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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を除名するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html



関連記事

梅の咲く季節にシーボルトが絶賛した賀茂神社を訪ねて

たまには古い街並みを歩きたいと思って、兵庫県たつの市の室津に行ってきた。

そろそろ梅が見頃のようなので、最初に近くにある綾部山梅林(たつの市御津町黒崎1492 ☎079-322-3551)を旅程の最初に入れていた。

綾部山梅林

この梅林は24ヘクタールの広大な綾部山広陵に2万本近い梅の木が植えられているという。
今年は開花が遅れていて7分咲き程度であったが、充分楽しめることが出来た。この記事をアップする頃は満開になっているだろう。

綾部山梅林 2

漂う梅の香りに誘われて、小鳥の群れが飛び回っていてよく枝に留まりにくる。
鳥の写真は今までなかなかうまく撮れなかったのだが、ここではいくらでも飛んでくるので何回でもシャッターチャンスが訪れる。
こんな写真が私でも簡単に撮れた。この鳥はメジロのようだ。

綾部山古墳群の碑

園内の道を進むと「綾部山古墳群の碑」があり、そのあたりから瀬戸内海に浮かぶ家島群島、小豆島などを展望することが出来る。

綾部山梅林と瀬戸内海

上の画像の島は家島諸島の男鹿島(だんがじま)という名の島だ。
家島諸島には旧石器時代の遺物や遺跡が確認されていて、縄文時代や弥生時代の遺跡もあるという。播磨灘に面したこのあたりは、相当古くから人々の営みがあった場所のようである。

梅林のある綾部山には「綾部山古墳群」と呼ばれている多数の古墳が存在する。
これらの古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られたものと考えられていたのだが、平成14年に行われた綾部山39号墳の試掘調査では、中国で160年頃に製造された鏡が出土し、その古墳は鏡の製作時期から、邪馬台国の時代とも重なる三世紀前半に築かれたわが国最古級の古墳であることが判明したという。場所が分からないので訪問できなかったが、ネットで調べるとこの古墳は梅林の南出入口から新舞子に向かう道路沿いに案内板があるようだ。
www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/2010walk/10walk01.pdf

綾部山梅林 古墳

この綾部山梅林内には16基の古墳が点在し、それらは主に5世紀から6世紀に造られたとチラシに書かれていたが、誰でも見つけることの出来る梅林の中央にある古墳は比較的小さなものであった。

正玄塚古墳

休憩所の近くには正玄塚(しょうげんづか)と名付けられている古墳があるが、これは古墳時代後期に築かれた円墳だという。今は墳丘が崩れて石室が露出しているのだが、横穴式の石室は10m近い長さがあり、結構大きなものである。

綾部山梅林 猿回し

休憩所で梅ジュースのサービスを受けたのち、近くで神戸モンキーズ「くら&とし」の芸があったので足を止めたが、語りもうまいし、芸も見ごたえがあってとても楽しむことができた。

梅林を楽しんだ後で、室津の古い街並みに向かう。

室津 播州名所巡覧図絵
【室津 播州名所巡覧図絵】

「室津」は、かなり昔から良港のある街として知られていたようで、以前は「室原」とよばれていたようだ。713年に編纂された『播磨国風土記』にこう記されている。

「室原の泊(とまり)、室と号(なづ)くる所以は、此の泊は風を防ぐこと室(むろ)の如し。故、因りて名と為す」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165/104
この記述で分かるように、室津港は古代より波が静かで、天然の両港として知られていた。

奈良時代には行基が摂津と播磨の両国の五良港として「摂播五泊*」を定め、その中に室津が選ばれて、その後も海上と陸上交通の要衝として栄え、江戸時代には参勤交代の西国大名のほとんどが海路で室津港に上陸した後陸路を進んだため、港の周辺は多くの宿があったようなのだが、明治になって参勤交代がなくなり、鉄道や道路が出来て急速に衰退していったという。
*摂播五泊:河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室津


