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薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。

前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。

耳川合戦図屏風 京都市相国寺蔵
【耳川合戦図屏風】

天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始したのだが、耳川(みみかわ)の戦いで島津義久軍に大敗している。

その大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立し、筑前でも秋月種実や筑紫広門が離反して島津方についた。また大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こったという。

一方島津家は、耳川の大勝を機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。それに対し大友家では、領内の叛乱を抑えきれないために織田信長に接近し、信長の仲介で島津義久との間で『豊薩和睦之儀』を成立させたものの、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると両国間の和睦は雲散霧消してしまう。

島津義久
島津義久像】

天正12年(1584)から13年(1585)にかけて島津義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼしてさらに筑後に兵を向けたため、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請したという。秀吉も信長と同様に薩摩との和睦を成立させようとしたが、今度は島津義久が断っている。

戸次川の戦い
【戸次川の戦い】

天正14年(1586)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友宗麟・義統父子への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反して、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、12月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかった。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲を使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたという。

臼杵城
【臼杵城】

天正15年(1587)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、3月にようやく島津軍が退却を始めるという流れである。

九州平定後秀吉が博多を出発する際に、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に対して秀吉が一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。

調べると大友義統が黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けたのは天正15年(1587)の4月なのだが、6月に秀吉が『伴天連追放令』を出したために、義統は正式にキリスト教となってわずか2ヶ月でキリスト教を棄教したことになる。

この薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、当時わが国にいたイエズス会のルイス・フロイスの記録に残されているので引用したい。

完訳フロイス日本史8

「豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の3つのうちいずれかに属していた。
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である
。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主*は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。
本年の1月2日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)
*豊後の新たな国主:大友義統(おおともよしむね)のこと。大友家第22代当主・大友宗麟の嫡男。後に秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した

この戦いで多くの人々が亡くなり、あるいは薩摩の捕虜となったとなったのだが、残った人々はほとんどすべてが飢餓状態にあったというからひどい話である。
1月2日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵1つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の人口が418千人だったことから勘案すると、その2割程度は捕虜として売却されたと考えてもおかしくないだろう。

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考え良い。ではポルトガル人は、それから彼らをどう用いたのか

ルイスフロイス
ルイス・フロイス像】

フロイスの記録を辿っていくと、多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョとやりあったことが記されている部分がある。

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.207-208)

この太閤の提起した問題に関してコエリョが答えた内容について、前掲書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)

このようにコエリョは、奴隷売買についてはこれを取締らない日本側に問題があると答えたことに秀吉は激怒するのだが、コエリョがこのように回答したのには理由がある。当時においては、異教徒ならびにキリスト教に敵対する勢力を攻撃してあらゆる所蔵物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶める権利をローマ教皇が認めていたことを知る必要がある。そもそも、当時わが国に来ていた宣教師がローマ教皇の教書の内容を否定できる筈がなく、彼らにとっては間違ったことは何もしていない認識でいたと考えられる。

カトリック教会と奴隷貿易

その教書の内容についてはカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある西山俊彦氏の著書である『近代資本主義の成立と奴隷貿易』に出ているが、著書の一部をネットでも読むことが出来る。次のURLで紹介されている論文のp.6「Ⅱ.一層明白な教会の関与 ~キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書」で確認願いたい。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf

同上書には1454年に出された「ロマーヌス・ポンティフェックス」が訳出されているが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

西山氏の著書によると、それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だという。このようなキリスト教の負の歴史は、戦後のわが国では未だにタブーとされていると言って良い。

