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わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。

大東亜戦争とスターリンの謀略

三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。しばらく引用させていただく。

柴田秀利

「三田村代議士と松前氏の持ち込んだテーマは、実に驚嘆に値するものだった。
『馬場さん、ソ連のスパイであった尾崎・ゾルゲ事件を御記憶でしょう。私どもは警保局でこの事件を担当して以来、一貫してその内容の分析、調査をしてききましたが、ようやくことの真相を突き止めることができました。実をいうと、彼らは単なるスパイではなかったんです。コミンテルンの世界革命計画に従って、敗けると決まっている戦争に日本を駆り立て、敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという、大変な戦略、つまりこれを名付けて『敗戦戦略』といいますが、この大ワナに日本をはめ込んだ、とんでもない、壮大な政治謀略家だったんです。愚かにも日本は、ウマウマとその手に乗っかかって、今日の惨状を招くに至ったということに、目を開かせなきゃいかんと思ってお伺いしたわけです。』」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.35)

ゾルゲ

少し補足しておこう。
「尾崎・ゾルゲ事件」というのはこのブログでも何度か触れたが、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報・謀略活動を行なっていたとして、昭和16年(1941)9月から翌年4月にかけてその構成員が逮捕された事件をさしている。
その中に近衛内閣のブレーンであった元朝日新聞記者の尾崎秀実がいて、ゾルゲと尾崎が死刑に処せられた。尾崎は近衛内閣嘱託の立場を利用してわが国の国家機密や会議の内容などをゾルゲに提供していたのである。
コミンテルン」というのは、1919年にモスクワで結成された共産主義政党による国際組織で、モスクワからの指令により世界各国で共産革命を起こそうとしていた。
わが国でも大正11年(1922)7月に日本共産党が設立され、その年の11月に日本共産党がコミンテルン日本支部となり、昭和2年(1927)にモスクワから次のような「日本に関する決議(27年テーゼ)」を受けている。
「日本の資本主義は既に末期的段階に達し、崩壊の前夜にある。日本共産党はその革命的指導力を急速に強化し、プロレタリア暴力革命に突入して君主制を廃止し、共産党独裁政権を樹立せよ。」

日本共産党は非合法の地下活動やテロ活動を行なうも、相次ぐ弾圧で主要な多くのメンバーを失い、5年後の昭和7年(1932)に方針が変更されるに至る(32年テーゼ)。

「日本にはプロレタリア革命に突入する客観的条件がまだ整っていない。当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階である。(二段階革命論)

戦後マスコミ回遊記

ふたたび柴田氏の著書を引用する。
「この急がばまわれの二段革命論に活用されたのが、レーニンの世界革命戦略の基本綱領だった。つまり、究極の世界革命達成のためには、まず、資本主義国同士を戦わせ、その負けた国から一つずつ革命していき、大勢のきまったところで一挙に世界暴力革命に突入する――という筋書きだという。それを彼らは敗戦謀略と名付け、日本をその絶好の生贄と見てとったのだった。
 幸か不幸か、時の宰相近衛文麿公爵は、学生時代から公卿には珍しい進歩主義者で、…彼の側近には、…そのほとんどがいうところの進歩主義者で埋め尽くされ、モスクワの使者尾崎が潜入するには、何の障壁もなかった
 ゾルゲの指示に従って近衛内閣の嘱託となり、近衛を取り巻くブレーン・グループが構成していた、いわゆる『朝飯会』の有力メンバーとなった。その主な顔ぶれを見ただけでもゾッとする。
 風見章、富田健治、西園寺公一、笠信太郎、原貞蔵、松本重治、田中慎太郎、犬養健、牛場友彦
 身近な秘書官から大臣、書記官長(今の官房長官)に加うるに、親戚、縁者、ジャーナリストから学者を加え、揃いも揃ったり、といいたいところだが、これだけ集まれば、国の最高機密だって、何でも取れる。また国政を左右しようとすれば、何でもできる。スパイにとって、これ以上の宝庫はなかった。…」(同上書 p.36-37)

