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江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて

姫路城から書写山・円教寺を巡る小旅行をずっと前から企画していたのだが、姫路城は昨年の3月に5年半に及ぶ「平成の大修理」を終えて以降訪れる観光客が半端な数ではなく、昨年の夏の平日に観光した知人から、切符を買って入城するのに2時間以上待たされたという話を聞かされていたのでしばらく行くことを躊躇していたのだが、ゴールデンウィークが過ぎてそろそろ大丈夫かなと勝手に期待して、先週の土曜日に朝早く自宅を出て久しぶりに姫路に行ってきた。

姫路城の大手門駐車場(姫路市本町68番地 079-284-1533)に到着したのは9時半頃で、この時間帯は駐車場にも余裕があり、入城についても切符を購入してすぐに入ることが出来たのはラッキーだった。
姫路城 菱の門

入城口からすぐに格調高い菱の門があり、その門を抜けると、右手に美しい天守閣が聳え立つ。天守閣はいろんな場所から眺めることが出来るのだが、この場所から見る天守閣は特に美しい。

姫路城 菱の門から

ここで簡単に姫路城の歴史を簡単に振り返っておこう。

元弘3年(1333)の元弘の乱で、護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、京に兵を進める途中で姫山に砦を築いた記録があり、また貞和2年(1346)には赤松則村の次男である赤松貞範が姫山に本格的な城(姫山城)を築いたとされる。

姫路城 黒田官兵衛の大河ドラマセット

2年前のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公である黒田孝高(官兵衛)は、父・黒田職高の嫡男として、天文15年(1546)にこの城で生まれたと伝えられており、姫路城の西の丸に、大河ドラマで使われた当時の姫路城の撮影セットを縮小した模型が展示されていたが、この当時はこのような平屋の城が殆んどだったそうで、現在の姫路城のイメージとは随分異なる。

永禄10年(1567)に黒田孝高が城代となったのち、天正8年(1580)に羽柴秀吉に対しこの城を居城とすることを進言したという。新たに城主となった秀吉はこの城の大改修を行い、石垣で城郭を囲み、三層と伝えられる天守閣を建築し、「姫路城」と改名したとされている。

その後天正11年(1583)に秀吉は大坂城に居城を移し、弟の秀長が姫路城主となるも、2年後に大和郡山に転封したため、秀長に代わって木下家定が城主となっている。

池田輝政肖像

そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政がこの城の城主となったが、輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて、翌年から8年がかりで姫路城の大改修を行なっている。秀吉の築いた城はこの時に取り壊されたと言われており、この時に改修された姿の多くが現在に残されていることになる。

平成5年(1993)に奈良の法隆寺とともに、日本初の世界文化遺産となった美しい姫路城だが、以降何度かこの城が破壊される危機を乗り越えて来たことはもっと知られるべきだと思う。

幕末期の鳥羽伏見の戦いで姫路城は新政府軍に包囲され総攻撃される寸前であったが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めたのだそうだ。

それから明治維新となって武士の時代が終り、明治6年(1873)には「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」が出され、ほとんどの城が破壊されたなかで姫路城は「存城」の一つとして陸軍の兵営地として残されたという。
一方で、姫路城も競売に付されて、金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭で落札したという説が存在し、Wikipediaにもそう書かれているのだが、この点については姫路市立城郭研究室が『城踏』No.81で丁寧に反論しておられる。
その記事によると、姫路城入札に関わる当時の記録は存在せず、明治6年2月15日の陸軍省の通達では「昨年中払下ノ見込ヲ以テ入札為致候儀ハ一切取消ノ事」とあり、仮に落札の事実があってもすぐに陸軍の手に戻っていたことになるのだが、そのことは昭和2年6月1日付の神戸又新日報の神戸清次郎の子・清吉氏へのインタビュー記事と合致しているという。どうやら『城踏』の解説の方が正しそうだ。
http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/shirofumi/pdf/11-10.pdf

かくして姫路城は陸軍の所有となったのだが、陸軍の保有目的は文化財を護ることではなく兵営地として残されたにすぎず、三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置されて三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊されたそうだ。また、長い間修理されなかったために次第に城や曲輪の傷みが激しくなっていくことになる。

姫路城古写真

明治10年頃になってようやく、日本の城郭を保存しようという動きが出てきたのだが、この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だったという。
次のURLに傷んだ姫路城の写真が掲載されているが、こういう写真を見るのは悲しいものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/2603377.html

