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農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。

真如堂縁起絵巻

このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。

刀狩り

藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』の一節が紹介されている。

「日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている。」(藤木久志『刀狩り』(岩波新書)p.8)
フロイスによると、男たちは耕作にはあまり熱心ではなかったが、年少の頃から大小の刀を帯び、眠る時だけ枕元に置いたという。

またWikipediaにはこう解説されている。
16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを『刀指』と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では『おとな百姓』の家は村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の『小百姓』に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

上記の解説にある後北条氏の動員令の事例が、藤木久志氏の『刀狩り』にもう少し詳しく書かれている。
「村人をにわかに民兵として動員しようとした時、関東の戦国大名北条氏は『民兵として出陣するのは、侍(上層の村人)でも凡下(一般の村人)でもいい。自分で用意する武器は、弓・鑓(やり)・鉄砲の三種のうちなら、どれでもいい』とか『百姓はもとより、町人・商人・職人までも、弓・鑓・鉄砲・小旗などを支度して参陣してほしい』などと呼びかけていた。民兵には弓・鑓・鉄砲のうち、どれかの自弁をとくに重視していた。戦国関東の村には、弓も鑓も鉄砲も自弁できるだけの用意がある、とみられていたことになる
 国の危機が迫ると、北条氏は、村に住む十五歳から七十歳までの成人男子を、根こそぎで徴兵検査に出頭させようとした。そのとき、大名は、『弓・鑓を持てないような男は、鍬・鎌でもいい』とか、『弓・鑓を持たないものは、鎌を持って』とか『道具を持たぬ者は、棒をもって』といい、さらには『得道具(武器)のない者は手ぶらでもいい』とまでいって、徴兵検査には成人の男子がこぞって出頭するよう、けんめいに呼びかけていた。村や町の人々が持つ武器は、弓・鑓・鉄砲から、鍬・鎌・棒まで、おそらく階層によって、じつに多様であった。それだけ多彩な、しかも、戦闘にも使えるほどの武器が、村や町には日常的に蓄えられていた
 一方で目を引くのは、これら村にあてた大名の徴兵検査令はどれも、村人の装備に強い関心を示しながら、村人に刀や脇差で武装せよとは、まったく要求していない、という事実である。それらを身につけるのは当然とみて、ただ『腰さしの類のひらひら、武者めくように』と、その見てくれだけを気にしていた。武者の刀と百姓の刀は見かけが違うから、なんとか武者風に、というのであろう。」(同上書 p.28~29)

このように戦国時代の農民たちは帯刀しているのが普通で、中には高価な鑓や鉄砲などを持っていた者もいたのだが、おそらくこれらの武器は、落ち武者狩りや、そのあとで開かれる日市などで安く手に入れたものが大半ではなかったか。

椎葉村

国立国会図書館デジタルコレクションに昭和6年に出版された柳田国男の『日本農民史』が公開されている。日向の山奥にある椎葉村*(しいばそん)の戦国時代の様子が描かれているので紹介したい。文中の「サムライ」は名字もあり刀を指す、おとな百姓を意味している。椎葉村には、おとな百姓たちの家は3分の1ほどあったという。
*椎葉村:宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する村。日本三大秘境の一つ。

日本農民史

戦国時代に入って戦争が忙しく、サムライは傍ら農業を営む余裕が無く、また分捕り高名の方が楽で面白くて利益が多かったので、耕作は老幼婦女と下人の最も貧弱なる者に一任し、自分等は武器を執って、常に近傍の攻め取っても差し支えない者の領分を侵略することばかり心掛けた。彼らの上に戴く総領主の実力が、一々彼らを統制することが出来なくなると、この種無名の小さな戦争が愈々(いよいよ)多くなった。今日伝わっている多くの合戦記、関東地方で言えば関東古戦録の類、または…続群書類従の合戦部にあるような地方史に、野武士という無茶者の出て来るのは、即ち農を怠り武道に専らになった地士(じざむらい)のことで、彼らは概して名分に疎く、通例は大戦の後などに、負けて落ち行く者を苦しめて、首を取ったりした。言わば追いはぎを兼業したようなものであった。…此の如き連中までも勘定に入れると、足利時代の末頃には、実は非常なる武士の数であった。それが何れも居村に還ればトノサマと呼ばれ、それ程ではなくとも一領の主であった。但し、彼らの生活は至って質素なものであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181083/44

