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大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか

前回の記事で、源頼朝や木曽義仲が平氏打倒のために挙兵した治承4年(1180)は大干ばつのために西日本は大凶作となり、平氏は関東に追討軍を送り込んだものの、10月の富士川の戦いでは平氏軍は兵粮不足で逃亡者が続出し、まともに戦える状況ではなかったことを書いた。

「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)
【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】

その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平氏軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平氏軍が大勝している。前年の大凶作のあとだけに、兵粮米の調達にかなり苦労したようだ。

源平合戦の虚像を剥ぐ

川合康氏が『源平合戦の虚像を剥ぐ』で、このように解説している。
「治承5年2月、尾張国まで進出してきた源行家を中心とした反乱勢力を美濃・尾張国境の墨俣川で迎撃するために、2月7日に『官使・検非違使を美乃国に遣わし、渡船等を点じ、官軍に渡すべしの由、同じくもって宣下す』という宣旨が発給され」(『玉葉』治承5年2月8日条)、それをうけて伊勢国留守所は2月20日に『早く宣旨状に任せて、二所太神宮・神戸・御厨・御園ならびに権門勢家庄園・嶋・浦・津等を論ぜず、水手・雑船などを点定し、尾張国墨俣渡に漕送すべき事』という下文を出している(治承5年2月20日『伊勢国留守所下文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3952>)
 伊勢国内において伊勢神宮領・権門勢家領を問わず徴発を命じており、これなどは典型的な一国平均賦課の形態といえよう。なお、このときに水手・雑船だけではなく、兵粮米の徴集もおこなわれていたことは、じっさいに伊勢神宮領で徴発を完了した2月24日の『大神宮司庁出船注文』の一艘に『兵粮米積む』と記載されていることから明らかである。(治承5年2月『大神宮司庁出船注文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3956>)」(講談社学術文庫『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.127-128)

このように、諸国の国衙機構を通じて、国内の荘園・公領を問わず平均に賦課されることを「一国平均役」と呼ぶそうだが、このような調達方法には限界があり、その不足分を賄うために富裕者(有徳人)を対象とした賦課も行なわれた。

「治承5年2月7日、『京中の在家、計らい注せられるべきの由、仰せ下さる。左右京職の官人、官使、検非違使等これを注す』という内容の宣旨が出され(『玉葉』治承5年2月8日条)、京中在家の検注(屋敷地の規模や住人の調査)が左右京職の官人・検非違使らに命じられている。…
京中在家の検注の目的は、京都に屋敷を有する住民のうち『富裕の者』を調査・把握し、その者を対象に兵粮米を賦課しようとするものであって、同時にまた院宮・諸家の備蓄米の徴発をも実施し、京都住民の飢餓の窮状を救おうとするものであった
 …
このような有徳役による兵粮米の徴発は、治承5年5月には大和国においても実施されている。そこでは、『国中有徳者』にたいして兵粮米賦課をおこなっていた『官兵の使』が、賦課を逃れようとする『有徳者』の屋敷に乱入し、倉を検封するなどの実力行使におよんだことが知られるのである(『吉記』治承5年5月4日条)。」(同上書 p.129-130)

平氏はこのようなやり方で兵粮を集め、墨俣川の戦いでは平氏軍が大勝したのだが、前年の干ばつによる大凶作のため各地で餓死者が出ているなかで、こんな強引な徴発方法を繰り返そうとして公卿たちの反発を買うこととなる。

「…治承5年には養和*の大飢饉がひろがるなか、平氏はこのほかにも西海・北陸道などから運上物を点定して兵粮米にあてるなどの提案をおこなって、なんとか兵粮米を確保しようと躍起になるが、これは公卿たちの反対にあって実現せず(『玉葉』治承5年2月6日条)」、『兵粮已に尽き、征伐するに力なし』(同前)とか『凡そ官兵兵粮併しながら尽き了んぬ。更にもって計略なし』(『玉葉』治承5年3月6日条) と呼ばれた状況は、容易に打開しようがなかったのである。
大飢饉がさらに拡大した翌養和2年(1182)3月、左大臣吉田経房は『兵粮米の事、万民の愁い、一天の費え、ただ此の事に在るか』と日記に記している(『吉記』養和2年3月26日条)。こうした状況のなか、目立った軍事行動がなくなり、戦線が膠着化していったのは、むしろ自然のなりゆきであった。」(同上書 p.130)
*養和:治承5年(1181)7月14日に改元され、養和2年(1182)5月27日に寿永に改元された。源頼朝の源氏方ではこの元号を用いず、引き続き治承を使用した。

餓鬼草子
【餓鬼草子】

前回記事で紹介したとおり、鴨長明は『方丈記』でこの頃の京都の惨状を「乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり」「築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり」と書いている。食糧の絶対量が不足していて人々が飢餓で苦しんでいる状況下では、兵粮米が集まらないことは当然であろうし、強引に集めれば人々の恨みを買うことは誰でもわかる。

しかし、大飢饉の年が明けて寿永2年(1183)となると、平氏は木曽義仲を征討するため大規模な北陸道の遠征計画を立てている。前年は凶作ではなかったにせよ、4万とも言われる平氏軍の兵粮米を調達することは容易ではなかったはずだ。

川合康氏によると寿永2年に北陸道に進軍していった平氏軍は、往路の兵粮を北陸に向かう路次の地域で徴発することが朝廷から認められていたという。

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【川合康氏】

そのありさまが平家物語に出ていて、川合氏の同上書に引用されている。
片道給わりてければ、路次持て逢える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物・仏物をも云わず、押し並べて会坂関(おうさかのせき)より、是れを奪い取りければ、狼藉なる事おびただし。まして、大津・辛崎・三津・川尻・真野・高嶋・比良麓・塩津・海津に至るまで、在々所々の家々を次第に追捕す。かかりければ、人民山野に逃げ隠りて、遥かに是れを見遣りつつ、おのおの声を調えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めんが為に、東国・北国に下り、西海・南海に赴く事、其の例多しといえども、此の如く、人民を費やし国土を損ずることなし。されば源氏をこそ滅ぼして、彼の従類を煩わしむべきに、かように天下を悩ますことは只事に非ずとぞ申しける。」(『延慶本平家物語』第三末「為木曽追討軍兵向北国事」)

平氏軍は源氏を討伐するのではなく、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したことが記されている。

川合氏はこう解説しておられる。
寿永2年は前年の収穫・納入で事態は少し好転したとはいえ、大軍勢の遠征をまかなう兵糧を畿内近国で確保することができなかった平氏は、朝廷公認のもとに、ここでいわば現地調達方式に切りかえたのである。三、四月が農村では冬作麦の収穫期にあたっていたという事実も、このこととけっして無関係ではないだろう
 しかし、やっとの思いで大飢饉をしのぎつつあった街道沿いの村々にとっては、たとえ朝廷の承認を得たものであったとしても、これは残酷な掠奪行為にほかならない。その意味で、村人たちが山野に避難しつつも、集落を見下ろす山の上から平氏の軍勢にたいし、『かように天下を悩ますことは只事にあらず』と大声で叫んだという『延慶本平家物語』の記述は、この時期の民衆たちの心情をよく描いているといえよう。
 しかし、このような路次追捕は、平氏軍による北陸道遠征に特殊なものとはならず、これ以後各地で展開するようになる。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.132-133)

源平倶利伽羅合戦図屏風
【源平倶利伽羅合戦図屏風】

こんな具合に平氏の北陸追討軍は進軍していったのだが、5月11日の越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れてしまう。義仲は篠原の戦いにおいても平氏軍に勝利して沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍していく。
平氏は都の防衛を断念して7月25日に安徳天皇らを擁して西国に逃れたのち、28日に木曽義仲が入京している。木曽義仲は京中の狼藉の取締りを委ねられたのだが、それがとんでもないことになる。

九条兼実は木曽義仲や源行家の軍勢が入京して1ヶ月余りたった寿永2年9月の状況を日記『玉葉』に記している。原文は漢文だが、読み下し文が川合氏の著書に出ている。

9月3日
「凡そ近日の天下、武士の外、一日も存命の計略なし。仍(よ)つて上下多く片山田舎等に逃れ去ると云々。四方皆塞がり、…畿内近辺の人領、併しながら苅り取られ了んぬ。段歩残らず、また京中の片山および神社仏寺、人屋在家、悉(ことごと)くもって追捕す。其の外たまたま不慮の前途を遂ぐるところの庄公の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆もって奪い取り了んぬ。此の難市辺に及び、昨今買売(ばいばい)の便を失うと云々。天何ぞ無罪の衆生を棄つるや。悲しむべし、悲しむべし」(同上書 p.134)

9月5日
京中の万人、今においては一切存命するに能わず。義仲、院の御領己下、併しながら横領す。日々倍増し、およそ緇素貴賤(しそきせん)涙を拭わざるはなし。憑(たの)むところ只頼朝の上洛と云々」(同上書 p.135)

木曽義仲像(徳音寺所蔵)
【木曽義仲像(徳音寺所蔵)】

義仲軍は狼藉を取締るどころか京の食糧などを奪い取ること甚だしく、京の人々は頼朝の上洛により義仲が成敗されることを期待するようになっていく。頼朝は翌年に入京しているのだが、頼朝が引連れた軍(鎌倉軍)の場合はどうであったのか。

川合氏はこう述べている。
「…翌寿永3年(1184)1月に義仲軍を破って入京した鎌倉軍は、たしかに京中の治安維持には勤めようとするものの、たとえば生田の森・一の谷合戦に向かうさい、摂津国垂水東・西牧において『路次たるにより、追討使下向の時、雑人御牧に乱入し、御供米を取り穢し、住人らを冤陵(えんりょう)*す』(寿永3年2月18日『後白河院庁下文案』<春日神社文書、『平安遺文』8-4131>)と訴えられるような掠奪をともなって進軍した…」(同上書 p.135)
*冤陵:無実の者に暴力を加えて苦しめること

このように、源氏も平氏も掠奪をしていたのだが、このような行為は源平に限らずどの武将も良く似たもので、騎兵とは別に、軍の中に兵粮の稲の刈取りを組織的に行う歩兵が存在していたというのだ。

川合氏の解説を続ける。
このような部隊は、院政期においても確認することができ、たとえば康治元年(1141)10月に、目代(もくだい)・在庁官人らにひきいられた紀伊国衙の軍勢が大嘗会所役をめぐって大伝法院領に乱入したさいには『数百軍平』とともに『数千人夫』が催され、彼らは稲・大豆の刈取りや、在家・諸堂における資材や雑物の追捕・運搬活動に従事しているのである。(康治元年10月11日『紀伊国大伝法院三綱解案』<根来要書上、『平安遺文』6-2481>)
 治承・寿永内乱期の路次追捕が、たんなる場あたり的な掠奪ではなく、遠征を行うにあたり当初から予定されていた『合法的』軍事行動だったとすると、当然この時期の軍隊にも、兵糧の刈り取りや追捕活動を専門的におこなう補給部隊が組織されていたはずである。そして、目代ひきいる紀伊国衙の軍勢が発向したさいに、こうした活動に従事する存在として国内で人夫が徴発されていた事実をふまえるならば、おそらく治承・寿永内乱期においても、工兵隊と同様に、兵士役によって徴発された一般民衆が補給部隊を構成したものと思われる。」(同上書 p.136)

「兵粮の現地調達」については、大凶作のため飢饉が発生しているような状況では容易ではないことは誰でもわかる。こんな時期に進軍する兵士に必要な食糧を手配しようとすれば、現地でかなり強引に奪い取るしか方法はなかったと思うのだが、そうすることで政権に対する人々の信頼は急速に失われていったことであろう。
一度信頼を失ってしまえばそれを取り戻すことは容易ではなく、いずれ豊作となった際に人々が簡単に兵糧を差出すとは思えない。
その後平氏が短期間で源氏に滅ぼされたことや、源氏が鎌倉を本拠地としたことは、このような観点から考察することも必要ではないだろうか。

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【ご参考】このブログで、わが国で起こった大きな飢饉の事を何度か書いてきました。
我が国のカロリーベースの食料自給率は39%しかありません。もし世界的な凶作で食糧不足となれば、いずれの国も自国民のための食糧確保を優先することが確実となります。
自国民の食糧生産を他国に依存しすぎることは過去の歴史に照らして危険なことではないでしょうか。

アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
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飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
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田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
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関連記事

源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか

前回の記事で、平氏軍も源氏軍も兵粮が不足していて、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したり、穀物を刈り取ったりしたことを書いた。
しかしながら、西日本では治承四年(1180)から干ばつのために凶作が二年続き、京では餓死者が道にあふれるほど食糧の絶対量が不足していた。街道筋にある村々にとっては彼らの食糧を守ることは家族の生死にかかわる大問題であったのだ。
では、彼らはどういう方法で、食糧や家財を両軍の兵士の掠奪から守ろうとしたのだろうか。

延慶本平家物語

前回紹介した川合康氏の『源平合戦の虚像を剥ぐ』にはこう解説されている。

「では、彼らの財産のほうはどうなっていたのだろうか。自分達の米や麦、その他の資材が補給部隊によって家のなかから運びだされていくのを、避難先からこっそりうかがうしかなかったのであろうか。
 すでに引用した『延慶本平家物語』には、北陸道に向かう平氏軍にたいして山の上から抗議の声をあびせかけた村人たちの姿が描かれているが、こうした軍隊の追捕から、みずからの資材を守ろうとする彼らの具体的行動を知ることが出来るのは、これも…木曽義仲・源行家軍の入京を描いた『延慶本平家物語』のつぎの一節である。

 平家西国へ落ち給いしかば、其の騒ぎに引かれて安き心なし。資材・雑具、東西南北へ運び隠すほどに、引き失う事、数を知らず。穴を掘りて埋みしかば、或いは打ち破れ、或いは朽ち損じてぞ失せにける。浅猿とも愚かなり。

