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2016年 新年のごあいさつ

あけまして おめでとうございます

神明社からの白馬連峰
【神明社からの白馬連峰】

旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただきまして まことに有難うございました。

多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。

何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやツイッターなどで記事の紹介をしていただいた方、SNSなどでメッセージを送っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。

貞祥寺 山門
【貞祥寺 山門】

このブログを始めて7年目になりますが、最初の頃は日本史をテーマにしてこれだけ長く続けられるとは思いませんでした。多くの読者の方から良い刺激をいただいたことにより探究心が湧いて、仕事を終えて帰宅してから、自分なりに調べながら書き続けることが今の生活の一部になっています。

ブログのプロフィールにも書いているとおり、若い頃は歴史にそれほど興味を覚えなかったのですが、50歳の頃にネットの検索などで古い出来事などを調べているうちに、一般的な歴史書やマスコミなどで伝えられている歴史叙述の多くは勝者が都合よく編集したものであり、必ずしも真実でないことがわかってきました。

宇太水分神社本殿
【宇太水分神社本殿】

友人がブログを書き始めたことに刺激されて、私も何か書こうと日記のようなつもりで書き始めたのですが、私が当時関心を持っていた「廃仏毀釈」のことを書いた頃から多くの方から励ましの言葉を戴き、手ごたえを感じていろいろ調べて書いているうちに次第に他の時代にも関心を持つようになりました。

室生寺五重塔
【室生寺五重塔】

ひと昔前なら、どの本のどこに何が書かれているかを知るためには大量の書物を読みこんで、書き込みでもしていないと不可能でしたが、今では1台のPCがあればネットでテキストファイルを探して全文検索すれば即座にその箇所を探し当てることが出来ます。また国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』や『デジタルコレクション』などを用いていくつかのキーワードで終戦前の書物を探したり、神戸大学の新聞記事文庫で終戦前の新聞記事を探すことが容易にできます。何も書物に囲まれた生活をしなくとも、キーワードを工夫することで貴重な記録を見つけることが少なくありません。

片岡家住宅外観
【片岡家住宅】

まだまだ勉強不足ではありますが、読者の皆様の応援で元気を頂きながら、本年も引き続き、日本の歴史や文化について私が興味を覚えたことや、疑問に感じたことを調べたり、旅行やドライブで見聞きしたり考えたことなどをこのブログに書き記していく所存です。

できましたら過去のページも時々覗いてみてください。読んで頂いてもし気に入っていただいたら、ランキングの応援ボタンを押して頂くとありがたいです。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

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関連記事

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。

徳川家康
徳川家康

「彼(家康)が予期した証拠は、6月17日伏見城に於いて鳥居元忠と語り、いざとなれば貯蔵の金銀塊を弾丸に使用せよと言ったのでわかる。6月18日大津城にて京極高次と、事変勃発に際して、密かに約するところあったのでわかる。6月20日伊勢白子にて松平康重が、三成謀反の企てありと告げたるに際し、予はつとに之を知っていると答えたのでわかる。6月23日堀尾吉晴を浜松から越前国府に帰らしめ、上方の形勢を監視せよと命じたのでわかる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/157

徳川家康が、ゆっくりと東海道を進み、会津に向かうのにも随分時間をかけたのは、京都と大阪の守りを手薄にしておけば、石田三成ら反徳川勢が何時挙兵してもおかしくないと考えていたことを知れば納得できる。

石田三成
石田三成

そして家康が予想した通りに、石田三成が動き出した。三成は大谷吉継を味方に引き込んだのち、7月17日に毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布し、7月18日には西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守っていた伏見城に、毛利輝元の名で開城を勧告している。元忠は開城を拒否したために19日から伏見城の戦いが始まったのだが、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に包囲されながらも元忠はわずか1800の兵で奮戦し、8月1日に討死して伏見城は落城している。

鳥居元忠
【鳥居元忠】

その後、三成は家康に味方する細川幽斎の居城・田辺城を制圧するため丹波国に1万5千の兵を差し向け、伊勢国平定に3万の軍勢を送り込み、三成自身は美濃方面を抑えるため8月10日に大垣城に入り、さらに岐阜城の織田秀信を西軍に引き入れることに成功している。