わが国の歴史家はこの時代を「大航海時代」などというピント外れの言葉を使って問題の本質を隠しているのだが、ローマ教皇が「ロマーヌス・ポンティフェックス」のような教書を相次いで出していたからこそ、スペイン・ポルトガルが罪の意識を持たずして世界を侵略し、原住民を奴隷にして世界各国に売飛ばしつつ、植民地を拡大していったことを知らねばならない。
このような教書が存在したこの恐ろしさは、宣教師が布教に訪れた国が、キリスト教と異なる宗教を持つということだけで、スペイン・ポルトガルがその国を侵略したり住民を奴隷にする権利を付与していた点にある。
そして戦国時代以降のわが国は、スペインやポルトガルがその権利を行使できる対象国になっていたことを知らなければ、わが国に相次いで宣教師が来た理由を正しく理解したことにはならないだろう。

鉄砲を棄てた日本人

では、なぜわが国がこの時代に国を奪われずに済んだのか。
この点については以前もこのブログで記したように、この当時のわが国は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、キリスト教が伝来する6年も前の天文12年(1543)に西洋の鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。ノエル・ペリン氏の『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)には、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたことや、当時日本に訪れた宣教師オルガンティノ・グネッチや、前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロは、母国よりも日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

スペインもポルトガルも日本よりも軍事的劣勢であっただけでなく、本国から遠く離れていたので武器・火薬等の補給が困難であったことから、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、わが国には容易に手を出せなかったのである。
だから彼らはキリシタン大名や武将を育てて国を割り、最後にキリシタン大名に勝利を導こうと画策したのだが、わが国の為政者がその侵略の意図を認識し適切に対応したことや、スペイン・ポルトガル国内事情もあって失敗に終わったと理解している。その点については以前このブログで述べたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

戦国時代以降のわが国の歴史は、西洋史の大きな流れの中で捉えるべきだと考えるのだが、戦後のわが国の歴史叙述では、なぜかこのような視点が根本的に欠落していると思われる。
豊後の人々が島原半島で南蛮船に乗せられて奴隷として売られていったことも、前回及び前々回に記したキリシタン大名の領国で徹底的に神社仏閣が破壊されたことも、ローマ教皇の教書によって異教徒の全ての領土と富を奪い取り住民を終身奴隷にすることが認められていたことを知れば納得できる話なのである。
彼らは世界中の異教国を侵略し、異教徒の文化を破壊し、住民を奴隷化してその土地から追い出し、そこに白人を植民してキリスト教国化する手法で、キリスト教世界を拡げようとしていたのだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



関連記事

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか

前回の記事で、戦国時代にキリシタンによって多くの社寺仏閣や仏像等が破壊され、また多くの日本人が海外に奴隷に売られて行った背景には、異教国や異教徒に対してそのような方法で異教徒の世界を破壊してキリスト教世界を拡げることが、ローマ教皇による教書で認められていたことが背景にあることを書いた。

たまたまこの時代はわが国に優良な武器が大量に存在し、またわが国の為政者がキリスト教の宣教師が侵略の手先であることを看破して布教を警戒したので、この時代にわが国はインドやフィリピンのように植民地にならずに済み、それから長い期間にわたりわが国に平和な時代が続くのだが、その間に世界の情勢が大きく変わってスペイン、ポルトガル、オランダが凋落し、代わってイギリス、フランス、ロシアが海外に版図を拡げていくことになる。

鎖国以降のわが国に、最初に接近してきたのはロシアなのだが、高校の標準的な教科書にはロシアの接近についてどう書かれていたかを確認したくなった。
山川の教科書にはこのように記されている。

「ロシアは東方への進出に力を入れ、18世紀初めころにはシベリアをへて日本の近海にあらわれ、オットセイなどの毛皮をとるようになった。ラクスマン来航のあと、1804(文化元)にはレザノフが長崎に来航して日本との通商をもとめた。このロシアの接近におどろいた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検をおこない、蝦夷地を幕府の直轄地にして、北方の警備をきびしくした。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.192~193)

この文章を普通に読めば、ロシアは交易のためにわが国に接近したのであって、わが国を侵略する意思はなかったかのような印象を受けるのだが、ではなぜ江戸幕府はロシアの接近を警戒したのだろうか。