ここでは軍勢の追捕から逃れるために、京の周辺に資材・雑具を運び隠し、また穴を掘ってそれらを埋める民衆の動向が示されているのである。
京の周辺に資材・雑具を運び隠しているようすについては、…穴を掘って埋めるという方法は、17世紀に成立した『雑兵物語』にもその摘発の心得として、

又家内には米や着物を埋めるんだ。そとに埋める時は、鍋谷釜におつこんで、上に土をかけべいぞ、その土の上に霜の降りた朝みれば、物を埋めた所は必ず霜が消えるものだ。
それも日数がたてば見えないもんだ
と云う。能々(よくよく)心を付けて掘り出せ。(『雑兵物語』下巻 「荷宰料 八木五蔵」)

と語られており、屋内の床下には食糧や衣類を埋め、屋外の場合は鍋や釜に財物を詰めて土をかけていたことが示されている。穴を掘って土の中に埋める方法は、軍勢の掠奪から資材を守る方法の一つとして、近世に至るまで民衆の間で行われていたことが確認されよう(藤木久志『村の隠物・預物』)
それとともに、もう一つここで注目しておきたいのは、先に揚げた京中での義仲・行家軍の掠奪を記した『延慶本平家物語』のつづきの部分に、

家々には武士有る所もなき所も、門々に白旗*立ち並べたり。

と見えることである。
おそらくこれは、家の門に掲げられた白旗が源氏軍勢の寄宿先であることを表示し、その家は追捕の対象にならなかったことを利用して、寄宿地であるなしにかかわらず、皆が白旗を並べ立てたということなのであろう。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.140-142)
*白旗:源平の時代は源氏が「白旗」で平氏が「赤旗」を用いていた。

源氏の白旗と平家の赤旗

はじめのうちは、食糧や衣類を家の敷地のどこかに隠していたのであろうが、探す方も必死になって探すので見破られてしまうことが多く、次第に隠す場所が多様化していくようになる。

藤木久志氏の指摘によると、「町場から周辺の村へ、『里』村から『山』村へ、民家から寺社・有徳人の家などへ預ける『隠物』『預物』の習俗が拡がっており、戦乱から財産を保全する措置が取られていた」という。

川合氏の著書を読み進むと、大阪府箕面(みのお)市の山の中に西国三十三所の第二十三番札所となっている勝尾寺(かつおうじ)が、源頼朝方の梶原景時の兵に焼き討ちされる話が出ている。この事件を紹介する前に、それまでの源平合戦の流れを簡単に振り返っておこう。

寿永二年(1183年)五月の倶利伽羅峠の戦いで敗れた平氏が、都の防衛を断念して七月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし九州大宰府まで逃れた。代わって木曽義仲が入京して京の治安に携わったのだが、義仲軍は京の食糧などを奪い取ること甚だしく、治安は悪化の一途をたどっていった。

そして八月・九月の収穫期を迎えるのだが、京の朝廷にとっての最大の問題は官物・年貢の確保であった。Wikipediaの解説によると、

西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲*の支配下にあった。これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。…さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていたことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。」
*源義仲:木曽義仲のこと。源頼朝の従兄弟にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8

後白河法皇像(神護寺蔵)
後白河法皇像(神護寺蔵)】

そこで後白河法皇は義仲を見放して十月に源頼朝に接近したのだが、それを知って怒った義仲は十一月に院御所を襲撃し、法皇を幽閉して政権を掌握した (法住寺合戦)。つづいて十二月には法皇に頼朝追討の院宣を出させている。
一方、源頼朝は翌寿永三年(1184)一月に、近江にまで進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じ、宇治川の戦い・粟津の戦いで鎌倉政権軍が木曽義仲軍を壊滅させている

このような源氏同士の抗争を機に勢力立て直しをはかっていた平氏は、以前平清盛が都を計画した福原まで進出し、数万騎の兵力を擁するまでに回復して、二月にはいよいよ京を奪回する計画を立てていた。それを阻止するために、一月二十六日に後白河法皇源頼朝に平家追討の宣旨を出している。
頼朝の命を受けて範頼と義経は二月四日に京を出発し、範頼は大手軍五万六千騎を率いて摂津を下り
、義経は搦手軍一万騎を率いて丹波から播磨に進んだ。
梶原景時は範頼率いる大手軍に属していたのだが、この景時の軍勢が山陽道を下る途中で勝尾寺を焼き討ちしたというのである。

勝尾寺の紅葉
【勝尾寺の紅葉】

川合氏は同上書でこう解説しておられる。

「そこで注目したいのは、寿永三年(1184)二月四日、摂津国勝尾寺が生田の森・一の谷合戦に向かうのに山陽道を下る梶原景時の軍勢によって焼き討ちされた事件である。『延慶本平家物語』や延宝三年(1675)書写の『勝尾寺縁起』(『箕面市史 第一巻(本編)』p.160)は、この襲撃の事情をつぎのように記している。

 元暦元年(寿永三年)二月四日、梶原一の谷へ向かいけるに、民共勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵の襲い責めしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、忽ちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像・経巻併しながら夜の雲とのぼりぬ。…然るを今滅ぼす所は仏閣・僧坊六十八宇、経論章疏(きょうろんしゅうしょ)九千巻、仏像・道具・資材・雑物、すべて算数の及ぶ処にあらず。(『延慶本平家物語』第五本 「梶原摂津国勝尾寺焼払事」)

すなわち、景時の軍勢が勝尾寺に押し寄せた理由は、近隣の民衆が勝尾寺に資材を隠しているということを聞きつけたからで、寺僧が制止するのを排除して軍勢が乱入し、資材や衣類を掠奪したうえ、最後には焼打ちにまでおよんだのであった。勝尾寺再建のさいに作成されたと推測される『勝尾寺焼亡日記』によれば、衣類を剥ぎ取られた住僧は百余人にのぼり、抵抗した老僧が一人誅殺されたという。 (寿永三年二月『勝尾寺焼亡日記』<『箕面市史 史料編1 勝尾寺文書』26>)」(同上書 p.142-143)

近隣の人々が兵粮の協力をしないのは平氏に協力するものであるとの嫌疑から、景時の軍勢が勝尾寺を焼打ちしたものと考えるが、この寺はその後南北朝の内乱が勃発した直後の建武三年(1336)にも足利軍の掠奪にあっているという。

人々が大きな寺や神社に大切なものを預けたのは何も勝尾寺だけではなく、軍が動いた街道筋の多くの寺社で同様のことがあったそうだ。
民衆にとっては寺社の境内は聖域であり、自らの家族の生命と財産を守ることができるようにと祈りを込めてそこに預けたのであろう。

しかし民衆の祈りは裏切られ、寺社は何度も軍勢による掠奪にあっている。

寺社や近隣民衆は兵士による掠奪被害からなんとか逃れたいのだが、武器らしい武器も持たずに広い境内を守ることはそもそも不可能に近い。そこで寺社も民衆も掠奪にあわないために知恵を絞ることになる。

玉祖神社
【玉祖神社】

川合氏の著書を読み進むと、現存最古の「制札」が大阪府八尾市の玉祖(たまおや)神社に残されていることが紹介されている。そこにはこう記されているという。

河内国薗光寺(おんこうじ)は鎌倉殿御祈祷所なり。寺并(ならび)に田畑山林において、甲乙人等乱入妨げ有るべからざるの状件の如し
 文治元年十二月 日」

この「制札」は、文治*元年(1185)に頼朝の舅である北条時政が河内薗光寺に対して発給したもので、ここに出て来る「薗光寺」という寺は玉祖神社の神宮寺である。残念ながらこの寺は、明治維新後の神仏分離で廃寺にされたのだそうだ。
文治:元暦二年(1185)八月から文治に改元され、文治六年(1190四月に建久に改元となった。この時代の天皇は後鳥羽天皇。

この「制札」について、川合氏はこう解説しておられる。
「…一見すると平治において鎌倉殿(頼朝)祈祷所の聖域性を保障したものであるかのように理解されてしまう。
 が、文治元年十二月という時期は、同年十月に源義経・行家らの頼朝に対する反乱が畿内において勃発し、十一月末に一千騎の軍兵をひきいて上洛した北条時政によって、畿内近国に総力的な軍事動員態勢が敷かれた段階にあたる。まさにその時期に、総司令官の地位にある京都守護北条時政によって発給された制札である以上、これは明らかに鎌倉方軍勢による境内への乱入と寺中での追捕を停止(ちょうじ)する制札であったと考えられる(川合康『鎌倉初期の戦争と在地社会』)」(同上書 p.147-148)

治承・寿永内乱期の制札で現存しているものは玉祖神社のものだけなのだそうだが、平氏方として嫌疑をかけられた僧侶の居住する伊勢国河田別所で、鎌倉殿から札を賜るとの文治2年の記録があるという。河内薗光寺と同様な鎌倉殿御祈祷所の制札が、各地の寺社に給付されていた可能性が高そうだ。

