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妙満寺、圓光寺、金福寺の秋を楽しんで

圓通寺の借景を楽しんだのち、近くの妙満寺(みょうまんじ:075-791-7171)を訪ねる。

妙満寺 門

この寺を創建した日汁大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もとは玄妙(げんみょう)という天台宗の僧であったが、故郷の会津で日蓮上人の教えに触れて、康暦2年(1380) 67歳の時に日蓮宗に改宗し名を改め、都に上って康応元年(1389)に六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙満寺を建立し根本道場としたという。
その後何度か寺が焼失し移転を繰り返したが、天正11年(1583)豊臣秀吉による天正町割の再編で寺町二条に移転したという。

妙満寺 都名所図会

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会 巻之一』に、寺町二条にあった頃の妙満寺の絵図が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_039.html

幕末京都地図

また、『”超検索”幕末京都絵図』というサイトで幕末の京都の地図を確認することが出来る。これによると、妙満寺は本能寺の北隣にあり、本能寺の寺領は現在よりもはるかに大きかったようである。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

本能寺

しかしこの場所は近年都市化が進んで環境が悪化してきたために、昭和43年(1968)にこの岩倉の地に移転し今日に至っているのだが、この決断は正解であったのかもしれない。上の画像は、以前訪問した本能寺の本堂だが、周囲はビルに囲まれており、河原町通りを走る車の騒音を逃れることは困難である。

妙満寺の紅葉

妙満寺は決して紅葉で有名な寺ではないので観光客はわずかしかいなかったが、紅葉もそれなりに楽しめた。あと10年もすればもっと枝ぶりが良くなっていることだろう。

妙満寺 雪の庭

本坊の庭園は、昭和43年に子院の成就院の庭を移したもので、もとの庭は江戸時代の俳諧師・松永貞徳(まつながていとく)が造園した「雪の庭」だという。
この庭は、時の成就院住職が俳句の門人であった縁から、師の松永貞徳が造営したのだそうだが、貞徳は造園についても著名な人物であったようで、清水寺成就院の「月の庭」、北野あたりにあったという「花の庭」とこの「雪の庭」が、松永貞徳の造園による成就院「雪月花三名園」と並び称されていたのだそうだ。
この庭も比叡山を借景の中に取りいれているのだが、山容の大部分が近くの樹木に隠れてしまって、圓通寺の様に美しい比叡山を部屋の中から見ることは叶わなかった。

妙満寺の次に一乗寺小谷町にある圓光寺(075-781-8025)に向かう。
まだ行ったことのない寺なので旅程に入れたのだが、この近くには圓光寺のほか、詩仙堂、狸谷(たぬきだに)不動院、曼殊院など紅葉で有名な寺が近くにいくつもあるので、駐車できるかどうかが心配だった。たまたま詩仙堂近くの駐車場から出ていく車があったので、入れ違いに車を預けることが出来たのはラッキーだった。

圓光寺

『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行された『拾遺都名所図会』の巻之二にこの寺の図会が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_416.html

慶長6年(1601)徳川家康は、下野(しもつけ)足利学校第9代学頭の三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としたという。圓光寺学校は僧俗を問わず入学が許され、多数の書物が刊行されたそうだが、当時出版に用いられた活字(伏見版木活字)が5万個も残されていて、国の重要文化財に指定されている。
その後圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)にこの地に移転したのだそうだ。

圓光寺伝来の木活字

宝物殿瑞雲閣に入ると、その活字の現物の一部が展示されていた。パンフレットによると慶長4年(1599)に家康公に贈られた、日本最古の木活字だという。

圓光寺 円山応挙

ほかにも圓光寺の寺宝が展示されているが、円山応挙の紙本墨画『雨竹風竹図』(国重文)は必見である。墨と筆だけでどうしてこんなに見事な絵が描けるのかと感心してしまう。

圓光寺庭園

宝物殿瑞雲閣の座敷に進むと、縁側から十牛(じゅうぎゅう)の庭の紅葉を楽しむ観光客が大勢おられた。庭を散策される観光客も多いので、部屋の中から額縁のような紅葉を写すことをあきらめるしかなく、庭を歩いて散策する方針に変更したのだが、今年の紅葉は赤くなり切れずに散る葉もあれば、色づきが遅れている葉もかなりある。
圓光寺庭園2