明治政府は明治12年(1879)に応急的な修理を施したのだが、腐朽がさらに進行して、明治41年(1908)になって姫路市民による白鷺城保存期成同盟が結成され、また城下各地の有志達の衆議院への陳情が実って、よってようやく明治43年(1910)に国費9万3千円が支給され、本格的な修理工事(明治大修理)が行われることになる。

それ以降何度か修理が行われて、美しい白鷺城の姿が維持されてきたのだが、その後わが国が第二次世界大戦に巻き込まれて、昭和19年(1944)以降はわが国の各地でB29による本土空襲が行われるようになる。
当時の姫路市は軍需産業の拠点であり、さらに姫路城には陸軍の部隊が置かれていた。
姫路市が空襲の対象とされ、そして、白くて目立つ姫路城が爆撃のターゲットとされる可能性は極めて高かったことを知るべきである。

そして昭和20年(1945)の6月22日には姫路市上空にB29が52機、7月3日にはB29が106機飛来し、大量の焼夷弾が市街全域に降り注いで多くの死者が出たのだが、不思議なことがあるものである。奇跡的に姫路城は焼失を免れたのである。

Wikipediaによると7月3日の空襲では、姫路城の天守に命中した焼夷弾があったが発火しなかったという。
たまたま空襲時刻が夜間であり、また空襲から守るために天守閣などに黒い網が掛けられていたことなどが幸いしたのだろう。あるB-29の搭乗員は姫路城一帯を沼地だと思って爆撃しなかったと述べたそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E

姫路空襲のあとの姫路城

次のURLに、焦土となった市街地の中で、奇しくも焼けなかった姫路城を撮った写真が紹介されているが、空襲があったにもかかわらずこの城が無事に残されたのを見て、多くの姫路市民が歓喜の涙を流したことだと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/11833235.html

姫路城 にの門から

姫路城の散策の話題に話に戻そう。
上の画像はにの門あたりから天守閣を写したものだが、この城は、壁も柱も軒下も真っ白な漆喰(しっくい)で塗り込められている。

姫路城 漆喰

何処から城を見ても木が剥き出しになっている部分がないので、敵方がいくら火矢を放っても城には簡単に火が点かない構造になっている。

姫路城 西大柱

天守閣の中に入ると東西に心柱があり、根元の直径は95cmで高さは24.6mもあって地階から6階の床下まで伸びているという。

姫路城武者隠し

上の画像は3階にある武者隠しだが、姫路城天守閣内部については『お城めぐりFAN』に豊富な写真で詳しく説明されているので、訪問される前に目を通しておくことをお勧めしたい。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/himeji/himeji.html

各階にはパネルなどの展示物は極めて少なく、また部屋に襖絵等が描かれているわけでもないので、5階までは観光客はほとんど渋滞せず順調に進むことが出来るのだが、最上階に上る階段の登り口ではしばらく待たされることとなる。

最上階の広さは115㎡あるのだが、観光客のほとんどが眺めの良い最上階で長時間景色を楽しもうするので、登る人数をある程度制御しないと最上階が大混雑してしまうことが避けられない。
それゆえに、最上階が混雑するようになると、5階から最上階に向かう観光客の動きを止めて、上り専用の階段をしばらく下り用に切り替えて、最上階の観光客数を減らしてから、登りの観光客を案内する…、これを繰り返すことになる。ひどい日には待ち行列が入城口まで続いて、入場制限が行なわれることになるのだが、こんな日に訪れるのは避けたいものである。

姫路城 天守より西の丸

最上階に上がると姫路市街が一望できる。上の画像は西の丸方面を撮影したものである。

姫路城 西の丸から

天守閣を楽しんでから、西の丸に向かう。
西の丸から眺める天守閣もなかなか美しいので、思わずシャッターを押してしまった。

姫路城 西の丸 百軒廊下

西の丸というと、徳川家康の孫の千姫が本多忠刻(ほんだただとき)に嫁したことで、夫が死亡するまでの10年間をこの姫路城で過ごしている。

姫路城 西の丸 百軒廊下内部

西の丸に入ると「百間廊下」という長い廊下を進んでいくことになるのだが、出口近くに、千姫が嫁いだときに持参した10万石で建てたという「化粧櫓」がある。

姫路城 西の丸 化粧櫓

千姫は、本多家の繁栄を願って建立した男山八幡宮を西の丸から朝夕遥拝したと伝えられているが、その時にこの場所で休息したという。「化粧櫓」には千姫と勝姫が親子で百人一首に興じている人形が展示されていた。

