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ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵

文化元年(1804)にレザノフが長崎に来航したのだが翌年に追い返されたのち、文化3年(1806)、文化4年(1807)にレザノフの部下であるフヴォストフが武力でわが国を開国させようと乱暴狼藉を働いた事件があり、その翌年の文化5年(1808)に江戸幕府は間宮林蔵に樺太の探検を命じている。林蔵は2度にわたる探検で樺太が島であることや、樺太や大陸の黒龍江周辺地域がロシアの支配下にないことを確認した。

一方長崎では、文化5年(1808)8月にイギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港に入港し、出迎えのため船に向かったオランダ商館員2名を拉致すると、オランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げた事件が起きている。
翌日、フェートン号のペリュー艦長は人質1人を釈放して、薪、水、食料の提供を要求し、供給がない場合は、港内の船を焼き払うと脅迫してきたのだが、長崎奉行の松平康英は人質を取られていただけでなくフェートン号を追い払うだけの充分な兵力がなかったために、ペリュー艦長の要求に応じざるを得なかった。ただし水については少量の提供にとどめて明日以降充分な量を提供するとして応援兵力の到着を待つこととしたのだが、フェートン号は碇を上げて早々と長崎港外に去ってしまったという。

このフェートン号事件でわが国には人的・物的な被害はなかったとはいえ、江戸幕府の警戒体制の不備が明らかとなり、松平康英は国威を辱しめたとして自ら切腹し、本来配置すべき兵力を無断で大幅に減らしていた鍋島藩家老など数人も責任をとって切腹したという。
この事件を機に幕府の対外姿勢が硬化したことは言うまでもないが、その3年後の文化8年(1811)にはまたロシアの船がやってきた。

ディアナ号
【ディアナ号】

軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニンは千島列島南部の測量任務を命じられていて、5月に択捉島の北端に上陸したのち国後島の南部に向かい、泊湾に入港すると補給を受けたい旨のメッセージを樽に入れて送って海岸で日本側の役人と面会することとなり、陣屋に赴くことを要請されてそこで松前奉行配下の役人に食事の接待を受けたのち、補給して良いかどうかは松前奉行の裁可が必要であり、それまで人質をここに残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛されてしまう。

俄羅斯(おろしや)人生捕之図 先頭がゴロウニン
【俄羅斯(おろしや)人生捕之図 先頭がゴロウニン

ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴロウニンが戻ってこないことを心配し、救出のための遠征隊派遣を要請しようとペテルスブルグに向かったのだが、滞在先のイルクーツクで日本への遠征隊派遣が却下されたとの結論を聞き、リコルドは、通訳として文化露寇で捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門という人物を連れてオホーツクに戻っている。

ロシア地図


文化9年(1812)の夏にリコルドは、他の漂流民を加えて国後島に向かいゴロウニンとの交換を求めたが、松前奉行の役人は漂流民は受け取ったが、ゴロウニンらは処刑されたと偽りを言って拒絶したという。

仲間達が生存していることを信じて疑わないリコルドは、さらなる情報を収集するために、たまたま択捉島から函館に向かう途中で泊に寄港しようとしていた官船・観世丸を拿捕したのだが、この船に乗っていた船主の高田屋嘉兵衛はゴロウニンが生きていることを知っていたのである。

リコルド
リコルド

副艦長のリコルドの手記が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25』に引用されているが、彼は嘉兵衛という人物をこう記している。

「この船長(高田屋嘉兵衛)なる者は、絹布の美服を着し帯剣をなし、一目して凡庸たらざるを知る。予ただちにこの者を艦長室に誘うたれば、彼は泰然として、毫も憂懼の態なく、日本風にて丁寧に敬礼をした。…
 この時から日本人を襲撃し、復讐するの企てを一時停止し、天帝の賜たる高田屋嘉兵衛を率い、カムチャッカに至り、冬籠りをなし、彼よりゴロウニン等の現状を詳に聞質し、なお日本政府の露人に対する政策を聞かんと決定した。そもそもこの嘉兵衛は、これまで捕えたる愚昧卑野の蛮民ではなく、よく事理を弁えたる天晴(あっぱれ)の勇士だ。予嘉兵衛に、露国に汝を伴い往かんと言いたれば、彼は更に憂慮する色なく、勇気凛然として『よろし』予は差支えなし、同伴すべし。ただねがわくは露国に帰りたるのち、貴下予と相別るるなかれと言うた。予は誓いて然せじと答え、かつ明年に至らば、汝を送還せんと慰めた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920574/180

