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キスカ守備隊員の手記による奇跡の完全無血撤退作戦成功……『キスカ戦記』を読む7

前回の記事で、キスカ島守備隊の兵士たちは7月11日から14日まで4回もキスカ湾に集結して撤収部隊の到着を待ったのだが、一度もその艦影を見ないままに作戦の一時中止が伝えられ、艦隊は燃料補給の為に反転して北千島に帰っていったことを書いた。
撤収部隊がキスカ島に接近していながらキスカ湾への突入を断念したのは、途中で霧が晴れたために空襲に遭う危険性が高まったことがその理由だが、もし霧が深かったとしても、霧を見通すことが可能なレーダーを装備していた米艦艇がキスカ島の哨戒にあたっていたので、砲撃戦となり大きな犠牲が出る可能性があった。

キスカ島には、撤退作戦の一時中止が伝えられた時点で三週間以上も補給が行なわれておらず、守備隊に残された食糧や弾薬はかなり乏しくなっていた。
そのうえ陸軍では、米軍のキスカ島上陸後に食糧を利用されないようにと、米などを土中に投棄する作戦命令が出ていたらしく、そのために食糧を台無しにしてしまった部隊があったようだ。

キスカ戦記

『キスカ戦記』の中から、陸軍曹長の田中繁広氏の手記を紹介しよう。

「…一時(撤退)作戦の中止が伝えられ、防空壕に隠した糧秣を引っ張り出して、天日に乾かして食糧を確保するなど『投棄せよ』との作命〈作戦命令〉が、日ならずして『確保せよ』と変わる有様。幸いわが中隊は、防空壕に米一俵を隠しておいたので助かったが、或る中隊は、作命どおり、糧秣を水溜りに投棄したので回収できず、その日から食料に困った。これも、かつてノモンハンの戦場を体験したわが中隊の歴戦者が、あの戦場で一粒の米もなく、乾パンと水だけで過ごした数十日の苦しみが忘れられず、命令に反して採った処置が幸いだった訳。」(『キスカ戦記』p.363)

その後もキスカ島には食糧の補給が行なわれず、わずかの食糧を更に2週間以上も食いつないだことになるのだが、7月22日になってキスカ守備隊の兵士たちに待ちに待った朗報が入る。

次に海軍水兵長の河西要氏の手記を紹介しよう。

7月22日朝食後、総員集合がかかり、27日から第2回目のケ号作戦*が開始されると伝えられた。今後は、どんなに状態が悪い場合でも作戦は決行するとの艦隊の決意だと聞き、本当に嬉しかった。だが、入港予定日などは何も分からない。無線封止だろうから連絡のあるはずもなく、われわれは27日から海岸に出て待機することになった。とはいえ、前回の失敗のことを思うと私にはどういうものか、帰れる希望は湧かなかった。この島に、結局は取り残される可能性の方が、遥かに多いように思えるのだった
 命より名こそ惜しけれ武士(もののふ)の
  道に乞うべき道しなければ
 どうせ長からぬ命、良い死に場所を得ていることに、感謝の念すら湧いて来るのだ。
 案の定、27日、味方は来なかった。28日は入港するかもしれぬというので、特に身ごしらえを念入りにして指揮所に行ったが、敵艦の砲撃を食ったり、夜間爆撃など、さんざんやられ、がっかりしてガランとした兵舎に戻るしかなかった。『敵はこの作戦を知っているのではあるまいか?』皆が心配顔でそう言った。」(同上書 P.358)
*ケ号作戦:キスカ守備隊撤収作戦

アリューシャン列島

河西氏は27日の夜に起こったことについて何も書いていないのだが、この日の出来事は重要なことなので補足しておこう。再び陸軍曹長・田中氏の手記の文章を引用するが、田中氏が26日と記録しているのは、キスカ島は日付変更線に近いためか、日本側の記録と1日のずれが生じているようだ。

7月26日、七夕湾南方海上にあって(22:30ごろ)一大海戦があり、てっきりわれわれを収容に来てくれたわが海軍と、米艦隊との遭遇戦と思い、翌27日、何らかの情報があるかと本部に問い合わしても、戦況全く不明とか、『ああ、わが艦隊も全滅せしか』とガッカリして海岸に行って見れば、浜辺に打ち上げられた残骸は全て米軍の物ばかりで、わが軍の物らしきは一品も見当たらぬ、どうやらこの海戦は勝戦らしいが、なんの連絡もないのは不思議と思うのも当然。ところが、米艦隊の同士討ちで、大損害を出した末アダックの基地に引きあげたとか。原因は濃霧の夜間、米監視船が、自軍の主力艦隊を、てっきり日本艦隊と思い込み発砲したのが事の起こり。わが方にとっては全く『天佑』そのもの、…」(同上書 P.363)

田中氏の手記にある、「米艦隊の同士討ち」というのはあとで判明したことで、27日の夜に何が起こったかはキスカ守備隊や収容艦隊のメンバーには知りようがなかった。
ちなみにキスカ島からアダック島の基地までは約400kmも離れている。敵の主要艦艇が補給のために基地に向かったのであれば、すぐにはキスカ島に戻れないことは言うまでもない。

陸軍少佐の藤井一美氏が、後に米軍の戦史を調べてこの日の出来事をこう解説しておられる。
「7月27日の夜10時過ぎ、キスカ島の将兵は、南西海上で盛んな砲声の轟き、はげしい光芒のひらめくのを見た。…
アメリカ軍の戦史を見ると、電波探知機の誤探による砲撃とあるが、いずれにしても、夜間霧中、レーダーは日本艦隊を補足したものと思い込み、これに猛攻撃を加え、多くの弾薬と燃料を消費してしまった。この補給のため、28日から29日にかけて米艦隊は包囲を解かざるを得ない破目となった。今にして想えば、その限られた四十数時間の隙に、わが収容艦隊は、そんなこととは露知らず、キスカ島鳴神(キスカ)湾に突入したのである。なんという偶然のもたらした成功の一因だろうか。」(同上書 P.404)

