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石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと

関ヶ原の戦いに大勝したとはいえ、西軍の首謀者である石田三成、宇喜多秀家、小西行長、安国寺恵瓊、島津義弘らの行方が不明であったので、徳川家康は、田中吉政にその捜索を命じている

慶長年中卜斎記
【慶長年中卜斎記】

最初に発見されたのは小西行長だが、家康の侍医であった板坂卜斎が記した『慶長年中卜斎記』に行長が発見された経緯などが記録されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されている。

小西行長は、関ヶ原本戦から4日後の9月19日に伊吹山の東にある糟賀部村で関ヶ原の庄屋・林蔵主に発見され、林は行長から次のように声を掛けられたという。

「…必ず近く来たり候え、頼み候わんと御申し候。近くへ参りて何の御用と申しければ、吾は小西摂津守なり。内府*へ連れて行き、褒美を取れと御申し候。…我らは自害するも易けれども、根本吉利支丹(キリシタン)なり。吉利支丹の法に自害はせずと様々仰せられ候。在所の百姓も聞き候まま、さらば御供申すべしとて、我が宿へ御供申し、家康公様御本陣へ、小西殿を御供申すに、自然道にて、人に奪われ候ては如何あるべきと存じ、竹中丹後守殿家老を呼び…」
*内府:朝廷の官名「内大臣」の漢名で、徳川家康を指す。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/271

キリシタン大名の行長は、キリスト教の教義では自殺を禁じられているために、切腹したくてもすることができない。そこで行長は庄屋の林蔵主に、自分を捕まえて家康に差し出して褒美をもらうようにと述べたという。
林は竹中重門(たけなかしげかど:竹中半兵衛の嫡男)の家老に事情を話し、ともども行長を護衛して、草津にいた東軍の村越直吉に引き渡し、ご褒美として金貨10枚を賜ったことが記されている。

稿本石田三成

次に捕縛されたのは石田三成だが、日本史学者渡辺世祐著が著し明治40年(1907)に上梓された『稿本 石田三成』にはこう記されている。

「初め三成の伊吹山に逃れし時は、近臣なお多く従いたりしかば、三成は、これ等を諭して皆立ち去らしめたり。然るに、渡邊勘平・磯野平三郎・藍野清介の三人は最後までもと強いて従いしが、三成はこれ等とともに江州浅井郡の草野谷に出て大谷山に遁れ暫く潜伏せるが、やがて三士をも諭して運よくば、再び、大坂にて会合せんと約して、去らしめたり。これより、単身山路を分けつつ伊香郡に入りて高野村に出で古橋村の法華寺の三殊院に逃れ善説に身を投ぜり。善説は三成が幼時の手習師匠なり。かく一時三殊院に匿れしも村民等の知る所となり、身を措くに困却せしが、この地三成の旧領地にして平素情をかけし百姓・与次郎太夫という者あり。志篤きものなりしかば、密に三成を請じて、その近傍成る山中の岩窟に潜ましめ、毎日食事を運べり。…しかるに、三成が与次郎太夫に頼れること、この村の名主に聞こえしかば、直ちに与次郎太夫を召し出して三成を捕え、(田中)吉政の陣所に致さんことを諮り。与次郎太夫大いに驚き、直ちに帰りて、この趣を三成に報ぜり。三成、病気にて起居。意に任せざりしかば与次郎太夫のこれまでの厚誼を謝し、天運尽きぬと覚悟し、吉政の家臣に報ぜしめたり。ここにおいて吉政の家臣、田中長吉訴に従い、来たりて三成を捕え、乗り物に乗せて同郡井ノ口に送りぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/181

少し補足すると、古橋村の法華寺という寺は石田三成の母の菩提寺であり、三成が手厚い保護を与えていた寺だという。
また、田中吉政石田三成とは旧知の仲で、豊臣秀次の失脚後秀吉に仕えて三河国岡崎城主となっているのだが、秀吉の死後は徳川家康に接近して関ヶ原の戦いでは東軍に所属し、前回の記事で記したとおり、石田三成の居城・佐和山城を搦手(からめて)から突入して落城させた人物でもある。
三成を捕まえたのは田中吉政の家人の田中長吉(伝左衛門)だったのだが、三成はよほど佐和山城の家族のことが気になったのだろう、長吉に三成の兄・石田正澄のことを訊ねている。長吉が、正澄は妻子を刺して自身も自殺したことを話すと、三成は「それですべてが終わった」「なんとかして大坂城に入り、もう一度挙兵がしたい」と述べたという。(『武功雑記』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/110


