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明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと

前回は明治政府の強引な宗教政策に反対して、明治4年(1871)の3月に三河国碧海郡・幡豆郡(特に菊間藩飛領地域)の浄土真宗の僧侶や門徒が起こした『大濱騒動』のことを書いたが、今回は、『大濱騒動』よりもはるかに規模の大きかった明治6年(1873)の『越前護法大一揆』のことを記しておくことにしたい。

『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同様なことは全国の諸藩でかなり強引に実施されたものの、明治政府も神祇省主導による神道を基軸とする民衆教化の限界を知ることとなり、宗教政策の転換を迫られることとなる。

『福井県史』通史編5 近現代一の解説によると、
(明治)五年三月、神祇省を廃止し新たに教部省を設置したが、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線をめざしていた
 …
 教部省は五年四月二十五日、教導職を置いて大教正以下権訓導まで一四級に分け、まず神職・僧侶が任命された。敦賀県下の教導職は、神官が三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという圧倒的な比重を占める(「福井県史料」三四)。このことは、同県では、寺院側とりわけその過半を占める真宗寺院勢力の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示しているといえよう。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm

では、教部省は真宗寺院の勢力を借りていったい何をしようとしていたかというと、相変わらず寺院廃合を推進しようとしていたのである。

越前護法一揆地図

今立町に派遣されたた元僧侶の役人がどのような動きをしたかについて、『福井県史』にはこう解説されている。

「今立郡定友村(今立町)の唯宝寺(本願寺派)出身で、教部省一一等出仕の石丸八郎(還俗前は良厳)が、明治六年(1873)一月、郷里に帰省した。そして地域の寺院廃合や小教院設置の急務を唱え、各寺院に『三条の教則』*を守るよう誓わせたことが、真宗寺院僧侶・門徒農民層の間に、意外な波紋をひき起こした。しかも『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の『護法連判』が行われた。石丸を『耶蘇宗の者』とみなし、『耶蘇』の侵入には、村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm
*『三条の教則』:「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

石丸八郎が郷里で発言した内容が、前回紹介した『神仏分離の動乱』(臼井史朗著)に出ている。
「今般奉伺候通、人民平均ノ趣旨ヲ以、広ク教育撰挙ノ法ヲ設ケ候際ニ当リ、独リ僧侶ニ限リ、従前ノ通リ度外ニ取計置候テハ、藩政改革ノ条理ニ於テ不都合ノミナラズ、一視同仁ノ御政体ニモ適当仕間敷ニ付、漸次平民ニ帰シ候様致シ度、尤苛酷排斥人心ニ関係候筋ニハ不相渉様可仕候間、其処置ハ当藩ノ適宜ニ御任セ相成度、尚処置ノ廉ハ、其節ニ御届可申上候、此段奉伺候、」(『神仏分離の動乱』p.175)

僧侶だけが従来と同様に処遇されるのでは藩政改革が困難であるので、漸次僧侶を還俗させて平民にすると述べているのだが、『大濱騒動』の原因となった服部純の発言内容は異なるものの寺や僧侶を減らすという点では一致している。そして彼の一連の発言が、民衆に非常な不安を与えることとなり、民衆が蜂起するになったようなのだ。

先ほど紹介した『福井県史』によれば「『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝された」とあるのだが、これはいったいどういうことなのか。
『耶蘇』とは『キリスト教』を意味する言葉だが、そもそも元僧侶であった石丸という人物が、なぜキリスト教と結び付けられてしまったのかと誰でも思う。

ネットで見つけた大日方純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文を読むと、石丸八郎という人物は、越前に来る少し前に新政府のキリスト教禁止政策に基づき長崎に派遣されていて、キリスト教宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する「異宗徒掛諜者」の活動をしていたことがわかる。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf
石丸八郎は幕末以来キリスト教排撃運動を展開した人物であり、彼の信仰が『耶蘇』であったはずはないと思うのだが、誰かが口にしたことで一気に『耶蘇』との噂が広がっていき、民衆がとんでもない暴動を起こすことになったのだ。この点については最後に触れることにする。

大野郡での攻撃目標
【大野郡での攻撃目標】

この一揆の激しさは『福井県史』に詳しい。
「三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を『護法連判』の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