キンケイド提督
【キンケイド提督】

Wikipediaに米海軍の動きが纏められている。該当部分を引用させていただく。先ほど記したとおり、アメリカの日付は日本と1日のズレがある。

「7月26日、濃霧の中ミシシッピーのレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉した。アイダホ、ウィチタ、ポートランドの艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイド中将は直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。しかし、不思議なことに重巡サンフランシスコと艦隊の全駆逐艦のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった。この際アメリカ軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている。…7月28日(ケ号作戦実行日)*、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイド中将は弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%B3%B6%E6%92%A4%E9%80%80%E4%BD%9C%E6%88%A6
*7月28日(ケ号作戦実行日):日本側の日付は7月29日

軽巡洋艦 阿武隈
【軽巡洋艦 阿武隈】

次に、再び河西海軍水兵長の手記を紹介しよう。

「29日、朝食をしていると、先任下士官が外で、『オーイ』と皆を呼んでいる。また早朝から爆撃かと外へ飛びだしたが、外は静かで、珍しく晴れた朝だ。先任下士官の指さす南高地の上空を見ると、今まで見たこともない雲が、渦巻きのようになっているではありませんか。ほかには一点の雲もないというのに。
『今日は艦(ふね)が入るぞ!』
 その雲を見ながら山崎兵曹が言った。私も、その不思議な雲を見た瞬間、そんな気持ちになっていた。
 九時頃までに二回対空戦闘があったが、十時二十分頃には、五、六米(メートル)先は何も見えなくなっていた。そして、十一時頃、撤退作戦行動開始が下令された。
 松が崎防備所からは、
『敵駆逐艦らしい音源あるも、霧のため近接せぬ模様』
『敵駆逐艦の音源次第に遠ざかり○○粁(キロメートル)』
『聞こえなくなった』
と情報が伝えられてくる。と、追っかけるように、
『松が崎○○度方向、○万○千、三隻以上らしい感度あり』
 の報告。いよいよ来たぞ!待ちに待った胸が躍る。
各見張所に視界状況を問い合わすと、
『霧深く、海上視界百米(メートル)内外』
 との答えだ。そして十二時頃、
『○○度○○粁、真っすぐキスカ湾に向かってくる。感度よりして五隻なること確実なり。』と、続いて、
『さらに二隻以上の感度あり』
 と言ってきた。味方であることは間違いない。だが、この濃霧をおかして入港できるだろうか?そうした私の危惧をはねのけるように司令は下令した。
『南高地!ラジオピーコン電波送れ!』
 私は夢中で送話器をとるとそれを伝えた。電波を送れば、艦隊は、電波の誘導で、真っ直ぐ入って来れるのだ。
『一番艦五千(米) 』と報告があったと思ったら、
『海面の霧は次第に薄らぎつつあり、視界千二百』
 と見張所からの吉報が入る。その時、今度は電探*から『○○度○○粁、感度あり』との報告。しまった、敵機かと思った丁度その時、海上に轟く二発の砲声を聞いたのである。『ああ、駄目だ。またしても裏切られた』そう思って私はがっかりした。
 一分か二分の重苦しい沈黙があたりを包んだ。と、今度は松が崎見張所の電話のベルが鳴る。電話口にでると
『一番艦見ゆ!阿武隈らしい』続いて、
『二番、三番艦見ゆ。一番艦入港。大発艇は艦に向かい発進しました!』

 と歓喜一杯の声が飛び込んできた。

大発動艇
【大発動艇(略して大発、大発艇という)】

 司令の命令が飛ぶ。伝える私の声も思わず熱気が入る。
『各砲台、機銃隊に残っている者も、兵器破壊!終わり次第速やかに海岸に集結せよ!』
 伝達し終わって湾内を見ると、一番艦、二番艦はすでに入港し、三、四、五、六番艦は向島と松が崎の間に進入しつつある。
 又も、電探からの電話が鳴る。
『○○度○○粁、哨戒機らしい!』との急報だ。
 各隊は皆撤収のため海岸に集合しているが、電探だけは、敵機の感度があったので、まだ陣地で任務を遂行しているのだ!
 今、敵機が出現したら、第五艦隊の主力がそっくり壊滅させられ、大発に満載されて湾内を走っている引き揚げ部隊も、海岸に待機している丸腰の各隊将兵も一挙にやられてしまう。危機感で背筋が凍るようであり、反対に頭の中は火のように熱くなった。

 向井副長は、口をぎゅっと引き締めたまま一言も発されない。と、またも電話が鳴る。
『電探より、八○度○○粁、少し遠ざかりました』
 との報告。それに続いて、戦闘指揮所の外に立って見張りをしていた佐藤兵曹が、
『一番艦出港します。二番艦も出港しはじめました!』と叫ぶ。それでも副長はまだ黙っている。
 収容艦隊はどんどん出ていってしまう。私たちや電探員たちは、このまま、ここに取り残されてしまうのではないか!? ふと不安になり気が落ち着かない。そして、
『電探より。九○度○○粁』と報告が入ると、それを待ちうけていたように副長は凛然と命令した。
『電信員引き上げ!』
 私がその命令を伝達し終わるや否や、小隊長が、
『戦闘指揮所爆破用意!』
と下令。火縄に点火した私たちは、小銃片手に駆け上がった。松が崎や、向島の山々には霧がかかっているが、海面はすっきりと晴れている。今まで穴倉のような戦闘指揮所の中で、電話と取り組んでばかりいた私は、この光景を夢ではないかと思いながらまじまじと見た。
最後の大発艇が私たちを待っていてくれた。電探の人たちも来ていた。私たちが、この島を最後に離れたのである。小銃を持っている者は海に投げよとの命令があり、身を守るただ一つの兵器も海中に投げ棄てた。ああ、もうキスカの島ともお別れかと思うと、長い間の苦闘のあとが懐かしく思い出された。」(同上書 p.358-360)
*電探:「電波探信儀」の略。レーダーのこと。

キスカ島の少年電探員
【キスカ守備隊の少年電探員】

少し補足しておこう。
河西氏が海上に轟く二発の砲声を聞いて、『ああ、駄目だ。またしても裏切られた』と書いている場面があるが、この砲声は、一番艦の阿武隈がキスカ湾の入り口近くにある小キスカ島を敵艦と誤認し、魚雷を発射したものであったという。このことは、この日の霧がよほど深かったことを意味しているのだが、ここで不思議なことが起こる。

キスカ島地図

再び陸軍曹長・田中氏の文章を引用したい。
「…さては、敵襲かと思いきや、これはわが艦隊が発射せる魚雷という。濃霧の中、隠密航海を続けている撤収艦隊が、小キスカ島を敵艦と見誤って発射せるもの。ところが、この魚雷の爆発のおかげならんか、今まで濃霧に覆われていたキスカ湾に奇跡的現象が起こった。爆発の直後、霧が何ものかに吸いとられるように天空に向かって移動を始め、ポッカリとドーナツ型にキスカ湾のみ晴れ上がったから、なんとも不思議。そこへ、わが水雷部隊が続々と入港してきたのだ。思わず万才を叫びそうになる。…」(同上書 p.363-364)

制空権も制海権も米軍にとられていた状況下で、たまたま敵の主要艦が補給の為にアダック島に向かっているタイミングに、キスカ島周辺に米機が飛べないほどの濃い霧が出て、撤収艦隊がキスカ湾に突入を決意する。ところが、濃霧であったはずのキスカ湾の視界が急に開けていって、水雷部隊のキスカ湾入港が無事に完了したというのだ。もし霧が深ければ、座礁や衝突の危険があったのだが無事に湾内に入ることができ、待ち構えていたキスカ島守備隊員5200名を、大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で収容し、全速力でキスカ湾を離脱したという。

キスカ守備隊および撤収艦隊にとってはまさに「天佑神助」というしかないような偶然が相次いで起こり、かくしてキスカ守備隊は敵軍に気付かれることなく、奇跡的に無傷で北千島に戻ることが出来たのである。

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艦隊乗艦員の手記によるキスカ島守備隊撤退作戦……『キスカ戦記』を読む8

前回はキスカ島守備隊の兵士たちの手記を中心に紹介したが、今回は守備隊撤収のためにキスカ湾に突入した艦隊乗艦員の手記を紹介することにしよう。

ベーリング海での作戦行路

第1回目は、「6月25日、キスカは霧」という艦隊気象長の天気予報を信頼して、6月22日に全艦隊が北千島にある幌筵(ほろむしろ)を出撃したのだが、幌筵からキスカ島までは直線距離で1500kmも離れている。
気象衛星など最新機器を用いた今日の天気予報でも、数日先の天気などはあまり当てにならないものだが、レーダーも使わずにそんなに遠い場所の天気予報となればなおさらのことである。しかしながら、この作戦が成功するかどうかは艦隊がキスカ島の近くに到達した時点で、この島が霧で覆われていることが重要であった。
したがって、艦隊出撃の決断のきっかけとなる天気予報を出す艦隊気象長の責任は極めて重大であった。

『キスカ戦記』に艦隊気象長・竹永一雄氏の手記が出ているので紹介しよう。まず第1回目の出撃の場面である。

「…艦隊はキスカのはるか南方海上の霧の中で、私の予報した霧がキスカにかかるのを待っていた。
 ところが目標の25日はおろか、その後もキスカは毎日晴れ上がり、霧ひとつかからない。実は、この作戦のため、あらかじめ二隻の潜水艦と五隻の気象観測船をキスカ周辺に配置して霧の観測をやらせていたが、報告のため電波を出させていたのが命とりになって全部撃沈されてしまうという致命的な打撃を受け、あの広大な北太平洋で、観測所は私の乗艦とキスカ基地だけしか無くなってしまった。これでは予報は当たる方が不思議なくらいである。現在と違って、北方に関する気象の資料に乏しく、レーダーなど勿体ないのであるから推して知るべしである。
私は一日に四回、かじかんだ手で、艦の動揺に悩まされながら天気図を書いていたが、霧がでるかでないか全く見当がつかない。しまいには、艦内神社に神頼みをしたり、鉛筆を立てて占って見たり、正に苦悩の果てのノイローゼ気味であった。」(『キスカ戦記』p.389)

この時は1週間以上待っても霧はかからず、前々回の記事で書いた通り、燃料不足のために北千島に引き返したのだが、竹永大尉は「上司からはドヤされるし、兵学校出の士官連中からはサンザン殴られるしで生きた心地はなかった。なんどか海に飛び込んで死のうと思ったが…死にきれなかった苦い思い出は今も忘れない。」と書いている。竹永大尉の記している通り、観測所がたった2箇所だけで、1500kmも遠方地点の3日後の天気を予測するというのはそもそも無理な話である。

しかしながら、撤収作戦が再度実施されることとなり、二度目も竹永大尉の天気予報に基づき、7月25日に全艦隊が出撃したのである。竹永氏は再び艦内で苦悩する。

「ところが、なんたること、はじめに予想していた低気圧は一日早くキスカを通り過ぎてしまった。それからは、また霧が発生しない。みんなイライラして私を責めたてるが、私だってどうしようもない。またまた、燃料が心配されるところまで追いこまれた。私も今度こそは真剣に自殺の方法をあれこれ考えていた。
 ドタン場の29日、待望の低気圧がアリューシャンに出てきたではないか!私は大声を上げて参謀長の許へ飛んで行って、
『霧が出ます!』
と報告した。
 全艦隊がキスカに接近すると、予想通りのすごい霧である。それこそ、ウドン粉の中に顔を突っ込んだようで、一寸先も見えないのだ。
そして一時間半後に世紀の撤収作戦は成功した。私は一時に気が緩んでぐったりしていた。」(同上書 p.390)

しかしながらここまで霧が深いと、前方に何があるか、味方の艦艇がどこにいるかも分からなくなって、船の航行が極めて危険なものとなる。

駆逐艦「響」
【駆逐艦 「響」】

『キスカ戦記』に駆逐艦響(ひびき)に乗船していた海軍水兵長・石井仁行氏の手記にはこう記されている。

「…28日は、是が非でも突撃してくれることを願う次第なり。夜に入って視界は益々悪くなってきた。一寸先も見えぬとはこんなことをいうのだろう。
 突如、旗艦より『触傷を受く!』との電話あり、刻々詳報伝えられる。大要は左(以下)の如し、
 触突(追突)艦、計四隻。うち三隻触傷を受く。三隻中、一隻は微傷にて作戦参加可能。他の二隻は、目下浸水しつつあるも戦闘航海に支障なし、出し得る最大速力12ノット*。
 速力12ノットではキスカ島突入はとてもおぼつかない。突入を目前にして警戒隊の二隻に損傷を蒙りたるは実に残念である。明日の突入は如何になるにや。
 28日。『突撃しばらく見合わせ』の信号来たる。
 霧中航行中、触傷艦発生の突発事故を招きたるは、思うに神霊の教導を暗示するようである。このまま引き返したら、水雷戦隊の名誉は勿論、帝国海軍の面目玉にかかわるは歴然たり。陛下の艦を損傷せしめてなんでおめおめ帰れよう。」(同上書 p.391-392)
ノット:1時間に1海里(1.852km)進む速さ。12ノットは時速22.2km。

海防艦国後
【海防艦 「国後」】

この時に損傷を受けたのは実際には五艦あり、海防艦国後(くなしり)の艦首が先頭を進んでいたはずの巡洋艦部隊の阿武隈(あぶくま)の左横腹に衝突し、それを見ていた木曽は辛うじて阿武隈との衝突を免れたものの、後方を進んでいた第二十一駆逐隊の若葉、初霜が操艦間に合わず衝突したところに後続の長波が激突してしまった。損害の大きかった若葉と初霜は艦隊から離脱を余儀なくされ、幌筵(ほろむしろ)島に帰されてしまったという。

キスカ富士と霧
【キスカ富士 (晴天時)】

しかし、霧の中の航海で心配なのは艦船同士の衝突だけではない。敵との遭遇もありうる。
また島の周囲には多くの岩礁が散在しており、これにぶつかる危険もあった。
接岸航行のためには海図上の的確な位置を知る必要があったが、十一時三十分ごろ霧が流れて、一分程度キスカ富士の姿が見えたという。そのおかげで、艦隊の位置が確認できコースに乗ることが出来たのだそうだ。

そして、最後の燃料補給が行なわれた。もう突入するしかない。
そして夜間訓練中に放送が入る。再び駆逐艦響に乗船していた石井水兵長の手記を引用する。

「…『訓練止め。夜戦に備え!』が令さる。続いて『明日、キスカに突入』と伝う。通信士の太く澄んだ声が、伝声管を響かせた。通信士は、
『最近における敵の情勢。天気の良い日は毎日大型、小型八機編成でキスカを銃攻撃しあり。一日の延機数八十機。敵艦艇動静、甲巡三隻、駆逐艦五隻乃至(ないし)六隻にてキスカ島近海を哨戒、砲撃す。天候霧雨にて突撃に絶好の機会なり、終り』
 この声を聞き終わった時の嬉しさ、天にも昇る思いだ。
 わが水雷戦隊は一路キスカに向かい航行を開始す。正に天佑神助とやいわん、濃霧は視界を遮り、本作戦成功疑いなしの予感、果たして的中するや否や。当直までの一刻を、明日の突入に備え休むべく居住区へ降りて行く。どすんどすんと外舷に打ち寄せる波の音が激しくなってきた。艦は高速でぐんぐん突っ込んで行きつつあり。
 明くれば二十九日。〇一・〇〇総員配置に就き本作戦における最後の訓練をなす。…
〇九・〇〇、…刻々キスカに近づきつつあり、幸いにして、いまだ敵哨戒機に発見されておらぬ模様。艦首方向零度。左回りしつつ湾口に近づきつつあり。
 …
『一三・〇〇湾口突入、一三・三〇入港予定』と艦橋伝声管は報じ来る。余すところ二時間あまり。乗員各々配置に就き、いずれも白鉢巻も勇ましい戦闘服装なり。
 刻一刻、緊張の時は刻む。私も短刀を懐中に闘魂を新たにす。敵機の通信電波を待ち受くるも、基地発信電波のみにて、敵の発信電波なし。敵哨戒機果たして何処にありや。わが水雷戦隊の突入を感知せざるは敵の油断もさる事ながら、実に天佑神助というの外なし。
 一三・〇〇、遂に突入!湾口突入。視界良好になりし模様なるも、艦全体不気味な沈黙を守っておる。
 突如!旗艦より『左三十度方向に敵艦発見!』と報じ来る。一秒、二秒――― 二分、三分以後敵情に関しなんら報ずるところなし。
 遂に海戦か!私は佐藤兵長と顔を見合わせた。他の面々も決意の色濃くありありと現われるも、互いに快心の笑を浮かべるのみにて語らず。わが水雷戦隊はなおも堂々の進撃を続行す。続いてまた『左五十度方向に敵艦』と船橋伝声管は叫ぶ。
 しばらくして、敵艦と報じたるは、島の誤りなりと伝えてきた。されど、一同黙して語らず、一時たりとも油断は許されず。錨地まであと二十分、艦は黙々と進む。