まず、鎖国以降のわが国とロシアの関係について、Wikipedia等を参考にレザノフ来航までの歴史を簡単に振り返っておこう。

ピーター大帝
【ピョートル1世】

元禄6年(1696)頃に、大阪出身の商人であった伝兵衛という人物が、江戸に向かう航海の途上で嵐に遭い、カムチャッカ半島に漂着して現地民に捕えられた。この男が翌1697年にロシア人ウラジーミル・アトラソフの探検隊に発見され、その後モスクワに連れて行かれて初代のロシア皇帝・ピョートル1世(在位:1682-1725)に謁見したという。国王は日本という国に大いに関心を持ち、サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置して、伝兵衛をその教師としたのだそうだ。下の画像はWikipediaに紹介されている伝兵衛の署名入りの文書である。

伝兵衛

1706年にはロシアがカムチャッカ半島を占領し、毛皮などを獲るために千島列島に出没するようになり、1711年にはイワン・コジレフスキーが国後島に上陸している。
1739年にはヴィトウス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台や安房国沖、伊豆下田に接近した旨の記録が残されている。わが国は当初、これ等の船がどこの国のものか判らず、現地住民が船員から入手した銀貨・紙札を長崎出島のオランダ商館に紹介して、ようやくロシアの船であることが判明したという。

エカチェリーナ2世
【エカチェリーナ2世】

エカチェリーナ2世の治世(在位:1762-1796)となって、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校が、1768年に日本語学校が設置され、日本近海への航海が増加する。

1771年に阿波国徳島藩の日和佐にロシア船が漂着したが徳島藩は上陸を許さず、水と食糧と燃料を与えて追い返した事件があった。この船に乗っていたモーリッ・ベニョフスキーという人物は犯罪者で、脱獄して帆船を奪って「聖ピョートル号」と名付けて日本に向かったのだが、彼を追い返した徳島藩に、高地ドイツ語で書かれたオランダ商館長宛の手紙を手渡したという。オランダ商館長がその手紙を解読したところ、そこにはロシア帝国が松前藩近辺(北海道)を占領するためにクリル諸島(千島列島)に要塞を築いているという出鱈目が書かれていたそうだが、この手紙がきっかけとなってわが国がロシアを警戒するようになったのだという。

また1778年にはロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが翌1779年に松前藩はそれを拒否した記録がある。
それから2年後の安永10年(1781)、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、また林子平は寛政3年(1791)に『海国兵談』を上梓して、ロシアの南下政策に危機感を懐き海防の充実を唱えたが、いずれの書物も1771年にベニョフスキーがオランダ商館長に宛てた手紙に刺激されて書かれたようである。

続いて寛政4年(1792)には、日本人漂流者でロシアに保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が根室に来航したが、老中松平定信は長崎のオランダ商館と交渉することを求めたため、ラクスマンは長崎に行かずに帰途についている。

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【ロシア領アメリカ】

一方江戸幕府は、寛政11年(1799)に松前藩にかわって幕府が東蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせているのだが、その年にロシアはアラスカをロシア領アメリカとして領有を宣言している。
ロシアがアラスカを領有すると、その領土維持の為に人の送り込みと、さらには食糧が必要となってくる。ロシアとしては極東に親密な貿易国を持つことを希求していたことから、わが国への開国要求はますます熱を帯びてくる。

ニコライ・レザノフ
【ニコライ・レザノフ】

1804年9月にニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い国書を携えて長崎に来航している。ラクスマンの時は半ば非公式的な使節であったが、レザノフはロシアの全権使節として乗り込んできたのである。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25 幕府分解接近時代』に、レザノフが携えてきた国書の訳文が掲載されている。ポイントとなる部分はこの一節である。
「…朕の商人が、貴国に出入するを許容せらるるのみならず、貴国の隣邦たるクリル諸島*、アレウト諸島*、カヂアク諸島*の住民にも、長崎一港に止まらず、また一艘の船舶のみならず、陛下の意志により、数多の船舶をして、他の諸港にも出入するを得るに至らしめんとするに在り。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/96
*クリル諸島=千島列島、アレウト諸島=アリューシャン列島、カヂアク諸島=アラスカ海岸にあるコディアク島を中心とする列島