書院の縁側にも観光客が多くて、こんな写真しか撮れなかった。もちろん、画像の下には多くの観光客の頭があって、庭を散策する人が途切れた瞬間にシャッターを切ったものである。

圓光寺 東照宮墓

再び庭を散策し、紅葉と竹林の中に山手に延びる遊歩道を進んで、鐘堂を過ぎて石段を登ると、この寺を開基した徳川家康の墓がある。この中に徳川家康の歯が埋葬されているのだそうだ。

圓光寺 裏山からの眺望

この墓の近辺からは洛北の眺望を楽しむことができるほか、上からの「十牛之庭」が一望できる。

圓光寺の墓地には舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか女の墓がある。
村山たか女は文化6年(1809)に近江国犬上郡多賀町で多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮(いいなおあき)の侍女となったが、その後彦根を離れ京にのぼって芸者となっている。そして子供を産むのだが、私生児だったために自らが引き取って彦根に戻り、その後彦根城下で井伊直弼(いいなおすけ)と出会って情交を結び、また数年後にその直弼を通じて出会った長野主膳(ながのしゅぜん)とも深い関係になったとされている。
京都市東山区にある井伊美術館には、天保13年 (1842) 頃に井伊直弼がたか女に宛てた恋文が残されているそうだ。たか女が直弼の子を身籠り出産した説もあるようだが、詳しいことはわからない。

安政5年(1858)に井伊直弼が江戸幕府の大老に就任し、一方、たか女は京都で幕府の隠密(スパイ)となって、薩摩・長州・水戸藩の浪人や公家などの攘夷論者達の動向を探り、その情報を長野主膳を通じて幕府に伝えることで安政の大獄に加担したのだそうだ。そのことが、攘夷派の恨みを買うこととなる。

村山たか

安政7年(1860)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、文久2年(1862)8月には長野主膳も彦根藩により斬首され、その後たか女にも追求の手が伸びて、11月に彼女と息子の多田帯刀は、土佐と長州の尊王攘夷派に捕えられてしまう。
息子は惨殺されて首を晒されたが、たか女は真冬の三条河原に3日3晩晒されたのち殺害は免れたという。

助けられたたか女は剃髪して妙寿尼と号し、その後は圓光寺に近い金福寺という寺で井伊直弼、長野主膳および息子の菩提を弔う日々を過ごして、明治9年(1876)に68歳で亡くなっている。

圓光寺にあるたか女の墓に手を合わせてから、すぐ近くにある金福寺に向かう。歩いて5分もすれば辿りつくことが出来る。

金福寺 芭蕉庵

金福寺は貞観6年(864)に創建された古い寺だが、元禄のころに圓光寺の鉄舟によって再興され、その後圓光寺の末寺となったようだ。
鉄舟は松尾芭蕉と親しかったことから、芭蕉がこの寺の草庵を何度か訪れて互いに風流を語り合ったとされ、周辺の住民によってその草庵を「芭蕉庵」と呼ばれるようになったのだが、建物が相当傷んでいたのに心を痛めた与謝野蕪村とその一門が安永5年(1776)この庵を再興したという。上の画像の茅葺屋根の建物が「芭蕉庵」である。

この庵が落成した日にこの寺で蕪村が詠んだ句が
「耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻く 芭蕉庵」なのだそうだ。
案内板に、この句の簡単な解説があった。
「耳目肺腸は司馬温公の『独楽園記』の中の成語で、この句には芭蕉の俳諧精神復興を目指す蕪村の強い決意が込められている。
 彼は晩年当寺に於いて『写経社』という俳句結社をむすび、4月と9月に一門の句会を催した。」

金福寺

金福寺と芭蕉庵は『拾遺都名所図会』の巻之二にも描かれている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_411.html

この絵の上部には、松尾芭蕉がこの寺で詠んだ句が紹介されている。
「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥  芭蕉」

『拾遺都名所図会』には、金福寺について随分長い解説が記されているので読んでみると、この寺にある芭蕉碑の碑文の全文と、与謝野蕪村が『写経社集』の序文でこの寺のことを記している部分が文章のほとんどを占めている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_411.html
江戸時代は芭蕉や蕪村の俳句が人口に膾炙していて、この金福寺は江戸時代においても俳諧の聖地のような場所であったと理解すればよいのだろうか。