リコルドが高田屋嘉兵衛の乗る船を拿捕した1812年のロシアは、フランスのナポレオンが69万人の兵を率いてロシアを侵攻した戦争の真最中であった。ナポレオンは当時産業革命中のイギリスを封じ込めるために1806年に「大陸封鎖令」を同盟国に発令してイギリスとの通商を禁じ、フランスがヨーロッパの経済の中心となることを狙ったのだが、ロシアがその命令を守らないためにナポレオンのロシア戦役が始まったのである。
この時代に相次いでわが国の近海にロシアやイギリスの船が現われるようになったのは、ナポレオンの「大陸封鎖令」と無関係ではないのだが、その話をするとまた長くなるで、話題を高田屋嘉兵衛に戻そう。

対日折衝記

嘉兵衛にはゴロウニン事件を解決するアイデアがあった。リコルドの『対日折衝記』によると、嘉兵衛は幕府への報告書を書き上げることに没頭していたという。その報告書の内容について、リコルドはこのように記している。
「…報告書で嘉兵衛が意図したのは、ロシア人についてかつて日本の誰からも示されたことのない、全く異なった説明を与えようとするものだった。…彼自身、憂国の情なく考えることのできなかった祖国の前途のために、両政府が関与していない、不測の事態より生じた事件に関する日露両政府の敵意を、平和的に解決することが必要であると明確に認識していた。嘉兵衛はこの敵意が埋められないままでいると、それは日本に致命的な損失を与えるであろうことを確信していた。…日本人は決して隣国の列強達と無益な争いをしようという意図はないこと、幾人かのわが同国人が犯した罪によって、ロシアが自分達に敵意を抱いているという考えを持つように至り、やむなく防衛のため武器を手に取った。他の列強同様、日本が隣国との間で情報をやり取りしていれば、このような誤った考えは簡単に改められたであろう。しかしながら、他国との交流は日本の法律が禁じるところであった。結果的にこれらの極悪な行為が、我が政府の命令であるかどうかを確かめることは不可能であった。日本全土にわたって戦争への準備が進められた。しかし日本人の目的は、単にロシア政府の釈明を得ることだけであったのだ。『私は信じます』嘉兵衛は言った。『もしイルクーツクの長官様から、フヴォストフの蛮行には全く政府が関与してない旨の証言があれば、皆さんのお仲間を解放するのに充分でしょう。』」(リコルド『対日折衝記』p.56)

高田屋嘉兵衛

文化10年(1813)に嘉兵衛の懇請によりディアナ号はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクを出航し国後島に向かった。嘉兵衛は泊に着くとリコルドが記した謝罪文を携えて国後陣屋に赴き、事の経緯を説明したという。
数日後嘉兵衛がロシア語の手紙を持ち帰った。リコルドはこう記している。

「私の喜びはどのようなものであったか。わが友嘉兵衛の手から手紙を引ったくって、ゴロウニンの筆跡を認めた。手紙の大きさから、それには彼の抑留中の出来事が説明されているのだと思ったが、手紙を広げるとただ次のように書かれているだけであった。
士官も水夫も千島人アレクセイも、私たちは皆生きて松前にいる。』…
 この喜ばしい数行によって、同胞の生存へのあらゆる疑いは解け去った。そして甲板で乗組員たちにこの文章を読み上げた。多くの者が敬愛する艦長の筆跡を覚えていたので、手紙に目を凝らし、高田屋嘉兵衛に感謝を捧げた。…」(同上書 p.71)

数日後に松前奉行の高橋重賢を載せた船が国後に到着し、ロシアとの交渉が始まった。奉行所はリコルドとの交渉相手として、双方の意思疎通が可能な高田屋嘉兵衛を指名したという。
また、その船にはゴロウニンと同様に幽囚の身となっていたディアナ号の水夫一人が乗っていた。その仲間が、日本人官吏の目を盗んでゴロウニンが記した仲間宛の手紙を持ち出すことに成功している。

ゴロウニン

少し長い手紙だが、最初の部分だけ引用させていただく。

「敬愛する友よ!
 日本人は、ロシアの平和的意図とフヴォストフの不法行為に関する私達の主張の真実を確信したようだ。しかし彼等は公印のあるわが政府長官からの謝罪状を要求している。ロシアの友好的意図を充分に認識させれば、通商関係に入る望みがある。彼等は、既にオランダ人の狡猾な意図に気付いているようだ。私達は、イギリス人の手に渡った手紙の中で、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させてやったと自慢しているのを彼等に教えてやった。それでも君が彼等となんらかの交渉を持つ時は、とにかく注意をしろよ。…彼等の交渉が遅いと苛立ってはいけない。ヨーロッパでは1日2日で済むことでも、日本人は数ヶ月をかけて議論するのだ。彼等と交渉するにあたって、4つの留意点を薦める。慎重と忍耐と礼節と、そして公明正大に振舞うことだ。私達の解放のみならず国益は、君の思慮分別にかかっている。…」(同上書 p.78~79)

高田屋嘉兵衛は幕府をどう説得すればゴロウニンの解放が可能となるかが良く分かっていた。フヴォストフの乱暴狼藉はわが国の人々にロシアに対する恐怖感を植え付けてしまったが、彼のとった勝手な行動はロシア皇帝の不興を買い処罰されて、今はオホーツクの獄に繋がれている。ならば、フヴォストフの蛮行についてロシア政府は関知していないことを公文書で幕府に提出し、その上でこの男が掠奪した物品をわが国に返すべきである。そうすれば、両国の囚人の交換が可能となる…。

前々回の記事で、文化5年(1808)2月に、後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章が老中の諮問を受けて提出した意見書に、もしロシアが文化3年度、4年度の暴行を謝罪するならば交易を許して良いと主張し、その意見書に基づいて幕府でフヴォストフの再来時に手渡そうと準備した手紙があったことを書いた。その内容を繰り返すと、「狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。戦をする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ」というもので、奇しくも高田屋嘉兵衛の考えに近いものがある。

さらに注目すべきは、ゴロウニンの手紙の中で、彼が文化元年(1804)にレザノフの使節が長崎出島に来航した際の長崎のオランダ人通訳を疑っている点である。わが国の記録では、老中土井利厚から意見を求められた林述斎が、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきだと主張したことになっているが、オランダ側に日露との交易が始まることを阻止したいとする動機は間違いなく存在した。
以前、このブログで記したとおり、日本の良質な銅が西洋では高く取引され、オランダはわが国との貿易を独占して莫大な利益を獲得していたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html

そんなに日本との交易が儲かるのならば、普通に考えれば、ロシアが日本との交易を開始する交渉にオランダがロシアに協力することは考えにくい。ゴロウニンが、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させたと書いていることはおそらく史実なのだと思う。

高田屋嘉兵衛が呈示した解決策は、松前奉行もロシア側も満足のいくものであり、文化10年(1813)9月に松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、2年3か月ぶりにゴロウニンは解放されることとなる。
ロシア側は国境画定と国交樹立も希求していたのだが幕府は国境画定のみ交渉に応ずることとし、1814年春に高橋重賢を択捉島に送り6月8日に到着した時にはロシア船は去った後だったのだそうだ。ゴロウニンもリコルドも長い交渉で疲れて、まずは帰国したかったのであろうが、そのために国境画定は幕末のプチャーチンまで持ち越されることとなってしまった。

日露友好の像

江戸幕府がロシアとの国交樹立を先送りにしたのは松前奉行にそこまでの権限がなかったのだろうが、ロシアがもう少し粘れば、意外と早く決着したのではないだろうか。
というのはゴロウニンもリコルドも、日本との交渉の過程でわが国に対して好意的になっており、この事件の解決に関わった日本人もロシアに対して好意的であったからである。

日本幽囚記

最後にゴロウニンの日本人に関する記述を紹介して、この記事を終えることに致したい。
日本人が聡明で洞察力に富む国民であることは、外国人に対する態度や内政での取り計らいによっても証明される。この国民が自分達の同胞の不幸に接する時となんら変わらない思いやりのある態度を示してくれるのを、私達は幾度となく経験した。」(ゴロウニン『日本幽囚記Ⅲ』p.18)
日本人はあらゆる階層を通して、人への接し方が極めて丁寧である。互いの礼儀正しい態度と洗練された振る舞いは、この国民が真に文明の民であることを証明するものである。幽囚の全期間を通じて、私達と時を過ごした日本人達はさほど高位の階級ではなかったが、彼等が喧嘩したり互いに口汚く悪罵し合ったりするのを聞いたことは一度もなかった。時には彼等の間で、議論が戦わされることもあったが、すべては節度と平静さの中で行われた。わが国の上流階級の集まりの中においてさえ、常にこのようにはいかない。」(同上 p.28)

ゴロウニンは2年3ヵ月もわが国で捕えられながら、最後は日本人に好意を抱くようになったことはこの文章を読めば明らかである。その点についてはリコルドも同様で、後に海軍大将となった彼の墓碑には「日本」という文字が刻まれていたことが『対日折衝記』の解説に書かれている。