大発動艇

 一三・三〇、予定通り投錨を完了す!既に大発艇は、キスカ島守備の勇士たちを乗せ、堂々と整列するわが水雷戦隊の各艦目ざして驀進し来たる。
 視界は良好となり、各艦の収容作業一目瞭然に映し出され、いささか気がかりなり。しかし、霧は空低く垂れこめ、敵機も余程の超低空飛行せぬ限り発見される恐れなし。
 わが乗艦響(ひびき)より見れば、眼下に停止せる大発には、陸軍守備隊員が鈴なりに乗っている。あっと見る間に、一斉に銃を海中に投じて艦によじ登ってくる。一刻を争う時である、急がねばならないのである。
 大発の処分は、最後に残った勇士がツルハシを振って穴をあけ海没せしめた。全員乗艦完了。大発の沈没を見守りつつキスカに訣別した。
 一五・〇〇旗艦を先頭に、わが水雷戦隊は堂々と進発を開始す。ああ、この厳然たる偉容を目のあたり見るとき、帝国海軍の一員として、国防の第一線に活躍できる身の幸福を誰か思わぬ者があろう。」(同上書 p.392-393)


かくして、陸軍2410名、海軍2773名、合計で5183名を収容した艦隊は全速力でキスカ島を離れ、7月31日から8月1日にかけて幌筵に帰投、キスカ守備隊員たちは、当時わが国の国土であった北千島の土を踏むことができたのであった。

キスカ島から潜水艦で司令部のある幌筵に渡り、第五艦隊司令長官にキスカ島守備隊の撤収を進言した藤井一美陸軍少佐は、巡洋艦木曽に乗艦して、この撤退作戦が大成功に終わったのを見て感激し、涙したという。

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藤井氏はこの作戦について、『キスカ戦記』で次のように纏めておられる。
「こうして、天佑ともいうべき海霧の状況、敵封鎖艦隊の引揚、指揮官の名察、陸海軍の協同など、この作戦が成功した要因をあげることができるが、私は、最後の原因としてアッツ島玉砕勇士英霊の加護があったことを信ぜざるを得ない。
 キスカ島周辺における米艦隊の包囲解除という驚くべき錯誤は、7月29日であり、この日にわが艦隊が突入を決行し作戦は成功した。奇しくもこの日は5月29日というアッツ島守備隊玉砕2カ月後の命日である

 また、キスカ突入の前夜、敵艦隊のレーダーに写り、その弾薬と燃料の消費を強いたのも、山崎部隊の霊魂が創り出した、幻の日本艦隊であったように思われてならないのである。
 兵家の言に『戦場の実相に処し、正しい判断を誤らず常に自らの必勝を信じて一致団結、精魂を傾けるところに戦勝の道は開け、神仏の加護もある』とあるが、このことをつくづく知った次第である。」(同上書 p.405)

「アッツ島の戦い」について少し補足すると、アッツ島守備隊の兵力は2650人とキスカ島の半分以下にすぎなかった。日本軍は、米軍が最初に上陸するのはアメリカ本土に近いキスカ島であろうと考えていたので、キスカ島に多くの守備隊を置いたのだが、米軍は防備不全なアッツ島に11000人の兵を送り込んで2、3日で奪取したのち、キスカ島を孤立させて攻略する作戦に出た。

北海守備第2地区隊長 山崎保代
【部隊長 山崎保代】

米軍がアッツ島に上陸を開始したのは5月12日のことだが、アッツ島の守備隊は必死の抵抗を続け米軍を手こずらせた。しかしながら、28日には守備隊のほとんどの兵が失われ陣地は壊滅し、翌29日に山崎部隊長以下残存兵300名が最後の突撃を行ない玉砕したのである。
しかし、アッツ島の守備隊は勇敢に戦った。圧倒的な兵力差がありながら、18日間戦い抜き、米軍には戦死者が600人、戦傷者が1200人出たという。

藤井氏の文章の「キスカ突入の前夜、敵艦隊のレーダーに写り、その弾薬と燃料の消費を強いたのも、山崎部隊の霊魂が創り出した、幻の日本艦隊」というくだりは、前回の記事で書いた7月27日の夜の出来事を指している。この日に米艦隊が、レーダーの誤反応を日本艦隊と見間違え、濃霧の中で36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発を撃ちまくり、弾薬補給の為に400kmも離れたアダック島の基地に戻って行ったことを指している。確かに、日本軍に対する異常なまでの恐怖心がなければ、米軍がこんな無駄な弾薬の使い方はしないのではないかと私は思う。

「アッツの英霊のご加護」という言葉は、藤井氏だけが書いているのではない。『キスカ戦記』を読むと、何人かが同様のことを書いておられる。

例えば海軍上等兵曹の森勇氏は
アッツ島で玉砕された方々のご守護によって内地の土を踏むことができた私らは、心から玉砕された方々のご冥福をお祈りせずにはおれません。」(同上書 p.379)

また海軍上等主計兵の伊藤正俊氏は
「幌筵へ帰投航海の途中、アッツ島沖合を通過するとき島のほうから『万歳』の声が聞こえ、アッツ島の英霊がわれわれを守ってくれたと艦内の話題になったが、奇しくも撤退成功の日、7月29日は、アッツ島玉砕の2ヶ月目の命日であった」(同上書 p.382)
とあるので、多くの兵士が藤井氏と同様な思いを懐いていたようなのだ。