アリューシャン列島 コディアク島

船には将軍や重臣への豪華な贈物33品が積み込まれ相当気合が入っていたのだが、日本側はそれを受け取らず、レザノフたちは半年間も監視されたまま出島に留め置かれることとなる。
翌年の3月にようやく幕吏との会見が持たれたのだが、ロシア側の記録によると江戸幕府からの回答は以下のようなものであった。

「日本の政治家は、かつてラクスマンに教示したとおり、ロシア人とはなんらの交渉をも開始すべからざるにより、ロシア使節の到来を、はなはだ訝しく思うこと。…日本君主はロシア使節を接受するあたわざること。また日本は通商をこいねがわず、これを以て、ロシア使節の、日本退去せんことを請求すべきこと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/122

散々待たされたあげくにこのような拒否回答を得て、レザノフが憤慨したことは言うまでもない。レザノフはこのように書いている。
「通詞はかかる拒絶あらんとは、待ち設けて居なかったから、この宣告を聞くや、(使節拒否)全身凝りて石の如く、辛うじてこれを通訳した。予もまた顔色全く変じ、知らず知らずのあいだ、自らかかる侮辱は、ただ驚くより外はない。…我が君主から求むるところは、日本人が博愛的精神よりして、ロシア人の不便を救わんとする好意に外ならぬ。しかるに彼等日本人は、ロシア人と見る、ポルトガル人と擇(えら)ぶなきかと。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/123

レザノフが施設の目的を達することが出来なかった点につき、ロシアでは様々な論評がなされたようだ。レザノフの交渉を問題視する説のなかに、レザノフがオランダ商館の支配人ズーフに対して警戒を怠ったとする説があるという。わが国に接近する際に、ロシアはオランダ商館に協力を要請していたのだが、実はオランダは表向きにはレザノフの為に周旋しつつ、裏にまわってロシアのわが国との交渉を失敗に導かせようとしたのではないかというの説なのだが、オランダからすれば日本との貿易を独占できることの方が国益に資するのであり、充分あり得る話である。

しばらくしてレザノフの部下の中から、武力で日本を開国させようと考える者が出てきた。徳富蘇峰の前掲書にはこのよう記されている。

「…彼の船長クルゼンステルンは、後年その著『奉使日本紀行』中に、樺太侵略について、左の如く意見を陳べている。
 『アニワ*を取りて、これに拠らんとは、少しも難事ではない。此処の兵器の用意もなければ、防守の備えもないようだ。またここを他に奪われたとて、日本の為政者は、容易に之を取り返すことは出来ないであろう。そは彼らは、其の必勝の算が立ちかぬるからだ。もし戦端を啓いて、勝利を得ざれば、その国の威光を損し、その国民に危惧の念を生ぜしめ、国内の騒動を惹き起こす虞(おそ)れあれば、為政者はこれがために、全く蝦夷を失うよりも、大なる危険を冒さねばならぬ。
 もしまたこれを取返さんとて、大軍を起こすも、軍艦なく、大砲なく、海軍の備えも全くなきことであれば、いかに防備の法なきアイヌにても、之を拒めば一寸の地でも彼は取り得べきではない。いわんやもし、16門の砲を備えたるコッテルズ2艘に、兵卒60人を載せ、風に乗じてこれを伐たしめば、日本大船に一万の兵を乗せ来たるも打ち崩すべしだ。」
*アニワ:サハリン(樺太)南部のアニワ湾に面した町。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/143

アニバ湾

少なくともレザノフ一行が日本に来るまでは、ロシアは樺太を侵略する意志を表に出す事はなかったのだが、航海の途上で我が国の守りの脆弱さを確認して、充分に占領できることを認識したようだ。そして、その後のロシアは、わが国の各地で乱暴狼藉を働いていることを知るべきである。