ここには、教科書や通史をいくら読んでも見えてこない戦国時代の本質が、わかりやすく描かれている。この時代については時代小説や映画などのイメージが強烈で、どうしても戦国大名同士の争いにばかり着目してしまうところなのだが、大名が一切関与していない世界で近傍の村同士が分捕り合戦を繰り返すような小さな争いごとが、あちこちで発生していた時代であったようなのだ。
また、この時代に各地で起った百姓一揆や一向一揆には、彼らの持つ大量の武器を用いて暴動を起こしていたことを知らないと、本質を見誤ってしまうことになる。

相手の物を奪い取る意思を持つ人間同士が武器を持って争う戦いや、武力を背景に自らの要求を押し通そうとする動きに対して為政者側が抜本的対策をとらないでいると、より武力を強化しながらエスカレートしていくことになる。
このような勢力を抑え込むためには、より強力な武力を背景にして、相手の武器を没収するなどして無力化させることがどこかで必要となるはずだが、戦国時代は大名同士が戦っていてそれぞれが大量の足軽を必要としていたので、自国の一国だけで実施しても自国の軍事力を弱めてしまうことになるだけだ。誰かが全国一斉に武士以外の武器の利用を統制することが必要だったのだが、それを成し遂げるためには全国統一の目途がたてることがまず必要で、それを成し遂げたのが豊臣秀吉であることは言うまでもない。

刀狩令

秀吉の刀狩令は天正十六年(1588)七月に出され、北は北陸の加賀前田家から南は九州の薩摩島津家まで、当時の秀吉の勢力圏ほぼ全域に令書の原本や写しなど約20点ほどが今に伝えられているという。

Wikipediaに、その内容が紹介されているが、教科書などで紹介されているのはこの部分である。
「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

この刀狩令は大名や領主に対して出されたものであるが、原文には第1条のあとに、なぜ百姓の武装を禁止するのか、大名らにその必要な理由を説得している部分がある。藤木久志氏の前掲書に現代語訳で紹介されている。
諸国の百姓たちがよけいな武具をたくわえて、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、領主たちに向かって不法をたくらむ。そんな百姓はもちろん秀吉が成敗(処刑)する。それにしても、百姓たちが武具をもてば、つい田畠を作るのを怠けるようになって、それだけ領主の取り分(知行)が減ることになる。それでは困るだろう。だから、そうならないよう、大名(国主)や領主(給人)や秀吉領の役人(代官)は、それぞれ責任をもって、百姓たちから武具をすべて没収して、秀吉のもとへ進上せよ。」(同上書 p.40)

この刀狩令は、大名・領主にとってはともかくとして、農民にとっては自衛のための武装権が奪われて、村の防衛については大名や領主を信頼して委ねることを意味し、武器を使って何度も掠奪行為などを繰り返してきた者に対しては、稼ぎの手段を奪われることでもある。天正10年(1582)や天正12年(1584)には各地で飢饉が発生した記録があり、武器を奪われることに関して農民側の抵抗はかなりあったはずなのだが、実態はどうであったのか。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、秀吉の刀狩令を以下のように高く評価している。
「…天下の百姓は、何時でも土匪(どひ)となり、強賊(ごうぞく)となる便宜を持っていた。この弊風が一掃せられたのは、もとより鉄砲の流行が、その重(おも)なる原因の一であったに相違ない。されど秀吉の刀狩りも、またあずかりて力ありだ。
 刀狩は単に百姓、町人より武器を取り上ぐるのみでなく、彼らをして、野武士の気分を蝉蛻*(せんぜい)せしめ、純乎(じゅんこ)**たる農夫の気分たらしめた。すなわちこれがために、城下に集まり、食禄を得て、ひたすら戦争の業に従う武士と、地方に散在して、農業に従う百姓と、截然(せつぜん)区別せられてきた。すなわち秀吉の所謂(いわゆ)る『諸奉公人は、面々恩給をもってその役を勤むべし。百姓は田畠開作を専らにつかまつるべき事』との、両者の分業を画定(かくてい)した、法規となった。徳川幕府は、要するに秀吉のこの遺制を拡充し、徹底せしめたにほかならぬ。