三カ条の願書

福井支庁は官憲や旧藩士から募集したメンバーを送り込んで事態の収拾を図ろうとしたが、一揆勢の勢いを止めることはできなかったという。そして一揆勢は次のような「三カ条の願書」を福井支庁に提出したという。
一、耶蘇宗拒絶の事  一、真宗説法再興の事  一、学校に洋文を廃する事

明治維新以降人々は断髪して洋服を着るようになり学校では英語を教えるようになったのだが、その洋風化が仏教への弾圧に繋がり、耶蘇教を広めることに繋がるとでも考えたのであろうか。

今立郡での攻撃目標
【今立郡での攻撃目標】

ところが、8日の夕刻になり、この願書に対する県側の回答が遅れたことから、またもや一揆勢が集合したという。再び『福井県史』を引用する。

「一揆勢が集まり、『大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ』という険悪な事態となった(富永良一郎家文書)。そのため官員は、一旦一揆側の『願書』のすべてを認めるということで、ようやく事態がおさまったのである。また、その場での窮地を脱するための謀計にすぎなかったとはいえ、一揆主導者の処刑は絶対にしないと確約することで、はじめて一揆の徒が退去した点からみて、官側が一揆の猛勢に対して、いかに脅威を抱いたかがうかがわれる
 その後本庁ではただちに、名古屋鎮台と大阪鎮台彦根営所に対し一揆勃発の事情を報告、ついで十一日、名古屋鎮台に至急出兵方を要請し、いよいよ「兵威」による一揆主導者の一斉摘発の準備を進めようとした矢先、同日から隣接の今立郡に大一揆が勃発する。同郡下では、小坂村はじめ近村の農民諸階層による同村戸長富田重右衛門宅に対する打ちこわしが発端となる。そして地域的には、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、… 大野郡の場合とほぼ同様に、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などに対して、破毀焼却のかぎりを尽した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

県は断固武力弾圧の挙に出たことから13日になって一揆勢は四散するも、今度は坂井郡下でも九頭竜川以北の農民が各所で蜂起し、金津・兵庫・森田近辺に多数群集して、約一万人にふくれあがった一揆勢は、福井をめざして進撃したという。そして一揆勢は、大野郡と同様の「願書」を差出したが、それが拒否されると猛然と反撃したのだそうだ。
官側は砲撃による武力制圧で一揆勢の福井侵入を食い止め、さらに主要路を遮断し説諭に努めたことで、一揆勢はようやく四散したという。

県当局は政府に対し一揆鎮定の報告を行ない、大野郡では再発防止の態勢をとった上で、一旦容認した一揆側の『願書』を取り消すとともに、一揆参加者の一斉検挙を開始し、80余人が捕縛され、4月4日に判決で6人が即日死刑に処されている。
県全体では、8439人が処罰され、竹槍や棒などを持参し一揆に参加した者は3円、何も持参せずに参加した者には2円25銭の「贖罪金」が課されることとなり、合計で20,309円もの贖罪金が集まったのだそうだ。この当時の1円の価値については諸説あるが、今の8千円~2万5千円の中間をとっても、3億円を上回ることになる。

越前は古くから浄土真宗の信仰が盛んな地域で、一揆のあった地域では7割以上が浄土真宗の寺であったようだ。明治4年に政府は寺領上地を断行し、寺領を経済的基盤とする寺は大きな打撃を蒙ったのだが、浄土真宗の寺は門徒からの収入で寺の経営が成り立っていたので、経済的な側面からの打撃は他の宗派の寺よりも少なかったという。

ではなぜ、真宗の僧侶や門徒達はここまで激しく闘うことになったのであろうか。

真宗の場合は寺のほかに道場があり、多くの場合道場は、村に住む「道場守」によって維持管理されていた。その道場守に対して県は、正規に寺に所属するか、脱衣蓄髪して民籍に入るかの選択を迫り、道場も廃寺の対象にしたことから、宗教施設としての存続の危機に直面することになった。

足羽県地図

また明治5年3月から政府に教部省が置かれて、神官・僧侶を「教導職」として採用し、「教導職」を通じて敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説かしめ、国民教化を行なおうとした際に、たとえば足羽県(あすわけん:越前国北部)では僧侶による説教を禁止してしまっている。