好古園 1

姫路城西御屋敷跡庭園の「好古園(こうこえん)」は、姫路市制100周年を記念して平成4年に造営された池泉回遊式の日本庭園である。

好古園 瀧

上の画像は「御屋敷の庭」を撮ったものだが、他にも「流れの平庭」「夏木の庭」「築山池泉の庭」など9つの異なった趣の庭園群で構成されている。中に活水軒というレストランもある。

姫路城は昨年3月のグランドオープン以降1年間の観光客が277万8千人に達して、年間の城郭入場者数の歴代記録であった熊本城の221万人を大きく上回ったのだそうだ。この記録は当面破られることはないだろう。

Wikipediaによると姫路城の『平成の大改修』の改修費は28億円とのことだが、決して高くない金額である。
姫路城の入場料は大人1000円、小人300円で、売店のパンフレットやグッズなどの売上まで考慮すれば、1年間で277万8千人もの入場者があったのなら、わずか1年間で、改修費相当額を入場料や売店の粗利益で回収していてもおかしくない計算になるだろう。

次のURLに「21世紀委員会が発表した『無駄な公共事業100』」のリストが出ているが、あまり役に立ちそうもない工事に数百億以上の血税を費しているのがこの国の現状だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm
無駄な公共事業に莫大な税金を使うくらいなら、わが国の価値ある文化財を将来に残す事にもっと取り組んでほしいものだと思う。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-144.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
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下呂温泉から国宝犬山城へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行③
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「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
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日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
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関連記事

新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界

姫路城を楽しんだ後、西国三十三ヶ所の第二十七番札所である円教寺に向かう。

この寺は標高371mの書写山(しょしゃざん)の山上にあり車で行くことは出来ないので、カーナビの目的地を書写山ロープウェイ(079-266-2006)にセットする。姫路城の大手門前駐車場から15分程度で山麓駅のパーキングに到着する。

円教寺境内

書写山ロープウェイは、毎日8時30分以降、毎時0分、15分、30分、45分に出発するが、団体客がある時などはたまに増発される。
山上駅の近くにある「慈悲の鐘」から本坊寺務所の近くまでバスも出ているが、ここから摩尼殿までは歩きやすい道が1km程度続いているので、小鳥の囀りを楽しみながら歩いて参詣することを勧めたい。

円教寺 仁王門

山上駅から600mほど進むと仁王門(兵庫県文化財)がある。門の入口の扁額には「志ょしゃ寺」と書かれているが、この寺の創建当時はこの寺を「書写寺」と称していたそうだ。

性空上人像

ここで、この寺の歴史を簡単に振り返っておこう。
九州での修行を終えた性空(しょうくう)上人が、康保3年(966)年に新たな修行の地を求めて書写山に入山し、山内の西の谷に草庵を結んだとされている。
その後、上人の名声が都まで届くようになり、寛和2年(986)には花山法皇が参詣されて、法皇より「圓教寺」の寺号を受け、勅願寺の待遇を与えられたという。
そして永延元年(987)には講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて盛大な落慶法要が営まれ、その後も数々の堂塔が整えられて、承安4年(1174)には後白河法皇が参籠するなど圓教寺は「西の比叡山」と呼ばれて栄えていくのだが、元弘元年(1331)3月の落雷による火災で大講堂、常行堂、五重塔などを焼失してしまう。
その後再建されたのだが、戦国時代に入り羽柴秀吉がこの書写山を軍事拠点としたことから、多くの僧が僧坊を追われ、この時期に多くの寺宝が持ち去られたという。

円教寺 湯屋橋

ロープウェイ山上駅から12分程度歩くと「湯屋橋」という石橋がある。そこにある案内板にこう解説されている。

「…本多忠政は元和3年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和6年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正6年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる
 湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむ…」

かくして江戸時代に入って円教寺は以前の荘厳さを取り戻し、西国三十三ヶ所の第二十七番札所として賑わうようになるのだが、明治維新後に神仏分離令が出され、大幅に寺の収入が失われたために多くの僧侶が寺を去ったという。しかしながら、寺の建物や仏像等、多くの文化財が護られて今日に残されているようだ。

円教寺 摩尼殿

湯屋橋を渡ると崖の上に摩尼殿(まにでん:国登録有形文化財)が聳え立つ。
摩尼殿の号は承安4年(1174)に参詣した後白河法皇によるもので、「摩尼」とは梵語で「如意」を意味するのだそうだ。法皇は摩尼殿の御本尊が如意輪観音なのでそう名付けたのであろう。
この御本尊は秀吉の播磨制圧の際に、他の寺宝とともに近江の長浜に持ち去られたのだが、天正8年(1580)に、長浜より如意輪観音像だけが戻されたと記録されているそうだ。