およそ秀吉の平和促進運動中、未だかくの如き痛快に、かくの如き有効なるものはなかった。惟(おも)うに秀吉は、信長に負うた債務を、利息を付けて、家康に弁済した。秀吉が信長に負う所あるが如く、家康の秀吉に負う所は、尚より多大であった。徳川幕府は、一から十迄、ほとんど秀吉の踏襲者たるに過ぎなかった。」
*蝉蛻:外形のみで中身のないこと。迷いから覚め悟りの境地に達すること。
**純乎:全く混じりけのないさま

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960831/32

ルイスフロイス像

ルイス・フロイスの記録によると、秀吉はキリシタンの叛乱を警戒して九州地区では厳しく武器を没収していたと記されているようだ。
藤木久志氏の『刀狩り』に、フロイスの『日本史』の記述が紹介されている。
「①暴君関白(秀吉)は、かねてよりこうした(叛乱の)恐れを抱いていたので、彼は長崎の住民からだけではなく、下(シモ:九州)の全地方の兵士以外の全員から、武器を接収するように命じた。そのために、おびただしい数の役人を投入して、その実行に当たらせ、皆の者が一つも隠すことなく、あるだけの武器を差し出すように、また、それを拒む者は、磔(はりつけ)にし処刑する旨、大々的に触れ歩かせた。この命令は、非常な厳しさをもって遂行され、当時(人々を)襲った最大の不安の一つ(と見なされる)ほどであった。こうして無数の武器が徴収された
関白のこれらの役人が徴集した刀・脇指・槍・鉄砲・弓・矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が四千振り、槍が五百本、弓が五百張以上、矢は無数、鉄砲三百挺、および鎧百領以上(に達し)、有馬領からは、一万六千以上の刀剣と、その他無数の武器が(徴集された)。
③こうして下地方のキリシタンたちは、彼らがもっとも重んじていたもの、すなわち武器を失うことになった。彼らはこのことを無上に悲しんだが、結局どうにもならなかった。」(同上書 p.100-101)

藤木久志氏の著書に各地の事例が紹介されているが、地域によって没収された武器はさまざまで、薩摩の島津領では刀・脇指三万腰が秀吉に納められたという。キリシタンの多い大村領や有馬領だけ特別に厳しかったかどうかについてはよく判らないが、多くの地域では農民の保有するすべての武器を調べ上げて、根こそぎ没収するというものではなかったようである。
藤木氏によると「ごく機械的に形だけ行われたかに見えた、一人あたり大小一腰を出せという方式は、実は中世百姓の帯刀権を原則として剥奪する(帯刀を原則として武士だけにかぎる)という、象徴的な行為であったことになる。刀狩りを画期として、百姓の帯刀を原則として免許制にする。このたてまえを創り出すことに、刀狩令の真の狙いがあった」(同上書p.86)とあり、実際には農村にはかなりの武器が残されたという。

では、刀狩令後も足軽・雑兵たちによる掠奪は続いたかどうか気になるところだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前に戦場となった伏見城周辺の村に、城攻め用の竹木を調達するのだといって、戦場で掠奪をこととする「濫妨人(らんぼうにん)」という雑兵たちが、集団で押しかけて来たことが醍醐寺の日記に記されているのだという。藤木氏はこう記している。
「『濫妨(雑兵たち)に、地下人(じげにん:村人)が武具をもって(集団で)出合い、これを防ぐ』とか『南里の竹伐りを、郷民が発起(一揆)して取り返す』というのがその一例である。また『濫妨人百四、五十人が、伏見の城攻め用だから、竹を伐らせろといって押しかけてきたが、村の侍たちが出動して、寺の門を閉めて戦い、早鐘を撞くと郷民が武器をとって蜂起した。これに恐れをなした賊徒どもが、助けてほしいと懇望したので、危害を加えず見逃してやった』という。」(同上書 p.107)

刀狩令によれ雑兵たちによる略奪が減って農民たちは豊かになり、武器を持って賊徒を自力で追い払うだけの実力と武器が蓄えていたのである。藤木氏によると、秀吉の刀狩令を単純に百姓の武装解除令とみる通説は、根底からの見直しが求められているという。戦国時代の歴史が抜本的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える
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大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
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源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか
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飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
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戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
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関連記事

刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。
藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119)

豊臣秀吉
豊臣秀吉

では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。
秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存在している点である