以上の二点が、真宗の僧侶や門徒が不満を持つに至った理由と伝えられている。

『福井県史』の解説がわかりやすいので、再び引用させていただく。

天皇の絶対権威のもとに、西洋文明を範とする合理主義を唱える『開化』の立場からは、極楽往生という来世への安心を信仰の核とした真宗門徒の生活態度こそ、まったく否定すべき『頑民』『愚民』の『弊習』にほかならなかった。しかも、真宗門徒の間では法談・説法などの日常的な信仰活動がさかんであったことが、いっそう非難の的を大きくする結果を招いた。二十三年にまとめられた『福井県農事調査書』でも、真宗がさかんな坂井郡の農民について、『彼ノ約束説(極楽往生)ニ拘泥シ、甚タ活発ノ気象ニ乏シク……勤倹勉励ノ風、頗ル薄ク、夜業等、近時ニ至ルマテハ殆ント絶無ノ姿ナリシ』と評価を下し、真宗に帰依する生活態度を農業生産の向上を阻害する『欠点』としている。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-05-01-05.htm


撮要新聞

当時この地域で発行されていた『撮要新聞』には、仏教や僧侶の活動を公然と批判し、排仏の論調を鮮明にしていたという。このような論調は、政府や県の意向を反映したものではなかったか。
『福井県史』に、同紙のこんな記事が紹介されている。
「『数百年来、仏法蔓延』した越前において、僧侶は『此有難キ文明開化ノ秋ニ当テ……徒ニ愚民ヲシテ、益々愚ニオトシ入レ』」るものとして、特に勢力を保っていた真宗と日蓮宗に避難の矛先をむけた。」

明治政府は、西洋文明を模範としてわが国の西洋化を推進しようとしたのだが、その目的を達成するためには、仏教の教義や人々の信仰生活などは排除すべき存在であったのだろう。
教導職の石丸八郎は『耶蘇教』を奉じていたわけではなかったのだが、彼が故郷に戻って伝えようとした西洋的な考え方は、熱心な浄土真宗の僧侶や門徒が受けいれられるものではなかったようである。

明治維新後洋風化が進み、暦も太陽暦に改められ、税制も大幅に変わるなど人々の生活が一変し、伝統的な生活が壊されていくことの不安もあったと思うのだが、そんななかに石丸八郎が教導職として赴任してきて、さらなる西洋化を進めようとし、寺の説教までもが禁止されてしまった。
「(石丸八郎が)耶蘇ヲ勧ムルナリ」という噂が広められたのは、人々を糾合させるための方便であった可能性が高いと考えるのだが、彼が推し進めようとしたことは真宗の僧侶や門徒たちの伝統的な信仰生活を冒すものであったことは確実である。だからこそ、人々は村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を立てて、立ち上がったのであろう。
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【ご参考】
明治時代の初期についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-458.html


関連記事

キリスト教国を相手に開国したわが国がキリスト教を禁止し続けた矛盾

江戸時代の末期に、わが国は米国からの要求をきっかけに西洋諸国に門戸を開くようになり、通商条約が結ばれたことで各国の外交使節と共に多くの宣教師が来日している。

大浦天主堂
【大浦天主堂】

横浜には1862年に聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)が建てられ、1865年には長崎に大浦天主堂が建てられたのだが、二百数十年にわたり『隠れキリシタン』として代々人目を忍んで信仰を守り続けていた浦上村の村民たちが、大浦天主堂を訪ねてキリスト教を信仰していること表明したという記録がある。彼等はのちに江戸幕府の指令により、多数捕縛されて激しい拷問を受けたという。

その後江戸幕府が崩壊して、明治新政府はこの浦上の『隠れキリシタン』たちとどう向き合ったのか。

五榜の掲示
五榜の掲示

明治政府は五箇条の御誓文が出された翌日(慶応4年[1868]3月15日)に、全国各地の高札場に『五榜の掲示』と呼ばれる高札を掲示し、その第三札にはこう記されていた。

切支丹邪宗門の儀は堅く御制禁たり。若し不審なるものこれ有れば、その筋の役所へ申し出づべし。御褒美下さるべき事。」

普通に読めば、キリスト教は邪悪な宗教であると明治政府が断定したような文章なのだが、この第三札が欧米各国から激しく非難されることになる。いうまでもなくそれらの国々はいずれの国もキリスト教を奉じており、国教を邪教扱いされて外国人が激怒したことは当然であろう。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大正11年に出版された『近世日本基督教史』(山本秀煌著)が公開されていて、その第5章に、各国からの厳しい批判を明治政府が如何に切り抜けたかが記されている。面白いので紹介しておこう。