川合氏はこう解説しておられる。
鎌倉方軍勢による追捕が広範に展開するなかで、それを回避するために、鎌倉軍の『味方の寺社』であることを表示する『鎌倉殿御祈祷所』という形式の制札が、祈祷や礼物を条件に寺社側からひろく要求され、給付されていったと考えられよう
 そして、ここで前述したような戦乱時における地域社会での寺社の役割を想起すれば、このような制札の発給は、たんに寺社内の僧侶・神官やその資財を安堵したにとどまらず、自分達の貴重な財産を隠し置き、自身の安全をもとめて避難してきたような近隣住民の安堵にもつながっていたはずである。」(同上書 p.150)

このような制札を受けることで寺社は建物等が守られ、人々の財産も守られて安んじて生活が出来ることとなる。また、鎌倉方からすれば、寺社側からの求めに応じて『鎌倉殿御祈祷所』制札を発給することで、鎌倉軍兵士の乱暴狼藉を禁止するとともに、寺社周辺の地域全体を喜んで鎌倉方に靡かせることが出来る。

養和の飢饉があったにもかかわらず、西国で掠奪するように兵糧を徴発してきた平氏や木曽義仲らは、民衆の支持を急速に失っていったと思われる。こういう場合人々は、兵粮に余裕がありそうな鎌倉の源頼朝の力に期待したことは当然だと思うのだ


源頼朝像(神護寺蔵)
【源頼朝像(神護寺蔵)】

源頼朝が西国で広く支持を集めていった背景には、このような「制札」を出すことで自軍兵士による掠奪を禁止することを約して、人々を安堵させた効果が大きかったのではないだろうか。次のURLで『吾妻鏡』の訳文と解説が出ているが、これを読むと頼朝は、自分の権威を利用して武士が狼藉を行っている状況を止める意思があったことがわかる。
例えば元暦*二年(1185)三月四日の記録では、頼朝は藤原(吉田)経房に仲介を依頼して後白河院にこのような書状を送っている。
*元暦(げんりゃく):寿永三年四月に元暦に改元され、元暦二年八月に文治に改元された。この元号は平氏方は使用せず、寿永を使用していた。

「…海を隔てた平家の追討は今だに終っていません。転戦する武士たちによる再三の狼藉も判っており、追討が済んでから相当の措置を行うつもりですが、既に代官二名を派遣しておりますから不心得者がいれば院宣に従って処理をいたします。頼朝の権威を利用する武士の違法行為を止めるつもりでいる事をご了解ください。」
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/1185.html

よく平氏政権が短命に終わった理由として、平氏は文弱で武士としては勇猛さに欠けていたという類の解説を何度か聞いた記憶があるのだが、寿永二年(1183)の初頭までは何度も平氏軍が源氏軍と戦って勝利したことを考えると、平氏が勇猛さに欠けていたという説明は説得力に欠ける。
食糧が不足していた西国で、掠奪行為を繰り返した平氏や木曽義仲らは朝廷や民衆の支持を失い、源頼朝だけはそれを止めようとしたことに、もっと注目すべきではないだろうか。

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武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
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「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
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謎に包まれた源頼朝の死を考える
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京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて

毎年10月に行われる京都の時代祭を参観された方は御存知だと思うのだが、行列は明治維新から順次時代を遡っていき、その先頭を進むのが「維新勤王隊列」で、京都市観光協会による時代祭のHPには「維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に加勢しました。」と書かれている。
https://www.kyokanko.or.jp/jidai/gyoretsu_1.html

Youtubeで検索すると、時代祭の先頭を進む山国隊の多くの動画が紹介されており、陣羽織に袴姿で刀を差し、錦の御旗を掲げて鼓笛隊が軍楽を奏でて行進していく凛々しい姿を観ることが出来る。



御所から30km以上も離れた山奥にある山国村の有志が、なぜ明治維新の時に立ちあがったのかを調べていくと非常に興味深かったので、ずっと以前から山国隊を生んだ京北の地を訪れようと考えていたのだが、この地域は桜が有名であるので桜の咲く季節に訪れることに決めていた。

山深い京北の桜の開花は京都の中心部より1週間程遅いようだが、今年は例年よりもかなり遅れていて、おそらく4月下旬に入っても楽しめる場所があると思われる。
京北商工会館が「京北桜情報」を毎日アップされているので、これから行かれる方は、次のURLで開花状況を事前にチェックされた方が良いだろう。
http://keihoku.sakura.ne.jp/%E4%BA%AC%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%A1%9C%E6%83%85%E5%A0%B1/

花降る里けいほくSAKURAめぐりマップ

また京北の桜の名所は京都市がよくできたマップを作成されているので、次のURLから「花降る里けいほく SAKURAめぐりマップ」を印刷して出かけられることをお勧めする。
http://www.city.kyoto.lg.jp/ukyo/page/0000178772.html