藤木氏の著書に『喧嘩停止令』の3つの判例が紹介されている、それぞれの事例をまとめると
① 天正二十(1592) の夏は炎天が続き、摂津の鳴尾村と瓦林村(兵庫県西宮市)が用水(北郷井水)をめぐって激しく争い、近隣の村を巻き込んで、互いに弓・鑓を揃えて大がかりな合戦となり、数多くの死傷者を出した。その紛争は秀吉の知るところとなり、『天下ことごとく喧嘩御停止』の法に背いたとして、鳴尾村の13人、瓦林村の26人が処刑された
② 河内(大阪府)の観心寺が、寺領の柴山の利用をめぐって、近隣の7つの村々と争っていたのだが、あるとき、ある村の百姓たちが、山で薪を刈る寺衆にたいして「日々に追い立て、打擲・刃傷に及ぶ」という激しい攻撃を加え相手を傷つけたことが、天正十五年(1587)春に秀吉の奉行によって『当御代喧嘩停止』の『御法度に背いた』とみなされ、村々は山の立ち入りを禁止とされた。
③ 日照りが続いた天正十七年(1589)の夏に、近江(滋賀県)の中野村と青名・八日市の村人たちが武装して用水を奪い合う争いとなった。秀次の奉行によって、その「刃傷」が問題となり、『喧嘩御停止の旨にまかせて』、3つの村の惣代各1名(計3人)の処刑が執行された。

藤木氏はこう解説している。
秀吉の喧嘩停止の法は、村々による山野河海の紛争の場で、武器を用いて集団で争い『刃傷』する、『村の戦争』を禁止する法であった。もともと中世の村々では、生活に関わる紛争は、村の自力で武器を持ち出して決着をつけてきた。その日常の紛争処理の作法が『刃傷』(武器による死傷)の回避を理由として、制御されようとしていた。刀を持って争えば百姓の身命があぶない。秀吉の刀狩りはこの説得とともに行われていた。…
 村々には大量の武器があり戦争も起きる。その現実を直視しながら、村の四季の生活にはいつも日常であった、山野や用水の争いの現場で、百姓たちが集団でその武器を使い、人を死傷することを抑止しよう。村にある武器を封じ込め、その使用を凍結しよう。そこに、この武器制御のプログラムの狙いがあった。それは『村の戦争』を『村の平和』に転換させるプログラムでもあった。いまこれを、あらためて秀吉の喧嘩停止令と呼ぼう。
 つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は。村に武器があるのを前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元には武器はあるが、それを紛争の処理としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。」(同上書 p.124-125)

徳川秀忠
【徳川秀忠】

では、秀吉が制定した『喧嘩停止令』はどのように書かれていたのだろうか。
先述したとおり秀吉が定めた法令は見つかっていないが、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠が慶長十五年(1610)に制定した『覚』四カ条の第二条がWikipediaに現代文訳とともに紹介されている。

「郷中にて、百姓等、山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷を成敗いたすべき事。(山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
この条文は、発生した判例から判断して、秀吉の『喧嘩停止令』を成文法として継承したものと考えられている。

徳川家光
【徳川家光】

また第三代将軍の家光は、寛永十二年(1635)の10月に『覚』三カ条の第三条で秀忠の条文を修正している。これもWikipediaに出ている。

「井水・野山領境などの相論つかまつり候時、百姓、刀・脇指をさし、弓・鑓をもち、まかり出るにおいては、曲事たるべき事(山野や用水などでの争い時において刀や脇差、弓や槍を用いて武力行使に及ぶ行為は違法である
付けたり、何ごとによらず、百姓、口論をいたし候時、他郷より荷担せしめば、本人よりその科(とが)を重くすべき事(いかなる場合もよその村々がこの争論に加担した場合、加担した村のほうを重罪とする)」

秀忠の条文と較べると、刀・脇差が追加され鉄砲が外されたほか、よその村が紛争に加担した場合はより罪が重くなることが付け加えられている。

このような法令が出来ていて違反者が厳しく処罰されることがわかっていると、いくら農民たちが武器を保有していても、紛争を解決する手段として武器を使うことを自主的に回避するようになるであろう

藤木氏はいくつかの事例を挙げておられるが、たとえば徳川秀忠の『覚』が出る前の慶長十一年(1606)の近江(滋賀県)の例を紹介しよう。

この年の初春に三上村(滋賀県野洲市)の下人が山仕事の帰り道で、近くの北佐久良村の者に、刈り取った柴と山道具を奪われてしまう。三上村の男たちは報復することを主張したが、村の長老たちは「復讐すれば互いに『あたまを打ちわられ』大怪我をすることになり『喧嘩御停止のみぎり』があるので、困ったことになる」ことを説明して、おとなしく裁判に訴える途を選ぶことにしたという。