三成は捕縛されて22日に大津に送られて家康と面談した後に本多正純に預けられ、三成は正純に対して挙兵した理由と西軍の敗因についてこのように語ったという。
「吾れ世のさまを見るに、徳川殿を打ち亡ぼさずば、終に豊臣家のためによからじと思いて、宇喜多秀家・毛利輝元をはじめ同心なかりし者をしいて、かたらいて遂に軍をば起こしたりき。戦いに臨んで二心ある輩ありて、辺撃せしかば、勝つべき軍に打ち負けぬるこそ口惜しけれ。吾れ打ち負けしは、全く天命なりと答えて嘆息せり。正純、また、智将は人情を計り、時勢を知るとこそ申せ、諸将の同心せざるもしらず、軽々しく軍を起こされ、軍敗れて自害もせで、からめられしは、公にも似合わざる事なりというに、三成忿(いか)りて、汝は武略は露もしらざるなり。大将の道は、かたるとも耳には入るまじとて物もいわざりしと。(常山紀談、校合雑記、板坂卜斎覚書)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/184

本多正純に痛いところを衝かれて黙ってしまったのだが、三成からすれば小早川秀秋らの裏切りが無ければ、関ヶ原の本戦で充分に勝利できたと言いたかったのであろう。

話は前後するがこんなエピソードもある。家康は会見する前に大津の陣の門外に畳を敷いて三成を座らせて生き曝しにしたという。するとその前を、三成を良く知る諸将が通って行く。諸将の反応は様々だ。

福島正則
【福島正則】

「福島正則、打過ぎけるが、馬上に三成を見て、汝無益の乱を起こし、今その有様は何事成るぞと、大声叱咤せしかば、三成毅然として、吾れ運拙く、汝を生捕りて、かくなさざりしを憾とすと答えぬ。
黒田長政、正則に続いて、その前を打通りしが三成を見て、徐(おもむろ)に馬より下り、子、不幸にも、かくなられしこそ本意なくあらめと言い、三成の服装の穢れたりしを見て、己が着用せし羽織を脱ぎて、これを着せしめ、よく労りたりという。」
次に西軍敗北の原因を作った小早川秀秋が前を通ったという。さすがに、三成は黙ってはいられなかったようだ。
三成、秀秋の来るを見るや、吾れ、汝が二心あるを知らざりしは、愚かなり。されども、太閤の恩を忘れ、義を棄てて約に違い、裏切りしたる汝は、武将として恥ずる心なきかと。声を励まして秀秋を罵りしかば、秀秋、赤面して退けりと言う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/185

9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌(京都所司代)の兵によって捕らえられ、大津に護送されている。

そして小西行長、石田三成、安国寺恵瓊の3名は、その後大坂・堺を引き回されることになるのだが、三人の着ている服が破れて醜かったので、家康が3人に小袖を与えたという。その3人の反応が対照的だ。

「今その儘の姿にて、京・大坂を引き廻すは吾等同様に武士の翻意とせざる所なればとて、小袖を三人に与えたり。行長と恵瓊とは、これを喜び、家康の恩に感ぜしが、三成はこれを誰の与ふるところぞと問う。傍らにありし人、これは江戸の上様よりと答う。三成、それは誰の事ぞというに、徳川殿なりと答えしかば、三成、何に徳川殿を上様というべきや、上様は秀頼様の外にはなき筈なりと言いあざ笑いしたりと伝う。三成のあくまでも、秀頼に奉事することを念とし、家康に屈せざる状、その一挙一動に現われたり。(イツマデ草抜粋・常山紀談・関ヶ原合戦記)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/186