五榜の掲示 第三札
五榜の掲示 第三札(変更後)】

「苦心惨憺・鳩首協議の末、漸(ようや)くにして一つの名案を按出せり。即ち切支丹と邪宗門とを引き分かち、告示中切支丹邪宗門と記せしは切支丹を邪宗門なりと言う意義に非ず、切支丹または邪宗門という意味なりとの曲解的、頓智的の弁解をなしてこの難関を切り抜けたり。…
かくて、高札は…書き改めて掲示せられたり。
一 切支丹宗門之は是迄御制禁之通固く可相守事。
一 邪宗門之儀は固く禁止之事。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/359

明治政府は、「キリスト教は邪教であるという意味で書いたのではなく、キリスト教あるいは邪宗門はという意味で記したものだ」と苦しい言い訳をしてこの難局を乗り越えたのだが、かといって明治政府がキリスト教を禁止する方針を変えたわけではなかった。

また、『五榜の掲示』第三札のなかで、キリスト教徒らしき人物を見つけたら役所に密告することを奨励している部分が削除された点も重要な変更部分なのだが、その代りに明治政府は、宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する目的で「異宗徒掛諜者」を長崎、大阪、東京、横浜、函館に送り込んでいる。その中には浄土真宗の僧侶が少なからずいたようだが、キリスト教の広がりを早期に阻止することは本願寺にとっても望ましいことであり、恐らく本願寺は、危険な仕事に協力することで明治政府に貸しを作る目的があったのだと思われる。

前回の『越前護法一揆』の記事で書いた石丸八郎という人物も浄土真宗の寺の出身者で、この頃に新政府より長崎の「異宗徒掛諜者」に任命された一人なのだが、実は西本願寺も以前から同様な活動をしていて、1868年に「破邪顕正出国掛」として彼を長崎に送り込んで地域の探索・工作活動を行なわせていたという。

しかしながら、いくら内部情報を収集したところで、キリスト教が広がっていく勢いを止めることはできなかったようだ。大日向純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文によると、1871年時点で長崎周辺の天主教(カトリック)信者はすでに千人を超えていて、全国では万を超えていたというから、開国以後キリスト教は着実に信者を増やしていたのである。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf

ところが明治新政府は、当初は天皇陛下による祭政一致の旧態に戻ろうと考えていたため、仏教に対してもキリスト教に対しても厳しいものとならざるを得なかった。仏教に対しては、廃仏毀釈を推し進めたことをこのブログで何度も書いてきたので繰り返さないが、キリスト教に対してはどうであったかが気になって長崎・浦上の隠れキリシタンについて調べてみると、明治政府は想像した以上に厳しい処分を下しているのに驚いてしまった。

浦上4番崩れ

Wikipediaの解説によると、
「(慶応4年閏4月17日)太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された。5月20日木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降明治3年まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

長崎で捕縛されたキリスト教信者を流罪にするという風説が流れた時点で、明治政府は欧米諸国から強硬な抗議を受けている。

この点について、明治政府が大阪本願寺にて外国公使と談判した様子が『近世日本基督教史』に記されている。

パークス

「(英国公使)パークスは、宗教と道徳とは宇内共通のものにして、文明諸国はいずれも皆信仰の自由を承認せざるはなし。然るに今日本においては無辜の民を罰する法律を作り、真理を遮断するの関門を設けるとは何事ぞ。…日本政府は速やかに今回捕縛したる教民を赦免し、耶蘇教の禁を解くべしと強請したり。これに対して大隈大八郎は、わが国には数百年来養いきたりし習慣ありて事情耶蘇教を公許する能わず。…わが国には古来より切支丹禁制の法律有、わが国の法律を以てわが国の人民を処分するに決して外国の干渉を受くべき理由なしと撥ねつけたり。…パークス怒りて他国の好意を一笑の下に排斥せんとす。日本前途知るべきなりと憤慨し、激論数刻、午前10時より開始されたる談判はその進むに従って弁難攻撃ますます激しく、昼飯も喫せずして夕刻に達し、遂に何等まとまりたる事無く、喧嘩別れとなれりとぞ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/361

