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香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて

香住の宿をチェックアウトし、干物などの海産物を買い求めてから拝観を予約していた帝釈寺(0796-36-0717)に向かう。3年前に香住に来たときには、予約していなかったので寺の境内を散策しただけで終わってしまった。

帝釈寺

この寺は決して大きな寺ではないのだが、古い歴史を有しているだけでなく寺の創建に関して興味深い伝承を持つ寺である。

寺の案内板にはこの寺の創建についてこう書かれている。
「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。」

仏教の受容を巡って 蘇我氏と物部氏との対立が2代にわたり続いたのだが、2代目の蘇我馬子と物部守屋との抗争について『日本書紀 巻第二十』にはこう記されている。
「(敏達天皇14年)3月1日、物部弓削守屋大連と、中臣勝海大夫は奏上して『どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ』といった。天皇は詔して、『これは明白である。早速仏法をやめよ。』と言われた。
 30日、物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣をつつけた。馬子宿禰と、これに従った僧侶たちを責めて、人々に侮(あなど)りの心をもたせるようにした。佐伯造御室(さえきのみやっこみむろ)を遣わして、馬子宿禰の供養する善信尼(ぜんしんのあま)らを呼ばせた。馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく歎き泣きさけびながら、尼らを呼び出して、御室に託した。役人はたちまち尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭うつ刑にした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 下』p.68-69)

物部守屋が焼け残った仏像を捨てさせたという敏達天皇14年は西暦の585年で、この蘇我・物部両氏の対立は、2年後の587年に起きた丁未の役で蘇我馬子が物部守屋を滅亡させて仏教受容に対する抵抗勢力は姿を消し、593年には蘇我氏が支援した推古天皇が即位してわが国で仏教が拡がっていくことになる。

帝釈寺で頂いたパンフレットによると、御本尊の帝釈天王は「推古天皇の6年、聖徳太子が宮中に於いて勝鬘経を講ぜられし際、帝釈天の霊験に深く感ぜられ、太子自ら刻まれた等身帝釈天王像三躯の中の一躯であると伝えられており、…当時、仏教の排斥を唱えた守屋大臣の為に尊像は浪華の津に投入されたが、後に、縁あって天武天皇白鳳4年、下浜枕ヶ崎の一ノ瀬に漂着」と書かれている。
推古天皇の即位は物部守屋が丁未の役で滅ぼされた6年後の593年で、聖徳太子が帝釈天像を彫ったとされる推古天皇6年は598年という計算になり、その仏像が587年に滅ぼされたはずの物部守屋の命令で海に捨てられることはあり得ないことなのだが、このような伝承が、京都や奈良から遠く離れたこの寺に残っているということは興味深い。

帝釈寺本尊帝釈天像

上の画像は、パンフレットに掲載されている御本尊の帝釈天像で、秘仏として12年に1度だけ公開されるのだそうだ。像内背面に西暦1301年を意味する「正安三年七月十日」の墨書があり、鎌倉時代後期の作であることが確実なようだが、聖徳太子の作ではないにせよ、美術的にも価値ある仏像であることには相違なく、兵庫県の重要文化財に指定されている。

パンフレットによると、その後帝釈寺は「室町時代初期には七堂伽藍完備して一山寺院三十三坊を有し、山陰屈指の名刹として後亀山天皇至徳二年*には、勅命を受けて国家の安泰と内乱の平静のため法華経八巻を数十部印刷の上、諸願成就の大祈願をなす」ほど栄えたのだそうだが、その後衰退し、天文年間**に寄進を受けて復旧するも何度か兵火にかかり、現在の堂宇は元禄宝永***の頃に建てられたものだという。
*至徳二年:至徳は北朝の元号で至徳2年は西暦1385年
**天文:西暦1532~1555年
***元禄宝永:元禄(1688~1703)、宝永(1704~1710)


帝釈寺 枯山水の庭

住職に最初に案内されたのは枯山水の庭園で、現在香美町の文化財に指定されている。パンフレットの解説によると
「中央の巨石は礼拝石と神仙島を兼ねた一石で、…左に神秘的な岩島を組み、右にめでたい宝舟を置いた祝儀思想の蓬莱式庭園である。
 江戸時代初期の作庭であるが、一説に小堀遠州作の伝来もある」とのことである。

帝釈寺 本堂

次に江戸時代に建てられた本堂に案内される。本尊帝釈天は厨子の扉が閉じられていたが、地蔵菩薩(平安時代?)、不動明王(南北朝時代)、四天王立像(南北朝時代)などの諸仏が安置されている。内部の写真撮影を許可いただいたのはありがたかった。

