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後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎

松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、
「歌書よりも軍書に悲し吉野山」
という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。
『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。

教科書には何も書かれていないのだが、明徳3年(1392)に南北朝が合一されて平和が訪れたわけではなく、南朝の皇統の子孫は反幕勢力に担がれて、南北朝の争いは応仁の乱(1467)に至るまで何度も続いたというのが真実である。南北朝合一後に、南朝の再建を図った皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室のことを「後南朝」という

前回の記事で書いた土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村には、若くして命を奪われた後南朝の皇子の悲しい歴史が残されている。庄三郎の座右の銘である「守不移(移らないことを守る、他所へは移らない)」は、このような川上村の歴史と決して無関係ではないのだろう。

最初に後醍醐天皇の時代から後南朝の歴史を簡単に振り返っておこう。

後醍醐天皇

元弘3年(1333)に後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒したのち、天皇親政の理想のもとに、翌年に年号を建武と改めて、公武両政治を折衷したような政治を目指そうとした(建武の新政)のだが、討幕に協力した御家人たちは所領の増加や地位の向上を望んでいたものの充分に叶えられたわけではなく、新政に対する不満が次第に高まっていった。

建武2年(1335)に北条高時の子である時之が関東で起こした乱(中先代の乱)の鎮圧のために鎌倉に向かった足利尊氏は、これを機会に武家政治の再興をはかろうとして新政府に反旗をひるがえした。朝廷は尊氏追討のために新田義貞を遣わしたが、尊氏は新田軍を破り、翌延元元年(1336)に京都に攻めのぼったのである。

これに対して、奥州から北畠顕家らが尊氏を追撃して九州に追いやったのだが、尊氏は九州の兵力を纏めて東上し、湊川で楠木正成を破り、ふたたび入京して持明院統の光明天皇をたて、建武式目を定めて、京都に幕府を開いている。

後醍醐天皇は京都を脱出して吉野山に逃れ、政権は吉野と京都に分立することとなった。吉野におかれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と呼び、後醍醐天皇の建武の新政はわずか3年で崩壊してしまった。

吉水神社南朝皇居

後醍醐天皇に味方することは、足利幕府の怒りを買って平和な吉野が戦乱に巻き込まれることを怖れる声もあったようだが、太平記巻十八によると吉水院の住職であった宗信法印が蔵王堂に300人余りを集めて説得し、後醍醐天皇を迎え入れたという。上の画像は吉水神社(旧・吉水院)書院(国重文)の中の後醍醐天皇の玉座と伝えられている間である。

しかしながら後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて看病の甲斐なく8月16日についに崩御されてしまう。

玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ

という天皇の遺言が残されている。玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのである。

南北朝系図

後醍醐天皇の崩御のあと、南朝の有力武将が次々と戦死し、貞和4年(1348)には四條畷の戦いで楠木正成の子、楠木正行、正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られている。
さらに高師直は吉野にも軍勢を進めたため、南朝の後村上天皇は賀名生(あのお:奈良県五條市)へ逃れた。高師直の軍勢は吉野行宮に火を放ったが、風に煽られ蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け、灰燼に帰したという。

かくして北朝方が圧倒的優位に立ったのだが、今度は足利直義と高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起きている。
政争に敗れた直義は南朝に帰順し、山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられて南朝は息を吹き返すことになる。

こんな具合に南北朝の争いは50年以上に及んだのだが、明徳3年(1392)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走して、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。
第三代将軍足利義満は、明徳の乱で勝利したのち、南朝との本格的交渉を開始し和睦を成立させ、南朝の後亀山天皇は京都へ還幸して北朝の後小松天皇に譲位し、以後皇位を交代で承継することで和約し、三種の神器を差し出して明徳3年(1392)に南北朝が統一されたことはどこの教科書にも書かれているのだが、その後北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との約束を一切守らなかった。
南北朝統一後は、大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につく(両統迭立[りょうとうてつりつ])という約束であったのに、後亀山殿は皇太子すら立てることもできなかったし、南朝は国衙領を支配しても良いという約束も守られなかった
という。

北朝が南朝との約束を反故にして皇位を独占したために、それからも南北朝の対立は続いたのである。
山深い吉野の地にはその後も南朝の皇子を援けてきた歴史があり、そのことを村人は「誇り」としてきたのだが、このような史実を学ぶ機会は今までほとんどなかったと言って良い。そしてその歴史の舞台となるのが、前回の記事で紹介した土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村なのである。