文化3年(1806)にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフが樺太の東浦にあるオフィトマリヤに到来し、小児を掠め去ったのちクシュンコタンの波止場で会所番人4人を捕え、倉庫の穀物を奪い、会所そのほか悉く焼き払ったことがわが国の記録に残されているようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/144

また翌文化4年(1807)にはこんな記録もある。異賊とあるのはロシア人のことである。
「…異賊またエトロフ島シャナに上陸して会所に鉄砲を打ちかけ乱暴に及ぶ。よて箱館奉行支配の士、および南部、津軽両氏の人数防戦し、異人を撃取るといえども、防ぎ難くして、同島のルベツの方に逃れ、遂に箱館に退く。かれ5月1日より2日に及び、米酒等を奪い、本船に積み入れ、処々放火して、同3日出帆す。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/146

幕府は北方警備の重要性を悟り、西蝦夷地も幕府の直轄領とし、さらに奥羽四藩に北海道の沿岸警備を命じている。

津軽藩士たちは北海道の北端の宗谷に向かい、その内の100名が知床半島の付け根にある斜里に向かったのだが、周辺の山林からトドマツを伐採して建てた急造の施設に本格的な冬が到来し、北からの季節風をまともに浴びて隙間風に悩まされ、海は流氷に閉ざされて新鮮な魚も野菜も口にすることが出来ず、寒さと栄養不足から大量の病死者を出したという。

松前詰合日記

斎藤文吉という下級武士が書き残した『松前詰合日記』が昭和29年(1954)に偶然発見され、津軽藩士の悲劇が知られるようになったようだが、藩士の大量死は津軽藩の「恥部」として厳重な緘口令が布かれ、藩の公式記録にも載せられなかったのだそうだ。
この『松前詰合日記』については次のURLで一部を解説付きで読むことが出来るのはありがたい。
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html

津軽藩士殉難慰霊の碑

北海道の斜里の地に昭和48年(1973)には72名の津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、毎年7月下旬にこの碑の前で慰霊祭が毎年行われているのだという。

レザノフが来航してから50年後にペリーが来てわが国は開港することになるのだが、もしわが国がこの時にロシアとの交易を開始したとしたら、おそらく不平等条約を押し付けられるようなことはなかったであろうし、幕府としてもロシアとの交易で財政が潤い、少なくとも江戸幕府にとっては結果的に悪い選択ではなかったと思われるのだが、ロシアの使節をさんざん待たせておきながら国是の「鎖国」にこだわって帰してしまった。

一度国是としたことを、世界情勢が変わって柔軟に考え方を見直すべき時代が到来しても、外圧がなければ変えられないことがわが国では今もよくある話だが、行き過ぎるとむしろ外圧を呼び込んで収拾がつかなくなってしまう危険性を孕んでいる。いつの時代においても、何事もあまり頑なになるのではなく、国内で議論を尽くして柔軟に対応できる国であって欲しいものである。

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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
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なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-327.html

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
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ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた

前回の記事でロシアの全権使節であるニコライ・レザノフがわが国に通商を求めてきたことに対し、わが国は半年間待たせた上で拒絶回答をして以降、蝦夷地にロシア船が出没して乱暴狼藉を働く事件が相次いだことを書いた。

休明光記

その後江戸幕府内で、ロシアと通商を開始すべきではないかとする意見が出てきたという。
当時箱館奉行、松前奉行として蝦夷地経営の最高官僚であった羽太正養(はぶとまさやす)が記録した『休明光記』に詳しく叙述されているようだ。