第一次近衛内閣

柴田氏の著書には詳しくは記されていないが、第一次近衛内閣の時にわが国は中国との戦争に巻き込まれている。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(昭和12年[1937]7月7日)は、近衛内閣が成立してわずか33日目に起きたのだが、その事件を仕掛けたのは中国共産党であったことが今では明らかになっている。
わが国の陸軍中央と外務省は事件の翌日に不拡大方針を決め、2日後に現地停戦協議成立の報告が入って派兵提案を見送ったのだが、中国側は停戦協議で約束した撤退を実行せず、3週間にわたりわが国に挑発を続け、7月13日には「大紅門事件」で4名の日本兵士が爆殺され、ほかにも日本人が支那軍から包囲され、銃撃される事件が相次いだ。(「廊坊事件」「広安門事件」など)

通州事件

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、7月28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始し中国兵を敗走させている。しかしながら翌7月29日に、通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が起こり、260名の日本人居留民が極めて残酷な方法で虐殺されるに至る。

第一次近衛声明

このような卑劣なやり方でわが国は日中戦争に引きずり込まれていき、日本軍はその年の12月に南京を攻略して講和に持ち込もうとしたのだが、アメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石はあくまで徹底抗戦する姿勢であった。
翌年1月16日に近衛は「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の声明を発表し、蒋介石政府との講和の芽を自ら摘んでしまって、汪兆銘を担いで南京政府を樹立させて支援しようとしたのだが、中国で汪に呼応する有力政治家は現れず、早期停戦はますます遠のいてしまうことになる。その一方で、近衛の足下では彼のブレーンたちによって本館的な臨戦態勢が打ち出されていくことになる。

大政翼賛会

再び柴田氏の著書に戻ろう。
まず『近衛新体制』と称して『翼賛政治会』の名のもとに、政党は解体統一された。相前後して『大政翼賛会』の名のもとに、下は下町の片隅にまで隣組組織がくまなく網をはりめぐらされ、またたく間に日本は全体主義的統一国家へと変貌していった。近衛自らの達筆になる『上意下達、下意上達』の迷文句が、氏神様のお札のように、全国至るところにベタベタと張られ出したのもこのころだった。それにもかかわらず、議政壇上で『なぜにかかる全体主義的な非民主的国家統一、独裁体制を作るのか』と政党代表に詰問され、追いつめられたとき、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、『実は私にも、どうしてこうなったか、全く何もわからぬままに来てしまったのです…』といって絶句し、白いハンカチで眼を拭って、泣き出してしまったのを、駆け出しの記者の私も目撃している。世の中にこんな不思議なことがあってたまるものかと、憤激を覚えたことが、昨日のことのように想い出される。彼がいかに目隠しされた操り人形であったかを如何に物語るシーンだった。」(同上書 p.39)

昭和13年(1938)に労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」が成立したのだが、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視するような法律がなぜ成立したのか。
この法律は衆議院の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれたのだが、そのような法律を通すためには、日中戦争が長期化する情勢が必要だったことは誰でもわかる。近衛は蒋介石政府と断交したのはそのためであったと考えるのだが、おそらく近衛の周囲に集まった左翼のブレーンたちが近衛にそう言わせたのである。その後「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」などという勇ましい言葉が新聞の見出しに躍るようになるだが、このような言葉は尾崎に近いグループが考案したものと考えて良い。

柴田氏の著書にこう記されている。

「三田村・松前両氏の説明によると、尾崎の筋書に近衛の親友、後藤隆之助たちが乗って『昭和研究会』とか『国策研究会』をつくり、そこでこれら新体制なるものの綿密な全体計画が練り上げられていったという。しかも表面上は、日増しに強くなってきた軍閥の力を抑制するには、これ以外にないというのが、ここに集まった進歩主義者たちの言い分だった。しかしそれらすべてが裏を返せば、近衛なきあと、軍閥が政権をとれば、そのままヒットラーやスターリンと全く同じ、軍事独裁政権確立のための巧みなお膳立てとして着々と進んでいたことになる。」(同上書 p.39)

そして1941年6月に、ドイツのヒットラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始する。ヒットラーは同盟国のわが国に対して日本軍のシベリア出兵を何度も催促し、軍はそれにこたえて7月に関東軍を満州と朝鮮半島に集結させたという。そのまま関東軍が北に進めばソ連は潰滅していた可能性が高かったのだが、この時にソ連を危機から脱出させたのがゾルゲグループによる情報収集と工作活動なのである。

