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2017年 新年のご挨拶

あけまして おめでとうございます

旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただきまして まことに有難うございました。
多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。

何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやツイッターなどで記事の紹介をしていただいた方、SNSなどでメッセージを送っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。

姫路城 にの門から
【姫路城】

ブログを始めた頃は、正直なところ、日本史をテーマにしてこれだけ長く書き続けられるとは思いませんでした。多くの読者の方から良い刺激をいただいたことにより探究心が湧いて、仕事を終えて帰宅してから、自分なりに調べながら書き続けることが今では私の生活の一部になっています。還暦を過ぎて、こうして充実した日々が送れるのは、良い読者に恵まれたおかげと感謝致しております。

大乗寺 石仏
【大乗寺】

早いものでこの『しばやんの日々』を立ち上げてから8年目に入りました。
当初はBLOGariというブログサービスを利用させていただいて記事を書いていましたが、容量に限界があったために3年前にこのFC2ブログに主要記事を手作業で移し変えて引越しをしました。
それからBLOGariの旧メインブログはそのまま放置していたのですが、そのBLOGariが今年の1月31日にサービスが終了するに伴い、旧メインブログが消滅することになりました。BLOGariにはそれなりの思い入れがあり、多くの読者の方々から頂いたコメントとともに消えてしまうのはちょっと寂しいものがあります。

BLOGari 初期の記事

BLOGariにはあれから記事を書いていないにもかかわらず、多くのリンクを辿って、今も毎日500件程度のアクセスをいただいています。リンクをされた方やコメントなどを残された方は、BLOGariの『しばやんの日々』がなくなってしまいますことをご承知おき頂き、記事をご紹介いただける場合はFC2ブログのURLをご利用いただきたく、以後よろしくお願い致します。次のURLにBLOGariの全記事のURLとFC2に移転した記事のURLのリストを掲載しましたので、ご参考にしてください。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-485.html

又兵衛桜4
【又兵衛桜】

まだまだ勉強不足ではありますが、読者の皆様の応援で元気を頂きながら、本年も引き続き、日本の歴史や文化について私が興味を覚えたことや、疑問に感じたことを調べたり、旅行やドライブで見聞きしたり考えたことなどをこのブログに書き記していく所存です。

近江八幡 八幡堀遊覧1
【近江八幡 八幡堀】

できましたら過去のページも時々覗いてみてください。読んで頂いてもし気に入っていただいたら、ランキングの応援ボタンを押して頂くとありがたいです。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

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なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか

先日このブログで、慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を上海ルートから密輸入して戦争準備を進めたことを書いた。アメリカの南北戦争が終わって用済みとなった大量の最新鋭武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったわけなのだが、この第二次長州征伐の戦争準備のために長州藩は慶応元年(1865)5月にミニエー銃千八百挺、ゲベール銃二千挺を金額合計四万六千両で密輸入する契約をしたという。
すると内戦勃発の戦雲が漂い始めて、欧米の駐日外交官が動き出した。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

開国の真実

「イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表は会談をもち、慶応元年(1865)5月『四国共同覚書』を作成した。四国共同覚書は長州藩のきたるべき幕長戦争に際し、
 第一 日本の内戦に対する厳正中立。
 第二 絶対不干渉。
 第三 密貿易(開港場以外での貿易)禁止。

を取り決め、わが国に対する内政不干渉を申し合わせた。当然の姿勢と言うべきである。
 四国共同覚書のなかで特に重要な意味をもつのは、第三番目の密貿易禁止条項である。
 というのは、当時の開港場は通商条約が定めたうち長崎、函館、神奈川(横浜)の三港であり、
『通商条約で定められた兵庫については勅許がおりないため…』
いまだ開港されず外交懸案事項となっていた。
だから四国共同覚書がうたった第三項の『密貿易禁止=開港場以外での貿易禁止』とは、イギリスの長州藩に対する下関における小銃等の武器密輸出を禁止したことを意味する
 イギリスが長州藩に心を寄せていることは他の三国に周知の事実だった。
 だから第一項の『日本の内戦に対する厳正中立条項』も、第二項の『絶対不干渉条項』も、イギリスが日本の正統政府であり開国方針を堅持する徳川幕府に敵対する長州藩を支援しないよう、フランス、オランダ、アメリカ三国が牽制したものである。」(鈴木荘一『開国の真実』p.250-251)