樹喜王 土倉庄三郎

先日開催された『土倉庄三郎翁没後100年記念式典』で基調講演をされた田中淳夫氏の著書に、後南朝の歴史と川上村との関係がよく解る記述があるので引用させていただく。

「しかし、後小松天皇は皇太子に弟(後の称光天皇)を立てた。そのため1410年、後亀山殿は隠棲していた嵯峨野から密かに吉野に戻る挙に出た。その後の彼の血統を後南朝と呼び、二朝並立が繰り返されたのである。
後南朝は、時の政権に不満を持つ勢力に担がれることで、一定の勢力を保ち続けた。1443年9月に、北朝の後花園天皇の内裏を襲撃し、三種の神器のうち神璽(しんじ:勾玉[まがたま])を奪取する『金闕(きんけつ)の変』を起こす。同年、後亀山殿の曾孫(そうそん)の尊義王が亡くなり、その子、尊秀王*(自天王)と忠義王が皇胤(こういん)を継いだ。彼らは川上郷に分散して居を構えた。
とろが赤松家の旧臣が神璽の奪還をめざして川上郷に潜入した。当時赤松家は断絶していたが、旧臣たちは神璽の奪還で武功を上げ再興を果たそうとしたのだ。
1457年(長禄元)12月2日の大雪の夜、彼らは18歳の尊秀王と12歳の忠義王が滞在していた御所を8人で襲い、2人を惨殺して首を取り、神璽を奪った
。(この経緯は赤松側の資料による。川上村の伝承では、忠義王は病没したとある。)
川上郷の民は、彼らを追跡し、雪に阻まれて脱出が遅れていた旧臣たちを格闘の上に倒し神璽と皇子の首を取り戻す。そして村人は尊秀王の首を金剛寺に葬ったという。
この事件を『長禄の変』と呼ぶが、追跡に関わった郷民が『筋目(すじめ)』と呼ばれる血筋となる。土倉家は、とくに少ない一番筋の系譜だったという。
なお取り戻した神璽は、東吉野の小川にある皇子の母の在所に隠したが、翌年三月末に赤松側が再び乱入して奪い取られてしまった。
奉じていた皇子が二人とも亡くなり神器も奪われた川上郷では、この年以降、皇子の鎧や兜、長刀、太刀など遺品を祀る朝拝式を執り行い続ける。それは555年の時を超えて、今も続く。近年まで朝拝式に参加できるのは、筋目だけであった。」(『樹喜王 土倉庄三郎』p.209-210)
*尊秀王(たかひでおう):地元では「自天王(じてんのう)」と呼ばれる。後世の系図によれば父は空因といわれ、空因の父は小倉宮(後亀山天皇の子)という説もあれば後聖院宮(後亀山天皇の弟の子)という説があるが、皇胤であることを疑う研究者もいる。

尊秀王系図

森林王・土倉庄三郎の先祖は『長禄の変』で赤松家の旧臣から、尊秀王の首と神璽を取り戻したメンバーのうちの一人で、代々「筋目」とされて村人から敬われてきたのである。そして川上村では、この地で若くして亡くなられた尊秀王の遺品を祀り、今も毎年2月5日に金剛寺で朝拝式が行われ、この儀式が長禄2年(1458)から558回も絶えることなく続けられているというのはすごいことである。

尊秀王遺品

この「尊秀王の遺品」は国の重要文化財に指定されており、川上村のホームページに写真付きで紹介されている。
朝拝組が代々厳重に保管してきたことによりほとんど傷んでいないようである。
普段は拝観することができないが、朝拝式の日にだけ一般に公開されるのだという。
http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-03/j-03-1ran-101.htm

https://www.youtube.com/watch?v=rI4eCY8ts1E
「吉野杉と水源地の村【かわかみ】チャンネル」という動画サイトに、「後南朝・明治近代林業 川上村の歴史第3回」に朝拝式が少しだけだが紹介されている。「南朝を復活させたい」としながら夭折した皇子たちを鎮魂する厳粛な儀式であり、観光客向けのお祭りにはなって欲しくないと思う。

金剛寺本堂

この朝拝式が執り行われる金剛寺に3年前の5月に訪れた。無人の寺のようだが、境内は驚くほど綺麗に掃き清められていた。それが伝統の持つ力なのだろう。上の画像が金剛寺の本堂で、本尊に平安時代の様式の地蔵菩薩立像が祀られているという。

自天親王神社

本堂の右後方に自天親王神社があり、後南朝最後の尊秀王(自天王)とその弟の忠義王を祀っている。また本堂の左後方には忠義王の陵墓があり、境内には推定樹齢800年といわれているケヤキの大木がある。