10月1日に3人は京都六条河原にて斬首されたのだが、三成は次のような辞世の句を残したと言われている。

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

筑摩江というのは三成の故郷・近江にある入江で、そこで漁師が芦の間で点す篝火のようにはかなく消えていく自分の命を詠っている。

石田三成
【石田三成】

いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。
石田三成は徳川家に正面から敵対したがために、悪し様に描かれることが多い人物なのだが、「勝者にとって都合の良い歴史」では、勝者に敵対した人物をそのように描かざるを得ないと考えて良い。その理由は、もし三成を立派な人物だと描けば、処刑したことに正当な理由を失い、処刑した権力者の方が悪者になってしまうからなのである。だから、権力者は敵対する人物を徹底的に悪く描いて、その人物像を世の中に広めようとするのだ。
三成のマイナスイメージの多くは、徳川幕府の意向により創作されて広められたものであり、そのような観点で記された「歴史書」をもとに多くの小説やドラマが創作されて、今も広められ定着しつつあるのだが、実際には石田三成という人物はどのような人物であったのか。

先ほど、三成が関ヶ原から落ちのびて、古橋村の法華寺の三殊院に匿われたことを書いたが、この時には田中吉政がこんなお触れを出していた。
「石田三成、宇喜多秀家、島津義弘を捕らえたものには永久に年貢を免除する。捕らえることかなわず、討ち果たした場合には当座の褒美として金子百枚を与える。
もし、匿う者があれば本人はもとより、一族およびその村の者も厳重に処罰する。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/180

にもかかわらず百姓・与次郎太夫は、日々三成に食事を運び、村の人々はその秘密を守ったのであるが、では古橋村の誰が、三成が匿われていることを訴え出たのか。

『稿本 石田三成』には、こう記されている。
「…今日古橋村に伝うるところによれば、三成のことをば与次郎太夫の養子が名主に訴え出でしかば、終に三成を捕うるに至れり。されば、この時よりして現今に至りても、一村養子を忌むの風あり。また、如何なる故か知らざるも、4月に三成の捕われしことを追想し一日は村民、すべて畏縮し、頗る敬意を表するという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/182

隣村の出身であった与次郎太夫の養子が、名主に三成が隠れていることを密告したために三成が捕縛され処刑されたことから、それ以降古橋村では他村からの養子縁組をしない慣習ができたというのである。これはすごい話である。

古橋村は三成の領地であったのだが、以前この地が飢饉に襲われた時に三成は年貢を免訴したばかりか、村人たちの為に米百石を分け与えたとの話があるという。

ネットでいろいろ調べると、三成が領民から慕われていたことを示す確かなものが、佐和山城址の法華口に残されているようだ。

石田地蔵
【石田地蔵】

上の画像は「石田地蔵」と呼ばれるものだが、三成の死後、領民たちが三成とその一族・家臣の霊を慰めるためにひそかに地蔵を作り、入山を禁止されていた佐和山のあちこちに置いたのだそうだ。
江戸時代に井伊藩がこれらの地蔵の一部をここに集めたというが、昔は5百体近くの地蔵があったというから驚きである。
http://94979272.at.webry.info/200810/article_15.html
仙琳寺という寺の境内にも多くの「石田地蔵」が残されているようだ。次のブログが参考になる。
http://blog.livedoor.jp/nozomunozomi/archives/65908198.html

井伊直政
【井伊直政】

関ヶ原の戦いに勝利し石田三成の領地を引き継いだのは井伊直政だが、佐和山城に入城してからわずか2年後の慶長7年(1602)に、関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま破傷風がもとで世を去ったという。
井伊直政が亡くなった当初、領民たちの間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まり、このことが家康の耳に入って佐和山城は徹底的に破壊され、代わりに彦根城が建築されたのだが、逆に領民たちは三成らの霊を慰めようとして、入山が禁止されていた佐和山に多くの地蔵を造って祈ったということのようだ。

石田三成が死んで415年以上の年月が過ぎたのだが、「石田地蔵」は今も地元の人々によって、美しく着飾り、花が供えられていることに驚くのは私ばかりではないだろう。
また長浜市石田町では、石田三成の法要が400年以上続けられていることもまたすごいことである。
石田三成は敗者でありながら、今も地元の人々に敬愛され続けている人物であることを知るべきである。