帝釈寺 仁王像

上の画像は仁王像だが、かつてはこの寺の仁王門があって再建されないまま本堂に安置されている。寛政6年(1794)に制作されたなかなか立派な仁王像なのだが、右腕が抜けているなどかなりの修理が必要で仁王門から建てなおすとすると、かなりの浄財が必要となる。住職の夢がかなう日は来るのだろうか。

最後に浄聖殿(収納庫)に案内される。ここに国の重要文化財である聖観音立像が収納されている。上の画像は住職に写真撮影の許可をいただいて撮影したものだが、国の重文に指定されている仏像の撮影を許して頂いたのは初めてのことである。

帝釈寺 聖観音立像

この仏像は、冒頭で紹介した案内板には大宝2年(702)に法相宗の開祖である道照上人が自ら刻んだと伝えられていることが記されていたが、『続日本紀』には道照上人が文武天皇4年(700)に没したとの記録があるのでこれもあり得ないことである。パンフレットの解説では、「平安後期の地方色を示す秀作である」と表現されている。
風雨に曝され虫に食われて下半身はやや損傷しているものの、桧の一木造の立派な仏像で、柔和な面貌とふくよかな上半身が印象に残った。

住職にお礼をして次の目的地である大乗寺(0796-36-0602)に向かう。帝釈寺からは4km程度なのですぐに到着する。
大乗寺 クス

兵庫県指定文化財である山門を抜けるとすぐ左手に香美町指定天然記念物の大きなクスの樹がある。樹齢は約800年で樹高は28m、幹回りは6.55mもあるのだそうだが、樹勢が強くて幹が山門の屋根瓦に年々接近し、このまま放置すると山門が倒壊する恐れがあることが、2年前の新聞記事に出ている。
http://www.sankei.com/region/news/141108/rgn1411080077-n1.html

大乗寺 石仏

このクスの根は四方に立派に張りだしていて、まるで土を盛って幹の周囲を固めたかのようである。上の画像はクスの横にある石仏を撮影したものだが、画像の左下に写っている苔むした部分は土ではなくこのクスの根である。

大乗寺 客殿

大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら聖観世音菩薩立像を彫刻して本尊として創建されたと伝えられているが、その後戦乱を受けて衰退し、江戸時代天明年間の住職、密蔵上人が再興を試み、弟子の密英上人が再興をはたした寺である。上の画像は県指定文化財である客殿である。

大乗寺 応挙

客殿の正面に円山応挙の銅像が置かれている。
客殿には応挙とその弟子12名が描いた襖絵や屏風などが多数残されていて、そのうち165点が国の重要文化財に指定されている。

では、どういう経緯で円山応挙が弟子たちとともにこの寺に多くの作品を残したのか。

以前このブログで、京都府亀岡市にある金剛寺のことを書いた。
円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていた。
玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っているのだが、京都で絵を学ぶための資金を援助したのが大乗寺の住職だった密蔵上人だと伝えられている。

大乗寺再建の普請が始まった天明6年(1786)に密蔵上人が亡くなり、翌天明7年(1787)に新住職となった密英自らが上洛して応挙に襖絵の作成を依頼し、応挙は亡き密蔵上人の恩にむくいるために弟子たちと共に襖や掛軸を飾る絵を描いたという。そのような経緯からこの寺には応挙や弟子たちの襖絵だ多数あることから、「応挙寺」の名で親しまれている。

応挙と弟子たちが描いた絵は、『大乗寺円山派デジタルミュージアム』の『客殿めぐり』ボタンをクリックすると、誰でもネットで閲覧することができる。
http://museum.daijyoji.or.jp/index.html

大乗寺襖絵

客殿での写真撮影は禁じられているのは残念だったが、ネットで円山応挙が寛政7年(1795)に描いた『孔雀図』の画像が出ていたので紹介しておこう。
墨だけで描れた作品であるにもかかわらず、孔雀や松に色彩が使われているようにも見えてくる。応挙はこの絵を描いた年に亡くなっているのだが、孔雀の羽根の一本一本が信じられないほど細部まで細い線で描きこまれているのに驚いてしまった。応挙はこの大作を完成させて命を縮めてしまったのではないだろうか。

旅塵

歌人の吉井勇が、昭和9年の3月にこの大乗寺を訪ねて、歌集の『旅塵』(昭和19年刊)に六首の作品を発表している。『国立国会図書館デジタルコレクション』にこの歌集が収録されているので誰でもネットで読むことができるが、三首だけ紹介しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128154/59

「應擧寺の墨絵の孔雀襖より歩み出づることもありにけむもの」

「ありがたき香住の寺の襖絵のいみじき松は見るに飽かなく」

「應擧寺を出づれどこころ繪に残り襖の松の鳴るをなほ聽く」

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【ご参考】
円山応挙の襖絵はこんな寺にも残されています。金剛寺というのは応挙が少年時代に小僧として生活した京都府亀岡市にある寺です。この寺も「応挙寺」と言われています。

円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-110.html

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html


仏教伝来に関する歴史を追ってみました。興味のある方は覗いてみてください。
新しい記事を書きながら、手作業で旧メインブログのBLOGariから記事を移しましたので、この頃の記事のエントリーナンバーが逆転しています。

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html



関連記事

名勝猿尾滝から但馬・丹波の名工の彫刻が残されている古社寺を訪ねて

大乗寺の観光を終えて、但馬三名瀑の一つに数えられ、日本の滝百選にも選定されている猿尾滝(美方郡香美町村岡区日影)に向かう。大乗寺からローソン香美町村岡店(☎0796-94-0800)を目指して走り、さらに400mほど山陰道を直進すると猿尾滝口の交差点があり、そこを左折して1km程度走れば猿尾滝の駐車場がある。

猿尾滝1

紅葉の名所としても有名な場所なのだが、訪れた日にはだいぶ落葉が進んでいた。もう数日早く来ていればもっと美しい景色を楽しめただろう。

案内板にはこう書かれていた。
「この滝は『猿尾滝ヒン岩脈』で形成された高さ60メートルの滝です。滝の景観が猿の尾に似ているところから猿尾滝と名付けられました。
 ブナ、モミジ、サクラ、ケヤキ、マツなどの自然里と都の調和が美しく、春は新緑の滝、松は納涼の滝、秋は紅葉の滝、冬は氷壁の滝にその姿を変えます。
 古くから妙見山名草神社の参道から仰ぐ美しい滝として知られており、村山藩主山名公は『ソーメン流し』を楽しんだと言われています。」

細い道を進んで滝壺に向かう。

猿尾滝2

滝は二段になっていて、上段の雄滝は水がゴツゴツした岩肌を流れ落ち、下段の滝は岩の割れ目を滑らかに流れ落ちる。
以前は上段の滝壺に繋がる道を歩くことが出来たのだが、3年前の4月に落石があり、それ以降通行禁止が続いているのは残念なことである。

名草神社三重塔

案内板に書かれていた妙見山名草神社(養父市八鹿町石原字妙見1755 ☎079-662-2793)は、以前このブログで紹介したとおり、寛文5年(1665)に島根県の出雲大社から三重塔を譲り受けた頃は日光院という寺院であったのだが、明治の廃仏毀釈で日光院は強制的に名草神社と名前を変えられて、日光院にあった仏像や経典などの寺宝は末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込まれた。そして出雲大社から譲り受けた塔は今も名草神社の所有とされ国の重要文化財に指定されている。神社の境内に塔があるのは神仏習合の時代は当たりまえのことであったが、明治初期にほとんどが破壊されるか移転されてしまった。現在でも神社の境内に塔が残されている事例は20程度あるのだそうだが、この名草神社の三重塔はなかなか美しいので、時間があれば立ち寄られることをお勧めしたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

粟鹿神社鳥居

猿尾滝から途中で昼食を取り、次の目的地である粟鹿(あわが)神社(朝来市山東町粟鹿2152 ☎079-676-2465)に向かう。
但馬国にはどういうわけか一宮が2つあり、この粟鹿神社も、出石町にある出石神社も丹波国一宮なのだそうだ。

「粟鹿」とは珍しい名前なので調べると、ご祭神の彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が但馬一帯を平定し、山に登り国見をしていたとき、1頭の鹿があらわれ、口にくわえていた三本の粟を献上したことから、この山を粟鹿山と呼び、山の麓に鎮座する神社を粟鹿神社と呼ぶようになったという。
一説ではこの神社の歴史は2000年以上あるとも言われていて、『古事記』や『日本書紀』よりも古い和銅元年(708)に記された『粟鹿大明神元記』には大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとことなどが記されているという。