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【ご参考】ゴロウニン『日本幽囚記(全三巻)』とリコルド『対日折衝記』は、淡路島の洲本市五色町にある高田屋顕彰館・歴史文化資料館で販売しています。以前淡路島の日帰り旅行でこの資料館に立ち寄りました。

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~淡路島文化探訪の旅3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

そろそろ桜が満開ですね。まだ計画を立てていない方は、こんな場所はいかがですか。

龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-204.html

桜の咲く古民家の風景を求めて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

津山の文化財を訪ねた後、尾道の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-249.html

石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-382.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-336.html









関連記事

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く

毎年4月の上旬に桜を楽しみながら歴史を散策する旅行を計画するのだが、今年は奈良の宇陀市から十津川村を巡ることにした。

最初に訪れたのは宇陀市榛原区赤埴の仏隆寺(0745-82-2714)だが、この寺は室生寺の南門と言われていて室生寺とは本寺と末寺の関係にある。
この寺の歴史は古く、嘉祥3年(850)に空海の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝えられているが、これより先に興福寺別当の修円僧都がこの地に開いた説もあるという。

仏隆寺 石室

建物は近年建てられたものなのだが、境内に堅恵の廟と伝えられる石室があり、これが国の重要文化財に指定されている。

この寺の境内で空海が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したと言われており、境内に『大和茶発祥伝承地』と刻まれた石碑がある。

仏隆寺桜

この寺の参道の横にある千年桜が特に有名なのだが、この桜が見頃を迎えるのは毎年4月の中頃のようである。暖かい日が続いたので3分咲き程度を期待したのだが、さすがに4月2日では早すぎた。上の画像の左下に移っている太い桜の樹が奈良県で最古・最大と言われる『千年桜』で奈良県の天然記念物に指定されている樹なのだが、この桜が満開となるのは今年も4月10日前後なのだろう。但し、駐車場が狭いので早い時間に行かれることをお勧めしたい。

満開の時期の画像は次のURLなどを参考にして頂きたい。
http://www.tree-flower.jp/29/butsuryuji/sennenzakura.htm

次に訪れたのは『又兵衛桜』(宇陀市大宇陀拾生714-1)。仏隆寺からは14km程度走れば到着する。

又兵衛桜1

この桜は、幹回り3m、高さ13mで大きく枝を拡げた美しい桜で、『本郷の瀧桜』とも呼ばれている。樹齢300年とされるこの1本の桜が昨年は8万人もの観光客を集めたという。

後藤又兵衛

『又兵衛桜』という名前は、この場所が、戦国時代から江戸時代にかけて黒田氏、豊臣氏に仕え、数多くの軍功を挙げた武将である後藤又兵衛の屋敷の跡だと言われていることに由来するのだが、通説ではこの武将は大坂夏の陣で討死したことになっている。

ところが、又兵衛は大坂の役を生き延びたという説もいくつかあり、この地に落ち延びたという説が駐車場の脇にあった看板に記されていた。

「当区の宇道辺寺にある薬師寺の境内に、大阪冬の陣、大阪夏の陣で活躍した豪傑、後藤又兵衛の墓がある。
 周囲に玉垣がめぐらされ、石碑には『法泉院量嶽安壽居士』と彫られている。
 1615年(元和元年)5月8日、大坂夏の陣で豊臣方は敗退したが、又兵衛は再挙兵の希望を捨て難く、城中より逃れ落ちた。
 紀州を廻って知人を頼り大和宇陀の当地へ来て、本郷の鉱泉で傷を癒し、豊臣家の再興を待ったが、世は徳川の天下となったので、又兵衛は僧になり『後藤』の姓を一時『水貝』と改めて生活していたと伝えられている。
 当地には、後藤の姓を名乗る家が数軒あり、この又兵衛ゆかりの枝垂れ桜が残っている場所も、後藤家の屋敷跡である
。」

なんとかこの場所を後藤又兵衛と結び付けようとしているような微妙な言い回しだが、「当地には後藤という姓を名乗る家が数軒」あり、この場所が「後藤家」の屋敷跡の一つであるとは書いているものの、この場所にあった「後藤家」が後藤又兵衛が僧になって生活していた場所だとは書かれていないことに違和感がある。

又兵衛桜4

普通に考えれば、このような立派な石垣のある大きな屋敷に、自分の本名を隠して住まねばならない立場の人物が住むことは考えにくいし、大坂から近い宇陀の地が、落ち延びて隠棲する場所として適しているとは思えない。
また、この木の樹齢が300年ということは、又兵衛が生存していた時には存在しなかった桜であることを意味している。この素晴らしい桜を後藤又兵衛ゆかりの桜とする伝説には、かなり無理がありそうである。