円教寺 摩尼殿 構造

この摩尼殿は舞台造りの素晴らしい木造建築物で、旧堂が大正10年(1921)12月に焼失したあと再建に着手され、昭和8年(1933)に落慶している。

案内板には「設計は近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。」とあるが、このような木造建築を造る伝統技術が今もしっかり承継されているのだろうか。こんなに太い木材を用いて釘を一本も使わずに建てられたことはすごいことだと思う。

円教寺 摩尼殿内部

上の画像は摩尼殿の内部を撮ったものだが、この建物が昭和時代に再建されたものとはとても思えなかった。

円教寺 摩尼殿新緑 2

円教寺は兵庫県の紅葉の名所として有名な場所だが、新緑の摩尼殿もなかなか美しい。

円教寺 三つの堂

摩尼殿から三之堂(みつのどう:大講堂、食堂、常行堂がコの字状に並んでいる)に向かう。摩尼殿から歩いて5分くらいで到着する。

円教寺 大講堂

上の画像は北側にある大講堂(国重文)で、下層は永享12年(1440)に、上層は寛正3年(1462年)に建造され[、文明年間(1469~1487)に全体が整備されたという。内陣には釈迦三尊像(国重文)が安置されている。

円教寺 常行堂

上の画像は南側にある常行堂(国重文)で、寺伝によれば元弘年間(1331~1334年)に建立され、永享8年(1436)の焼失後、享徳2年(1453)に再建されたという。本尊は阿弥陀如来(国重文)で、僧侶が常行三昧をするための道場であったという。舞台は、大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納するために設けられたのだそうだ。

円教寺 食堂 常行堂

西側にあるのが食堂(じきどう:国重文)で、承安四年(1174)に創建されたものである。わが国の近世以前の仏堂建築でこのように長大かつ総二階の建物は他に例がないという。この建物は映画『ラスト・サムライ』で渡辺謙演じる勝元の住居という設定でロケが行われた場所なので、見覚えのある方が多いのではないだろうか。

この食堂の2階は宝物館になっていて、食堂本尊の僧形文殊菩薩像ほか五大明王像、薬師如来像等の仏像や、弁慶の机、姫路城の瓦などの貴重な文化財が多数展示されている。

円教寺 旧大日堂仏像群

その中で「旧大日堂仏像群」という16体の破損仏が目にとまったので紹介したい。
この破損仏については、こう解説されていた。
「制作年代 10~11世紀
 所有者  姫路市夢前(ゆめさき)町糸田自治会
 姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていたもの。大日堂は廃仏毀釈を免れるため、糸田村の所有とすることで、周辺の諸仏も守ることができ、現存に至った
 しかし昭和30年代に大日堂は維持困難となり、仏像群は公民館に移され建物は取り壊された。さらにその公民館も平成12年老朽化に伴い処分が決定した。その際、旧夢前町教育委員会、兵庫県立歴史博物館、早稲田大学により調査後、同町内法界寺に安置されることとなったが、横たえた状態であった。
 そして平成18年、ようやく早稲田大学櫻庭祐介氏のご尽力により、保存修復により個々自立できようになり、祈りの対象としての姿を取り戻した。そして一時、円教寺に奉安することとなったのである。
 歴史をくぐり抜けてきた仏像群を皆さまの目にふれる形で展示することができ幸いである。」

せっかく廃仏毀釈による破壊を免れたのに、保存環境が悪かったために朽ち果てて原型を留めていないことは残念なことである。
木造仏は加工しやすい利点はあるが、傷むのが早いことを知らねばならない。

円教寺 開山堂

食堂から2分ほど歩くと、奥の院があり開山堂(国重文)、護法堂(国重文)、護法堂拝殿(国重文)がある

円教寺 開山堂 左甚五郎 力士彫刻

開山堂の軒下の四隅に、屋根の重みを顔をしかめて支えている力士の像がある。これは、江戸時代の名工・左甚五郎の作と伝えられているのだが、なぜか北西の隅には像がない。

円教寺 護法堂

開山堂の右にある護法堂は、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社で、永禄2年(1559)に再建されたものだが、円教寺ではこのように神仏習合の景観が今も残されているのだ。