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西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い

前回の記事で、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が処刑されたことを書いたが、大坂城には西軍の大将・毛利輝元が大軍とともにいた。もし輝元が家康と戦う意志があったなら、この城はそう簡単に抜ける城ではなかったはずだ。

西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。

「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほとんど木偶人と一般であった。彼は本来家康とともに天下を争わんとする意気込みなく、ただ安国寺恵瓊に勧誘せられて、得々として大兵を率い、大坂に出掛けたのであった。而して彼は爾来、恵瓊の反対派とも言うべき、吉川(きっかわ)廣家、福原廣俊のために説破せられ、西軍の主将でありつつ、かえって局外中立の姿をなしていた。
されば家康は、一兵を損せず、一発の銃弾を放たず、手に唾して大坂城を収め得た。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/273

毛利輝元
毛利輝元

毛利輝元は全く戦わなかったのであるが、前掲書に大坂城に家康が入城するまでの動きが纏められている。

「家康は9月20日、西軍諸将の邸の伏見にあるを焼かしめた。22日福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、有馬豊氏らをして、葛葉(くずは)に至らしめた。毛利輝元は、誓書を井伊直政、本多忠勝、及び福島正則、黒田長政に遣(おく)り、西の丸を退き、二心なきを表せんと請うた。家康は23日、正則、輝政、幸長、長政、高虎に、西の丸を収むべきを命じた。25日5人連署して、書を輝元に遣り、直政、忠勝の9月14日の誓書の虚偽なく、かつ家康の輝元における、毫も心に介するなきを告げた。ここに於いて輝元は西の丸を退き、木津の邸に移った。増田長盛もまた本領の郡山に屏居した。正則らは葛葉より大坂に至り、西の丸を収め、本丸に赴き、秀頼に謁した。26日家康大津を発し、淀に宿し、27日大坂城に入り、秀頼に謁し、自ら西の丸に居り、秀忠を二の丸に置いた。
かくの如く9月1日に江戸城を出発し、同27日に大坂城に入った。如何に平昔(へいせき)よりして、潜勢力を養うていたとはいえ、未だ1箇月を経ざるに、天下の局面を一変したのは、実に異常の出来事だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/274

江戸城から大坂城まで徒歩で移動するだけでも2週間以上はかかる距離なのだが、さらに天下分け目の関ヶ原の戦いがあり、さらにその掃討戦が続き、それらに勝利するために情報を収集し、諸将に的確な指示命令を出し、西軍の内応者にも多数の文書を出してそれが功を奏している。
関ヶ原の前哨戦から掃討戦に至る家康の采配は、非常に緻密であり無駄がない。
西軍の大将・毛利輝元相手に戦わずして大坂城を開城せしめたのも、どういう手順を踏めばうまくことが運ぶかが良く練られた上で行動していることが見て取れる。

戸田氏鉄
【戸田氏鉄】

徳川家康に仕えた戸田氏鉄(うじかね)が著した『戸田左門覚書』には、家康が大阪城に入った状況についてこう表現されている。
大坂に於いて西の丸に御座なされ候。その節天下の大名、内府*公へ出仕すること、あたかも太閤の如し。」
*内府:徳川家康のこと

しかしながらよくよく考えると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとはいえ、表向きの天下人は豊臣秀頼であり徳川家康はその大老という立場である。もし西軍の主将・毛利輝元が、秀頼を擁して大坂城に居座り続けるという選択肢もあったと思うのだが輝元は無抵抗で大坂城を開城し、輝元が抜けたあとに家康が西の丸に入ったことで、大坂城に於いて家康は、太閤秀吉のような存在になったのである。

大坂城
【大坂城】

冒頭で、毛利輝元が家康に誓約書を出して西の丸を退いたことを書いたのだが、どういう経緯があって輝元は無抵抗で大阪城を退いたのだろうか。

輝元は、家康に毛利家の領地安堵の意向があることを保障する本多忠勝と井伊直政の誓紙を得たので、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切って、無条件で大坂城を出たのであるが、その後家康は、輝元の所領安堵の約束をいきなり反故にして、毛利氏を改易し、領地を総て没収とすると通告し、一方で毛利家の家臣で関ヶ原では東軍に内応していた吉川広家に対しては、毛利の領地の一部である周防・長門の2ヶ国を与えると沙汰したのである。

