる。

それほどの量の火薬がアメリカにあったかどうかはともかくとして、潜水艦にそんな大量の爆薬を積み込んで海底深く沈める作業にアメリカが膨大な日数と労力をかけるとはとても思えないし、しかも津波実験が成功するかどうかもわからない。普通に考えれば、大量の火薬をそんな使い方で費やすよりも、空襲で用いることのほうがはるかに自然ではないか。
「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」というビラが撒かれたことが真実であったとしても、それはアメリカが仕掛けた「情報戦」とも呼ぶべきもので、自然災害をわが国民に対する恫喝の格好の手段として利用したのではないかと考えるのが妥当だと思う。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】このブログで地震についていろんな記事を書いてきました。
地震の被害は、観光地などでは死活問題となるため、多くの情報が握り潰されています。

よかったら関東大震災の事例を読んでみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html



関連記事

浄瑠璃寺から岩船寺へ~~秋深まる当尾の里の名刹と石仏を訪ねて

毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく歴史的風土が良く残されていそうな場所を選んで旅程を組むのだが、今回は京都府の木津川市にある古社寺を巡る旅程を立てて、先日行ってきた。

最初に訪れたのは木津川市の東南部にある加茂町の浄瑠璃寺(0774-76-2390)である。京都府とはいっても、奈良県との県境に近い当尾(とおの)の里に位置している。この寺から南に1kmも進めば奈良県で、この地域は古くから南都の影響を強く受けてきて、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が穏遁の地として草庵を結び、それがやがて寺院となり「塔」の屋根が建ち並んだことから、いつしか「当尾(とおの)」と呼ばれるようになったという。

浄瑠璃寺 名所図会

上の画像は江戸時代の天明7年(1787)に出版された『拾遺都名所図会』にある浄瑠璃寺の境内の絵図であるが、今の境内図と見比べると、昔は鎮守社の白山神社と春日神社が存在していたことがわかる。また「当尾」を「塔尾」と書かれているのも興味深い。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_907.html

浄瑠璃寺境内図

この寺の縁起である浄瑠璃寺流記(るき:国重文)によると、永承2年(1047)に義明(ぎみょう)上人が開基したとあるが、もともとこの地域は興福寺の念仏別所として古くから仏教の盛んであった地域であったようだ。

浄瑠璃寺本堂

上の画像は嘉祥2年(1107)に建立された本堂(国宝)と浄瑠璃寺庭園(国名勝)である。

浄瑠璃寺の伽藍配置は、池を中心にして東に薬師如来を祀る三重塔(国宝)があり、西には阿弥陀如来九体を安置する本堂がある。パンフレットの解説によると「太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来、その太陽がすすみ沈んでいく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来」なのだそうだ。このような伽藍配置は平安時代の中頃から京都を中心に広まったのだそうだ。

本堂に九体もの阿弥陀如来像が置かれたのは、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経にある九品往生(くほんおうじょう)という考えにもとづくものだという。
わかりやすくいうと、同じ極楽浄土へ往生するにも、「上品上生」から「下品下生」まで9つのパターンがあり、9段階に区別された人々をそれぞれの仏が救うというものである。
平安時代後期にその思想が広まって9体の阿弥陀如来像を置くことが流行したそうだが、現在残されているのは、この浄瑠璃寺の本堂ただ一つである。

九体阿弥陀如来像

本堂の中は撮影が禁止されているのでパンフレットの写真を紹介するが、平安時代に制作された九体の木造阿弥陀如来坐像が安置され、すべてが国宝に指定されている。
本堂には、ほかにも国宝の四天王像(持国天、増長天)、子安地蔵菩薩像(国重文)、鎌倉時代の不動明王(国重文)などがあり、幸運にも秘仏の厨子入木造吉祥天女像(国重文)も秋の特別公開で開扉されていた(11/30まで)。

浄瑠璃寺のように国宝の建造物の中に多数の国宝仏像を安置している事例は、ほかに興福寺東金堂や東寺講堂、三十三間堂、新薬師寺本堂、中尊寺金色堂があるが、昔の人々と同じように、参拝者の間近に、ガラスなどで遮られずに、それぞれの仏像に手を合わすことのできる祈りの空間がある寺となると、この浄瑠璃寺本堂は非常に貴重な場所である。

浄瑠璃寺三重塔

上の画像は浄瑠璃寺の三重塔(国宝)。記録によると治承2年(1178)に京都の一乗大宮から移築したという。
この三重塔には秘仏の木造薬師如来坐像(国重文)があり、毎月8日と春秋の彼岸の中日、正月の三が日には開帳されるのだそうだ。また1階内部の壁画も国重文に指定されている。
周囲の紅葉は色づき始めたばかりで、今月の20日前後に見頃を迎えるのではないだろうか。

パンフレットには何も書かれていないが、関秀夫氏の『博物館の誕生』(岩波新書)のp.75には、この浄瑠璃寺が明治維新の後に「無住となり荒れるにまかせた」状態になったことが記されている。この寺は中世から近世にかけては興福寺一条院の末寺であったのだが、本寺の興福寺一条院が廃寺となってしまって、この寺はこの混乱期に真言律宗に転じて奈良・西大寺の末寺になったという。
先ほども書いたが江戸時代には鎮守社が存在したのだがそれが今はなく、浄瑠璃寺の本堂や三重塔が、明治初期の廃仏毀釈の影響を受けて、無住となり荒廃したにもかかわらず現在に残されたことは興味深い。
これだけ多くの文化財を守るために、多くの人々の苦労があったことだと思うのだが、もしそのような記録が残されているのなら読んでみたいものだと思う。