尾崎秀実

先ずアメリカが対日全面禁輸に踏み切ったのだが、当時のわが国の石油備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかったという。そこで、尾崎秀実が『北方傾斜論』を書き、次のように主張したことが柴田氏の著書に引用されている。

今北進すれば、シベリアは苦もなく手中のものとなろう。だがツンドラのシベリアを手に入れて何になるか。そこからは日本が必要とする石油の一滴すら取れないではないか。それよりも、北方にいささかの懸念もなくなった今こそ、進んで軍を南に向け、豊かな石油資源を手に入れる絶好のチャンスであり、その方がとどれほど賢明か。…今日本を真に敵視しているのはソ連ではない。米英である。米英は、日本が北進作戦で、なけなしの石油と鉄を使い果たすのを見届けた上で、必ず日本を討って出るに違いない」(同上書 p.40)

この尾崎の主張が採用されてわが国は「南進論」に舵をきることになるのだが、そのことによってわが国は米国と戦うことを余儀なくされることになる。驚くべきことに、そのことはスターリンがその6年前に描いた『砕氷船のテーゼ』の筋書きの通りなのである。

スターリン

昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこのような演説をしたという。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

コミンテルンはこの大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
その上で、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立てて、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告している。
そうすることによってソ連は「ドイツと日本が荒らし回った」多くの地域を共産化することに成功し、ドイツについては東ドイツを共産国化し、日本については千島列島をソ連領とし、北方4島と南樺太の占拠が今も続いているのだが、第二次世界大戦後にスターリンの計画に近い状態が現実のものとなったことが、ソ連による工作活動と無関係であったとは到底思えない。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html


関連記事

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか

前回の記事で柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』という本を紹介した。
この本には、第一次近衛内閣の時にわが国が日中戦争に巻き込まれ、さらに本格的な臨戦態勢が打ち出されて全体主義的統一国家へと変貌していったのだが、それを推進したのは近衛が集めたブレーン・グループで、その一部は尾崎秀実のようにソ連・コミンテルンに繋がっていて、彼らはわが国を敗戦に導くことによって一挙に共産主義革命を実現する考えであったという三田村武夫氏の分析が紹介されている。

昭和20年(1945)に2発の原子爆弾が落されて、わが国はポツダム宣言を受諾することとなり、8月15日に終戦詔勅が出されたのだが、8月9日から対日参戦していたソ連は終戦後もわが国への侵攻を続け、千島列島や南樺太を占領した。
しかし、ソ連はわが国の領土の一部を占領しただけで満足したわけではなく、それから後も国内の協力分子を動かして、わが国を共産陣営に取り込むための工作活動を継続したのである。

柴田氏の著書にはこう書かれている。
「…三田村論文によると、この敗戦によって32年テーゼにあった、いわゆる二段革命論の第一段階であるブルジョア民主革命は完全に完遂されたことになった。すなわち天皇、軍、官僚、財閥の力が崩れ去った。そしてすでに第二段階の直接革命に突入する段階に来たという。その第一目標が三大新聞の一つを手に入れて、それを公的な党の宣伝機関として活用すること。それと併行して交通、通信、エネルギーの三大機関を止めれば、国家は一瞬にして真っ暗闇の麻痺状態となる。そこで一挙に暴力革命に突入する準備は万端整っていたというのである。」(『戦後マスコミ回遊記』 p.41)

Wikipediaによると、敗戦直後のわが国には勤労者はいても労働者は一人も存在しなかった。法律も存在しなかったにもかかわらず、昭和20年12月の時点で509組合38万人が組織され翌年に12,000組合368万人、組織率は41.5%へ膨張していたという。
終戦後からわずか数ヶ月で、わが国に共産主義思想がこれほど急速に国民の間で拡がっていたことは驚くべきことなのだが、「敗戦革命」を夢見た連中は、戦時中は戦争の長期化をはかってわが国を疲弊させ、戦後は労使の対立を煽って一気に共産主義革命に持ち込もうと考えていたと考える方が自然なのである。