朝拝式2

残念な事だが、川上村も過疎化・高齢化が進み、「筋目」だけで朝拝式を行う事が難しくなったために、9年前から「筋目」以外の参加も認め、川上村高原にある福源寺でも行われていた朝拝式を金剛寺一箇所に絞った上で、無形民俗文化財の指定を受けて保護されるようになったのだそうだ。次のURLに朝拝式の画像が数多く紹介されているが、かなり高齢者が多いことが誰でもわかる。100年以上前には、このメンバーの中に裃姿の土倉庄三郎がいて、もっと若い世代が数多くいたことだろう。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1241.html

前回の記事で記したが、庄三郎は生涯故郷の川上村を離れなかった。その理由は、林業で潤っていたこともあるのだろうが、「筋目」の中でも「一番筋」とされる血筋の家に生まれたことが大きかったのではないだろうか。

親から伝統を受け継いできた者が、もし子供や孫にそれを引き継ぐことが出来なければ、自分の代々の先祖の期待を裏切り深く悲しませてしまうことになる…。当たり前のことではあるが、「伝統を守る」ということは、地域の人々が代々大切にしてきたものを守り、その価値を減じることなく次の世代に繋ぐということを何世代にもわたって続けて行かなければできないことである。
川上村に限らず、わが国の多くの地方で文化財が守られ、地方の価値ある伝統文化が、過去何百年にも亘って承継されてきているのは、おそらく、先祖を大切にする日本人の宗教観・価値観と無関係ではないのだろう。

固有の文化や伝統を培い代々継承してきた地域は、川上村に限らず全国各地にあるのだが、グローバル化が急速に進んで地域経済が衰退したために、多くの地域でその文化や伝統を繋いできた仕組みが崩れてきている。

地域の文化や伝統は、これまではその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、安価な海外製品や安価な原料を用いた代替品との競合を余儀なくされ、それまで地元の近くに数多くあった働く場所が都会資本の大企業に席巻されて多くは廃業し、あとを継ぐべき世代が収入を得るために都会に定住したまま戻ってこない。この流れを放置したままでは、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。

私には、地方に旅行しては地元の産品を買って、拙い文章でその地方の歴史などを書いて少しでも読者に伝えようと努力することしかできないのだが、少しでも地方を訪れる人が増え、ネットなどで地元の産品を産直や地元の業者から買う人が増えて、それぞれの地方の人々が次第に潤うようになってほしいと思う。

かつては豊かであり、素晴らしい伝統や文化を育んできた地方が、田舎の魅力とパワーを失わずに輝いていて欲しいし、その地域の伝統がこれからも末永く承継されていくことを祈りたい。

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祇園祭の「祇園」とは
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戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む
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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
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関連記事

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか

前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。

教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られたことが記されていても、それから後も対立が続いたことについては何も書かれていない。しかし実際には15世紀の後半まで対立が続いたのだが、和約が成立していたにもかかわらず、何故こんなに長い間対立が続いたのかと誰でも思う。

足利義満像
【足利義満像】

Wikipediaの解説をしばらく引用する。
「そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)。
…゜
なおも北朝方は、1412年(応永19年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、1428年(正長元年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84

後小松天皇
【後小松天皇像】

要するに「明徳の和約」は、室町幕府が南朝方から神器を奪い取るために仕掛けた方便に過ぎず、北朝方には、恐らく「両統迭立(りょうとうてつりつ)」などの条件を遵守する意思はなかったのである。「明徳の和約」に従えば、後小松天皇の次の天皇は南朝方でなければならなかったのだが、この約束は最初から反故にされてしまった。

騙された南朝方は黙ってはいなかった。応永21年(1414)に、南朝最後の天皇後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したのだが、この時は室町幕府が南朝方に勝利し和解している。
しかしその14年後の正長元年(1428)、称光天皇の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発したのである。北畠満雅は再び小倉宮聖承(後亀山の皇子小倉宮恒敦の王子)を担いで伊勢で挙兵し、幕府軍と戦って敗死したという。

赤松家系図

その後、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺するという大事件が起きている(嘉吉の乱[かきつのらん]) 。
赤松満祐は領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれて、以降赤松氏は没落するのだが、この赤松氏の残党がのちに復活を果たすこととなる。