次に徳川時代の事例をひとつ紹介したい。これを読めば、村には相当武器が残っていたことがわかる。しばらく藤木氏の著書を引用する。

「それは1641年(寛永十八)冬にはじまり、越後の魚沼地方四ヵ村と陸奥の会津地方七ヵ村の百姓たちの間で、六ヵ年にわたって争われた、銀山の帰属をめぐる、国境の争いである。
 その翌1642年に会津川の村々はこう主張していた。国境を越後側の村々に占拠された。そのため、これを自力で排除しようとしたが、それでは『天下の御法度』に触れるので、自粛して引き揚げた、と。1642年の段階で、『村の戦争』を自粛させた『天下の御法度』といえば、その7年前に発令されていた、家光の喧嘩停止令のほかにはありえない。
 しかしこの主張に反論して、越後側の村々はこう訴えていた。会津方が『千四、五百人引き連れ、鉄砲百四、五十挺、弓五、六十張、鳥毛ついの鑓百本ほど、長刀八振、段々に備えを立て、まかり出』たが、越後方は『御公儀おそろしく…ひっそく(自粛)』していた、と。」(同上書 p.130-131)

藤木氏の著書にはこの事件の結末については記されていないが、いずれにせよ豊臣秀吉が『喧嘩停止令』を出して以降、わが国では村同士が紛争を武力で解決することを次第に自粛するようになっていったことが読み取れる。

島原の乱
【島原の乱】

この事件が起こる4年前の寛永14年(1637)に有名な島原の乱が起っている。

島原の乱については以前このブログで4回に分けて書いたが、この乱では一揆勢37千人が大量の鉄砲と弾薬をもって原城に立て籠もり、山田右衛門作覚書によると「城内に鉄砲の数五百三十挺」あったという。『刀狩令』のあとでもこんなに大量の武器が残されていたのは意外であったので、一般的な教科書に秀吉の刀狩についてどう記されているかを確認してみた。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』では、「刀狩とは農民から武器をとりあげることである。秀吉は、農民が刀や弓などの武器をもつと、一揆を起こす原因にもなるとと考え、1588年(天正16)年刀狩令を出して、すべての武器を没収した。これによって兵農分離がすすみ、さらに1591(天正19)年には身分統制令をだし、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた」(p.144)と書いてある。
少し調べればこの通説に矛盾する記録をいくつでも容易に見つかるのでこの説が誤っていることは明らかである。秀吉の「刀狩令」に関しては、いずれ書き替えられることにならざるをえないだろう。

少し考えればわかる事だが、そもそも「すべての武器を没収する」ことは実施困難だ。隠そうと思えばいくらでも隠せるものを集めることには所詮限界があり、武器を没収するという施策だけでは武器を用いる紛争を終わらせることはできないと言って良いだろう。
為政者が村同士の争いごとに武器使用を停止させるためには、武器を没収することよりも、紛争を解決する手段として武器を用いた者を厳しく処分することのほうが有効であり、農民出身の秀吉がそのことに気付いて、いちはやく『喧嘩停止令』を出した意義は大きいと思う。

村々はこの法令と『刀狩令』によって次第に平和を取り戻していくのだが、その結果としてわが国ではそれ以降の武器の進化が停滞していくこととなる。また、百姓に対して武器を用いて食糧などを掠奪する行為を禁じたのであるから武士は襟を正さざるを得なくなり、掠奪のためなどに武器を用いるような行為をなすことは許されないこととなり、明治以降も兵士達は高い規律を求められることとなる。

しかしながら、西洋列強諸国ではその後も戦争が続き、武器の性能をより進化させつつ、自国の軍事力を拡大させる方向に進んでいったのである。
江戸時代の後半には、西洋列強諸国の軍事力はわが国を凌ぐレベルになっていたが、兵士達の規律という点に焦点をあてると、西洋諸国の軍隊は、わが国よりもかなり野蛮であったと言わざるを得ない。

アーネスト・サトウ22-23歳

例えば文久3年(1863)の薩英戦争では、英戦艦アーガス号に乗船していた英公使官通訳のアーネスト・サトウはこう記している。
提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