Wikipediaで調べると、大分県中津市耶馬渓に、市の史跡として「後藤又兵衛の墓」があるという。この地では大坂夏の陣で戦死した人物は影武者で、本物の又兵衛は大坂城落城の前に豊臣秀頼を護衛し、真田幸村と共に瀬戸内海から豊後国日出に上陸して薩摩国の島津氏を頼りに落ち延びたと伝えられているそうだが、外にも大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市の長泉寺、鳥取市の景福寺など何箇所かで又兵衛の墓があるようだ。
どの墓が本物であるかは今となってはさっぱりわからないが、この桜を眺めているとそんなことはどうでもよいような気になってくる。とにかくこの桜は美しいのだ。

又兵衛桜2

駐車場あたりから眺めるのも良いが、近くから見るのも良い。枝ぶりが特に美しく、何本もの放物線を描く枝垂れは『本郷の瀧桜』と呼ばれるに相応しい。満開を迎えたら、もっと存在感を増すことだと思う。

宇陀松山地図

又兵衛桜を楽しんだ後、道の駅宇陀路大宇陀(宇陀市大宇陀拾生714-1 0745-83-0051)に車をとめて、重要伝統的建造物保存地区に指定されている宇陀松山の街並みを歩く。
地図は次のURLで簡単に手に入る。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/ebooks/udamatsuyama_map/#page=1

大宇陀は飛鳥時代から「阿騎野(あきの)」と呼ばれ宮廷の狩場だったそうだが、この地に秋山氏が城を築き、その麓に栄えた城下町が宇陀松山の始まりとされている。

松山 千軒舎1

詳しい地図やリーフレットは、赤砂交差点のすぐ北にある「千軒舎(秋山地区 まちづくりセンター)」にあると聞いたので、最初に入ることにした。
この建物は明治前期に建てられたもので、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期から歯科医院だったそうだ。

松山 森野旧薬園

ここから200mほど北に行くと国史跡の「森野旧薬園」がある。
パンフレットにはこう解説されている。
森野家の祖先は吉野南朝に仕えたと伝えられ、大和国吉野郡下市に居住していました。初代兵部為定(元禄11年[1568]9月3日没)は農業の傍ら葛(くず)粉の製造を始め『吉野葛』の名称が生まれ、世に知られるようになったのが森野吉野葛本舗の始まりです。およそ450年前のことです。その後、数代を経た元和2年(1616)、葛晒しに欠かすことができないより良質の水、寒冷な気候を求めて現在の地『大宇陀』に移住しました。
 代々葛粉の製造を継承する中で、当主第11代森野通貞(元禄3年[1690]~明和4年[1767])は若い頃より薬草木を愛好し、屋敷内にこれを栽培、また研究をしておりました。これが当時の幕府にも聞こえ、幕府採薬使である植村佐平次とともに、近畿一円、美濃、北陸方の山野からも薬草を採取し、それを幕府に献上しました。
またその褒賞として幕府から貴重な中国産の薬草が下付され、江戸中期の享保14年(1729)、当時では唯一の私園としての森野薬園を開設し、8代将軍徳川吉宗の国内産で漢方薬を普及させるという国策に貢献しました。
 その後吉野葛、薬草に加え、現在も当薬園で自生するカタクリ(3月下旬~4月上旬開花)の根を精製した『かたくり粉』などの製造も手掛け、幕府に献上しております。」

松山 森野旧薬園 カタクリ

この薬園には今も13000株以上のカタクリが自生していて、ちょうど見頃を迎えていた。かたくりの花を見るのは初めてだが、桜の咲く季節にここを訪れたのはラッキーだった。

松山 森野旧薬園 桃岳庵

森野通貞は晩年にこの薬園の桃岳庵で、薬草や動物を写生し彩色した図鑑である『松山本草』10冊を描きあげたという。通貞の死後子孫は家業である葛製造と薬園の経営維持に努め、明治以降わが国に新薬が伝えられて多くの薬園が廃園となるなかで、この薬園は江戸時代の面影をそのまま残した希少なものとして、大正15年に国史跡に指定されている。

松山 黒川本家

すぐ近くにある黒川本家。この家も代々吉野葛の製造販売を行なっている家だという。

松山 山邊家住宅

宇陀松山の街並みを楽しみながらさらに4分ほど歩くと奈良県指定文化財の山邊家住宅がある。この家はかつて宇陀紙の問屋であった邸宅で、宇陀松山地区でもかなり古い家なのだそうだが、残念ながら内部は公開されていない。
宇陀紙というのは吉野の下市と国栖あたりでつくられた手漉き和紙で、楮(こうぞ)を原料にしており非常に丈夫な紙なのだそうだ。