与謝野蕪村は「芭蕉庵」を再興させただけでなく、この寺で句会を開いて、ここで多くの作品を残している。パンフレットにはこの寺で詠まれた4つの句が紹介されていた。
「畑打つや 動かぬ雲も なくなりぬ」
「夏山や 通ひなれにし 若狭人」
「三度(みたび)啼きて 聞こえずなりぬ 鹿の声」
「冬近し 時雨の雲も ここよりぞ」

金福寺 与謝野蕪村の墓

芭蕉庵から続く山道を少し行くと、与謝野蕪村や彼の弟子たちの墓がある。多くの墓が今も掃き清められ、生花が活けられていることはすごい事だと思う。

再び芭蕉庵に戻り、最後に本堂に向かう。
与謝蕪村は絵画でもすぐれた作品を残していて、『夜色楼台図』や『十便十宜図』が国宝に指定されているほか、多くの作品が重要文化財指定を受けている。
本堂には蕪村の『江山清遊の図』、『奥の細道画巻(複製)』や、村山たか女の遺品などが展示されていた。

金福寺 村山たか密書

上の画像は村山たか女が長野主膳宛に書いた密書なのだそうだ。内容はよくわからないが、あまりに流麗な筆致に驚いてしまった。井伊直弼や長野主膳から重んじられたのは彼女の美貌もあったのだろうが、教養の高さがあったからこそ思想をともにすることができたのだと思う。
愛する人を失い、我が子を失ったたか女はこの寺で14年を過ごしたのだが、この小さな寺が、すべてを失った彼女が余生を過ごすには相応しい場所であったのかも知れない。

一乗寺にある古刹は曼殊院、圓光寺、詩仙堂を巡る観光客が大半で、金福寺を訪れる人は紅葉時期でも決して多くない。その他の季節ではもっと少ないことと思われる。

金福寺

学生時代に1度だけこの寺を訪れたことがあるのだが、昔の頃と変わらない景観を残して頂いていることは嬉しかった。そのことは、観光客からすればあたりまえのことのように思われるかもしれないが、それは決して簡単なことではないのである。

文化的・歴史的価値があることがわかっているからこそ、そのままの姿で後世に残すために不便な生活を余儀なくされることも少なからずあるだろうし、建物の改修が必要になれば昔ながらの用材を用いた割高な修復を行ない、文化財を守るためのセキュリティ費用や、毎年の植木代なども欠かせない。観光客が少なくても、観光客の為に毎日清掃し、拝観の窓口の為に毎日人を置く必要があるし、文化財や建物を守り、現状を維持するためのコストは結構高くつくものなのだ。

観光客が毎日大勢集まる有名な寺社は、これから先、経済的に行き詰る可能性は少ないと思うのだが、観光客の少ない寺社の中には収入が乏しいために、文化的・歴史的価値を未来に残せないところが少なからず出てくるのではないか。
我々の先祖が何世代にもわたり大切なものとして守って来た文化財や景観を、その価値を減じることなく将来世代に引き継ぐことは、現在を生きる世代の責務であると私は考えるのだが、そのためには、貴重なものを残しながらもあまり有名でないお寺や神社を、訪れる観光客がもっと増えて欲しいところである。
私のできることは、そんな寺社を訪ねてレポートするぐらいのことなのだが、これからもいろんな場所を巡りながら、このブログで時々紹介していきたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-259.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-258.html

松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-356.html

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html


関連記事

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。

「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。

通称の「左近」は多くの史料で出ているようだが実名については諸説があり、「勝猛(かつたけ)」書いている史料や「友之(ともゆき)」としている史料や、「清興(きよおき)」としている史料などがあるという。

島左近2

出自や生国についても様々な説があり、天文9年(1540)頃に大和椿井(つばい)城(現奈良県平群町)に生まれたという説もあれば、近江(滋賀県)の出身とする説、尾張(愛知県)の出身とする説や、対馬(長崎県)出身という説まである。大和出身説が多数説のようだが、これとて確実な裏付けがあるわけではないようだ。

当然の事ながら、石田三成が三顧の礼を迎えた人物なら、それまでにそれなりの軍功がなければならないのだが、Wikipediaの記述を読んでみても、どうもピンとくるものがなく、筒井家の家臣であった時代についてはこのように記されている。