粟鹿神社 勅使門

粟鹿神社は『延喜式』式内社のなかでも社格の高い名神大社(みょうじんたいしゃ)*のひとつで、朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使参向があったことが記録に残っているそうだ。上の画像は勅使門で、朝来市指定文化財となっている。
*名神大社:「名神」は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号。

粟鹿神社隋神門狛犬像

隋神門の随身の背後には木造の狛犬が一対安置されていた。この狛犬の作者や制作年代は不明だが、これも朝来市の指定文化財である。

粟鹿神社土俵

隋神門をくぐると土俵がある。
本来相撲というものは神に奉納されるものであり、昔は神社の境内に土俵があるのが珍しくなかったかもしれない。相撲の奉納のあるときはこの土俵の周りに多くの人々が集まって神社は賑わったことだろう。

粟鹿神社

そして土俵のすぐ近くに拝殿がある。
拝殿は、なかなか立派な建物で、その奥に本殿がある。

今回訪問しなかったが、この神社から900mほど奥に當勝(まさかつ)神社(朝来市山東町粟鹿2143 ☎079-676-2199)という神社がある。

當勝神社

この神社も1300年近い歴史のある古い神社で、今の本殿・拝殿は幕末に建てられたものだが、彫刻は中井権次一統の第7代橘正次が手掛けたものらしく、『たっちゃんのフォトライブラリー』の写真を見ると彫刻が豪華で見ごたえがありそうだ。次回来るときは訪れたい場所だ。
http://blog.goo.ne.jp/tachan1go/e/5a3a6e0ae9ba648d7686e289cd1647b0

Wikipediaによると、中井権次一統についてこう記されている。
「丹波柏原藩(兵庫県丹波市)の宮大工、中井道源を初代とし、4代目の言次君音(ごんじきみね)以後、9代目の貞胤まで神社仏閣の彫物師として活躍した中井家の一統。6代目権次正忠より権次を名乗ったことから権次一統と称する。徳川家康お抱えの宮大工で日光東照宮や江戸城を手がけた中井正清(1565~1619)の血筋を引くとの説があるが、出自の詳細は不明。現存する作品は北近畿一円に及ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%A8%A9%E6%AC%A1%E4%B8%80%E7%B5%B1

『中井権次作品集』というホームページに、一統が制作した作品の一部が画像で紹介されているが、一統が手掛けた社寺仏閣の彫刻は丹波、但馬を中心に2百軒以上に及ぶのだという。しかしながら明治初期の廃仏毀釈によって仕事がなくなり、9代目の青竜軒中井貞胤(喜一郎)からは社寺の彫刻には携わっていないのだそうだ。
http://gonji.sub.jp/index.html

新井神社

粟鹿神社から丹波市に向かい、新井(にい)神社(丹波市柏原町大新屋514-1 ☎0795-72-0950)に車を停める。
案内板にはこう解説されていた。
「欽明期の創建といわれ、『延喜式』に記載されている市内式内社17社のうち1つです。
 もともとの祭神は天地創造の神、高皇産霊神とされますが、江戸時代のはじめに比叡山延暦寺の守護神である『日吉大社』の分霊が祀られました。日吉大社は俗に『山王権現』ともよばれ、山王の使者が猿であるところから、本殿(県指定文化財)には中井権次正貞の作による一対の猿の木彫像があります。」

新井神社 猿の彫刻

案内板には何も書かれていないが、以前は神仏混淆で神宮寺日吉山王鎮護寺と称する真言宗寺であったという。しかし、明治維新の神仏分離で新井神社の社名に復活したのだそうだ。
上の画像は中井権次一統の6代目の青竜軒中井権次橘正貞の作による猿の彫刻である。

北山稲荷神社

この新井神社のすぐ近くに北山稲荷神社(丹波市柏原町北山190-2)がある。
ここには、この地で石工の技術を磨いた名工・丹波佐吉が彫った石狐があるので立ち寄った。

丹波佐吉は文化13年(1816)に但馬国竹田(現朝来市和田山町竹田)に生まれ、幼くして両親を亡くしたため伯父の家に預けられたのだが、たまたま佐吉が5歳の時にワタリの石工としてこの地を訪れていた難波金兵衛が、佐吉のことを哀れと思いかつ自分に子供がなかったので佐吉を養子としたという。
その後佐吉は、文政5年(1822)に新井村大新屋に居を構えた金兵衛とともに石工の道に精進したが、金兵衛にも子供が出来たこともあり、佐吉は23歳の時に金兵衛の反対を押し切りワタリの石工となり「村上源照信」を名乗ったという。
のちに佐吉が旅職人として大阪で石工をしていたころ、職人同士で技比べをすることになり、佐吉は石で音の鳴る尺八を制作し孝明天皇に献上したところ、天皇から「日本一」と賞賛を賜ったと伝えられている。