徳富蘇峰は同上書で、こう解説している。
「…平たく言えば、家康は立派に毛利を欺いた。かかる場合に欺いた家康が不徳であるか、欺かれた毛利が不明であるか。いずれにしても毛利は、家康から一杯食わされた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/276

この話は、吉川広家が家康に対して自分自身に加増予定の周防・長門を毛利輝元に与えるよう嘆願し、家康がそれを受けいれて10月10日に決着したのだが、そのために毛利領は現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県(36万石)と一気に7割もカットされてしまったのである。

関ヶ原陣形と街道
【関ヶ原陣形図】

関ヶ原本戦では、毛利輝元は西軍の総大将でありながら大坂城に止まり、毛利秀元(輝元の養子)、安国寺恵瓊、吉川広家の3名が関ヶ原に向かって南宮山に陣を構えたのだが、東軍と密かに内通していた吉川広家が、秀元、恵瓊の出陣を阻害したために、毛利家は戦わずして関ヶ原を去ったのである。にもかかわらず徳川家康は、毛利家の所領を大幅に減封し、安国寺恵瓊を死罪としたのである。

Wikipediaに関ヶ原の戦後処理の詳細がまとめられているが、小早川秀秋らとともに西軍から東軍に寝返った赤座吉家(越前今庄)、小川祐忠(伊予今治)が改易されているのをみると、戦況を見てから東軍についたような者には結構厳しい処分を断行しているようだ。
また大坂城にいて何もしていなかった豊臣秀頼についても、豊臣氏の直轄地である蔵入地の多くが没収され、領地が222万石から65万石に減らされているのだが、豊臣秀頼は天下人であったにもかかわらず、大老の徳川家康によってかなりの領土を奪い取られたことを知るべきである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86

毛利氏の徳川氏との交渉は、まるでどこかの国の外交のように性善説で臨んで円く収めようとしたのだが、結局のところ家康から好きなだけ毟り取られて終わってしまったのである。しかし、九州の島津氏は、家康に対してもっとまともな交渉をしているので紹介したい。

島津義弘関ヶ原
【島津義弘】

関ヶ原本戦の最後に東軍に包囲され、敵中突破を敢行して敗走した島津義弘は、伊賀路を経て9月18日に住吉に至り、22日に堺より乗船して29日に日向細島に到着し、10月2日に富隈にて兄・義久に関ヶ原の顛末を報告した後は、桜島で自ら謹慎したという。

当主である兄の島津義久は、関ヶ原に参加はしなかったが、西軍・小西行長の留守居よりの救援の要請を受けて肥後に兵を出し、また九州における関ヶ原掃討戦において西軍方を支援した経緯にあった。

徳川家康
【徳川家康】

家康は立花宗茂を降伏させたのち、九州の全大名に島津義久討伐を命じ肥後水俣に進軍させ、一方、島津義久は兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めている。
ところが家康は、冬季を口実に、翌年まで軍事行動を中止させている。それはなぜなのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は島津氏の武力を認識していた。…今や島津氏は、自ら死地に陥りたるを悟り、薩隅の二州に、虎の嵎を負う如く、その必死必生の勢力を以て、その討伐軍を迎えんとす。是れ決して尋常一様の敵ではない。家康にして力取せんとするは決して容易の業ではない。強いて之を行なわんとせば、多大の犠牲を払わねばならぬ。家康が中止を命じたのは、洵(まこと)に知慮ある仕業と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/296