カーブの多い細い道を運転しながら、最初に賀茂神社(たつの市御津町室津74 ☎079-324-0034)に向かう。

賀茂神社 ソテツ

駐車場に車を停め、鳥居を抜けて更に石段を進むと右手にソテツが群生している。これは野生状態の群生林としてはわが国の北限に位置するもので、兵庫県の文化財に指定されている。

賀茂神社 四脚門

その先に四脚門があり、門をくぐると檜皮葺の社殿・回廊・唐門などが見えてくる。

賀茂神社

上の画像は唐門だが、唐門を中心に東西の回廊があり、その奥に本殿や権殿などがある。これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

賀茂神社 播州名所巡覧図絵
【賀茂神社 播州名所巡覧図絵】

賀茂神社は文化元年(1804)に出版された『播州名所巡覧図絵』に、「室明神」として解説され、境内の絵が描かれている。今の景色とほぼ同じなのだが、絵をよく見ると左に多宝塔が描かれているのがわかる。当時は神仏習合が当たり前で、仏僧が「室明神」を取り仕切っていたようなのだが、明治初年の神仏分離で多宝塔は取り壊されたのだろう。

シーボルト
【シーボルト】

文政9年(1826)にシーボルトは、長崎の出島から江戸参府する途中にこの「室明神」に立ち寄り、その記録を残している。

muro12.jpg

上の図はシーボルトの著書『日本 図録 第2巻』に掲載されている「室明神」だが、ここにも多宝塔が描かれている。

『国会図書館デジタルコレクション』に昭和3年に翻訳され出版された『異国叢書 シーボルト江戸参府紀行』があり、この本はシーボルトの大著『日本』の一部を訳出したものなのだが、この本のなかでシーボルトは、この多宝塔を案内された時のことを次のように記している。

「…それよりこの祠壇の両方なる同様の壇上の立てる二重塔に赴けり。木製にて、真に建築術上の名作なり。つい近頃の建築にして、住僧は余らによく描きたる雛形図を示し、我らはその写しを作らんことを求めしが、これも出来たり。我らは次の年に之を右述べし神祠の見取図、及びこの寺より見たる海上の景色図とともに受取れり。美事なる塔の構造を細かに記述するは今ここに余りに余事なるべし。我らはただこの如き塔は神祇の宗儀には属せずして、仏の宗儀ことに真言宗の宗儀に属し、仏の宗儀とともに日本に入来りしものなるを述べおかん。かかるものがともに一つの神の庭にあり、あまつさえ八幡の祠もその傍にあるは既に述べし両部神道*といえる宗儀より説明すべく、それがここにも入り込みたるなり。」
*両部神道:仏教の真言宗の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/192.

muromyojin31.jpg

シーボルトはこのように室明神の多宝塔を高く評価し、『日本 図録 第2巻』にこの多宝塔の雛形図の写しを残している。Minagaさんのサイトにその図面が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_muromyojin.htm

muro13.jpg

そしてシーボルトはその僧の住む寺に案内されて、その景観の美しさを讃えている。
「彼は我らを広き一室に導きしが、そこよりする播磨海上の絶えて佳き眺望は驚くばかりなり。今迄日本にて嗜み得し海景の中最も美しきものの隋一なり。座敷の位置・結構が如何に壮大にして目を奪うばかりなる賞嘆を心づもりにしつらえられたるぞ。室は前方と左右とに開け放たれ、人は直ちに海中に懸け出したる巌の上に築かれたる観望台に坐を占めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/193

シーボルトが「日本随一」と賞賛した海の景色も同上書に描かれているのだが、残念ながら賀茂神社の境内は樹木に囲まれていて、どこに海の景色を楽しめる場所がよくわからなかったのだが、『兵庫県おでかけブログ』というブログに海の景色の写真がでている。この写真の景色は「住吉社」の近くなのだそうだが、シーボルトの同上書の挿絵に良く似ているので、どうやらこのあたりに、シーボルトが案内されて海の景色を絶賛した寺の建物があったようだ。もう少し境内の西の奥に進んでおけばよかったと思う。
http://odekakehyougo.seesaa.net/article/442389499.html

多宝塔が移転したとか焼けたなら何らかの記録が残っていると思うのだが、何もなさそうなので、おそらく破却されたのであろう。しかし仏像は遷座されて今も残されているという。

先ほど紹介したMinagaさんのサイトに「御津町史 第4巻 資料編」の引用があり、この近くの浄運寺の脇檀に安置されている多宝如来坐像について「元は多宝塔安置、明治初年の神仏分離で遷座、体部は前後2木からなる寄木造。」と記されているという。賀茂神社多宝塔の本尊は、近くの寺に安置されていると書かれているのである。

浄運寺

浄運寺は賀茂神社の階段を下りて100m程度歩けば辿りつくことができる。
この寺は、建永2年(1185)に京都より讃岐に配流される法然が室津に立ち寄り、遊女・友君にここで説法をし、感激した友君は法然より得度を受けこの寺で出家したという。
シーボルトの同上書にも、この寺は「平家合戦の時代の名だたる美人友君の墓」がある寺であり、友君は「この地方にて…女護国の発起者として尊敬せらるる人なり」と記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/191

観光寺院ではないので本堂の参拝はしなかったが、この本堂に当寺の本尊である阿弥陀如来立像があり、賀茂神社多宝塔の本尊である多宝如来坐像があり、合掌する尼僧姿の友君の坐像が安置されているという。

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【ご参考】ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時でした。
鳴滝塾を開いて多くの弟子を育てたことは評価されていますが、国禁の日本地図を持ち出そうとしたとして、文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けています。しかしながら、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任しています。それは何故なのでしょうか。
このブログでシーボルトについてこんな記事を書いてきましたので、良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html



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室津の歴史と、その古い街並みを楽しむ

前回の記事で室津は古来より天然の良港として有名であったことを書いた。
室津は三方を山で囲まれているので強風を避けることができ、風待ち・潮待ちのために絶好の港であるということで、古くから宿場として繁栄したのだが、風光も明媚であることから万葉時代から歌人が作品を残している。

たとえば万葉集に山部赤人の歌がある。

「玉藻刈る辛荷の島に島廻する
 鵜にしもあれや家思はざらむ」 万葉集(巻6)


辛荷の島

「辛荷の島」とは、たつの市の地ノ唐荷島、中ノ唐荷島、沖ノ唐荷島のことで、室津の藻振鼻(もぶりのはな)にこの歌碑が建てられている。上の画像は藻振鼻の駐車場から「辛荷の島」を撮ったものである。

また万葉集には「詠み人知らず」でこんな歌も残されている。

「室の浦の湍門の崎なる鳴島の
 磯越す波に濡れにけるかも」  万葉集(巻12)


和歌ではないが、与謝野蕪村にも室津を詠んだ句がある。

 「梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな」
 「朝霜や室の揚屋の納豆汁」


前回の記事で、法然上人が遊女・友君に説法した話を書いたが、室津には古くから遊女がいたようだ。このことは、室津が古くから宿場として栄えていたことを意味している。

井原西鶴
【井原西鶴】

また井原西鶴は『好色一代男』で、室津を遊女発祥の地であると書いている

本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、今国々になりぬ。あさつまにはいつのころにか絶えて、賎の屋の淋しく、嶋布を織る、男は大網を引きて、夜日を送りぬ。室は西国第一の湊(みなと)、遊女も昔にまさりて、風義もさのみ大坂にかわらせずという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181373/39

瀬戸内海と室津港の地図

なぜ室津という狭い地域が「西国一の湊」となり宿場として栄えたかは、地図をみれば直感的にわかる。
Google Earthで確認すると、瀬戸内海に面する本州は室津あたりから西はリアス式海岸が多くて接岸に不向きな場所が多く、東は砂浜の海岸が大阪湾まで続いている。

『一路一会』というブログの室津港の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「室津は古くから天然の良港として知られ風待ち、潮待ちの船で賑わいました。
大阪湾から姫路近くまで、播磨灘に面した海岸線は延々と砂浜が続き、室津までは船泊に適した入江がありませんでした。 さらに造船技術の進歩による船舶の大型化が別の問題を引き起こし、室津は空前の繁栄を手にします。

江戸時代になると山陽道とならび瀬戸内海航路も西国大名の参勤交代で使われるようになります。しかし播磨灘は遠浅でかつ荒れるために、大名が乗る大型の御座船が座礁、難破する事故が相次ぎました。さらに終着地である大阪湾も遠浅のため、大型船は湾の奥まで入れず、湾の外から小舟に乗り換えて上陸しなくてはなりませんでした。そこで参勤交代の大名は播磨灘手前の室津湊で上陸しそこから陸路で大阪へ向かう道筋を選びます。参勤交代の家臣は1000人を越え、80艘あまりの船団の規模からなります。それがこの港町へ押し寄せてくるのですから室津には本陣が6軒もあり、それでも足りない場合は回漕問屋と海産物問屋の屋敷が充てられたといいます。」
http://www.ichiro-ichie.com/06sanyo/hyogo/murotsu/murotsu01.html

安藤広重画 播刕室津
【安藤広重画 播刕室津】

かくして室津は日本最大級の宿場となり、この狭い地域に6軒の本陣*(肥後屋・肥前屋・紀国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋)があったという。本陣は普通の宿場では「一宿一軒」とされ、これだけ多くの本陣があった宿場は、全国的にも珍しいのだそうだ。
*本陣:大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎で、一般の者を泊めることは許されていなかった。

しかしながら明治になって参勤交代のような制度がなくなり、鉄道や道路網が完成して室津は急速に衰退していったという。昭和40年代にはこれらの本陣の建物は姿を消して、今は模型が残されているだけというのは残念なことである。

室津観光マップ

今回の室津の散策に際して、観光マップくらいは現地に行けば簡単に手に入ると思ってGoogleの地図を用意しただけだったのだが、室津には観光協会のような施設がみあたらず室津の観光地図マップを手に入れる環境にない。途中で訪問した室津民族館に簡単なマップがあったが、室津を散策するにはもう少し大きくて、見どころや駐車場などがわかりやすく記された地図があった方が良い。
自宅に戻ってからネットで探すと非常に良い散策マップを見つけたので、読者のみなさんが室津を訪ねる際には、『西はりま遊記』の地図を印刷して持参されることをお勧めしたい。
http://www.nishiharima.jp/contents/townmap/

室津の町は道が細くて中心部には観光用の駐車場がほとんどなく、上の散策マップを見ればわかるとおり藻振鼻か大坂城石の駐車場に車を止めて徒歩で散策するしかないだろう。

いざ、室津の町を歩きはじめると、全国で最大級の宿場であった面影は、あまり残されてはいないことがわかる。
昔は6軒も存在した本陣の建物は40年以上前には消滅してしまっているのだが、脇本陣として利用された建物がわずかに2軒だけ残されているだけだ。

室津民族館

最初に訪問したのが室津民族館(たつの市御津町室津306)。この建物は、室津最盛期の数少ない遺構の一つであり、昭和62年(1987)には「兵庫県区住宅百選」に選ばれ、昭和63年(1988)には兵庫県の文化財に指定されている。

室津民族間内部

パンフレットによると、
「この建物は屋号を『魚屋』といいい、江戸時代に苗字帯刀(豊野家)を許され、姫路藩の御用達をつとめた豪商の遺構」
とあり、江戸時代の室津の古地図や、古文書などが展示されている。上の画像は一本釣和船の模型である。

室津民族館 御殿雛

立派な雛壇が飾ってあったので、説明も読まずにカメラに収めたのだが、読者のつねまるさんから「八朔の雛祭り」が室津で行われていることを教えて戴いた。
調べると、室津では雛祭りは3月ではなく、八朔の日(旧暦の8月1日)に行われるのが古くからのならわしなのだそうだ。それはどういう経緯からなのだろうか。