京北では訪問先の電話番号ではカーナビが反応しないところが多かったので、今回の記事には訪問先の住所を付記しておく。

常照皇寺の山門と勅額門

最初に訪れたのは常照皇寺(じょうしょうこうじ:京都市右京区京北井戸町丸山14−6 ☎075-853-0003)。

南北朝時代に光厳上皇が出家されたのち、貞治元年(1362)にこの地に庵を結んだのがこの寺のはじまりで、その後戦国時代に入って天正七年(1579)に明智光秀の軍勢によって寺域が焼き打ちにあったようだが、江戸幕府の第二代将軍徳川秀忠が寺領を寄進したのち朝廷の保護を受けるようになり、安永十年(1781)には開山堂が建立され、幕末以降に方丈や庫裏が整備されたという。なお背後の山腹には光厳・後花園両天皇の御陵(山国御陵)と後土御門天皇の分骨所がある。

常照皇寺勅使門と方丈

参道の長い石段を登り、山門を抜け次の勅願門を抜けると、正面に勅使門と方丈の屋根が見えてくる。勅使門への昇り階段の手前を左に折れて書院に向かう。

常照皇寺の御車返しの桜

有名な「御車返しの桜」はまだ蕾がふくらんだ程度だったが、今年の満開は4月の下旬になるのではないだろうか。

常照皇寺の九重桜と左近の桜

常照皇寺の有名な桜は他にもあって、国天然記念物の「九重桜」(右)と「左近の桜」(左)だが、九重桜がようやく開花したばかりだった。

常照皇寺の庭

秋には紅葉も美しいと聞くが、方丈から観る庭の景観は素晴らしかった。中央の楓が紅葉し、山全体が色づく季節にまた訪れてみたいものだ。

春日神社と黒田百年桜

常照皇寺をあとにして上桂川の道沿いの477号線を東に進むと春日神社(京北宮町宮野90)があり、その鳥居の左に「黒田百年桜」がある。この桜も今年はまだ蕾の状態であったのだが、この駐車場にあった黒田地区の案内板にこの地域と皇室との関わりについて記されていたので紹介したい。この歴史が冒頭で記した「山国隊」と関わってくるのである。

黒田を含む周辺地域は、平安時代に禁裏御料*(山国杣[やまぐにそま])に指定され、平安京の造営や新築用材の供給地となった。その後、紆余曲折はあったものの、大局的に見れば禁裏御料として朝廷や天皇家との関係を一貫して保ちながら、明治維新を迎えた。黒田は山国杣にあっても大堰川上流域(上桂川)の大布施杣に所属し、その中心的存在であった。…
 黒田は、月ごとあるいは緊急時に禁裏へ木材を貢納する一方で、禁裏との間には日常的な付き合いも生まれた。天皇の側近の女官が室町中期から江戸末期まで書き継いだ『御湯殿上日記(おゆとのうえにっき)』には、宮中の年中行事の際はもとより、頻繁に鮎・粽(ちまき)・餅・柿・菜・檜皮・樒(しきみ)などを持参した記録が残っている。鮎は夏には活き鮎を夕刻から翌朝にかけて御所まで運んだという。

 木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流であり、平安時代から禁裏への貢納材を輸送し、近世における市場への移出も専らこれによった。黒田から嵯峨・梅津・桂の三ケ所の材木屋に移出された年間筏流送数は、幕末期で約三百乗(一乗とは筏の幅、約2.4m長さ54m)である。農地の少ない黒田では、農作業の主な働き手は女性で、男性は筏流しや製炭を含む山林労働により、それぞれ生活を支えた。また女性は炭俵二俵を背負い、貴船等の問屋にそれを卸した。」
*禁裏御料:天皇の直轄地でみだりにその中に入ることを禁ずる場所。「禁裏」とは天皇の常在する場所。
**『御湯殿上日記』:御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。


黒田地区地図

この案内板では黒田地区を中心に書かれているが、平安時代に禁裏御料となった「山国杣(そま)」は京北の山国地区、黒田地区から滋賀県境の左京区広河原地区に至る、広大な山林を指している。広河原地区は「桂川」の源流で、この川は黒田地区、山国地区へと流れて行き、日吉ダムから亀岡盆地に向い、さらに京都盆地に出てから伏見区で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる川である。この川は、京北では「上桂川(かみかつらがわ)」と呼ばれ、南丹市八木から亀岡市では「大堰川(おおいがわ)」、保津町から嵐山までは「保津川」と呼ばれることが多いが、行政上の表記はいずれも「桂川」で統一されているようだ。この桂川の存在が、大量の材木の運搬に好都合であったことは言うまでもない。桂川流域とその歴史については『空から見た桂川の表情』というサイトが写真が豊富でわかりやすい。
http://www.geocities.jp/hinatacobo/page015028.html