浄瑠璃寺の拝観を終えて、次の目的地である岩船寺(がんせんじ:0774-76-3390)に向かう。
この寺は天平元年(729)に聖武天皇の発願で行基が阿弥陀堂を建立したと伝えられ、大同元年(806)に空海の甥・智泉が灌頂堂として報恩院を建立し、さらに弘仁4年(813)に嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)が皇子誕生の機に伽藍が整えられて「岩船寺」と称するようになったという。
最盛期には東西十六町*、南北十六町という広大な境内に三十九の坊舎を有したそうだが、承久の乱(1221)の兵火で堂塔の大半を焼失してしまう。
この寺も浄瑠璃寺と同様に、鎌倉から江戸末期までは興福寺一条院の末寺であったが、明治になって西大寺の末寺になっている。
*町:1町=109.1メートル 16町=1745.5メートル

岩船寺の本堂は昭和63年(1988)に再建されたもので、本尊は天慶9年(946)の胎内銘を有する木造阿弥陀如来坐像(国重文)である。ケヤキの一木造りで高さが3mもあるという。
本尊の周りに置かれている鎌倉時代の四天王立像(府指定文化財)もなかなか見ごたえがある。
内部は写真撮影禁止なので、パンフレットの画像を紹介しておく。

岩船寺木造阿弥陀如来坐像

本堂の裏にも貴重な仏像が安置されている。普賢菩薩騎象像は、以前は三重塔に安置されていた仏像だが、国の重要文化財に指定されている。

岩船寺 三重塔

境内の奥にある三重塔(国重文)は、仁明天皇が承和年間(834~847)に建立したと伝えられているが、現存の塔は室町時代の嘉吉2年(1442)に再建されたものである。もう少し紅葉が進めば、三重塔の朱色がもっと映えて美しくなると思われる。

岩船寺の入口の手前を右に折れるとには、鎮守社の白山神社本殿(国重文)とその摂社の春日神社本殿(府登録)が残されている。その前の広場では毎年10月16日に京都府登録無形民俗文化財に指定されている「岩船のおかげ踊り」が奉納されるのだそうだ。この踊りは幕末の「ええじゃないか」の系譜をひく伝統行事のようだが、若い人が少なくなっては伝統行事を続けることは大変な苦労があると思う。次のURLに「岩船のおかげ踊り」の記事とYoutubeが紹介されている。
http://chee.ch/diary/2013101600/1.shtml

当尾石仏マップ

浄瑠璃寺から岩船寺のある当尾(とおの)地区は、多くの石仏が点在することでもよく知られている。
次のURLに石仏マップが出ているが、42体もある石仏を訪ねるハイキングも結構楽しめそうだ。せっかく来たのだから、岩船寺に近い「わらい仏」を訪ねることにした。
http://0774.or.jp/pdf/tounomap.pdf

わらいぼとけ

岩船寺の門を出て、47号線を西に少し進むと、右手に石仏を散策するコースの入口がある。
細い道で結構アップダウンがあるが、昔は修験者が歩いたような道を進むのはなかなか楽しく、10分も歩けば「わらい仏」(京都府有形文化財)に到着する。この石仏には永仁7年(1299)の銘があり、制作されて700年以上も経過しているのだが、わずかに笑みを浮かべていてとても親しみを感じる石仏である。

岩船寺 門前茶屋

岩船寺に戻って門前の「休憩所静」でヨモギ餅を食べたが、手作りの味はとても旨かった。この店でおかきやエビ餅や柿を買いこんで、車で次の目的地である森八幡宮に向かう。

天平9年(737)に藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去し、代わって政治を担った橘諸兄が、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用し、藤原氏の勢力は大きく後退し、藤原宇合の長男・広嗣は大宰府に左遷されている。
そこで天平12年(740)藤原広嗣は「君側の奸」吉備真備と玄昉を除くことを要求する上表文を朝廷に提出し、兵を集めて大宰府で乱を起こしたのだが(藤原広嗣の乱)、この乱は間もなく平定されている。しかしながら朝廷は動揺を続けて、天平12年(740)に聖武天皇の勅命で平城京から恭仁宮(くにのみや)に遷都したのだが、その恭仁宮はこのすぐ近くである。

森八幡宮

森八幡宮は、恭仁宮に遷都された際に宇佐八幡を勧請したとの由緒を伝える神社であるが、この神社の境内に不動明王磨崖仏と毘沙門天磨崖仏(ともに京都府有形文化財)があることに興味を覚えて旅程に入れていた。

不動明王磨崖仏

上の画像は不動明王磨崖仏だが、右に正中三年(1326)と刻まれているのが読める。この当尾地域にある石仏の多くは鎌倉時代に刻まれたものである。

当尾と呼ばれている地域は、京都や奈良の観光の中心部とは全く異なる空気が流れていて、昔の世界にタイムスリップしたような気分を感じる場所である。
わらい仏の前

かつては僧侶や修験者や村人たちが、千年近い年月にわたり祈りを捧げてきた聖地であり、今も地元の人々に篤く信仰されているからこそ、これだけ多くの文化財がこんなに美しく現在に残されているのだと思う。
私が訪れたのは紅葉を楽しむには少し早かったようだが、今度の連休あたりはきっと見頃を迎えることだろう。浄瑠璃寺、岩船寺、当尾の石仏群を紅葉と共に楽しむ旅はいかがですか。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

丹波古刹の「もみじめぐり」から香住へ~~香住カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-227.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

素晴らしい紅葉の国宝寺院・一乗寺から日本海へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-358.html

柴山漁港の競りを見学のあと出石神社、宗鏡寺の紅葉を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-359.html

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-360.html



関連記事
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル