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飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か

前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。

応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。

馬借 『石山寺縁起絵巻』
【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】

Wikipediaにはこう解説されている。
「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借*が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行わせた。…
室町幕府はこれに窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。
尋尊の『大乗院日記目録』には、『正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。』と記載されている。」
*馬借(ばしゃく):馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86

徳政」というのは為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行のことを指すが、ここで土民らが求めたのは朝廷・幕府が土倉などの金融業者に対して債権放棄を命じる「徳政令」の発布である。
『正長の土一揆』においては、徳政令は出されなかったものの、土倉らが持っていた借金の証文が破棄されたために(私徳政)、徳政令が出されたのと同様な結果となったという。

次に大きな土一揆が起ったのは、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺するという大事件が起きたあとの混乱期に起こっている(嘉吉の土一揆)。この時も飢餓難民たちが京に向かって、徳政令を要求している。

前回の記事で紹介した藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

徳政条々木札 大嶋奥津島神社
【徳政条々木札 大嶋奥津島神社】

「この京の政治と治安の空白のさなか、土一揆は『代始めの徳政には先例がある』と叫んで(『建内記』)、またも代替りの徳政を強行しました。飢餓を背景としたこの土一揆も、近江(滋賀県)など周縁の村々から、きそって京を襲います。すでに湖東の荘園では、地域に負債の解消を宣言する徳政の木札(大嶋奥津島神社蔵)が、村役人たちの手で掲げられていました。
 京を守る侍所の京極軍は、これを東山の清水の坂で阻止しようとして、激しい『矢戦(やいくさ)』になります。しかし、武装した土一揆の大群は圧倒的に優勢で、軍の犠牲者は五十余人にのぼったほどでした(『東寺執行日記』)。それは、幕府の大名軍の多くが播磨(兵庫県)の赤松攻めに出勤し、京はほとんど無防備になっていたからで、…『赤松打たれ、徳政行く』(『宝林寺年代記』)といわれていたほどでした。
 徳政をさけぶ土一揆は『四辺の土民蜂起』とか『土民数万』といわれ、東は近江の坂本・三井寺から、南は南郊の鳥羽・竹田・伏見から、北は嵯峨・仁和寺・賀茂辺からと、周縁の村々から武装して京に押し寄せます。彼らは五条の法華堂をはじめ京の街を襲い、放火・掠奪するなど、自力で私徳政を強行したのです(『建内記』)。」(『飢餓と戦争の戦国を行く』p.62-63)

土一揆勢は北野社、太秦寺、清水、東福寺など少なくとも16か所に陣地を作り、日ごと有力な高利貸(酒屋・土倉・日銭屋・寺など)を襲ったという。そのころ京には土倉・酒屋は600軒以上あったと考えられているが、それらが相次いで土一揆に襲われたのである。そして、土一揆勢は京の経済を麻痺させていくことになる。

嘉吉徳政一揆分布図 「詳説日本史図録(山川出版社)」
【嘉吉徳政一揆分布図 「詳説日本史図録(山川出版社)」】

「こうして土一揆は、京の流通を支える「七道口」をすべて封鎖し、物資の供給を断って首都の生活を麻痺させ『商売の物なく、京都の飢饉もってのほか』という、二次飢饉(流入型飢饉)においこみます(『公名公記』)。四方の龍通路をふさげば京はすぐに飢える。それは平安時代いらいの通例でした(東島勉)。この首都封鎖作戦に負けて、ついに幕府は、はじめて『一国平均の徳政』を告げる広域徳政の制札(徳政令)を、土一揆の集中していた七つの街道口に掲げます。
 しかし、借金棒引きの徳政令が出ても『土一揆なお愁訴(異議申立)をふくむ』といわれ(『建内記』)はんぱな徳政令は、なお土一揆の人々を満足させなかった
のです。…」(同上書 p.63-64)

その2年後の嘉吉3年(1443)にも周縁の飢饉で難民たちが京に流れ込み、夜ごと難民たちが強盗となって放火し、あいついで土倉が襲われて質物が奪い取られている。

またその4年後の文安4年(1447)には「文安の土一揆」がおこり、土一揆勢は北の嵯峨の一帯を制圧し、東寺を起点にして京の七条の土倉などを襲い一帯の家々を放火・略奪した記録がある。
さらにその7年後の享徳3年(1454)に起きた「享徳の土一揆」でも、禅寺の相国寺が打ち壊されて寺の貸付金の質物などが奪われ、土倉や日銭屋も襲われている。

中世の土一揆

「土一揆」の集団と言うより「盗賊集団」とでも呼ぶ方が適切だとも思えるのだが、幕府はその鎮圧のために何度も軍隊を差し向けながらも効果が無かったようである。

「この『享徳の土一揆』の出身もまた、『近郷』とか『都鄙の間の所々』といわれました。周縁の村々から京に押し寄せ、下京から上京まで縦横に駆け抜けたのでした。このときもやはり、どの大名軍の兵士たちも、土一揆の弾圧にはかばかしくは動かず、やはり村々の土一揆と軍の下っぱの雑兵たちとの深いつながりを感じさせます。土一揆への対応に幕府軍のみせた深い亀裂は、のちの応仁の乱の大きな予兆でした。
土一揆のこうした高揚に、幕府はやむく『徳政の御大法』をだします。『借金の10分の1を公方に進送せよ』というのがその骨子でした
。高利貸(酒屋・土倉・寺院など)から借りた、元金の10分の1を幕府に納めれば、質物は返され、借金は帳消しだ、というのです。…このあやしげな『享徳の徳政令』は、こののち8回にも及ぶ、徳政令の基準になったのです。
土一揆の『横行』を冷ややかに傍観していた公家たちも、この徳政令に喜んで、きそって債務を帳消しにしてもらいます。…」(同上書 p.66-67)

さらにその3年後の長禄元年(1457)の「長禄の土一揆」も同様で、幕府軍は多くの戦死者を出して大敗したという。土一揆の私徳政を主導したのは旱魃と疫病に迫られた京の周縁の村人たちの組織で、さらに周縁から多くの飢餓難民を巻き込んで大勢力になっていったと考えられている。

寛正元年(1460)にも寛正3年(1462)にも土一揆が起きている。寛正3年の土一揆について藤木氏の解説を引用させていただく。

幕府は軍隊に土一揆の排除を命じます。しかし諸大名軍の兵士たちはやはり動かず、それどころか『大名の内の者(雑兵)』までが高利貸や民家に『土一揆と号し』て乱入し、略奪(雑物取り)や放火を働く、というありさまでした(『大乗院寺社雑事記』)。これに危機感をつよめた幕府は、けんめいに京の封鎖を排除して流通を確保しようとし(『蔭涼軒日録』)、ついで山城(京都府)の一帯で土一揆の張本人狩を行ないます。
 そのため、東郊の山科郷では、村人二人が徳政の張本人として土地家屋を没収されます(『山科家礼記』)。南郊でも伏見の竹田の村人がつかまって首を切られ、逃亡した者はその家を焼かれました。追及は北郊の松崎や、広く山城から丹波(兵庫県)の村々まで及びました(『蔭涼軒日録』)。土一揆の大きな広がりがしのばれます。それほどの弾圧をうけても、なお土一揆はやみません。翌寛正4年(1643)秋にも『京都に徳政の沙汰あり』(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、第三派の私徳政の実力行使が続いていくのです。」(同上書 p.70-71)

応仁の乱が起こる2年前の寛正6年(1465)にも土一揆勢が東寺にたてこもり、七条辺を襲った記録があるが、その翌年の土一揆はさらに大規模であった。

『悪党・物取等』が『酒屋』に乱入し、それに雑兵たちばかりか、れっきとした上層の武士たちの騒動も重なり合って『徳政の沙汰』とか(『後法興院政家記』)、『酒屋・土倉数ヵ所を打破』などと(『大乗院寺社雑事記』)土一揆による自力の私徳政があいつぎます。
 そればかりではありません。年末には、細川勝元・畠山政長らの軍(東軍)も、山名持豊・畠山義就の軍(西軍)もそれぞれ、軍事費(兵粮料)を出せといって、京中の酒屋や土倉から銭を責めとっていたのです(『大乗院寺社雑事記』)。金を出せば軍の乱暴はやめよう、というのでしたが、もはやその実態は、土一揆と悪党・物取や武士の騒動の区別もつかないほどの騒ぎでした応仁の乱前夜の激動は、こんな混乱が続けば、『洛中人民は餓死に及ぶ』といわれたほどでした。」(同上書 p.71-72)

広域の飢饉発生年とその要因

こんな具合に応仁の乱が起こる直前まで土一揆が頻繁に起こっているのだが、年表を見ると応仁の乱が始まる応仁元年(1467)から内乱が終わる文明9年(1477)の10年間には土一揆は記載されていない。これはどう理解したらよいのだろうか。

通説では、土一揆勢は内戦にのみこまれていったん消滅したとされるのだが、そんな単純な理由ではなさそうだ。応仁の乱の最中の文明4年(1472)には旱魃が起こって京都、大和、和泉などで飢饉が発生しており、土一揆が起ってもおかしくない条件が揃っていたのである。にもかかわらず、応仁の乱の10年間において土一揆の記録がないのはなぜなのか。

真如堂縁起絵巻
【真如堂縁起絵巻(部分)】

藤木氏はこう解説しておられる。
土一揆の消えた首都の戦場での市街戦が始まると、土民(百姓)が『足軽と号し』て略奪を働いている(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、あらたに足軽という名の雑兵が出現するのです。戦場の主役は土一揆に代わった足軽たちで『足軽と号す』つまり『おれは足軽だ』とさえいえば、戦場となった京では、略奪も野放しだったらしいのです。『土一揆と号す』『徳政と号す』から『足軽と号す』へ、京のサバイバル(生きのこり)のスローガンの大きな転換でした。
 この京の戦場を横行する足軽を、ある貴族はこう激しく批判します。このごろ初めて出現した足軽という連中は、『超過したる悪党』で、強敵のいないところばかりを狙って、『所々を打ち破り、あるいは火をかけて、財宝をみ(見)さぐる。』、まるで『ひる強盗』のような連中だ、と(『樵談治要』)。
 またある人は、足軽たちは兵粮が乏しいため、京の商人や職人から、借りるだけといって金銀を奪い取り、返そうともしない、と非難していました(『塵塚物語』)」(同上書 p.73-74)
要するに、実態はほとんど変わらずに、狼藉する際に発する言葉が『徳政』から『足軽』に代わっただけのことである。

応仁の乱に参加した兵士の数については諸説あるようで、Wikipediaでは東軍約16万人、西軍11万人とあるが、その大半が足軽であり、彼らに対してまともな賃金や兵粮が支給することは到底不可能であった。その代りに両軍は、足軽たちに戦場での略奪を公認していたのである。そして京には、足軽たちが略奪した品物を売り捌く市場があったという。

「…京の戦場には、多くの商人たちが群がっていて、足軽などから略奪品を買い漁っては転売し、もうけていたのです。商人たちは盗品を、戦争のない奈良や坂本(滋賀県)に運んで、『日市(ひいち:フリーマーケット)』を立てて売り捌いていたといいます(『応仁記』)。京の東山の祇園社では、戦いに紛れて本尊の牛頭天王の黄金像が打ち砕かれ、戦場の商人に売り払われる始末でした(『祇園社記』『大乗院寺社雑事記』)。
 しばしば土一揆の拠点となった京の九条の東寺も、はるか東郊外の醍醐の三宝院に、隠物(かくしもの)・預物(あずけもの)として避難させていた、多くの寺宝を軍兵に略奪されてしまいます。ところでやがて、はるか西郊の八幡(やはた:京都府八幡市)の市場で売られていた『鎮守額』や『聖天』像などを、信者が買い取って東寺に寄付してくれ、東寺もその市場で多くの寺宝を買い戻していました(『廿一口方評定引付』)。」(同上書 p.78-79)

応仁の乱が始まって年表から「土一揆」という言葉が消えたとはいえ、濫暴狼藉がなくなったわけではなかったのである。

応仁の乱が終わった後に「戦国時代」と呼称される時代が続くのだが、応仁の乱と同様に戦国大名も大量の足軽などの雑兵をかかえて戦った。しかしながら雑兵たちは懸命に戦っても大名からの恩賞は無かったのである。恩賞が無いのにもかかわらず雑兵たちが軍隊に参加したのは、雑兵たちがある程度の略奪や暴行を行なうことを戦国大名たちが許容していたからにほかならない。

しかし、国同士や他国の民同士が相手の所有する物を奪うことが何年も続いては、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。それぞれの大名がただ自国の領土と領民を守るだけではだめで、誰かが武力で全国を統一してこのような行為をやめさせなければならなかったのだが、そういう視点からわが国の戦国時代を考えることが必要なのだと思う。

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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか

前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。

応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日本史』で確認すると、こうなっている。

応仁の乱勢力地図

応仁の乱
義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の妻・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った

 このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うことが多くなった。こうした争いをつうじて下位のものの実力が強化され、実権は主人から下位のものへ移っていった。指導力を失い、権威のおちた幕府の力ではもはや家督争いを解決できず、二大勢力は東西に分かれてついに戦闘状態にはいった。
 戦乱は1467(応仁元) 年から11年間にわたってつづいた(応仁の乱)。戦場となった京都は、傭兵として使われた足軽の乱暴などで焼野原となり、戦乱のあいだに、貴族や寺社だけでなく幕府の没落・衰退は決定的なものとなった。諸国の荘園・公領は守護代や国人に押し取られ、京都に住むかつての支配層の生活の場と経済は、根底からくずされてしまった
。」(『もういちど読む山川日本史』p.121)

この教科書の「土一揆」の説明もそうだったが、この時期に凶作や飢饉が相次いだことを一言も書かず、また争いの原因となった将軍家の家督争いの問題や細川家と山名家の対立がなぜ生じたかについて、この解説ではさっぱりわからないので少し補足させていただこう。

室町幕府は守護大名による合議制の連合政権であり、成立の当初から概して将軍の権力基盤は弱く、将軍の力が強かったのは3代将軍足利義満と、第6代将軍足利義教の頃くらいなのだが、専制政治をしいて守護大名を抑えつけていた6代将軍義教が嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺されてしまう(嘉吉の乱)
そのあとを継いだ7代将軍は義教の嫡子である当時9歳の足利義勝だったが、1年足らずのうちに急逝してしまう。そこで義勝の同母弟のわずか8歳の足利義政が、畠山持国らに推挙されて将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年(1449)に正式に第8代将軍に就任している。

足利義政
足利義政像】

義政は当初は幕府の運営に積極的に関与する姿勢をみせていたが、側近と守護大名の対立や、相次ぐ飢饉で難民が京都に押し寄せ、また各地で土一揆が勃発するなどの政治的混乱が続いて、次第に政治の世界に興味を失っていき、わずか29歳の時に将軍の座を弟に譲ることを決意したという。

Wikipediaにこう解説されている。
義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1

このように将軍義政は、将来男子が誕生しても僧門に入れることを起請文に認めるまでして将軍職を弟の義視に譲ることを約し、それによって義視は兄の望みどおりに還俗して、後見人には管領の細川勝元がつくことが決まったのだが、正式な譲位がなされないままやっかいな問題が起こってしまう。

日野富子
日野富子像】

義政の正室である日野富子が懐妊し翌年に男子を出産すると、富子は自分の子である義尚(よしひさ)を将軍にしたいと考えて、有力守護大名の山名宗全に後見を頼んでいる。
一方将軍義政は、妻の行動を止めることも無く、長きにわたり義視にも義尚にも将軍職を譲らずにあいまいな態度を取り続けたのである


細川勝元像(龍安寺蔵)
細川勝元像】

こうして足利将軍家の家督争いは、全国の守護大名を、足利義視・細川勝元の陣営と、足利義尚・山名宗全の陣営とに2分する事態となり衝突は避けがたいものとなっていった

細川勝元山名宗全はそれぞれ京都で兵を集めると、まず義政の側近たちを追放し、同時に諸大名たちを自軍に引きこもうと精力的に動き、畠山家、斯波家などの家督争いを巻き込んで、とうとう応仁元年(1467)に戦いが始まった。

山名宗全像
山名宗全像】

細川勝元は将軍の居所である室町殿(花の御所)を占拠し、山名宗全は自分の館に陣を構えて細川勢と対峙した。この時の陣の位置関係から、細川勢を東軍、山名勢を西軍と呼び、それぞれの陣を東陣、西陣と呼ぶのだが、「西陣織」で有名な京都の西陣地区は、この地域に応仁の乱の西陣があったことが地名の由来なのだそうだ。

将軍義政は側近を失ってからは政治への意欲を失っていき、幕政を日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなどもっぱら数奇の道を探求していったという。

応仁の乱

戦いは当初は東軍が将軍と朝廷を手中に収めて優勢であったが、中国・九州の守護大名・大内政弘が大軍を率いて西軍についたことで混沌としはじめ、文明5年(1473)には、細川勝元、山名宗全が相次いで他界し、それを期にようやく義政は将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居したのだが、それでも戦乱は終わらなかった。
結局、長い戦いに疲弊しきった両軍が文明9年(1477)に和議を結んで応仁の乱は終わっている

このような経緯を知れば、応仁の乱が起き、室町幕府の弱体化を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあったことがわかる。教科書や通史ではなぜかこのような経緯をほとんど何も書かないのだが、このような経緯を知らなければ応仁の乱の勃発原因を理解することは難しい。

応仁の乱の被災地域

さて、応仁の乱の両軍の戦力については諸説あるが、Wikipediaによると東軍が16万、西軍が11万とあり、前回の記事で述べたとおりその大半が足軽などの雑兵であった。
彼らは戦争で勝利しても大名からの恩賞には与れなかったが、そのかわりにある程度の略奪や暴行が許容されていたことから、戦場などで盗んだものを売って生計の足しにしていたのである。この戦乱で京の都の大半が焼失してしまったという。

戦乱が続くのを嫌って多くの公家や僧侶が京を逃げ出し、地方の大名を頼って各地に分散し、地方の武士たちは彼らを喜んで迎え入れたことから中央の文化が全国に広がっていったことは良いことであったとしても、この戦乱で京の多くの文化財が失われたことは残念なことである。

さきほど文明9年(1477)に細川勢と山名勢との和議が成立して「応仁の乱」が終わったと書いたのだが、畠山氏の跡目争いはその後も続いたという。

応仁の乱を通して、畠山氏の当主の座と河内守護の役割は公式には畠山政長であったが、山名氏の支持を得た畠山義就が河内を実効支配していた。
文明11年(1479)に摂津で一揆が起り、細川勝元の子である細川政元が畠山政長とともにこれを制圧したのだが、政元が京へ引き上げた後に畠山政長は義就討伐の軍を進めている。ところが、義就軍は隙をついて山城に攻め込んで、南山城を占拠してしまうのである。

幕府と政長軍は文明17年(1485)に義就討伐軍を南山城に送り込み、再び戦いは膠着状態のまま3ヵ月が経過した
農民側にとっては、これまで繰り返し人夫・兵粮米が徴発され、田畑は荒らされ民家は戦いで焼き払われてしまって生活は苦しかったに違いない。南山城の地侍や農民たちは集会を開いて、畠山両軍に対して山城からの撤兵を要求した記録が残されている。

大乗院寺社雑事記

『日本大百科全書』の『山城国一揆』の解説にはこう書かれている。
『大乗院寺社雑事記』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人が集会し、一国中の土民が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。…」

かくして畠山両軍を追い出して守護不在となった山城では、住民たちによる自治が8年ほど続き、最後は政元によって制圧されてしまうのだが、これだけの期間にわたり広い地域が地域の住民の自治によって守られたことは『もういちど読む山川の日本史』にしっかり記されている。

「…守護大名家の家督争いは解決されなかったので、その後も守護大名間の争いは各地でくすぶった
 南山城(京都府)では守護大名の畠山氏が政長(まさなが)と義就(よしひろ)の2派にわかれて争っていたが、1485(文明17)年、同国の国人は宇治の平等院で集会をひらき、その決議により両軍を国外に退去させ、約8年間にわたる自治をおこなった(山城国一揆)。
 諸国にはこうした国一揆や土一揆がおこり、また主君を実力でたおす家臣がつぎつぎとあらわれ、世は下剋上の風潮を強めていった。」(同上書 p.122)

この教科書では山城国一揆はしっかり書いているのだが、国人が守護大名を退去させて自治をおこなったこの一揆と、「徳政」を要求して放火や略奪を繰り返して生き延びようとした人々が起こした「土一揆」と同一視するような記述はいかがなものか。

また、歴史学者の多くがこの時代のことを「下剋上」というキーワードで説明しようとするのだが、この言葉がこの時代の本質を表現するものとして適切であるのだろうか。
応仁の乱が終わってからも冷夏や干ばつなどで飢饉は各地で何度も起こっているのだが、普通に考えれば、凶作が続いて食糧が手に入らずこのままでは自分の家族全員が飢死するしかない様な危機的状態に陥ったならば、たとえ権力者に逆らってでも、あるいは法を冒してでも、食糧を手に入れようとする人々が各階層で出現することは、いつの時代でもどこの国でも、容易に起こりうることではないのか。

「飢え」が存在したという真実に目を塞ぎ、下位の者が上位者に従わず時には争った側面だけを見てこの時代を「下剋上の時代」と呼ぶのは、おそらくマルクス主義的な「階級闘争史観」と無関係ではないのであろう。一般書の多くは今もこの史観でこの時代が叙述され、この史観に都合の良い史実ばかりを採りあげて都合の悪い史実は伏されてしまっているのが現状だ。

教科書や通史は多くの人が読むものであるからこそ、もっと史実をありのままに素直に書いて欲しいものである

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織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した戦略を考える
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慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
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近江八幡の歴史と文化を楽しんで

しばらく重たい話題が続いたので、気分転換がしたくなって滋賀県の湖東地区の文化財を訪ねる旅行をしてきた。

最初に訪れたのは西国三十三カ所の第三十一番観音霊場の長命寺(近江八幡市長命寺町157、☎0748-33-0031)である。聖徳太子開基と伝えられている古い寺で、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えたのだが、永正13年(1516)に佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍が全焼し、現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

かつての巡礼者は三十番観音霊場の竹生島宝厳寺から船でこの寺に参詣したというが、湖岸から長命寺まで続く808段もの石段を登るしかなかった。昔から「健康長寿」の御利益があるとされてきたのだが、健康で足腰が丈夫でなければ参詣することができなかった山寺である。

長命寺 階段

いまでは、細い道ではあるが8合目近くまで進むことが出来る舗装道が整備され、20台程度収容可能な駐車場がある。ここからだと、5~6分程度石段を登れば本堂に辿りつくことが出来る。しかしバスはこの細い道を走ることが出来ず、公共交通機関を使ってこの寺に行こうとすると、長命寺のバス停から30分程度かけて長い石段を登るしかないようだ。

長命寺 本堂

上の画像は本堂(国重文)で、大永4年(1524)に再建されたものである。堂内には聖徳太子作と伝えられる木造千手観音立像(国重文)が安置されているほか、多くの仏像が国の重要文化財に指定されているのだが、よく見ることができなかった。

長命寺三重塔

本堂右手には慶長2年(1597)に再建された杮葺きの三重塔(国重文)がある。

長命寺 境内

本堂の左手には三仏堂(県文化)、護法権現社拝殿(県文化)が続き、その左の少し高いところに鐘楼(国重文)がある。

長命寺 琵琶湖周遊の歌

この長命寺の境内に『琵琶湖周遊の歌』の歌碑があるのだが、西国31番の霊場であるのになぜ歌詞では10番なのかと寺の人に聞くと、昔から長命寺は31番であり、歌詞が誤っているとのことであった。帰宅後ネットで調べると、近江今津にある『琵琶湖周航の歌資料館』の係員がこの問題について、こう回答したと書かれていた。
「作詞の小口太郎は『西国三十一番長命寺』では歌にならない。其処で語呂合せして『西国十番長命寺』としたとの事である。その様にして全国的に歌われるように成ったが、長命寺の方からも事情熟知の上、寛大な処置を執られ変更要求はないと云う。」
http://www.geocities.jp/ikikansai_ryokoukenbunroku2/ryokoukenbunrokuno2/h19biwakosyuukousiryoukan.html

小口太郎は、21歳の頃三高(現京都大学)ボート部員として琵琶湖周航中、故郷の諏訪湖に思いを馳せながらこの詞を書いたのだそうだが、まさか100年近くこの歌が、国民に愛されて歌い継がれることになるとは予想もしていなかっただろう。仲間同士で歌うのだから、この程度の誤りは許されると軽く考えたのではないだろうか。
ちなみに、正しい西国十番観音霊場は京都府宇治市にある三室戸寺であり、間違えることがないようにしたい。

長命寺の観光を終えて、近江八幡の中心地に向かい、市営小幡駐車場(0748-33-2411)に車を駐める。

近江八幡観光マップ

近江八幡は五箇荘・日野とともに近江商人の代表的な出身地だが、もともとは豊臣秀次の八幡城築城にあわせてつくられた城下町であった。その際に造られた八幡堀は、城を防御する軍事的な役割だけでなく琵琶湖に直結して水運を利用する目的があり、八幡城が廃城後の江戸時代には、近江八幡は大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として栄え、堀沿いには豪商たちの家や土蔵が立ち並んで、重要伝統的建造物保存地区に選定されている。

近江八幡 旧伴家住宅

最初に旧伴家住宅(近江八幡市立資料館)に入る。郷土資料館・歴史民俗資料館、旧西川家住宅と共通の入場券があるのでそれを買うのがお勧めだ。
旧伴家住宅は天保11年(1840)建築の木造一部3階建ての豪邸で、伴家は江戸時代から蚊帳・畳表・蝋燭などを商った家だという。

近江八幡 旧伴家 左義長

中に入ると、毎年3月中旬に行われる日牟禮八幡宮の左義長祭りの山車(だし)が展示されていた。本物の山車は祭りの最後に燃やされるので、この山車は展示の為にわざわざ制作されたものだが、するめやコンブやガムなどの食材だけで作られているのだそうだ。

明治時代になって伴家が没落したあと、この建物は学校や図書館などに利用されていたのだが、平成9年(1997)に明治26年(1893)当時の尋常高等小学校の姿に復元され、内部には近江八幡の歴史資料が展示されている。

旧伴家住宅の向かいには、近江八幡市立郷土資料館があり、隣接して歴史民俗資料館があり、考古資料や近江商人の帳場や生活用具などが展示されている。

次に旧西川家住宅に向かう。
西川家は蚊帳や畳表を商いした家で、この主屋は宝永3年(1706)に建てられて、土蔵とともに国の重要文化財に指定されている。

近江八幡 旧西川邸

西川家の家訓が記された掛軸があったのでカメラに収めておいた。
先義後利栄 好富施其徳」とは「道理をわきまえて商いをすれば、おのずと利益はついてくる。利益を得ることはわるいことではないが、それに見合った社会貢献をすることが大切である。」と説明してあった。昨今のわが国の大企業に、この家訓を実践している経営者がどれだけいるのだろうか。

近江八幡 商家の街並み2

上の画像は旧西川家の近くを写したものだが、近江八幡の中心部にはこのような街並みが残されていて、タイムスリップしたような気分になる。

近江八幡 日牟礼八幡宮 楼門

日牟禮八幡宮の鳥居を抜けて白雲橋を渡ると、立派な楼門が見えてくる。

近江八幡 日牟礼八幡宮 社殿

この楼門を抜けると優美な日牟禮八幡宮の社殿が並んでいる。
この神社は11世紀に勧請され、中世には近江守護の佐々木氏より武神としての信仰を集め、近世になって豊臣秀次によって城下町が形成され、のちに大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として栄えるようになると八幡商人の熱心な信仰対象になったという。

この神社では、先ほど紹介した3月中旬に左義長祭のほかに4月中旬に八幡祭りという火祭りが執り行なわれ、ともに国の無形文化財に指定されているという。

近江八幡 八幡堀風景

参拝のあと境内のかたわらにある「たねや日牟禮茶屋」で昼食を取って、白雲橋を渡ってすぐの石段を下りて八幡堀巡りの船に乗る。上の画像は白雲橋から八幡堀を写したものである。

近江八幡 八幡堀遊覧1

八幡堀は琵琶湖の内湖である津田内湖と北の庄沢・西の湖を繋ぐ運河で、豊臣秀次が自刃して八幡城が廃城になった後は、八幡商人の拠点となり、地場産物の畳表・蚊帳・米・酒などを積んで、塩津で陸揚げされた産物は敦賀から奥州、蝦夷地に運ばれ、琵琶湖を南下すれば瀬田川から大坂にいたり、江戸まで運ばれたという。

鉄道や道路が出来て、水運としての役割を終えて、八幡堀はかなり荒廃したのだそうだが、市民の運動によって整備が進められて、今は近江八幡の観光名所となって時代劇などのロケ地に良く使われているようだ。

近江八幡のみどころは白壁、土蔵の続く街並みや八幡堀ばかりではない。市内の所々に美しい西洋建築物を楽しむことが出来ることもその魅力のひとつである。

近江八幡 白雲館

上の画像は、日牟禮八幡宮の鳥居の前にある白雲館だが、明治10年(1877)に八幡東学校として建てられ、建築費6千円の大半が近江商人の寄付によって賄われたという。その後この建物は役場などに利用されたのだが、今は観光案内所になっている。

白雲館は日本人大工・高木作右衛門が建てたのだそうだが、近江八幡の洋風建築の多くは米国人W.M.ヴォーリスが手掛け、市内の各地に現存している。

ヴォーリス

W.M.ヴォーリスは明治38年(1905)に滋賀県立八幡商業高等学校の英語教師として来日したのだそうだが、放課後バイブルクラスを開いて多くの学生を感化したことから町民の反感を買い、明治40年(1907)に教職を追われて翌年に京都で建築設計監督事務所を開業し、明治43年(1910)に近江八幡でヴォーリス合名会社*を設立した。
彼はこの近江八幡を拠点にして日本各地で学校や教会、病院、商業建築、個人邸宅などの建築に携わり、1千棟を越える建物を設計したという。
*大正9年には「近江セールズ株式会社」を創業し、のちに「株式会社近江兄弟社」と改名し、「メンソレータム」の販売権を取得した。しかし昭和49年(1974)に経営が傾いて販売権を売却。今は少し処方を変えて「メンターム」という商品名で販売している。

近江八幡 旧ヴォーリス住宅

上の画像は旧ヴォーリス住宅で、ヴォーリスの後半生の自邸である。(県指定有形文化財)

近江八幡 アンドリュース記念館

上の画像は明治40年(1907)に竣工したアンドリュース記念館で、ヴォーリス建築第1号の建物である。

近江八幡小学校

上の画像は近江八幡市立八幡小学校で、ヴォーリス建築には分類されていないようなのだが、改築時にヴォーリス事務所が関わったという情報がある。改築時期が判明せずW.M.ヴォーリス本人が関与したかどうかは確認できなかったが、いずれにしてもこんなに素晴らしい校舎で学べる子供達は幸せだと思う。
http://biwahama.exblog.jp/3052488/

近江八幡 池田町洋風住宅街

上の画像は、池田町洋風住宅街で、古い煉瓦塀の中に洋館が建っている。これもヴォーリスが手掛けた建物である。

近江八幡 たねや日牟禮茶屋

近江八幡の中心部を歩いて多くの人が気付くと思うのだが、ここにはチェーン店の派手な看板がほとんど見当たらない。古い街並みの美しさを残すためには看板は控えめであるべきなのだが、地元の店舗の店構えを見るとそのことがよく理解されていて、景観を大切にしておられることがよく分かる。

昭和30年代から40年代の高度経済成長期に、「国土の再開発」と称して全国各地に残されていた古い街並みが破壊されて多くの都市が個性を失っていった。また平成7年(1995)の阪神大震災で、「瓦屋根は危険」と喧伝されて、多くの古い住宅が建て替えられていったのだが、近江八幡にこれだけの古い街並みが美しく残されていることは本当にすごいことだと思う。

この景観を守るために地元の人々に様々な苦労があったことだと思うのだが、それを乗り越えることが出来たのは、地元の人々に郷土を愛する心が経済的動機以上に強かったからなのであろう。

近江八幡が観光地として発展して、素晴らしい伝統文化が承継されて歴史的景観が末永く守られることを祈りたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-418.htm

三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-419.html

浄瑠璃寺から岩船寺へ~~秋深まる当尾の里の名刹と石仏を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-421.html

海住山寺から神童寺、蟹満寺を訪ねて
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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