島津義久
島津義久

家康は、島津義久の態度を見ながら懐柔しようとしたのだが、島津義久も駈引きでは負けていなかった。百姓に課役を与えて方々で築城を開始して、いざという時は全力で戦う姿勢を示したのである。家康は何度か義久に謝罪に来させようとしたのだが、義久は決して動かず、慶長6年(1601)年8月7日には一種の戒厳令とも言える15か条の『御先代軍法掟の事』を布令している。
最初の3か条を紹介すると、
「一 諸士何遍申付けの儀、相応の儀においては、難渋致すべからず。もし異儀及ぶものは、その沙汰すべきこと
一 武具油断なく調うべきこと
 一 出陣の時、二十五石取の衆は、自分で賄うべきこと…」
最初の条は、(生活に)難渋した場合はいつでも申し出でよと言うことを裏から述べたものと解釈されているようだ。金で敵方に内応するようなことが無いようにと配慮したのだろう。

このように島津義久が闘う意志を示し、「自分の国は命懸けで守る」という姿勢を貫いたことが、家康の態度をどう変化させたのか。徳富蘇峰は前掲書でこう解説している。

島津氏の家康に対する、我より進んで降参を求めず、却って家康をして、妥協を促がさしむるに至った。言わば、家康の秀吉に対する態度を、そのまま家康に向かって応用した。これは島津氏の深謀遠慮のためか。はた辺鄙の地にありて上国の形勢に通ぜず、徒に疑倶を懐きて、躊躇したるためか。それはいずれにしても、島津氏は、毛利氏の如く、容易に家康の命令通りに、唯命是従的には動かなかった。彼は徳川氏に向かって叩頭した。しかもその叩頭振りは、島津氏の自発的にして、決して徳川氏の注文通りには参らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/301

島津忠恒
【島津忠恒】

島津義久は、家康からの直接の本領安堵の確約がない限りは上洛に応じられないとして粘り続けたことから、とうとう家康が折れるかたちで慶長7年(1602)3月に直筆で起請文を書き、薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定され、その後義久の名代として甥の島津忠恒*が12月に上洛して謝罪と本領安堵のお礼を家康に伝えて、島津氏も徳川氏の統制下に入ったのである。
*島津忠恒:島津義弘(島津義久の弟)の三男。のち島津家久に改名。

島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し、終始西軍として戦ったにもかかわらず、関ヶ原以前の状態を存続した。西軍に加担しながら本領安堵された武将は他にもいるが、東軍に内応し寝返った連中などそれなりの理由がある者ばかりである。
関ヶ原の戦いの敗者でありながら、徳川家康から本領安堵を勝ち取った島津家の交渉力のすごさを知るべきである。
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わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』

天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html

そもそも、宗教の自由だとか、信教の権利だとかいう考え方はこの時代のわが国には存在しなかった。
当たり前のことなのだが、わが国においてキリスト教を布教するということは、人々に神仏への信仰を棄てさせなければ始まらないのだが、それは容易なことではなかったことはザビエルの文章を読めばわかる。

ザビエル
フランシスコ・ザビエル像】

岩波文庫の『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』に、ザビエルがわが国で布教活動した頃のさまざまな記録が残されているが、キリスト教においては亡くなった異教徒の霊は地獄に堕ちて救われないとザビエルが説くと、多くの日本人が嘆き悲しんだという。(同上書p.119-120)
キリスト教に入信するためには祖先との関係を一旦リセットしなければならないために、祖先を大切にする日本人にとっては、神仏への信仰を棄てさせることのハードルはかなり高かったようなのだ。
にもかかわらず、一部の地域でキリスト教が拡がっていったのだが、どのようにしてこの宗教が広まっていったのだろうか。

わが国の戦国大名で、最も早くキリスト教の信者となったのは肥前大村の領主・大村純忠で、洗礼を受けたのは永禄6年(1563)というから、ザビエルが来日してから14年も経過してからのことである。
今回は大村純忠がキリスト教に入信し、領国でのキリスト教がどのようにして布教されたかを記す事としたい。

九州地図
【戦国時代の九州地図】http://tugami555syou.blog94.fc2.com/blog-entry-384.html

大村純忠は肥前有馬氏の当主・有馬晴純の次男で、天文7年(1538)に大村純前の養子に迎えられ、天文19年(1550)に大村家の家督を継いだのだが、実は大村純前には実子・又八郎がいたのである。又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤家に養子に出されて後藤貴明と名乗ることとなったのだが、自分を追い出して大村家の家督を継いだ純忠に対して、終生敵意を持ちつづけ、また大村家の家臣の中にも後藤貴明に心を寄せる者が少なからずいたという。
普通に考えれば、周囲に敵が多い中で神仏を棄ててキリスト教を信仰することは領民の支持を余計に失うことになりかねない。
日本キリスト教史研究の先駆者・山本秀煌(ひでてる)氏が大正15年に著した『西教史談』には、こう記されている。