三大新聞社のうち、第一に連中から狙われたのは柴田秀利氏が在籍していた読売新聞社だ。

第1次読売争議

終戦の日から1ヶ月も経過していない昭和20年9月13日に、読売新聞社中堅幹部45名が正力松太郎社長へ社内民主化に関する意見書を提出し、翌月には全従業員大会を開催し、「社内機構の民主化」「従業員の人格尊重と待遇改善」などを求めた要求事項を書面で提出したが、正力松太郎社長は要求を拒否し5名を解雇している。
この結果を受けて従業員側は闘争宣言を発し、闘争委員会を結成。紙面の編集と印刷部門は闘争委員会の管理下となり、また正力松太郎社長がA級戦犯となって退社を余儀なくされ、労使のとの間で経営協議会を設置することで妥結した

しかし、昭和21年(1946)になって東西の冷戦がはじまり、GHQの方針に変化が起こる。
6月4日の新聞記事にGHQがプレスコード違反と警告したことが発端となり、GHQの支援を取り付けた馬場社長は6月に共産党員6名に退社命令を出し、労組は抗議ストに突入して新聞発行はストップされ争議が長期化したのだが、10月には労組の幹部37名が自主退社してようやく争議が終結している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%96%B0%E8%81%9E

昭和21年食糧デモ
【昭和21年5月 食糧デモ】

かくして読売新聞社は経営側の勝利となったが、この時期は全国各地で労働運動が高揚し、昭和21年(1946)には国鉄労働組合が50万名、全逓信従業員組合が40万名、その他民間の組合は70万名に達して賃上げを要求し、新聞、放送、国鉄、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生した。

2・1ゼネスト

そして昭和22年(1947)の2月1日には大幅な賃上げを要求する大規模なストライキが計画されたのだがGHQの介入があって中止され、以降日本共産党は再び暴力革命路線に転換することとなるのである。

話を『戦後マスコミ回遊記』に戻そう。

前回の記事で、著者の柴田氏が駆け出し記者の頃(昭和16年頃か)に、近衛首相が「議政壇上で『なぜにかかる全体主義的な非民主的国家統一、独裁体制を作るのか』と政党代表に詰問され、追いつめられたとき、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、『実は私にも、どうしてこうなったか、全く何もわからぬままに来てしまったのです…』といって絶句し、白いハンカチで眼を拭って、泣き出してしまった」(『戦後マスコミ回遊記 p.39)ところを見たと記されていることを紹介した。
公衆の面前で泣くような人物が非常時におけるリーダーであったことはわが国にとっては悲劇であったが、近衛という人物は左翼思想に共感を持っていたものの、共産主義革命の為にわが国を戦争に巻き込もうとする意志までは持ち合わせていなかったと私は考えている。

近衛文麿

そして終戦の6ヶ月前の昭和20年(1945)2月14日に、近衛は自らの責任を痛感してか、次のような上奏文を昭和天皇に捧呈している。この上奏文が戦後の歴史書やマスコミなどで紹介されることは皆無に近いのだが、このような第一級史料を隠そうとするのは何故なのであろうか。
今回はポイントとなる部分だけの紹介となるが、全文はWikipediaにあるので、是非一度は先入観なしに読んで頂きたいと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

まず、近衛は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と述べ、これからもっとも憂うべきことは「敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座候」と書き、世界の情勢についてこう記している。

「つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。」

少し補足すると、スターリンは1943年の6月にコミンテルンの解散を決定しているのだが、その理由は、従来の資本主義諸国の中にソ連共産党がコミンテルンを通じて共産主義革命を起こすように仕組んでいると警戒していた原因を除去する必要があると判断したものと考えられる。しかしながらソ連は世界共産化の政策を放棄したわけではなく、近衛はユーゴやポーランド、ルーマニアなどの欧州の事例を挙げて、その事はわが国においても同様だと説いている。

野坂参三

「現に延安にはモスコーより来れる岡野*を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。
*岡野: 当時中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)。後に日本共産党議長。(上画像)