「筒井順慶を侍大将として盛り立てたといわれるが、当時の筒井家の家臣団の中には名が見えない。『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、当時の筒井家の有力家臣には八條相模守長祐、松蔵権助秀政、飯田出羽入道、中坊飛騨守秀祐などの名が知られるが、嶋氏関係の氏名は見当たらない。

確証はないが、何らかの形で筒井順慶を支え続けたといい、その功績によって筒井家の重臣に加わったという。一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼『右近左近』と並び称されたというが史実ではなく、実際に筒井家の両翼と呼ばれたのは松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝だったようだ。
順慶はやがて松永久秀を倒し(信貴山城の戦い)、本能寺の変といった存亡の危機も乗り越え、筒井家による大和国の統一を成し遂げたが、その後の左近は吐田城を接収するなど内政面で順慶を支えていたらしい。」とあるが、記されていることは伝聞推定の域を出ないものばかりである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

軍談・講釈の類では、天正10年(1582)の本能寺の変の報に接した羽柴秀吉が急遽中国から引き返して明智光秀を討った「山崎の戦い」において、左近の主人・筒井順慶は洞ヶ峠に布陣して、羽柴方が優勢と見るやにわかに明智勢を襲って勝敗を決定づけたとされ、こうした段取りをつけたのは島左近であったと描かれているのだが、筒井順慶が洞ヶ峠まで出て行ったという事実はなく、大和へ撤兵したというのが真実だという。

その後、島左近が椿井城主となったのちに主君の筒井順慶が病に倒れ、跡をついだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わなかったために、天正16年(1588年)2月に筒井家を辞して、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食したとされる。

その後の左近は秀吉の弟・秀長に仕え、天正19年(1591)に秀長が死んだ後は、その嗣子・秀保に仕えたと言われているが、蒲生氏郷に仕えたとする説もある。いずれにしても、左近が大きな軍功を挙げたという記録は見当たらないのである。

では左近はいつ石田三成に仕官したのかというと、この点もよくわかっていないようなのだ。Wikipediaでは天正19年(1591)1月22日以降、天正20年(1592)4月以前と結論づけているが、記録に残るような軍功のない人物を、なぜ三成の禄高4万石の半分を与えるという破格の条件で召し抱えた理由が見えてこないのである。もしかすると、三成が高禄を与えたという話も、後世の作り話なのかもしれない。

関ヶ原布陣

しかしながら、島左近は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍にいたことは史実である。
決戦前日の9月14日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂の安楽寺に大軍を率いて到着すると、西軍の中で動揺が走って一部の兵士が逃亡する事態となり、事態を憂慮した島左近は、戦勝により士気の回復を図るため、東軍に奇襲攻撃をかけることを石田三成に進言した。島左近は東軍の中村・有馬両部隊を挑発しおびき出すことに成功すると、伏兵で両部隊を取り囲んで打ち破っている。(杭瀬川の戦い)
その夜に、島津義弘・小西行長らと共に夜襲をかけることも提案したとされるが、三成に受け入れられずに終わったという。

島左近

翌朝関ヶ原の戦いの本戦が始まり、石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかったとされている。石田隊の先陣であった島左近は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えていたのだが、黒田隊の狙撃兵が島左近を負傷させた後、石田隊の先陣が退却したと記されている。確かに『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)には、負傷して両脇を兵に支えられて退却する左近が描かれている。

このことについて、他の記録ではどうなっているのだろう。

黒田隊

例えば筑前黒田家の公式の記録である『黒田家譜』巻之十一では、こう記されている。黒田長政隊は、島左近に最も近い場所に陣を布いていたとされている。

「…長政の家臣白石正兵衛、菅六之助等、足軽を引つれ、右の方の少高き所にはしり上り、かねてよりすぐり置たる鉄砲の上手五十人に、透間もなく打せければ、左近が兵多くうたれ、左近も鉄砲にあたりて落馬す。…深手負ければ力及ばず。柵の内に引きとるべしとして、家人の肩にかかり、柵際まで引来りしが、其子新吉(左近の子)をとへば、はや戦死したる由家人申を聞て、扨(さて)は是までなり、我首をあげて深谷(しんこく)にかくせといい付ければ、家人其言のごとくしたりける。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023982/153