渡辺京二氏の『黒船前夜』に、こう解説されている。

「…『休明光記遺稿』のうちに『魯西亜(ロシア)人乱妨に付、江戸において御評議の事』という文書があり、それには清国との貿易を停止し、かわりにロシアと通商を開くべしとする意見があったことを長々と紹介している。清との貿易を停止する根拠は、長崎の唐船貿易は商人の私商売であって、清は一度も正式な使節を派遣したことがない。交易でわが国の棹銅(さおどう)を得て銭を鋳造しているのに、そのような大切な交易を商人任せにしているのは日本をあなどっている証拠だ。しかも日本は貴重な銅を輸出ししながら得るものは薬種ぐらいにすぎない。また近年不礼不法を働く輩も多いというのである。
 それに反してロシアは、二度にわたって使節を派遣して信義を尽くしている。それに報いて国交を開き、国境を定めて交易のことを議すべきである。ロシアのような世に聞こえた強国が折角信義を尽くして交易を乞うているのに、わざわざ恥辱を与えて戦端を開けば費用は莫大なものになる。しかるに彼の望みを容れてやれば、かの国も多年の宿望を果たし恥辱も雪がれて、わずかな島々など喜んで返却するだろう。…
…以上のように論じて『然るにおいては、万々一外の蛮国より日本を伺ふ事ありといえども、世界第一の強国たる魯西亜と交わりを結びたるにおいては、諸国よりまた猥(みだ)りに手を出すべからざるべし。返えす返えすも交易の道を開き給う方こそ然るべし』と結ぶ。何とこのとき幕府内では、日露同盟による安全保障論が公然と唱えられていたのだ。」(『黒船前夜』p.271-272)

杉田玄白
杉田玄白

この時期にロシアと通商すべきとする意見は幕府内だけでなく民間にも存在したという。文化4年(1807)に杉田玄白は『野叟独語』を著して、国法をまげてもロシアとの通商を開くべきことを主張したのだそうだ。

もちろん幕府がこの説を採用することはなかったのだが、もし採用したとしたらどうなっていただろうか。渡辺氏は前掲書でこう述べておられる。

黒船前夜

もしこのときロシアと国交を開始していれば、あとには当然欧米列強が続いただろう。さすれば、…幕府は後年の攘夷論などに煩わさされることなく、主体性を堅持したまま欧米諸国に門戸を開くことになったのである。列強の砲艦外交はまだ始まっていない。すなわち日本はこのとき、幕府主導の開国というひとつの近代化の可能性を喪ったのだった。」(同上書p.272)

江戸幕府は、国是としていた「鎖国」を守るためにロシア船は打払うべしと命じたのだが、そもそも「鎖国」はまずキリスト教を宣教して国を割った後にわが国を占領しようとしたスペイン・ポルトガルの意図を封じるため、キリスト教を禁教したうえで海外貿易を長崎の出島に限定したものである。ところがロシアがはわが国に接近した目的は布教とは関係なく、また侵略を企んでいるわけでもなく、ほとんど交易が目的の全てと言ってもよかった。
にもかかわらず、二度にわたり礼を尽くして使節を送り込んだロシアを、江戸幕府は拒絶したのである。

幕閣はロシア船を打払えと指令したのだが、そもそも広い蝦夷地のどこに現われるかもわからないロシア船を追い払うために、どれだけの兵士と大砲と軍艦が必要で、どれだけの費用がかかるかを検討したのだろうか。ロシア船の乱暴狼藉のあと津軽、南部、秋田、庄内の藩兵3千が配置されているが、そんなわずかの人数ですべてのロシア船を打払えるはずがないではないか。

レザノフ来航絵巻 ロシア使節
レザノフ来航絵巻】

後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章は、文化5年(1808)2月に老中の諮問を受けて意見書を提出しているのだが、この内容は注目するに値する。渡辺氏の前掲書にこう解説されている。