アッツ島沖合で英霊たちが『万歳』と叫ぶことはなかったと思うのだが、多くの兵士がそう感じたほど、不思議なくらいに幸運な偶然が重なったことは事実なのである。

「歴史にイフは禁物」という言葉に逆らって恐縮だが、もしアッツの守備隊が米軍の当初の目論見通り2~3日で米軍に敗北を喫していたとしたら、その後はどのような展開になっていたかを考えてみたい。その場合は、おそらく米軍のキスカ島上陸はもっと早く実行に移されて、キスカ守備隊の多くは生きて帰ることが難しかったと思うのだ。

アッツ島玉砕のあと、米軍は2ヶ月以上もキスカ島への空襲や艦砲射撃を執拗に繰り返し、キスカ守備隊が撤退した後も2週間にわたって無人の島の爆撃・砲撃を続けたのだが、このことは、アッツ島の守備隊が米軍との兵力差をものともせず、18日間を戦いぬいて玉砕したことと無関係ではないだろう。
米軍は、アッツ島の守備隊に対して何度も降伏を勧告したのだが、彼らはそれに応じることなく、最後まで戦いを挑んできたことに驚き、そして死をも恐れずに戦う日本兵に怖れを抱いたのだと思う。だから7月27日には濃霧の中で「幻の日本艦隊」に対し大量の弾薬を費消して、肝腎な時にアダック島の基地に補給に戻ることを余儀なくされたとは言えないか。

そう考えていくと、「奇跡」と言われたキスカ島の全軍完全撤退を成功させたのは、アッツ島守備隊の勇気ある戦いがその重要な要因の一つであるという見方ができるわけで、そのことをキスカの兵士たちの多くが感じて、「アッツ島の英霊」のおかげで自分たちは内地の土を踏むことが出来たと感謝したということなのだろう。

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無人のキスカ島に上陸した米軍に多くの死傷者が出た事情……『キスカ戦記』を読む9

昭和18年7月29日、濃霧の中でキスカ島守備隊の撤収作戦が敢行され、艦隊は守備隊5183名全員を収容後キスカ湾を全速で離脱し、その後も深い霧に包まれて無事に空襲圏外に無事に脱出して、7月31日から8月1日にかけて北千島の幌筵(ほろむしろ)に全艦無事に帰投している。

米軍上陸前に投下された伝単

一方、米軍はキスカ島守備隊が撤退したことを把握していなかった。
前回記事にも書いたが、7月27日の夜に米艦隊が、レーダーの誤反応を日本艦隊と見間違え、濃霧の中で36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発を撃ちまくり、弾薬補給のためアダック島に戻っていたのである。日本軍はそのことを知らなかったのだが、たまたま7月29日のキスカ島に深い霧が出てキスカ守備隊全員撤収を成し遂げた。補給を終えた米艦隊は7月30日にはキスカ島に戻って島の封鎖を再開し、その後2週間にわたり無人となった島に艦砲射撃を繰り返している。もちろん爆撃機や戦闘機による空襲も続けられていた。上の画像は、日本軍の戦意を喪失させるために米軍機から大量に撒かれたビラである。

キスカ島に向かう前にアダック島に碇泊している米艦隊
キスカ島に向かう前にアダック島に碇泊している米艦隊】

米軍はキスカ島上陸とする作戦に向けて着々と準備を進め、予定通り8月15日に100隻余りの艦艇を動員し、34426名の兵士を送り込んで島の西海岸に上陸を果たしているのだが、その動員した兵力が、直近までキスカ島に残っていた守備隊兵力の6倍をはるかに上回る規模であったとは驚きだ。

キスカ島上陸

上の画像は米軍のキスカ島上陸時のものだが、兵士の表情がどことなく不安げで闘志があまり感じられないのは私だけだろうか。

ドナルドキーン自伝

日本文学・日本文化研究で名高いドナルドキーン氏は、米軍より日本語通訳のために必要だとして、無人のキスカ島に渡ったメンバーの一人である。中公文庫の『ドナルドキーン自伝』にはキスカ島上陸時のことがこう記されている。

「8月、アメリカ軍はキスカ島を攻撃した。これも日本軍が占領していた島だった。数週間にもわたって、写真分析班は日本の部隊が動いている形跡は何もないと言い続けていた。彼らの判断では、日本軍はすでに島を離れていた。しかし偵察機の操縦士たちは、現在も高射砲の攻撃を受けていると主張した。操縦士の言葉が信用され、作戦は予定通り進められた。上陸直前になって、ケーリーと私は真っ先に上陸するように命じられた。日本兵が事実残っているかどうか確認するためだった。これは決死隊の任務に等しかった。幸運なことに、操縦士は間違っていた。島には、1人の日本兵もいなかった。私たちは、地下の司令部を見つけた。テーブルのまわりに置かれた座布団は、アメリカ国旗で作られていた。黒板には英語で『おまえたちは、ルーズヴェルトの馬鹿げた命令に踊らされている』と書いてあった。
 私たちに続いて、アメリカの部隊が上陸した。戦うべき相手がいなくて、誰もがほっとした。しかし数日後、別の衝撃が私たちを襲った。海軍の通訳の中でも一番無能な男が、標識を見つけたといって私の所へ持ってきた。『もちろん大体の意味は分かるが、幾つか不確かなところがあるのでね』というのだった。
標識の文字は、この上なく明快だった。――ペスト患者収容所。ペストの血清を送るように要請する電文が、急遽サンフランシスコへ向けて打たれた。それからの数日間というもの、私たちはペストの証拠である斑点が現れていないか不安な面持ちで身体を眺めまわしたものだった。その後何年もたってから、キスカに駐屯していた日本軍軍医の妻が明らかにしたところによれば、彼女の夫はアメリカ軍が見つけることを予期して、その標識を書いた。つまり、冗談だったのだ。しかし、誰も笑わなかった。」(『ドナルドキーン自伝』Ⅰ-9)