北山稲荷神社 石狐

佐吉が丹波大新屋に戻って北山稲荷神社の石狐一対を彫ったのは安政5年(1858)で、佐吉は43歳であったという。
この石狐は丹波市指定文化財となっていて、盗難予防のためか金網越しでしか見ることができないのは残念なことだが、細い前脚や耳、口にくわえている玉など、堅い石をこんなにきめ細かく彫り込めるものかと感心してしまった。
彫る技術もさることながら、造形もまた素晴らしく、檻の中に狐がいるのではないかと思えるほどである。

佐吉に石工の技術を伝えた難波金兵衛の六代目の子孫が今も柏原町大新谷で石材店を構えておられるようだ。地図で見ると新井神社や北山稲荷神社の中間地あたりに店や作業場がある。丹波佐吉もこの辺りで作業をしていたのだろうか。
http://www.boseki-sekizai.net/area_detail/sid1216729439-655852.html

北山稲荷神社から4km少し西に行くと、丹波佐吉の最高傑作とされる狛犬が安置されている柏原八幡神社がある。

柏原八幡神社

以前にこのブログでも紹介したが、この神社の境内のなかに堂々と三重塔が残されている。上の画像は鳥居の正面から拝殿を撮ったものだが、本殿の奥に三重塔の屋根が見えているのがわかっていただけるだろうか。そして拝殿の手前の狛犬一対が丹波市指定文化財の丹波佐吉の代表作である。

柏原八幡神社 丹波佐吉狛犬右

この狛犬は文久元年(1861)、佐吉が46歳の時に制作されたもので、台石の彫刻文字「奉献」は筑前福岡出身の女儒学者 ・亀井小栞の揮毫なのだそうだ。

柏原八幡神社 丹波佐吉狛犬 左 後方

近くで見ると電動器具が無い時代に、どうやってこんなに細かい彫り方が出来たのかと感心する。狛犬の頭部や尾には豊かな体毛が渦を巻き、体毛の少ない部分はヤスリで削ったかのようになめらかで自然な曲線が美しく、しかも脚の指には尖った爪先までしっかり彫られているのがすごいのである。

佐吉はこの狛犬一対を完成させたのち丹波を去り、6年後に再び戻ってきたときには不治の病に侵されていたそうだ。慶応2年(1866)に一体の不動明王像を完成させると、佐吉は人知れず丹波の地を去り、その後もどってくることはなかったという。

柏原八幡神社 社殿

この柏原八幡神社は文化財の宝庫で、社殿は国指定重要文化財であり、三重塔と銅鐘は兵庫県指定文化財である。

柏原八幡神社 三重塔紅葉

運よく紅葉も見頃を迎えていて、朱塗りの塔も美しかった。
この三重塔は戦国時代に焼失後、文化10年(1813)に再建されたものだが、この再建に関わった彫刻師に青龍軒中井丈五郎正忠・倅中井権次正貞、中井徳治正義、岩吉の名が記録されているという。中井権次正貞はさきほど紹介した新井神社の猿の木彫り像を制作した人物である。
またこの神社の拝殿・本殿の彫刻も拝殿の中の木造の狛犬も中井権次正貞によるもので、次のURLで、作品の画像を見ることができる。
http://gonji.sub.jp/kaibaratixyou-3/kaibaratixyou-3.html

当時のわが国の最高レベルの名工が但馬・丹波を中心に活動していて、各地にその作品を残したということなのだが、こういう旅行をしていると、昔は地方が今よりもはるかに豊かであったことがみえてくる。

以前は地域における経済循環が成り立っていてそれなりに豊かな生活があったのだが、次第に規制緩和が進んでボーダーレスとなり、いつの間にか地方は都会資本の大手企業に席巻されて都会の経済循環の中に取り込まれてしまった感がある。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって長い間支えられてきたのだが、都会資本の企業に商圏が奪われて多くの商店や製造業者は廃業して若い人の働く場が失われ、農家は農産物を大手流通に買いたたかれて、零細農家は厳しい生活を余儀なくされることとなる。若い世代は地元を離れて、都会に出たまま戻ってこない。
このような流れを放置したままでは、過去から素晴らしい文化や伝統を承継してきた地域は、先祖が大切にしてきた価値あるものをどうやって後世に残すことができるのだろうか。
また数百年の歴史を持ち貴重な文化財を残している古社寺も、このまま檀家や氏子が減っていっては、建物を維持することすら厳しくならざるを得ない。