以前このブログで、播磨の朝光寺や浄土寺や鶴林寺に神仏習合の風景が残されていることを記したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、播磨では明治新政府の政策に非協力的だったのかもしれないが、「旧大日堂仏像群」を見てもわかるように播磨の諸寺に対して新政府から「廃仏毀釈」を迫る圧力があったことは確実で、次のURLでは加古郡では27ヶ寺が廃寺に追い込まれたことが記されている。
http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/c/df3e9d585cb4f9aa400a37aff1bd8f83/4


圓教寺 3つの堂 播磨名所巡覧図会

文化元年(1803)に出版された、『播州名所巡覧図会』五巻にその頃の円教寺の三つの堂と奥の院が描かれた図がある。この絵を見ると、今の円教寺は文化年代の伽藍配置とほとんど変わっていないことが見てとれる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563457/35

円教寺がこれらの堂宇や仏像などを廃仏毀釈で破壊される危険から護ることに、様々な苦労があったと考えるのだが、その点に関しての当時の記録はネットでいろいろ検索しても見つけることができなかった。

円教寺 鐘楼

開山堂の近くには他にも鐘楼(国重文)、金剛堂(国重文)、十妙院(国重文)があり、ロープウェイ山上駅から摩尼殿に向かう途中には壽量院(国重文)があり、書写山全体が文化財の宝庫なのである。
壽量院では4月から11月の間、書写塗りの食器で精進料理をいただけるのだそうだが、3日前までに5人以上の予約が必要だという。
『食べログ』のコメントを読むと、精進料理は5400円のコースと10800円のコースの2つがあり、季節によって特別料理のそば御膳(3500円)が準備されるという。一度でいいからこういう場所で食事をしたいものである。
http://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28023379/dtlrvwlst/6290858/

書写山を下りて、書写山・円教寺の奥の院と言われている弥勒寺(079-335-0330)に向かう。ケーブルの山麓駅から約10kmで、20分ぐらいで到着した。

弥勒寺

弥勒寺は、円教寺を開山した性空上人が長保2年(1000)に隠棲の地として草庵を営まれたのが始まりとされ、花山法皇が上人の徳を慕い長保4年(1002)に行幸され、勅命により播磨国司巨智延昌(こちのえんしょう)に諸堂を建てさせて、以後弥勒寺と呼ばれるようになったと伝えられている。

弥勒寺 本堂

本堂(国重文)は天授6年(1380)に赤松義則(よしのり)が建立したもので、本尊の弥勒仏(国重文)は長保元年(999)に安鎮が制作したと伝えられているのだが、普段は公開されていないので仏像を参拝することはできなかった。次のURLに本堂内部のレポートがあるが、予約すれば案内していただけたのかもしれない。
http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/32993620.html

弥勒寺 開山堂

開山堂には性空上人の尊像が安置されていて、その厨子は県の重要有形文化財に指定されている。またその横には、鎌倉時代に制作された性空上人の供養塔がある。

弥勒寺 護法堂

また、円教寺と同様に護法堂があり、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社がある。風雨にさらされて傷まないように覆い屋で守られていたが、いずれも姫路市文化財に指定されている。

規模は小さいものの、このように多くの文化財を保有する古刹であるのだが、普段は拝観が出来ない様なので、ほかには観光客は誰もいなかった。
東大寺や清水寺のように観光客の多い寺社は収入面では問題ないのだろうが、地方には多くの文化財を持ちながら観光客がほとんど来ない寺社が少なくない。
もちろん寺社には観光収入以外に宗教活動に伴う収入があるのだが、その肝腎な部分の収入が先細りになっているケースが少なくないのが問題である。

高度成長期以降、地方で働く場が失われて若い世代が都心に移住したまま故郷に戻らないために、地方の多くは過疎化・高齢化が進行するばかりで、それまで地方の寺社を支え、間接的に文化財を支えてきた檀家や氏子のほとんどが年金生活者と化してしまっている。

このような状態をいつまでも続けば、いずれは地方の文化財を護ることが難しくなり、地方の伝統文化や地域の魅力が失われていくばかりではないか。そのことは長い目で見れば、わが国全体の観光価値を低下させることにもつながるのだと思う。

以前このブログで記したが、国や地方の文化財指定があっても、修理に必要な費用の何割かは自らが工面しなければならない。しかも文化財の価値を減じることのないように、昔と同様の建築工法で修理しなければならず、そのために結構な資金を用意する必要があるのだ。