しかしながら、明治政府は列藩の意見を徴集した結果、長崎で捕縛されたキリスト教徒の流罪処分が断行されることとなる。新政府にとっては、祭政一致の国家を実現するためには、キリスト教に対する信仰を根絶させねばならず、いくら説得しても棄教しない者は厳刑に処すしかないとの考えであった。

そこで英国公使パークスは、米・独・仏・蘭の4か国公使とともに、信徒処分に関する抗議書を明治政府に提出している。そして明治政府は、明治2年(1869)12月に5ヶ国公使を集めて再び談判している。
この会議における各国の発言内容が『近世日本基督教史』に詳しく紹介されているが、要するに各国公使は浦上村信徒の流罪を中止すべきであるとし、政府はキリスト教を許可すれば神道を基礎とする政府を維持することが出来なくなると論じて、議論は平行線であった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/365

冒頭で英国公使パークスがこう述べている。
キリスト教は我が国民の宗門でこれあり候。思うに何様なる儀が英国に知らるる時は面白からぬ結果を生じ、最も非友誼的の所為と見なさるべし。もし、これら人民中の幾人かが曲事をなせしならば、これを罰せられて可なり。されどその刑罰を家族と数千人の上に及ぼすは、吾人の正義より見たる見解に反する事と存ず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/366

キリスト教徒にとっては、キリスト教を奉じているということだけで流罪に処せられることは極めて不愉快なことであり、野蛮な行為にしか見えなかっただろう。

岩倉具視

談判の席で岩倉具視はこう述べたという。
「政府が日本において切支丹宗を禁ずるは、これに反対する故にあらず。これより大なる困難の起こるを予知すればなり。たとえば百人の中一人にても切支丹宗を信ぜば人々の心一致せずして分れ分れとなるべし。以前は切支丹宗に対する法律頗る峻厳なりしが、今は前よりも三四等も軽くなりぬ。しかしながら我らはこれを信ずることを一般に許可する能わず。…彼らが天皇陛下の宗門に従い、政府の権威に服せばこれを罰すべき理由なし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/368

明治政府は多神教である日本神道に天皇を中心に据えて国を治めようとしたわけだが、キリスト教徒は神社や天皇に敬意を示すことが無いので認めるわけにはいかないという。
明治政府が広めようとした神道はいわば一神教のようなもので、異質なものを極力排除しようとした。岩倉らはそのために、国是であるキリスト教の禁教を守ろうとしたのだが、この考え方は神仏分離・廃仏毀釈にもつながるものである。

近世日本基督教史

『近世日本基督教史』を読み進むと、明治初期の思想潮流の変化をこのように表現している。
「地の東西を論せず、時の古今を問わず、世界何の邦に於いても其の中には進歩・保守両主義の相対峙するありて、政治に、宗教に、文学に、その他百般の事物の上に互いに軋轢消長するを見る。我国維新前後の政界はその衝突の最も甚(はなはだ)しき時代なりき。所謂(いわゆる)進歩主義者は尊王討幕・開国外交・旧物の破壊、百事の改革を標榜して勇往邁進せんとし、保守主義の人々は尊王攘夷・旧物の保存、百時復古の旗幟を押し立ててこれに対抗し、反目睨争互いに消長する所ありしが、この両主義は宗教問題に関してゆくりなくも、期せずして、一時合致の行動をとりぬ。…神祇官の設置、排仏毀釈、基督教禁制これなり。されど吾人はその合致は一時的なりと言う。何となれば既に其の根本主義において世界的となり、人道的となりうべき要素を備えたる進歩党は、到底偏狭なる尊王、頑迷なる愛国をもって満足すべからざればなり。…果たして彼らは宗教問題において、就中(なかんずく)基督教に対する態度に於いて意見を異にし衝突し始めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/356

維新政府の中の進歩派も保守派も当初はキリスト教禁教であったのだが、浦上の信者を流罪に処すことで諸外国が一斉に抗議するに及び、進歩派の態度が変化していったという。

「彼らは思えらく、浦上信者は天主教なり。これに関係ある宣教師は仏蘭西人なり。而して新政府の最も親交ある英米は新教国なり。たとえ旧教徒たる浦上信徒を迫害するも英米諸国の賛成するところなるべし、よし賛成せざるまでも傍観の態度に出べしと。然るに、意外にも、英米公使が率先して厳しき抗議を申込みしのみならず、その言明するところにも首肯すべき点多かりしかば、宗教問題は容易ならざる難件なるを認め、…外国と交通する以上は耶蘇教と雖も之を容れざるべからずとの急進の説をさえ懐くもの起こるに至りぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/407