左近は側近に介錯を行なって首を埋めよと命じたと、まるで左近の陣営の柵の内で目撃したかのように記されているのだが、この部分は創作としか思えない。東軍の黒田長政からすれば、手柄として有名な武将を討ち取ったことをアピールしておきたいところなのだろう。

しかしWikipediaには興味深いことが記されている。
左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていない。さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだという」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

東軍が島左近の首や遺体をいくら探しても見つからなかったならば、左近が生き延びた可能性をどうして否定することができようか。島左近が鉄砲に撃たれたのは午前9時から10時の間とされ、石田三成が敗走したのは午後2時前後とされている。島左近は、その気になれば逃亡するだけの時間は充分にあったのである。

島左近が負傷したあと、どうなったかについては、書物によって随分異なるという。
「『被弾し倒れる』・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、『故郷物語』等
『戦死』・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関ヶ原軍記』、『戸川記』等
『生死・行方不明』・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、『武徳安民記』等
『対馬へ脱出』・・・・・・『関ヶ原軍記大全』
『西国へ脱出』・・・・・・『石田軍記』」
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sakon_c.html

例えば徳川家康の侍医である板坂卜斎が著した『慶長年中ト斎記』には、「島左近行方不知子供打死になり」と簡単に書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772758/21

島新吉

また、『石田軍記』巻之十を読むと、島左近が黒田隊に撃たれたことなどは一言も書かれていない。その書物には島左近の子である新吉が黒田隊ではなく藤堂高虎の家臣に討ち取られたとあり、島左近についてはこう記している。
去程(さるほど)に島左近は、正々(まざまざ)と愛子の討たるゝを援けんと思ふ心もなく、空知らずして落行きし…。今の左近は、臆病と命の惜しき癖者が為所(しわざ)に非ずやと、笑ふ族も多かりけり。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948827/139

石田軍記

このように西軍の動きを中心に書かれた『石田軍記』では、早々と逃亡した島左近のことを嘲るような表現になっているのだが、このように戦記というものは書く者のスタンスによって、随分内容が違ってくるものなのである。勝った側は自隊の兵の活躍を誇大に書こうとするのが普通であろうし、敗れた側は、負けた原因を自軍の采配や戦術以外のものに求める傾向が多いのではないだろうか。

もし島左近が本当に関ヶ原で討死していたのならば、『慶長年中ト斎記』にせよ『石田軍記』にせよ、別の書き方になるのではないだろうか。この2つの文書を読んで、島左近が関ヶ原で討死せず、生き延びた可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。

Wikipediaなどで紹介されているが、島左近が生きていたとする記録が各地にあるようだ。
少し気になる情報を拾ってみよう。

立本寺本堂

京都市上京区の立本寺に島左近の墓があり、立本寺のホームページの解説にはこう記されている。
「1600年に起こった関ヶ原の合戦において銃弾を受け、討ち死にしたと言われているが、その遺体や首は見つかっておらず、京都に逃げ延びて『立本寺にて余生を過ごした』という説も伝えられている。
 墓は立本寺墓地に、位牌等は塔頭の教法院にあり、没年は寛永9(1632)年とされています。」
http://honzan-ryuhonji.com/shoukai.html

僧になった話はほかにもあり、関ヶ原で戦線離脱したのちに鎌倉光明寺で出家して泰岩和尚となり、家臣の推挙により細川家に仕え、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという。熊本市の西岸寺に泰岩和尚の墓があり、横に「島左近」と彫られている写真が次のURLに出ている
http://poreporetraveler.blog96.fc2.com/blog-entry-837.html?sp

Wikipediaによると、対馬の島山島にも島左近の墓があり、写真も紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

また、東広島市西条市にある老舗酒造メーカー「白牡丹(はくぼたん)」のホームページにはこう記されている。
「古書によると『慶長五年九月 関ヶ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀氏の長たりしも、戦に敗れ、長男新吉戦死す。 次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。
彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年(西暦1675年)酒造業を創む
』とあります。」
http://www.hakubotan.co.jp/index05.htm
この「白牡丹」の社長は代々島家が引き継いでいるのだそうだ。