カメラに収めた説明書きにはこう解説されていた。
永禄9年、龍野城主赤松政秀は浦上政宗に遺恨の事があり室山城に夜襲をかけました。
 この日室山城では浦上政宗の子、宗影の婚礼の日でした
。城中では宵までの酒盛りのため足腰の立つ者は少なく、満足に戦うことが出来ず負けてしまいました。
 婚礼の儀式を、いま挙げたばかりの花嫁は小長刀をとって立ち向かい、攻め入る敵を切りつけ存分に戦い、遂には自害されました。女とはいいながら見事なる振る舞いに武士の子女は、かくありたいものだと敵も味方も感心したとの事です。
 この室山城合戦が正月十一日であったため、室津では三月三日にはお雛祭りをせず、旧暦の八月一日(八朔の日)にするようになりました。
 八朔の雛祭りは室山城落城という郷土の歴史にかかわる風習です。」

毎年8月下旬に室津の家々でひな祭りをし、室津民族館などでひな人形が展示され、期間中には様々なイベントが行われるようである。今度訪れる時は、できればその時機に訪れたいものである。

見性寺 毘沙門天像

室津民族館のすぐ近くに見性寺(けんしょうじ)がある。
普段は公開されていないのだが、この寺の毘沙門天像は平安時代後期の制作で国の重要文化財に指定されている。毎年3月17日から21日の毘沙門祭りと室之津祭当日(11月6日)と決まっているようだ。

室津海駅館

次に室津海駅館(たつの市御津町室津457)を訪ねる。
この建物は、廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構で、この建物は江戸時代後期に嶋屋(三木)半四郎が建てたものだという。室津が繁栄していた時代の遺構の一つとして、現在はたつの市の指定文化財となっている。

室津には大名や旗本、幕府役人らが宿泊しただけでなく、外国人が室津に滞在した記録が残されている。

kenpel.jpg

長崎出島にあったオランダの商館長も、毎年江戸の将軍に拝礼する際に室津に立ち寄った。
展示室には、オランダ商館長の江戸参府に医師として随行したケンペルの著書『日本誌』に描かれた室津の絵図などが展示されていた。

朝鮮通信使

また室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された朝鮮通信使も室津に宿泊したという。
海上では大船団を組み、陸上では大行列を作って500人近い大集団が江戸への旅をしたのだそうだが、室津海駅館では当時の朝鮮通信使に饗応した料理の品々の模型が展示されていて、事前に予約すればその料理をここで味わうことが出来たようだ。
http://www.muro-shimaya.jp/kaiekikan.htm

室津

海駅館を出るとすぐに室津港だ。今はありふれた漁村の風景だが、ひと昔前はここに帆船が所狭しと係留されていたのである。

前回の記事で最後に紹介した浄運寺の裏手の坂を登りきると梅がさいていると聞き、せっかく梅の季節に来たのだからと思って100mばかりの急坂を登りきると、港の近くでありながら海やその周囲の家々が全く見えなくなり、高原かどこかにいるような錯覚を覚えた。

室津の梅

この梅の木から画像の背景となっている嫦峨山(じょうがやま)までは、まるで稜線が繋がっているように見えるのだが、実際には、この場所から嫦峨山の間には大きな窪みがあってそのなかに室津港と室津の街並みがあるのだ。

室津地図 2

国土地理院地図(電子国土Web)で調べると、この梅の木のある場所の標高は39m。浄運寺の標高は11m、室津海駅館は2mで、短い距離ながら随分標高差がある。
北にある嫦峨山(じょうがやま)の標高は264m。また東にも小さな山があり、室山城跡の標高は50m。西側にも少し離れて100mを越える山が続いている。
http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768480/134.510443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f1

このように室津の北・東・南には、決して高くはないが山があって、いかに風が強く吹いても、ほとんどの風は室津の上空を通り過ぎていくだけだ。

波の静かな室津の海では平成10年から牡蠣の養殖が始まったのだそうだが、他の地域では出荷サイズになるまでに2~3年を要するところ、室津の牡蠣はわずか1年で立派なサイズになり、加熱しても縮みにくいのが特徴なのだそうだ。
http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1400656081

せっかく室津に来たのだから、昼食に牡蠣は欠かせないし、他の魚もいろいろ食べて帰りたい。
室津の街並みの中にもいくつか店があるのだが、車を走らせて国道250号線沿いの店に向かう。ぷりっとした牡蠣や、地蛸の刺身など何を食べても新鮮で旨かったのだが、ビールが飲めなかったのが辛かった。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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