 西教史談

「しかるに、かかる困難な境遇にありながら、かりにも新宗教を奉ぜんか、領内の民心を失うは勿論、この機会を利用して如何なる謀計をなす者があるかもわからない。少なくとも、平常純忠に帰服しておらなかった輩に、有力なる反抗の口実を与えることは勿論である。故にかかる困難なる事情の下にある者は、たといキリスト教を信ずるの信仰があったとしても、之を心中に秘して世に公にしないのが賢明な態度である。大友宗麟をはじめ、その他の大名が信仰を告白するのを久しく躊躇しておったのはこれがためである。しかるに純忠は、単に宣教師の意を迎えんために、心にもなき信仰を殊更に標榜して洗礼を受けるが如きことを敢えてなしたとするならば、そは好んで身を難境の中に投ずる者であって、愚の極みと言わなければならない。故に純忠が洗礼を受けたのは、心中深くキリスト教に帰依し、その信念牢固として抜くべからざるものがあったのは知るべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/41

山本秀煌氏は大村純忠が純粋にキリスト教を信奉したことを強調しておられるのだが、当時の記録を読むと、別の意図が見え隠れする。

純忠は永禄5年(1562)に自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)をイエズス会に提供しているのだが、この時に結んだ約定が、同じ山本秀煌氏が大正14年に著した『日本基督教史. 上巻』に引用されている。

日本基督教史

「一 キリスト教の寺院を創設し、宣教師を十分に給養し、ポルトガル人のために横瀬浦の一港及びその周囲二里四方の地を開き、諸税を免じ、またキリシタン僧侶の許諾なき異教者は一人も港内に住するを得ざらむべし
 一 ポルトガル人等港内に在住するものへは何人に論なく、諸税を免除し、自今十ヶ年間ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/88

大村純忠がこのような破格の条件を提示した経緯を調べると、その前年である永禄4年(1561)に平戸においてポルトガル商人と日本人との間で暴動事件が起こり(宮ノ前事件)、領主の松浦隆信は日本人への処罰を行なわなかったことから、日本教区長のコスメ・デ・トーレスは、平戸での貿易を拒絶することに決めている。その直後に大村純忠イエズス会に接近しているのである。
大村純忠の提案を受け、当時隣国の平戸港に集まっていたポルトガル商人たちは、翌永禄5年(1562)に横瀬浦を新貿易港として対日貿易を再開し、商人たちが平戸から次々と移住したことにより横瀬浦は繁栄し、肥前大村は財政的に大いに潤ったという。

南蛮人来朝之図

そしてその翌年の永禄6年(1563)に純忠は洗礼を受けることを決心し、重臣二十五名とともにコスメ・デ・トーレス神父のもとを訪れている

イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見したルイス・フロイスが著した『日本史』に大村純忠が洗礼を受けた経緯が記述されているが、これを読めば、純忠はキリスト教徒となるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを神父から求められていたことが分かる。純忠が、自分の思いを神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いがトーレス神父に報告する場面を引用させていただく。

大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.279)

有馬義貞は13年後の天正3年(1576)年に洗礼を受けてキリスト教徒となっているが、当時は仏教徒であった。弟の大村純忠は、仏教を信奉する兄がいるので、神社仏閣の全てを焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の援助しないことを代わりに司祭に約したのである。援助をしないのであれば、寺も神社はいずれ廃れていくことになる。
この報告を受けて司祭は純忠にこう答えたという。

時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同上書p.279)

この文脈では、司祭が述べた「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、神社仏閣のできる限りを破壊したり、一切支援せずに荒廃させることと解釈するしかないだろう。