このような三成らの動きは、1週間遅れではあるが着々と家康のもとに伝えられ、会津征伐は急遽中止されることとなる。家康は7月25日に会津征伐に従軍した諸大名を招集し、今後の方針について軍議 (小山評定)の結果、三成迎撃で評定が決定すると諸大名は、7月26日以降福島正則の居城である尾張清洲城を目指したのである。
ところが家康は清州には向かわず8月6日に江戸に戻ってしまい、8月中は江戸に留まったのである。これはなぜだったのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は諸客将の態度については、当初より多少の懸念をした。その証拠には、彼が福島正則を途中より呼び返しその心底を確かめたことにてわかる [慶長年中卜斎記] 。あるいは一説には、黒田長政を呼び返し、彼に向かって正則の心底を質し、長政の保障にて、やや安心したりとある[黒田家記]。いずれにしても家康の心配は一通りのことではなかったことがわかる。
 それもそのはずだ。石田が張本人とは言えど、向こう方では秀頼公の名を以てし、内府(家康)の誓詞蹂躙を理由としている。而してさらに啗(くら)わしむるに、大封をもってしている。もし開戦の名義を論ぜば、西軍が言正名順(げんせいめいじゅん)である。東軍はただ主将と仰ぐ家康が有力者という以外、而して西軍の石田が、諸客将の怨府であるという以外、何らの理由はないのだ。家康が自重したのも、決して偶然ではあるまい。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/200

福島正則
福島正則

会津攻めに集まった武将の中には、福島正則、黒田長政、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、寺沢広高ほか、かつて秀吉に仕えた者が少なからずいたのだが、家康にとってみれば、家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状が交付された状況下で、彼らが徳川の為に働いてくれるという確信が持てなかったと考えるしかないだろう。
そこで家康は、使者として家臣の村越茂助を清州城に送り込んだのだが、豊臣系の諸将は憤激して「内府(家康)は何故出陣しないのか」と詰め寄ってきたという。
そこで茂助が何と言ったかについて、家康の侍医であった板坂卜斎の記録にこう書かれている。
「茂助申し候(そうろう)は、(家康公の)御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島(正則)扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/198

意訳すると、茂助は、「家康様が出陣されないのは、各々方が未だに出陣なされないからであり、各々方が敵と戦い、家康様の味方であることを明らかにされれば、出陣なさるでしょう」と述べたのだが、福島正則らが即座にその言葉に納得して美濃への進撃を確約したという。

家康は、1か月間も江戸に留まっていた間に、諸将宛に毎日何通もの書状を書いていた。Wikipediaにその間に出した100通を超えるその書状のリストがあるが、自ら豊臣系武将の繋ぎ止めや西軍への調略による切り崩しを図っていたことが見えてくる。豊臣系諸将に出陣を促すために清州城に村瀬茂助を送り込んだときに、福島正則が即座に村瀬の言葉に反応して進撃を確約したのも、家康が正則宛に出した多数の書状が効いていたのではないだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

池田輝政
池田輝政

8月22日に東軍の池田輝政軍と福島正則軍は木曽川を渡り、織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城を攻撃し、翌23日にこれを落城させ、続いて犬山城も落としている。その知らせを聞いた徳川家康は9月1日に、ようやく3万2千の兵を率いて江戸を出発し、東海道を西に向かいだしたという。

地図

一方の石田三成はどういう戦略で臨んでいたのか。『近世日本国民史家康時代. 上巻』に8月6日付で三成が真田昌幸宛に出した書状が引用されている。
「…上方勢壱萬ばかり語らい上り候(そうろう)とも、尾三(尾張・三河)の間にて、討ち取るべき儀、誠に天の与えに候。しかれば、会津、佐竹、貴殿は、関東へ袴著て乱入あるべくと存じ候。…[古今消息集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/194

石田三成は尾張と三河国境付近で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と東軍を挟撃する目算であったようなのだが、そのためには早急に美濃・伊勢を平定し尾張に達していなければならなかった。もしそのプラン通りに尾張を先に押さえていれば、清州城には30万石の備蓄米が有事の為に用意されていた。この清州城を最前線の要としていれば、西軍は有利な戦いが出来たと考えられる。