松山 薬の館

山邊家住宅から少し行くと「薬の館(旧細川家住宅)」がある。この建物は宇陀歴史文化館として公開されていて入場料(JAF割引あり)を払って中に入ると、地元の方から詳しい解説を聴くことができる。

この宇陀松山の地には江戸時代の安政期には50軒を超える薬問屋があって、この家はアステラス製薬(旧藤沢薬品)の創始者の母の生家なのだそうだ。

松山 薬の館4

屋根の上に禅宗様唐破風付の薬の看板には「人参五臓圓・天壽丸」と書かれているが、この名前は天保7年(1835)に売り出された腹薬なのだそうだ。よく見ると、だんじりの屋根のような精巧な造りである。看板だけでなく、この家の造りや襖絵や掛軸も立派なものばかりで、細川家はかなりの豪商であったことが窺える。

松山 薬の館5

この建物の展示物には旧藤沢薬品工業のほか、この地で創業したロート製薬、ツムラ(津村順天堂)などの広告看板やパッケージなどが多数あって、レトロな雰囲気が結構楽しめる場所でありお勧めしたい。

松山 慶恩寺

時間があれば、春日神社の境内から松山城址に行きたいところだが時間がないので省略して、まっすぐ進んで慶恩寺(浄土宗)に向かう。
この寺の寺伝によると創建は695年とされ、文治2年(1186)に重源が奈良の大仏再興のために、伽藍指図の5分の1の試みとしてこの寺を造営したという。南北朝時代に宇陀松山に山城を築き天正13年(1585)に豊臣秀長に追われるまでこの地を治めた秋山氏の菩提寺である。

松山 西口関門

慶恩寺の南西方に松山西口関門(国史跡)がある。この門は江戸時代の初期に造られたもので、すべて黒塗りされていることから「黒門」とも呼ばれ、城下町の門であったものが今も創建当初と同じ場所に残されている。

松山 光明寺 山門

黒門から橋を渡って北に進むと光明寺という融通念仏宗の寺がある。本堂は寛政5年(1793)の建立で山門は17世紀中ごろの建築だが、この山門が奈良県の指定文化財となっている。

近くの蕎麦屋で昼食を済ませ、葛の館で葛餅を食べたのだがこれが旨かった。この店で葛湯をいくつか買ったのだが上品な味わいが好評で、もっといろんな種類を買って帰ればよかったと思う。

松山 久保本家酒造

来た道を戻って酒蔵通りに向かう。宇陀松山に2軒の酒造会社が残されている。
上記画像は元禄15年(1702)創業の久保本家酒造(0745-83-0010)だが、敷地内に酒蔵カフェを営んでいて、土日限定で予約すればランチもできる。

松山 久保酒造

店の入口に杉玉がいくつかぶら下がっていたのでカメラに収めた。杉玉は酒林(さかばやし)とも呼ばれ、造り酒屋のシンボルのようなものだ。

店の人に聞くと、桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)に新酒を奉納して、神社から杉玉を戴くのだという。
調べると、大神神社の主祭神は大物主神(おおものぬしのおおかみ)で、稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神様である。この神社で毎年11月14日に全国から蔵元・杜氏が集まって醸造安全祈願祭が行われ、拝殿に吊るされた新しい杉玉が配られるのだそうだ。
作られたばかりの杉玉は青々としているが、やがて茶色になっていく。この杉玉の色合いで人々に新酒の熟成具合を知らせるのだという。

またこの会社は大正6年(1917)に自動車を購入して、大宇陀から桜井駅を結ぶ約12kmの乗合自動車の運行を始めたという。それが今の奈良交通のルーツになるのだそうだ。
Wikipediaで調べると、奈良市内で最初にバスの運行が開始されたのは昭和3年(1928)のことで、路線も奈良駅と春日大社とを結ぶ2km程度の短いものであった。当時の宇陀松山がいかに豊かな町であったかを物語るエピソードでもある。

古代から交通の要衝の地として栄えて豊かな文化を育んできた宇陀松山も、過疎化の進行が止まらないという。近鉄がこの地に線路を敷かなかったことで経済発展から取り残されてしまったようなのだが、逆にそのことがこの地域の歴史的文化的観光価値を高めているような気がする。
今のところ訪れる人は決して多くはないが、美しい街並みのなかで内部を見学できたり、食事をしたりして寛げる場所がもう少しあれば、もっとこの街が魅力を増すことだと思う。
室生寺や吉野や又兵衛桜の観光のあとに宇陀松山を訪れる人が増えて、この美しい街並みと地域文化が末永く維持されていくことを祈りたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠・馬籠へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-104.html