さらに、岩手県にも島左近が落ち延びたという説が伝わっているという。
中江克己氏の『裏面の日本史』(宝島文庫)によると、明治43年(1910)に出版された『気仙郡誌』(岩手県教育委員会気仙郡部会編)にはこう記されているという。
偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。(略)関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、静かに余生を送る。(略)正保5年(慶安元=1648)死す。年86」(『裏面の日本史』p.69)

また相原友直という人物が宝暦11年に著した『気仙風土草』にはこう記されているのだそうだ。相原友直は仙台藩の藩医となった人物である。
「石田三成が家臣島左近。関ヶ原より落来りて、姓名をかえ、この村に隠れ居たりしが、末期に本名をあらはせしという。彼が事、記録にも出たるゆへ、ここに載す」(同上書p.69)

浄土寺

そして、岩手県陸前高田市の浄土寺の過去帳には「浜田甚兵衛」の名があり、その名の横にわざわざ「嶋村左近」と書き入れてあるという。そしてその人物が死去したのは、慶安元年(1648)8月30日と記されていて、墓もあるという。

多くの記録で「行方不明」あるいは「逃亡した」と記されている島左近は、関ヶ原のあとも生きていたのではないか。しかしながら、名の通った武将であるために見つかれば処刑を免れることは難しく、武士の身分を捨て、名を変えてひっそりと生きるしかなかったのだと思う。敗れた西軍の武士たちの中には、そのような選択をした者がほかにも少なからずいたのではないだろうか。

そして慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、元和2年(1616)に徳川家康が死去して、いつまでも隠遁生活を続けなければならないような身辺の危機は薄まっていく。頃合を見計らって、彼らの一部は少しずつ表の社会に復帰していったと考えられる。

言うまでもなく当時はPCもなければ写真もないので、島左近のような有名な人物の顔を知る者はほとんど存在しない。年齢が近いことが条件ではあるが、戦国武将の話や戦いの場面を詳しく語る能力があれば、有名な武将に成りすまして周囲にそう信じさせることは、それほど難しい事ではなかったと思うのだ。

すでに偽名で16年以上過ごしてきた人物にとっては、本名に戻すよりも名の知れた武将に成りすまして余生を過ごした方が良いと考えた者がいてもおかしくないだろう。
島左近が生きていたという伝承がいくつか残されているのだが、多くは、島左近にあこがれた人物や、名前の良く似た人物が成りすましたのではないだろうか。
そして、もしかすると、これらの伝承のうちどれかが本物の島左近に繋がるかも知れないし、いずれも無関係なのかも知れないのだが、その判断は読者の皆さんに委ねたいと思う。

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南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html



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豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、
「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康をしりぞけようと兵をおこしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。」(『もういちど読む 山川日本史』p.150)と簡単に記されているのだが、秀吉の死から関ヶ原までの2年数か月のことをもう少し詳しく記している本を探してみた。

近世日本国民史家康時代 上巻

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、徳富蘇峰の『近世日本国民史家康時代 上巻』が公開されている。蘇峰は秀吉を取り巻く諸将の関係について、こう解説している。
秀吉自らが、織田氏の諸将の不統一を利用したのみでなく、その統一を攪乱せしめて、更にこれを利用した。家康はただ秀吉の故智を襲いたるまでだ。…
如何なる場合にも、党派は発生するものだ。殊に秀吉の天下は、にわかに製造したものであったから、なおさら党派が生じやすかった。しかも秀吉の生存中は、如何なる党派も、秀吉という一大看板、一大勢力のもとに掩(おお)われていたが、一たび秀吉去れば、あたかも雪融けて、群草萌え生じる如く、あらゆる徒党が発生した。…
徳川党とか、前田党とか、その個人的勢力を基本とする以外に、秀吉の治下には概して文吏党と武将党とがあった。文吏党といえば、五奉行を中心とする党派だ。武将党といえば、非五奉行を旗幟とする党派だ。しかし誤解するなかれ、文吏党と言うたとて、必ずしも文弱党ではなく、武将党と言うたとて、必ずしも武愚党ではない。双方にも文武の名将は少なからずいた。而して文吏党は、淀殿に近く、武将党は、北政所に近く、その結果は更にまた、正室党と側室党とを生ずるに至った。
秀吉は萬機を親(みずか)らした。五奉行は、その秘書官が、然らざれば秘書官の毛の生えたものに過ぎなかった。しかも天下の政務は、五奉行をとおして行われた。殆んどすべての利権はここに集まった。利権の集まる所は権力の集まるところだ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/37