美濃・三河の城

しかしながら、西軍は圧倒的に戦力で優っていたにもかかわらず伏見城を落すのに10日以上かかり、それに続く伊勢攻略においても安濃津城は落城させたが、長島城で強力な抵抗に遭い、伊勢攻略半ばで東軍の襲来に合わせて美濃へ向かわざるを得なくなった。
背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、軍勢を徳川軍に対してではなく山形方面の最上義光領へと向けていたし、佐竹義宣は重臣たちの猛反対により少数の兵を織田秀忠軍に派遣したにとどまった。
先ほどの家康の書状リストを見ると、最上義光宛には家康は今井宗薫らを使者として10通、佐竹義宣の弟・蘆名盛重にも本多正信が使者となって1通の手紙を送っており、上杉軍、佐竹軍を関東に向かわせない工作をしていたことは確実だ。

上杉軍、佐竹軍から背後を狙われて挟撃される危険が去り、東軍は先に清州城に入城しその拠点とし、さらに木曽川を越えて岐阜城、犬山城をわずか1日で落してさらに西に進んでいる。

緒戦で防御の要となる拠点を失った西軍は、8月11日に入城していた大垣城にからさらに防衛ラインを下げて美濃の関ケ原付近とし、各地に散っていた武将たちに関ヶ原への集結を呼びかけることとなるのだが、そもそも石田三成が描いていた戦略はどのようなものであり、勝機はあったのだろうか。

真実の日本戦史

鞍掛五郎氏は長期戦になれば西軍が有利であったと述べておられる。
「…関東・東北方面に目を転じてみたい。西軍の中心は上杉景勝。さらには佐竹義宣、岩城貞隆、多賀谷重経、相馬義胤、蘆名義広、秋田実季、小野寺義道ら20万石を越える勢力となっている。
これに対する東軍の備えはというと、伊達政宗、最上義光、南部利直、戸沢政盛、六郷正乗らで百万石ほど、宇都宮を拠点に、結城秀康、蒲生秀行、里見義康、小笠原秀政らと、家康家臣で50万石ほど、その他、小大名多数が、備えとして残された。
長期戦となり、佐竹家が積極的に動き出した場合は、東北・関東での主導権は西軍に握られるものと推測でき、戦いが長期化すればするほど、西軍に有利となる。
総合的に考えて、毛利家を引っ張り出したことで徳川を凌駕する兵力を揃え、なおかつ朝廷と秀頼を手にしていることで政治的有利な立場にある西軍は、不敗の状態にあった。あとはどこかのタイミングで講和を結び、家康を政治的に無力化すればそれで終わりである
。」(宝島SUGOI文庫:家村和幸監修『真実の「日本戦史」』p.150-151)

石田三成は太閤検地においては検地尺を定めるなど大きな実績を残し、豊臣秀吉もその行政能力を高く評価した人物だった。家康との戦いに於いては西軍の勝機は充分にあり、確実に勝利できるだけの戦略をしっかり練っていたのだが、彼の思惑通りには味方の武将が動かなかった。
徳川家康は、西軍の武将にも内応を呼びかける多数の書状を送り届けて西軍の切り崩しをはかったのだが、その効果は小さなものではなかったのである。

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【ご参考】
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キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
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関連記事

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか

前回の記事で、石田三成を中心とする西軍は兵力で東軍を凌駕し、朝廷と秀頼を手にしており政治的に有利な立場にあって、充分に勝機があったにもかかわらず、三成の思惑通りに味方の武将が動かなかったことを書いた。

そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に着こうとするのが当たり前のことではないか。

石田三成側に東軍を凌駕するほどの武将が着いたのは、多くの武将が西軍の方が有利と判断していたことを意味するのだが、ではなぜ西軍の武将が三成の思惑通りに動かなかったのだろうか。前回記事に少し触れたが、家康による様々な工作が無視できないようなのだ。

石田三成のプランでは背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、家康の工作により軍勢を山形方面の最上義光領に向けさせられ、東軍は清州城を先に拠点として確保し、さらに岐阜城、犬山城を落城させて、さらに西に向かった。

毛利輝元
【毛利輝元】

東軍に岐阜城を落されて、石田三成は8月26日に使いを大坂に遣わして毛利輝元の出馬を要請したのだが、この使者が東軍に捕えられたために、書状が輝元に届かなかった。
三成は輝元に再度書状を送って再び出馬を要請したところ輝元の応諾を得て、9月12日か13日に輝元は秀頼を奉じて佐和山城に向かう予定であったが、今度は大坂城中で増田長盛が東軍に通じているという噂が流れたために、輝元は出馬を引き延ばして戦機を逸してしまったという。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/215