北清事変連合軍兵士
【北清事変連合軍兵士】

また、明治33年(1900)の北清事変では、北京にある11か国の公使官が存在する区域が暴徒に取り囲まれて、各国の4000名もの人々が孤立無援の状況に陥り、わが国はイギリスの再三にわたる要請を受けて第五師団を派兵し、連合国軍に加わって北京籠城組の救出成功に導いたのだが、そののち連合国軍の掠奪行為がはじまる。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に公開されている菊池寛の『大衆明治史・下巻』にはこう記されている。なお文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという。
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。

 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/35
*戎克(ジャンク):木造帆船

この時の各国の兵隊がやったことは掠奪ばかりではなかった。
菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。

戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/36

このような連合軍兵士たちの悪行については英国の新聞記者も多数記録しており、真実であることは確実なのだが、第二次大戦後のわが国では、戦勝国にとって不都合な真実はことごとく封印されてしまっており、国民がこのような史実に触れる機会がほとんどないのは残念なことである。
興味のある方は、国立国会図書館デジタルコレクションに『北清戦史. 下』が公開されているので、それを読まれることをお勧めしたい。
次のURLに英国デイリーエクスプレス紙の軍事通信員ジョージリンチ氏が各国の軍隊の悪行を伝えているのだが、ここでは「連合国軍中最も品行の良いのは日本軍である」と明確に書いていることは注目して良い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

太平洋戦争の終戦後においても、大陸から引揚げてきた多くの日本人が満州や朝鮮半島で随分酷い目に遭っているのだが、他国の軍隊はどこの国も似たり寄ったりで、日本軍の方がはるかに規律を保っていたことは少し調べればわかることだ。

こういう史実を知れば知るほど、『喧嘩停止令』を最初に定めた豊臣秀吉の偉大さを認識せざるを得なくなってくる。
掠奪行為を為すために、あるいは紛争を解決するために武器を使用する者を厳しく処罰することで武器使用の自粛を導いてきた長い歴史の過程で、わが国では武器を保有する者には他国よりも高い規律が求められるようになっていったと理解すればよいのだろうか。
何度も飢餓に襲われて、各地で争いごとが続いた16世紀にわが国を統一し、その権力を適切に用いて村々を平和に導いた秀吉のことを、もっと高く評価しても良いのではないかと思う。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-387.html

島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-389.html

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html



関連記事

藤の咲く季節に、日野町の歴史と文化を楽しんで

先日、滋賀県蒲生郡日野町に行ってきた。日野町にはいろいろ行きたいところがあって、どうせ行くのならこの季節にと決めていた。桜や紅葉の時期も候補に考えていたが、この町には樹齢300年の有名な藤の咲く寺がある。その藤が見頃を迎えたので最初にその寺に向かうことにした。

正法寺の藤 2

その寺の名前は、正法寺(滋賀県蒲生郡日野町鎌掛(かいがけ)2145 ☎0748-52-4422)で、「藤の寺」とも呼ばれている

正法寺本堂と藤

正法寺は奈良時代に行基が開基したとされ、元禄5年(1692)に普存(ふそん)禅師が、近くの八坂神社にあった観音堂をこの地に遷して再興したと伝えられているが、この時に京都の仙洞御所から移されたという藤の苗が300年の歳月を経て今も見事な花を咲かせている

正法寺の藤

案内板によると「この藤は『ノダフジ』で、正法寺山をその昔、後光山と呼んでいたのでその名をとって『後光藤(ごこうふじ)』と呼ぶようになった。」とある。
毎年5月上から中旬に見頃を迎えるというが、今年はやや遅めのようだ。

正法寺の藤 3

境内に入ると藤の甘い香りが漂ってくる。
藤の花は今まで何度か見ているが、こんなに大きな藤棚で咲いているのを見るのは初めてだ。房の長さは、長いものは1メートルを越えるのだそうだが、うす紫色の藤が棚一杯に咲き揺れる景観は素晴しいの一語に尽きる。この藤棚を守るために、今まで多くの人々の苦労があったことだと思う。