「まず驚かされるのは、文化3年度、4年度の暴行を謝罪するならば交易を許して良いとしていることだ。もし今年願い出てくれば来年回答し、再来年より交易を開始するという日程まで考えている。当時日本の当事者はフヴォストフ*の書簡によって、彼らの蝦夷地襲撃が交易許可を望んでのことだと正確に理解していた。従って、今年来るか来年来るかわからないが、近いうち必ずロシア側から接触してくるはずだと考えて、対策を練っていたのである。…
 会談に当たっては先方の『不束(ふつつか)』を咎めるとともに、『此方にて不行届の義は取繕いなく申し達し、理非明白に仕り、手前勝手これなき義と、彼方にても服する様したき儀に存じ奉り候』というのだから、長崎でのレザーノフの扱いについても、こちらの落ち度を認める用意があったのだ。このように和睦を旨としても、来たるべき日露会談では手切れも含めて曲折が予想されるから、それなりの備えを怠ってはならない。河尻と荒尾は千石ほどの軍艦を10隻建造し、エトロフより先の島々、さらにはカムチャッカまで派遣せよと提案する。…」(同上書 p.274-275)
*フヴォストフレザノフの部下ニコライ・フヴォストフで、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃した。(文化露寇)

レザノフ来航絵巻
レザノフ来航絵巻】

この意見書を読んで老中は「和議交易の方のみ重じているが、わが国の武威をいかにして示すのか」と質したので、ふたたび河尻と荒尾は意見書を上申した。

「交易については、長崎でお諭しになった国法はそむいてはならぬことではあるけれども、ロシアの辺境と松前付属の土地との間の交易となれば別問題なのではないか。国同士ではなく辺境同士の交易という『軽き事』として許可あってしかるべきであると両人は主張する。…また…武威については、狼藉を働かずわびてくるとなれば、畢竟お備えが万全だから神妙な態度で出てくるわけで、武威はそれで立っているのではなかろうか。」(同上書 p.275-276)と述べた上で、このような『軽き事』を幕府が許可しないがために蝦夷地全域を警衛せざるをえなくなったのだが、たとえ2万3万を動員しても、この広い蝦夷地を護ることは難しいと説く。

続いて、河尻と荒尾の意見書のポイントとなる部分が引用されている。
民命を申し候えば、警衛の人数、事により候ては、生きて帰り候もの少々に至り候べし。矢玉に当たり、風波に没し、または水上に傷を被る等々、番手死亡仕り候もの幾件あるべきや。その国々の民、課役人夫に疲れ、辛労を受け、その責めにたえずして、家を離れ妻子を捨て、路頭に斃れ候もの、宿次助郷(しゅくつぎすけごう)に至るまで困窮致し候わば、際限もこれなく、難渋の内には不慮の変を引出し申すべき程も計り難し。」(同上書 p.276)

前回の記事で、文化4年(1807)に北辺の守りのために派遣された津軽藩士が、寒さと栄養不足から大量に病死したことを書いたが、そんな犠牲を強いるようなことを繰り返しては、いずれ幕府に反抗する動きがでてきてもおかしくないだろう。

そして、「この時に当たり、精々その理を尽くさずして御処置ござ候て、後々に至り後悔候義も候ては、あいすまざる事にござるべく候。その時、天の責め誰人に当たり申すべきや。天職の御方ここにおいて至極御大切の御場合にござ候あいだ」、位も処もわきまえず死罪に当たることではあるが、黙視しがたく申し述べたとある。

この、命がけで書かれた意見書が老中たちを動かし、乱暴狼藉を繰り返していたフヴォストフに対する返事が準備されたという。渡辺京二氏はこう解説している。

渡辺京二
【渡辺京二】

「両人の上書を読んだ老中たちは『ともかくもその時に応じよろしく取り計らうべし』と答え、同時に再来が予想されるフヴォストフに与える返事が作成された。…『いよいよご無事を祝し申し候。然らば御手紙の通りにては、通商の願いかない申さず候』と書き出された返事は、狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。いくさをする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ。来年6月カラフト島にて会談しよう。この上狼藉するなら交易どころではないぞと述べる。…