また、家康は豊臣家臣間の対立を利用するのがうまかった。
秀吉の晩年には、正室の北政所(木下家定の実妹:ねね)に近い武将と、側室の淀殿(浅井長政の娘:茶々)に近い武将との対立が激しかったようなのだが、家康はそれを見逃さず、北政所とそれに近い武将を取りこんでいった。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。
「石田(三成)と不倶戴天の七将*の如きも、敢て悉(ことごと)くとは言わぬが、その大半はみな北政所党であった。加藤、福島、浅野の如きは、その色彩もっとも濃厚のものだ。
思うに家康は、おもむろにこの豊臣氏の内部より出で来たる破綻を、多大の興味をもて、看取したのであろう。而して彼はあくまで超然たる態度を持しつつ、しかもこの争いを調停するよりも、これに油を注いだのであろう。関ヶ原戦役の前後の局面を観察するには、この事件の背後に、両夫人あるを忘却してはならぬ。
北政所にせよ淀殿にせよ、彼女らはもとより豊臣氏の天下を百世に保持するの一事においては依存なかった。
いな、それが彼女らの本望であった。しかも豊臣氏の天下を転覆して、これを徳川氏に手渡したのは、この両夫人をもって殊勲者とせねばならぬ。その働きの方面については、北政所と淀殿とは互いに異なっているが、しかも彼女らの一挙一動が、期せずして徳川氏の利益となった一点に於いては両(ふたつ)ながら差別がない。」
*七将:福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政(資料によっては、蜂須賀家政、藤堂高虎が加わる)朝鮮出兵の査定などで石田三成に強い恨みを抱き、関ヶ原の戦いでは七将は東軍の中核となって戦った。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/218

小早川秀秋
小早川秀秋

教科書などで関ヶ原の戦いの解説を読むと、小早川秀秋が西軍を裏切って東軍に寝返ったことが書かれているのだが、蘇峰によると秀秋の裏切りの背後には北政所の意向が絡んでいる可能性が高いという。

「秀秋の背後には高台院(北政所)があった。彼女は当初より石田三成らの行動を是認していない。彼女は当初より、家康に倚りて豊臣氏を支持せんとしていたのであった。

元来小早川秀秋は、いずれの点から観察しても、石田等に組みすべき者ではない。彼は北政所の姪にて、万事その指揮を奉ずる一人だ。而して北政所は、当時家康と親しく、その縁辺、もしくは懇意の人々は、いずれも東軍の重(おも)なる連中だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/219

東軍の浅野幸長と黒田長政が連署にて小早川秀秋に宛てた8月28日付けの書状が残されている。
そこにはこう書かれている。
「尚なお急ぎ御忠節尤もに存じ候。以上。
…貴様いずかたに御座候とも、この度御忠節肝要に候。二三日中に内府(家康)公御著に候條、その以前に御分別この処に候。政所様へ相つづき御馳走申さず候ては、叶わざる両人に候間、かくの如く候。早々返事示し待ち候。くわしくは口上に御意得べく候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/220

このように浅野と黒田の御両人が、秀秋に対して「早く、どちらに着くか態度を決めよ」と催促したのだが、思うに浅野と黒田は家康の指示によりこの手紙を書いたのではないだろうか。しかしながら、この時点では秀秋はどちらに着くかついてまだ決めていなかったようである。

西軍の宇喜多秀家や大谷吉継も、秀秋が東軍と内応しているのではないかと直前まで疑って監視していたようなのだが小早川秀秋には西軍では3番目に多い8千(一説では15千)の兵を擁しており、彼が味方であるのか敵であるのかは両軍にとって重大事であったことは当然である。

一般的な歴史の概説書では、小早川秀秋の裏切りは書かれても他の武将のことはあまり書かれていないのだが、土壇場で石田三成を裏切ったのは秀秋ばかりではなかったのだ。

前回の記事で関ケ原前後に家康が大量の書状を各方面に送っていることを書いた。Wikipediaにそのリストがあり、書状の中身までは紹介されていないが、備考欄のコメントから判断して、西軍の取り崩しを狙ったものと思われる書状を列記しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