信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-39.html

御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目
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天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ

宇陀松山を楽しんだのち、十津川村に向かう。

十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。
ちなみに、日本一大きい村である留別村は択捉島にあり、面積は1442.82 km²で、十津川村の倍以上の広さである。

十津川村は、奈良県の南西部を流れる熊野川の上流である十津川とその支流の流域をかつて十津川郷と呼び、峻険な山々に囲まれた山岳地帯にある。農耕に適さない場所であり、地域の人々は権力者に協力することで租税減免を勝ち取ってきた歴史がある。

Wikipediaにはこう解説されている。
「古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている
南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。
以上のような経緯があり、十津川郷士は純粋な勤皇であり、討幕の意識は薄かったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB

3年前に天誅組の足跡を追って奈良県の五條市から東吉野を旅行したことを書いた際に、天誅組が五條で挙兵してから東吉野で討ち取られるまでの経緯を記したのが、今回は天誅組が天辻峠に本陣を移したのち、多数の十津川郷士を集めたことを中心書くことにする。

天誅組

文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられて大和御幸が決定し、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の中山忠光を主将に迎えて天誅組を組織し京都を出発した。出発時の同志の人数は38人で、18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であったという。

天誅組行路

天誅組は8月17日に大和の五條代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨を宣言したが、その翌日の8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となってしまった
19日には五條にその知らせが伝わり、わずか1日で天誅組は挙兵の大義名分を失い、「暴徒」とされて追討を受ける立場となってしまう

天誅組は追討の兵を警戒して、要害堅固の天辻峠に本陣を移しそこで十津川郷士を募ることに決したのである。

十津川郷は、神武天皇東征軍の先鋒を勤め、皇軍を案内した八咫烏が十津川の祖先とされているほか、壬申の乱の時には大海人皇子(天武天皇)を助け、南北朝時代には、大塔宮護良親王の十津川御潜居をお守りしたという勤王の歴史を持つ土地柄である。
吉村寅太郎が22日に十津川郷川津村の野崎主計と対面し十津川郷士の協力を要請して了解を得、23日に十津川郷で檄文を発すると、25日朝までに天辻峠の本陣に1100人が集結したという。

天誅組の変

舟久保藍氏の『実録 天誅組の変』に吉村寅太郎の檄文が引用されているが、檄文というよりは脅迫に近いものがある。
「昨廿二日申渡し候上は、早刻出張有るべく候得共、火急の御用に付十五歳より五十歳迄残らず明廿四日御本陣へ出張これ有るべく、若し故なく遅滞に及び候者は、御由緒召放され、品(法の意。ここでは軍令をさす)により厳科に処されるべく候條、其心得を以て早々出張これ有るべく候、以上」(『実録 天誅組の変』p.106)

天誅組本陣遺址

道の駅『吉野路大塔』の手前を急な角度で左折する道があり、その急坂を1kmほど登って行くと『天誅組本陣跡』の碑がある。
この場所はこの地方きっての富豪であり有力者であった鶴谷治兵衛の屋敷があった場所で、治兵衛をはじめ村人たちは天誅組に協力を惜しまなかったというのだが、この時点では十津川郷士たちは、8月18日に宮中でクーデターがあって、孝明天皇の大和行幸が中止となったことを知らなかったことは重要なポイントである。

本陣に集まった郷士たちは、天誅組は勅命により組織された御親兵でありこれから幕府を迎え撃つことの説明を受けたのだが、その時に玉堀為之進と上田主殿の二人が勅命の真偽を問い質し、京都に使いを出して事実確認をしたうえで十津川郷士の行動を決めるべきだと主張したのだそうだ。
もともと「勅命」というのは徴兵のための方便であったため、吉村寅太郎は他への影響を恐れてこの二人を斬首したという。

天誅組は高取城の攻撃に向かうが、高取藩兵の銃砲撃を受けて敗走。その後も討伐軍との戦いで敗北を繰り返し、また朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が天誅組の十津川郷士たちに届き、天誅組の主戦力であった十津川郷士が9月15日に天誅組から離反してしまう。主将の中山忠光は9月19日に天誅組の解散を命じて残党は伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅するという流れである。

大塔郷土館

『天誅組本陣跡』から道の駅『吉野路大塔』(0747-35-0311)の駐車場に車をとめて、国道の東側にある『大塔郷土館』に入る。上の画像の茅葺の建物が16品の郷土料理を食することのできる施設で、白壁の建物が旧大塔村の歴史・文化・伝統技術の展示館になっている。
次のURLに郷土料理のメニューが出ているが、タイミングが合えばここで食事するのも良さそうだ。
http://www.pref.nara.jp/norinbu/umaimono/kt-omise/ootou-kyodokan.html