五奉行とは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指し、浅野、石田、増田の3名が一般政務の処理に当たり、長束が財務、前田が御所・朝廷・公家・寺社といった特別部門を担当していたとされる。

五奉行中にて、最も秀吉に近きは、言うまでもなく浅野長政だ。彼は秀吉と尾州以来の関係で、しかも北政所と義理上の兄妹だ。彼が如何に他人の企て及ぶべからざる特殊の位置を占めつつあったかは、以て知るべしだ。しかるに、五奉行中少なくとも石田は、彼の下風に立つを、いさぎよしとしなかった。而して増田は概して石田と提携し、互いに比周して、以て浅野に対抗した。ここに於いて五奉行中に、浅野派と石田派との両派が自然に対立した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/39

前田利家

では武将党はどうであったか。
武将党の首領は…前田利家であった。彼は、秀吉夫婦は、微賎時代からの友人であれば、彼は北政所と良好の関係であったことは勿論のことだ。しかのみならず、利家は石田、増田等に対して、頗(すこぶ)る不快を感じていた。…
武将派と文吏派との確執は、朝鮮役において、いな朝鮮役のために、一層の刺戟を与え来たった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/42

一方徳川家康は諸将間の対立のなかで、当初は中立の立場を取り、特定の党派に加担することなく、またいずれかの党派からも輿に担がれることを許さなかったという。

豊臣秀次

そして文禄2年(1593)に豊臣秀吉に秀頼が誕生し、その2年後の文禄4年(1595)に、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで粛清される事件が起こっている。
秀次に謀反の意志があると報告したのは、奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以らであったとされるが、その時秀次は謀反の意志がない旨の誓紙を提出している。しかし秀吉はそれでは納得せず、秀次は高野山に送られて切腹を命じられ側近と共に自害させられたのだが、後に秀次の眷属までもが斬首されたという。
この事件の原因については諸説があるが、秀吉が秀頼を後継者とするために、秀次の一族を粛清しようとしたとする説が一番すっきり理解できる。
石田三成らはこの事件の後に加増されたのだが、一方で多くの敵を作ることとなり、そのような大名達をのちに徳川家康が取りこんでいくことになるのだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm

この秀次事件の後の政治危機を克服するために、秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ろうとした。
その内容は大名間の無届婚姻・誓紙の交換停止などであったが、この連署を行なった六人の有力大名(徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が、豊臣政権における「大老」であると、後世みなされることになる。

そして慶長3年(1598)の5月頃から秀吉は病に伏せるようになり、5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。また、7月4日に伏見城に諸大名を呼び寄せて、徳川家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼し、そして8月18日に秀吉はその生涯を終えている

石田三成

石田三成ら文吏党にとって秀吉の死がどのような意味を持っていたかについて、徳富蘇峰の解説を引用しておく。
「…文吏党から見れば、秀吉の生存中こそ、秀吉という巨頭を戴き、ローラーを転ずる如く、一切の障碍を排除して進むを得たが、秀吉を喪った以後は、これを個人的に打算しても、これを総体的に打算しても、家康、利家の力に敵すべくもあらぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/46

太閤の遺命により朝鮮に出兵した軍隊が引き揚げを終えるまで、喪を極秘にすることになっていたという。

「…慶長3年8月18日に於ける、秀吉の死は、一時家康等に対してさえも、喪を秘した。而してその表向きの発表は、在朝鮮の諸将の帰朝後で、慶長4年2月29日に、初めて正式の葬儀を行なった。しかもそれは表向きのことで、秀吉の遺命を受けたる執政者は、何れも左の通りなる、誓詞の連判をした。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/48

秘密であったはずの秀吉の死を誰が家康に知らせたかというと、意外なことに、石田三成が家臣の八十島道與に秀吉の死を密告させたようだ。三成は、重要情報をいちはやく家康に知らせることで恩を売ろうとしたと理解するしかないだろう。