 かつて徳川幕府はオランダのみに貿易を認めていたのだが、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで通商条約を締結し、それぞれの国が平等にわが国と交易が出来る状態にあった。にもかかわらず、イギリスが通商条約で禁止されている武器を討幕勢力に密売する動きが出てきたことを各国が警戒したのは当然である。
以前このブログで書いたように、当時の最新鋭の銃は幕府軍が所有していた銃と比較して飛距離、命中精度、破壊力に格段の差があり、大量に保有していれば幕府に対し銃撃戦で勝てる可能性が高かったし、イギリスには各国から警戒されるだけの前科があった。鈴木氏の著書の解説を続けよう。

「それなのに幕長戦争でイギリスが長州藩を軍事支援し、最新鋭小銃を装備した長州藩が勝って幕府が敗れ、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事援助したイギリスの独断場となりかねない
 …
 思い返せば結局のところ、清国市場は香港・上海を押さえたイギリスが統治してしまい、他の三国は清国市場から事実上締め出されてしまった
 とくにフランスは『苦い思い』があった。フランスはこれまでイギリス外交に追随してきたが、その結果、良い思いをすることは無かった。対清国外交では、当時の広東駐在イギリス領事パークスが仕掛けたアロー号事件に際し、フランスもフランス人神父が殺害されたことを理由にイギリスと共に安政4年(1857)に清国へ出兵し、更に万延元年(1860)にはイギリスと共に大軍を送って清国を屈服させたのだが…。結果をみると、イギリスが香港対岸の九龍の割譲を得るという戦後処理となって、イギリスが清国市場を独占してしまった
 フランスは、イギリスの外交に追随して『骨折り損』という結果に終わったのである。」(同上書 p.251)

ここで、イギリスが清国に対してそれまでどのような事をしてきたかを簡単に補足しておこう。
『もういちど読む 山川の世界史』にはこう記されている。

「中国では古くから物資が豊かで、日用品の輸入を必要としなかった。このため、イギリスは茶を買い入れるにあたって、中国に銀を支払わなければならなかったが、18世紀末ころから銀にかえてインド産のアヘンを持ち込むようになった。1830年代には中国ではアヘンの輸入が激増し、逆に大量の銀が流出して国内経済が不況におちいった。アヘンの害毒は大きく、清朝はしばしば禁令をだしたが改まらなかったので、ついに強硬な措置を取ることをきめ、1839年、林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。彼はイギリス商人所有のアヘンを没収して廃棄し、一般の通商を禁じたため、イギリスは外交・貿易上の問題点を一挙に武力で解決しようとして翌年遠征軍を送り、アヘン戦争(1840~42年)がおこった。」(『もういちど読む 山川の世界史』p.191-192)

アヘン戦争

林則徐はアヘン吸飲者・販売者の死刑執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求したのだが、それが履行されないために貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し焼却したのだが、イギリスは清に対して焼却されたアヘンの賠償を要求し、それが容れられないために海軍を派遣し中国海岸を北上して1840年に戦端を開いた。
イギリスはこのアヘン戦争で清国を圧倒し、1842年に南京条約が締結されて、清国は上海などの五港の開港および香港島の割譲と賠償金の支払いを余儀なくされたのである。

 このようなとんでもないやり方でイギリスは清国との貿易を開始したものの、その後も綿布などのイギリスの工業製品の中国への販売が伸びなかったため、イギリスはさらなる利権の拡大を武力によって勝ち取ろうと動いている。
再び『もういちど読む 山川の世界史』の解説を引用する。