大村純忠が洗礼を受けた日に、実兄の有馬義直が龍造寺隆信と開戦したとの報が入ったという。その直後の純忠の行動が『西教史談』にこう記されている。

摩利支天

「翌日出陣の際兵士を率い、軍神摩利支天の社殿に参詣した。兵士は思った。これはいつもの慣例と同じく戦勝をここに祈禱するのであろうと。然るに何ぞはからん。それは軍神を尊敬するにはあらで侮蔑するためであった。即ち純忠は命じて摩利支天の神殿を拝殿より引き出さしめ、剣をもってその首を斬り、惨々に打ちたたいてその面部をめちゃめちゃに破毀してしまった。曰く、
『嗚呼、汝軍神よ、汝我を欺くこと幾許なりしぞや、汝は実に偽神なり。我れ汝の偽りに報いること此の如し』と。
 よって直ちに火を放ってこの社殿を焼き、その跡に美麗なる十字架を建て、跪いてこれに向かい、恭しく三拝したので、軍兵皆その例にならい、謹んで十字架を拝した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/44

そして純忠はこの戦いに勝ち、この勝利はキリスト教を信奉したことのお蔭であることを確信したことから、ますます排仏施策を推進していくことになる。

ルイス・フロイスは同上書でこう記している。
「(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名とかたるときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。」(同上書 p.281-282)

大村純忠は、このように戦の最中に何名かを派遣して仏像等を焼却させるようなことを繰り返しただけでなく、領内の仏教の禁止を宣言し、天正2年(1575)正月には仏教僧らを引見し、
予は諸君らが速やかに仏教より転じてキリスト教に帰依さられんことを願う。もしキリスト教に転ずることを肯んじられないならば、一定の時期を画して、我が領内より退去せらるることを願う
と述べて棄教をせまったという。

大村純忠
【大村純忠像】

山本秀煌氏は大村純忠による仏像等の破壊行為を「排仏毀釈」と表現して、こう纏めておられる。
「かくて仏寺は変じて切支丹寺となり、伝道隊は組織せられて、町々村々に布教せられ、新たに四十個の切支丹寺院は建設せられ、五万人(或いは三万五千人ともいう)の新たなる信者は加えられた。かくの如くにして大村領内には一人の仏教僧徒もなきに至った。まことに偉大なる功績と称すべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/49

キリスト教信者である山本氏にとっては「偉大なる功績」なのであろうが、キリスト教を信奉しない普通の人々にとっては「徹底的な文化破壊」以外の何物でもない。

このブログで何度か紹介してきたのだが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊せよと教唆していたことをイエズス会ルイス・フロイスが具体的に記録している。

フロイスの『日本史』を読み進むと、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に、松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、両軍がミサのために休戦したという信じられない記録がある。そしてその翌年に三好三人衆の軍隊の中にいたキリシタンの武将が東大寺に火を点けたことが記されている。
当時は九州や畿内で多くの寺社が焼かれたのだが、キリスト教の宣教師からすれば、戦国時代で争っている両軍の兵士に教唆すれば、寺社を焼いたり破壊したりすることは容易であったろう。この時代には、それほど多くのキリシタンの武将が、敵方にも味方にも存在したのである。
織田信長が命じたとされる元亀2年(1571)の叡山の焼き討ちも、軍事的に意味のないような多くの寺が焼かれているようなのだが、すべてが宣教師の教唆と無関係に行われたばかりなのだろうか。

日本西教史

フロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

文中の「殿下」は伴天連追放令を出した秀吉のことだが、これを大村純忠に置き換えても同じことである。
領主がキリスト教の布教を許したということは、その領地内で、キリスト教にとって異教である仏教の寺や仏像・神社のすべてを破壊することも同時に許したことになると、当時わが国にいたイエズス会のトップがそう考えていた事を知るべきである
多神教を奉ずる日本人には、こういう考え方は理解しがたいところなのだが、一神教であるキリスト教では異教はすべて根絶すべきものと考え、その破壊を実行することは正しいことであると、単純に考えてしまうところにその怖さがある。そのことは他の一神教においても同様のことだが、このような考え方では、理論的には異教を根絶する日が来るまで徹底して破壊し戦い続けなければならないということになってしまう。
そして一神教を奉ずる国々では、今も世界の各地で、同様な争いが続いているのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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