このように近衛はわが国で共産革命が達成する条件が日々整いつつあると指摘し、特に憂慮すべきは「軍部内の一味の革新運動」だと述べている。

「少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候

抑々(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。…

是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候

不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。」

226事件2

このように近衛は日中戦争を拡大させてわが国を第二次世界大戦に導いたのは軍部内の革新勢力であり、彼等が意識的に共産革命まで引き摺り込もうとしたと述べ、二度にわたる組閣の大命を拝しながら、彼等の意図を見破れなかった自分が迂闊であったことを昭和天皇に詫びているのである。

「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。」

戦後のわが国の歴史叙述では軍国主義者が暴走して戦争に突き進んでいったと記されるところだが、近衛は共産分子が革命を成就するために国民を煽動していると書き、軍部に於いてはソ連や中国共産党と提携すべきである論じる者がいると述べている。戦後のわが国で拡げられた歴史叙述はとはほとんど真逆のことを記しているのだ。
この点については、これまでこのブログで終戦工作や対ソ交渉を立案した大本営参謀が共産主義者であったことや内閣の中心メンバーにもソ連に繋がる者がいたことなどを書いてきたとおりで、近衛の記述を裏付ける史料が多数存在していることを知るべきである。

近衛はさらに、敗戦必至の戦争をこれ以上継続することは共産党を利することになるだけであり、一日も早く終戦の方途を講ずべきであるのだが、最大の障碍は軍部内の革新勢力であり、彼等を一掃しなければならないと説いている。

そして最後に、「此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。」と結んでいるのだ。

柴田氏の『戦後マスコミ回遊記』では近衛上奏文についてこう評している。

それは余りにも遅すぎた。指摘通り、投げられたサイの目は、誰の目にもすでに敗戦、破局をハッキリと明示していた。泣いても、訴えても、今さらどうしようもない時点だった。それにしても、コミンテルンの二段革命論にはまり込み、この国がまさに革命の巌頭に立たされていることに気づいただけでも、この告白的上奏文の持つ史的意義は大きかった。だまされ、利用され続けてきた、かつての青年マルキストなればこその覚醒だったと言える。遺憾ながら、このような元総理の上奏文が出たなどということは、当時ではだれ一人知る者とてなかった。(ただ軍部だけはこれを察知し、この上奏文に関係した者として、後の首相吉田茂氏を憲兵隊に留置し、告白させようとしたが、吉田氏は頑として口を開かなかった。筆者は岩淵辰雄さんだった。)
 それは戦後、近衛が巣鴨入りをいさぎよしとせず、服毒自殺したあと、ちょうど三田村論文*を知ったあとだったと思うが、初めて公表され、識者に衝撃を与えた。」(『戦後マスコミ回遊記』p.44-45)
*三田村論文:三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略~戦争と共産主義』

近衛は、終戦直前になってようやく、日中戦争も太平洋戦争もソ連の利益のために仕掛けられたことに気が付いたのだが、戦後のわが国ではこの文書を闇に葬ろうとする勢力がわが国の中枢に存在し、軍国主義・ファシズムこそが第二次世界大戦の原因だとする歴史観が広められたのである。

この『近衛上奏文』が戦後のわが国で広く知られていたならば、わが国を敗戦に導いて共産主義革命を起こそうとした内外の勢力の存在が明らかとなり、戦後のわが国で常識となった「自虐史観」は通用しなかったに違いない。
そうなっては困る勢力が、戦後の長きにわたり『近衛上奏文』の存在を隠蔽し、マスコミや教育機関だけでなく外圧まで利用して「ソ連や中国など共産勢力にとって都合の良い歴史観」をわが国民に定着させてきたのだが、嘘で固められた歴史観は、いずれ真実を知った国民によって葬り去られる日が来るであろう。
戦争の原因が一方的にわが国にあるとする偏頗な歴史叙述が、全面的に書きかえられるのはいつのことなのか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-281.html

尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-282.html

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-412.html


関連記事

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応

柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』の話題を続けよう。

柴田氏によると、終戦直後から日本共産党は「戦争反対を終始一貫主張し続けてきたのは我が党だけである」と宣伝していたのだそうだが、その主張が嘘であり、むしろ共産主義者たちがわが国を戦争に巻き込んだことを裏付ける論文などが当時は存在していて、三田村武夫氏が主張する「コミンテルンの世界革命計画に従って、わが国を戦争に巻き込み敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという『敗戦戦略』の大ワナにわが国が嵌められた」という説は充分な説得力があったようだ。