今の文化財保護法では地方の文化財は守れない。この法律では、大手建設業者やセキュリティサービス業者は潤っても、寺社は逆に富を吸い取られることになりはしないか。

文化財を守るために一番大切な事は、これらの文化財を代々大切に守ってきた人々が、地元で普通の暮らしができる環境を整えることではないのか。
若い世代が地元に残って生活が出来ない地方に未来はなく、地方の経済を活性化させて若い人が戻って来る経済施策こそが、地域の文化財を守り、地域の伝統文化を後世に繋いでいくために必要なことなのだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html



関連記事

織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した戦略を考える

戦国時代の英雄といえば、わが国が統一される足がかりを作った武将として織田信長の名前を挙げる人が多いだろう。信長は主要な戦いのほとんどで勝利を収め、なかでも、東海道の覇者・今川義元をわずかな兵でうち破った永禄3年(1560)の『桶狭間の戦い』は、信長の主要な戦果の一つとしてほとんどの教科書に記されている。

織田信長

この戦いについては「『上洛』を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が迂回路を通って『奇襲』して倒した」と戦記物などで記されて、それが長い間日本人の常識とされてきたのだが、その『上洛戦』『迂回奇襲戦』であったとする説とは異なる説が最近では有力視されているという。

今川義元

今川義元は駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める大大名で、背後にある甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と相互に婚姻関係を結んで相互不可侵を約し、いよいよ上洛を目指して動き出したとなどという内容が書かれている書物が多いのだが、最近では、義元が上洛の準備を行なった形跡がないとし、上洛説を否定している研究者が多いようだ。

たとえば静岡大学教授の小和田哲男氏は著書でこう解説しておられる。
「永禄3年5月という時点を考えると、京都には将軍足利義輝がいて、義元が義輝にとって代わろうなどと考えたとは思えない。永禄8年に義輝が松永久秀らによって殺され、将軍空位の状態ならまただしも、永禄3年に、足利一門である義元が将軍にとって代わろうと考えるはずはないのである。
 それと、もう一つ、この時期、義元が、尾張より先の戦国大名である美濃の斎藤義龍、近江の六角義賢らと連絡をとっている痕跡が全くないというのも奇妙である。上洛するなら、その道筋にあたる斎藤氏や六角氏との間に事前の折衝があって当然であろう。それがないということは、義元は、尾張より先のことは視野になかったものと思われる。」(青春文庫『戦国時代はうらから読むとおもしろい!』p.75-76)
小和田氏は、そう述べたあと、北条氏の目的はズバリ尾張奪取にあったとしておられる。

少し補足しておくと、今川家は室町幕府の足利将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる名門である。その今川義元が、上洛して将軍家を助けるという動機があったとしても、京に至るまでには有力大名が目白押しであり、その根回しなしに、この程度の陣容で上洛することが可能とは思えないし、そもそも足利将軍家との書簡のやり取りも存在しないというのである。
今川義元は三国同盟を背景に三河進出に力を注ぎ、弱体化した三河国の松平氏を従属させたほか、同じく尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などを戦い、三河から織田氏を締め出して鎮圧してからまだ日も浅かった。普通に考えれば、次に征服すべき国は尾張であろう。
将来的に上洛の意志はあったにせよ、永禄3年(1560)の時点で今川義元が一気に上洛しようとしたとする説は、真実を伝えているとは思えないのである。
義元の上洛が目的であったなどと書いている書物を辿って行くと小瀬甫庵の『信長記』(慶長16年[1611])、『改正三河後風土記』(天保8年[1837])など軍記物に辿りつくのだそうだが、いずれも桶狭間の戦いからかなり日数が経過して記されたものであり、かなり創作がなされていることは読めばわかるのだが、わが国の歴史叙述が軍記物の内容に基づいて記述されることはよくある話なのである。

では次に、桶狭間の戦いにおける両軍の動きを追ってみよう。

桶狭間地図

今川義元は永禄3年(1560)の5月12日に自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日夜に松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせている。

そして5月19日の早朝に沓掛城を出発した今川軍は大高城を目指して進軍し、丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。
清州城にいた信長は、その情報を得るや「敦盛」の舞を舞い、鎧兜をつけて出陣したと伝えられている。