浦上の隠れキリシタンの宣教師は旧教(カトリック)なので、政府と親交のあった新教(プロテスタント)国の英米は傍観の態度に出ると考えていたのだが、英米は浦上教徒の処分に強く抗議したばかりではなく、主張する内容も進歩派にとっては納得できるものであったことから、英米両国に対する信頼度が高まるとともに、キリスト教に対する態度が次第に寛大になっていったという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/427

岩倉使節団

ところで、政府は明治4年(1871)11月に、右大臣岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈し、海外文明の情況を視察させている。
この時期に欧米に使節団を送り込んだ理由は、江戸時代の安政期に欧米15か国と結んだ通商条約の協議改定期限が半年後に到来するので、その予備交渉を行ない、併せて政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいがあったとされる。

岩倉使節一行は同年12月4日にサンフランシスコに入り、翌年1月21日に米大統領に接見し、国務卿フィシュと条約改正について談判を開始したのだが、その席で国務卿はこう述べたという。
「『日本が治外法権を撤去せんことを望まるるは固より正当のことなり。されど我が合衆国民をして貴国の治下に立たしむるに先んじ、貴国の法律制度を調査せざるべからず。聞く貴国は基督教を禁ぜりと。果たして然らば此れは由々しき大事なり』とて、進んで宗教制度及び基督教禁制高札に関して質す所ありしかば、大使は之に答え『我国数百年の仕来(しきたり)に従い、切支丹禁制の高札は未だ撤去せざるも、此の数年来は禁制を施行したることなく、今や高札は死法にして宗教上の信仰は自由なり』と言いしに、デロング公使は傍らよりこれを遮り最近神戸にありし市川栄之助夫妻捕縛事件を挙げて大使の答えを難じ、条約改正に先んじて高札撤去を断行せざるべからずの理由を詳論せり。大使らは…切支丹禁制の条約改正に大妨害たるを覚り、高札撤去に黙諾を与えしものの如し。明治5年4月大久保・伊藤両副使が米国より中途帰朝して、我が政府の廟議を求めたる個條中に(次の)言あるを以て知るべし。
一 日本の法律中に外教の明禁なしと雖も、尚高札にその禁令を掲示するを以て外人は一概に自由親交を妨ぐるの野蛮国と見做し、対等の権を許すことを甘んぜず。故に此の高札の禁令を除く事』とあり、而して廟議は之に対して異論なかりしが如し。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/429

岩倉使節は米国から欧州に向かっているが、そこでもわが国のキリスト教徒迫害が問題とされたようだ。副使の伊藤博文は日本政府に宛てて次のような文章を残しているという。
吾人は行く所として切支丹追放者と信教自由との為に外国人民の強訴に接せざるはなし。思うにこの際前者については速やかにこれを解放し、後者に関しては幾分自由寛大の意向を表明せずんば、到底外国臣民の友誼的譲与を期待すべからず
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/430

キリスト教国からすれば、わが国がキリスト教禁教を国是とし、キリスト教徒であることを理由に捕縛し流罪に処すことはとんでもないことなのだが、そんな国がキリスト教国相手に条約改正を交渉するなどは論外だという意識であったと思われる。
もし条約改正がなされたとしたら、キリスト教国の同胞が我が国で罪を犯した場合に、非キリスト教国であるわが国が作った法律で裁かれることになる。キリスト教を信じているというだけで一族全員が流罪にされるような国が作る法制度をそもそも信用して良いのかということになるだろう。その疑念を覆すには、わが国がキリスト教を解禁して欧米諸国並みに法律が整備されることがどうしても必要であった。

しかしながら、明治6年(1873)にキリスト教禁止が解かれ、その後国内法が整備されてからも不平等条約の改正交渉は続き、条約改正が実現したのは明治44年(1911)のことである。
これだけ交渉が長引いたのは、明治政府の初期の宗教政策でキリスト教徒を流罪にして欧米諸国を激怒させ、その時に彼らが抱いたわが国のマイナスイメージを払拭させるのに随分時間がかかったと理解すればよいのだろうか。