もしこの時ロシアが船を派遣して日本側と接触していたら、交渉次第では日露の通商関係が成立していた公算が高い。しかしフヴォストフらはオホーツクの獄につながれ、通商を願い出るロシア船の訪れはなく、幕府の返書はロシア側には渡らなかった。蝦夷地襲撃があとを絶ったとなれば、交易に応じてやろうという気遣いもいらなくなる道理だ。ただロシア船の接近を厳戒する気分だけは残る。…」(同上書p.277~278)

アレクサンドル1世
【アレクサンドル1世】

フヴォストフらがオホーツクの獄に繋がれたのは、ロシア皇帝アレクサンドル1世の許可もなく日本国に対して乱暴狼藉を働いたことに皇帝が不快感を示したことが理由だったようだが、1808年に全軍に撤退命令が出されていたために、幕府が用意した手紙はロシアに手渡されずに終わってしまったのである。

おそらくロシアはフヴォストフがわが国で乱暴狼藉を働いてしまったために、わが国との交易が実現する希望がなくなったと考えたのであろう。レザノフは次いでカリフォルニアに向かったのだが、現在のアメリカ合衆国の南西部は、当時ヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン)といってスペイン帝国の副王領地であった。レザノフは北米西海岸を全面的にロシアに併合し、本国から即座に大量の移民を送ろうと考えていたのだが、彼が病死したためにロシア皇帝はスペインとの条約に調印せず、ロシア領アラスカを立て直すというレザノフの改革は頓挫してしまう。

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【ヌエバ・エスパーニャ】

前回の記事で1799年にロシア領アラスカが成立したことを書いたが、その領土維持のためには多くのロシア人を送り込まねばならなかった。しかし、アラスカは極北の地ゆえ食糧不足のために、ロシア人や先住民族が飢餓に苦しんでいたという。
このアラスカを立て直すためには近隣国から大量の食糧を調達することが喫緊の課題であり、そのためにロシアはわが国に対して礼を尽くして接近してきたのだが、ロシアはわが国のみならずヌエバ・エスパーニャとも交渉をまとめることが出来ず、困窮したアラスカは1867年にアメリカへ720万ドルで売却されることとなった。

アラスカゴールドラッシュ
【アラスカ ゴールドラッシュ】

ところが1880年代の後半以降にアラスカで金鉱が相次いで発見されてゴールドラッシュがはじまり、1968年には油田が発見されている。ロシアは148万㎢のアラスカを1㎢あたり5ドル以下の価格で売却したのだが、随分安く売ってしまったことをあとで後悔したのではないだろうか。

話をわが国がフヴォストフに手渡そうとした手紙の話に戻そう。
もしこの手紙がロシアに渡っていれば両国の交易が開始され、江戸幕府にとってもロシアにとってもプラスになっていたことは確実だ。
江戸幕府は、列強諸国の砲艦外交によって不平等条約を押し付けられることもなく、渡辺氏の表現を借りれば「幕府主導の開国」を実現し、日露関係を基軸にして近代を迎えていた可能性を感じるのである。
またロシアはアラスカを手放さなくて済んだだけでなく金鉱を発見し、さらにヌエバ・エスパーニャに手を伸ばしてその植民地化を図ろうとしたことであろう。そして、もしロシアが北アメリカ大陸の西側に勢力を伸ばしていれば、アメリカは西進することは困難であり、わが国にペリー艦隊を派遣することはなかったと考えられる。

いつの時代においてもどこの国においても同じだと思うが、外交というものは初期の対応が極めて重要で、とりあえず現状維持を優先して問題を先送りするような姿勢を続けては、後々で問題解決を困難にさせるばかりではないか。
文化3~4年(1806~7)のロシアのフヴォストフらによる文化露寇の後で、命がけで老中たちを説得して開国を迫った河尻春之と荒尾成章のように、権力者や諸外国に対し堂々と正論を主張できる官僚や政治家が、今のわが国にいて欲しいものだと思う。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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