正法寺 石造宝塔

正法寺の御本尊の十一面観音菩薩像は秘仏のため拝観できなかったが、境内に国の重要文化財である石造宝塔が残されていて、塔の背面に「正和二二年」と彫られているのが読める。案内板には「正和四年(1315)」と記されていたのが気になって自宅で調べると、「正和」という元号は六年で終っており、干支が「乙卯」なので正和四年しかありえないのだが、なぜ四年を「二二年」としたかはよく判らなかった。

日野地図

正法寺をあとにして、国天然記念物に指定されている鎌掛の屏風岩に向かう。地元の方に道を教えていただいて、歩いて15分程度で辿りつく。

屏風岩

案内板によると、「もともとは六曲屏風を立てたような巨大な岩だったが、鎌掛石の名勝で江戸期に建材用に切って搬出し、現在は約三分の一のみが残る」とある。この岩の右に、以前は直角の長い岩があと2列連なっていたということになる。

日野町鎌掛には花の名所が他にもあって、四月下旬から五月上旬にかけて花が咲くという、約4万平米に及ぶホンシャクナゲの群生地がある。ホンシャクナゲはツツジ科の常緑低木で、通常は標高800m以上の高所に自生するのだが、ここでは標高350m前後の山間に約2万本が自生していて、国の天然記念物に指定されている。もう少し早ければ斜面に大量の花が咲く景観を楽しめたのだろうが、そうなると正法寺の藤を見ることが出来ないのでどちらかを選択するしかない。
http://www.biwako-visitors.jp/event/detail/3576

屏風岩に向かう途中の道に咲く石楠花

正法寺から鎌掛の屏風岩に向かう途中で、たまたま自生のシャクナゲの花が咲いていたのでカメラに収めた。「ホンシャクナゲ群落」に行っても遅咲きの花が少しは咲いていたようなのだが、県道182号線沿いの駐車場から歩いて片道20分から30分程度かかると聞いていたので、今回は諦めた。
正法寺の藤とホンシャクナゲ群落の開花情報は、日野観光協会が次のURLに最新情報をアップしているので事前に確認された方が良い。(正法寺の藤の花房は5月20日に刈り取られる予定)
http://www.hino-kanko.jp/archives/category/flower

正法寺の駐車場から西明寺(さいみょうじ:蒲生郡日野町西明寺1238 ☎0748-52-2647)に向かう。

西明寺 本堂

この寺は奈良時代に創建され、その後何度か戦火に遭い荒廃してしまったのだが、仏像や典籍は守られ、江戸時代初期に再興されて永源寺の末寺となったとある。

事前に予約すれば拝観させて頂けたかもしれないが、本尊の十一面観音像は平安時代の仏像で国の重要文化財に指定されている。また大般若波羅蜜多経601帖が滋賀県の指定文化財だ。

西明寺の石仏群

寺の石垣の上に、近くの蓮台野から発掘されたという石仏が並べられている。(蓮台野石仏群)
案内板には「中世の大寺院であった西明寺の境内墓地蓮台野へ、近隣の庶民が火葬骨を葬って供養として造立した五輪塔や石仏であり、石仏のほとんどは阿弥陀如来像を半肉彫に陽刻している。鎌倉時代から室町時代にかけての中世庶民信仰を探る上で、この石仏群は貴重な文化財である。」と記されていた。

次に馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ 日野町村井711 ☎0748-52-0131)に向かう。

馬見岡綿向神社

社伝によると、欽明天皇の時代(545年)に綿向山の頂上に祠が建てられたのを始まりとして、延暦十五年(796)に里宮としてこの場所に遷されて以降、日野の人々の信仰の中心となってきた。鳥居の奥にある建物は拝殿で、日野商人中井源左衛門が享和三年(1803)に寄進したものである。

馬見岡綿向神社 絵馬

拝殿の西側には絵馬堂があり、ひときわ大きな絵馬が飾られているのに驚く。この絵馬は蒲生氏郷公が生まれたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼の絵を、文化九年(1812)に日野商人の中井源左衛門・正治右衛門が日野の絵師・谷田輔長(たにだほちょう)に描かせて寄進したものだそうだ。

馬見岡綿向神社 本殿

現在の本殿は宝永7年(1707)に氏子の寄進により建造されたそうだが、入母屋造・銅板葺で、正面に千鳥破風・軒唐破風をつけ、さらに唐破風造の向拝を設けた非常に立派な建物で、滋賀県の文化財に指定されている。