桂川の流れ

国立国会図書館デジタルコレクションで『京都府北桑田郡*誌』という本が公開されていて、山国村の歴史が記されている部分がある。それによると、
桓武天皇の御宇山城国長岡へ御遷都御造営につき、丹波国北山中郷山国庄を御杣御料地と定められ、平安京奠都に際しても良材を奉りて御造営の工を成就し…」とあり、長岡京の造営の頃からこの地は御料地に指定されていたようである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925931/320
*北桑田郡:今の右京区京北と南丹市、左京区広河原を郡域とした。昭和30年に北桑田郡の周山町、細野村、宇津村、黒田村、山国村、弓削村が合併して京北町が発足したが、平成17年に京北町全体が京都市右京区に編入され、翌年に美山町、園部町、八木町、日吉町が合併して南丹市が発足して、北桑田郡は消滅した。

山国村はそれ以来、皇室に御用材を納め奉り、歴代の大嘗祭に際しては「悠紀主基両殿の造営に用いられし材を上納し、時には主基斎田を命ぜられて新穀を上り、大堰川に産する年魚を毎年禁裏に献じ奉りし」とある。

『京都府北桑田郡誌』には触れられていないが、Wikipediaによると戦国時代に宇津頼重(うつよりしげ)が山国庄を押領した時代があり、朝廷より依頼を受けた織田信長が明智光秀に命じて宇津氏を討伐し、朝廷による山国庄の支配が回復したのだが、江戸時代に入ると幕領とされ、朝廷による支配は解体されている。
ところが徳川綱吉により一部が禁裏領に復したため、以降明治まで禁裏領と旗本の知行地などが山国庄内に混在する状態となってしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E8%8D%98

地域の人々は、以前のように山国庄全体が禁裏領に復古することを強く願っていたのだが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見の戦いがはじまり、それからまもなく山陰道鎮撫総督の西園寺公望から勤皇の士を募る檄文が届いて、それに応えて83名をもって編成されたのが「山国隊」である。東征大総督有栖川熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下り、2月13日に隊士35名が東山道の鳥取藩部隊に加わって京都を出発している。山国隊は各地で転戦を重ね、中山道を進み江戸に向かう途中、4月22日の壬生、安塚(栃木県宇都宮南辺り)の激戦で3名の戦死者を出し、さらに江戸の戦いでも犠牲者を出している。
明治二年(1869)二月に山国隊は鼓笛を鳴らして山国への凱旋を果たし、山国神社に参拝したのだが、1年以上の派兵に関わる軍費は自弁であり、そのためにできた膨大な借金は名主仲間の共有の山林を売り払うなどして賄われたという。多くの犠牲を出しながら、山国庄が再び禁裏領となる夢を果たすことにはならなかったのだが、以後山国隊は郷土の誇りとされ、この軍楽は今もこの地域の青少年に受け継がれている。

山国神社

「黒田百年桜」から桂川に沿って477号線を10kmほど下流に進むと山国神社(京北鳥居町宮ノ元1)がある。
社伝によると光仁天皇の宝亀年間(770~780年)に創立したとされるが、延喜式神名帳にも明記されているので、かなり古い神社であることは間違いがない。
この神社は源平合戦以降何度か戦災に巻き込まれ、現在の本殿は元文二年(1737)の建築だという。毎年10月の第二日曜日に還幸祭があり山国隊鼓笛行進が奉納されるのだそうだ。

山国護国神社

山国神社から1kmほど東に山国護国神社(京北辻町清水谷10)がある。
山国隊が明治二年二月に故郷に戻り山国神社に凱旋参拝した後に、犠牲者の招魂場を設けることが決議され、死亡した七隊士の墓標を立ててここで招魂祭が催されたという。
以来、この神社には山国隊だけではなく、日清日露戦争から太平洋戦争に至るまで、その身を国に捧げた郷土出身者の御柱も祀られているのだそうだ。
この地域では山国隊の軍楽が今も青少年に受け継がれていて、無人の神社のパンフレットによると「毎年4月22日に近い日曜日」に例祭日が行なわれ、山国隊の鼓笛行進が行われていることが記されている。
ネットで見つけた2013年の山国隊の動画を紹介しておく。



今年の例祭日の日程はあまりネットでは案内されていないようだが、パンフレットの通りだとすると4月23日に挙行されるということになる。この時期なら、今年の場合は、まだ黒田地区や常照皇寺の桜が楽しめる時期ではないだろうか。

今回紹介した常照皇寺と黒田百年桜は満開の写真をお見せできなかったが、京北の桜の名所は数多くあって、満開の桜の写真は次回に紹介することに致したい。

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端午の節句と「鯉のぼり」
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端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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