三種の神器
【三種の神器(イメージ)】

嘉吉の乱の後第7代将軍に就いたのはわずか8歳の足利義勝だったのだが、嘉吉3年(1443)に赤痢を発症して亡くなってしまう。そしてその2ヶ月後に、南朝皇族を担いで日野有光らが後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入し、天皇暗殺は果たさなかったものの、三種の神器の剣と神璽(しんじ:勾玉[まがたま])を奪い比叡山に逃れる「禁闕の変」を起こしている
日野有光という人物は室町時代の公卿で、応永28年(1421)には権大納言となり、娘は称光天皇の妃となったが、称光天皇の崩御後は不遇となったために南朝方に接近し、この事件で討たれたという。この時奪われた神器については、剣はのちに発見されたようだが、神璽は持ち去られたままとなった。

この事件についてはいくつかの記録が残されているようだが、たとえば『大乗院日記目録』嘉吉3年(1443)九月の記録にはこのような記述があるという。
廿四日、夜、内裏炎。悪党の所為なり。神璽等紛失。南方金蔵主、日野一品入道父子*、その他済々、山門ならびに京都において、殺害されおわんぬ。その夜、主上は密かに左大臣亭に行幸。賢所これに同じ。宝剣紛失。翌日出現。今度の儀、大略は赤松党の所為なり。第参拾七か度炎上。神璽失せおわんぬ。」(森茂暁『闇の歴史、後南朝』[角川選書]p.179-180)
*日野一品入道父子:日野有光・日野祐光父子

「悪党」たちは禁裏に火をかけて比叡山に向かい、僧兵たちに蜂起を呼びかけ東塔根本中堂と西塔釈迦堂にたてこもったが、幕府は朝廷に要請して、「朝敵を討て」との後花園天皇の綸旨を手にして比叡山に届けたことにより僧兵たちは動かず、「悪党」たちは敗北した。

この事件に関与した南朝皇族の名前は史料により異なるが、『看聞日記』*には「南方謀大将、源尊秀と号す」とあり、『康富記』には「後鳥羽院後胤と云々。鳥羽尊秀と号す」とあり、また『東寺執行日記』には「高秀」と記されているという。前回の記事で書いた川上村の金剛寺で祀られている皇子は「尊秀(たかひで)王」だったが、同一人物であるかどうかについては諸説がある。
*『看聞日記』:第102代・後花園天皇の実父にあたる伏見宮貞成親王の日記。

さて、禁闕の変で三種の神器の一つである神璽が失われたのだが、どこにあるかが長い間わからなかったという。しかし、それが吉野にあることが長禄元年(1457)12月に判明する。

大乗院寺社雑事記

興福寺大乗院尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』の長禄元年12月13日の条に、こんな記録がある。
「備中物語る。去る二日、吉野川上において、南方の宮兄弟打たれおわんぬ。頭においては、吉野にて茶(だ)すと云々。神璽南方に御座と云々。但し在所を知らざるものなりと云々。」
(同上書 p.213)
前回の記事で、川上村で匿われていた尊秀王、忠義王が赤松家の旧臣により惨殺されたことを書いたのだが、この日記によると、2人の皇子が討たれた時には、まだ神璽のありかが分かっていなかったようだ。

興福寺別当経覚の日記『経覚私要抄』の長禄2年(1458)4月16日の条にこんな記録がある。

「神璽事、先年内裏焼失の時、賊人これを取り、今に出現せず。しかるに今春、二宮川上において打ち奉りて後、一宮奥に引き籠らる。神器においては川上母公所に預けらる。この段、小川弘光存知せしめ、悪党を入れ盗み取りおわんぬ。よつて小川男の所に置き奉り、京都に注進せしむるの間、近日京都へ入れ奉るべきの由、御下知これあり。当国衆徒・国民等防御せしめ、入れ奉るべきの由、仰せ付けらるの間、越智ならびに五人衆以下警護せしめ送り奉るべきの由、これを経営す。もつてのほかの煩ひなり。一天下霊宝出現、まずもつて珍重珍重。」(同上書 p.214)

この文章によると一宮(尊秀王)はしばらくは生きていたようなのだが、「小川弘光」という人物が、神璽が川上村にあることをつかみ、そこで翌年の4月に「悪党」を入れて、神璽を奪い取ったと書かれている。

かくして、神璽は15年ぶりに京都に戻ったのであるが、前述した嘉吉の乱で6代将軍足利義教を討ってお家断絶となった赤松氏の一族である上月満吉(こうづきみつよし)が後南朝の2皇子を討つ1年ほど前に、決死の覚悟で川上村に向かった記録(『上月記』)が残されている。この『上月記』は上月満吉ら赤松家の一門・旧臣たちが命を賭してお家再興をはかった行動の「末代之証拠」として、事件後21年を経た文明十年(1478)にその経緯を記した注進状で、以下の文章は康正2年(1456)11月3日の出来事を記録している部分である。