キスカ指令室の落書き

ドナルドキーン氏がキスカ島で見た、日本軍の落書きと思しき写真がAlaska’s Digital Archivesに残されている。URLを紹介しておく。
http://vilda.alaska.edu/cdm/singleitem/collection/cdmg21/id/10290/rec/51

キスカ戦記』には、撤収する前に上陸後の米軍を攪乱する目的で、軍服を着せた人形を高射砲の砲座にくくりつけたり、食卓上に食事を準備しているように見せかけたり、洗濯物を大っぴらに風にはためかせたり、地雷やダイナマイトを仕掛けたり様々な仕掛けをしたことが書かれていたが、「ペスト収容所」というのも日本軍が考えた仕掛けの一つなのだろう。

ドナルドキーン氏は何も書いていないのだが、米軍のキスカ島上陸時に少なからずの被害が出ている。Wikipediaによると戦死者122名、行方不明191名、駆逐艦1隻大破と、無人島に上陸したにしては結構大きな被害である。
駆逐艦の大破は触雷によるものだそうだが、戦死者が多かったのは別の理由である。なぜ無人の島に上陸した米軍にこれだけの戦死者が出たのか。
この間の事情は、Wikipediaの解説がわかりやすい。

戦艦ペンシルバニア
【戦艦ペンシルバニア】

当時アメリカ軍は前例(アッツ島での玉砕)により、『撤退作戦の失敗が重なれば日本軍は直に徹底抗戦に出るだろう』と考えていたことに加え、撤退作戦前日にレーダーの誤認を日本軍の艦艇と勘違いし砲撃し、撃退したと思い込んでいた。その後、弾薬補給のため一日だけ警備ががら空きになっていた日に、(アメリカ軍の事情はもちろん知る由もない)日本海軍が救出作戦を行っていたため、アメリカ軍としては『前日に日本軍艦を砲撃し、撃退した』ので、次の日もノコノコと日本軍が救出作戦を試みるなど、予想が出来なかったのである。もちろん弾薬補給の後、アメリカ軍は翌日には海上封鎖を再開していた。
アメリカ軍は勿論日本軍が撤退したとは知らなかったため、通常通り艦砲射撃を行い、上陸作戦を行った。そのため上陸後、周囲を警戒するが、『いるはずの日本軍』が一向に攻撃を仕掛けてこないので兵士たちは疑心暗鬼に陥ってしまった。『いつ不意を付かれて襲われるか分からない』と更に兵士達の緊張状態が高まった結果、動く物を無差別に日本軍兵士と勘違いし同士討ちが起きたのである。アメリカ軍は前述の通り日本軍の撤退を知らなかったため、同士討ちが起きても仕方ない状況だったと言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6

キスカ島の日本軍は犠牲者を出さずに米軍に多大な損害を与えたことになるのだが、戦後のわが国では、このような戦勝国アメリカにとって都合の悪い史実はあまり知らされてこなかったし、また、日本軍の兵士たちが、人間的に温かみのある存在であったことについても描かれることはほとんどなかったと言って良い。

キスカ島に残された米空軍勇士の墓

キスカ島に上陸した米軍の兵士が、日本軍がたてた米軍のパイロットの墓を発見してカメラに収めている。上の画像は米国ではネットで多くの人が紹介しているようで、ネット検索で容易に見つけることができる。
墓標にはこう記されているのが読める。
“Sleeping here, a brave air-hero who lost youth and happiness for his Mother land. July 25 - Nippon Army.”
http://greatestgeneration.tumblr.com/post/43684663217/a-grave-marker-on-kiska-island-in-the-aleutians#.WCb6v9XfOUk

この墓は昭和18年の7月にたてられたものだが、同年の3月にも米軍兵士の墓をたてた記録が『キスカ戦記』に出ているので紹介しておこう。

昭和18年3月17日にキスカ島松が崎高角砲台の1番砲が被弾し23名の死傷者が出た。それから毎日のように対空戦闘が続き、3月31日に撃った弾が敵機5機のうち1機に命中し、キスカ湾上空で空中分解をはじめて回りながら海中に墜ち、敵機搭乗員の1人は黒焦げになってすぐ近くの谷間に落ちていたという。

松が崎砲台長・海軍大尉の三輪勇之進氏の手記にはこう書かれている。
「一番砲の戦友が死んだ時、砲台員は『敵の奴ら落ちて来てみろ、ただでは捨てておかんぞ』という言葉を繰り返した。私も敵を捕らえて一寸刻みに斬り殺したいと何度思ったかわからない。だが、黒焦げになって落ちてきた敵飛行機搭乗員の死体は誰が言い出すともなく土の中に葬られた。そして木の十字架をたて『アメリカ飛行士の墓、昭和18年3月31日戦死』という墓標が建てられた。鬼畜のような敵アメリカ人、戦友の命を奪った敵の端くれ、その死体を葬るよりほかに鬱憤の晴らし方を知らぬ部下の気持ちが私にはよく判った。それは武士道というものをも超えている。私も私の部下もこの自分自身の気持ちを持て余しながらどうすることもできないのだ。」(『キスカ戦記』p.238)

無名戦士の墓

以前このブログで、南京陥落に際して日本軍の死者だけでなく中国兵の死者の墓標を立てたことを写真付きで紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