沓掛城を出立した今川義元の本隊は、午の刻(正午頃)、桶狭間山に着陣して人馬に休息を与えていたという。ここで丸根・鷲津両砦の陥落の報告を受けた義元は謡に興じるなどし、一方、丸根砦、鷲津砦を攻め落とした松平元康(徳川家康)は、大高山で人馬に休息を取らせていた
今川軍の戦力については諸説あり、兵の数は2万5千とも4万5千とも言われているが、義元の本隊は5千程度であったと考えられている。
桶狭間に向かった信長の兵は2千に満たなかったようだが、信長は、今川義元の兵が桶狭間山で休息している今が好機と踏んだようである。そのために信長は中島砦方向に向かい、そこから桶狭間山に向かおうとする。

信長公記

信長の旧臣のであった太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』にはこう記されている。
「信長は戦況を見て、中島へ移動しようとしたところ、『中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きが取れず、一騎ずつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます』と、家老衆が信長の轡(くつわ)に取りついて、口々に言った。しかし信長は、これを振り切って中島へ移動した。この時、信長は二千に満たない兵数であったという」(新人物文庫『現代語訳 信長公記』p.100)

信長はこのタイミングを待っていたのである。そしてこのような檄を飛ばしている。

皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛抱して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵がかかってきたら引け、敵が退いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、負い崩す。たやすいことだ。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め。」(同上書p.101)

義元が布陣していた桶狭間山の際まで軍勢を寄せた時に激しいにわか雨が降りだしたことは幸運だった。そのおかげで信長軍は今川軍に気付かれずに接近することが出来たのだ。そして、豪雨がやんだ頃合に織田方の急襲がはじまる。

桶狭間の戦い 2

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて『それ、掛かれ、掛かれ』と叫ぶ。黒煙を建てて打ち掛るのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟(のぼり)・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。
『義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ』と信長の下知。未(ひつじ)の刻(午後2時頃)、東へ向かって攻めかかる
。敵は、初めは三百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と引き換えし、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。
 信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。頭に血がのぼった若武者ども、乱れ掛って鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り火花を散らし、火焔を降らす。乱戦だが、敵味方の区別は、旗指物の色で知れた。ここで、信長の御馬廻り・お小姓衆の歴々、負傷・討死にした者、数も知れない。
 服部春安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元を切り伏せて首を取った。…
 今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは狭く入り組んで、深田に足を取られ、草木が高く・低く茂り、この上もない難所であった。深い泥田へ逃げ込んだ敵は、そこを抜け出せずに這いずりまわるのを、若武者どもが追いかけ追い着き、二つ、三つと手に手に首を取り持って、信長の前へ持参した。『首はどれも清州で検分する』と信長は言い、義元の首だけはここで見て、満足この上もなかった。」(同上書p.101~103)

太田牛一の著した『信長公記』は軍事的に正確で史料性が高いと評価されている書物だが、これを読むと信長は、中島砦から東に進んで義元の本隊を正面から攻撃したことになる
従来の説では、義元は桶狭間付近で酒宴を開いていて、信長は間道を通って山中を迂回して義元の本陣の背後に回ったことになっているのだが、普通に考えれば、信長軍がいつ攻めて来るかわからない状況で今川軍が酒宴を開くことはあり得ないだろうし、酒宴を開いていないのであれば義元の本隊は休息が終えればいずれ西に向かうことになる。迂回して義元の背後を衝こうとすれば、時間がかかりすぎて先を越されてしまうリスクがある。
中島砦から桶狭間までの距離は直線で3キロメートル程度であり、今川義元本隊に戦いを挑むのであれば、信長が最短コースを採ることは当然ではないか。

しかしながら、兵力では織田軍は今川軍の十分の一程度で圧倒的に不利な状況にあった。
にもかかわらず兵力の劣る信長軍が正面から今川の本隊に挑んで勝利することができたのだが、信長が勝利したポイントはどこにあったのか。
その点について、私にとって一番納得のいく説明をしているのは『本能寺の変 431年目の真実』で一躍有名になった明智憲三郎氏の論考である。

明智憲三郎

明智氏によると、信長のとった行動はきわめて理に適っているという。この戦いにおける信長の戦術について明智氏は、孫武・呉起の兵法とともにこう解説しておられる。

「『敵が多勢でも、それを封じ込めばよい』のです。…『平坦な場所は多勢の側が有利です。このような場所で戦うことは避け、少人数で戦うのに有利な狭い場所で迎え撃つのです。昔から「一つの力で十の敵を討つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うことである」といいます。かりに少人数だとしても、狭い地形を選び、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数であっても驚きあわてざるを得ません。』…沓掛城から鳴海城に至るまでは両側が小山で狭間(谷間)の道が続く、少し開けた場所も深い田になっていて道は狭い。千で万を討つには最適だ。」(明智憲三郎織田信長 四三三年目の真実』p.55-56)