「右、御やかたさまへ、ちよくぢやう(勅諚)ならびに上意として、おほせいだされ、御やくそく(約束)のしさい(子細)ありて、南方よしの(吉野)山なんてい(南帝)の両宮へまかりむかひ候。もし御ほんゐ(本意)のごとく仕り候とも、二たび(度)かへるべき事かたく候。」(同上書 p.215)

「御やかたさま」は、赤松一門・旧臣たちが家督として擁立しようとしていた赤松正則のことと推定されている。ここには後花園天皇の勅諚や将軍足利義政の意向に基づき、2皇子が討たれる1年少し前に上月満吉が川上村に向かったのは、ある「約束」があったと明記されている。
この「約束」とは、南帝の2皇子を討ち神璽を取り返した暁には、赤松家を再興させるという内容であったことはほぼ間違いないだろう。

闇の歴史、後南朝

森茂暁氏は著書でこう解説しておられる。
「上月満吉は康正2年12月20日吉野山に入った。大和国宇智郡に到着した30人の名前があげられている。上月満吉の顔も当然そのなかにあった。すぐに攻撃というわけにはいかなかった。神璽のありかも調べなければわからない。赤松の人達は南方宮に取り入り『隙をうかゞひ』(『赤松記』)つつ、情報の収集につとめた。かくして1年後の長禄元年12月2日の夜、『大雪ふり、御油断の時刻を伺ひ、両宮(一宮・二宮)へ二手に成り、一度に攻め入』(『赤松記』)った。上月満吉は、吉野山河野郷にいる二宮の襲撃に加わった。事に直接かかわった仲間は8名だったが、満吉は『二宮頸を討ち奉る』役割を果たした。
上月満吉が、長禄の変の後二十余年も経った文明10年になって、事件を回想し注進状をしたためたのは、自身がこのような役割を果たしたことと、それがひいては赤松家の再興をもたらしたことを後世に書き残しておきたかったからであろう。」(同上書 p.216)

多くの読者が気になったのでないかと思うのだが、『経覚私要抄』にも『大乗院寺社雑事記』にも『上月文書』にも、また『闇の歴史、後南朝』の著者である森茂暁氏も、川上村で討たれた皇子の名前を記していない。

この時代は、当然の事ながらカメラもなければビデオもない時代である。しかも、南北朝時代がはじまってからすでに120年の年月が過ぎていた。北朝方や室町幕府が南朝方の皇子の顔や名前を誰も知らなかったから書きようがなかったなかったのではないだろうか。
もっと言えば、北朝方や幕府にとっては、南朝方が一宮、二宮と呼ぶ二人の子供が、本当に皇統を継ぐ人物であったかについては確認しようがなかったであろう。
しかしながら、後醍醐天皇には数多くの皇子がいて、Wikipediaでは21人もの皇子が記載されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
これだけの数の皇子がいれば、南北朝合一から66年が経過しても「南朝の皇胤」が相当数生存していた可能性が極めて高かったであろうし、南朝方が「南朝の皇胤」を担いで挙兵したという情報に幕府や北朝方が怖れたことは当然のことだと思われる。

しかしながら、長禄の変で殺害された「一宮・二宮」の父親はいったい誰なのか。そんな基本的なことがいまだに分かっていないようだ。なかには中村直勝氏のように、二人が皇胤であることを疑っている学者もいるようだ。

森茂暁氏は、同上書でこう述べておられる。
長禄の変で殺害された一宮・二宮がどのような系譜の南朝皇胤か明確なことはわからない。注進状には『一宮は吉野奥北山御座、二宮は同河野郷。この間、大山を隔つ。通路ありといへども、七八里』とみえる程度にすぎない。その在所より、一宮を北山宮、二宮を河野宮と呼んだであろうことは容易に推測できる。さらに進んで、北山宮を『尊秀王』、河野宮を『忠義王』とする伝もあるようだが、これを裏付ける確かな史料はみあたらない。」(同上書 p.218)

朝拝式

「裏付ける確かな史料が見当たらない」と記されているが、そもそも南朝と別れて120年も経った北朝方に、討たれた皇子が南朝皇胤であることを裏付ける確かな史料などが見つからないことは当然だろう。
前回の記事で、川上村の金剛寺では毎年2月8日尊秀王を鎮魂する朝拝式が558年も続いていることを書いたが、もし長禄の変で惨殺された「一宮・二宮」が南朝皇胤でなかったとしたら、川上村でこんな伝統行事が長く続くはずがないとも考えられるのだ。
川上村の伝承の通り、尊秀王、忠義王とする説が正しいかどうかについては、今となっては確認の仕様がなく、読者の皆さんの判断に委ねるしか仕方がない。