日本兵は、仲間を何人も殺してきた憎むべき敵の兵士の亡骸を丁重に葬ってきたことについて、もっと広く知られて良いと思うのだが、戦後の長きにわたりわが国では、日本軍人のいい話が、マスコミや教材などで封印され、軍人は悪い存在だとして貶められてきた。しかしながら、憎き敵兵の墓標を立てて仲間と共に弔う軍人が「邪悪な存在」であろうはずがないではないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良いように歴史を書き替えるものである。
そして戦後のわが国でマスコミや教育機関を通じて広められてきた歴史叙述は、所詮は第二次大戦の戦勝国にとって都合の良いように描かれたものであると言って良い。

中国軍が、わが国を戦争に引きずり込むために大量日本人居留民を虐殺した話や、都市空襲や原爆投下、シベリア抑留など戦争犯罪の重さはむしろ戦勝国側にあると思うのだが、多くの戦争犯罪に手を染めた彼らが「戦勝国にとって都合の良い歴史」を描くためには、日本に勝利することに大義があったというストーリーにするしかなく、そのためには日本軍はよほど邪悪な存在でなければそれが成り立たないことは、少し考えれば誰でもわかる。

「戦勝国にとって都合の良い歴史」を広めようとする側にとっては、日本の軍人のなかに国民の英雄が何人も存在したり、兵士が肯定的に描かれることは拙いことであり、そのために、戦前は教科書で英雄とされた乃木希助や東郷平八郎が、最近の標準的な教科書では名前すら記載されなくなってしまっている。司馬遼太郎が、小説の中で史実を無視して乃木希助を「愚将」と貶めて描いたのも、同様な理由で、何らかの圧力があったのではないかとも思う。

しかしながら、終戦後70年以上が経過し、戦勝国間の関係が大きく変化してきた。アメリカは財政的な理由からアジア太平洋地域に対する軍事関与を控えようとする動きがあり、一方で東アジアにおける中国の強引な海洋進出を警戒する動きもある。
中国にとってはわが国の国民の大多数がいつまでも『自虐史観』に洗脳されている状態が好都合なのだろうが、アメリカはその逆を考えることになるだろう。「戦勝国にとって都合の良い歴史」は、次第に一枚岩ではなくなっていくことになる。
ここ数年来、東京裁判史観を否定する書籍がわが国で相次いで出版されているのだが、それもその動きの一部であるのかもしれない。

最近の近現代史出版物

また、最近の歴史研究の動きは、近い将来に東京裁判史観を覆す可能性を秘めている。
第二次大戦前後にアメリカ国内に多数いたソ連のスパイやエージェントがモスクワの諜報本部と交わした極秘通信をアメリカ陸軍省特殊情報部が傍受していて、1946年以降に解読に成功した文書を『ヴェノナ文書』と呼ぶが、近年この研究が進んで、日米の政権や軍部の中枢部にソ連のスパイやエージェントが多数暗躍していたことが明らかとなり、日米戦争を惹き起こしたのはソ連のスパイたちであったという視点に立って、アメリカでは近現代史の見直しが進んでいるという。

このような研究成果が今後どの程度わが国に紹介されるかどうかはわからないが、いずれ「日本の軍国主義者が世界征服を狙って大東亜戦争を引き起こした」とする東京裁判史観は否定され、近現代史は全面的に見直される流れが強まることになるのだろう。

キスカ戦記

随分脱線してしまったが、キスカ島の話に戻そう。
京都にいる友人の紹介により奇跡のキスカ撤退作戦を経験された中村さんという方から体験談を拝聴する機会があり、その際に貴重な『キスカ戦記』という本を預かって、兵士たちの手記を読みながらここまで連載を続けてきた。

25mm機銃と兵士

私にとってはこれだけ多くの兵士たちの手記を読むのは初めての経験であったが、読み進んでいくと彼らの苦悩が痛いほど伝わってきて何度も涙がにじんだ。
ひと昔前なら、私自身もマスコミの垂れ流す歴史観に洗脳されていたので、戦争原因を作った日本軍兵士の手記などに見向きもしなかったと思うのだが、今回キスカ守備隊兵士たちの手記を読んで、その男らしさに感動し、最前線で身命を賭して戦われたことに感謝したい気持ちになった。

戦争となって最前線に派兵された兵士たちが、充分な闘志もなく、簡単に戦いに敗れてしまっていたとしたら、戦後のわが国はどうなっていただろうか。ドイツや朝鮮半島と同様に戦後日本列島は戦勝国に分断され、今も白人に支配されている国に成り下がっていてもおかしくなかったのではないか。

北清事変連合軍兵士

以前このブログで、義和団事変のあと英仏露独などの連合軍に統治された北京では、日本軍が統治した地域以外はいたるところで連合軍兵士による略奪や強姦が起こったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html
わが国が第二次大戦敗戦後にこの時の北京のような修羅場にならなかったのは、日本軍兵士が勇敢に戦ったことと無関係だとは思えないのだ。

マスコミなどが垂れ流してきた「日本軍人を邪悪な存在」とする従来のイメージを一旦リセットして、このシリーズで紹介した『キスカ戦記』の兵士たちの手記を多くの人に読んで頂きたいと思う。軍国主義臭のない、愛国心溢れる昔の日本人兵士たちの生の声が、なぜわが国のマスコミなどでほとんど伝えられてこなかったかについても考えて欲しい。

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【ご参考】ソ連のスパイやエージェントはわが国の政府や軍部の中枢にも根を張っていたことは、多くの史料で確認できますが、戦後のわが国では、「戦勝国にとって都合の悪い史実や史料」などは長い間封印されてきました。

興味のある方はこのブログの「戦争と共産主義」カテゴリーの記事をいくつか覗いてみてください。

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-412.html

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html

日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-450.html


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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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