「たまたま1856年広州港でおこったアロー号事件(イギリス船籍であったアロー号の中国人船員を逮捕した事件)が契機となって、英仏(フランスはカトリック宣教師の殺害事件を口実にした)両国と清とのあいだに戦争がおこった。これをアロー号戦争(第2次アヘン戦争、1856~60年)といい、英仏軍が北上して天津にせまったので、1858年天津条約が結ばれていちおう講和できたが、清が批准を拒絶したため、60年英仏連合軍は北京に進撃し、清は敗れて北京条約を結んだ。天津条約・北京条約によって清はイギリスに九竜(きゅうりゅう)割譲するほか、天津など11港の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教の信仰と布教の自由、外国人の中国内地旅行の自由などを認めた。その結果、欧米諸国の中国における権利は、南京条約にくらべ一段と大きくなった。」(同上書 p.194-195)

アロー号事件

教科書には何も書かれていないのだが、アロー号はアヘンの密輸船でありその船に清朝の官憲が海賊容疑の立入りの検査を行い船員を逮捕した。ところが、イギリス領事のパークスはアロー号はイギリス領香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引きずりおろされたことはイギリスへの侮辱であるとして清国に対し開戦に踏み切ったのである。実際のところアロー号の香港船籍は期限が切れていたらしく、イギリス国旗が降ろされたというのも事実かどうかはっきりしていないというからひどい話である。

こんな理由でイギリスは清国と開戦し、かくしてイギリスは清国を半植民地状態に陥れたわけだが、イギリスがこのようなひどいやり方をしたのは清国に対してだけではなかった。

インド大反乱

イギリスの植民地であったインドで、1857年にムガール帝国の皇帝を担ぎ出してイギリスの植民地統治に反対する大反乱*が全土で拡がったのだが、イギリスはこの反乱を鎮圧するためにイスラム教徒と対立関係にあったパンジャブのシーク教徒を味方につけ、射程距離が長く命中精度も高い新式の銃で、旧式の銃を持つ反乱軍を圧倒し、みせしめのために捕虜となった反乱軍の兵士たちを、大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させるといった極めて残虐な方法で処刑している。

インド大反乱 反乱軍の処刑

このようにアジアの国々でひどい事をしでかした国が、わが国に対してだけは例外的に悪意を持っていなかったかのような幕末の歴史叙述はあまりに不自然で、そのまま鵜呑みにして良いとはとても思えないのは私だけではないだろう。
イギリスは、わが国に対しても清国と同様に、武力を用いてわが国を混乱させ疲弊させて、最後に半植民地化することを考えていたのではないのか。
*大反乱:以前は「セポイの反乱」と呼ばれていたが、最近では「インド大反乱」。インド側では「第一次インド独立戦争」と呼ばれている。

再びイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表が合意した『四国共同覚書』の話題に戻そう。
この覚書は、前述したとおり幕府に敵対する長州藩を支援するイギリスをフランス、オランダ、アメリカの三国が牽制するために交わされたものなのだが、イギリスはこの覚書があるにもかかわらず、長州藩に対する武器の供給を続けているのだ。

江戸幕府は長州藩が密貿易で最新鋭の銃を密輸入していたことを把握しており、幕府探索方が眼を光らせていた。また、長州藩は武器代金を特産物などで支払おうとしたくらいだからそれほどの資金があるわけではなかったようなのだが、では長州藩はどうやってイギリスから大量の武器を手に入れたのだろうか。

鈴木荘一氏は著書でこう解説しておられる。
長州藩がイギリスから密輸入する武器類は薩摩藩名義にして幕府探索方の眼を盗むと同時に、慢性的な米不足に薩摩藩は長州藩からの米の融通を受けて米不足を補い、また長州藩の資金不足を救ったのである。長州藩の武器輸入が『薩摩藩名義』で行われることになると、四国共同覚書によって禁止された長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが可能となった。長州藩が薩摩藩名意義で購入した銃火器類は、薩摩藩の船や長州藩が薩摩藩から購入した船で、長州藩内に搬入された。
 代わりに長州藩は米不足の薩摩藩に軍糧米を融通した。…こうして長州藩は近代兵器を揃えてますます強くなり、薩摩藩も農村の疲弊を顧みることなく強兵政策を推進しますます強くなった。」(同上書 p.256-257)