しかしながら、南北朝の合一のあとも南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)との対立が続いたことについては、多くの記録が残されており、史実であることは確実なのだが、なぜ、この後南朝の時代の歴史が通史から抹消されてしまっているのか。

このブログで、いつの時代もどこの国でも、為政者が自らにとって都合の良いように歴史を編集してきたことを何度も書いてきたが、室町幕府にとっても北朝方にとっても、反幕府勢力が「南朝の皇子」を担いで挙兵するようなことが何度もあっては困る事であり、南北朝の合一でもって両統の対立がなくなったことにすることが好都合であったことは容易に想像がつく。
彼らにとっては、南朝皇胤は存在しないことが望ましいと考えたはずだ。だから上月満吉ら赤松家の一族は、後花園天皇の勅諚や将軍足利義政の意向に基づき、長禄の変で2皇子を惨殺したのである。
そして、室町幕府や北朝方は後南朝との血なまぐさい争いを残さないために後南朝の歴史を闇に葬り、公式には南北朝の合一以降は北朝に統一されたとする物語を描いて拡めたのだと考えている。
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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html

金閣寺と足利義満の野望
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白山信仰の聖地を訪ねて加賀禅定道を行く

石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる白山は、古くから山そのものを御神体とする山岳信仰の対象であったが、養老元年(717)に修験者の泰澄(たいちょう)が、白山の主峰・御前峰(ごぜんがみね)に登頂し、翌年に社を築いて白山妙利大権現を奉祀したのち、白山は遥拝の対象から修験の聖地へと変わっていく。

三馬場と禅定道

修行の起点から禅頂(山頂)に登るまでの山道を禅定道(ぜんじょうどう)と言い、修行の起点となる場所を馬場(ばんば)と呼ぶのだそうだが、平安時代になると、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、加賀国白山寺白山本宮を加賀馬場、越前国霊応山平泉寺を越前馬場、美濃国白山中宮長滝寺を美濃馬場としたという。

白山修験は熊野修験に次いで修験道の世界で大きな勢力となっていたが、南北朝時代に高師直が南朝の拠点であった吉野山を攻めて以降は、吉野熊野三山の入峯者が杜絶して白山修験がさらに勢力を伸ばし、全国的に白山信仰が広まっていったという。

加賀国白山寺白山本宮は加賀国一宮とされ、比叡山延暦寺の末寺として勢力を拡大するも、戦国時代に一向宗門徒によって焼き討ちにされるなどして教団勢力は衰えていったが、前田利家がこれを再興させ、以降加賀藩歴代藩主が保護したという。
越後国霊応山平泉寺のも比叡山延暦寺の末寺として勢力を拡大し、最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝えられているが、天正2年(1574)に一向一揆の焼打ちにより全山焼失してしまった。そののち顕海によって復興が進められるも、盛時には及ばなかったという。

しかしながら、明治に入ると全国の修験道の聖地において仏教色が排除され、白山も例外ではなかったようだ。Wikipediaにはこう記されている。
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比咩神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長瀧白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった
。…」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0

一昨年の旅行では美濃馬場であった長瀧白山神社と長瀧寺を訪ねたのだが、今年は白山信仰の歴史と文化を訪ねて加賀禅定道から越前禅定道に抜ける旅行を計画して、先日観光してきた。今回は加賀禅定道の観光地をいくつかレポートすることにしたい。

吹田の自宅を7時過ぎに出て4時間程度で石川県白山市鶴来(つるぎ)に到着して、早目の昼食をとった。白山市鶴来は「平成の大合併」の前は鶴来町と呼ばれ、加賀平野を流れる最大の河川である手取川が造った扇状地の扇央部にあたる地域で、古い町屋が続いてなかなか風情のある町並みである。

食事をすませて、最初の訪問地である金剱宮(きんけんぐう:白山市鶴来日詰町巳118-5  ☎076-272-0131)に向かう。金剱宮は旧鶴来町の守護神で、近年は金運アップのパワースポットとして注目を浴びているという。