家康の書状
【家康が関ケ原の戦い直前に西軍の取り崩しのために出状したリスト】

書状は多くの場合は使者を伴い、家康や東軍の武将の使者が書状を持参したともなれば内通しているのではないかとの噂が拡がることは必定だ。また西軍の武将にとってみれば、裏で東軍と繫がっていれば、西軍が敗れた場合にも所領没収などの最悪の事態を防げる可能性がある。実際に、言葉では「西軍に味方する」とは言いながら、東軍と両天秤にかけるような武将が少なからずいたようである。

石田三成
【石田三成】

石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書簡が残されているが、これを読むと三成の悩みや不満が吐露されていて興味深い。

関ケ原陣形

たとえば、長束正家や安国寺恵瓊が南宮山に陣を取ったことに関してこうコメントしている。
「…ことのほか敵を大事に懸けられ候て、よし敵はいぐん候とも、なかなかあい果たすべきてだてもこれなく、とかく身の取りまわし積りばかりにて候。陣所は垂井の上の高山に、山取りの用意に候。彼の山は、人馬の水もこれあるまじきほどの高山にて、自然の時は、掛合にも、人数の上り下りもならざる程の山にて候。味方中も不審つかまつるべく候。敵も其の分たるべく候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/223

要するに石田三成は、長束正家や安国寺恵瓊が高い山に陣を取ったのは、戦うためではなく身の安全を保つためだと評しているのだが、この二人を戦う姿勢に変えることこそが三成の役目であるはずではなかったか。大した武功のないたかだか20万石足らずの三成にはそれが不可能であったようなのだ。

「…敵方へ人を付置き聞き申し候。佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち、敵へ申し談ぜらるる子細候とて、この中相い尋ね候。それ故に勢州へ出陣せられる者も申し留め、各々面々在所在所に相待たれ候ようにと、申し談ずなどと申し。この二三日は頻りにかげの口これあり、敵方いさみ候いつる。しかるに江州の衆、悉く山中へ出だされ候とて、かげの口違い候ように、敵を申し候とて、ただ今申しきたり候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/225

名前を伏せているのでわかりにくいところだが、「佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち」というのは、小早川秀秋のことだと思われる。ほかにもいろんな武将が東軍と繫がっていたとの噂がたっていたようだ。

「…何とぞ諸侍心揃い候わば、敵陣は二十日のうちに破り候わん儀は、いずれの道にも多安かるべき儀に候えども。この分にては結句味方に不慮出来(しゅったい)候わん体眼前に候。よくよく御分別肝要に候。羽兵人(島津義弘)小摂(小西行長)なども、その申さるる様に候えども、適慮これありとみえ申し候。拙子儀は存知のたけ残らず申し候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226

みんなが同じ心で戦えば20日もすれば勝てる戦いなのだが、味方同士が猜疑しあっていて、この分だと味方で何があってもおかしくないと三成自身が書いていることは注目して良いだろう。

また、三成は長盛に対してこんなことも書いている。
度々申し入れし如く、金銀米銭遣わさるべき儀も、此の節に候。拙子なども似合いに、早手の内有たけ、この中出し申し候。人をも求め候ゆえ、手前の逼塞ご推量あるべく候。しかれば此の節に極り候と存じ候あいだ、其の元も心得あるべき事。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/227

この際、持てるものすべてを振りまいて、人心を収攬せよと長盛に忠告しているのだが、天下分け目の大勝負にはそれが不可欠であろう。少なくとも豊臣秀吉が生きていたら、大盤振る舞いをする局面ではある。

石田三成が増田長盛に宛てた書状の全文は、蘇峰の『近世日本国民史』に解説付きで紹介されているのだが、これを読むと三成が西軍の武将をよく観察し、敵と内通している武将や二股をかけようとしている武将が少なからずいて、形勢が厳しいことを認識していたことがわかる。

しかしながら、三成にはそのことを洞察することはできても、局面を挽回する力がなかった。

徳川家康
徳川家康

味方の人心を収攬し、敵方を疑心暗鬼に陥れる能力においては、はるかに徳川家康が優っていた。
戦いで勝利するためには、兵力や戦略で優位であることが必要であることは言うまでもないが、家康は調略と情報戦によって、西軍有利な状況を覆したのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html



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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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