強兵政策に走ったことで農業生産者が兵士に取られたために薩摩藩では米が不足していた一方、薩英戦争講和後は、薩摩藩は大手を振ってイギリスから最新武器を購入できるようになっていた。そこで薩摩藩名義で長州藩の武器購入契約が結ばれて、薩摩藩の船で武器を長州藩に運び、長州藩の米と交換することで、長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが出来たのだが、その長州藩の武器の取引に土佐郷士の坂本龍馬が関与している

坂本龍馬

坂本龍馬が薩摩藩や商人の援助を得て亀山社中を結成したのが慶応元年(1865)閏5月で、その頃に『四国共同覚書』フランス、オランダ、アメリカの三国がイギリスと長州との密貿易を牽制している。
そして、7月には坂本龍馬の周旋により長州藩の伊藤博文・井上馨が薩摩藩名義でグラバーとミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んでいるのだが、出来たばかりの亀山社中にこんな巨額の取引が周旋出来たのは不自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

パークス

注目したいのは、清国でアロー号事件を仕掛けたパークスが、同年の閏5月に駐日公使として来航し着任している点。パークスは幕末から明治初期にかけて18年間駐日公使を務めたのだが、着任当初からグラバーらが通商条約と四国共同覚書に違反する取引を黙認しただけでなく、同年9月に幕府が第二次長州征伐を開始しようとした矢先に、幕府に対して『下関戦争賠償金第二回以降支払延期要請は、朝廷から通商条約勅許を得ない限り認めない』と突っぱねて、第二次長州征伐の開始を9か月遅らせたのである。
そのおかげで、長州藩はイギリスの支援を得て戦争の準備を整え、翌慶応2年(1866)の1月に坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立するという流れだが、鈴木荘一氏の同上書にはこう解説されている。

薩長両藩の連携は、薩摩藩が長州藩に武器輸入の名義を貸し、長州藩が薩摩藩に軍糧米をを融通する『三角貿易の商取引』がベースになったことは言うまでもない
 イギリス公使パークスとイギリス武器商人グラバーは、反幕府の旗印を鮮明にする長州藩と我が国最強の戦闘集団薩摩藩を合力させ、第二次長州征伐に備えた。こうした事情についてグラバーは、
『つまり自分の一番役に立ったのは、パークスと薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番の手柄だったと思います(史談会雑誌)』
と率直に告白している
。」(同上書 p..265-266)

パーマストン子爵

ついでに言うと、当時のイギリスの首相はアロー号事件、インド大反乱の反乱軍処刑に関わり、以前には外相としてアヘン戦争を主導したパーマストン子爵なのである。こんな人物がイギリスの政治や外交の主導権を握っていた時代にわが国の明治維新が起きていることは、とても偶然とは思えないのだ。

以前このブログで、イギリスのハモンド外務次官が1866年4月26日付でイギリス公使ハリー・パークスに宛てた文書の一節に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と書かれていることを紹介したが、明治維新が「日本人だけから端を発しているように見え」るためには、イギリスが討幕勢力に最新鋭武器の密貿易に加担したように見えては拙いことは言うまでもないだろう。
イギリスには、自国あるいはグラバー商会の意向に沿って動く日本人がどうしても必要になってくるのだが、その人物が坂本龍馬だったという説がある。私はその可能性がかなりあると考えるのだが、みなさんはどう思われますか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html



関連記事

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐

前回の記事で江戸幕末期におけるイギリスの首相がパーマストン子爵であったことを書いたが、この人物は三度外務大臣を務めたのち二度首相を勤め、二度目の外務大臣ときには清国に介入してアヘン戦争を引き起こし、第一次パーマストン内閣(1855~1858)の時にはアロー号事件で清国に対する武力行使を容認して北京を占領し、アロー号戦争中の1858年8月には、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約である日英修好通商条約を締結させている

パーマストン

第二次パーマストン内閣(1859~1865)においても武力にモノを言わせる外交姿勢は変わらなかった。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