金剣宮1

金剱宮の案内板にはこの神社の歴史についてこう記されていた。
鶴来町の古地名は剱(つるぎ)と記し、社名また古く剱宮、剱神社と唱えた。このことは地名と社名が一致した好個の事例である。近世に至って専ら金剱宮と奉称した。
 中世以降白山七社の一に数えられ、内、白山本宮・三宮・岩本と共に本宮四社と称した。
 神仏習合時代本社は隆盛を極め、宝物殿、拝殿、講堂、宝蔵、三重塔、鐘楼、荒御前、糺宮、大行事乙剱(白山荘厳講記録)等、所謂七堂伽藍雲表に聳え、神官社僧多く剱白山の神碑と衆従と号して勢力を有した。
…」

金剱宮は神仏習合の時代に隆盛を極めて、寿永2年(1183)に木曽義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝して鞍置馬20頭を寄進したことや、文治2年(1186)に源義経が奥州に落ち延びる途中にこの神社に参拝したことが記録に残されているようだ。

しかしながら、金剱宮は中世を通じて白山本宮(現・白山比咩神社)と勢力を張り合い、享禄4年(1531)に起こった一向一揆の内部分裂(享禄の錯乱)のときに金剱宮は焼き払われたはずだし、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈で仏教に関わる多くの施設が失われたはずなのだが、案内看板には一言も触れられておらず、多くの神社と同様にキレイごとだけが記されている。

金剣宮2

金剱宮社殿の背後には、県天然記念物に指定されているウラジロカシの林がある。ウラジロカシはかつて手取川峡谷をはじめ県内に広く分布していたのだそうだが、今ではほとんど見ることができなくなってしまったという。

金剱宮から2kmほど南に行くと、加賀禅定道の起点である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ:白山市三宮町二105-1 ☎076-272-0680)がある。

この神社も奈良時代に修験者の泰澄が開いたと伝わっているが、その後天台宗系の神仏習合が行なわれ白山寺(しらやまでら)と白山宮(しらやまぐう)が併存し、比叡山延暦寺の権威を背景に勢力を拡大していき、最盛期には本殿・拝殿のほか、講堂・法華常行堂・新十一面堂・五重塔など40を超える堂塔が並んでいたという。

しかしながら加賀国では浄土真宗や日蓮宗が急速に拡がり、また文明12年(1480)の大火によって40余りの堂塔伽藍がことごとく焼失してしまい、さらに天文23年(1554)には白山が噴火して白山信仰は凋落していくのだが、正親町天皇が白山宮再興を期待する綸旨を下し、文禄5年(1596)に前田利家が現在地に白山本宮を再興させて、以後加賀藩の歴代藩主が当社を祈祷所として保護したという。

白山ひめ神社宝物館

鳥居を潜るとすぐ右に在る宝物館には、鎌倉時代の木造狛犬(国重文)や、『白山縁起』『三宮古記』『神皇正統記』(いずれも国重文)や藩主・前田家ゆかりの品々が展示されていて結構見ごたえがあった。

宝物館から表参道を歩くと推定樹齢800年といわれている大きなケヤキの木がある。この木は白山市の天然記念物に指定されていて、根元の周りは12m、樹高は42mもあるのだそうだ。

白山ひめ神社

神門を抜けると立派な外拝殿が見えてくる。その後ろには幣拝殿、本殿までが一直線に並んでいる。

明治時代初期までは裏参道に本地堂や長吏(ちょうり)*屋敷が立ち並び、白山寺の中心をなす景観があったのだそうだが、神仏分離政策によって撤去されて、今は社だけが残されている。本地堂は、白山市木津町の白山社社殿として移築されて今も残っているのだそうだ。
*長吏:神仏習合の時代は白山本宮は白山寺という寺院と一体になっており、その全体を統括する最高の位を長吏と呼んだ。

森田平次肖像

石川県は、15世紀の一向一揆以来浄土真宗が強くて、露骨な廃仏毀釈を進めることはできなかったようだが、白山信仰施設の神仏分離に対しては、門徒農民は抵抗しないと見極めて、徹底的に行われたという。石川県の神仏分離の采配を振るったのは、平田神道の理論を奉じていた森田平次という役人だそうだが、次のURLに白山本宮の仏教施設の破却が詳しく解説されている。
http://japan21.info/hakusann.html

維新直前までの白山本宮は、加賀馬場の本拠としての白山寺が中心であった。社殿のほかに白山護摩堂と呼はれた本地堂が本殿の北にあり、それを囲んで地蔵堂・長吏屋敷・大居間などが威容を誇っていた。参道手洗水の上には露座の地蔵尊が安置されてもいた。明治二年(1869)、まず本地党が石川郡林中村へ売られ、十一面観音はじめ諸仏像や仏画類は金沢の真言寺院波着寺などへ移された。地蔵堂は破壊、長吏屋敷も地元の農民に解き売りされ、跡は水田となる。そのはかの仏像・仏画・経典や鐘楼・梵鐘・鰐口など、仏教臭をとどめるものはすべて惜しげもなく破却されてしまったのである。」