秀吉は五大老と五奉行の合議制で幼い秀頼を支えることを望んでいたのだが、それぞれが「誓紙」の連判を押したところで、「誓った」相手である秀吉はもうすでにこの世にはいない
そもそも家康は、秀吉の遺命に従って秀頼の後見役に収まるような人物ではなかった。
秀吉の死後、家康は掟を破って秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めている
徳富蘇峰はこう記している。
「彼は秀吉の御法度を無視して、恣(ほしいまま)に伊達政宗の女(むすめ)を、その第6子忠輝に娶り、姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養いて、蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束した。
『諸大名縁組の儀、御意を以て、相定むべきこと』とは文禄4年8月2日付、家康、利家等の名にて、天下に発布せられた秀吉の法度である。而して秀吉百歳の後も、之を遵守すべきは、慶長3年8月5日の家康等の誓紙によりて、保障せられたものである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

当然の事ながらこのような家康の動きを警戒して慶長4年(1559)1月19日に家康を詰問している。
その際の家康の対応が興味深い。
「…家康は、已(すで)に媒酌人よりその旨を届け出で、公許を得たものであろうと速了したと答えた。ここに於いて奉行等は、徳川・伊達結婚の仲介者、今井宗薫を召して糺問したが、自分は町人で、武家の法度などは存ぜぬと申し訳した。政宗は、宗薫の才覚にて、予は関知せずと言うた。福島正則は『我等儀太閤御爪の端にて候う間、内府公*と縁辺取組、万端御意を得候はば、以来秀頼公御為にも然るべき儀と存じ、かくの如くに候なり。』と答えた。[関原記]蜂須賀は、家康より仰せ掛けられたから、それに応じたまでの事と答えた。かくの如く三将分疏、ついにその要領を得なかった。」
*内府公:家康のこと
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

徳川家康

家康を五大老から除名すべきだとする議論が他の大老や奉行等から起るのだが、それに対し家康は謝罪するどころかこう逆襲したという。
「…予が婚約を告げずして結んだのは、手落ちであったにせよ、これを以て予に逆心ありとするは、誰を証人としての弾劾か。またこれを理由として、予を十人衆―即ち五大老・五奉行―より除くべしとは、これ秀頼公を補佐せしめんとの、太閤の遺命に背反するではないかと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/56

このような家康の動きに対して前田利家は家康との一戦を覚悟し、双方兵を集めたのだが、調停が入って最悪の事態は回避できたものの、この時すでに池田輝政、福島正則、黒田如水、黒田長政、藤堂高虎等、豊臣系の大名の多くが家康側に集まったという。

しばらくして前田利家は病に伏すこととなり、家康が利家を見舞うために大坂を訪れ、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊したという。三成はこのタイミングで家康を襲撃する計画を立てていたが、家康の元には三成らと対立する武将が集まっており、夜襲を思いとどまったという。
http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2014/12/17309-3d22.html
慶長4年(1599)閏3月3日に前田利家は63歳でこの世を去ると、今度は福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が石田三成襲撃を企て、大坂で決起した。
三成はこの企てを察知して大坂を脱出し、家康のいる伏見城に身を投じている。
家康は七将を宥め、10日には三成を居城の佐和山へ謹慎を申し渡している。

伏見城

利家と三成がいなくなれば、伏見も大坂もいよいよ徳川家康の一人舞台となる。
「而して石田ありてこそ奉行であったが、石田去って後の奉行等は、まことに腑甲斐(ふがい)なきものであった。彼らは唯だ家康のために駆使鞭撻せらるる吏僚に過ぎなかった
権現様、向島へ御移りなされ候うてから、ご威光弥増し、毛利、島津、景勝、佐竹、その他縁引きにて申込、毎日大名衆、御礼に参られ候う。[酒井河内守日記]
向島移転、かくの如し。いわんや伏見城に入りたる後においてをや。世人が家康を称して、天下殿と言うたのも、決して偶然ではない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/75

その後上杉景勝、前田利家を引き継いだ前田利長、毛利輝元らが帰国して五大老制は崩れ、名実ともに家康の独断専行に移行していく。
北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、西の丸を自分の居所として居座り、今度は五奉行の実力者であった大野治長と浅野長政を謀反の疑いで排除するなどやりたい放題だ。

家康は、大老の筆頭として豊臣政権の政務を執行するのだが、その権限を用いて政敵を追い落とし、屈服させては恩を売るなどして、将来の覇権確立に向けて着々と準備を進めていったのである。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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