このような立派な社殿が、権力者ではなく地元の人々によって建てられたことだけでもすごいことなのだが、この神社を舞台に毎年5月2日、3日に行われる日野祭の曳山や神輿の豪華さも半端ではない。曳山が登場した時期は諸説があり、17世紀の中頃とも18世紀前半とも言われているが、いずれにしてもこれらは日野商人達の財力に支えられて、贅の限りをつくして作られたものだという。

ネットで探すと、今年の800年以上の歴史を持つこの日野祭の様子を多くの人がyoutubeで紹介している。
https://www.youtube.com/watch?v=3KjJUqak9wM

5月3日の昼頃には各町内より繰り出された十基以上の曳山が馬見岡綿向神社境内に勢揃いし、神輿も3基繰り出されて、日野の町は祭り一色となる。曳山は実は十六基あるのだそうだが、神輿の当番が回ってきた町は曳山を出さない決まりがあるのだそうだ。

https://www.youtube.com/watch?v=wZzdDZWlf4k

日野祭は神輿も曳山も豪華絢爛だが、お囃子がまたテンポが良くて聴くだけで気分が乗ってくる。
ネットで「馬鹿囃子」がアップされているが、曲目はほかにも「ヤタイ」「オオマ」などいくつかあり、各町から曳山が馬見岡綿向神社に向かう時(上り山)や、曳山を方向転換する時(ぎんぎり回し)、神社に宮入りする時、神社から各町に帰っていく(下り山)時など、場面によって囃子が変わるのだという。町特有の曲もあるようで、曳山を持つ町内では毎年子供からお年寄りまでが集まって、何度も練習を繰り返すことになる。
囃子方だけで16組で約180人がいるのだそうだが、メンバーそれぞれがすべての曲目を暗譜して、全員の息が合うまでは大変な苦労があると思うが、素晴らしい伝統文化であるからこそ、多くの人をひきつける魅力があるのだろう。私もいつか、祭りの時期にこの町を是非訪れてみたい。

馬見岡綿向神社から正明寺(しょうみょうじ:蒲生郡日野町松尾556 ☎0748-52-0227)に向かう。

正明寺参道

正明寺の参道横に略縁起が記されていた。
「戦国の兵火に焼失後、僅かな霊仏のみが守護されていたのを、江戸初期に郷人頓宮宗右衛門が古刹再興を発願して奔走。時の大本山永源寺管長であった一絲文守(いっしもんじゅ)国師に法援を懇請し、その旨が後水尾法皇に奏上されて叡慮を動かした。
時あたかも改築中であった禁裏御所の一棟と白銀が下賜され、正保4年(1647)の頃に正明寺再建が成就。直ちに黄檗宗の大徳龍渓大和尚を開山禅師として迎え、以後、檀信徒を始め近江日野商人達の篤き帰依を得つつ、黄檗専門道場の寺格を整え、近江における黄檗宗の中心寺院としての歴史を刻み、数多くの名僧を輩出してきた。」
この寺も、日野商人がこの寺の発展に寄与したことが読み取れる。

正明寺本堂

上の画像は本堂(国重文)だが、この檜皮葺きの建物は寺伝にあるとおり、時の京都御所の一棟の主要な部材を用いて仏殿風に建造されたものである。
本尊は鎌倉時代の十一面千手観音で、右脇に不動明王、左脇に毘沙門天があり、三体とも国の重要文化財に指定されているが、いずれも御開帳は33年に1度で次は2043年になるようだ。次のURLにモノクロの画像が出ている。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/hibutu2011.html

鎌倉時代の木像大日如来坐像(県文化) が安置されている禅堂(県文化)や、一切経が収められた経堂(県文化)など多くの文化財を持つ寺だが、一般拝観を受け付けているかどうかがよくわからなかった。自宅にもどって調べると湖東霊場二十七名所に選ばれているようなので、電話予約すれば拝観ができたかもしれない。

お昼時になったので、ネットで評判の高いレストラン岡崎に向かう。車で3分程度走れば国道477号線沿いに大きな看板が見える。
https://tabelog.com/shiga/A2503/A250302/25001039/

近江牛を生産している牧場の直営店だが、お手頃なメニューの中から和風ソースのサイコロステーキを選択した。
口の中で溶けるような肉の柔らかさで、割安な価格で至福の時を過ごすことが出来たのだが、ワインが飲めなかったのが残念だった。

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【ご参考】このブログで地域の伝統や文化についていろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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