鳥越城跡案内図

白山比咩神社をあとにして、鳥越城跡に向かう。鳥越城は織田信長による加賀一向一揆討滅に抵抗するために手取谷一向宗の組織である「山内衆」の指導者鈴木出羽守によって築城されたそうだが、天正8年(1580)に織田方の柴田勝家軍によって落城し、「山内衆」の鈴木一族は滅ぼされ、その後この城は逆に織田軍による一揆掃討の拠点となったという。

しかし、翌天正9年(1581)に上杉景勝軍が越中に侵攻すると、山内一揆勢が呼応して鳥越城を奪い返しているのだが、天正10年(1582)に織田方の佐久間盛政による反撃で再びこの城は陥落してしまう。そしてその後も一揆勢は抵抗を続けたのだが、徹底的に掃討されて、最後まで抵抗した数百人が磔に処せられたという。加賀の一向一揆は教科書などでイメージしていたよりかは、はるかに激しい戦いであったようだ。

鳥越城址

城址は鳥越城山の頂上付近にあるが、有難いことに本丸のすぐ近くまで車で行くことができ、駐車場もある。城址は国の史跡に指定されていて、櫓門と城門が復元されているが入場料は不要で、自由に散策することが出来る。上の画像は復元された本丸門と桝形門である。

一向一揆歴史館

鳥越城址から鳥越一向一揆歴史館(白山市出合町甲26番地 ☎076-254-8020)に向かう。ここでは白山麓における一向一揆の歴史を解説する映像が上映されているほか、鳥越城址、二曲城址からの出土品などの展示がなされている。

手取峡谷 黄門橋

ここからすぐ近くに手取峡谷がある。最初に、白山消防署(☎076-255-8119)の横にある駐車場に車を停めて、黄門橋から峡谷を眺める。かなり雨が降った後なので手取川の水は黄濁していたのはやむを得ない。

さらに3kmほど南に進み、吉野郵便局(☎076-255-5033)の手前を右折すると不老橋があり、そこからの眺めも有名で良く紹介されているのだが、ここまで来たら綿ヶ滝が見たくなる。
不老橋を渡ったのち左折して県道178号線を進むと、「手取峡谷(綿ヶ滝いこいの森)」の案内標識があり、そこを左折すると綿ヶ滝の駐車場がある。

手取峡谷 綿ヶ滝

車を停めて滝に進む階段をしばらく下りていくと迫力満点の綿ヶ滝が見えてくる。川の水がエメラルドグリーンである時に、もう一度この滝を見たいものである。

道の駅瀬女(せな)で、とちの実ソフトクリームを食べて休憩をとったのち、近くの手取湖に向かう。

手取湖

手取湖は石川県最大の河川である手取川にダムを建設することによって形成された人造湖である。手取川ダムは北陸地方最大のロックフィルダムで、手取川の治水と金沢市・加賀・能登地方への利水、および出力25万キロワットに達する水力発電を目的とする多目的ダムであるが、このダムの建設にともない、尾口村・白峰村の330戸・322世帯が水没してしまったという。
ダム建設で水没予定地に入っていた白峰村桑島にあった石川県下最大級の民家である杉原家は、白山市白峰にある白山ろく民俗資料館に移築されたのち石川県指定有形文化財となっているが、ほかにも価値ある建物が少なからずあったのかも知れない。

夕刻になったので、初日の観光を切り上げて宿泊先のホテル八鵬に向かう。

ホテル八夕食鵬

上の画像はホテルの夕食だが、ニジマスやイワナや堅豆腐、油揚げなどを炭火で焼く炉端焼きやニジマスの刺身など白山の自然あふれる料理はどの品も旨かった。
古い建物ではあったが、食事だけでなく、純重曹泉(ナトリウム・炭酸水素塩水)の温泉も素晴らしく、何よりもスタッフの方がフレンドリーで笑顔がすてきで、長旅の疲れが吹き飛んだ。

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【ご参考】
今年も郡上八幡踊りが始まりましたが、2年前に郡上八幡からから美濃馬場の白山長滝神社から白川郷、荘川桜、岐阜城などを巡ってきました。良かったら覗いてみてください。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
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郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
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「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
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日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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