「第二次パーマストン内閣は万延元年(1860)には清国に2万人の大軍を送って、天津を奪い、北京西郊の離宮円明園に入り略奪の限りを尽くして火を放って焦土とし、北京条約を結んで香港対岸の九龍の割譲と賠償金8百万両を召し上げ、清国を完全に屈服させた
 第二次パーマストン内閣の対日政策は、当初は駐日公使オールコックの進言によりロンドン覚書を調印するなど柔軟に対応したものの、生麦事件が起きると本来の武断的性格を剥き出しにし、文久3年(1863)には薩英戦争を、元治元年(1864)には四国連合艦隊による下関攻撃を行ない賠償金3百万ドルを幕府に請求した。」(『開国の真実』p.269)
と、相変わらずひどいものである。

鈴木氏によるとイギリスの伝統的植民地政策は、「相手側の民族対立・宗教対立等の国内的軋轢に乗じて、その一方を支援して分割統治を行ない、植民地として支配する」というもので、国内に内紛があれば、イギリスは反政府勢力を支援して政権転覆後に親英政権をつくってイギリスの影響力を再度強めようとしたという。そしてイギリスはわが国においても同様のことを行なおうとしたことは間違いないだろう。

英国策論

薩長同盟が成立した3カ月後の慶応2年(1866)4月、横浜で発行されている英字新聞ジャパンタイムズ紙に、イギリス公使館の通訳官であるアーネスト・サトウが『英国策論』を発表した。しばらく鈴木氏の解説を引用する。

「アーネスト・サトウは有能な通訳官で日本語に堪能で独自の情報を入手できたから、イギリス公使パークスの判断は、アーネスト・サトウの意見に大きく依存するようになった。こうしてアーネスト・サトウは、イギリス公使パークスの片腕とも、助言者とも言うべき立場になった。その後、イギリス公使館の対日政策はほぼアーネスト・サトウの『英国策論』のシナリオどおりに展開していった。そうした意味でアーネスト・サトウは、駐日イギリス公使館における対日政策立案者というべき重要な立場にあった。
『英国策論』の内容は、
『私の提案なるものは、大君(将軍)を本来の地位に引き下げてこれを大領主のひとりとなし、ミカド(天皇)を元首とする諸大名の連合体が、大君(将軍)に代わって支配勢力となるべきだ』

 というものである。更にアーネスト・サトウは、
『外国人は大君を日本の元首と見るべきでなく、早晩、ミカドと直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を強くした』
 とも述べている。アーネスト・サトウ『英国策論』で展開した『幕府の政権担当を否認し天皇を元首とする諸大名の連合意見樹立論』は、幕府政権を否定する長州藩や薩摩藩の主張と合致している。」(同上書 p.272-273)

アーネスト・サトウの『英国策論』は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、次のURLで全文を読むことが可能だが、いささか読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900382

遠い崖 アーネストサトウ日記抄3

『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』を取り寄せて読むと、サトウがこの『英国策論』を著した基本的な考え方が、彼の日記にわかりやすい言葉で記されている。

「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれが望んでいるのは、ただひとりの有力者との条約ではなくて、この国のすべてのひとにたいして拘束力を持ち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽を捨てて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。言いかえれば、われわれは、現状の条約を、日本の連合諸大名との条約によって補足するか、あるいは、前者を後者と取り換えるかしなければならないのである。

 現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。
最近、われわれは、天皇の勅許なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍が自らの行動によって是認するのを知ったのである。

 このことから、天皇は将軍よりも上位にあると、ひとびとが結論したのは当然であり、理屈にかなっている。」(『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』p.255-257)