この流れを止めるためには、今までとは違う発想が必要だと思う。
国にせよ県にせよ市町村にせよ、伝統的文化財の修復の為にある程度の資金支援はしてきたものの、その文化財を活かして観光需要を高める努力は不充分であったと言わざるを得ない。歴史ツアーなどのイベントを企画して、観光客を増やすことに知恵をしぼる努力をもっとすべきではないだろうか。文化財は宝の山であるという発想が今までは欠落してはいなかったか。

但馬や丹波には、観光地としての知名度は低くとも、素晴らしい文化や伝統が残されており、歴史的にも興味深い地域が少なくない。これだけの文化財が古いままの姿で残っており食べるものも美味しくて安いのだから、もっと観光客を呼び込めてもおかしくないと思う。

太田家
【但馬牛専門店の太田家和田山店】

私はこの地域に来ると、但馬牛や野菜を買い込むことにしているのだが、この地域に限らず、田舎で新鮮な地元の生産物を買うことは旅行の楽しみの一つでもある。

私ができることは旅先でわずかばかりの買い物をして、こんな旅行の記事をブログに書いて読者に伝えることぐらいなのだが、少しでも多くの人にこの地方の歴史や伝統や文化に興味を持っていただけたらと思う。
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【ご参考】
本文にも書きましたが、明治初期の廃仏毀釈で神社の境内にあった仏教施設は破壊されるか移転されましたが、一部の神社で塔が残されています。

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html



関連記事

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯

文久2年(1862)に公武合体策の一環として和宮と結婚した将軍徳川家茂は、翌文久3年(1863)3月に上洛した際、義兄にあたる孝明天皇に攘夷の沙汰を申しつけられ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し諸藩にも通達した。

攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、軍艦4隻を配備して海峡封鎖の態勢をとり、攘夷期日の5月10日に田ノ浦沖に停泊していたアメリカ商船ベングローブ号を砲撃した。ベングローブ号は周防灘に逃走したが、続く5月23日には、長府沖に停泊していたフランスのキャンシャン号には数発が命中し、キャンシャン号から交渉の為に書記官をボートに乗せて陸に向かわせたところ、藩兵が銃撃を加えたために水兵4人が死亡した。
さらに5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号にも攻撃を加え17発が命中し死者4名が出たという。

オールコック卿
【ラザフォード・オールコック】

長州藩はその後も攘夷の姿勢を崩さなかったために、下関海峡は通航不能となってしまった。イギリスの駐日公使ラザフォード・オールコックは、長州藩による攘夷が継続することで幕府の開国政策が後退することを心配していた矢先に、翌元治元年(1864)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきた。
そこでオールコックは日本人に攘夷が不可能であることを知らしむべく、長州藩への懲罰攻撃を決意したのである。

アーネスト・サトウ22-23歳

当時イギリスの駐日公使館の通訳として横浜にいたアーネスト・サトウは著書にこう記している。

「ラザフォード卿は帰任するに際し、実に大きな権限を与えられていた。彼は、長州藩の敵対的態度に対し膺懲(ようちょう)を加えようと決心していた。われわれは、もはや薩摩の好意を獲得したと言っても良かったので、もう一方の攘夷派の首魁(しゅかい)である長州に対しても薩摩に対したと同様の手段を用いるならば、同じく有利な効果が得られるものと充分に期待していた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.115)

サトウが「薩摩藩の好意を獲得した」と述べている点について補足しておこう。
このブログで前年の文久3年(1863)の薩英戦争で薩摩藩が善戦したことを書いたが、薩摩藩が善戦できたのは天候の要因が大きかったことは明らかで、悪天候でなければ射程距離の長いアームストロング砲相手では勝負にならなかったことを薩摩藩が認識し、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると考えてイギリスとの講和談判を開始したことを指している。興味のある方は次のURLの記事を読んで頂ければありがたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