柴田氏は同上書の中でこう述べている。
もしこの戦争が三田村論文通り、スターリンのタクトに振られて、踊らされていたものだとすれば、必ずやスターリンは、同じような罠を、敵国のアメリカ側にも張りめぐらしていたに違いない。今までに日本に指令されてきた占領政策の数々も、裏を返せばことごとく日本を弱体化させ、必然的に社会主義化させようとするものばかりだったと言っても過言ではない。受ける側の日本からすると一層それがハッキリ見えていた。日米ともに莫大な血の犠牲を払わされ、戦い終わってフタを開けてみたら、何のことはない、双方ともどもスターリンの手のひらに乗って、踊らされた阿呆同士だったじゃないか、ということになりかねない。」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.39-40)

当時柴田氏は、読売新聞記者としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を担当していたのだが、三田村武夫氏の論文をGHQ情報部長のウィロビー少将に見せることを馬場社長に進言して社長と二人で論文を届けたところ、半月ほどして少将から連絡があって、再び社長とGHQ情報部を訪ねた場面を引用する。

ウィロビー参謀二部長

「(ウィロビー少将は)『先日いただいた『敗戦謀略』の論文、つぶさに検討しました。全く驚き入った事実を教えられて、目の皮がはがれた思いがしました。そこで最高司令官以下、全員の意思で、本件の本格的調査、研究をする特別委員会を郵船ビルに設置することを決めました。ワシントンとも連絡し、委員長に専門家の将官が着任することまで決定したことをお知らせします。われわれにとって、実に得がたい課題を提供していただいたことを心から感謝します。』
 まことに決意にあふれた、丁重な挨拶であり、回答であった。…
 ウィロビーのやることは全く素早かった。昔の担当検事、特高、それに旧軍の情報担当幹部が続々と呼び出され、委員会はたちまち膨大な組織にふくれ上がっていった。しばらくして、ワシントンから着任したという専門家の少将に帝国ホテルで御馳走になり、これは必ずワシントンばかりか、世界中を驚かす調査になりますよ、といった。張り切った意気込みを聞かされ、私は非常な満足を覚えた。」(同上書 p.47-48)

以前このブログで、GHQの中にもソ連の工作があったことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-246.html

公職追放

終戦直後にGHQの民生局(GS)は、わが国の政治家、官吏、教員、財界、教員などの主要人物を中心に20万人以上の人々を強制的に辞めさせて公職に就けないようにさせている。
公職追放令』は占領軍民生局のホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられたのだが、ホイットニーもケーディスも社会主義者であり、またハーバート・ノーマンはソ連の工作員であったことが今では明らかになっている
この時に公職を追放されたメンバーには松下幸之助や石田礼助、小林一三ら財界人から鳩山一郎、石橋湛山ら政治家、正力松太郎、菊池寛などがいて、決して「極端な国粋主義者」だけが追放されたわけではないのだが、そのあとで重要なポストに就いたのはいわゆる「左派」勢力がかなり多かった。
また労働組合が解禁され、治安維持法と特別高等警察は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放し、さらに農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配し、財閥解体などが行われた。

赤旗 再刊第一号

これらのGHQの施策をわが国の共産主義者たちが大歓迎した記録が残されている。
昭和20年10月20日に発刊された日本共産党の機関紙『赤旗』の記念すべき再刊第一号の『人民に訴う』という論文の冒頭には、こう記してGHQに感謝しているのである。

ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する
http://www.mcg-j.org/mcgtext/undousi/undousi.htm

この論文に書かれていることは、米占領軍を「解放軍」と賛美し、占領軍の支持と協力の下に「天皇制の打倒と人民共和政府の樹立」をめざしてブルジョア民主主義革命を遂行するというもので、翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の綱領的方針として採択されていることを知るべきである。