徳川幕府はペリー来航以降の相次ぐ列強からの開国要求に対し、当初は朝廷の承認を得て和親条約を締結する方針をとったのだが、攘夷主義の朝廷は通商条約の締結に反対して勅許を与えなかったために、大老井伊直弼は幕府の専断で通商条約に調印した。そのために各地で攘夷事件が起こり、列国は幕府の統治能力に疑問を持つに至り、武力を行使して条約勅許の獲得を幕府に迫って、幕府は朝廷を説得して慶応元年10月にようやく朝廷より勅許を得たのだが、この一連の動きからイギリスは、幕府は日本国の元首ではなく条約を批准する権利を持たないと判断し、また幕府と結んだ条約は将軍の管轄地でしか効力を持たず、他の大名たちに対しては拘束力がないと理解した。現状の条約では日英貿易の自由な拡大は難しいため、アーネスト・サトウは幕府に期待するのではなく、条約を締結する相手の切り替えを通して天皇をいただく雄藩連合に政権を移すという意見を表明していたのである。単刀直入に言えばサトウの考えは討幕論だ。

しかしながら、1865年10月に第二次パーマストン内閣が退陣して、その後イギリス本国では対日政策が軌道修正される動きがあった。
新外相クラレンドンは1866年4月9日付で公使パークスに宛てて「日本における政治的影響力の行使を求めるのではなく、たんに通商の発展だけを求め、内乱の際には厳正な中立政策をとる方針」と指示したのだが、船便のためその公信がパークスの手元に届いたのは6月であったという。

ところが、すでに述べたようにアーネスト・サトウの『英国策論』が発表されたのは同年の4月で、イギリスの対日政策は、サトウの描いたシナリオ通り反幕府・薩長支持で動き始めていてそれを逆転させることは困難な情勢にあった。というのは5月に幕府と長州との談判が決裂し、6月には幕府軍が長州に向かっていて第二次長州征伐がいよいよ目前に迫っていたからである。
パークスが新外相の中立指示に従う意思がどれだけあったかはよくわからないが、結局イギリス公使館はサトウの『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めることとなる。

再び鈴木氏の著書を引用させていただく。文中の「幕長戦争」とは、「第二次長州征伐」のことである。

周防大島への砲撃

「こうして幕長戦争が間近に迫ると駐日イギリス公使館は長州藩支持の立場で活発に動き始めた。実は既にこの年の正月、イギリス武器商人グラバーが薩摩藩を訪れ、島津久光の次男島津久治から手厚い接待を受けた。このときグラバーは、薩摩藩とイギリスの友好関係を一層深めるためパークス公使を鹿児島に招くように提案し、薩摩藩は快諾してパークスに招待状を送った。この仲介により…5月20日頃横浜を出帆して薩摩藩訪問の旅に出たパークスは下関に立ち寄り、5月24日、秘かに高杉晋作、伊藤博文と会見し『帰路に長州藩主と正式に会見する』と約束した。その後、パークスは長崎へ向かい長崎にしばらく滞在した。
 一方、第二次長州征伐の開戦が迫ってきた。慶応2年(1866)6月初旬に老中小笠原長行が幕府九州方面軍の主将として小倉に布陣し、6月5日には幕府先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が広島に到着して長州藩包囲態勢が完成し、幕府軍の戦闘準備が整ったからである。
 慶応2年6月7日朝、幕府軍艦富士山丸が長州藩領の周防大島を砲撃し、翌6月8日以降幕府歩兵、幕府砲兵、松山藩兵が周防大島に上陸し、第二次長州征伐が始まった
 長崎に居たパークスは幕長間の開戦を見届けると、早速、活発に動き出した。
 パークスは、6月14日長崎を出帆し、同月16日鹿児島湾に入った。翌日、パークスは島津久光や薩摩藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])と会見して交歓し、その後、数日にわたってパークスと薩摩藩の交換は続いた。この時西郷隆盛は薩摩藩代表としてパークスと懇談を行い、時局認識について腹を割った意見の擦り合わせを行った。この席でパークスは、
『ミカド(天皇)と大君(タイクン:将軍)の二人の君主があるような姿は外国では決して無いことで、いずれは日本も国王ただ一人とならなければ済まないだろう』
と述べ、薩長等雄藩による討幕を示唆し、さらにパークスは、
『このようなことを外国人が言い出すと、日本人は不満を持つようになる。日本人がこれをおのずから決すべきである』
とも述べた
。これに対して西郷隆盛は、
『なんとも外国人に対して面目ないこと』
 と答えた。パークスは西郷隆盛に対し『イギリスは直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない』ことを示して薩摩藩を激励したのである。」(同上書 p.275-277)