一外交官の見た明治維新

アーネスト・サトウの著書を続けよう。
「…今や一隻も下関海峡を通ることができなくなったのだ。これでは、ヨーロッパの威信が失墜すると思われた。日本国内の紛争に頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかない。
 そこで、ラザフォード・オールコック卿は、時を移さずフランス、オランダ、合衆国代表との提携を実現しようと苦慮し、ついに完全にこれに成功した。そこで大君の政府に対し、日本側が20日以内に下関海峡を再開するという満足な保証を与えなければ、外国艦隊を同地へ急派して、長州藩主の非を正すであろうと警告した
。不思議な偶然の一致であるが、その時ちょうど、長州から洋行していた若侍5名の一行中、その2名が外国から帰朝したばかりのところであった。この2人は、世界を見学して列強国の資源について多少の知識をうるために、前の年ひそかにイギリスに派遣されたのである。その名前は伊藤俊輔(訳注:後、博文)と井上聞多(訳注:後、馨)。この2人は、煉瓦塀に自分の頭をぶっつけるのは無益だということを藩の同志に警告しようと、知識を身につけて、日本に帰って来たのであった。…伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕え、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時に、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。卿は仲間の諸公使の承諾を得た上で、伊藤と井上の二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派したが、その際この両名に1通の長い覚書を託して、藩主に提出させることにしたのである。」(同上書 p.116-117)

洋行前の伊藤博文
【洋行前の伊藤俊輔(後の伊藤博文)】

サトウが記している日本人は、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文と、外務卿、農商務大臣などを歴任した井上馨なのだが、海外渡航が国禁であった時代に長州藩は極秘に若手侍を洋行させていたのである。要するに、長州藩が唱えていた「尊王攘夷」は本物ではなく、当初から二股をかけていたと理解するしかない。
遊学先で長州藩が馬関で外国船を砲撃したことを知り、3人を残して伊藤・井上の2名が大急ぎで帰国して英国公使オールコックに会見し、公使が二人に託した覚書の訳文を持って長州に向かった。

長州藩士時代の井上馨
【長州藩士時代の井上馨】

サトウの著書には、山口で藩主に面談し、その回答についてこう述べている。
「…両人はまず、山口で主君に面謁して四ヶ国外交代表からの手紙を直接渡したと述べてから、主君から託されてきた回答について語り出した。それによると、藩主は重臣との相談の末に、次のような結論に達した。すなわち、藩主は外国代表の手紙の趣旨がもっとも至極なことを充分に認め、また自分の力では西洋諸国の兵力に対抗できないことも承知しているのだが、大君(タイクーン)*から一回、天皇(ミカド)からは再三の命令を受けており、これに従って行動している次第である。だから、自分の責任でやっているのではないし、また許可を待たずに外国代表に回答を与えることは自分の権限外に属する。よって、自分は京都へ上り、意見を具申して天皇の心を動かそうと思うが、それには三か月を要する見込みであるから、それまでは列強諸国が行動を起こすのを待ってほしい、というのだった。」(同上書 p.119-120)
*大君(タイクーン):徳川将軍のこと

伊藤と井上は何等の文書も持たずに口頭で語ったのみで、藩論が攘夷に傾いて収拾がつかず、戦争にならずに済みそうもないとも言った。
二人によると、「外国の代表は大君を見限って大坂へ行き、直接天皇と条約を結ぶために、天皇の大臣たちと会見するのが一番の上策であろうと言った。そして、きわめて痛烈に大君の政治を非難し、幕府が長崎とか新潟とかの、商業の発達しそうな場所をことごとく専有して、内外の交易を全部独占していることを責め、国民の大部分もこれと同じ考えである」とも言ったのだが、なぜ伊藤や井上は長州藩でなく、英国公使官に報告したのだろうか。この点の疑問については後述する。

伊藤・井上による藩主への忠告が失敗に終わったことにより、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実施する旨を幕府に通達した。
なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団が帰国したのだが、幕府は約定の内容を不満として批准されなかった結果、武力行使は予定通り準備されることとなった。

7月27、28日に四国連合艦隊は横浜を出港。艦隊は17隻で、内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻で、総員約5000の兵士が乗艦していたという。
対する長州藩は奇兵隊2000と砲100門で兵力差は歴然としていた。

馬関戦争図
【馬関戦争図】

8月5日の午後から四国連合艦隊の砲撃が始まったのだが、この戦いはどのような戦いであったのか。アーネスト・サトウの記録をしばらく引用させていただく。

「ユーリアラス号から第一弾が発射された。田野浦側の艦隊全部がこれにならった。串崎岬の砲三門を備えた砲台から撃ち出す砲弾が、イギリス旗艦のかなり近くまで飛来すようになったと思う間に、軽艦隊がこの砲台を沈黙させてしまった。やがて、錨綱に発条(バネ)の取りつけをやっていたセミラミス号が、後甲板砲の恐るべき威力をもって砲撃を開始した。その弾丸はほとんど全部命中した。ターキャング号は、たった一門の砲で最善の効果を発揮した。コンカラー号は三発の炸裂弾を発射したが、その中の一発は多人数の密集している砲台軍の間で見事に炸裂した。…」(同上書p.128-129)