織田信長四三三年目の真実

そればかりではない。信長はさらに勝ちを確実なものとするために、今川軍を分断させたのである。

「『先頭と後尾とが分断された敵は攻めやすく』なります。『敵が進みやすく、退却しにくい地形にいるときに誘い出す』ことにより敵を分断することができます。…後軍が桶狭間にいる間に、先陣を鳴海城や大高城のある海岸近くの平坦地まで誘い出す。…当然、(敵は)大高城・鳴海城の付近の砦を落としにかかるだろう。こちらが砦を守るために先に布陣してしまうのではなく、砦を攻撃させて敵を引き込んでから出陣する。…
敵は…駿府から40里を6日がかりで行軍してくれば、それだけでかなり疲れている。…
敵はこちらが鳴海城を攻めると考えるだろう。そう見せておいて、鳴海城を素通りして、桶狭間の義元本隊を攻める…。兵をかき集めて数を合わせようとするのではなく、むしろ精鋭を厳選し、死地に追い込み、激励し、速攻を加える…。4万5千のうち、桶狭間に陣取る義元本隊は2万とみて、わが方はその十分の1あればよいということだ。」(同上書 p.56-59)

信長はこの戦略の通りに今川軍先陣を誘い出し、松平元康に丸根砦、鷲津砦を攻め落とさせる。6日間も行軍した後に砦を奪い取ったあとは、大高山で人馬に休息を取ることとなるが、兵士たちは相当疲れていた。そのとき義元の本陣は桶狭間の高台にいて、先陣とは6キロ近く離れてしまっていた。
しかも桶狭間は西に進むにも東に戻るにも狭い道が続き、しかも少し開けた場所も深い田になっていて、いくら義元の兵の数が多くても軍列が長く伸びてしまうことになる。ということは、実際に織田軍と干戈を交えることができるのは列の前の方にいる一部の兵士だけなのだ。しかも、大将の今川義元は陣の比較的前方にいた。
だからこそ、軍の精鋭を集めた信長は、少ない兵の数でありながら、今川軍の本隊を正面から攻め、義元の首級を挙げて勝利することが出来たのである。

桶狭間の戦い

こうしてみてくると、今川義元の敗因はこのような狭隘な地形の桶狭間に着陣したことが大きいことになるのだが、ではなぜ義元がこのような危険な場所に陣取ったのであろうか

明智氏は「名将として知られる太源崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)に幼いころから訓育を受けた義元が兵法を知らないわけがない」と前置きした上で、次のように記しておられる。
「おそらく、義元は二つの理由で桶狭間で本隊を駐留させたのであろう。ひとつは兵の休息地として夏の日差しを避けられる日陰のある桶狭間が適当と考えたこと。もうひとつは高根山周辺の高地から戦況を一望のもとに見て、次の作戦を考えようとしたこと。孫子の兵法にも次のように説かれている。『起伏に富んだ地形では、先に視界良好で戦場を支配する高地を占領して、敵を待て』。義元の行動はこれに適っていた。また『隘路は先に占領し、隘路口を封鎖して敵を待て』とも説かれている。桶狭間の隘路を先に占領したが、桶狭間からの出口の封鎖が不十分だったのだ。そのため信長軍の突撃に対して、前陣がひるんで後退して一挙に全軍が崩れてしまった。こうして突き詰めてみると、桶狭間へ向かって進軍して来る織田軍の動きを把握できていなかったことと、隘路口の封鎖が弱かったことが義元の真の敗因といえよう。」(同上書 p.80-81)

義元は、孫子の兵法の教えの通りに見晴らしの良い場所に着陣したのは良かったが、谷間の細い道が長く続いていることの認識が乏しかった。尾張の地理に疎かったために、その認識が持てなかったのだろう。
一方の信長は、義元の本陣を桶狭間に駐留しているタイミングを虎視眈々と狙っていた。信長にとっては、今川軍の先陣ができるだけ本陣から離れることが望ましかった。丸根砦、鷲津砦を今川軍に勝利させて、18日に彼らが兵糧を運び込んでいた大高城にて休憩をさせることがベストであったはずだ。
信長の期待した通りに、桶狭間に義元の本陣が残された。そこを信長軍の精鋭が衝いたわけだが、わずかな兵で今川の大軍に勝利した信長の戦略、恐るべしである。

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本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
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明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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