イギリスのハモンド外務次官がパークスに宛てた文章に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と記されていることをこのブログで何度か紹介したが、パークスが西郷に話した「(元首をただ一人にするという問題は)日本人がこれをおのずから決すべきである」「直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない」という部分は本国の指示の通りとなっていることは注目して良い。

ところで、幕府軍と長州軍との戦いはどんな戦いであったのか。
以前も書いたが、長州の武器の多くはアメリカの南北戦争で用いられた最新鋭のもので、幕府軍のものよりはるかに射程距離が長く命中精度が高かった。薩摩藩も最新鋭の武器を大量に保有していて幕府から出兵を要請されていたのだが、薩摩藩は出兵を辞退している。一方、幕府軍および幕府軍の要請で出兵した諸藩の武器は一時代古いものが大半だったようだ。

第二次長州征伐

兵の数では幕府軍が長州軍を圧倒していたのが、戦いは最新鋭の武器を大量に持ち、兵の士気の高い長州軍の方がはるかに強かったという。
副将として広島にいた老中本荘宗秀(ほんじょうむねひで)は、大阪にいる老中に宛てて、このように報告している。

長防御討入については諸大名へ人数を差出し候向きも少人数。少し多き分は農民共が過半にて兵勢甚だもって振わず。鉄砲も幕軍はゲペル甚だ少なく、火縄付の和筒のみ。長州は農民に至るまでゲペル銃を用い必取の英気鋭く、なお薩摩も長州へ心を寄せ、イギリスも長州へ応援致し候様子。この分にては、とてもすみやかに御成功はおぼつかなく」(同上書 p.283-284)

本荘宗秀は「ゲペール銃」と書いているが、この銃は江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで購入したもので、長州藩はその銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施され、銃弾にロケット状のものを装填する最新鋭の「ミニエー銃」を多数保有していた。ミニエー銃は銃弾に回転を与えることで飛距離と命中精度が向上し、有効射程はゲペール銃の3~6倍もあったうえに命中した場合の殺傷力が圧倒的に強かった。ミニエー銃を持つ長州軍は、幕軍の銃の届かないところから幕軍を狙い撃ちすることが可能だったのだ。

国会図書館デジタルコレクションに、明治大正の歴史家である中原邦平が明治42年の講演を書き起こした『忠正公勤王事蹟』という本がある。
そこには芸州口で行われた長州藩と幕府軍との戦いをこう記している。

長州征討に出陣す高田藩兵
【長州征討に出陣する高田藩兵】

「そうして小瀬川を渡って、井伊、榊原の兵が陣羽織立烏帽子で押太鼓を打ち、法螺貝を吹き、ブーブードンドンでやって来るところを、不意に西洋の利器で撃ち掛けましたから、ひとたまりもせず、みな崩れて敗走したので、一戦でもって大竹、玖波、小方を占領してしまいました。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782028/312

このように、彦根藩や高田藩は槍や刀で争う時代の戦い方で臨んだために小瀬川ではあっけなく潰滅したのだが、赤坂・鳥越の戦いのように肥後藩細川氏の奮戦で幕府軍が長州軍を圧倒した戦いもあったようだ。

小倉城への砲撃

しかし、第二次長州征伐の戦況が厳しい中、7月20日に大坂城在陣中の将軍家茂がわずか21歳で病没し、それを理由に幕府軍の総督・小笠原長行は戦線を離脱し、小倉口に集結していた九州諸藩の兵士達も相次いで帰国して、孤立した小倉城は長州藩の猛攻を受けて8月1日に落城してしまう。

徳川慶喜は朝廷に休戦協定を願い出て幕府軍は撤退し、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終ったのだが、兵士の数では圧倒しながら長州藩に敗れたことで幕府の権威が失墜し、幕府の求心力が急速に低下していくことになる。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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