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【ご参考】
このブログで、条約改正に関連してこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-303.html

英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-304.html

条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-305.html

陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-306.html



関連記事

戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由

学生時代に、応仁の乱ののち下剋上の風潮が生まれて、諸国には実力によって領地を支配する大名が次々と生まれて互いに争う時代になったと学んだのだが、なぜこのような戦争を繰り返す世の中になったのかが良く分からなかった。戦国時代の軍隊の大多数は足軽で、彼らのほとんどは農民で戦争のたびごとに駆りだされていたというのだが、農業という重要な仕事を持ちながら、多くの農民が戦いに参加したのはなぜなのか。

小説やドラマでは戦国時代を戦国大名の領土拡張戦のようにとらえ、歴史書も大名にスポットを当ててこの時代を描いているのがほとんどなのだが、そのような叙述が戦国時代の実態を伝えているわけではないと、最近では考えるようになった。

雑兵たちの戦場

以前このブログで紹介したが、立教大学名誉教授藤木久志氏が著した『雑兵たちの戦場』にこう記されている。

凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)

「雑兵(ぞうひょう)」というのは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったという。
雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多かったという。

引用した藤木氏の文章の冒頭に「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世」とあるが、この部分はこの時代を読み解くのに重要な部分だと考えている。

日本気象予報士会東京支部長の田家康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』という論文がネットで公開されている。ここにはこう記されている。

一四二〇年代から、冷夏・長雨による飢饉の記録が増えてくる。室町時代前期にあたる一三三〇年代から一四二〇年までの約九〇年間で冷害・長雨に由来する全国的な飢饉は一三五六年、一三九〇年、一四〇六年の三回しか起きなかったのに対し、シュペーラー極小期に相当する一四二〇年代から一五三〇年代の約一一〇年間で一一回発生している(表1)。日本の農業の歴史を振り返ると、灌漑設備や水利管理の充実によって干ばつ対策は進んできた。しかし、冷害には脆弱であり、この課題は今日でも引きずっている。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

東南アジアの夏の平均気温推移

シュペーラー極小期」というのは15世紀から16世紀にかけて太陽活動が低下した時期のことで、太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだという。

シュペーラー極小期」の始期と終期については諸説があり、Wikipediaでは「1420年頃~1570年頃(1450年頃~1550年頃とも)」と書かれている。
太陽活動が低下すると穀物等の収穫量が減少し餓死者が増大することになるのだが、わが国における「シュペーラー極小期」は応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起ったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発していた時期であることが容易に確認できる。

広域の飢饉発生年とその要因

飢饉の原因となるのは太陽活動の低下(冷夏)ばかりではない。干ばつもあれば大雨による洪水もあり、虫害もその原因となりうる。
たとえば天文8年(1539)に発生した大雨・洪水とイナゴの大量発生、さらに翌年の春には再び大雨・洪水が発生して食糧不足となって各地で餓死者が続出し、疫病も流行して多くの死者が出たという。

Wikipediaには、この「天文の飢饉」についてこう解説されている。
「醍醐寺理性院にいた僧侶厳助の日記『厳助往年記』によれば、京都では上京下京合わせて毎日60人ほどの遺体が遺棄されていたことや誓願寺にて非人施行が行われたことなどが記され、『七百年来の飢饉』『都鄙で数千万人の死者』と評している。数千万の死者は過大であるとしても、当時の社会に与えた影響の大きさを物語っている。
当時は戦国時代の最中で朝廷も室町幕府も飢饉の救済にあたるだけの政治的・財政的な措置を取ることが困難であった。そのため、朝廷では写経を実施し、幕府は北野社や東寺にて施餓鬼会などの祈祷を行わせる命令を出して、飢饉の対策とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89

いつの時代もどこの国でも、天候異変などで食糧が絶対的に不足した時には多くの餓死者が出るだけでなく、生き残るために食糧や財貨などを奪い取る争いが起こってもおかしくないだろう。
わが国において、この時代に「濫妨狼藉」が各地で何度も発生しているのだが、先ほど紹介した田家康氏の論文には、このように解説されている。