下関戦争

こんな具合で、連合軍は圧倒的な兵力差で次々と砲台を占拠し砲を破壊していった。
8月7日には彦島の砲台軍を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲し、8日までには長州藩の砲台は悉く破壊され、火薬庫も焼き払われてしまったという。

高杉晋作
【高杉晋作】

8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は高杉晋作を送り込んで、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号で行われた談判の席に臨ませている。
18日に講和が成立し、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要とする者の売渡しなどのほか、賠償金3百万ドル支払いを長州藩が受けいれて講和が成立したのだが、賠償金については、今回の外国船に対する攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったのであるから、請求すべきは長州藩ではなく幕府であるということになったという。

かくして長州藩は、この「下関戦争」ののち、冒頭のアーネスト・サトウの言葉通りにイギリスに接近することになるのだが、イギリスは元治元年(1864)の時点で明治維新の中心勢力となった薩摩藩・長州藩の両藩を手なずけたことになる。

先ほど、長州藩からイギリスに密留学した者がいたことを書いたが、このメンバーは伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5名で、この密留学の手助けをしたのがトーマス・グラバーである。

実は、グラバーは薩摩藩にも働きかけて、15名の留学生をイギリスに送る手助けをしているのだが、その留学メンバーの中には五代友厚、寺島宗則、森有礼、長澤鼎がいたという。

明治維新という名の洗脳

認知科学者の苫米地英人氏の著書『明治維新という名の洗脳』という面白い本がある。

苫米地氏は、『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』のなかに、イギリスのハモンド外務次官からイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた1866年4月26日付の文書の一節が引用されていることに注目しておられるのだが、その内容は実に驚くべきものである。

日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。じじつ、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」(『明治維新という名の洗脳』p.44)

イギリスのハモンド外務次官は、イギリスの極東政策の現場のトップであった人物であり、イギリスが幕末の日本を裏から動かしていた可能性を感じさせる文章である。

それだけではない。薩摩・長州の留学生たちのことは、パークスらの通信文の中でエージェントと書かれているらしい。通常エージェントと言えばスパイを意味することは言うまでもない。また、歴史家の犬塚孝明氏の『密航留学生たちの明治維新』という著書には、長州留学生たちは留学に必要な授業料を払っていなかったことが記されているのだそうだ。伊藤が支払ったのは2ヶ月分で井上は授業料を全く払っていないという話も興味深いところである。伊藤や井上が最初に長州藩のためではなくイギリス公使館のために動いたのはそういう背景を知らなければ理解できるものではない。

明治維新については、教科書などでは外国人の関与があったことを書いている本はまずなく、テレビでそのような解説がなされることも無い。私自身も長い間、明治維新については日本人によって成し遂げられてわが国が西洋の植民地となる危機から守ったと理解して来たのだが、どうやらそんなに単純なものではなさそうだ。
幕末の志士と呼ばれる若い侍がなぜ異なる藩と横で繋がっていったのか。江戸幕府を転覆させるための資金を薩摩や長州などの藩はどうやって調達したのかなど、理解しがたいことがあまりに多すぎる。不思議なことが多い理由は、多くの肝腎な事実が隠蔽されているからではないのか。

また苫米地氏は、アーネスト・サトウも『一外交官の見た明治維新』のなかで、英国の日本統治方法についてこんな意味深なことを書いていることを紹介しておられる。文中の「両刀階級」とは武士のことである。

もしも両刀階級の人間をこの国から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治は困難ではなかったろう。だが、外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かねばならぬ。さもなければ、そうした企画は完全に失敗に終わるだろう。しかし、この国には侍が多く存在していたのだからこうした事は実現不可能であった。」(『明治維新という名の洗脳』 p.73)

アーネスト・サトウは、日本を植民地化するためには武士を排除しなければならないし、外国人が日本語をマスターしなければならないが、そんなことは不可能だ。日本人を統治は武士に任せるべきであり、イギリスはその武士階級を統治すれば日本を掌握することができるという考えのようだが、よくよく考えてみると今のわが国も、一部の政治家やマスコミや教育界などがどこかの外国勢力に手なずけられていて、いいようにコントロールされている状態が続いているような気がする。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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