展示館には南北朝時代の護良親王や幕末の天誅組に関する展示と、「木地師(きじし)」と呼ばれ、トチやブナやクリの木を加工して椀や盆をつって生業とした技術者集団の展示物があった。大塔村では壺杓子が特産品になっているそうだが、残念ながらこの伝統技術を受け継ぐ人は少なくなってきているという。また1階で大塔町と天誅組と護良親王との歴史についてわかりやすい映像を観ることが出来る。

大塔宮護良親王

この『大塔郷土館』の近くに大塔宮と呼ばれた護良親王の銅像がある。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと戦いに加わり、令旨を発して反幕勢力を募り十津川・吉野・熊野等を転々として2年間にわたり幕府勢力と戦った。「大塔」という地名は、護良親王がこの地の豪族である戸野兵衛・竹原八郎らに匿われたことに由来するという。

護良親王

鎌倉幕府討幕後、建武の新政で征夷大将軍に任ぜられたが足利尊氏と対立し、尊氏の弟・直義が差し向けた刺客に襲われ最期を遂げたのだが、南朝のことはいずれ調べて書くことになるだろう。

大塔町はまだ五條市で、十津川町との境界線のある城門トンネルまではあと12km以上あり、目的地の温泉地(とうせんじ)温泉に行くにはさらに30km程度走る必要がある。カーブが多くまた道幅が細いところもあって、山道のドライブは思った以上に時間がかかった。

十津川温泉マップ

温泉地温泉は十津川村のほぼ中央に位置し、十津川の温泉の中でも最も古い歴史がある。
「温泉地(とうせんじ) 」温泉という名に違和感を覚えて調べてみると、昔は薬師如来を本尊とする「東泉寺(とうせんじ)」という寺がこの近くにあったという。

Wikipediaによると『東泉寺縁起』という書物が現存し、それによると、役行者(えんのぎょうじゃ)が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね薬師如来を造顕したと伝えられているのだそうだが、この話は嘘っぽくてそのまま鵜呑みにはできないものの古くからこの地に湯が沸き出ていたことは想像できる。その後宝徳2年(1450)の地震で湯脈が変わって武蔵の里に湧出するようになり、いつしか十津川沿いの現地に移ったと記されている。

『東泉寺縁起』以外の文献にこの温泉が記されているのは、天文22年(1552)に本願寺寺僧の湯治(『私心記』)という記録があり、その後も天正9年(1581年)に佐久間信盛(『多聞院日記』)、天正14年(1586)に顕如上人(『宇野主水記』)に、訪れた記録が残されているようだ。

大和名所図会

寛政3年(1791)刊の『大和名所図会』にこの温泉のことが書かれているが、この当時は湯原(ゆはらの)温泉と呼ばれていたようだ。
湯原温泉 二所あり。一所は十津川荘湯原村にあり。一所は同荘武蔵村の東泉寺にあり。浴(ゆあみ)する時は則(すなわ)ち痼疾は治す。湯原は[類字名所]に大和国にあり。十津川の温泉(いでゆ)にこそ侍(はべ)らめ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/364

地図で確認すると、「湯原」という地名は今はなく「湯之原」という地名が今の温泉地温泉のある武蔵、小原地区の少し北にある。

温泉地温泉には十津川村役場の周辺に、3軒の旅館と1軒のホテルと2軒の民宿があり、さらに10km以上南にある十津川温泉・上湯温泉とともに「十津川温泉郷」として、国民保養温泉地、日本名湯100選に指定されているのだが、「十津川温泉郷」というと「十津川温泉」をまず連想してしまって、そちらに予約する観光客が多いことと思われる。しかしながら江戸時代から続く名泉は十津川温泉ではなく温泉地温泉なのであり、湯質もそれぞれ異なり十津川温泉・上湯温泉がナトリウム炭酸水素塩泉であるのに対し温泉地温泉は単純硫黄泉だ。
http://www.gensen-kakenagashi.jp/cgi/spa.cgi?totsukawa

かたやま夕食

交通不便な場所にあるために宿探しに迷った末、私は「かたやま」という民宿を選んだが、食事は地元のものを自然に料理してあり美味しくて、風呂は源泉かけ流しの硫黄泉で体の芯から温まった。これで1泊2食付7千円台の価格は随分リーゾナブルだった。

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【ご参考】天誅組と南朝の歴史を辿って、3年前にこんな旅行をしてみました。良かったら覗いてみてください。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html



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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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