1946年メーデー
【昭和21年復活メーデーで演説する徳田球一日本共産党書記長】

このように左傾化していたGHQの施策でわが国の経済は急激に落ち込んでしまい、アメリカがわが国に調査団を派遣し作成させたジョンストン報告によると、
このままいったら日本人を生き延びさせるためだけにも、毎年最低1億ドル以上の援助を続けなければならない。…占領2年間で見極めた当時の日本の工業生産指数は、昭和の初期、つまり1930年から34年の平均の45%、輸出に至ってはタッタの10%、輸入が30%という惨めさだった。その上にインフレである。物価はすでに終戦時の90倍という恐るべき猛威を振るっていた。そのため日本人全体の『疾病と不安の防止』のためという名目のガリオア援助資金だけでも、年間3億5000万ドルもの巨額を支出していた。日本がいかに崩壊に瀕していたか分かろうというもの…」(同上書 p.55-56)
と、わが国の経済は悪化の一途をたどっていたようだ。
にもかかわらずGHQの民生局は、さらに経済力集中排除法案を通して、大企業をいくつかの子会社に分割してバラバラにしようとしていたのである。

このような左傾化したGHQの施策を修正させるきっかけになったのが、柴田秀利氏がGHQ情報部長のウィロビー少将に持ち込んだ三田村武夫氏の論文だったのである。

前述のジョンストン報告では、「生産を阻害しないよう配慮し、企業の分割を全面的な競争を保証するために必要最小限にすることによって、解体化政策によって生ずる攪乱的効果を和らげるべきである」と結論されるに及んで、わが国企業の解体はわずか9社にとどめられて、300以上の大企業が解体を免れることが正式に決定されたという。

GHQの方針がガラッと変わっただけでなく、ワシントンにおいてもソ連のスパイ網の調査が開始されることとなる。

柴田秀利

柴田氏はこう記している。
「…東京から火をつけた調査の手が、実はワシントンの最高幹部の周辺に、すでに張りめぐらされていたのだった。雑誌タイムの老練記者だったウィッティカー・チェンバーズが、自らソ連の手足だったことを告白すると同時に、自分は縁を切ったが、クレムリンの指令に基づいて、赤い巧妙なネットワークが政府最高幹部の頭脳の中に潜入し、明日の世界地図を真赤に塗り替えようとしているという、重大な証言を下院の非米活動調査委員会で行い、一大センセーションを巻き起こしていた。なかんずく、彼が政府の最上層部に食い込んでいる指導的メンバー7人の名を挙げた中に、アルジャー・ヒスとディクスター・ホワイトの名前があった。ヒスは戦後世界の分割統治を決めた歴史的な米英ソ三巨頭によるヤルタ会談に、年老いて死期を目前にしたルーズベルトを連れ出し、その特別顧問として暗躍した。そしてスターリンの要求通り、満州と樺太、千島の権益をソ連に与えるという、戦後のアジアや日本にとって最大の問題となった案件を、巧みに飲み込ませてしまった張本人である。…そしていま一人のディクスター・ホワイト―――彼は何とヒスの右腕として、ルーズベルト時代の財務長官モーゲンソウの次官を務め、次いで極東委員会が構成され、…その事務局長として事実上の対日占領政策立案のすべてを掌握していたのだった。…」(同上書 p.58-59)

ハリー・ディクスター・ホワイト

以前このブログでアメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号文書のことを記したが、戦後になってこの『ヴェノナ文書』の解読が進んだことにより、今ではディクスター・ホワイトという人物がソ連のスパイであり、わが国に開戦を決断させた「ハル・ノート」を書いた張本人であることがわかっている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

ヴェノナ

わが国の権力の中枢に尾崎秀実らがいたのと同様に、第二次世界大戦後もアメリカの権力の中枢にもソ連のスパイや協力者が多数いて、世界の共産革命に向けて高度な政治謀略が進行していたのである。

1949年に中国共産党が内戦での勝利を宣言し10月に中華人民共和国が成立した後、1950年6月に勃発した朝鮮戦争では北朝鮮軍は破竹の勢いで勝ち進んでいく。
米大統領のトルーマンは、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じ、また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請してマッカーサーを国連軍司令官に任命している。トルーマンにとっては、わが国でレッドパージを開始しただけでなく、米国政府周辺の赤狩りを東京から主張するマッカーサーは煙たい存在であったに違いない。