「一六世紀後半になると再び気温が大きく低下した。上杉謙信の関東出兵は一五六〇年から一五七四年にかけて一二回を数えたが、このうち八回は秋から冬に出陣し関東平野で越冬している。収穫期を狙ったもので、越後から連れてきた人馬の食糧確保が大きな目的であった。城を攻め落とすと戦場で人身売買も行われた。武田信玄も飢饉発生の直後に南信濃、北信濃への遠征を行っている。『甲陽軍鑑』には、侵略した地域での「乱取り」(掠奪)の状況が描かれている。
 西日本でも同様であった。一五七八年から一五八六年にかけての薩摩軍の豊後侵攻を目撃したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、この国の戦争はいつも「小麦や米や大麦を奪うためのものだ」と語っている。町や村を破壊して財貨は略奪され、「苅田」により農作物が刈り取られる光景に驚きを隠さなかった。
 室町時代後期から安土桃山時代の間、武力を用いて自力救済をはかるという発想は、日本全国で支配者層から農民・流民に至るまで満ち満ちていた。天下を統一した豊臣秀吉は、この高ぶるエネルギーの鎮圧を目指した
。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=5

甲陽軍鑑

武田軍が信州に攻め込み、大門峠を越えて敵地に入り、ここで7日間の休養が告げられて陣中の者が喜び勇んで「乱取り」した状況が甲斐・武田家の軍書『甲陽軍鑑』に記されている。『甲陽軍鑑』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読み下し文が公開されているので該当部分は誰でもネットで読むことが可能だが、ちょっと読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240963/95

要するに武田軍の雑兵たちは一帯の民家を襲って「乱取り」を働き、田畑の作物を奪う「苅田」に熱中し、初めの3日間で近辺を荒らし回ると、4日目からは遠出をして朝早く陣を出て夕方に陣に戻るという大がかりな乱取りを始めたのである。
しかし武田軍の三人の侍大将の夢枕に諏訪明神の使いという山伏が現われて、「乱取り無用」という信託を告げ、侍大将達は以降「乱取り禁止」を命じたので、それ以降信濃の人々は被害を免れたと書かれている。

このような「乱取り」は信州だけでなく全国各地で起こっている。たとえば、九州に関して藤木久志氏は前掲書にこのような事例を挙げている。
「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このような記録を読むと、雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ちかえることの方を優先していた掠奪集団が少なからずいたことが見えてくる。

では、彼らがどのようなものを戦利品にしていたかというと、食糧以外にも武具や財貨や家財や牛馬のほか人間も対象にされていた記録が各地に残されている。人間を拉致したのは、自分の召使いにしたり、身代金を獲ることが主な目的で、女子供が狙われることが多かったようだ。

また九州では、以前このブログでも書いたように、島原半島に人身売買の市場が存在し、そこから東南アジアやヨーロッパ、南米に送られていたことを知らねばならない。特に東南アジアでは日本人男子は傭兵として高く評価され、ポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を購入していたこの時代の記録が多数残されているのだ。

しかしながら「シュペーラー極小期」は終りを告げて、穀物の収穫も改善の兆しが出てきた。にもかかわらず濫妨狼藉が続いて、これをいつまでも放置していれば人々は安心して生きていけないし、争いが続いて国力が衰えていくことは誰でもわかる。当時のポルトガルやスペインはわが国を植民地化することを虎視眈々と狙っていたので、国を守るためにはこのようなつまらぬ争いを誰かが止めなければならなかった。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は天正15年(1587)頃、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止し(喧嘩停止令)、さらに『伴天連追放令』を出して海外に日本人を売ることを禁止している。(『天正十五年六月十八日付覚』)
また天正16年(1588)に『刀狩令』を出して農民の帯刀を禁止して没収し、天正18年(1590)には『浪人停止令』で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出し、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示している


わが国を統一してしかるべき地位に就いた者しか為し得ないことを、豊臣秀吉が適切に実施したことで、誰もが安心して暮らせる社会を実現させる道を開いたことはもっと高く評価して良いと思う。

大坂夏の陣図屏風

しかしながら、秀吉の出した一連の命令で濫妨狼藉が完全に消滅したわけではなかったようだ。
大阪城に展示されている『大坂夏の陣図屏風』の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。戦いのどさくさで他人の財物を奪うことの味を占めた者を矯正することは、いつの時代もどこの国でも容易ではなさそうである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html



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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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