マッカーサー

北朝鮮軍はわずか2ヶ月で韓国領土の9割以上を制圧し勝利目前であったのだが、マッカーサーは戦況を一転させるために、9月に北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川(インチョン)上陸作戦」を実行し勝利する。10月に国連軍は38度線を突破し、北朝鮮の平壌を占領し、破竹の勢いで鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで868千人もの中国軍に遭遇する。この時点で国連軍の兵力は中国軍・北朝鮮軍の5分の1程度だったとのことだが、トルーマンはマッカーサーにそれ以上の兵を送らなかったという。
かくして国連軍は中国とのおおっぴらな戦争状態に突入し、圧倒的な兵力差から後退を余儀なくされ、12月には平壌、翌年1月にはソウルを共産軍に再び奪われてしまうのだが、たまたま2月以降共産軍に天然痘、腸チフスなどの伝染病が蔓延してその戦意が低下した。そして3月に国連軍は再びソウルを奪還し優位に立つのだが、翌月トルーマンはマッカーサーを突然解任し、彼のすべての指揮権を剥奪してしまうのである。

マッカーサー解任

ヴェノナ文書』の暗号解読により、ルーズベルト政権の時は常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明しているのだが、ルーズベルトの急死の後、副大統領から大統領に昇格したトルーマン政権も、同様なレベルでソ連に繋がるメンバーが存在していたことは確実で、世界の共産国化のための工作を継続していたと考えて良いだろう。

前述したとおり、ソ連寄りに偏っていたGHQやアメリカの対外政策を変えるきっかけを作ったのが三田村武夫氏の論文『大東亜戦争とスターリンの謀略』であり、柴田秀利氏がその論文をウィロビー少将に持ち込んだことが、朝鮮半島全体の共産化を阻止したマッカーサーが解任されるという大事件に繋がっていったのである。

柴田氏は著書でこう述べている。
「この解任を私は実に複雑な想いで受けとめなければならなかった。それをまた、自ら語らざるを得ない運命に置かれたことを、一層皮肉に思った。彼もまた帰国して、国会であの有名な『老兵は死なず、消え去るのみ』の演説をしたあと、3日間連続して軍事・外交合同委員会で詳細な証言を行なった。その時発行されたニューズウィークの特集号が、最大限の努力を結集して報道した中で、ハッキリと謳い上げたことがあった。それは、帰国に当たって、マッカーサーが日本から船で持ち帰った数々の宝物の中で、一番大切で、しかも大半を占めたものは、尾崎・ゾルゲ特別委員会が集めた、膨大な資料の山だったという指摘であった。」(同上書 p.62)

マッカーシー

アメリカでは1950年頃からマッカーシー上院議員らによって、政府やマスメディア関係者、学者などを対象に多くの共産主義者が告発されていったのだが、マッカーサーが日本から持ち帰った資料が少しは役に立ったのだろう。WikipediaによるとマッカーシーはFBIのフーヴァー長官から情報を入手していたと推測されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC

ところが、マッカーシーの告発対象が軍幹部に及んだことから軍からの強い反発を招き、また今までの告発の手法が強引であったことからマッカーシーへの批判が急浮上し、テレビ番組で追及されるに至る。
1954年12月には「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」とするマッカーシー譴責決議案が提出されて可決され、彼は事実上失脚してその後は表舞台に出ることはなかったという。

しかしながら、1995年に「ヴェノナ文書」が機密扱いを外されソ連の暗号通信の内容が明らかになった結果、ソ連のスパイ行為はマッカーシーの見積もりよりもさらに大規模なものであったことが今では明らかになっているようだ。

大規模な「赤狩り」が行なわれたアメリカですら、ソ連に繋がっていた人物の告発は不充分に終わったのだが、翻って戦後のわが国ではどうであっただろうか。
ソ連に繋がってきた人物が告発されるどころか、戦後の長きにわたり官僚やマスコミ、言論界、教育界等の重要ポストに居座り続け、国内外の勢力などと連繋しながら、今も影響力を保持し続けていることを知るべきだと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-266.html

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-272.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

このブログで何度か紹介した三田村武夫氏の論文を収録した本が復刻出版されていることを読者の方から教えていただきました。ウィロビーの目にとまったのはこの本です。次のURLをクリックし、上から5冊目です。
http://www.kure-pass.com/%E5%BE%A9%E5%88%BB%E5%87%BA%E7%89%88/


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